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ユリア (アウグストゥスの娘)

索引 ユリア (アウグストゥスの娘)

ユリア・カエサリス(Julia Caesaris, 紀元前39年 - 紀元14年)は、初代ローマ皇帝アウグストゥスとその2番目の妻(セクストゥス・ポンペイウスの親族)との娘で、アウグストゥスの唯一の実子である。 ユリアの名はユリウス氏族の娘や皇帝一族の娘に共通の名前であるため、娘の小ユリアと区別して、大ユリア(Julia Maior)とも呼ばれる。淫婦として知られている。.

31 関係: 大アグリッピナ小オクタウィアマルクス・アントニウスマルクス・ウィプサニウス・アグリッパマルクス・クラウディウス・マルケッルス (アウグストゥスの甥)ユリアユリア (アグリッパの娘)ユッルス・アントニウスリウィアルキウス・カエサルレッジョ・ディ・カラブリアローマ皇帝ロドス島ティベリウスアウグストゥスアクティウムの海戦アクイレイアアグリッパ・ポストゥムスウィプサニアガイウス・カエサルセクストゥス・ポンペイウス紀元前11年紀元前17年紀元前20年紀元前23年紀元前25年紀元前27年紀元前2年紀元前31年紀元前39年14年

大アグリッピナ

大アグリッピナ(, 紀元前14年 - 紀元33年10月18日)はローマ帝国ユリウス・クラウディウス朝の皇族。正式な名前はユリア・ウィプサニア・アグリッピーナ(Julia Vipsania Agrippina)。.

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小オクタウィア

小オクタウィア オクタウィア(Octavia, 紀元前69年 – 紀元前11年)は、初代ローマ皇帝アウグストゥス(オクタウィアヌス)の同母姉。同名の異母姉(大オクタウィア)と区別して小オクタウィア (Octavia Minor) とも呼ばれる。同時代の人々からも後世の人々からも、ローマ女性の美徳を表す女性として尊敬された。.

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マルクス・アントニウス

マルクス・アントニウス(Marcus Antonius、紀元前83年1月14日 - 紀元前30年8月1日)は、共和政ローマの政治家・軍人。第二回三頭政治の一頭として権力を握ったが、その後はガイウス・ユリウス・カエサルの姪の息子オクタウィアヌス(後の初代ローマ皇帝アウグストゥス)に敗北した。ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『アントニーとクレオパトラ』でも知られている。.

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マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ

マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ(Marcus Vipsanius Agrippa, 紀元前63年 - 紀元前12年)は、古代ローマの軍人、政治家でローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの腹心。のちにアウグストゥスの娘婿となる。 ガイウス・ユリウス・カエサルに見出され、軍略の弱いアウグストゥスの補佐的役割を果たした。また、パンテオンやポン・デュ・ガールなど多数の建築物を建造した。.

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マルクス・クラウディウス・マルケッルス (アウグストゥスの甥)

マルクス・クラウディウス・マルケッルス(Marcus Claudius Marcellus, 紀元前42年? - 紀元前23年10月)は、初代ローマ皇帝アウグストゥスの姉の息子で、後継者として期待されたが早世した人物。「ll」の促音は無視されることも多いためマルクス・クラウディウス・マルケルスとも表記される。単にマルケッルスとも。 紀元前50年のコンスル、ガイウス・クラウディウス・マルケッルス・ミノルとアウグストゥスの姉小オクタウィアの息子。同父同母の姉妹に大マルケッラと小マルケッラが、異父妹に大アントニアと小アントニアがいる。 父は紀元前40年に死去するが、叔父であるオクタウィアヌス(のちのアウグストゥス)はガイウス・ユリウス・カエサル死後の内乱で頭角をあらわし、ローマの有力者となってゆく。オクタウィアヌスが紀元前31年のアクティウムの海戦で勝利を収めると、マルケッルスは紀元前29年8月に挙行されたその凱旋式で、凱旋車を牽く4頭のうち右外側の馬に騎乗して凱旋式に参加した。このとき左外側の馬にはティベリウスが騎乗していた。その後紀元前27年にオクタウィアヌスは元老院から「アウグストゥス」の称号を贈られる。 権力を掌握したアウグストゥスにとってマルケッルスは唯一の男性の親族であり、第一の後継者候補として期待されていた。このことは、マルケッルスが若きオクタウィアヌスがユリウス・カエサルのヒスパニア行軍に従ったようにアウグストゥスに従い、カンタブリア戦争に同伴したことからも推測される。 マルケッルスは紀元前25年にアウグストゥスの娘ユリアと結婚し、アウグストゥスの婿となった。さらに紀元前23年には異例の若さで高級造営官(アエディリス・クルーリス)に就任し、9月にはアエディリスとしてローマ人の競技を開催し、ローマ市民の人気を博した。 このようにマルケッルスは前途を有望視されていたが、急病に倒れ、紀元前23年の10月に19歳で没した。この後アウグストゥスは、マルケッルスと後継者としての競争を行っていた自身の盟友マルクス・ウィプサニウス・アグリッパに娘ユリアを嫁がせ、その息子ガイウス・カエサルとルキウス・カエサルを後継者候補として養子に迎えた。 アウグストゥスはマルケッルスを悼み、紀元前13年に完成した劇場に「マルケッルス劇場」の名を与えている。.

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ユリア

ユリア(Julia)は、古代ローマのユリウス氏族の女性形。ローマ女性は基本的には氏族名の女性形を名前としたためユリウス氏族に属する女性の名でもあった。ユリウス氏族からはユリウス・カエサルおよびアウグストゥスが出て、帝政以降は皇帝の一族がユリウスを名乗ったため、皇族の女性の名前ともなった。現代ではドイツ人やロシア、ウクライナ系の女性に多く見られる。英語ではジュリアとなる。 ユリウス氏族のことをgens Juliaと表記するが、日本語でこれをユリア氏族と読むことは少ない。.

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ユリア (アグリッパの娘)

ユリア(Vipsania Julia Agrippina, 紀元前19年/紀元前18年? - 紀元28年/紀元29年)は、古代ローマの将軍マルクス・ウィプサニウス・アグリッパと大ユリアの娘で初代ローマ皇帝アウグストゥスの孫。ユリアの名はユリウス氏族の娘や皇帝一族の娘に共通の名前であるため、母の大ユリアと区別するため小ユリアとも呼ばれる。 アウグストゥスの側近であったマルクス・アグリッパとアウグストゥスの娘ユリアの長女として誕生した。兄にガイウス・カエサル、弟にルキウス・カエサル、アグリッパ・ポストゥムス、妹に大アグリッピナがいる。 母の大ユリアと同様、アウグストゥスの厳格な方針に従って養育されたが、母同様その放蕩はアウグストゥスを悩ませた。ルキウス・アエミリウス・パウルスと結婚し、その間にアエミリウス・レピドゥス(6年 - 39年)とアエミリア・レピダをもうけた(アエミリウス・レピドゥスに関してはユリアの子では無いという異説あり)。 ユリアは紀元8年にデキムス・ユニウス・シラヌスと元首アウグストゥスに陰謀を企てとして姦通罪でトゥリメルス島に追放された。この姦通罪には不明な点も多く、アウグストゥスの妻リウィアが小ユリアを排するため夫への影響力を行使したとも言われる。情夫であったデキムス・シラヌスは追放された小ユリアに対しアウグストゥスから友情の拒絶を受けただけで公的な追放は免れている。元首の絶交からシラヌスは自主的にローマを離れていたが、ティベリウスの治世となった紀元20年にローマに帰還している。 夫であったルキウス・パウルスも小ユリアと同じように、アウグストゥスに対し陰謀を企てて処刑されている。こうした両親の元首への不義のため、娘アエミリア・レピダはアウグストゥスの好意を受けることはできなかった。 小ユリアは14年8月19日にアウグストゥスが死んだ後も幽閉され続け、28年(29年?)に流刑地で死亡した。この20年間の追放生活はリウィアの援助を受けていたという。 小ユリアの血筋は娘アエミリア・レピダ(紀元前5年/4年/3年頃 - 紀元43年/紀元53年)とその子孫を通じて存続している。アエミリア・レピダはマルクス・ユニウス・シラヌス・トルクアトゥス(紀元前24年頃 - 39年)と西暦13年前後に結婚。以下の3男2女(もしくは3女、4女)いる。.

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ユッルス・アントニウス

ユッルス・アントニウス(Iullus Antonius(Iulus、JulusまたJullusとも)、紀元前43年 - 紀元前2年)は、古代ローマの人物。マルクス・アントニウスとその3番目の妻フルウィアの次男。執政官、アジア属州総督などを歴任した。アウグストゥスの娘ユリアの愛人として知られる。 同母兄にマルクス・アントニウス・アンテュッルス。妻は義妹(継母小オクタウィアの子)でもある大マルケッラ。ほか多数の異父兄弟、異母兄弟、義理の兄弟がいる(後述)。.

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リウィア

リウィア・ドルシッラ(Livia Drusilla, 紀元前58年1月30日 - 紀元29年)は、古代ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの妻で2代皇帝ティベリウスの母。またアウグストゥスの遺産の継承者でもあり、ユリア・アウグスタ(Julia Augusta)を名乗った。一般には単にリウィアと呼ばれる。.

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ルキウス・カエサル

ルキウス・カエサル(Lucius Julius Caesar Vipsanianus, 紀元前17年 - 紀元2年)は、古代ローマの将軍マルクス・ウィプサニウス・アグリッパと大ユリアの息子で、初代ローマ皇帝アウグストゥスの養子。兄のガイウス・カエサルと共にアウグストゥスの後継者候補の一人だった。 アウグストゥスの側近であったマルクス・アグリッパとアウグストゥスの娘ユリアの次男ルキウス・ウィプサニウス・アグリッパとして紀元前17年に誕生した。アウグストゥスから見ると直系の孫にあたるため後継者候補として早くから期待されていた。兄にガイウス・カエサル、弟にアグリッパ・ポストゥムス、姉に小ユリア、妹に大アグリッピナがいる。 ルキウスが誕生した年に兄ガイウスとともにアウグストゥスの養子となりルキウス・ユリウス・カエサル・ウィプサニアヌスと名を変えた。以降後継者として育てられ、15歳となった紀元前2年には養父アウグストゥスによって紀元2年の執政官(コンスル)に指名され、元老院 (ローマ)に議席を得た。このとき兄ガイウス同様騎士階級から「青年の第一人者」(プリンケプス・ユウェントゥティス、Princeps Juventutis)の称号を贈られている。アウグストゥスはガイウスに対しても同様の待遇を与えているが、2人を元老院議員とするために紀元前5年と紀元前2年に自ら執政官に就任している。予定執政官となったこの年、アエミリア・レピダと婚約し、軍務のキャリアをスタートさせる。しかし同年に、予定されていたコンスルに就任する前にマッシリア(現在のマルセイユ)で没した。ヒスパニアに向かう途中だった。 ルキウスの死の2年後には兄ガイウスも夭折し、アウグストゥスは後継者候補に妻リウィアの連れ子であったティベリウスを選ばざるを得なくなった。ガイウスが死んだ紀元4年にアウグストゥスはティベリウスをルキウスの弟アグリッパ・ポストゥムスと共に養子としている。.

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レッジョ・ディ・カラブリア

レッジョ・ディ・カラブリア(Reggio di Calabria)は、イタリア共和国カラブリア州にある都市で、その周辺地域を含む人口18万人の基礎自治体(コムーネ)。レッジョ・カラブリア県の県都である。イタリア半島の「つま先」にあたる地点に位置し、シチリア島との間を隔てるメッシーナ海峡に面する。カラブリア州最大の人口を有する自治体で、州議会の所在地であり、州の経済的な中心地である。 イタリアにおける最古のギリシャ人植民都市の一つであるレギオンを起源に持ち、多くの考古遺産を有する。都市の長い歴史には地震と津波も繰り返し刻まれており、とくに1783年と1908年の被害は壊滅的なものであった。市街地は市域を超えて広がっており、レッジョ・ディ・カラブリア都市圏には37万人以上が暮らしている。また海峡を挟んだシチリア島のメッシーナとのつながりも密接である。.

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ローマ皇帝

ーマ皇帝(ローマこうてい)とは、紀元前27年に元老院より「アウグストゥス(Augustus)」の尊称を授与されたオクタウィアヌスと、この尊称を帯びた彼の後継者をさす。「ローマ皇帝」というひとつの職位があるのではなく、多くの重要な職位を一人が集中して兼任した状態のことをいう。初代ローマ皇帝とされるオクタウィアヌスは、実際に様々な官職や権限を一身に集め、彼の後継者に同一の権限を与えた。オクタウィアヌス以降の歴代ローマ皇帝は、「Imperator Caesar Augustus」を自分の名前に付加することで、権限を集中した兼任者(つまり皇帝)が誰であるかを明確にしていた。.

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ロドス島

ドス島(Ρόδος / Ródos; Rhodes)は、エーゲ海南部のアナトリア半島沿岸部に位置するギリシャ領の島。ドデカネス諸島に属し、ギリシャ共和国で4番目に大きな面積を持つ。ロードス島との表記も用いられる(#名称節参照) 。 島で最大の都市であるロドスの街は、古代以来港湾都市として栄え、世界の七不思議の一つである「ロドス島の巨像」が存在したことでも知られる。また、その中世期の街並みは「ロドスの中世都市」の名で世界遺産に登録されている。.

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ティベリウス

ティベリウス・ユリウス・カエサル(古典ラテン語:Tiberius Julius Caesar、紀元前42年11月16日 - 紀元後37年3月16日)は、ローマ帝国の第2代皇帝(在位:紀元14年 - 37年)。初代皇帝アウグストゥスの養子。養子となる以前の名前は実父と同じティベリウス・クラウディウス・ネロ。 なお、イエス・キリストが世に出、刑死したときのローマ皇帝である。イエスの言葉である「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」(新約マタ 22:17-21、マコ12:14-17、ルカ 20:22-25)の「カエサル」とは、ティベリウスないし彼を含めた(皇帝の称号としての) カエサル(=ローマ皇帝)一般のことである。.

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アウグストゥス

アウグストゥス(Imperator Caesar Divi Filius Augustus インペラートル・カエサル・ディーウィー・フィーリウス・アウグストゥス、Gaius Julius Caesar Octavianus Augustus ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス・アウグストゥス、紀元前63年9月23日 - 紀元14年8月19日)は、ローマ帝国の初代皇帝(在位:紀元前27年 - 紀元14年)。志半ばにして倒れた養父カエサルの後を継いで内乱を勝ち抜き、地中海世界を統一して帝政(元首政)を創始、パクス・ロマーナ(ローマの平和)を実現した。ちなみにアウグストゥスは、ラテン語で「尊厳ある者」を意味しており、現在のギリシア語では「8月」の意になっている。.

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アクティウムの海戦

アクティウムの海戦(アクティウムのかいせん、Actiaca pugna)は、紀元前31年9月にオクタウィアヌス支持派とプトレマイオス朝およびマルクス・アントニウス支持派連合軍の間で行われた海戦である。海戦の名は戦場がイオニア海のアクティウム沖(現在のギリシャ共和国プレヴェザ付近)であったことによる。.

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アクイレイア

アクイレイア(Aquileia、Acuilee)は、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ウーディネ県にある、人口約3500人の基礎自治体(コムーネ)。 ローマ時代に建設された古代都市を起源とし、中世初期まではイタリア北東部の中心都市であった。繁栄を極めた当時の遺跡は、世界遺産「アクイレイアの遺跡地域と総大司教座聖堂のバシリカ」として登録されている。.

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アグリッパ・ポストゥムス

マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ・ポストゥムス(Marcus Vipsanius Agrippa Postumus, 紀元前12年 - 紀元14年)は、古代ローマの将軍マルクス・ウィプサニウス・アグリッパとユリアの息子で初代ローマ皇帝アウグストゥスの養子。アウグストゥスの最後の後継者候補のひとり。一般にはアグリッパ・ポストゥムスやポストゥムス・アグリッパと呼ばれる。 アウグストゥスの側近であったマルクス・アグリッパとアウグストゥスの娘大ユリアの末子として父の死後、紀元前12年に生まれた。「ポストゥムス」はラテン語で「最後の息子」や「死後の子供」を表している。兄にガイウス・カエサル、ルキウス・カエサル、姉に小ユリア、大アグリッピナがいる。 兄のガイウスとルキウスはともにアウグストゥスの養子となっており、ポストゥムスはアグリッパ家を継ぐことになっていた。しかし紀元2年にルキウスが、紀元4年にガイウスが相次いで夭折すると、アウグストゥスは最後の選択肢として、残されたポストゥムスと養子縁組を結び、後継者候補とした。このときアウグストゥスは妻リウィアの連れ子ティベリウスをも同時に養子としており、年齢と経験を積んでいたティベリウスはポストゥムスにとって非常に強力な競争相手であった。 このときすでにティベリウスは軍事上の業績も十分で、さらに行政面でもその手腕を証明していた。しかしアウグストゥスと直接血縁関係がないティベリウスに対して、元首の孫であったポストゥムスは血筋、すなわち神君の権威の継承という点からは優位に立っていた。これらのことから、アウグストゥスは自分の余命が短い場合には、経験豊かなティベリウスを頼り、運命に恵まれた場合には、血筋を重視して自分のもとで十分実力をつけたポストゥムスを後継者とするつもりであったと考えられる。これを裏付けるかのように、ティベリウスはアウグストゥスの養子となると同時に、ティベリウスに、ポストゥムスの姉の大アグリッピナと結婚していたゲルマニクスと養子縁組を結ばせた。このゲルマニクスの養子縁組はティベリウスが元首を継いでも、大アグリッピナを通じてアウグストゥスの血脈が受け継がれることを意図したものと考えられる。 しかし、ポストゥムスは後継者候補となってまもなく、その性格が粗野であるとしてスレントゥム(現在のソレント)に追放された。さらに、性格は改善されず、狂気も見られるとしてプラナシア島へ移され、兵士の監視のもと幽閉された。これら一連のアウグストゥスの決定は実子を元首にしようと望んでいた妻リウィアの働きかけによるともいわれている。 ポストゥムスが幽閉されたまま紀元14年にアウグストゥスが死ぬ。この死が公表されると、ポストゥムスも百人隊長によって処刑された。この処刑の命令はアウグストゥス、ティベリウス二人の私的な側近で、歴史家サルスティウスの養子でもあったサルスティウス・クリスプスによって監視の軍団副官にアウグストゥスの遺言の書信として与えられた。この書信が本当にアウグストゥスが記したものであったのか、夫の名を使ってリウィアが書いたものなのか、また処刑をティベリウスが知っていたのかも明らかでない。実際にポストゥムスを殺害した百人隊長がティベリウスに対して命令を実行したことを報告した時、ティベリウスは「命じてはいない。元老院で弁明せよ」と答えたという。この後ポストゥムスの殺害はティベリウスからも不問とされ、真相が探求されることはなかった。 アウグストゥスは生前、追放に処した自分の子と孫である、大ユリア、小ユリア、ポストゥムスの3人を「三つのおでき」と呼んでその話題を避けていたとされているが、そうしたアウグストゥスの態度とは異なる記述がタキトゥス『年代記』に噂の形で残されている。この噂によると、アウグストゥスは病状が悪化する2、3か月前に友人ファビウス・マクシムス一人を連れてプラナシア島へ渡り、そこで涙を流しながらポストゥムスと和解したといわれる。このときポストゥムスは再度祖父の家に戻してもらえる希望すら抱いたという。しかしこの内密の面会の事実は、マクシムスの妻マルキアからリウィアに知らされ、しばらくするとマクシムスは不審な死を遂げた。マルキアは夫の葬儀で自らを嘆いたといわれる。ここからマクシムスの死にリウィアが関係しており、それのみでなく、アウグストゥスの病状悪化も実子の元首就任を危ぶんだリウィアの関与したとの噂が流れたとしている。この噂を伝えるタキトゥスは、全般的にリウィアを好意的に記述してはいないから、注意が必要である。.

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ウィプサニア

ウィプサニア ウィプサニア・アグリッピナ(Vipsania Agrippina, 紀元前36年? - 紀元20年)は、ローマ帝国2代皇帝ティベリウスの最初の妻。 初代皇帝アウグストゥスの盟友マルクス・ウィプサニウス・アグリッパと、その最初の結婚相手でキケロの書簡の宛名人として知られるティトゥス・ポンポニウス・アッティクスの娘ポンポニアとの間に生まれた。 父とアウグストゥスとの密接な関係のため、早くからアウグストゥスの3番目の妻リウィアの連れ子であったティベリウスとの婚約が結ばれていた。2人は紀元前20年に結婚。紀元前13年頃には息子の小ドルススが誕生している。 この間、アウグストゥスは後継者候補であったマルケッルスを失い、代わってウィプサニアの父アグリッパと寡婦となった自身の娘ユリアを結婚させていた。この2人の間に生まれたガイウスとルキウスの兄弟はアウグストゥスの養子とされ、有力な後継者候補と見られるようになっていた。 ウィプサニアとティベリウスの結婚生活は幸福なものだったといわれているが、紀元前12年、父アグリッパの死とともに一変する。翌紀元前11年、アウグストゥスは再び寡婦となった大ユリアとティベリウスを結婚させるためティベリウスとウィプサニアを離婚させた。 こののちウィプサニアは、歴史家ガイウス・アシニウス・ポッリオの息子で有力な元老院議員であるガイウス・アシニウス・ガッルスと再婚する。ウィプサニアはガッルスとの間にガイウス・アシニウス・ポッリオ、マルクス・アシニウス・アグリッパ、アシニウス・ガッルス、アシニウス・ルプス、アシニウス・サロニヌス、セルウィウス・アシニウス・ケレルの6人の子供をもうけた。紀元20年にウィプサニアは死ぬ。マルクス・アグリッパの子供たちが皆不遇や不慮の死を遂げる中で、唯一安逸な死を迎えたという。 ウィプサニアと別れさせられた後も、ティベリウスはウィプサニアを思いつづけたといわれている。離婚後ティベリウスが町でウィプサニアの姿を見たとき何も声をかけず、以降ウィプサニアと会うことを避けるようになったという。またウィプサニアの再婚相手ガッルスに対しては、ウィプサニアの再婚相手であるがゆえに嫌っていたともいわれている。 Category:ユリウス・クラウディウス家 Category:紀元前30年代生 Category:20年没.

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ガイウス・カエサル

イウス・カエサル ガイウス・ユリウス・カエサル・ウィプサニアヌス(Gaius Julius Caesar Vipsanianus, 紀元前20年 - 紀元4年)は、古代ローマの将軍マルクス・ウィプサニウス・アグリッパと大ユリアの息子で、初代ローマ皇帝アウグストゥスの養子。弟のルキウス・カエサルと共にアウグストゥスの後継者候補の一人だった。 アウグストゥスの側近であったマルクス・アグリッパとアウグストゥスの娘ユリアの長男ガイウス・ウィプサニウス・アグリッパとして紀元前20年に誕生した。アウグストゥスから見ると直系の孫に当たるため、後継者候補として早くから期待されていた。弟にルキウス・カエサルとアグリッパ・ポストゥムスが、妹に小ユリアと大アグリッピナがいる。 弟ルキウスが誕生した紀元前17年にアウグストゥスの養子となり、ガイウス・ユリウス・カエサルそして第四名にウィプサニウス氏族からの養子の意でウィプサニアヌスを加えガイウス・ユリウス・カエサル・ウィプサニアヌスと名を改める。以後、同じように皇帝の養子となった弟ルキウスと共に後継者として育てられた。紀元前13年のトロイア競技で年長組の組長を務め、初めてローマ市民の前にでる。15歳となった紀元前5年には養父アウグストゥスによって5年後の紀元1年の執政官(コンスル)に指名され、元老院に議席を得た。このとき予定執政官に指名されただけではなく騎士階級から「青年の第一人者」(プリンケプス・ユウェントゥティス、Princeps Juventutis)の称号を贈られ、未来の元首候補であることをローマ市民に強く印象付けた。この称号は以後の元首候補にも贈られ、事実上「皇太子」を意味する称号になっていった。 紀元前1年に大ドルススと小アントニアの娘リウィッラと結婚すると予定執政官としてドナウ方面の軍務につく。その後東方へ派遣され、その地で1年を迎え、正式にコンスルに就任した。このときのガイウスの幕僚には、皇帝ネロの父となるグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスやのちの親衛隊長ルキウス・アエリウス・セイヤヌス、マルクス・ロリウス、プブリウス・スルピキウス・クィリニウスなどがいた。 当時アルメニア王国ではアウグストゥスが王位につけたアルタウァスデスが追放されており、この王位にメディア出身のアリオバルザネスを就けることがガイウスに与えられた任務であった。ガイウスはこの任務を果たすが、アルメニアではパルティアの介入で叛乱が再発した。紀元3年にアルメニアのパルティア包囲戦において負傷、ローマに帰還する途中、現在のトルコ南部のリミラで没した。この時まだ24歳だった。 このガイウスの死より前の紀元2年に弟ルキウスも死亡していたため、アウグストゥスは一定の年齢に達している後継者候補を失い、妻リウィアの連れ子であったティベリウスを後継者とせざるを得なくなった。ガイウスが死んだ紀元4年にアウグストゥスは、ティベリウスをガイウスの弟アグリッパ・ポストゥムスと共に養子としている。.

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セクストゥス・ポンペイウス

トゥス・ポンペイウスが描かれたコイン セクストゥス・ポンペイウス(Sextus Pompeius, ? - 紀元前35年)は、共和政ローマ末期の軍人・政治家。第一回三頭政治の一角であったグナエウス・ポンペイウスと3番目の妻ムキアの次男。グナエウス・ポンペイウス・ミノル(小ポンペイウス)の弟。父の死後は元老院派の重要人物として、ヒスパニアを拠点にカエサルへの抵抗を続けた。.

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紀元前11年

紀元前11年。.

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紀元前17年

紀元前17年。.

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紀元前20年

紀元前20年。.

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紀元前23年

紀元前23年。.

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紀元前25年

紀元前25年。.

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紀元前27年

紀元前27年。.

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紀元前2年

紀元前2年、又は西暦 -1年(マイナス1年)。 ユリウス暦制定直後の混乱により、紀元前6年から紀元後7年まで閏年を停止し、平年であったと推定されている。詳細は「ユリウス暦」を参照。.

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紀元前31年

紀元前31年。.

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紀元前39年

紀元前39年。.

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14年

記載なし。

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