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大チベット

索引 大チベット

大チベット(プー・チェンボ、བོད་ཆེན་པོ、bod chen po)は、9世紀にチベットと中国が講和した長慶の会盟の際に、チベットの国号として使用された呼称で、大蕃と漢語表記された。 また中国とチベット亡命政府などとの間で、チベットの一部または全体を指す地理的用語としても使用される。チベット語で bod chen po、英語で Greater Tibet、中国語で大西蔵区・大西蔵・大蔵区などと表記される。.

43 関係: 吐蕃君主大チベット区中央民族大学中国本土中華人民共和国によるチベットの分割と再編平和条約北京市チャムド市チベットチベット十三万戸チベット三州チベット自治区レプコンプーと大プーツァンデチェン・チベット族自治州ダライ・ラマ14世アバ・チベット族チャン族自治州アムドウー (チベット)ウー・ツァンカムカム (チベット)ガリーガンデンポタンサンスクリット唐蕃会盟碑全国人民代表大会元史国号国家民族事務委員会四川省甘南チベット族自治州甘粛省青海省西蔵西蔵地方政府自治区長慶会盟雲南省李登輝明史

吐蕃

吐蕃(とばん、拼音:TŭbōまたはTŭfān、チベット語:、ワイリー転写:Bod chen po)は、7世紀初めから9世紀中ごろにかけてチベットにあった統一王国。.

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君主

フランス国王ルイ14世 君主(くんしゅ)とは、一般に、世襲により国家を治める最高位の人。伝統的に、国家で特定の一人が主権を持つ場合、その主権者が君主であり、王・帝王・天子・皇帝・きみ等ともいう。.

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大チベット区

大チベット区(だい-ちべっと-く)はチベットの全域を指ししてもちいられる地理的用語のひとつで、中国政府による発信や、中国マスコミの報道において、チベット全域を単一のチベット民族の自治的行政単位として統合するよう求めるダライラマ14世・チベット亡命政府の要求・主張を非難、批判する論調で用いられる特別の用語。 中国語の原語としては大西蔵区や大藏区などの表記がある。 用法:「そして、ダライラマの提出した「中間道路」や「大チベット区」をいかに評価するかという質問に対し、」 この用語の典拠や用例、中国においてチベット全体をさす通常の用語など、詳細は大チベットを参照。.

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中央民族大学

中央民族大学(ちゅうおうみんぞくだいがく, 中国語:Zhongyang Minzu Daxue, 英語:Minzu University of China)は中華人民共和国北京市海淀区魏公村に所在し、国家民族事務委員会が管理する国立大学で国家重点大学にも指定されている。中国の国家重点大学建設プロジェクト「985工程」、「211工程」のメンバー校でもある。中国少数民族教育の最高学府として少数民族の高級人材養成を使命とし、中国の56民族すべてを一堂に集める。在校生1.6万人(2015年11月)余りで、全日制学部学生の70%前後が少数民族となっている。「民大」と略称する。.

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中国本土

清 (Chinese Empire) の地図(1910年)。凡例によれば、濃い黄色は旧明領 (China) 、薄い黄色は中国の属領 (Dependencies of China)。旧明領の中に、雲南省と広西チワン族自治区を除いた地域は中国本土である。 中国本土(ちゅうごくほんど、中國本土、中国本土、China Proper)は、漢民族が多数派民族である歴史的な中国の領土を、中国の他の地域と対比して指す表現。日本の人文科学で「シナ」(カタカナ表記)と呼ばれる歴史的領域の、現代の姿にほぼ一致する。かつては支那、支那本部(しなほんぶ)と呼ばれていた。 歴史的に中国の内地・本土とは見なされない「外中国」地域には、新疆(東トルキスタン)、チベット、満洲(中国東北部)、内モンゴルが含まれる。中国本土の面積は、およそ390万km2とされている 。中国本土は、北方の外中国の広大な領域とは、おおむね万里の長城によって区画されている。中国本土では「省」が各地に設置され中央の直轄支配下にあったが、外中国では主に、中国皇帝に臣属する各民族の諸侯らの自治に任せる方法が取られていた。.

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中華人民共和国によるチベットの分割と再編

中華人民共和国によるチベットの分割と再編(ちゅうかじんみんきょうわこくによるちべっとのぶんかつとさいへん)では、チベットに対する中華人民共和国の行政区画を紹介する。 チベット亡命政府と中国によるチベット認識の相違の詳細についてはチベットの領域に関する認識と主張、大チベットを参照。.

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平和条約

平和条約(へいわじょうやく、peace treaty)とは戦争状態を終結させるための条約。講和条約(こうわじょうやく)、和約(わやく)ともいう。二つの敵対する勢力(通常は国家や政府)が、戦争や武力紛争の公式な終結を合意するものである。平和条約は、敵対状態の一時的な停止を合意する休戦協定(armistice)や、軍隊が武装を放棄することを合意する降伏(surrender)とは異なるものである。.

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北京市

北京市(ペキンし、、)は、中華人民共和国の首都である。 行政区画上は直轄市であり、中国の華北の中央に位置する。人口は2152万(2014年)であり、中国では上海に次ぐ第二の都市。世界有数のメガシティであり、高い影響力を有する世界都市でもある。古くは大都・燕京・北平とも呼ばれた。.

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チャムド市

チャムド市(チャムドし)は中華人民共和国のチベット自治区に位置する地級市のひとつ。自治区の東部、カム地方の西部を占める。 チベット名チャムド・サクル (chab mdo sa khul)。「チャプ(chab)」は「水(敬語)」を、「ド(mdo)」は「合流地点」を意味し、中国名はチベット名を音写したもの。日本では、チベット語に基づく「チャムド」のほか、漢字表記からの重訳である「チャンドゥ」等の表記がみられる。中国名「昌都」の音読みは「しょうと」。 四川省のカンゼ・チベット族自治州、雲南省デチェン・チベット族自治州とともに、チベットの伝統的な地方区分カム地方を構成し、その住人を「カムパ(khams pa, 康巴)」と称する。.

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チベット

チベットの旗(雪山獅子旗) チベット(英語:Tibet,,,, )は、東経77-105度、北緯27-40度に至る地域を占め、南はヒマラヤ山脈、北は崑崙山脈、東は邛崍山脈に囲まれた地域、およびこの地域に成立した国家や政権、民族、言語等に対して使用される呼称。.

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チベット十三万戸

チベット十三万戸( - じゅうさんばんこ)はチベット語で「プー・ティコル・チュクスム(bod khri skor bcu gsum)」、中央チベットもしくはチベット全土の総称として用いられるチベットの地理的区分法式の一つ。単に「十三万戸(ティコル・チュクスム)」とも。モンゴル帝国期、チベット各地の有力領主たちが万戸制に基づく「ティ・プン」(万戸長)に任じられたことに由来する呼称。.

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チベット三州

チベット三州(チベットさんしゅう)は、チベット語で「プー・チョルカ・スム(བོད་ཆོལ་ཁ་གསུམ་, bod chol kha gsum)」と言い、チベット全土(チベット高原)を以下のように三分する、チベットの地理的区分法式の一つ。単に「三州(チョルカ・スム)」とも言う。.

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チベット自治区

チベット族 チベット自治区(チベットじちく、チベット語: プー・ランキョン・ジョン, )、或いは西蔵自治区(せいぞうじちく)は、中華人民共和国(以下、「中国」)の西南部を占める区域自治区である。.

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レプコン

レプコン(れぷこん)は、チベットの歴史的地域名。アムド地方の東部に位置し、中華人民共和国による現行の行政区分では、青海省の黄南蔵族自治州(同仁(thung ren, どうじん)、チェンツァ(gcan tsha, 尖扎)、ツェコク(rtse khog, 沢庫)、ソクデ(sog sde, 河南蒙古族自治県)の4県)を中核として、隣接する青海省海東市の化隆回族自治県、循化サラール族自治県、青海省海南蔵族自治州の同徳県、甘粛省甘南蔵族自治州の西部などに相当する。 チベット仏教ニンマ派の一大拠点として名高い。 Category:チベットの地理 Category:地名 Category:青海省.

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プーと大プー

プーと大プー(プーとだいプー)は、チベット語で「プー・タン・プーチェンボ(བོད་དང་བོད་ཆེན་པོ、bod dang bod chen po)」と言い、チベット全域に対する地理的な区分方法の一つ。チベットの古典文献においてチベットの地域的な区分の様々なバリエーションが列挙・提示される場合に、その一種として登場する。 インド人がチベットを呼ぶ際、インドに近い部分を「ボータ(Bhota)」と、インドから遠い部分を「マハー・ボータ(大ボータ, Mahabhota)」と、それぞれ読んだ区分法に対応した表現であり、チベット人の間では、「インドの学者による用法」として認識されている。.

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ツァン

ツァン(チベット語: གཙང་, 転写: gtsang)は、チベットの一地方。チベット高原の南部、ヤルンツァンポ河流域に位置し、ウー地方とともに、まとめて中央チベットあるいはウー・ツァン地方などと呼ばれる。中心都市はシガツェ(gzhis ka rtse、日咯則)、ギャンツェ、サキャなど。 Category:チベット自治区の地理.

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デチェン・チベット族自治州

デチェン・チベット族自治州(デチェンチベットぞくじちしゅう、, デチェン・プーリー・ランキョン・クル)は中華人民共和国雲南省西北部に位置するチベット族自治州でありチベット族が人口の33%を占めている。チベットの伝統的な地域区分ではカム地方南部に位置する。 迪慶(てきけい)はチベット語のデチェンを音写したもので、「デ(bde)」は「安楽」を意味する名詞、「チェン(chen)」は「大いなる」を意味する形容詞で、合わせて「大いなる安楽」を意味する。.

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ダライ・ラマ14世

ダライ・ラマ14世(1935年7月6日(チベット暦5月6日) - 、在位1940年 - )は、第14代のダライ・ラマである。法名はテンジン・ギャツォ()。 1935年、アムド地方(現在の青海省)の農家に生まれ、幼名をラモ・トンドゥプといった。4歳の時にダライ・ラマ14世として認定され、1940年に即位、1951年までチベットの君主の座に就いていたが、1959年にインドへ亡命して政治難民となり、インドのダラムサラに樹立された中央チベット行政府(現「チベット人民機構」、通称「チベット亡命政府」)においてチベットの国家元首を務めている。亡命後は、法的には領する国土をもたない亡命政権の長という地位にありながら、世界中にちらばるチベット民族に対して政教両面において指導的立場にある人物と目されている。また、欧米でもチベット仏教に関心のある人や複数の著名人の支持を得、ノーベル平和賞を受賞したことでその国際的影響力はさらなる広がりを見せており、中国は別として世界的にはチベットの政治と宗教を象徴する人物とみなされるようになった。2011年には、自身の政治的権限を委譲したいという意向を表明し、政府の長から引退することになった。これを承けた亡命チベット人憲章改定案では「チベット国民の守護者にして保護者であり、チベット人のアイデンティティと統合の象徴である」と規定され、ダライ・ラマがチベットの政教両面の権威者の座に即くというダライ・ラマ5世以来の伝統を終わらせることになった。 世界的に著名な仏教指導者の一人であり、チベット仏教のゲルク派において最高位の仏教博士号(ゲシェ・ラランパ)を持つ僧侶である。歴史上のダライ・ラマはゲルク派の正式な長ではなく、ゲルク派の教勢が伸長して他派との摩擦が生じた時代に事実上の最高指導者となった学僧ゲンドゥン・ギャムツォ、そしてその転生者に認定されたスーナム・ギャムツォに始まる、ゲルク派の統合の象徴とされた転生系譜であったが、1642年以降(ダライラマ五世の時代)、モンゴルなどを含むチベット仏教圏に影響力をもつ宗教的権威とチベットを統べる政治的権威とを兼ね備えた地位となった。一方、現在のダライ・ラマである14世は亡命後にチベット人全体の政教両面の指導者とみなされるようになったが、この事態はそれまでのダライ・ラマとは異なり、ある種の政治的事情が背景にあるという意見もある(#チベット仏教内の関係参照)。また、本人は「自分は一介の比丘にすぎない」と語ることが多い。世俗的な称号としては、パリ名誉市民「ダライラマ14世を名誉市民に」『朝日新聞』2008年4月22日夕刊2頁参照。、名誉博士(ニューヨーク州立大学バッファロー校)などがある。.

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アバ・チベット族チャン族自治州

アバ・チベット族チャン族自治州(アバ・チベットぞくチャンぞくじちしゅう)は、中華人民共和国四川省西北部に位置するチベット族とチャン族の自治州。 チベット語の発音に由来する「ガパ(rnga ba)」あるいは「ガワ(ngawa)」と表記されることもあり、これらは「収穫」の意味を持つチベット語である。中国語表記の「阿壩」はその音写であり、日本で主に使用されている「アバ」は漢字表記の日本語の音読みである。州都はバルカム(馬爾康, 'bar khams)。チベット人の伝統的地理区分では、アムド地方の東南部にあたる。.

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アムド

アムド( a mdo、、拼音: Ānduō)は、チベット(チベット高原)を構成する地方のひとつで、その東北部を指す。 伝統的にチベット人とともにオイラトのホシュート部を中心とするモンゴル人や一部のテュルク系などが多数居住してきた。当地に居住するチベット人はアムド方言を用い、アムドーワ(a mdo ba)と自称した。 現在も青海省には多数のチベット仏教寺院が残り、チベット人・モンゴル人の僧侶によって守られている。.

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ウー (チベット)

ウー(チベット語: དབུས་, 転写: dbus)は、チベットの一地方。チベット高原の南部、ヤルンツァンポ河流域に位置し、ツァン地方とともに、まとめて中央チベットあるいはウー・ツァン地方などと呼ばれる。中心都市はラサ。中国による行政区分では、ラサ市(拉薩市)の一部、山南地区(ロカ)の一部などに相当。.

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ウー・ツァン

ウー・ツァン(Ü-Tsang、、ワイリー方式:Dbus-gtsang、中国語:卫藏 衛藏 Wèizàng)またはツァン・ウーは、アムドやカムと共にチベットを構成する地方の一つ。地理的にウー・ツァンはチベット文化圏の中部と西部にあたり、ヤルンツァンポ川流域を含むほか、西部地域はカイラス山山麓を囲み、北部は広大なチベット高原の大部分を占めている。ウー・ツァンの南境界はヒマラヤ山脈で定められる。現在のチベット自治区はおおよそ旧来のウー・ツァンとカム西部の領域と一致する。 ウー・ツァンはウーとツァンの二地域を統合して形成された。ウーは中央チベットに位置し、初期の歴代ダライ・ラマを擁するチベット仏教ゲルク派によって統治されていた。ツァンはギャンツェ以西に広がり、サキャ派によって統治されていた。ダライ・ラマ5世による軍事的勝利により、17世紀には両地区の政権は統合された。 ウー・ツァンはチベット民族の文化的中心地であった。歴代のダライ・ラマたちはラサにあるポタラ宮とノルブリンカからチベットを統治した。チベット仏教のもっとも神聖な寺とも言われるジョカンもラサにある。ラサで話されるチベット語方言がウー・ツァン地方のチベット人の「リングワ・フランカ」として使用されている。また、亡命チベット人の共通語の大部分もラサ方言によっている。 Category:チベット自治区の地理.

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カム

ム.

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カム (チベット)

ム (khams、、拼音: Kāng) はチベットの東部地方。元、明代中国の地理史料では、アムドとともに「吐蕃」の「朶甘」と一括して呼ばれた。現在は中華人民共和国チベット自治区東部・青海省東南部・四川省西部・雲南省北西部に分割されている。東部のダルツェンド(康定)と、西部のチャムドが中心的都市である。この地方の住民はチベット語で「カムパ(.

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ガリー

リー(མངའ་རིས་ mnga' ris)はチベット高原西部地域を漠然と指す歴史的地域名。ンガリ、ガリとも。 その領域は、時期や文献によって相違するが、西はインドのラダック地方、パキスタンのスカルドゥ地区から、東はトゥー(トェ)地方(西チベット)までを含む。中国の現行の行政区分では、新疆ウイグル自治区に配分されているアクサイチン地区(現在、インドとの帰属問題を抱える)を含む。 平均海抜4500m。古くは、シャンシュン王国、グゲ王国があり、西部チベットの中心であった。 チベット自治区の最西部を占めるガリ地区という呼称は、この名称を採用したものである。.

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ガンデンポタン

ンデンポタンは、ダライ・ラマを長とし、ラサを本拠として1642年に成立したチベットの政府。1959年、チベット動乱の際、ダライ・ラマとともにインドに脱出、現在はチベット亡命政府として十数万人からなるチベット難民組織の頂点に位置する。.

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サンスクリット

Bhujimolという書体を使って書かれており、椰子の葉からできている (貝葉)。 サンスクリット(संस्कृत、saṃskṛta、Sanskrit)は、古代インド・アーリア語に属する言語。インドなど南アジアおよび東南アジアにおいて用いられた古代語。文学、哲学、学術、宗教などの分野で広く用いられた。ヒンドゥー教、仏教、シーク教、ジャイナ教の礼拝用言語でもあり、現在もその権威は大きく、母語話者は少ないが、現代インドの22の公用語の1つである。 サンスクリットは「完成された・洗練された(言語、雅語)」を意味する。言語であることを示すべく日本ではサンスクリット語とも呼ばれる。 漢字表記の梵語(ぼんご)は、中国や日本でのサンスクリットの異称。日本では近代以前から、般若心経など、サンスクリットの原文を漢字で翻訳したものなどを通して、梵語という言葉は使われてきた。梵語は、サンスクリットの起源を造物神ブラフマン(梵天)とするインドの伝承を基にした言葉である。.

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唐蕃会盟碑

唐蕃会盟碑(とうばんかいめいひ、チベット語:、ワイリー方式:gtsug lag khang mdun gyi rdo rings、「トゥルナン寺の前の碑」の意)は、唐朝と吐蕃の間で成立した長慶会盟の内容を記載した石碑。9世紀に立てられた。 821年(唐:長慶元年、吐蕃:彝泰7年)、に唐朝の丞相である崔植、王播、杜元穎等17人と吐蕃の礼部尚書である論訥羅が長安西郊で締結された両国の講和条約に相当する長慶会盟の内容、会盟締結までの経緯、両国の使節氏名及び職位を刻字した石碑を両国の都城である長安、ラサ(邏些)及び、国境の日月山(ニンダーラ)の3カ所建てられた石碑の一つ。長安及び日月山のものは失われ、ラサのトゥルナン寺(ジョカン・大昭寺)の門前に立てられた碑のみが現存し、唐蕃会盟碑と称される。ただしこの碑も四方を石塀に囲まれ、近づいて直接碑文を確認することはできない。 東面はチベット語により両国による会盟締結の経緯が、西面は漢文とチベット語で会盟の内容として国境の確定、使節往来の際の迎接の手順、犯罪者の引き渡し、両国が紛争時に武力を用いない内容等が、南面は漢文とチベット語で会盟に参加した唐朝専使一覧が、北面は漢文とチベット語で会盟に参加した吐蕃専使一覧が記されている。条約では国号が「大唐」と「大蕃」、君主名が「文武孝徳皇帝」と「聖神賛普」というように両国での正式名を使い、文言で上下をつけぬよう配慮されている。さらに二国の関係を「蕃漢二国」と対等に表記し、両国の年号まで併記するなど、可能なかぎり唐と吐蕃を並び立たせる表現を採用しているのが特徴である。 この碑文で両国の対等な関係が強調された背景には、当時の国際情勢がある。十年におよぶ安史の乱で疲弊した唐にかわって北方の回鶻および南西の吐蕃が台頭をはじめ、763年には吐蕃軍が長安に入城することもあった。特に779年以降吐蕃対回鶻・唐連合の時代が続いたが、この東アジア三大勢力の対立を終わらせたのが821年の長慶会盟である。上述のとおり、歴史はあるが当時は三勢力のなかでもっとも弱体化していた唐と国威盛んな吐蕃とが和平を結ぶには、両者が対等であることを示す必要があった。 このように、唐蕃会盟碑は唐が実質的に吐蕃の下に立つことで成立した会盟を示すものであり、また中国とチベットの二か国間に走る国境線の画定も明記されている。中国政府はこの碑文を『唐と吐蕃が統一国家建設にむけて堅固な基盤を築いた』と解釈し、逆にチベット侵攻とそれに伴う十七か条協定(つまり中華王朝の後継者による中国とチベットの統一)の根拠としている。.

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全国人民代表大会

全国人民代表大会(ぜんこくじんみんだいひょうたいかい、中华人民共和国全国人民代表大会, )は、中華人民共和国の一院制議会。憲法上、国家の最高権力機関および立法機関として位置づけられている。日本では略称を全人代と表記する場合が多い。中国では全国人大、人大と略される。.

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元史

『元史』(げんし)は、中国元王朝について書かれた歴史書(正史)。二十四史の一。編纂者は宋濂・高啓など。本紀47、表8、志58、列伝97の計210巻からなる紀伝体。成立は明の1369年(洪武3年)。収録年代はモンゴル帝国チンギス・カンの1206年から順帝トゴン・テムルの1367年まで。拙速な編纂により、二十四史の中でも最も評判が悪く、20世紀になって『新元史』が編纂されることになった。.

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国号

国号(こくごう)とは、主に国の称号、あるいは名称のこと。2通りの意味において使用されており、1つは「帝国」、「王国」、「大公国」、「公国」、「首長国(土侯国)」、「共和国(民国)」などの統治体制(政体)を表す部分を含めた国の名称を指す場合と、もう1つは政体を除いた国の名称を「国号」ということがある。 政体を含めない用例としては「韓国ノ国号ヲ改メ朝鮮ト称スルノ件」(明治43年勅令第318号)がある。同勅令は「韓国ノ国号ハ之ヲ改メ爾今朝鮮ト称ス」としており、政体(当時の韓国は帝政を布いていた帝国)を含めないで国号という語を用いている。なお、韓国併合ニ関スル条約(明治43年条約第4号)では互いの国名を「日本国・韓国」と表記しているが、それを遡る日韓議定書(1904年2月23日)では互いの国名を「大日本帝国・大韓帝国」としている。.

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国家民族事務委員会

中華人民共和国国家民族事務委員会(ちゅうかじんみんきょうわこくこっかみんぞくじむいいんかい)は、中華人民共和国国務院に所属し、中国共産党の民族政策により国内少数民族の権益保護を目的とする国家委員会である。ウランフなど少数民族の高官が主任を務めてきた。中国では民族識別工作によって、チワン族、ウイグル族、モンゴル族、回族、苗族など55の少数民族が認定され、変ったところでは主に新疆に住居するオロス族(ロシア人)や台湾の高山族も含まれる。.

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四川省

三星堆遺跡の青銅仮面 四川省の伝統芸能『川劇』 四川省(しせんしょう、、、)は、中華人民共和国西南部に位置する省。略称は川あるいは蜀。省都は成都。西北部はチベットの伝統的な地方区分でいうアムド地方の東南部、西部はカムの東部にあたる。また、東部の重慶は直轄市として1997年に分離した。.

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甘南チベット族自治州

南チベット族自治州(かんなんチベットぞくじちしゅう)は中華人民共和国甘粛省に位置する自治州の一つ。甘粛省の西南隅を占める。中国名をそのまま音読みした「甘南(かんなん)」のほか、チベット語にもとづく「ケンロ」、「ケンホ」、ローマ字転写を日本式に発音した「カンロ」などの表記例が見られる。チベットの伝統的な地理区分ではアムド地方の東部に相当する。 チベット名: ケンロ・プーリー・ランキョンクル (ཀན་ལྷོ་བོད་རིགས་རང་སྐྱོང་ཁུལ་, kan lho bod rigs rang skyong khul)。「ケンロ (kan lho)」は、中国名「甘南」を逐字訳した名称で、「ケン」は甘粛の「甘」をそのまま音写したもの、「ロ」とは「南」を意味する。.

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甘粛省

粛省(かんしゅくしょう、中国語:甘肃省、拼音:Gānsù Shěng、英語:Gansu)は、中華人民共和国北西部にある省級行政区である。省都は蘭州市。.

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青海省

青海省(せいかいしょう、中国語:青海省、拼音:Qīnghǎi Shěng、英語:Qinghai、チベット語: མཚོ་སྔོན་ཞིང་ཆེན།、 モンゴル語:)は、中華人民共和国の西部に位置する省のひとつ。省都は西寧市。1928年に青海省成立。省名は、省内に国内最大の湖沼である青海湖(チベット名ツォティショギャルモ、モンゴル名フフノール)があることにちなむ。.

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西蔵

西蔵(せいぞう/シーツァンXīzàng)は歴史的チベットのうち、アムドやカムを除く、西南部2分の1程度を占める部分に対する中国語による呼称として成立した、地域概念の用語。元代より康熙中期ごろまで用いられた烏斯蔵に代わり、康熙末年ごろより使用され始めた地域概念である。その後、中国以外の漢字圏でこの表記がとりいれられ、あるいは中国国外在住の中国語話者たちが発信するチベット関連の情報において、中国における概念・用法にあわせてチベットの一部として、もしくは中国における概念・用法とは別個に全チベットの総称として、使用されるようになった。本来の、および派生した概念・用法の主要なものは、以下のとおり。.

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西蔵地方政府

西蔵地方政府とは、中国において、チベットが中国の一部分であるとの立場から、.

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自治区

自治区(じちく)は、.

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長慶会盟

長慶会盟(ちょうけいかいめい)は821年(唐:長慶元年、吐蕃:彝泰7年)に中国の唐朝とチベットの吐蕃の間に結ばれた会盟。会盟の内容から甥舅和盟とも証される。.

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雲南省

雲南省(うんなんしょう、中国語:云南省、拼音:Yúnnán Shěng、英語:Yunnan)は、中華人民共和国西南部に位置する省。略称は滇(てん)。省都は昆明市。省名は雲嶺(四川省との境の山地)の南にあることに由来する。.

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李登輝

李 登輝(り とうき、1923年(大正12年)1月15日 - )は、中華民国の政治家・農業経済学者。元・中華民国総統(1988年 - 2000年)。コーネル大学農業経済学博士、拓殖大学名誉博士。信仰する宗教はプロテスタント・長老派。日本統治時代に使用していた名は岩里 政男(いわさと まさお)。 蒋経国の死後、その後継者として中華民国の歴史上初めての民選総統となった。中華民国総統、中国国民党主席に就任し、中華民国の本土化を推進した。中華民国が掲げ続けてきた「反攻大陸」のスローガンを下ろし、中華人民共和国が中国大陸を有効に支配していることを認めると同時に、台湾・澎湖・金門・馬祖には中華民国という別の国家が存在するという「中華民国在台湾」を主張、その後さらにこの国のことを「中華民国台湾」と呼ぶようになった。北京政府との内戦状態の一方的終結宣言は、内戦を理由に存在し続けてきた治安法「動員戡乱時条款」を廃止させ、政治の民主化を推進させた。 総統職と国民党主席を退任した後は、「台湾」と名前の付いた初めての政党台湾団結連盟を自ら中心となって結成し、台湾独立運動・泛緑連盟に影響を与え続けている。.

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明史

『明史』(みんし、拼音:Míngshǐ)は、中国清代に編纂された歴史書。二十四史の一つ。「本紀」24巻、「列伝」220巻、「表」13巻、「志」75巻、「目録」4巻の計332巻から校正される紀伝体で、明朝の成立から滅亡までについて記述される。編纂開始は順治年間、完成は1739年(乾隆4年)であるが、大部分は康熙年間に編纂されている。.

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