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大友皇子即位説

索引 大友皇子即位説

天皇系図38 - 50代 弘文天皇陵 大友皇子即位説(おおとものみこそくいせつ)は、江戸時代から唱えられた学説で、日本史学で長く続く論争点である。 671年、天智天皇の死後に朝廷を主宰した大友皇子は、翌672年の壬申の乱で、大海人皇子(後の天武天皇)に敗れて亡くなった。この間に大友皇子が即位式を行って即位し天皇になったのか、それとも行わないうちに亡くなったのかが争点である。大友皇子が実際に天皇としての行為を行っていたことに異議を唱える者は少ない。 大友皇子は明治に入った明治3年(1870年)に諡号を贈られて弘文天皇と呼ばれたため、弘文天皇即位説(こうぶんてんのうそくいせつ)とも呼ばれる。.

77 関係: 南北朝正閏論壬申の乱大鏡大日本史天武天皇天智天皇孝謙天皇家永三郎小学館小島憲之岩波書店干支平出鏗二郎仲恭天皇伴信友弘文天皇徳川光圀喜田貞吉内大臣元正天皇元明天皇倭姫王倉本一宏皇国史観称制続日本紀田中卓直木孝次郎遠山美都男聖武天皇草壁皇子西宮記覆刻講談社講談社学術文庫谷川士清谷森善臣黒板勝美近江大津宮蜀漢舎人親王薬師寺藤原仲麻呂藤原鎌足葛野王那波活所松本清張水鏡水戸藩江戸時代...淳仁天皇清張通史持統天皇明治天皇文武天皇日本古典文学大系日本古典文学全集日本書紀懐風藻扶桑略記1624年1774年1794年1829年1870年1897年1904年1911年1922年1932年671年672年673年680年714年720年758年 インデックスを展開 (27 もっと) »

南北朝正閏論

南北朝正閏論(なんぼくちょうせいじゅんろん)とは、日本の南北朝時代において南朝と北朝のどちらを正統とするかの論争。閏とは「本来あるもののほかにあるもの」「正統でないあまりもの」を意味する字である。.

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壬申の乱

壬申の乱(じんしんのらん)は、天武天皇元年6月24日 - 7月23日、(ユリウス暦672年7月24日 - 8月21日)に起こった古代日本最大の内乱である。 天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。 名称の由来は、天武天皇元年が干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたることによる。.

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大鏡

『大鏡』(おおかがみ)は、平安時代後期(白河院政期)に成立したとされている紀伝体の歴史物語である。.

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大日本史

『大日本史』(だいにほんし)は、日本の歴史書。江戸時代に御三家のひとつである水戸徳川家当主徳川光圀によって開始され、光圀死後も水戸藩の事業として二百数十年継続し、明治時代に完成した。神武天皇から後小松天皇まで(厳密には南北朝が統一された1392年(元中9年/明徳3年)までを区切りとする)の百代の帝王の治世を扱う。紀伝体の史書で、本紀(帝王)73巻、列伝(后妃・皇子・皇女を最初に置き、群臣はほぼ年代順に配列、時に逆臣伝・孝子伝といった分類も見られる)170巻、志・表154巻、全397巻226冊(目録5巻)。携わった学者たちは水戸学派と呼ばれた『大思想エンサイクロペヂア』28巻 (春秋社, 1930) p187。 『大日本史』は光圀死後の1715年(正徳5年)、藩主徳川綱條による命名で、同時代には『本朝史記』や『国史』『倭史』と呼ばれている。質の高い漢文体で書かれ、記事には出典を明らかにし、考証にも気を配っている。.

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天武天皇

天皇系図38~50代 天武天皇(てんむてんのう、? - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日))は、7世紀後半の日本の天皇である。在位は天武天皇2年2月27日(673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。『皇統譜』が定める代数では第40代になる。.

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天智天皇

天智天皇(てんじてんのう/てんぢてんのう、推古天皇34年(626年) - 天智天皇10年12月3日(672年1月7日))は、第38代天皇(在位:天智天皇7年1月3日(668年2月20日) - 10年12月3日(672年1月7日))。和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。一般には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)として知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味する語。諱(実名)は葛城(かづらき/かつらぎ)。漢風諡号である「天智天皇」は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代に淡海三船が「殷最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けたと言われる。.

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孝謙天皇

孝謙天皇(こうけんてんのう)、重祚して称徳天皇(しょうとくてんのう;稱德天皇、養老2年(718年) - 神護景雲4年8月4日(770年8月28日))は、日本の第46代・第48代天皇。 在位期間は、孝謙天皇として天平勝宝元年7月2日(749年8月19日) - 天平宝字2年8月1日(758年9月7日)、称徳天皇として天平宝字8年10月9日(764年11月6日) - 神護景雲4年8月4日(770年8月28日)。 父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光明子)。即位前の名は「阿倍内親王」。生前に「宝字称徳孝謙皇帝」の尊号が贈られている。『続日本紀』では終始「高野天皇」と呼ばれており、ほかに「高野姫天皇」「倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと)」とも称された。 史上6人目の女帝で、天武系からの最後の天皇である。この称徳天皇以降は、江戸時代初期に即位した第109代明正天皇(在位:1629年 - 1643年)に至るまで、850余年、女帝が立てられることはなかった。.

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家永三郎

家永 三郎(いえなが さぶろう、1913年9月3日 - 2002年11月29日)は、日本の歴史家(日本思想史)、東京教育大学名誉教授。文学博士(東京大学)。.

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小学館

株式会社小学館(しょうがくかん)は、東京都千代田区にある日本の総合出版社。系列会社グループの通称「一ツ橋グループ」の中核的存在である。.

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小島憲之

小島 憲之(こじま のりゆき、1913年2月15日 - 1998年2月11日)は、国文学者、大阪市立大学名誉教授。上代文学、和漢比較文学専攻。.

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岩波書店

株式会社岩波書店(いわなみしょてん、Iwanami Shoten, Publishers. )は、日本の出版社。.

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干支

干支(かんし、えと、中国語:干支、ピンイン:gānzhī)は、十干と十二支を組み合わせた60を周期とする数詞。暦を始めとして、時間、方位などに用いられる。六十干支(ろくじっかんし)、十干十二支(じっかんじゅうにし)、天干地支(てんかんちし)ともいう。.

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平出鏗二郎

平出 鏗二郎(ひらで こうじろう、明治2年8月21日(1869年9月26日) - 明治44年(1911年)12月19日)は、日本の国文学者、歴史家。 1869年、尾張国名古屋(現・愛知県名古屋市)に生まれる。1890年、愛知県立医学専門学校卒業。1891年、上京、東京帝国大学文科大学国文学科に入学、1894年、卒業。文部省に入り、文科大学史料編纂助員として、江戸時代国学者の伝記史料を収集した。1900年、史料編纂員となる。研究に専念するためとして、生涯結婚はしなかった。1911年に病死。 『日本風俗史』(藤岡作太郎との共著)、『敵討』(中公文庫)、『近古小説解題』(1909年)などの著がある。死後、『鏗痴集』(1913年)が出た。.

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仲恭天皇

仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう、建保6年10月10日(1218年10月30日) - 天福2年5月20日(1234年6月18日))は、鎌倉時代の第85代天皇(在位:承久3年4月20日(1221年5月13日) - 承久3年7月9日(1221年7月29日))。諱は懐成(かねなり)。 順徳天皇の第四皇子。母は、九條良経の娘、中宮・立子(東一条院)。.

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伴信友

伴 信友(ばん のぶとも、1773年3月17日(安永2年2月25日) - 1846年12月2日(弘化3年10月14日))は、江戸時代後期の国学者。幼名は惟徳。通称は州五郎。号は事負。 博覧強記で、古典の考証に優れており、平田篤胤、橘守部、小山田与清とともに、「天保の国学の四大人」と呼ばれる。 若狭国小浜藩士・山岸惟智の四男として生まれたが、1786年(天明2年)、同藩の伴信当の養子となる。1801年(享和元年)村田春門を介して本居宣長没後の門人となり、宣長の養子の本居大平に国学を学ぶ。1821年(文政4年)、息子の信近に家督を譲り、以後、学問に専念した。 平田篤胤、黒川春村、本居内遠などと交流があり、篤胤からは君兄と慕われていたが、後に齟齬を来して決別した。師弟関係を好まず、弟子をとることはなかった。 1846年(弘化3年)、京都の堀川で死去。.

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弘文天皇

弘文天皇(こうぶんてんのう、大化4年(648年) - 天武天皇元年7月23日(672年8月21日))は、第39代天皇(在位:天智天皇10年12月5日(672年1月9日) - 天武天皇元年7月23日(672年8月21日))。諱は大友(おおとも)または伊賀(いが)。明治3年(1870年)に諡号を贈られ、天皇として認められたが、即位したかどうか定かではなく、大友皇子と表記されることも多い。.

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徳川光圀

徳川 光圀(とくがわ みつくに)は、常陸水戸藩の第2代藩主。「水戸黄門」としても知られる。 諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。また神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たる。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。.

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喜田貞吉

喜田 貞吉(きた さだきち、1871年7月11日(明治4年5月24日) - 1939年(昭和14年)7月3日)は、第二次世界大戦前の日本の歴史学者、文学博士。考古学、民俗学も取り入れ、学問研究を進めた。.

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内大臣

内大臣(ないだいじん)は、日本の律令官制で太政官に置かれた令外官の一つ。左大臣・右大臣に次ぐ官職。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。和訓は「うちのおおまえつぎみ/うちのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。員外の大臣の意から「数の外(ほか)の大臣」とも、太政大臣と左・右大臣の三公を三台星と呼ぶのに対して「かげなびく星」とも呼ばれる。左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情のために出仕できない場合に、代理として政務・儀式を司った。.

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元正天皇

元正天皇(げんしょうてんのう、天武天皇9年(680年) - 天平20年4月21日(748年5月22日))は日本(奈良時代)の第44代天皇。女帝(在位:霊亀元年9月2日(715年10月3日) - 養老8年2月4日(724年3月3日))。父は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子、母は元明天皇。文武天皇の姉。諱は氷高(ひたか)・日高、又は新家(にいのみ)。和風諱号は日本根子高瑞浄足姫天皇(やまとねこたまみずきよたらしひめのすめらみこと)である。日本の女帝としては5人目であるが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇である。.

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元明天皇

元明天皇(げんめいてんのう、斉明天皇7年(661年) - 養老5年12月7日(721年12月29日))は、日本(飛鳥時代 - 奈良時代)の第43代天皇。女帝(在位:慶雲4年7月17日(707年8月18日) - 和銅8年9月2日(715年10月3日))。名は阿閇皇女(あへのひめみこ)。阿部皇女とも。和風諡号は「日本根子天津御代豊国成姫天皇」(やまと ねこ あまつみよ(みしろ) とよくに なりひめの すめらみこと、旧字体:−豐國成姬−)である。 天智天皇の皇女で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘(めいのいらつめ)。持統天皇は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。大友皇子(弘文天皇)は異母兄。天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃であり、文武天皇と元正天皇の母。 藤原京から平城京へ遷都、『風土記』編纂の詔勅、先帝から編纂が続いていた『古事記』を完成させ、和同開珎の鋳造等を行った。.

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倭姫王

倭姫王(やまとひめのおおきみ、生没年不詳)は、飛鳥時代の皇族。舒明天皇の第一皇子・古人大兄皇子の娘。母は未詳。天智天皇の皇后。子女は無し。 大化元年9月12日(645年10月7日)ここでは、吉備笠垂(きびのかさのしだる)の密告日(9月12日)の内に、中大兄が討伐命令を出し、古人大兄が死亡した場合の日付を採用している。日本書紀には、11月30日の事として中大兄が討伐を命じ、古人大兄を殺させたむね記した「ある本」一書が引用されている。 - 「巻第二十五 孝徳天皇 古人大兄の死」 『日本書紀(下)全現代語訳』 宇治谷 孟訳(講談社学術文庫)1988年、164頁 、父・古人大兄皇子が謀叛の疑いで中大兄皇子(後の天智天皇)に攻め殺される。天智天皇7年2月23日(668年4月10日)、中大兄皇子が天皇に即位したことにより大后となる。 天智天皇が病に倒れた際、大海人皇子(後の天武天皇)は「倭姫王が即位し、大友皇子が太政大臣として摂政を執るべき」むね進言した「巻第二十七 天智天皇 天智天皇崩御」 『日本書紀(下)全現代語訳』 宇治谷 孟訳(講談社学術文庫)1988年、239頁。また、天智天皇崩御後に倭姫王の即位または称制があったとする説もある。 天智天皇の危篤・崩御の際に詠んだ歌4首が『万葉集』に収められている。.

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倉本一宏

倉本 一宏(くらもと かずひろ、1958年(昭和33年)6月14日 - )は、日本の歴史学者。専門は日本古代政治史、古記録学。国際日本文化研究センター(日文研)教授、総合研究大学院大学(総研大)文化科学研究科 国際日本研究専攻教授。三重県津市生まれ。 1997年(平成9年)「日本古代国家成立期の政権構造」で博士(文学、東京大学)。.

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皇国史観

皇国史観(こうこくしかん)とは、日本の歴史が天皇を中心に形成されてきたことに着目し、「日本民族」の統合の中心を「万世一系の皇室」に求める思想である。.

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称制

制(しょうせい)は、君主が死亡した後、次代の君主となる者(皇太子等)や先の君主の后が、即位せずに政務を執ること。日本では飛鳥時代に中大兄皇子(天智天皇)と鸕野皇后(持統天皇)の二例が見られるが、どちらも『日本書紀』では一見してほとんど事実上の天皇と同然に記述されている。日本の場合、摂政と似ているが、摂政の場合は天皇が同時に存在しているが、称制の場合は天皇がいない(称制している本人が事実上の天皇か天皇に準ずる存在)のが大きな違いである。.

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続日本紀

『続日本紀』(しょくにほんぎ)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。菅野真道らが延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。奈良時代の基本史料である。編年体、漢文表記である。略称は続紀(しょっき)。.

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田中卓

中 卓(たなか たかし、1923年(大正12年)12月12日 - )は、日本の歴史学者。皇學館大学名誉教授。皇學館大学学事顧問。皇學館大学元学長。有限会社代表。専門は日本古代史。文学博士(旧制・國學院大學)。大阪府出身。.

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直木孝次郎

木 孝次郎(なおき こうじろう、1919年1月30日 - )は、日本の歴史学者。大阪市立大学名誉教授。文学博士(京都大学、1969年)。日本古代史研究を代表する研究者。兵庫県神戸市生まれ。.

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遠山美都男

遠山 美都男(とおやま みつお、昭和32年(1957年) - )は、日本の歴史学者。日本古代史専攻、新潮社。博士(史学)。.

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聖武天皇

聖武天皇(しょうむ てんのう、大宝元年(701年) - 天平勝宝8歳5月2日(756年6月4日)、在位:神亀元年2月4日(724年3月3日) - 天平勝宝元年7月2日(749年8月19日))は、日本(奈良時代)の第45代天皇。即位前の名は首皇子(おびとのみこ)。 尊号(諡号)を天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)、勝宝感神聖武皇帝(しょうほうかんじんしょうむこうてい)、沙弥勝満(しゃみしょうまん)とも言う。文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。.

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草壁皇子

草壁皇子(くさかべのみこ(おうじ)、天智天皇元年(662年) - 持統天皇3年4月13日(689年5月7日)は、飛鳥時代の皇族。天武天皇と皇后・鸕野讃良皇女(後の持統天皇)の皇子。妃は天智天皇の皇女で持統天皇の異母妹である阿陪皇女(後の元明天皇)。元正天皇・吉備内親王・文武天皇の父。諡号は岡宮御宇天皇(おかのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと、おかのみやぎょうてんのう)。岡宮天皇、長岡天皇とも称される。 天皇系図38~50代.

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西宮記

西宮記(さいきゅうき/せいきゅうき/さいぐうき)は、平安時代に源高明によって撰述された有職故実・儀式書。.

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覆刻

覆刻(ふっこく)とは、一般的には、古籍等をなるべく原本に忠実に複製、刊行することである。復刻とも書くが、原義的に妥当でない。複製本、リプリントとも言う。 復刻に対して、原版を用いた場合には、重刷または重印と呼んで区別している。 木版本の場合、原本を版木に貼り付け、被彫(かぶせぼり)の手法によって版木を彫ったものを覆刻といい、この方法で作製された本を、覆刻本と言う。 現代では、「復刻」の字で表現することが多く、原本と紙質・大きさ・装幀、さらには誤字脱字までも全く同様に複製して作製したものを指して言うことが多い。 但し、「影印版」のように、原本の本文のみを忠実に複製し、紙質・大きさ・装幀などは原本と異なっているものや、又は注釈や解題を加えたもの等をも「覆刻本」と呼んでいることがある。 被彫の手法によらず、原本を元に新たに版を起こし出版することは、「重刊」又は「重版」と呼び、時には翻刻ということもある。特に写本に基づいて刊本を出版することや、又は唐本に基づいて和刻することを翻刻と呼ぶことが多い。 現代では、写本や木版本などの古籍を活版印刷するような、本文の字句そのものだけを忠実に複製した複製本を翻刻本と呼ぶことが多い。広義には、これらの翻刻本も含め、あらゆる形式の複製本を指して覆刻本あるいは覆刻版と呼ぶ事もある。 「複刻」と書くこともあるが、この用字はあて字である。 Category:出版 Category:書誌学.

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講談社

株式会社講談社(こうだんしゃ、英称:Kodansha Ltd.)は、日本の総合出版社。創業者の野間清治の一族が経営する同族企業。.

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講談社学術文庫

講談社学術文庫(こうだんしゃがくじゅつぶんこ)は、講談社刊の文庫判・学術書レーベル、1976年(昭和51年)に発足。シンボルマークは、古代エジプトで知識や学問の象徴とされていた「トキ」(アフリカクロトキ)の姿をした神トートである。 単行判・選書新書の(改訂・改題も含む)再刊、古典新訳のみならず、文庫書き下ろしでの出版も多い。約40年間で2000冊代を刊行、重版多数の書目がある一方で、初版のみで品切絶版となった書目も多い。 2011年(平成23年)より、電子書籍版を購入できるiOS用のアプリケーション「選書メチエ&学術文庫」をApp Storeを配信している。.

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谷川士清

谷川 士清(たにかわ ことすが、宝永6年2月26日(1709年4月5日) - 安永5年10月10日(1776年11月20日))は、江戸時代の国学者である。通称は養順。字は公介。号は淡斎。.

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谷森善臣

谷森 善臣(たにもり よしおみ、文化14年12月28日(1818年2月3日) - 1911年(明治44年)11月16日)は、幕末から明治時代にかけての国学者。陵墓・南朝史・皇室系譜の研究に業績を残した。本姓は平氏、初名は松彦だが、28歳の時に種松(種万都・種梥とも)へ改名。通称は二郎・外記。菫壺・靖斎とも号した。.

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黒板勝美

黒板 勝美(くろいた かつみ、1874年9月3日 - 1946年12月21日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学名誉教授。文学博士。専門は、日本古代史、日本古文書学。号は虚心。エスペラントの普及に努める。.

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近江大津宮

近江大津宮(おうみおおつのみや/おうみのおおつのみや)は、飛鳥時代に天智天皇が近江国滋賀郡に営んだ都。天智天皇6年(667年)に飛鳥から近江に遷都した天智天皇はこの宮で正式に即位し、近江令や庚午年籍など律令制の基礎となる施策を実行。天皇崩後に朝廷の首班となった大友皇子(弘文天皇)は天武天皇元年(672年)の壬申の乱で大海人皇子に敗れたため、5年余りで廃都となった。 史料上は「近江大津宮」のほか「大津宮(おおつのみや)」・「志賀の都(しがのみやこ)」とも表記されるが、本来の表記は「水海大津宮(おうみのおおつのみや)」であったとの指摘もある。1974年(昭和49年)以来の発掘調査で、滋賀県大津市錦織の住宅地で宮の一部遺構が確認され、「近江大津宮錦織遺跡」として国の史跡に指定されている。.

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蜀漢

蜀漢(しょくかん、221年 - 263年)は、中国の三国時代に劉備が巴蜀の地(益州)に建てた国。 蜀は魏、呉と共に三国時代を形成した一国である。巴蜀(現在の四川省・湖北省一帯)を領土とし、成都を都に定めた。実際には魏の文帝曹丕が後漢を滅ぼして即位した時に、漢の正統を継ぐものとしたため、蜀漢と自ら名乗ったことはない『三国志』蜀志二「先主伝」。また、季漢(季は末っ子の意味)と称することもあった。.

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舎人親王

舎人親王(とねりしんのう)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての皇族。舎人皇子(とねりのみこ)とも記される。天武天皇の皇子。淳仁天皇の父。 天武天皇の諸皇子の中で最後まで生き残り、奈良時代初期に長屋王とともに皇親勢力として権勢を振るう。『日本書紀』の編集も総裁した。子孫の清原氏は高市皇子裔の高階氏と共に、天武系後裔氏族として長く血脈が続いた。.

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薬師寺

薬師寺(やくしじ)は、奈良県奈良市西ノ京町に所在する寺院であり、興福寺とともに法相宗の大本山である。南都七大寺のひとつに数えられる。本尊は薬師如来、開基(創立者)は天武天皇。1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。.

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藤原仲麻呂

藤原 仲麻呂(ふじわら の なかまろ)は、奈良時代の公卿。名は仲麿『尊卑分脈』『公卿補任』または仲丸とも記される。淳仁朝以降は改姓・改名し藤原恵美押勝(ふじわらえみ の おしかつ)。左大臣藤原武智麻呂の次男。官位は正一位太師。恵美大臣とも呼ばれた。.

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藤原鎌足

中臣 鎌足(なかとみ の かまたり)のち藤原 鎌足(ふじわら の かまたり)は、飛鳥時代の政治家。日本の歴史における最大氏族「藤原氏」の始祖。 大化の改新の中心人物であり、改新後も中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍し、藤原氏繁栄の礎を築いた。『藤氏家伝』には「偉雅、風姿特秀」と記されている。字は仲郎。.

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葛野王

葛野王(かどののおう/かどののおおきみ、天智天皇8年(669年) - 慶雲2年12月20日(706年1月9日))は、飛鳥時代の皇族。弘文天皇(大友皇子)の第一皇子。孫に淡海三船がいる。官位は正四位上・式部卿。.

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那波活所

那波 活所(なば かっしょ、文禄4年(1595年) - 正保5年1月3日(1648年1月27日))は、江戸時代初期の儒学者。名は信吉・方・觚。字は道円。通称は平八。 播磨国姫路の豪農の家に生まれ、儒学と医術とを学んだ後、京都に出て藤原惺窩に師事した。林羅山・松永尺五・堀杏庵とともに「惺窩門四天王」の一人と称される。1623年(元和9年)肥後国熊本藩主加藤忠広に仕え、1635年(寛永12年)から紀伊国和歌山藩主徳川頼宣に儒臣として仕えた。活字による『和名抄』の刊行にかかわっている。 著書に『人君明暗図』『活所遺稿』がある。『桜譜』は桜の専門書の先駆けであるばかりでなく、桜の品種を記載したものとして貴重。 『学問源流』などを著した那波師曾(魯堂)は玄孫にあたる。後世の孫には、京都大学教授で東洋史学者の那波利貞がある。 Category:江戸時代の儒学者 Category:17世紀の学者 Category:紀州藩の人物 Category:播磨国の人物 Category:1595年生 Category:1648年没.

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松本清張

松本 清張(まつもと せいちょう、1909年(明治42年)12月21日 - 1992年(平成4年)8月4日)は、日本の小説家。 1953年に『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞。以降しばらく、歴史小説・現代小説の短編を中心に執筆した。1958年には『点と線』『眼の壁』を発表。これらの作品がベストセラーになり松本清張ブーム、社会派推理小説ブームを起こす。以後、『ゼロの焦点』『砂の器』などの作品もベストセラーになり戦後日本を代表する作家となる。その他、『かげろう絵図』などの時代小説を手がけているが、『古代史疑』などで日本古代史にも強い関心を示し、『火の路』などの小説作品に結実した。緻密で深い研究に基づく自説の発表は小説家の水準を超えると評される。また、『日本の黒い霧』『昭和史発掘』などのノンフィクションをはじめ、近代史・現代史に取り組んだ諸作品を著し、森鴎外や菊池寛に関する評伝を残すなど、広い領域にまたがる創作活動を続けた。.

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水鏡

『水鏡』(みずかがみ)は、歴史物語。成立は鎌倉時代初期(1195年頃)と推定される。.

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水戸藩

水戸藩邸跡石碑(京都市上京区下長者町通烏丸西入北側) 水戸藩(みとはん)は、常陸にあって現在の茨城県中部・北部を治めた藩。藩庁は水戸城(水戸市)に置かれた。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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淳仁天皇

淳仁天皇(じゅんにんてんのう、天平5年(733年) - 天平神護元年10月23日(765年11月10日))は、日本の第47代天皇(在位:天平宝字2年8月1日(758年9月7日) - 天平宝字8年10月9日(764年11月6日))。諡号は明治時代になってから付けられたもので、古文書では廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはいたい)と呼ばれる。諱は大炊(おおい)であり、践祚前は大炊王(おおいおう)と称された。.

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清張通史

『清張通史』(せいちょうつうし)は、小説家の松本清張による、日本古代史の通史。.

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持統天皇

持統天皇(じとうてんのう、大化元年(645年) - 大宝2年12月22日(703年1月13日))は、天武天皇の皇后で、日本の第41代天皇。実際に治世を遂行した女帝である(称制:朱鳥元年9月9日(686年10月1日)、在位:持統天皇4年1月1日(690年2月14日) - 持統天皇11年8月1日(697年8月22日))。諱は鸕野讚良(うののさらら、うののささら)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の大宝3年(703年)12月17日の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)と、『日本書紀』の養老4年(720年)に代々の天皇とともに諡された「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)がある(なお『日本書紀』において「高天原」が記述されるのは冒頭の第4の一書とこの箇所のみである)。漢風諡号、持統天皇は代々の天皇とともに淡海三船により、熟語の「継体持統」から持統と名付けられたという。.

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明治天皇

明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)- 1912年(明治45年)7月30日)は日本の第122代天皇。諱は睦仁(むつひと)。御称号は祐宮(さちのみや)。お印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれる。功績・人物像から明治大帝(Meiji the Great)・明治聖帝・睦仁大帝(Mutsuhito the Great) とも呼ばれる。.

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文武天皇

文武天皇(もんむてんのう、天武天皇12年(683年) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))は、日本の第42代天皇(在位:文武天皇元年8月1日(697年8月22日) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))。 諱は珂瑠(かる)、軽(かる)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の707年(慶雲4年11月12日)に「倭根子豊祖父天皇」(やまと ねこ とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−豐祖父)と、『続日本紀』797年(延暦16年)に諡された「天之真宗豊祖父天皇」(あめの まむね とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−眞宗豐祖父)がある。 当時としては異例の14歳の若さで即位。祖母・持統太上天皇(史上初の太上天皇)のもとで政務を行っていた。後の院政形式の始まりである。.

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日本古典文学大系

日本古典文学大系(にほんこてんぶんがくたいけい)は1967年までに、また新日本古典文学大系は2005年までに岩波書店が出版した日本の古典文学を対象とした全集である。.

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日本古典文学全集

日本古典文学全集(にほんこてんぶんがくぜんしゅう)は、小学館が出版した日本の古典文学を対象とした全集である。1970年から1976年にかけて出版され、全51巻からなる。書目は概ね古い時期のものから並んでいる。本文、注釈及び現代語訳から構成される。 その後1983年から1988年にかけて軽装版に位置づけられる『完訳・日本の古典』が刊行された。そして、1994年から2002年にかけて、最新の研究成果に基づいた注釈と、現代語訳の併載という方針を踏襲した 『新編日本古典文学全集』が刊行された。この新版の構成も、引き続き、上段に注釈、下段に現代語訳を記載し、中央に本文ならびに、存在すれば挿絵を挿入するというものであった。 その後、装いを新たにし、かつ、有名な書物類に的を絞った軽装版『日本の古典をよむ』が2007年から2008年に出版された。 岩波書店の『日本古典文学大系』と並びよく利用される。.

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日本書紀

日本書紀(平安時代の写本) 『日本書紀』(にほんしょき)は、奈良時代に成立した日本の歴史書。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体にて記述されている。全30巻。系図1巻が付属したが失われた。.

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懐風藻

『懐風藻』(かいふうそう)は、現存する最古の日本漢詩集。撰者不明の序文によれば、天平勝宝3年11月江口, 2000.

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扶桑略記

『扶桑略記』第21巻 『扶桑略記』(ふそうりゃくき)は、平安時代の私撰歴史書。総合的な日本仏教文化史であるとともに六国史の抄本的役割を担って後世の識者に重宝された。 寛治8年(1094年)以降の堀河天皇代に比叡山功徳院の僧・皇円が編纂したとされるが、異説もある。全30巻より成り、このうち巻二~六、巻二十~三十の計16巻と、巻一及び巻七~十四の抄記が現存する。 内容は、神武天皇より堀河天皇の寛治8年(1094年)3月2日までの国史について、帝王系図の類を基礎に和漢年代記を書入れ、さらに六国史や『慈覚大師伝』などの僧伝・流記・寺院縁起など仏教関係の記事を中心に、漢文・編年体で記している。多くの典籍を引用していることは本書の特徴の一つであるが、その大半が今日伝存せず、出典の明らかでない記事も当時の日記・記録によったと思われる。『水鏡』・『愚管抄』など鎌倉時代の歴史書にもしばしば引用され、後世に与えた史的意義は大きい。.

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1624年

記載なし。

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1774年

記載なし。

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1794年

記載なし。

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1829年

記載なし。

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1870年

記載なし。

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1897年

記載なし。

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1904年

記載なし。

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1911年

記載なし。

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1922年

記載なし。

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1932年

記載なし。

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671年

記載なし。

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672年

記載なし。

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673年

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680年

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714年

記載なし。

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720年

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758年

記載なし。

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