ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

モラヴィア王国

索引 モラヴィア王国

ワトプルクの治世期 (871-894) に最も拡大したモラヴィア王国の版図。 キュリロスの像(モラヴィア地方・オロモウツにある三位一体柱の一部) モラヴィア王国 (Veľkomoravská ríša) は、9世紀から10世紀初頭にかけて栄えたスラヴ人の王国。大モラヴィア王国などとも表記される。現在のモラヴィア、スロヴァキア辺りの地域を支配した。.

31 関係: 中央公論新社三位一体マジャル人メトディオス (スラヴの(亜)使徒)モラヴィアモラヴィア君主一覧ヨハネス8世 (ローマ教皇)ラスチスラフボヘミアプシェミスル朝パンノニアパッサウフランク王国アヴァールオロモウツオフリドのクリメントカトリック教会キュリロス (スラヴの(亜)使徒)キリル文字グラゴル文字ゲルマン人ザルツブルク大司教シルミウムスラヴ人スロバキア東ローマ帝国東フランク王国正教会民族移動時代10世紀9世紀

中央公論新社

株式会社中央公論新社(ちゅうおうこうろんしんしゃ)は、日本の出版社である。読売新聞グループ本社の傘下。略称は中公(ちゅうこう)。 本項では、旧法人の株式会社中央公論社(ちゅうおうこうろんしゃ)についても述べる。.

新しい!!: モラヴィア王国と中央公論新社 · 続きを見る »

三位一体

date.

新しい!!: モラヴィア王国と三位一体 · 続きを見る »

マジャル人

マジャル人の分布及び割合 ルーマニアにおけるマジャル人の割合 マジャル人(マジャルじん、Magyarok)は、国家としてのハンガリーと歴史的に結びついた民族。マジャール人(Magyár)とも呼ばれる。.

新しい!!: モラヴィア王国とマジャル人 · 続きを見る »

メトディオス (スラヴの(亜)使徒)

メトディオス(826年-885年4月6日、ギリシャ語:,ラテン文字転写:Methodios, ラテン語:Methodius)は9世紀の東ローマ帝国の知識人、キリスト教の聖職者、モラヴィアの主教(司教)である。メトディウス(ラテン語形)、メフォディ(スラヴ諸語形)とも表記する。中世以降のギリシャ語ではメソディオス。 「キリル文字」で知られるキュリロスの兄にあたる。正教会・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人。 キュリロスとともにスラヴ地方にキリスト教をはじめて伝えた。キュリロスの補助を得ながら、教会スラヴ語への聖書の翻訳に従事した。そのためキュリロスとともに「スラブの(亜)使徒」と称され、スラヴ圏のキリスト教会では篤く崇敬される。.

新しい!!: モラヴィア王国とメトディオス (スラヴの(亜)使徒) · 続きを見る »

モラヴィア

モラヴィア(Moravia)は、チェコ共和国東部の地方。チェコ語ではモラヴァ(Morava)、ドイツ語ではメーレン(Mähren)と呼ばれる。面積は約26,000km2稲野「モラビア」『東欧を知る事典』新版、574-575頁。.

新しい!!: モラヴィア王国とモラヴィア · 続きを見る »

モラヴィア君主一覧

1459年のモラヴィアの紋章。 モラヴィアの君主は9世紀以降が知られている。君主の一覧では、王国の中核であった9世紀から最終的にボヘミア国王に服属することが明白になった1611年までのモラヴィアの領域において封建的に育まれた君主をも含む。封建的な育みは、その形成や年代順に選び出された君主に乗っ取った形で位置付けられている。.

新しい!!: モラヴィア王国とモラヴィア君主一覧 · 続きを見る »

ヨハネス8世 (ローマ教皇)

ヨハネス8世(Ioannes VIII、生年不詳 - 882年12月16日)は、ローマ教皇(在位:872年 - 882年)。教会慣用名はヨハネ小林(1966)巻末「歴代法王表」p.6。.

新しい!!: モラヴィア王国とヨハネス8世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

ラスチスラフ

ラスチスラフ ラスチスラフ(Rastislav, ? - 870年)は、モラヴィア王国の第2代君主。ロスティスラフとも表記する。 初代モイミールの死後、846年に王位についた。モイミールがカトリックを受容する姿勢を見せたのに対して、ラスチスラフは東フランク王国との対抗上、ブルガリア、ビザンツ帝国などと接近した。また、カトリック化を通じて東フランク王国に従属することを懸念して、ビザンツ帝国に宣教師の派遣を依頼した。これによって派遣されたのがキュリロス・メトディオスの兄弟であり、王国内における正教の浸透を図った。この際に布教の必要性からグラゴル文字が作成された。 東フランク王国と結んだ甥のスヴァトプルクによって失脚に追い込まれた。 正教会において聖人(1994年、チェコ・スロバキア正教会により列聖)。.

新しい!!: モラヴィア王国とラスチスラフ · 続きを見る »

ボヘミア

ボヘミア(Bohemia、Čechy、Böhmen, ベーメン)は、現在のチェコの西部・中部地方を指す歴史的地名。古くはより広くポーランドの南部からチェコの北部にかけての地方を指した。西はドイツで、東は同じくチェコ領であるモラヴィア、北はポーランド(シレジア)、南はオーストリアである。 この地方は牧畜が盛んである。牧童の黒い皮の帽子に皮のズボンにベストは、オーストリア帝国の馬術や馬を扱う人たちに気に入られた。このスタイルは、オーストリアと遠戚関係にあるスペインを経て、アメリカのカウボーイの服装になったといわれる。西欧にも伝わり、芸術家気取り、芸術家趣味と解されて、ボヘミアンやボヘミアニズムという言い方も生まれた。 '''ボヘミア''' チェコ西部から中部に位置する緑色の部分.

新しい!!: モラヴィア王国とボヘミア · 続きを見る »

プシェミスル朝

プシェミスル家の紋章 プシェミスル朝(Dynastie Přemyslovců)は、ボヘミア(ドイツ語でベーメン、チェコ語ではチェヒ)のチェコ人王朝。1306年に断絶するまで続いた。伝説上の女傑・リブシェの夫で、一族の伝説上の始祖である農夫プシェミスルから名づけられた。競合するスラヴニク家を打倒後、ボヘミアの一君主となったが、13世紀にオタカル2世はオーストリア公国を獲得してオーストリア大公の地位に就き、大空位時代に神聖ローマ皇帝として推挙されている(ハプスブルク家に敗れた)。さらに13世紀後半、ポーランド王も兼ねたヴァーツラフ2世の下で最盛期を誇ったが、息子である次王ヴァーツラフ3世が殺害され断絶した。.

新しい!!: モラヴィア王国とプシェミスル朝 · 続きを見る »

パンノニア

パンノニア(Pannonia)は、古代に存在した地方名。ローマ帝国の時代には皇帝属州であった。北と東はドナウ川に接し、西はノリクムと上イタリア、南はダルマティアと上モエシアに接した。パンノニアの領域は現在のオーストリア、クロアチア、ハンガリー、セルビア、スロベニア、スロバキア、およびボスニア・ヘルツェゴビナの各国にまたがる。 今日では、パンノニアという地名は、ハンガリーのトランスダニュービア地方(Transdanubia、ハンガリー語:Dunántúl)およびセルビア等に広がるパンノニア平原を指して使われる。.

新しい!!: モラヴィア王国とパンノニア · 続きを見る »

パッサウ

パッサウ(Passau)は、ドイツ南東部、バイエルン州の都市である。ミュンヘンから電車で2時間強、オーストリア、チェコとの国境に接する。ドナウ川(Donau)、イン川(Inn)、イルツ川(Ilz)の3つの河川がこの地で合流することから、「ドライフリュッセシュタット(Dreiflüssestadt:3河川の街)」の異名を取る。 総面積は69.72km²、人口は約50,000人。教会オルガンとしては世界最大のパイプオルガンを有する聖シュテファン大聖堂(Stephansdom)の所在地として知られる。また、アウクスブルクの和議へと至る流れを決定付けた、「パッサウ条約」の舞台でもある。17世紀後半に、2度にわたる大火災に見舞われ街は灰燼に帰したが、領主司教の働きかけによりバロック様式の街並みが形成された。 1984年4月8日、秋田市と姉妹都市提携を行った。.

新しい!!: モラヴィア王国とパッサウ · 続きを見る »

フランク王国

フランク王国の時代別の領土 フランク王国(フランクおうこく、Royaumes francs、Fränkisches Reich)は、5世紀後半にゲルマン人の部族、フランク人によって建てられた王国。カール1世(大帝)の時代(8世紀後半から9世紀前半)には、現在のフランス・イタリア北部・ドイツ西部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・スイス・オーストリアおよびスロベニアに相当する地域を支配し、イベリア半島とイタリア半島南部、ブリテン諸島を除く西ヨーロッパのほぼ全域に勢力を及ぼした。カール1世以降のフランク王国は、しばしば「フランク帝国」「カロリング帝国」などとも呼ばれる。 この王国はキリスト教を受容し、その国家運営は教会の聖職者たちが多くを担った。また、歴代の王はローマ・カトリック教会と密接な関係を構築し、即位の際には教皇によって聖別された。これらのことから、西ヨーロッパにおけるキリスト教の普及とキリスト教文化の発展に重要な役割を果たした。 フランク王国はメロヴィング朝とカロリング朝と言う二つの王朝によって統治された。その領土は、成立時より王族による分割相続が行われていたため、国内は恒常的に複数の地域(分王国)に分裂しており、統一されている期間は寧ろ例外であった。ルートヴィヒ1世(敬虔王、ルイ1世とも)の死後の843年に結ばれたヴェルダン条約による分割が最後の分割となり、フランク王国は東・中・西の3王国に分割された。その後、西フランクはフランス王国、東フランクは神聖ローマ帝国の母体となり、中フランクはイタリア王国を形成した。 このようにフランク王国は政治的枠組み、宗教など多くの面において中世ヨーロッパ社会の原型を構築した。.

新しい!!: モラヴィア王国とフランク王国 · 続きを見る »

アヴァール

アヴァール (Avars) は、 5世紀から9世紀に中央アジアおよび中央・東ヨーロッパで活動した遊牧民族。支配者は遊牧国家の君主号であるカガン(khagan:可汗)を称したため、その国家はアヴァール可汗国とも呼ばれる。東ローマの一部史料ではジェジェン(Geougen)、ルーシの史料ではオーブル人(Obrs)とも呼ばれる。.

新しい!!: モラヴィア王国とアヴァール · 続きを見る »

オロモウツ

聖ヴァーツラフ大聖堂 聖三位一体柱 オロモウツ(チェコ語:Olomouc、ポーランド語:Ołomuniec)は、チェコの都市。モラヴィア地方の中部に属するチェコ第5の都市。2014年当時の人口は99,489人稲野「オロモウツ」『東欧を知る事典』新版、73-74頁。ドイツ語ではオルミュッツ(Olmütz)。 オロモウツは上モラヴィア低地のハナー地方の中心都市でもあり、またモラヴィアのローマ・カトリック教会の中心地でもある林「オロモウツ」『世界地名大事典』4、755頁。ロマネスク様式、ゴシック様式の教会や市役所が建ち、記念物保護指定都市に定められている。オロモウツは首都プラハに次いで文化財を保有する都市であり、街の中心部にあるオロモウツの聖三位一体柱は、ユネスコの世界遺産に登録されている。.

新しい!!: モラヴィア王国とオロモウツ · 続きを見る »

オフリドのクリメント

フリドのクリメント(古代教会スラヴ語: Климє́нтъ Охрїдьскъ, ブルガリア語・マケドニア語: Свети Климент Охридски, 840年頃 – 916年)は、聖キリル(キュリロス)と聖メフォディ(メトディオス)の弟子であり、のちにオフリドの主教となった人物。正教会で聖人であり、亜使徒と呼ばれる。初めてスラヴ語で説教、著述活動を行った最初のブルガリアの主教であった。.

新しい!!: モラヴィア王国とオフリドのクリメント · 続きを見る »

カトリック教会

トリック教会(カトリックきょうかい、)は、ローマ教皇を中心として全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派。その中心をローマの司教座に置くことからローマ教会、ローマ・カトリック教会とも呼ばれる。.

新しい!!: モラヴィア王国とカトリック教会 · 続きを見る »

キュリロス (スラヴの(亜)使徒)

ュリロス(ギリシア語: Κύριλλος, ブルガリア語: Константин-Кирил Философ, チェコ語: Cyril, ロシア語: Кирилл Философ, 827年 - 869年2月14日)は中世の東ローマ帝国の知識人、キリスト教の修道士、神学者である。教会スラヴ語・ブルガリア語・ロシア語等からキリル、キリール、チェコ語からはツィリルなどとも表記される。正教会・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人。元の名はコンスタンティノス。同時代文献にはしばしば「哲学者コンスタンティノス」として言及される。グラゴル文字の考案者として知られる。 現在のロシアなどで使用されるキリル文字の考案者と考えられていたが、彼が実際に考案したのはグラゴル文字であり、キリル文字は後世に作成されたとされる。.

新しい!!: モラヴィア王国とキュリロス (スラヴの(亜)使徒) · 続きを見る »

キリル文字

リル文字(キリルもじ、Кириллица、Cyrillic alphabet、キリール文字とも)は、主にスラヴ諸語を表記するのに用いられる表音文字の体系の一種である。日本等では特にロシア語の文字として知られ、ロシア語で使う 33 文字(大文字小文字を同一視して)は、ロシア文字とも呼ばれる。しかし、キリル文字はブルガリア語やセルビア語をはじめとする多くの言語で使用されており、文字もそれぞれ微妙に異なる。そして、キリル文字発祥の地はブルガリアであるとされるため、キリル文字の総称としてロシア文字と呼ぶのは不適当である。.

新しい!!: モラヴィア王国とキリル文字 · 続きを見る »

グラゴル文字

ラゴル文字(グラゴルもじ、Глаголица、グラゴーリツァ)は、主にスラヴ系言語を記述するために作られたアルファベットで、スラヴ圏最古の文字である。正教会のキュリロス(827年 - 869年)とメトディオス(826年 - 885年)が、855年か862年から863年のころ、聖書やその他の文書をスラヴ諸語に翻訳するために作成した。ギリシア文字を元にして作られたものと思われるが、独特の外見を持つ。キリル文字になるまでの400〜500年間使われた文字である。古代教会スラヴ語でも用いられた文字である。.

新しい!!: モラヴィア王国とグラゴル文字 · 続きを見る »

ゲルマン人

1世紀のゲルマニア。スエビ人(おそらくケルト系が主)やヴァンダル人(おそらくスラヴ系が主)など、母語がゲルマン語派の言語かどうかが怪しまれている民族も含まれている。 ゲルマン人(ゲルマンじん、ドイツ語:Germanen)は、現在のドイツ北部・デンマーク・スカンディナヴィア南部地帯に居住していたインド・ヨーロッパ語族 - ゲルマン語派に属する言語を母語とする諸部族・民族百科事典マイペディア、平凡社。。先史時代,歴史時代初めのゲルマン語を話す部族および部族連合を原始ゲルマン人、または古ゲルマン人と呼ぶ日本大百科全書(ニッポニカ)「ゲルマン人」平城照介。原始ゲルマン人は中世初期に再編されゲルマン民族となり、4世紀以降フン人の西進によって、ゲルマン系諸民族は大移動を開始し、ローマ領内の各地に建国して、フランク、ヴァンダル、東ゴート・西ゴート、ランゴバルドなどの新しい部族が形成された。 原始ゲルマン人は現在のデンマーク人、スウェーデン人、ノルウェー人、アイスランド人、アングロ・サクソン人、オランダ人、ドイツ人などの祖先となった。アングロ・サクソン人になったゲルマン人系部族にはアングル人、サクソン人、ジュート人、フリース人がいた岩谷道夫「スエービーとアレマンネン」法政大学キャリアデザイン学部、2004。.

新しい!!: モラヴィア王国とゲルマン人 · 続きを見る »

ザルツブルク大司教

ルツブルク大司教(ザルツブルクだいしきょう、独:Erzbischof von Salzburg)は、カトリックの大司教である。教皇遣外使節として外から識別される身分、つまりローマ教皇庁の緋の衣を1854年以来身にまとう身分にある。この衣は枢機卿以外は着用を差し控えるものである。ザルツブルクの聖堂参事会は、ローマ教皇が選んだ3名の候補から次期大司教を選択する特別の権利を持っている。.

新しい!!: モラヴィア王国とザルツブルク大司教 · 続きを見る »

シルミウム

ルミウム (Sirmium)はローマ帝国パンノニア地方にあった古代都市である。現在のセルビア共和国西部、スレムスカ・ミトロヴィツァに当たる。 紀元前1世紀にイリュリア人の街をローマ人が征服したものを起源とするが、後に発展し、パンノニア属州の経済的中心地となり、さらに古代末期にはローマ帝国の四つの地域のうち一つの地域の首都となった。 紀元後1世紀にローマ植民市に昇格し、103年にパンノニアが上パンノニアと下パンノニアに分割されると、下パンノニアの首都となった。296年、ディオクレティアヌス帝がパンノニアの再編成を行い、旧来の2属州を4属州に改めるに伴い、パンノニア・セクンダの首都となった。 293年のテトラルキア開始にともない、帝国の行政区画が4つに分割されると、アウグスタ・トレヴェロールム(トリーア)、メディオラヌム(ミラノ)、ニコメディア(イズミット)と並び、シルミウムは4つの地域のうち一つの地域の首都となった。テトラルキアの間、シルミウムはガレリウスの首都であった。また、318年から379年まで、イリュリクム地域の首都となった。379年に、イリュリクムは2つに分割され、シルミウムはイタリア地域に帰属させられた。 4世紀以降、シルミウムはキリスト教の活動にとって重要な場所となった。シルミウムには主教座(司教座)がおかれ、5つの教会会議が開催された。またシルミウムには皇帝の宮殿が置かれ、街は繁華を極めた。 4世紀末に、シルミウムはゴート族にいったん占領され、そののちふたたび東ローマ帝国に帰した。441年に、フン族に占領され、そのあといくつかの蛮族によって支配された。567年、再度東ローマ帝国に編入されたが、582年アヴァール人に占拠され、破壊された。.

新しい!!: モラヴィア王国とシルミウム · 続きを見る »

スラヴ人

南スラヴ人 スラヴ人(スラヴじん)は、中欧・東欧に居住し、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属する言語を話す諸民族集団である。ひとつの民族を指すのではなく、本来は言語学的な分類に過ぎない。東スラヴ人(ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人)・西スラヴ人(スロバキア人、チェコ人、ポーランド人)・南スラヴ人(クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人など)に分けられる。言語の共通性は見られ、特に西スラヴと東スラヴは時により北スラヴと分類されることがある。.

新しい!!: モラヴィア王国とスラヴ人 · 続きを見る »

スロバキア

バキア共和国(スロバキアきょうわこく、)、通称スロバキアは、中央ヨーロッパの共和制国家。首都はブラチスラバで、北西にチェコ、北にポーランド、東にウクライナ、南にハンガリー、南西にオーストリアと隣接する。 古代には(623年-658年)・モラヴィア王国として独立を保った期間もあったが、この地のスラブ人は1000年間少数民族としてハンガリー王国の支配下にあって、ハンガリーにとっても歴史的に重要な地域であり、多くのハンガリー人の出身地、ハンガリー貴族の発祥地でもある(元来スラブ系で、ハンガリー文化に同化した者も多い)。 第一次世界大戦後オーストリア・ハンガリー帝国からチェコと合併するかたちで独立し、その後、1989年のビロード革命による共産党政権崩壊を経て、1993年1月1日にチェコスロバキアから分離独立し現在に至る。.

新しい!!: モラヴィア王国とスロバキア · 続きを見る »

東ローマ帝国

東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブール)であった。 西暦476年に西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた際、形式上は最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスが当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていた。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。.

新しい!!: モラヴィア王国と東ローマ帝国 · 続きを見る »

東フランク王国

東フランク王国(ラテン語:regnum Francorum orientalium、独:Ostfrankenreich)は9~10世紀に渡って西ヨーロッパに存在した王国。ドイツの原型にあたる。 西ヨーロッパは9世紀初頭にローマ教皇から西ローマ皇帝の地位を授けられたフランク王カール大帝によって統一されていた。しかし大帝の死後早くから内部紛争により国家分裂の危機が生じていた。840年に第2代皇帝ルートヴィヒ1世が崩御すると翌年にフォントノワの戦いが勃発。843年のヴェルダン条約によって帝国は正式に三分割された。その東部分がルートヴィヒ1世の三男であるルートヴィヒ2世の統治領域となった東フランク王国である。 ルートヴィヒ2世は父帝に反抗的だったため、東フランク王国は西ローマ帝国の権威を引き継ぐことができなかった。西ローマ帝国として正統だったのは中フランク王国である。しかし中フランク王国はまもなく北イタリアのみを統治するイタリア王国へと縮小した。西フランク王国もまた内憂外患で政情が安定しなかった。そのような状況で東フランク王国は着々と力を蓄えて西ヨーロッパの中心となっていった。9世紀末には西ローマ帝国の盟主としてふるまい、10世紀中ごろにはオットー1世の皇帝即位とイタリア併合によって西ローマ帝国そのものとなった。その後約200年は西ヨーロッパ最強だった帝国だが、やがて衰えてイタリアを失い神聖ローマ帝国、そして現在のドイツとなった。 カール大帝の直系であるカロリング朝の統治は911年までだった。西ローマ帝国の理念は女系のザクセン朝、ザーリアー朝、ホーエンシュタウフェン朝に引き継がれていった。 帝国はごく一時期を除いて西フランク王国(フランス)を併合できなかった。これは西ローマ帝国がゲルマン系のドイツとラテン系のフランスに分かれる原因となった。.

新しい!!: モラヴィア王国と東フランク王国 · 続きを見る »

正教会

Σημειώσεις από τις παραδόσεις τού καθηγητού Ι. Δ. Ζηζιούλαより)。 正教会(せいきょうかい、Ορθόδοξη Εκκλησία、Православие、Orthodox Church)は、ギリシャ正教もしくは東方正教会(とうほうせいきょうかい、Eastern Orthodox Church)とも呼ばれる、キリスト教の教会(教派)の一つ。 日本語の「正教」、英語名の"Orthodox"(オーソドックス)は、「正しい讃美」「正しい教え」を意味するギリシャ語のオルソドクシア "ορθοδοξία" に由来する。正教会は使徒継承を自認し、自身の歴史を1世紀の初代教会にさかのぼるとしている『正教会の手引き』8頁 - 11頁。 なお「東方教会」(とうほうきょうかい)が正教会を指している場合もある。 例外はあるものの、正教会の組織は国名もしくは地域名を冠した組織を各地に形成するのが基本である。コンスタンディヌーポリ総主教庁、アレクサンドリア総主教庁、アンティオキア総主教庁、エルサレム総主教庁、ロシア正教会、セルビア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、グルジア正教会、ギリシャ正教会、日本正教会などは個別の組織名であって教会全体の名ではない。いずれの地域別の教会組織も、正教として同じ信仰を有している。教会全体の名はあくまで正教会であり、「ロシア正教に改宗」「ルーマニア正教に改宗」といった表現は誤りである。 なお、アルメニア使徒教会、シリア正教会、コプト正教会、エチオピア正教会なども同じく「正教会」を名乗りその正統性を自覚しているが、上に述べたギリシャ正教とも呼ばれる正教会とは別の系統に属する。英語ではこれらの教会は"Oriental Orthodox Church"とも呼ばれる。詳細は非カルケドン派正教会を参照。.

新しい!!: モラヴィア王国と正教会 · 続きを見る »

民族移動時代

民族移動時代(みんぞくいどうじだい、)は、西暦300年から700年代にかけて、ヨーロッパで起こった人類の移住の時代のことである。この移住が古代を終わらせ中世が始まったと考えてもよい。 この移住はゲルマン系及びスラブ系の移住、更に東方系の諸民族の侵略を主体としている。これは中央アジアでのトルコ系民族の移動や、人口爆発、気候変動、疫病の蔓延、高齢化人口の増大などが要因とされる。.

新しい!!: モラヴィア王国と民族移動時代 · 続きを見る »

10世紀

江南の爛熟。画像は顧閎中が描いた「韓煕載夜宴図(北京故宮博物館蔵)」。五代十国南唐の後主李煜時代の宮廷の優雅な様子がしのばれる。 コルドバ。画像はコルドバにあるメスキータの円柱の森。10世紀末までに歴代の後ウマイヤ朝カリフによって改築が続けられ今ある姿となった。 10世紀(じっせいき)とは、西暦901年から西暦1000年までの100年間を指す世紀。1千年紀における最後の世紀である。.

新しい!!: モラヴィア王国と10世紀 · 続きを見る »

9世紀

船葬用の船体(オスロのヴァイキング船博物館蔵)。 イングランドを襲撃するデーン人(ヴァイキング)。画像は12世紀に書かれた『聖エドマンド殉教王伝』の挿絵。 マルウィヤ・ミナレット(サーマッラーのミナレット)。アッバース朝第8代カリフのムウタスィムが建築したサーマッラーの大モスク付属の螺旋式のミナレット。 ハールーン・アッラシード。アッバース朝最盛期のカリフで、『千夜一夜物語』では夜ごとにバグダードの街に繰り出す風流な君主として描かれている。 「知恵の館(バイト・アル・ヒクマ)」。アッバース朝カリフ・マアムーンの治世にバグダードには翻訳事業や学問研究のための「知恵の館」が設置された。画像はここに集まる学者たちを描いた13世紀の細密画(フランス国立図書館蔵)。 インド最後の仏教王朝のパーラ朝。ダルマパーラ王により9世紀末に北インドの大半が支配下に置かれた。画像は9世紀に造られたパーラ様式の文殊菩薩石像(ホノルル美術館)。 敦煌文書。敦煌には3万とも4万とも数えられる膨大な古文書が収蔵されている。画像は大英博物館所蔵の「金剛般若波羅蜜経」。これは現存する世界最古の木版印刷の巻子本(書籍)で唐の懿宗の治世の868年に作成されたもの。 禁止出境展览文物でもある「八重宝函」。 密教招来。空海らによって日本に密教がもたらされ平安時代の仏教に大きな影響を与えた。画像は密教で用いる胎蔵界曼荼羅で京都東寺所蔵のもの。 応天門の変。藤原氏による他氏排斥が進んで摂関政治が確立し、律令国家体制から王朝国家体制へと政体が変化した。画像は12世紀に応天門の変の経緯を描いた「伴大納言絵詞」(出光美術館蔵)。 ラパス県の4000メートル近くの標高にある遺跡で、最盛期である9世紀には人口は1万人を越えたと想定されている。画像は半地下式方形広場で人面の装飾がなされている。 Galerie des Batailles蔵)。 ラドガにて東スラブ人と出会うヴァリャーグのリューリク一行を描いたヴィクトル・ヴァスネツォフの歴史画。 ハギア・ソフィア教会アプス半ドームにある聖母子のモザイク画。 スラブ人への宣教。東ローマ帝国出身のキュリロス・メトディオス兄弟はグラゴール文字を作成しキリスト教の宣教に努めた。画像は18-19世紀にロシアで描かれたこの兄弟のイコン(聖画像)。 プリスカ遺跡。 9世紀(きゅうせいき)は、西暦801年から西暦900年までの100年間を指す世紀。.

新しい!!: モラヴィア王国と9世紀 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

モラバ王国モラヴァ王国モラヴィア帝国モラビア王国大モラヴィア大モラヴィア帝国大モラヴィア王国大モラビア大モラビア王国

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »