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坪内逍遥

索引 坪内逍遥

坪内 逍遥(つぼうち しょうよう、旧字体:坪內逍遙、1859年6月22日(安政6年5月22日) - 1935年(昭和10年)2月28日)は、日本の小説家、評論家、翻訳家、劇作家。小説家としては主に明治時代に活躍した。代表作に『小説神髄』『当世書生気質』およびシェイクスピア全集の翻訳があり、近代日本文学の成立や演劇改良運動に大きな影響を与えた。本名は坪内 雄蔵(つぼうち ゆうぞう)。別号に「朧ろ月夜に如く(しく)ものぞなき」の古歌にちなんだ春のやおぼろ(春廼屋朧)、春のや主人など。俳句も詠んだ。.

134 関係: 加茂郡劇作家お夏清十郎古希双柿舎名古屋市吉江喬松坪内士行坪内ミキ子坪内鋭雄坪内逍遙大賞夏目漱石大野屋惣八太田宿 (中山道)学士宝塚歌劇団宝塚歌劇団1期生宝塚歌劇団卒業生安政小説小説家小説神髄小説総論尾張藩岐阜県岩波書店島村抱月工藤寛正中央公論新社中公文庫中村光夫市島謙吉二葉亭四迷代官役の行者当世書生気質徳富蘇峰ハムレットヘンリック・イプセン嵯峨の屋おむろインターネットアーカイブイギリス文学ウィリアム・シェイクスピアウォルター・スコットジュリアス・シーザー (シェイクスピア)写実主義国立国会図書館国民之友石渡敏一神田神保町...第一高等学校 (旧制)第一書房築地小劇場美濃加茂市美濃国翻訳熱海市熱海市立図書館物語倶楽部遊女草双紙静岡県風俗飯塚くに評論家読本高田早苗鹿島清兵衛鹿嶋ゑつ近松門左衛門開成学校野口英世雲井浪子柳田泉東京大学 (1877-1886)東京大学大学院人文社会系研究科・文学部東京専門学校 (旧制)松井須磨子松本清張根津遊廓桐一葉河竹繁俊河竹黙阿弥湖上の美人服部誠一朝日賞戯作戯曲戒名明治明治維新春陽堂書店昭和浮雲 (二葉亭四迷の小説)新劇新舞踊新歌舞伎文学文芸協会日露戦争日本日本の近現代文学史日本語早稲田大学早稲田大学坪内博士記念演劇博物館早稲田大学坪内逍遙大賞早稲田文学感冒愛知県立旭丘高等学校批評手代曲亭馬琴1859年1876年1880年1883年1884年1885年1886年1889年1890年1891年1897年1906年1911年1913年1916年1922年1924年1932年1935年2月28日5月22日 (旧暦)6月22日 インデックスを展開 (84 もっと) »

加茂郡

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劇作家

劇作家(playwright, dramatist)は、演劇の上演のために書かれる戯曲の作者。戯曲家と呼ばれることもある。日本においては演出家を兼ねている者が多い。現在までその作品が残っている最も古い劇作家としては、紀元前5世紀頃のアイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスなどの古代ギリシアにおける悲劇作家達が挙げられる。その作品である戯曲は、通常は俳優によって観客の前で演劇として上演するために執筆される。戯曲の中には、上演を目的とせず読まれることを目的に書かれたレーゼドラマや、戯曲の形式をとってはいるが上演は意図していない作品もある。 「プレイライト」という発音になる英語の playwright は、「play(プレイ.

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お夏清十郎

『お夏清十郎』(おなつ せいじゅうろう)は、寛文2年 (1662年) に播州姫路で実際に起きた駆落ち事件を題材にした一連の文芸作品の通称・総称。『お夏狂乱』(おなつ きょうらん)ともいう。.

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古希

古希(こき。原文の表記は古稀。「稀」は常用漢字にはないので現在では「古希」と書くことが多い)とは、70歳のこと。 唐の詩人杜甫の詩・曲江(きょっこう)「酒債は尋常行く処に有り 人生七十古来稀なり」(酒代のつけは私が普通行く所には、どこにでもある。(しかし)七十年生きる人は古くから稀である)に由来する。 還暦は数えの61歳(≒満60歳)であるが、古希は数えの70歳(≒満69歳)のこと。古希は長寿の祝いとされている。お祝いの色は、喜寿祝いと同じく、紫色。 長寿の祝いには、他に、還暦(かんれき)、喜寿(きじゅ)、盤寿(ばんじゅ)、傘寿(さんじゅ)、米寿(べいじゅ)、卆寿(そつじゅ)、白寿(はくじゅ)、百寿(ひゃくじゅ)などがある。 清の乾隆帝は「古稀天子」と自ら称し印判などにも用いた。中国史上古稀を迎えた天子は乾隆帝の他は梁の武帝、南宋の高宗などわずかしかおらず、統一王朝の皇帝となると空前といってよかった。.

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双柿舎

双柿舎(そうししゃ)は、静岡県熱海市水口町にある建築物。坪内逍遥が1920年(大正9年)から死去する1935年(昭和10年)までの晩年を過ごした。庭にカキの木が2本あったことから、早稲田大学での同僚である会津八一により「双柿舎」と命名された。 逍遥の没後は早大に寄贈され、現在も大学の管理下にある。.

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名古屋市

名古屋市(なごやし)は愛知県西部(尾張地方)にある市。政令指定都市であり、同県の県庁所在地である。全16区から構成される。.

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吉江喬松

吉江 喬松(よしえ たかまつ、1880年9月5日 - 1940年3月26日)は、フランス文学者、詩人、作家、評論家、早稲田大学教授。号は孤雁。 ジャン・ラシーヌなど古典悲劇を専門とした。農民文芸運動の提唱者のひとり。.

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坪内士行

坪内 士行(つぼうち しこう、1887年8月16日 - 1986年3月19日)は、日本の演劇評論家、早稲田大学教授、戯曲家、振付師。女優・坪内ミキ子の父。.

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坪内ミキ子

坪内 ミキ子(つぼうち みきこ、1940年4月12日 - )は、東京府(現:東京都)出身の女優・タレント。本名、桜井美紀子。.

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坪内鋭雄

坪内 鋭雄(つぼうち えつゆう、1878年6月12日 - 1904年7月24日)は、日本の作家、教育者。坪内逍遥の甥で本名は鋭雄(としお)。別号は坪内孤景。 日露戦争に従軍し、大石橋の戦いで戦死した。.

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坪内逍遙大賞

坪内逍遙大賞(つぼうちしょうようたいしょう)は、美濃加茂市と早稲田大学が主催する賞である。1994年に美濃加茂市が市制40周年を記念して設立し、2007年に美濃加茂市は早稲田大学と文化交流協定を結び、以来美濃加茂市と早稲田大学が毎年交代で開催している。.

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夏目漱石

夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1916年(大正5年)12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者。本名、夏目 金之助(なつめ きんのすけ)。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。俳号は愚陀仏。 大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝国大学(後の東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めた後、イギリスへ留学。帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、「吾輩は猫である」を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になり「坊っちゃん」「倫敦塔」などを書く。 その後朝日新聞社に入社し、「虞美人草」「三四郎」などを掲載。当初は余裕派と呼ばれた。「修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆。「則天去私(そくてんきょし)」の境地に達したといわれる。晩年は胃潰瘍に悩まされ、「明暗」が絶筆となった。 夏目漱石誕生之地碑.

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大野屋惣八

大野屋惣八(おおのやそうはち)は、江戸時代後期から明治時代にかけて名古屋長島町(現在の錦二丁目)に存在した貸本屋・出版業、またその主人。通称、大惣もしくは大総(だいそう)。.

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太田宿 (中山道)

太田宿(おおたじゅく)は中山道51番目の宿場(→中山道六十九次)。美濃国加茂郡太田村(現・岐阜県美濃加茂市)に存在した。 太田の渡しは、中山道の難所の1つであった。現在も宿場町の面影を残している。.

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学士

学士(がくし、Bachelor)は、「学問を行う者」を原義とする語で、次のような多様な意味がある。.

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宝塚歌劇団

宝塚歌劇団のロゴ 1930年8月・月組公演:レビュウ「パリ・ゼット」出演:門田芦子、巽寿美子、三浦時子、橘薫、天津乙女 宝塚歌劇団の劇場群、宝塚音楽学校 開演前の宝塚大劇場客席 宝塚歌劇団(たからづかかげきだん、Takarazuka Revue Company)は、兵庫県宝塚市に本拠地を置く歌劇団。 阪急電鉄の一部門であり、阪急阪神東宝グループのエンターテイメント・コミュニケーション事業運営であることから、運営は阪急の直営であり、阪急電鉄創遊事業本部歌劇事業部が行っている。このため、歌劇団員は阪急電鉄の従業員となっている。 理事長は小川友次。.

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宝塚歌劇団1期生

宝塚歌劇団1期生(たからづかかげきだん-きせい)は阪急電鉄の創始者小林一三が1913年7月に結成した寶塚唱歌隊が前身で、初舞台の公演演目は、高峰妙子、雲井浪子、外山咲子、雄島艶子、八十島楫子、由良道子、関守須磨子らは1914年第1回記念公演『ドンブラコ』で、若菜君子は1915年春季公演の『雛祭』『寳塚歌劇少女の生活』河原蓬著、育文館書店、1922年11月25日である。.

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宝塚歌劇団卒業生

宝塚歌劇団卒業生(たからづかかげきだんそつぎょうせい)は、宝塚歌劇団を退団した生徒(団員)のことを示す。 宝塚歌劇団の主な卒業生は次のとおり(項目ごとに入団年度順)。.

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安政

安政(あんせい)は日本の元号の一つ。嘉永の後、万延の前。1855年嘉永から安政への改元が行なわれたのはグレゴリオ暦1855年1月15日であり、和暦が新年を迎えないうちに西暦だけが新年を迎えている期間であった。安政元年は西暦1855年1月15日から同2月16日までの短い期間であるため、和暦と西暦を一対一で対応させようとする場合、嘉永7年=安政元年=西暦1854年、安政2年=西暦1855年となって実際とはずれが生じる。から1860年までの期間を指す。この時代の天皇は、孝明天皇。江戸幕府将軍は、徳川家定、徳川家茂。.

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小説

小説(しょうせつ、fiction(総称)、novel(長編)、story(短編)、roman(長編)、nouvelle(中編)、conte(短編))とは、文学の形式の一つである。.

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小説家

小説家(しょうせつか)とは、継続的に小説作品の著述・発表を行っている者。 「小説家」と「小説の著者」とを明確に区別する基準は無い。一般的に小説家とは、職業として執筆した作品によって収入を得ている者をはじめ、兼業で、他の職業と両立して執筆している場合も「小説家」と呼ぶ場合が多い。小説による収入は少なく、講演活動や小説以外の著述で生計を維持している著作家の場合でも、作品が広く知られているために一般に小説家と見なされているケースも多いが、作品数が少ないか作品が広く出版されていない場合、小説家と見なされないのが普通である。 特に、著述を主たる職業とする者を「職業作家」・あるいは「プロの小説家」などと呼ぶこともある。一方で「アマチュア小説家」という言葉も存在するが、アマチュアである小説家の意で使われるだけでなく、著述活動が小説家と呼ぶには足りない者、という意味合いで使われることも多い。石原慎太郎など、小説が広く出版されて固定したファンもいる状況でありながら、正業として別に職業を持っている作家・いわゆる「兼業作家」もまた多く存在する。特に出版不況のもとでは、商業文芸雑誌に作品が掲載されても、それが単行本とならないケースも多く存在するため、有名人のゴーストライターを務めたり、兼業(文筆業とは限らない)を強いられるケースが少なくない。また、文学作家の中でも、大家・大作家のことを特に文豪と呼ぶこともある。.

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小説神髄

『小説神髄』(しょうせつしんずい)は、坪内逍遥の文芸評論。1885年 - 1886年(明治18年 - 19年)に松林堂から刊行。 上巻において、小説で大切なことはまず人情を描くことで、次に世の中の様子や風俗の描写であると論じ、下巻において具体的な方法を示す。 明治に入ってからの日本文学は、江戸の戯作の流れを汲む戯作文学か、西洋の思想・風俗を伝え啓蒙するための政治小説が中心だったが、『小説神髄』は道徳や功利主義的な面を文学から排して客観描写につとめるべきだと述べ、心理的写実主義を主張することで日本の近代文学の誕生に大きく寄与した。.

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小説総論

『小説総論』(しょうせつそうろん)は、二葉亭四迷の文芸評論。1886年(明治19年)、「中央学術雑誌」に発表。 坪内逍遥に影響を受け、さらに批判的に内容を深め『小説神髄』の欠点を補う。非常に短いが日本の近代小説成立の上で『小説神髄』と並んで重要な評論。 形(フォーム)と意(アイデア)の2つの用語を使って小説を整理した。小説は浮世の様々な形を描くことで意を直接に表現すべきものであるとしてリアリズムを主張し、作為的に善悪の二極を設定する勧善懲悪の物語を批判した。また、いたずらに形のみを描いて意を描けていない小説は下手であるとして、形に対する意の優位を示している。.

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尾張藩

尾張名古屋藩屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 名古屋城(1979年) 尾張藩(おわりはん)は、愛知県西部にあって尾張一国と美濃、三河及び信濃(木曽の山林)の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、明治の初めには「名古屋藩」とも呼ばれた。藩主は尾張徳川家。表石高は61万9500石。.

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岐阜県

岐阜県(ぎふけん)は、日本の中部地方に位置する県で内陸県の一つ。 日本の人口重心中央に位置し、その地形は変化に富んでいる。県庁所在地は岐阜市。.

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岩波書店

株式会社岩波書店(いわなみしょてん、Iwanami Shoten, Publishers. )は、日本の出版社。.

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島村抱月

島村 抱月(しまむら ほうげつ、1871年2月28日(明治4年1月10日)- 1918年(大正7年)11月5日)は、日本の文芸評論家、演出家、劇作家、小説家、詩人。新劇運動の先駆けの一人として知られる。旧姓は佐々山、幼名は瀧太郎。.

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工藤寛正

工藤 寛正(くどう ひろまさ、1941年 - )は、歴史家、随筆家。 神奈川県川崎市生まれ。筆名・岩井寛。明治大学文学部史学科卒。雑誌・PR誌編集に携わり、雑誌『歴史と旅』(秋田書店)編集長を経て文筆業に。歌誌『藻』同人。.

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中央公論新社

株式会社中央公論新社(ちゅうおうこうろんしんしゃ)は、日本の出版社である。読売新聞グループ本社の傘下。略称は中公(ちゅうこう)。 本項では、旧法人の株式会社中央公論社(ちゅうおうこうろんしゃ)についても述べる。.

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中公文庫

中公文庫(ちゅうこうぶんこ)は、株式会社中央公論新社(読売新聞グループ)が発行している文庫レーベル。.

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中村光夫

中村 光夫(なかむら みつお、1911年(明治44年)2月5日 - 1988年(昭和63年)7月12日)は、文芸評論家、作家。本名、木庭一郎(こば いちろう)。第6代日本ペンクラブ会長、文化功労者、日本芸術院会員。私小説批判で有名。.

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市島謙吉

市島 謙吉(いちしま けんきち、安政7年2月17日(1860年3月9日) - 昭和19年(1944年)4月21日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)、早稲田大学初代図書館長。.

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二葉亭四迷

二葉亭 四迷(ふたばてい しめい、1864年4月4日(元治元年2月28日) - 1909年(明治42年)5月10日)は、日本の小説家、翻訳家。本名、長谷川 辰之助(はせがわ たつのすけ)。筆名の由来は、処女作『浮雲』に対する卑下、特に坪内逍遥の名を借りて出版したことに対して、自身を「くたばって仕舞(め)え」と罵ったことによる。文学に理解のなかった父に言われたというのは俗説である(『予が半生の懺悔』)。長谷川 二葉亭(はせがわ ふたばてい)とも呼ばれる。別の号に冷々亭主人、杏雨。江戸市ヶ谷生れ。彼の自筆履歴書によると、1883年2月1日から1885年12月25日まで、当時の専修学校(現在の専修大学)で学び、卒業した。また、東京外国語学校(現東京外国語大学)露語科入学後、同科が改組されてできた東京商業学校(現一橋大学)第三部露語科を1886年1月に中退桶谷秀昭『二葉亭四迷と明治日本』(文藝春秋、1986年)。 坪内逍遥と交流を結び、その勧めで評論『小説総論』を発表。1887年~1891年の間に出された写実主義小説『浮雲』は言文一致体で書かれ、日本の近代小説の開祖となった。また、ロシア文学の翻訳も多くてがけ、ツルゲーネフの「あひゞき」「めぐりあひ」は特に有名。自然主義作家へ大きな影響を与えた。 後に『其面影』『平凡』を書いたが、1909年、ロシア赴任からの帰国途中、ベンガル湾上で客死した。.

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代官

代官(だいかん)とは、君主ないし領主に代わって任地の事務を司る者又はその地位をいう。日本では、武家政権における役職の1つとなった。.

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役の行者

『役の行者』(えんのぎょうしゃ)は、坪内逍遥作の戯曲。1913年に初稿ができたが出版されず、1916年に改稿版の『女魔人』が出版され、これが1917年に再び『役の行者』と改名され出版された。劇としての初演は1926年(大正15年)であり、小山内薫演出により築地小劇場で上演された。 修験道の開祖、役の行者小角を描いた作品。.

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当世書生気質

『当世書生気質』(とうせいしょせいかたぎ)は、坪内逍遥(春の屋おぼろ)の小説。1885年 - 1886年(明治18 - 19年)刊。角書(つのがき)は「一読三歎」とある。.

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徳富蘇峰

徳富 蘇峰(とくとみ そほう、1863年3月14日(文久3年1月25日) - 1957年(昭和32年)11月2日)は、明治から昭和にかけての日本のジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家。『國民新聞』を主宰し、大著『近世日本国民史』を著したことで知られる。 蘇峰は号で、本名は猪一郎(いいちろう)。字は正敬(しょうけい)。筆名は菅原 正敬(すがわら しょうけい)、大江 逸(おおえ いつ、逸郎とも)。雅号に山王草堂主人、頑蘇老人、蘇峰学人、銑研、桐庭、氷川子、青山仙客、伊豆山人など。生前自ら定めた戒名は百敗院泡沫頑蘇居士(ひゃぱいいんほうまつがんそこじ)。 小説家の徳冨蘆花は弟。.

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ハムレット

舞台とされたデンマークのクロンボー城内に掲げられている「ハムレット」の石版(2005.08) 『ハムレット』(Hamlet)は、シェイクスピア作の悲劇。5幕から成り、1600年から1602年頃に書かれたと推定される。正式題名は「デンマークの王子ハムレットの悲劇」(The Tragedy of Hamlet, Prince of Denmark)。4000行を超え、シェイクスピアの戯曲の中で最も長い。 デンマーク王子ハムレットが、父を殺し母を奪い王位を簒奪した叔父を討ち、復讐を果たす。シェイクスピアの四大悲劇の一つ。コールリッジによる「悩める知識人」像が一般的だが、近年では「行動人ハムレット」という解釈も有力である。 ハムレットの話は、同時代にトマス・キッドが『スペインの悲劇』という似た話を書いており、少なからずその影響を受けたといわれている。また、この話は北欧伝説が下敷きになっており、12世紀末にサクソ・グラマティクスが編纂した『デンマーク人の事績』(Gesta Danorum)に、モデルになったアムレート(Amleth)の武勇が伝えられている。.

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ヘンリック・イプセン

ヘンリック(ヘンリク)・イプセン(Henrik Johan Ibsen、1828年3月20日 - 1906年5月23日)は、ノルウェーの劇作家、詩人、舞台監督。近代演劇の創始者であり、「近代演劇の父」と称される。シェイクスピア以後、世界でもっとも盛んに上演されている劇作家とも言われる。 代表作には、『ブラン』『ペール・ギュント』(グリーグが後に劇音楽を作曲する)『人形の家』『野鴨』『ロスメルスホルム』『ヘッダ・ガーブレル』などがある。自身はノルウェーを嫌い、長くドイツやイタリアで生活したため、ノルウェーの国民作家という意識は薄かったが、現在は国の象徴、そして世界史上最も重要な劇作家の一人として尊敬され、長らくノルウェーの最高額面の1000クローネ紙幣にその肖像が描かれていた。.

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嵯峨の屋おむろ

嵯峨の屋おむろ(さがのや おむろ、本名:矢崎鎮四郎(しんしろう)、文久3年1月12日(1863年3月1日) - 昭和22年(1947年)10月26日)は明治期の日本の小説家、翻訳家、評論家、詩人。 江戸・日本橋下総関宿藩邸生まれ。坪内逍遥の門下。東京外国語学校(現東京外国語大学)卒業。二葉亭四迷は、東京外大時代の同級生である。嵯峨の屋お室、矢崎嵯峨の舎(屋)(やざき さがのや)、北邙散子(ほくぼうさんし)、探美(たんび)名義なども使用していた。曾孫は、俳優・モデルの岡本竜汰。 幼時、維新の変動期にあって辛苦を尽くした。1876年、東京外国語学校露語科の給費生となり、1981年、二葉亭四迷を知る。卒業後統計院に勤めるが失職、二葉亭四迷の紹介で坪内逍遥の門下生となる。1987年、処女作「浮世人情守銭奴之肚」(うきよにんじょうしまりみせのはら)で作家として出発。小説「初恋」、「くされ玉子」、「野末の菊」(1889)など浪漫的作品や「夢現境」(1891)など厭世的無常観を突き詰めた小説を出したほか、ロシア文学の翻訳を発表し紹介した。小説論に「小説家の責任」(1889)がある。詩人としては「抒情詩」(1897)に「いつ真て草」ほか9編を発表。一時は尾崎紅葉と並び称された。1906年、陸軍士官学校ロシア語教官を務める。晩年は振るわず、文壇からも遠ざかった。明治期において懐疑を主観的に表白した最初の小説家であった。1947年、千葉、牛久で没した。.

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インターネットアーカイブ

旧インターネットアーカイブ本部(1996年 - 2009年11月) インターネットアーカイブ (The Internet Archive) は、WWW・マルチメディア資料のアーカイブ閲覧サービスとして有名なウェイバックマシン (Wayback Machine)を運営している団体である。本部はカリフォルニア州サンフランシスコのリッチモンド地区に置かれている。 アーカイブにはプログラムが自動で、または利用者が手動で収集したウェブページのコピー(ウェブアーカイブ)が混在しており、これは「WWWのスナップショット」と呼ばれる。ほか、ソフトウェア・映画・本・録音データ(音楽バンドなどの許可によるライブ公演の録音も含む)などがある。アーカイブは、それらの資料を無償で提供している。.

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イギリス文学

イギリス文学(イギリスぶんがく、もしくは英文学、British literature/English literature)とは、イギリスの文学、及びそれらの作品や作家を研究する学問のこと。アメリカ文学と合わせて英米文学と呼ぶこともある。なお、英文学 English literature と言った場合、英語による各地域の文学を含むことがある。 ポストコロニアル理論の発展と共に、いわゆる英文学の領域も広がりつつあり、Englishes と複数形で語ることにより、20世紀前半までの帝国主義的な英文学の枠組みをこわそう、という動きも現在では見られる。 Eng.

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ウィリアム・シェイクスピア

ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare, 1564年4月26日(洗礼日) - 1616年4月23日(グレゴリオ暦5月3日))は、イングランドの劇作家、詩人であり、イギリス・ルネサンス演劇を代表する人物でもある。卓越した人間観察眼からなる内面の心理描写により、最も優れた英文学の作家とも言われている。また彼の残した膨大な著作は、初期近代英語の実態を知る上での貴重な言語学的資料ともなっている。 出生地はストラトフォード・アポン・エイヴォンで、1585年前後にロンドンに進出し、1592年には新進の劇作家として活躍した。1612年ごろに引退するまでの約20年間に、四大悲劇「ハムレット」、「マクベス」、「オセロ」、「リア王」をはじめ、「ロミオとジュリエット」、「ヴェニスの商人」、「夏の夜の夢」、「ジュリアス・シーザー」など多くの傑作を残した。「ヴィーナスとアドーニス」のような物語詩もあり、特に「ソネット集」は今日でも最高の詩編の一つと見なされている。 2002年BBCが行った「100名の最も偉大な英国人」投票で第5位となった。 「シェイクスピア」の日本における漢字表記(借字)は「沙吉比亜」だが、これは中国での表記「莎士比亞」(繁体字での表記で、簡体字では「莎士比亚」)の「莎」を「沙」と、「亞」を「亜」と略し、「士」の代わりに「吉」を用いたもの。「沙翁」と呼ばれることもある。.

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ウォルター・スコット

ウォルター・スコット 初代准男爵サー・ウォルター・スコット(Sir Walter Scott, 1st Baronet, 1771年8月15日 - 1832年9月21日)は、スコットランドの詩人、小説家。ロマン主義作家として歴史小説で名声を博し、イギリスの作家としては、存命中に国外でも成功を収めた、初めての人気作家といえる。祖先はバクルー公爵スコット家、つまりスチュアート朝の庶流の分流である。.

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ジュリアス・シーザー (シェイクスピア)

1623年に発刊された『ジュリアス・シーザー』 『ジュリアス・シーザー』(英語:The Tragedy of Julius Caesar)は、ウィリアム・シェイクスピアによって書かれた政治劇・悲劇である。製作年は1599年と考えられている。ローマの独裁官ガイウス・ユリウス・カエサルに対する陰謀・暗殺とその死の余波が描かれている。ローマ史に基づいてシェイクスピアが書いた「ローマ劇」(『コリオレイナス』『アントニーとクレオパトラ』など)の一つである。 この劇においてシーザーは中心的人物ではない。3場面に登場するに過ぎず、第3幕の始めに死んでしまう。この劇の主人公はマーカス・ブルータスであり、彼の名誉欲・愛国心・友情の間の葛藤が描かれている。 多くのシェイクスピア評論家と歴史家が、この劇が王権の継承についての当時のイングランドの一般的な心配を反映していると考えている。すなわち、この作品が創作・上演された時期、イングランド女王エリザベス1世は、高齢でありながら、後継者を指名するのを拒否していた。そのため、彼女の死後、ローマと同様の内戦が起きるかもしれないという不安が持たれていた。.

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写実主義

写実主義(しゃじつしゅぎ)、あるいは現実主義は、現実を空想によらず、ありのままに捉えようとする美術上、文学上の主張のこと。リアリズム(英:Realism)、レアリスム(仏:Réalisme)。.

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国立国会図書館

国立国会図書館(こくりつこっかいとしょかん、英称:)は、日本の国会議員の調査研究、行政、ならびに日本国民のために奉仕する図書館である。また、納本制度に基づいて、日本国内で出版されたすべての出版物を収集・保存する日本唯一の法定納本図書館である。設置根拠は国会法第130条及び国立国会図書館法第1条。 国立国会図書館は、日本の立法府である国会に属する国の機関であり、国会の立法行為を補佐することを第一の目的とする議会図書館である。同時に、納本図書館として日本で唯一の国立図書館としての機能を兼ねており、行政・司法の各部門および日本国民に対するサービスも行っている。バーチャル国際典拠ファイルに参加している。 施設は、中央の図書館と、国立国会図書館法3条に定められた支部図書館からなる。中央の図書館として東京本館(東京都千代田区永田町)および関西館(京都府相楽郡精華町精華台)が置かれ、また東京本館に付属して国会分館がある。 支部図書館としては国際子ども図書館(東京都台東区上野公園)のほか、司法機関に1館(最高裁判所図書館)、国立国会図書館法の規定により行政各部門に置かれる支部図書館及びその職員に関する法律(昭和24年法律第101号。支部図書館法)に基づいて行政機関に26館が置かれる。.

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国民之友

『国民之友』(國民之友、こくみんのとも)は、1887年(明治20年)創刊、1898年(明治31年)廃刊の月刊雑誌(一時週刊となった)。発刊元は徳富蘇峰の設立した言論団体民友社である。.

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石渡敏一

石渡 敏一(いしわたり びんいち『慶應義塾入社帳 第1巻』676頁には「イシワタ トシカツ」とふりがなが付されている。慶應義塾に入った時点で本人が申告した姓名の読みである。、1859年12月19日(安政6年11月26日『日本近現代人物履歴事典』48頁。) - 1937年(昭和12年)11月18日)は、官僚、政治家。法学博士。大審院検事、司法次官、貴族院勅選議員、枢密顧問官。法典調査会刑法起草委員。位階・勲等は正三位勲一等。江戸(後の東京)出身。石渡荘太郎の父。.

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神田神保町

保町(かんだじんぼうちょう)は、東京都千代田区の地名。住居表示未実施。現行行政地名は神田神保町一丁目から神田神保町三丁目。郵便番号は101-0051。.

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第一高等学校 (旧制)

東大駒場Iキャンパス1号館 第一高等学校(だいいちこうとうがっこう、英語: First Higher School, Japan)は、現在の東京大学教養学部および、千葉大学医学部、同薬学部の前身となった旧制高等学校である。「旧制一高」とも呼ばれる。.

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第一書房

一書房(だいいちしょぼう)は、東京都文京区にある出版社。主に宗教(仏教、神道)、歴史、考古学、人類学、民俗学などを中心とした学術図書を刊行しているが、琉球など南島の文化に関するものも多い。またこれらの分野での古書の買取と販売も行っている。.

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築地小劇場

築地小劇場(つきじしょうげきじょう)は、土方与志と小山内薫が1924年(大正13年)6月13日に開設した日本初の新劇の常設劇場である。また、劇場付属の劇団の名称でもあった。.

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美濃加茂市

鳩吹山から望む木曽川の北側の美濃加茂市中心部 太田宿中山道会館 美濃加茂市(みのかもし)は、岐阜県の南部に位置する市である。.

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美濃国

美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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翻訳

翻訳(ほんやく)とは、Aの形で記録・表現されているものから、その意味するところに対応するBの形に翻案することである。一般に自然言語のそれを指し、起点言語 (source language、原言語) による文章を、別の目標言語 (target language、目的言語) による文章に変換する。例えば、英文から日本文へ翻訳された場合は、起点言語が英語であり、目標言語が日本語である。起点言語による文を原文といい、目標言語による文を訳文・翻訳文と言う。一方文章ではなく、自然言語の発話を別言語に置き換える行為は通訳とも呼ばれる。.

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熱海市

熱海市(あたみし)は、静岡県の市。静岡県の最東部に位置し、神奈川県と接する。.

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熱海市立図書館

熱海市立図書館(あたみしりつとしょかん)は、静岡県熱海市の公共図書館。熱海町に居住していた坪内逍遥の蔵書などを中心として1915年(大正4年)に開館した。静岡県に現存する最古の図書館であり、2015年(平成27年)に創立100周年を迎えた。.

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物語倶楽部

物語倶楽部(ものがたりクラブ)は、著作権が消滅し、パブリックドメインに帰した文学作品を入力・公開していたインターネット上の電子図書館である。.

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遊女

遊女(ゆうじょ、あそびめ)は、遊郭や宿場で男性に性的サービスをする女性のことで、娼婦、売春婦の古い呼称『大百科事典』 (平凡社, 1935)。「客を遊ばせる女」と言う意味が一般的である。.

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草双紙

草双紙(くさぞうし)とは、江戸時代中頃から江戸で出版された絵入り娯楽本、赤本・黒本・青本・黄表紙・合巻の総称である。 この「草」は、草競馬・草相撲・草野球などの「草」とおなじ「一般の〜」という意味合いを含むものである。絵草紙(えぞうし)・絵双紙(えぞうし)・絵本(えほん)とも呼んだ。各頁の挿画の余白に平仮名の説明を添え、童話から始まり、次第に成人向けに進化した。江戸の大衆本・江戸地本の中心を占めた。.

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静岡県

静岡県(しずおかけん)は、太平洋に面する日本の県の一つ。県庁所在地は静岡市。中部地方及び東海地方に含まれる。2017年(平成29年)現在、県の人口は約367万人であり都道府県別で第10位である。.

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風俗

俗(ふうぞく、ふぞく) 風俗の定義・意味は主として次から成る。.

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飯塚くに

飯塚 くに(いいづか くに、明治33年(1900年)2月10日 - 平成6年(1994年)10月27日)は、日本舞踊家。英文学者・坪内逍遥の養女。夫は演劇研究家の飯塚友一郎。成女学校卒業。.

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評論家

評論家(ひょうろんか、)とは、評論を仕事にしている者のことである。批評家ともいう。.

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読本

読本(よみほん)は、江戸時代後期に流行した伝奇小説。寛政の改革以降流行し、文化文政の頃全盛となり、明治になっても活字本として流布し読み継がれた。.

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高田早苗

早苗(たかた さなえ、1860年4月4日(安政7年3月14日) - 1938年(昭和13年)12月3日)は明治時代から昭和初期にかけての日本の政治家、政治学者、教育者、文芸批評家。法学博士。号は半峰。 衆議院議員、貴族院議員、文部大臣、早稲田大学総長内田満『政治の品位』東信堂、2007年、170頁。などを歴任した。.

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鹿島清兵衛

柏原から望む富士山。鹿嶋清兵衛撮影。1890年代 鹿嶋 清兵衛(かじま せいべい、1866年(慶応2年) - 1924年(大正13年)8月6日)は、明治期の写真家。豪商の跡取り養子だったが、新橋の人気芸者・ぽん太を身請けしたことから家を出て、趣味の写真を本業とした。撮影中の事故で負傷し、その後は能の笛方になった。妻・ぽん太も唄や踊りで暮らしを支え、その献身的な姿が貞女としてもてはやされた。清兵衛の型破りな生き方は、森鴎外の小説『百物語』のモデルにもなった。昭和30年代に、清兵衛が隠したと思われる埋蔵金が見つかり、再び世間を賑わせた。.

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鹿嶋ゑつ

鹿嶋 ゑつ(かしま えつ、1880年11月20日 - 1925年4月22日)は、「ぽん太」の名前で明治時代に人気を博した新橋芸者。才能と美貌で評判になり、「西に大阪宗右衛門町の富田屋八千代、東に新橋のぽん太」といわれた名妓。その美貌から絵葉書や明治屋のビール広告にも使われた。豪商の息子で写真家の鹿島清兵衛の後妻となり、森鷗外は鹿嶋夫妻をモデルに小説『百物語』を書いた。.

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近松門左衛門

近松 門左衛門(ちかまつ もんざえもん、承応2年〈1653年〉 - 享保9年11月22日〈1725年1月6日〉)とは、江戸時代の浄瑠璃及び歌舞伎の作者。本名は杉森 信盛(すぎもり のぶもり)。平安堂、巣林子(そうりんし)、不移山人(ふいさんじん)と号す。 家紋は「丸に一文字」。.

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開成学校

開成学校(かいせいがっこう)は、明治時代初期、東京府に設立された文部省管轄の洋学研究・教育機関で、当時のいわゆる「専門学校」(高等教育機関を意味し、後年の専門学校令に準拠する旧制専門学校とは異なる)の一つである。 「東京大学発祥の地」の碑 / かつての開成学校の所在地(神田錦町)に建立されている.

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野口英世

野口 英世(のぐち ひでよ、1876年(明治9年)11月9日 - 1928年(昭和3年)5月21日)は、日本の医師、細菌学者。福島県耶麻郡三ッ和村(現:耶麻郡猪苗代町)出身。 高等小学校を卒業して上京し、ほぼ独学のみで医術開業試験に合格して医師となった。渡米してペンシルベニア大学医学部の助手の職に就き、研究者としての名声を得てからロックフェラー医学研究所研究員となった。主に細菌学の研究に従事し、黄熱病や梅毒の研究で知られる。数々の論文を発表し、ノーベル生理学・医学賞の候補に三度名前が挙がったが、黄熱病の研究中に自身も罹患し、1928年(昭和3年)5月21日、英領ゴールド・コースト(現在のガーナ共和国)のアクラで51歳で死去。 栄典は、正五位・勲二等旭日重光章。学位は医学博士(京都大学)、理学博士(東京大学)。称号はブラウン大学名誉理学博士、イェール大学名誉理学博士、パリ大学名誉医学博士、サン・マルコス大学名誉教授・名誉医学博士、エクアドル共和国陸軍名誉軍医監・名誉大佐。キリスト者。 妻はメリー・ロレッタ・ダージス。.

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雲井浪子

雲井 浪子(くもい なみこ、本名:坪内操、旧姓:高井『朝日新聞百年の記事にみる――(1)恋愛と結婚』、朝日新聞社、1979年2月、PP117-118。、1901年(明治34年)7月23日 - 2003年(平成15年)8月20日)は、元宝塚少女歌劇団主演娘役で宝塚歌劇団卒業生。兵庫県洲本市出身。夫は演劇評論家、早稲田大学教授の坪内士行。娘に女優の坪内ミキ子がいる。実姉は同じく宝塚歌劇団1期生で宝塚歌劇団卒業生の八十島揖子、実妹は宝塚歌劇団16期生で宝塚歌劇団卒業生の緒島なほ子(本名:高井秀子)。義理叔父は坪内逍遥、逍遥の養女は飯塚くに。 この芸名は小倉百人一首の第76番:法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)の「海の原 漕ぎ出でてみれば 久堅の 雲居に紛ふ 沖つ白波(わたのはら こぎいでてみれば ひさかたの くもゐにまがう おきつしらなみ)」より、宝塚歌劇団創設者の小林一三によって命名された。.

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柳田泉

柳田 泉(やなぎだ いずみ、男性、1894年(明治27年)4月27日 - 1969年(昭和44年)6月7日)は、明治文学研究者、翻訳家。 青森県中津軽郡豊田村(現・弘前市)出身。1918年に早稲田大学英文科卒業。トルストイの小説や、『カーライル全集』、『ホイットマン全集』、『アミエルの日記』など英訳版からの重訳を含め、多くの思想哲学書を翻訳出版した。 関東大震災以後は明治文学を中心にした文芸史研究に専念、1924年には、吉野作造などの「明治文化研究会」に参加、資料収集・編纂、実証研究で多大な成果がある。 1935年から母校早稲田で文学史を講じ、のち文学部教授となった。『明治文化全集』(日本評論社)や『明治文学全集』(筑摩書房)の編集にも参画、多数の巻を校訂した。内田魯庵『紙魚繁昌記』(現在は平凡社東洋文庫)など、多くの魯庵の著書校訂もしている。 太平洋戦争末期の空襲により、約1万5千冊の蔵書・資料を焼失したが、戦後も資料収集を続け、膨大な蔵書は没後早稲田大学図書館に寄贈され「柳田泉文庫」となった。 1969年、肺炎のため死去。.

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東京大学 (1877-1886)

東京大学(とうきょうだいがく)は、明治政府によって1877年(明治10年)4月に設立された日本最初の(官立)大学であり、1886年3月に帝国大学(のち東京帝国大学と改称)に改編されるまで存続した。この時期の「東京大学」を、現在の新制東京大学と区別するため、特に「旧東京大学」と称する場合もある。 加藤弘之 / 東京大学法理文三学部綜理、ついで初代東京大学「総理」。事実上の初代東大学長である.

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東京大学大学院人文社会系研究科・文学部

東京大学大学院人文社会系研究科(とうきょうだいがくだいがくいんじんぶんしゃかいけいけんきゅうか、英称:Graduate School of Humanities and Sociology)は、東京大学に設置される大学院研究科の一つである。また、東京大学文学部(とうきょうだいがくぶんがくぶ、英称:Faculty of Letters)は、東京大学に設置される学部の一つである。.

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東京専門学校 (旧制)

東京専門学校の校舎と学生たち(撮影年代不詳) 東京専門学校(とうきょうせんもんがっこう)は、1882年(明治15年)、大隈重信により東京府に設立された私立学校。この項目では後身たる専門学校令準拠の早稲田大学についても扱う。.

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松井須磨子

松井 須磨子(まつい すまこ、1886年(明治19年)3月8日(戸籍上:11月1日) - 1919年(大正8年)1月5日)は、日本の新劇女優。本名、小林正子(こばやしまさこ)。.

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松本清張

松本 清張(まつもと せいちょう、1909年(明治42年)12月21日 - 1992年(平成4年)8月4日)は、日本の小説家。 1953年に『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞。以降しばらく、歴史小説・現代小説の短編を中心に執筆した。1958年には『点と線』『眼の壁』を発表。これらの作品がベストセラーになり松本清張ブーム、社会派推理小説ブームを起こす。以後、『ゼロの焦点』『砂の器』などの作品もベストセラーになり戦後日本を代表する作家となる。その他、『かげろう絵図』などの時代小説を手がけているが、『古代史疑』などで日本古代史にも強い関心を示し、『火の路』などの小説作品に結実した。緻密で深い研究に基づく自説の発表は小説家の水準を超えると評される。また、『日本の黒い霧』『昭和史発掘』などのノンフィクションをはじめ、近代史・現代史に取り組んだ諸作品を著し、森鴎外や菊池寛に関する評伝を残すなど、広い領域にまたがる創作活動を続けた。.

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根津遊廓

根津遊廓(ねづ ゆうかく)は、根津(現在は東京都文京区の一部)にあった遊廓である。.

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桐一葉

『桐一葉』(きりひとは)は、坪内逍遥作の歌舞伎の演目。1894年(明治27年)11月から1895年(明治28年)9月にかけ『早稲田文学』に連載。1904年(明治37年)3月東京座初演。6幕16場。.

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河竹繁俊

河竹 繁俊(かわたけ しげとし、1889年6月9日 - 1967年11月15日)は、日本の演劇学者。文学博士。旧姓は市村(いちむら)。.

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河竹黙阿弥

黙阿弥 河竹 黙阿弥(かわたけ もくあみ、旧字体:默阿彌、文化13年2月3日(1816年3月1日) - 明治26年(1893年)1月22日)は、江戸時代幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者。本名は吉村 芳三郎(よしむら よしさぶろう)。俳名に其水(そすい)。別名に古河 黙阿弥(ふるかわ-)。江戸日本橋生まれ。.

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湖上の美人

『湖上の美人』(こじょうのびじん、La donna del lago)は、ジョアキーノ・ロッシーニが1819年にナポリ・サン・カルロ劇場向けに作曲したオペラ・セリアである。.

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服部誠一

服部 誠一(はっとり せいいち、天保12年2月15日(1841年4月6日) - 明治41年(1908年)8月15日)は、明治時代の文学者・ジャーナリスト。号は撫松(ぶしょう)。陸奥国(現福島県)出身。.

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朝日賞

朝日賞(あさひしょう)とは、朝日新聞社、並びに(公益)財団法人朝日新聞文化財団が創設した賞である。「人文や自然科学など、日本のさまざまな分野において傑出した業績をあげ、文化、社会の発展、向上に多大な貢献」をした個人または団体を顕彰する。1929年(昭和4年)に、朝日新聞創刊50周年を記念して創設された。当初は朝日文化賞といったが、1976年改名された。なお年度受賞者を翌年の元日に発表するため、受賞年度について混乱が生じることがある。 毎年1回、各界からの推薦をもとに、(公財)朝日新聞文化財団と、親会社・朝日新聞社の選考委員会が審査・選定し、元日に発表される。受賞者は例年5人前後。贈呈式は1月下旬、大佛次郎賞・大佛次郎論壇賞の贈呈式と合同して行われる。受賞者には、正賞としてブロンズ像が、副賞として500万円が贈られる。.

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戯作

戯作(げさく、ぎさく、けさく、きさく)とは、近世後期、18世紀後半頃から江戸で興った通俗小説などの読み物の総称。戯れに書かれたものの意。明治初期まで書かれた。戯作の著者を戯作者という。.

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戯曲

戯曲(ぎきょく)は、演劇の上演のために執筆された脚本や、上演台本のかたちで執筆された文学作品。戯曲を書く者のことを劇作家と呼ぶ。.

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戒名

戒名(かいみょう)は、仏教において受戒した者に与えられる名前である。仏門に入った証であり、戒律を守るしるしとして与えられる。 上座部仏教と大乗仏教の両方で行われており、多くの場合、出家修道者に対して授戒の師僧によって与えられる。上座部では出家後に南伝仏典に残る阿羅漢に変名するため、その意味で「法名」と呼ぶ。 また、仏弟子として新たに身につける真の名前という意義から「法諱」(ほうい、ほうき)ともいった。 また日本においては、死生観の変化により死後に成仏するという思想のもと、故人に戒名を授ける風習が生れた。(「成仏#日本文化のなかでの「成仏」」を参照。)死後の戒名は、特に日本において盛んに行われている。寺に支払った金額によって戒名のランクが変化する。とは言うものの、故人の社会的地位始め社会貢献度、またお寺への貢献度などによるため、高額を払ったからといって、高い位の戒名をもらえるわけではない。 一般にカナ文字を用いないため、転じて、「漢字のみの縦書き文字列」の俗的表現として用いられることがあり、特に新聞・雑誌編集においてカナ文字を含まない見出しをこう称し、読者に不快感を催しかねない表現とされる。; 戒名を用いない宗旨.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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春陽堂書店

株式会社春陽堂書店(しゅんようどうしょてん)は、日本の出版社。1878年(明治11年)に創業。.

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昭和

昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.

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浮雲 (二葉亭四迷の小説)

『浮雲』(うきぐも)は、二葉亭四迷の長編小説。角書「新編」。1887年(明治20年)から1889年にかけて発表。一、二篇は、金港堂から刊行、三篇は「都の花」に連載。 主人公の文三とその従姉妹のお勢、友人の本田の3人の姿を中心に描かれている。言文一致の文体(ダ体)で書かれた日本の近代小説の始まりを告げた作品で、四迷の代表作。坪内逍遥の『小説神髄』を読んで満足しなかった四迷が『当世書生気質』に対抗して書いた。当初は坪内逍遥の本名「坪内雄蔵」の著者名で発表され、逍遥は報酬として印税の半分を受け取っていた。 しかし四迷は出来に満足せず、この後約20年間ほど小説の執筆から離れてしまった。.

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新劇

新劇(しんげき)は、ヨーロッパ流の近代的な演劇を目指す日本の演劇を指す。旧劇(歌舞伎を指す)、新派(書生芝居の流れ)に対する言葉。当初翻訳劇を中心に始まり、歌舞伎や新派の商業主義を批判し、芸術志向的な演劇を目指した。.

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新舞踊

新舞踊(しんぶよう)は、大正期に坪内逍遥・小山内薫らがおこした新舞踊運動によってできた日本舞踊のジャンルである。新舞踊運動によって、舞踊家の“振付をし、演じる”というスタンスが確立。役者や振付師などのお師匠さんたちが、独自に公演をするようになった。 最近では、演歌に振り付けた歌謡舞踊も盛んに行われ、新舞踊といえばこれを指す場合が多くなった。.

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新歌舞伎

新歌舞伎(しんかぶき)は、明治後期から昭和の初期にかけて、劇場との関係を持たない独立した作者によって書かれた歌舞伎の演目の総称である。 江戸時代から明治初年に至るまで、歌舞伎の台本は座付作者(ざつき さくしゃ)という、一座や芝居小屋に専属する専業の狂言作者がその一座に出る特定の役者のために書いたものだった。明治になって文明開化の風俗を盛んに取り入れた二代目河竹新七(黙阿弥)の一連の散切物の演目も、そのほぼすべてが五代目尾上菊五郎に当て書きされてその一座で初演されたもので、座と作者の関係という点では旧来の歌舞伎と変らなかった。 明治の歌舞伎はその後すぐに演劇改良運動の洗礼を受ける。しかしそこで試みられた行き過ぎた時代考証や西洋演劇の要素をそのまま移入した演出は歌舞伎と相容れるものではなく、作品はいずれも散々な酷評を受ける始末で、この運動自体は失敗に終わる。ここに「演劇改良」は旧来の時代物を翻案して実録風の改作を仕立てるという方向に軌道修正されてゆくことになる。 そうした中で、明治も後期になるとそれまでの座付役者とはまったく毛並みの異なる劇作家が現れてくる。高度の学歴や教養があり、翻訳家・新聞記者・編集者・劇評家・小説家などといった専門職の経歴をもち、趣味が嵩じて戯曲や歌舞伎狂言を書き始めたという背景がほぼ共通するのが特徴で、彼らが歌舞伎特有の荒唐無稽な筋書きから脱却し、事件にかかわる人間模様や登場人物の心理描写を中心に物語が展開する、極めて文学性の高い作品を次々に歌舞伎狂言として書き下ろすようになっていったのである。松井松葉の『悪源太』(明治38/1899年)や坪内逍遥の『桐一葉』(明治43/1904年)を皮切りに、以後さまざまな背景を持つ作者によって数々の作品が書かれ、これが「黄金時代」と呼ばれた明治後期から大正にかけての東京歌舞伎により一層の厚みを与えることにつながった。これら一連の演目を新歌舞伎と呼んでいる。 なお、第二次世界大戦の戦中から戦後以降に書かれた新しい演目は、これを一般に新作歌舞伎(しんさくかぶき)または単に新作(しんさく)と呼んで、新歌舞伎とは区別している。.

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文学

ジャン・オノレ・フラゴナール『読書する女』(1772年) 文学(ぶんがく)とは、言語表現による芸術作品のこと。文芸ともいう。それらを研究する学問も文学と称されるが、これについては文芸学で扱う。狭義には、詩・小説・戯曲・随筆・文芸評論などを典型的な文学の例とする。 西洋での文学(、、、、)はラテン語のlittera(文字)及びその派生語litteratura(筆記、文法、教養)を語源とし、現在では主に以下の意味を持つ。.

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文芸協会

文芸協会(ぶんげいきょうかい)は、坪内逍遥、島村抱月を中心に結成された文化団体で、新劇運動の母体となった。 活動内容から、前期・後期に分けられている。.

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日露戦争

日露戦争(にちろせんそう、Русско-японская война 、Russo-Japanese War、1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)は、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と、日本海を主戦場として発生した戦争である。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。講和の結果、ロシア領の南樺太は日本領となり樺太庁が設置され、ロシアの租借地があった関東州については日本が租借権を得て、関東都督府が設置されるなど日本の勝利で終わった。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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日本の近現代文学史

日本の近現代文学史(にほんのきんげんだいぶんがくし)では、近代(戦前)と現代(戦後)における、日本文学の歴史を述べる。 明治維新後、西洋の思想や文化を取り入れる文明開化が推進され、文学にも大きな影響を与えた。言文一致運動もその一つである。言文一致の結果、日本語の書き言葉は、それまで日本文学において重きをおかれていた漢文の伝統から切り離され、明治中期には現代の日本語の書き言葉に直接連なる文体(「だ・である」調と、「です・ます」調)が確立した。文学という語自体、翻訳語として創り出されたものであり、この頃に現在一般に使われ私たちが考える文学という概念が生まれた。 第二次世界大戦の敗北の後、日本語の表記には現代仮名遣い・新字体化という改革が行われ、全国規模のメディアの発達によって、日本文学にさらに大きな変化がもたらされた。.

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日本語

日本語(にほんご、にっぽんご「にっぽんご」を見出し語に立てている国語辞典は日本国語大辞典など少数にとどまる。)は、主に日本国内や日本人同士の間で使用されている言語である。 日本は法令によって公用語を規定していないが、法令その他の公用文は全て日本語で記述され、各種法令において日本語を用いることが規定され、学校教育においては「国語」として学習を課されるなど、事実上、唯一の公用語となっている。 使用人口について正確な統計はないが、日本国内の人口、および日本国外に住む日本人や日系人、日本がかつて統治した地域の一部住民など、約1億3千万人以上と考えられている。統計によって前後する場合もあるが、この数は世界の母語話者数で上位10位以内に入る人数である。 日本で生まれ育ったほとんどの人は、日本語を母語とする多くの場合、外国籍であっても日本で生まれ育てば日本語が一番話しやすい。しかし日本語以外を母語として育つ場合もあり、また琉球語を日本語と別の言語とする立場を採る考え方などもあるため、一概に「全て」と言い切れるわけではない。。日本語の文法体系や音韻体系を反映する手話として日本語対応手話がある。 2017年4月現在、インターネット上の言語使用者数は、英語、中国語、スペイン語、アラビア語、ポルトガル語、マレー語に次いで7番目に多い。.

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早稲田大学

大隈重信立像(朝倉文夫作) 登台した学生は退学の内規あり 東京専門学校 大正時代の早稲田大学の正.

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早稲田大学坪内博士記念演劇博物館

早稲田大学坪内博士記念演劇博物館(わせだだいがく つぼうちはかせ きねん えんげき はくぶつかん)は、東京都新宿区の早稲田大学構内にある博物館。公式な通称(略称)はエンパク(enpaku) 早稲田大学演劇博物館 2017年5月14日閲覧。他に演劇博物館(えんげき はくぶつかん)、演博(えんぱく)とも略される。.

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早稲田大学坪内逍遙大賞

早稲田大学坪内逍遙大賞(わせだだいがくつぼうちしょうようたいしょう)は、早稲田大学が主催する、文芸・文化・芸術のための賞である。早稲田大学文学科の創設者坪内逍遙の名を冠している(当時は東京専門学校)。隔年で実施され、大賞と奨励賞の各一名ずつ選出される。.

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早稲田文学

『早稲田文学』(わせだぶんがく)は、早稲田大学文学部を中心にした文芸雑誌。1891年(明治24年)、坪内逍遥が創刊。第2次『早稲田文学』は自然主義文学の牙城として、新現実主義の『新思潮』、耽美派の『三田文学』とともに日本文学史上知られている。 休刊と復刊を繰り返しており、現在は第10次『早稲田文学』が2007年より不定期に刊行されている。また、フリーペーパー『WB』も全国で配布中である。.

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感冒

感冒(かんぼう)とは、くしゃみ、鼻水、発熱、倦怠感などの症状を示す急性の呼吸器疾患のこと大辞泉 「感冒」。「かぜ」「かぜひき」と表現することもある。.

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愛知県立旭丘高等学校

愛知県立旭丘高等学校(あいちけんりつあさひがおかこうとうがっこう, Aichi Prefectural Asahigaoka High School)は、愛知県名古屋市東区に所在する県立高等学校。通称は、「旭(あさひ).

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批評

批評(ひひょう、英語・フランス語:critique)とは、ある事象を(できるだけ無前提の思い込みを排する形で)判断することである。批判(ひはん)とも。 英語・フランス語の 「批評」critique という単語は、ギリシャ語の kritiki (κριτική,何らかのモノの価値についての「洞察ある判断」)の語に由来する。.

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手代

手代(てだい)とは、江戸時代中期以降に、郡代・代官などの下役として農政を担当した下級役人である。地方役人(じかたやくにん)のひとつ。手付(てつけ)、手附(てつけ)など、全国的にさまざまな呼称や似た役職があった。江戸幕府の勘定奉行配下の御林奉行・蔵奉行などの下役にも手代という役職があった。また転じて、商家の従業者の地位をあらわす言葉ともなる。 本項では、郡代・代官の下級役人の手代を中心に述べる。.

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曲亭馬琴

曲亭 馬琴(きょくてい ばきん、明和4年6月9日(1767年7月4日) - 嘉永元年11月6日(1848年12月1日))は、江戸時代後期の読本作者。本名は滝沢興邦(たきざわ おきくに、)で、後に解(とく)と改める。号に著作堂主人(ちょさくどうしゅじん)など(#名前について参照)。 代表作は『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』。ほとんど原稿料のみで生計を営むことのできた日本で最初の著述家である。.

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1859年

記載なし。

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1876年

記載なし。

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1880年

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1883年

記載なし。

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1884年

記載なし。

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1885年

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1886年

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1889年

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1890年

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1891年

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1897年

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1906年

記載なし。

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1911年

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1913年

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1916年

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1922年

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1924年

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1932年

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1935年

記載なし。

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2月28日

2月28日(にがつにじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦においては年始から59日目にあたり、年末まであと306日(閏年では307日)ある。平年では、この日が2月の末日になる。 日本においては冬であり、本朝七十二候においては多く「霞始めてたなびく」(「かすみが たなびき始める」)に当たる。誕生花はフリージア(アヤメ水仙)とされる。.

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5月22日 (旧暦)

旧暦5月22日は旧暦5月の22日目である。六曜は友引である。.

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6月22日

6月22日(ろくがつにじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から173日目(閏年では174日目)にあたり、年末まであと192日ある。誕生花はスイカズラ、アマリリス。.

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