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夏の妹

索引 夏の妹

『夏の妹』(なつのいもうと)は、1972年に公開された、大島渚監督の日本映画である。96分のカラー作品。創造社、日本ATGの提携制作、日本ATG配給。この映画の完成後、大島渚は創造社を解散し、国際的な映画製作へ踏み出してゆく。.

26 関係: 吉岡康弘大島渚実相寺昭雄宣弘社小山明子小松方正佐々木守佐藤慶りりィシルバー仮面創造社石橋正次田村孟葛井欣士郎栗田ひろみ武満徹殿山泰司沖縄県戸浦六宏映画監督浦岡敬一日本日本アート・シアター・ギルド日本語日本映画1972年

吉岡康弘

吉岡 康弘(よしおか やすひろ、1934年 - 2002年4月17日)は、岡山県出身の映画撮影監督、写真家。大島渚監督の「絞死刑」や勅使河原宏監督作品などで撮影監督を担当した。 1961年、読売アンデパンダン展に出品した写真作品が「ワイセツ」との理由で開催4日目にして撤去された(『獣愛』参照)。吉岡康弘はそれに抗議するかたちで、その撤去された作品を主にした写真集『吉岡康弘作品集』を自費出版した(1962年)。DM方式で販売されたがほとんど売れず、お茶の水駅近くの喫茶店ジローで写真展及び写真集の即売会を催した。しかし即座にワイセツ物陳列罪で、アンデパンダン展同様の憂き目となってしまった。中原佑介、滝口修造、黛敏郎、安部公房、勅使河原宏、石元泰博によるテキストが寄せられている(書肆小笠原のサイト参照)。 1972年、平岡正明主宰「犯罪者同盟」機関誌「赤い風船あるいは牝狼の夜』(宮原安春編、前夜社)に収録した吉岡康弘撮影の無修正ヌード写真が問題となり、猥褻図画頒布の容疑で警視庁から指名手配を受けたが、不起訴。 「工藤哲巳・吉岡康弘 岡山の生んだ異才とその周辺」展が開催された(1975年、岡山)。.

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大島渚

大島 渚(おおしま なぎさ、1932年3月31日 - 2013年1月15日)は、日本の映画監督、タレント、俳優。.

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実相寺昭雄

実相寺 昭雄(じっそうじ あきお、1937年3月29日 - 2006年11月29日)は、映画監督、演出家、脚本家、小説家。東京藝術大学名誉教授。妻は原知佐子。 現在までのところ、デビュー作(長編映画第1作)でFIAPF公認の国際映画祭(ロカルノ国際映画祭)の最高賞を獲得した唯一の日本人監督である。 海外では非常に多く見られる、映画とオペラを並行して手掛けるタイプの演出家としても日本で唯一であった。.

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宣弘社

宣弘社(せんこうしゃ)は、1950年代から1970年代にかけて日本のテレビ映画の制作を手がけていた制作プロダクションで、現在はその著作権管理(ライツ)を事業とする企業である。もともと、広告代理店として創業したが、2002年にこの部門は別会社「サン宣弘社(現:電通アドギア)」に譲渡している。.

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小山明子

小山 明子(こやま あきこ、1935年(昭和10年)1月27日 - ) は、日本の女優。千葉県生まれで神奈川県横浜市鶴見区育ち。戸籍名は大島 明子(おおしま あきこ)。旧姓・臼井。夫は映画監督の大島渚。叔父は社会運動史研究者の小山弘健。.

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小松方正

小松 方正(こまつ ほうせい、1926年〈大正15年〉11月4日 - 2003年〈平成15年〉7月11日)は、日本の俳優・声優。本名は小松 豊成(こまつ とよしげ)。.

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佐々木守

佐々木 守(ささき まもる、1936年9月13日 - 2006年2月24日)は日本の脚本家、放送作家、漫画原作者。.

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佐藤慶

佐藤 慶(さとう けい、1928年12月21日 - 2010年5月2日)は、日本の俳優、ナレーター。福島県会津若松市生まれ。本名は佐藤 慶之助(さとう けいのすけ)。.

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りりィ

りりィ(Lily、1952年2月17日 - 2016年11月11日)は、日本のシンガーソングライター・女優。本名、鎌田 小恵子(かまた さえこ)『週刊朝日』1982年8月6日号、42-46頁。福岡県出身。アルファーエージェンシー所属。音楽業のほか女優としても活躍し、ドラマ・映画・CMに多数出演した。 日本の女性シンガーソングライターとして最初期にデビュー、活動し始めた先駆者である。 遺作(映画)は『彼らが本気で編むときは』、最後の公開作品は『追憶』。いずれも2017年公開。 長男は、ロックバンド・FUZZY CONTROLのJUON。DREAMS COME TRUEの吉田美和は義娘にあたる。.

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シルバー仮面

『シルバー仮面』(シルバーかめん、Silver Kamen)は、1971年(昭和46年)11月28日から1972年(昭和47年)5月21日まで、宣弘社と日本現代企画の製作により、TBS系で毎週日曜19:00 - 19:30 (JST) のタケダアワーにて全26話が放送された特撮テレビ番組の題名、およびその劇中に登場する変身ヒーローの名称である。第11話より『シルバー仮面ジャイアント』に改題された。.

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創造社

創造社(そうぞうしゃ)は、1921年6月から7月の間に、日本で成立した中国現代文学の社団である。日本に留学していた郭沫若、成仿吾、郁達夫、張資平、田漢、鄭伯奇などの中国人留学生らによって共同創建された。太陽社とともに、当時、中国の二大革命文学団体の一つであった。 創造社は成立後、『創造社叢書』を編集出版し郭沫若の詩歌『女神』などを掲載した。翌年、『創造季刊』の発行を開始し、1923年には、『創造週報』、さらに、『中華新報』の文学副刊である『創造日』を編集出版している。 創造社は、当初から文学研究会に対抗した。前期には、天才を尊重し、自我の表現を芸術の趣旨となし、作品は、早期ロマン主義、耽美主義の特徴を有していた。中国の新文学活動に相当の促進作用をもたらした。創造社が核心となって形成した詩歌の流れは、早期ロマン主義と称された。 後期には、日本から帰国した馮乃超、王独清、穆木天、彭康などの新会員が加入した。 1925年の五・三〇事件ごろから革命文学を唱えだした。 1926年、創造社は出版部を上海市閘北宝山路三徳里A11号に設けた。編集部が出版した『A11』は、この住所によったものである。1928年には、老靶子路(現在の武進路)518号に移転した。創造社出版部は、『創造月刊』、『A11』週刊、『創造社叢書』など10余種の刊行物や叢書を出版した。 1929年2月、創造社と出版部は、国民政府当局によって閉鎖された。.

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石橋正次

石橋 正次(いしばし しょうじ、本名:いしばし まさつぐ、1948年11月12日 - )は、日本の歌手・俳優。ハニープロダクション所属。.

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田村孟

村 孟(たむら つとむ、1933年1月5日 - 1997年3月28日)は日本の脚本家、映画監督。青木 八束(あおき やつか)名義で小説家としても活動した。.

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葛井欣士郎

葛井 欣士郎(くずい きんしろう、1925年11月28日 - 2014年4月30日)は、映画館経営者、映画・演劇プロデューサー。日本アート・シアター・ギルド(ATG)の主要な映画館「アートシアター新宿」総支配人として、また、ATG映画の製作者として知られる。妻は村井志摩子。.

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栗田ひろみ

栗田 ひろみ(くりた ひろみ、1957年9月2日 - )は、日本の女優、タレント。 本名、栗田 裕美(読み同じ)。.

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武満徹

武満 徹(たけみつ とおる、1930年10月8日 - 1996年2月20日)は、日本の作曲家。 ほとんど独学で音楽を学んだが、若手芸術家集団「実験工房」に所属し、映画やテレビなどで幅広く前衛的な音楽活動を展開。和楽器を取り入れた『ノヴェンバー・ステップス』によって、日本を代表する現代音楽家となった。.

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殿山泰司

殿山 泰司(とのやま たいじ、1915年(大正4年)10月17日 - 1989年(平成元年)4月30日)は、日本の俳優、エッセイスト。 兵庫県神戸市出身。中央区立泰明小学校、東京府立第三商業学校卒業。終戦後の日本映画界において独特の風貌で名脇役として活躍した。ジャズとミステリーをこよなく愛し、趣味を綴った著書も多数残している。また、波乱万丈なその人生は、映画化もされている。.

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沖縄県

沖縄県(おきなわけん)は、日本で最も西に位置する県。沖縄本島・宮古島・石垣島など多くの島々から構成される。県庁所在地は那覇市。.

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戸浦六宏

戸浦 六宏(とうら ろっこう、1930年4月30日 - 1993年3月25日)は、日本の俳優。大阪府大阪市出身。本名は東良 睦宏(とうら むつひろ)。 代表作に『薮の中の黒猫』、『竹山ひとり旅』、『沈黙』、『とべない沈黙』など。 ライター・編集者・AV監督の東良美季は息子。.

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映画監督

映画監督(えいがかんとく、film director)とは、映画の映像作成を統括する責任者で、テレビではディレクターとも呼ぶ。一般に、製作を担当する製作者(プロデューサー)に対して、その映画のトップ2となる。 テレビ番組やビデオ作品などについても「監督」・「ディレクター」という言葉が用いられるが、「映画監督」は、劇場用映画(劇映画)や、フィルムで撮影されたまとまったドキュメンタリー作品の監督のみを意味することがある。商業映画であれば何百という人間が動くが、「映画は監督のモノ」と映画評論家に言われるほどその立場は重要で、程度の違いこそあれ制作現場では作品創作全体の統一のための権力を有しているが、映画は創作者集団による総合芸術であり、芸術としての映画を厳密公正に研究・分析する場合「制作者」は俳優やプロデューサーや監督以外にも制作創作スタッフ全体がその対象となる。 「映画監督」と「(テレビ番組やビデオ作品の)監督」の職務内容には、規模の違いこそあれ大きな差はないため、本稿では両者をまとめて扱う。.

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浦岡敬一

浦岡 敬一(うらおか けいいち、1930年5月4日 - 2008年11月24日)は日本の編集技師。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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日本アート・シアター・ギルド

日本アート・シアター・ギルド(にほんアート・シアター・ギルド)は、1961年から1980年代にかけて活動した日本の映画会社。ATG(エーティージー)の略称で示されることも多い。 他の映画会社とは一線を画す非商業主義的な芸術作品を製作・配給し、日本の映画史に多大な影響を与えた。また、後期には若手監督を積極的に採用し、後の日本映画界を担う人物を育成した。 また、ATGは公開作品ごとに映画雑誌『アートシアター』を発行した。本誌は映画の完全シナリオと映画評論などから構成され、上映館のみで販売された。.

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日本語

日本語(にほんご、にっぽんご「にっぽんご」を見出し語に立てている国語辞典は日本国語大辞典など少数にとどまる。)は、主に日本国内や日本人同士の間で使用されている言語である。 日本は法令によって公用語を規定していないが、法令その他の公用文は全て日本語で記述され、各種法令において日本語を用いることが規定され、学校教育においては「国語」として学習を課されるなど、事実上、唯一の公用語となっている。 使用人口について正確な統計はないが、日本国内の人口、および日本国外に住む日本人や日系人、日本がかつて統治した地域の一部住民など、約1億3千万人以上と考えられている。統計によって前後する場合もあるが、この数は世界の母語話者数で上位10位以内に入る人数である。 日本で生まれ育ったほとんどの人は、日本語を母語とする多くの場合、外国籍であっても日本で生まれ育てば日本語が一番話しやすい。しかし日本語以外を母語として育つ場合もあり、また琉球語を日本語と別の言語とする立場を採る考え方などもあるため、一概に「全て」と言い切れるわけではない。。日本語の文法体系や音韻体系を反映する手話として日本語対応手話がある。 2017年4月現在、インターネット上の言語使用者数は、英語、中国語、スペイン語、アラビア語、ポルトガル語、マレー語に次いで7番目に多い。.

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日本映画

日本映画(にほんえいが)は、一般的に日本国内の映画館などで公開されることを前提として、日本国籍を持つ者、あるいは日本の国内法に基づく法人が出資(製作)している映画を指すが、詳細な定義は識者によって異なる。邦画(ほうが)とも呼称される。また、時代によって活動写真、キネマ、シネマ等とも呼ばれる。 トーマス・エジソンによって1891年に発明されたキネトスコープが世界的な映画の起源となるが、それを用いて日本で最初に上映がなされたのは1896年11月で、当時の西洋技術の最先端である映画が到来した年にあたる。日本人による映画撮影としては1898年の浅野四郎による短編映画『化け地蔵』『死人の蘇生』に始まる。ここから現代に至るまで日本映画は日本文化の影響を強く受けつつ、独自の発展を遂げ、日本を代表する大衆娯楽のひとつとして位置付けられていった。 日本映画をジャンルとして明確に定義することは困難であり、「日本人監督によって、日本人の俳優を用いて、日本で撮影し、日本で上映する日本語の映画」という条件のもと、そのいくつかが当てはまるものを一般に日本映画と呼称している。このため、『ホノカアボーイ』などの総海外ロケの映画や、フランスの資本を基に黒澤明や大島渚が撮影した映画、崔洋一、李相日などの在日韓国・朝鮮人監督による映画など、全ての条件を満たしていなくても日本映画と認知されるものもある。 外国映画(洋画)に対する日本の映画という意味での呼称は存在するが、市場のボーダレス化等、製作、配給の両面において多国籍化が一般化している今日において、ジャンルとしての厳密な定義はほぼ無意味なものとなりつつある。.

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1972年

協定世界時による計測では、この年は(閏年で)閏秒による秒の追加が年内に2度あり、過去最も長かった年である。.

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