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喜連川藩

索引 喜連川藩

喜連川藩(きつれがわはん)は、関ヶ原の戦いの後に下野国塩谷郡喜連川(現在の栃木県さくら市喜連川)に立藩された藩。藩庁は喜連川陣屋。藩主は足利国朝(正室は古河公方・足利氏姫)を藩祖とする喜連川氏。喜連川氏は足利尊氏の次男・足利基氏の後裔であり、名族足利氏のなかで唯一明治維新まで大名格で存続した家である(分家を入れると細川氏も含まれる)。.

122 関係: さくら市古河城古河市古河公方古河公方館参勤交代塩谷郡大名天保の大飢饉外様大名奥州街道子爵宇都宮県安房国小弓公方小田原征伐不忍池下総国下野国平島公方幕藩体制交代寄合享保二階堂貞明廃藩置県仙台藩伺候席御所徳川実紀徳川家康徳川秀忠後北条氏北条氏康北条氏綱喜連川宜氏喜連川尊信喜連川彭氏喜連川判鑑喜連川縄氏喜連川町喜連川煕氏喜連川頼氏喜連川騒動喜連川茂氏喜連川藩喜連川恵氏喜連川氏喜連川氏連喜連川氏春喜連川昭氏...八部郡元禄兵庫県兵衛府前田氏国主国府台合戦四品以上に昇進する大名家一覧石 (単位)石高秋元与助素襖細川氏直垂芳賀郡鎌倉公方華族馬寮高家 (江戸時代)豊臣秀吉越前松平家足利基氏足利尊氏足利国朝足利義氏 (古河公方)足利義明足利義教足利聡氏足利頼純足利高基足利氏足利氏姫足利持氏足利成氏足利政氏足利晴氏都賀郡関ヶ原の戦い里見氏長岡護美陣屋Goo東慶寺栃木県武家官位永享の乱江戸幕府江戸藩邸池之端源氏長者月桂院明治維新日光県摂津国1439年1455年1538年1582年1590年1593年1600年1602年1647年1789年1815年1839年1845年1870年1871年1883年 インデックスを展開 (72 もっと) »

さくら市

さくら市(さくらし)は、栃木県の中部に位置する市。2005年3月28日に塩谷郡氏家町・喜連川町が新設合併して誕生した。宇都宮市への通勤率は19.8%(平成22年国勢調査)。.

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古河城

古河城(こがじょう)は、現在の茨城県古河市(下総国)の渡良瀬川東岸にあった日本の城。 室町時代には、古河御陣とも呼ばれ、北朝足利氏の拠点の一つであった。古河公方の本拠となった時期については古河御所(こがごしょ)とも呼ばれる。なお、古河鴻巣の古河公方館も御所と呼ばれるため、混同しないように注意する必要がある。.

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古河市

古河市名の由来となった万葉歌碑「麻久良我の 許我の渡りの韓楫の 音高しもな寝なへ 兒ゆゑに」 古河市(こがし)は、関東地方のほぼ中央、茨城県の西端に位置する市である。人口約14万人。旧・下総国(千葉県)葛飾郡。 近隣の栃木県野木町などから労働人口流入があり、本市を中心とする古河都市圏を形成している。.

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古河公方

古河公方(こがくぼう)は、室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏。享徳4年(1455年)、第5代鎌倉公方・足利成氏が鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となった。(享徳の乱) その後も政氏・高基・晴氏・義氏へと約130年間引き継がれる。御所は主に古河城。古河公方を鎌倉公方の嫡流とみなし、両方をあわせて関東公方と呼ぶこともある。.

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古河公方館

古河公方館(こがくぼうやかた)は茨城県古河市鴻巣にあった中世の城館。鴻巣御所・鴻巣館とも呼ばれる。古河御所と呼ばれる場合もある。現在、古河公方館跡地の大半は古河総合公園にある。.

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参勤交代

参勤交代(さんきんこうたい)とは、各藩の藩主を一年おきに江戸に出仕させる江戸幕府の法令のことである。参勤交替、参覲交代、参覲交替などとも書く。 藤堂様御国入行列附版画/伊賀文化産業協会蔵.

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塩谷郡

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大名

大名(だいみょう)は、大名主より転じた語。大いに名の轟く者のことを指す。対義語は小名である。.

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天保の大飢饉

天保の大飢饉(てんぽうのだいききん)は江戸時代後期の1833年(天保4年)に始まり、1835年から1837年にかけて最大規模化した飢饉である。1839年(天保10年)まで続いた。1836年(天保7年)までと定義する説もある。 寛永・享保・天明に続く江戸四大飢饉の一つで、寛永の飢饉を除いた江戸三大飢饉のひとつ。単に天保の飢饉とも言う。.

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外様大名

外様大名(とざまだいみょう)は、譜代大名に対して、関ヶ原の戦い前後に新しく徳川氏の支配体系に組み込まれた大名を指す。.

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奥州街道

奥州街道(おうしゅうかいどう)とは、江戸時代の五街道の一つ。江戸日本橋を起点として千住から白河へと至る街道である。下野国宇都宮宿以南の区間は日光街道と共用されており、宇都宮宿伝馬町の追分で日光街道と分岐していた。.

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子爵

子爵(ししゃく、 )は、中国で儒教の経典によって古代より用いられたと主張された爵位(五爵)の第4位。伯爵の下位、男爵の上位に相当する。近代日本の華族の爵位にも取り入れられた。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の訳語にも使われる。.

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宇都宮県

宇都宮県(うつのみやけん)は、1871年(明治4年)に下野国東部・北部を管轄するために設置された県。現在の栃木県東部・北部にあたる。.

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安房国

安房国(あわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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小弓公方

小弓城跡 小弓公方(おゆみくぼう)は、関東における足利氏基氏流の公方家のひとつ。古河公方の分家筋にあたる足利義明が一代で急成長して本家と関東の覇権を争うまでになったもので、彼が下総国千葉郡小弓城(現在の千葉市中央区生実と同緑区おゆみ野の一帯)を本拠地にしていたことがその名の由来。足利義明・頼純の2代にわたって受け継がれ、後の喜連川氏の元となった。.

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小田原征伐

小田原征伐(おだわらせいばつ)は、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が後北条氏を征伐し降した歴史事象・戦役。後北条氏が秀吉の沼田領裁定の一部について武力をもっての履行を惣無事令違反とみなされたことをきっかけに起こった戦いである。後陽成天皇は秀吉に後北条氏討伐の勅書を発しなかったものの、遠征を前に秀吉に節刀を授けており 、関白であった秀吉は、天皇の施策遂行者として臨んだ下山(1996) pp.91-96。。ここでは小田原城の攻囲戦だけでなく、並行して行われた後北条氏領土の攻略戦も、この戦役に含むものとする。 小田原合戦、小田原攻め、小田原の役、北条征伐、小田原の戦い、小田原の陣、小田原城の戦い(天正18年)とも呼ばれた。.

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不忍池

不忍池(しのばずのいけ)は上野恩賜公園(東京都台東区)の中に位置する天然の池である。.

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下総国

下総国(しもうさのくに、しもふさのくに、しもつふさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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下野国

下野国(しもつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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平島公方

平島公方(ひらじまくぼう)、または阿波公方(あわくぼう)は、血統的には室町幕府11代将軍・足利義澄の次男足利義維(のちの義冬)の末裔で、家柄的には足利義視から義稙、そして義維と続く足利将軍家の別家である。 代々阿波国平島荘古津(那賀郡平島村古津(ふるつ)、那賀川町古津、現・阿南市那賀川町古津、及び隣接する南東の西原(西原駅)、大京原、三栗、苅屋(苅屋川流域)、赤池(平島小)、上福井(多くの小字を含む。旧・福井村)、北中島、中島(阿波中島駅の起源))に住した。なお、公方と称されるものの、この平島の系統で実際に将軍職に就任したのは第14代将軍足利義栄のみで、義栄以外の人物には将軍家一族という意味で使われる。平島源公または、平薹源公の敬称で呼ばれていた。.

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幕藩体制

幕藩体制(ばくはんたいせい)とは、近世日本の社会体制のあり方を、幕府(将軍)と藩(大名)という封建的主従関係を基点にとらえた歴史学上の概念である。戦前段階には狭義に政治体制自体を指していたが、戦後の歴史学の進展に伴い、近世日本の社会体制全体の特色を示す概念として使われるようになった。幕藩制(ばくはんせい)ともいう。.

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交代寄合

交代寄合(こうたいよりあい)は、江戸幕府における旗本の家格の一つ。広義の寄合に含まれる。江戸定府の旗本寄合に対して参勤交代を行う寄合の意。.

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享保

享保(きょうほう、きょうほ)は日本の元号の一つ。正徳の後、元文の前。1716年から1736年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇、桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.

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二階堂貞明

二階堂 貞明(にかいどう さだあき)は、下野喜連川藩の家老。号は量山(りょうざん)。 第9代喜連川藩主である喜連川煕氏に仕えた家老で、煕氏と一緒に藩政改革を行なった。だが改革は下士からの批判が強く、煕氏が亡くなると失脚した。 慶応4年(1868年)8月、子の貞則と明治政府に対して喜連川縄氏が会津藩と内通したと讒訴した。このため、縄氏によって貞明・貞則父子は斬首及び曝し首の刑に処された。享年53。.

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廃藩置県

廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.

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仙台藩

仙台藩(せんだいはん)は、江戸時代に陸奥国の仙台城(現・宮城県仙台市)に藩庁を置いた、表高62万石の藩である。現在の岩手県南部から宮城県全域までと福島県新地町の約60万石を一円知行で治め、現在の茨城県および滋賀県に合計約2万石の飛び地があった。 江戸時代を通じて外様大名の伊達氏本家が治めた藩であり、伊達藩(だてはん)と呼ばれることもある。.

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伺候席

伺候席(しこうせき)とは、江戸城に登城した大名や旗本が、将軍に拝謁する順番を待っていた控席のこと。殿席、詰所とも。.

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御所

御所(ごしょ)とは、主に天皇など特に位の高い貴人の邸宅、またはその人を指す、歴史上の称号のひとつ。そのいくつかは現代にも名称を残している。.

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徳川実紀

『徳川実紀』(とくがわじっき)は、19世紀前半に編纂された江戸幕府の公式記録。国史大系に収録されている。徳川実記という表記は誤りである。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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徳川秀忠

徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍。.

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後北条氏

後北条氏(ごほうじょうし/ごほうじょううじ、旧字体表記:後北條氏)は、関東の戦国大名の氏族。本姓は平氏。家系は武家の桓武平氏伊勢氏流。室町幕府の御家人・伊勢氏の一族にあたる「北条早雲」こと伊勢盛時(1432年/1456年 - 1519年)をその祖とする。正式な名字は「北条(北條)」だが、代々鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏とは傍系の遠い血縁関係にあるとされるものの直接の後裔ではないことから、後代の史家が両者を区別するため伊勢氏流北条家には「後」を付して「後北条」と呼ぶようになった。また居城のあった相模国小田原の地名から小田原北条氏(おだわら ほうじょうし/おだわら ほうじょううじ)あるいは相模北条氏とも呼ばれる。最大時(氏政)には関八州で240万石の一大版図を支配していた。 通字は「氏(うじ)」。代々の家督は御本城様(ごほんじょうさま)と呼ばれ、「祿壽應穏(禄寿応穏)」と刻銘された「虎の印章」を使用した。これは「禄(財産)と寿(生命)は応(まさ)に穏やかなるべし、領民全ての禄を寿を北条氏が守っていく」という政治宣言であった。 近代には、初代・早雲(盛時)の素性が伊勢の素浪人と誤認され、下克上を初めて現実のものとして伊豆一国の主となり、そこから戦国大名にまでのし上がったとされていたが、後述のように近年の研究で否定されている。.

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北条氏康

北条 氏康(ほうじょう うじやす)は、戦国時代の武将。相模国の戦国大名。後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。後北条氏第3代目当主。母は氏綱の正室の養珠院佐脇栄智「北条氏康」『国史大辞典』吉川弘文館。。 関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した「北条氏康」『日本人名大辞典』講談社。。.

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北条氏綱

北条 氏綱(ほうじょう うじつな)は、戦国時代の武将、戦国大名。後北条氏第2代当主。 伊豆国・相模国を平定した北条早雲(伊勢盛時)の後を継いで領国を武蔵半国、下総の一部そして駿河半国にまで拡大させた。また、「勝って兜の緒を締めよ」の遺言でも知られる。 当初は父同様に伊勢氏を称しており、北条氏を称するようになるのは父の死後の大永3年(1523年)か大永4年(1524年)からである。父の早雲は北条氏を称することは生涯なく、伊勢盛時、伊勢宗瑞などと名乗ったが、後北条氏としては氏綱を2代目と数える。なお、氏綱以降の当主が代々通字として用いることとなる「氏」の字は、早雲の別名として伝わる「長氏」・「氏茂」・「氏盛」の偏諱に由来するものと考えられるが、氏綱の元服時に父はまだ今川氏の姻族・重臣であったことから従兄である今川氏当主・今川氏親からの偏諱として与えられたとのではないかとする説がある。.

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喜連川宜氏

喜連川 宜氏(きつれがわ のりうじ)は、江戸時代後期の大名。下野喜連川藩の第10代藩主。 細川定良(肥後宇土藩主細川興文の四男である孝応の次男)の長男で、初名は細川 孝常(たかつね)。.

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喜連川尊信

喜連川 尊信(きつれがわ たかのぶ、1619年(元和5年)- 1653年4月14日(承応2年3月17日))は、下野喜連川藩の第2代藩主。 初代藩主・喜連川頼氏の長男・義親の長男。母は花房氏(榊原康政の養女)。正室は那須資景の娘。子に昭氏(長男)、氏信(次男)、娘(福原資敏正室)、娘(天野雄重室)、娘(東慶寺21世永山尼)。官位は左兵衛督。 幼名は龍千代丸。のち元服して尊信と名乗る。「尊」の字は祖先にあたる室町幕府初代将軍足利尊氏に肖ったものであろう。 寛永4年(1627年)に父が祖父より先に死去したため、寛永7年(1630年)に祖父が亡くなると、幕命により家督を継ぐこととなった。しかし、正保4年(1647年)藩の主導権をめぐって藩内で喜連川騒動が発生し、慶安元年(1648年)、幕命により家督を昭氏(7歳)に譲って隠居することを余儀なくされた。承応2年(1653年)3月17日、35歳で死去。法号は瑞芳院殿昌山公大居士。 たかのふ たかのふ Category:1619年生 Category:1653年没 Category:古河市の歴史.

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喜連川彭氏

喜連川 彭氏(きつれがわ ちかうじ)は、江戸時代の大名。下野喜連川藩の第8代藩主。.

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喜連川判鑑

喜連川判鑑」(きつれがわはんがん)は、『続群書類従』巻112系図部7に収録されている、関東公方とその後身の古河公方及び下野国喜連川藩主家喜連川氏の系図。江戸時代中期に成立した。 旧名を「御判鑑」という。室町幕府将軍の足利尊氏と足利義詮及び喜連川昭氏の承応2年(1653年)8月の通称の改称までの歴代関東公方、古河公方、喜連川氏歴代当主の事跡及び花押を掲載している。 元禄9年(1696年)5月に喜連川藩重臣の二階堂貞政(主殿)の所持本が書写される。その写本が常陸国水戸藩の彰考館に保管され、後年の続群書類従執筆の際に使用される。なお、二階堂氏所持の原本が現存しているかについては不詳である。.

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喜連川縄氏

喜連川 縄氏(きつれがわ つなうじ / つぐうじ)は、江戸時代(幕末)の大名。下野喜連川藩の第11代藩主。.

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喜連川町

喜連川町(きつれがわまち)は、かつて栃木県中東部に位置していた町である。塩谷郡に属していた。宇都宮市への通勤率は9.3%(平成12年国勢調査)。奥州街道の宿場町であり、江戸時代には古河公方(足利氏)の末裔が治める喜連川藩が置かれていた。 2005年3月28日に氏家町と新設合併してさくら市となり、廃止した。.

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喜連川煕氏

喜連川 煕氏(きつれがわ ひろうじ)は、江戸時代の大名。下野喜連川藩の第9代藩主。.

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喜連川頼氏

喜連川 頼氏(きつれがわ よりうじ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武士・大名。下野国喜連川藩初代藩主。.

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喜連川騒動

喜連川騒動(きつれがわそうどう)とは、正保4年(1647年)に喜連川藩で起きた、藩内の争いによる藩政の混乱のことである。.

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喜連川茂氏

喜連川 茂氏(きつれがわ しげうじ)は、江戸時代の大名。下野喜連川藩の第5代藩主。.

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喜連川藩

喜連川藩(きつれがわはん)は、関ヶ原の戦いの後に下野国塩谷郡喜連川(現在の栃木県さくら市喜連川)に立藩された藩。藩庁は喜連川陣屋。藩主は足利国朝(正室は古河公方・足利氏姫)を藩祖とする喜連川氏。喜連川氏は足利尊氏の次男・足利基氏の後裔であり、名族足利氏のなかで唯一明治維新まで大名格で存続した家である(分家を入れると細川氏も含まれる)。.

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喜連川恵氏

喜連川 恵氏(きつれがわ やすうじ)は、江戸時代の大名。下野喜連川藩の第7代藩主。.

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喜連川氏

喜連川氏(きつれがわし)は、足利氏の後裔。足利尊氏の次男で室町将軍代理家だった鎌倉公方の足利基氏を祖とする。その鎌倉公方から敵対独立した小弓公方系足利氏が直接の先祖にあたる。豊臣秀吉から下野国喜連川(現・栃木県さくら市)に所領を扶持された際に、喜連川を苗字としたのが興りである。 喜連川藩藩主家として、江戸時代を生き抜き、5千石の旗本交代寄合ではあるが、10万石格の大名としての格式を与えられていた。明治維新をへて華族令で子爵の爵位を授けられた。。.

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喜連川氏連

喜連川 氏連(きつれがわ うじつら)は、江戸時代の大名。下野喜連川藩の第6代藩主。.

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喜連川氏春

喜連川 氏春(きつれがわ うじはる)は、江戸時代の大名。下野喜連川藩の第4代藩主。.

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喜連川昭氏

喜連川 昭氏(きつれがわ あきうじ)は、江戸時代の大名。下野喜連川藩の第3代藩主。.

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八部郡

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元禄

元禄(げんろく、旧字体: 元祿)は日本の元号の一つ。貞享の後、宝永の前。1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.

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兵庫県

兵庫県(ひょうごけん)は、日本の都道府県の一つ。本州の中西部に位置し、近畿地方に属する。県庁所在地は神戸市。.

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兵衛府

兵衛府(ひょうえふ)とは、律令制における官司。左兵衛府と右兵衛府の二つが存在する。長は兵衛督 (左兵衛督・右兵衛督)である。左右近衛府、左右衛門府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。和訓では「つはもののとねりのつかさ」という。唐名は武衛(ぶえい)。.

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前田氏

前田氏(まえだし)は、日本の氏族の一つ。戦国時代に尾張の前田家が台頭し、江戸時代には大名家となった。通字は「利」(とし)。.

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国主

江戸幕藩体制における国主(こくしゅ)は、近世江戸時代の大名の格式のひとつで、領地が一国以上である大名を言い、国持大名ともいう。また、大名家をその居地・居城から格付けする国主(国持大名) - 準国主 - 城主 - 城主格 - 無城(陣屋)のうちの一つである。ここでは国主・準国主について記述する。大国守護でありながら管領や御相伴衆にならない家柄をさす中世室町時代の国持衆が語源。本国持10家(後12家)及び一国持ちではないが、大領を有した大身国持がある。 陸奥国・出羽国についてはその領域が広大であることから、一部しか支配していない仙台藩(伊達氏)・盛岡藩(南部氏)・秋田藩(佐竹氏)・米沢藩(上杉氏)を国主扱いにしている。また肥後国には熊本藩の他に人吉藩や天草諸島(唐津藩領、島原の乱以後は天領)があったが、熊本藩を国主扱いにしている。逆に、国の範囲が狭少であることから壱岐一国一円知行の松浦肥前守(平戸藩)、志摩一国一円知行の稲垣和泉守(鳥羽藩)はそれぞれ国主・国持とはされない。小浜藩(酒井氏)は若狭一国および越前敦賀郡を領するも本家である姫路藩酒井氏との釣り合いから国持とはされない(ただし酒井忠勝は徳川家光により一代限りの国持となったとされる)。 また、大身であっても徳川御三家、松平肥後守(会津藩)、松平讃岐守(高松藩)、井伊掃部頭(彦根藩)も国主・国持という家格には加えない。 また、一部に四品に昇任する家系を国主格ということもある。.

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国府台合戦

国府台合戦(こうのだいかっせん)は、戦国時代に下総国の国府台城(現在の千葉県市川市)一帯で北条氏と里見氏をはじめとする房総諸将との間で戦われた合戦である。天文7年(1538年)の第一次合戦と永禄6年(1563年)と7年(1564年)の第二次合戦に大別される(「第二次合戦」は近年まで同じ国府台で行われた2回の合戦を同一の合戦のものと誤解されてきたために1個の合戦として扱われている)。.

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四品以上に昇進する大名家一覧

四品以上に昇進する大名家一覧(しほん いじょうに しょうしんする だいみょうけ いちらん)は、四品(四位)以上の位階に叙される大名家の一覧である。.

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石 (単位)

石(こく)は、尺貫法における体積(容量)の単位の一つ。 古代の中国においては、「石」は質量の単位であった。現在は質量の単位としては「担」、体積の単位としては「石」と書く。日本ではもっぱら体積の単位としてのみ用いられた。.

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石高

石高(こくだか)とは、近世の日本において、土地の生産性を石という単位で表したもの。太閤検地以降、地租改正まで、大名・旗本の収入および知行や軍役等諸役負担の基準とされ、所領の規模は面積ではなく石高で表記された。また農民に対する年貢も石高を元にして徴収された。.

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秋元与助

秋元 与助(あきもと よすけ)は、幕末の下野喜連川藩の家老。 喜連川生まれで、秋元家は曽祖父の広伴の時代から喜連川藩に侍医・儒臣として仕えた家柄で、与助の代で4代目となる。喜連川藩の第9代藩主である煕氏に仕えたが、天保6年(1835年)に侍医を辞めて儒臣として藩に仕えている。煕氏の藩政改革に協力し、藩校の翰林館が設立されると、その教頭となって子弟の教育に務めた。 煕氏の死後、家老の二階堂貞明が失脚すると家老として藩政をとる。倹約や貧民救済、文学振興に務め、明治元年(1868年)には藩の権大参事となった。明治2年(1869年)に明治政府によって公議所が設立されると、公議人に任命され、公議所が集議院と改称されると集議員に任命された。この年の9月27日には文化人であることが広く知られていたため、明治天皇の御前で講演を務めている。版籍奉還後は全ての官位を辞して隠退し、以後は史書編纂などの文化活動に専念した。その関係で明治16年(1883年)に栃木県史誌編輯史料取調委員に任命された。 明治18年(1885年)3月16日に死去した。享年85。 晩年の著書は千以上になり、主な著作に『栃木県史』や『塩谷紀略』などがある。なお、与助は明治になって梅園と号したが、これは彼が梅が大好きで藩校に何本も梅を植えたことなどに由来するという。.

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素襖

素襖(すおう)は、日本の男性の伝統的衣服の一種。素袍とも書く。室町時代にできた単 (ひとえ) 仕立ての直垂。庶民が着用したが、江戸時代に平士・陪臣の礼服になった。.

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細川氏

細川氏(ほそかわし)は、本姓は源氏、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。清和源氏の名門足利氏の支流。名字は鎌倉時代に三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)に土着したことに由来する。 南北朝時代に足利尊氏に従って発展し、嫡流は室町幕府の管領家に列する有力守護大名となる。また江戸時代には、傍流から肥後熊本藩54万石の藩主家を出した。.

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直垂

垂 『和漢三才図会』(1702年) thumb 直垂(ひたたれ)は、主に武家社会で用いられた男性用衣服、日本の装束の一つである。 直垂からは「大紋直垂」・「素襖直垂」・鎧下に着る「鎧直垂」・「肩衣」などが時代と共に生じていく。.

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芳賀郡

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鎌倉公方

明徳2年/元中8年(1391年)時点の鎌倉公方管轄国 新編鎌倉志-関東公方屋敷図 鎌倉公方(かまくらくぼう)とは、室町時代に京都に住む室町幕府の将軍が関東十か国を統治するために設置した鎌倉府の長官。足利尊氏の四男・足利基氏の子孫が世襲。鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置された。関東公方とも称するが、この場合鎌倉公方の後身である古河公方も含まれた呼称となる。関東十か国とは、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐。 鎌倉公方は、将軍から任命される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎない。「鎌倉殿(公方)」の当初の正式な役職名は「関東管領」であり、上杉氏は「執事」であったが、やがて執事家が関東管領となり、本来の「関東管領家」が「鎌倉(関東)公方」となった。 ※鎌倉公方は歴史学用語及び鎌倉公方の自称であって当時の一般呼称ではない。当時の一般呼称は“鎌倉御所”か“鎌倉殿”である。.

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華族

華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.

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馬寮

寮(めりょう/うまのつかさ)は、律令制における官司の一つ。唐名では典厩(てんきゅう)。左馬寮(さめりょう/さまりょう)と右馬寮(うめりょう/うまりょう)に分かれていた。.

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高家 (江戸時代)

家(こうけ)は、江戸幕府における儀式や典礼を司る役職。また、この職に就くことのできる家格の旗本(高家旗本)を指す。 役職としての高家を「高家職」と記すことがある。高家旗本のうち、高家職に就いている家は奥高家、非役の家は表高家と呼ばれた。.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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貫(かん)は、尺貫法における質量の単位、また江戸時代以前の通貨の単位である。 江戸時代の一貫は分銅および定位貨幣の実測によれば平均して3.736キログラムで年代を通じてほぼ一定であったが、江戸時代後期(19世紀以降)にやや増加して3.75キログラムを超えたという岩田重雄 『計量史研究』 「近世における質量標準の変化」、日本計量史学会、1979年。1貫は1000匁に当たり、明治時代に 1貫.

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越前松平家

越前松平家(えちぜんまつだいらけ)は、越前国を発祥とする徳川氏の支流で、御家門のひとつ。単に越前家ともいう。越前松平家または越前家という呼称は、徳川家康の次男秀康を家祖とする一門全体を指す場合と、その領地の場所から福井松平家(福井藩)のみを指す場合とがある。幕末の福井藩主と津山藩主は徳川将軍家から養子を迎えたため、御家門筆頭とほぼ同等の扱いを受けた。.

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足利基氏

足利 基氏(あしかが もとうじ)は、南北朝時代の武将。初代鎌倉公方(在職:正平4年/貞和5年9月9日(1349年10月21日) - 正平22年/貞治6年4月26日(1367年5月25日))。後の古河公方の家系の祖でもある。室町幕府初代将軍足利尊氏の四男で、母は正室の赤橋登子(登子の子としては次男)。.

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足利尊氏

足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。.

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足利国朝

足利 国朝(あしかが くにとも)は、安土桃山時代の武士。弟の頼氏が称した名字に因んで喜連川国朝とも呼ばれる。諱の「国」(旧字体:國)、「朝」の両字は祖先にあたる河内源氏の人物が使用したものに由来するもので、何か特別な理由があって先祖・先人に肖る形で名乗ったのであろう。 なお、『喜連川判鑑』では男性の関東公方家当主としては唯一花押の記載がない。.

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足利義氏 (古河公方)

足利 義氏(あしかが よしうじ)は、戦国時代の人物で、第5代古河公方(在職:1552年 - 1583年)。同名の足利義氏から数えて14代目の子孫に当たる。父は第4代古河公方の足利晴氏、母は北条氏綱の娘の芳春院。正室は北条氏康の娘の浄光院 (足利義氏正室)。異母兄弟に足利藤氏や足利藤政がいる。 ※ 日付は、和暦による旧暦。西暦表記の部分は、ユリウス暦とする。.

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足利義明

足利 義明(あしかが よしあき)は、室町時代後期(戦国時代)の武将。足利氏の一門。第2代古河公方足利政氏の子。第3代古河公方足利高基の弟。小弓公方を自称。.

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足利義教

足利 義教(あしかが よしのり、義)は、室町幕府の第6代将軍(在職:1428年 - 1441年)。第3代将軍・足利義満の五男。母は側室の藤原慶子で、第4代将軍・足利義持の同母弟。僧侶時代は義円(ぎえん、義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。.

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足利聡氏

足利 聡氏(あしかが さとうじ)は、幕末・明治初期の大名。下野喜連川藩の第12代(最後)の藩主・知藩事。.

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足利頼純

足利 頼純/頼淳(あしかが よりずみ/よりあつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武士。別名に喜連川頼純。.

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足利高基

足利 高基(あしかが たかもと)は、戦国時代の武将。3代目古河公方(在職:永正9年(1512年) - 天文4年(1535年))。足利政氏の長男。母は不詳。妻は宇都宮成綱の娘・瑞雲院。.

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足利氏

足利氏(あしかがし)は、日本の武家のひとつの軍事貴族。本姓は源氏。家系は清和天皇清和源氏の一族の河内源氏の流れを汲み、鎌倉幕府においては御家人であると同時に将軍家一門たる御門葉の地位にあった。室町時代には嫡流が足利将軍家として天下人となった。藤原秀郷の子孫の藤原姓足利氏(藤姓足利氏)に対して源姓足利氏という場合がある。 通字は、「義」(よし、足利将軍家ほか)または「氏」(うじ、鎌倉時代の歴代当主および鎌倉公方・古河公方家など)。.

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足利氏姫

足利 氏姫(あしかが うじひめ/あしかがの うじひめ/、天正2年(1574年) - 元和6年5月6日(1620年6月6日))は、安土桃山時代から江戸時代前期の女性。文献等では「氏姫」、「氏女」と表記されることが多い 。院号は徳源院。長く分裂して対立してきた古河公方家と小弓公方家を統合し、喜連川公方家への橋渡しをする役割を担った。.

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足利持氏

足利 持氏(あしかが もちうじ)は、室町時代の武将。第4代鎌倉公方(在職:1409年 - 1439年)。第3代鎌倉公方・足利満兼の子。.

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足利成氏

足利 成氏(あしかが しげうじ)は、室町時代から戦国時代の武将。第5代鎌倉公方(1449年 - 1455年)、初代古河公方(1455年 - 1497年)。父は永享の乱で敗死した第4代鎌倉公方足利持氏。鎌倉公方就任時期は文安4年(1447年)とする説も有力。 父持氏と同様、鎌倉公方の補佐役である関東管領及び室町幕府と対立したが、持氏と異なり、約30年間の享徳の乱を最後まで戦い抜き、関東における戦国時代の幕を開ける役割を担った。.

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足利政氏

足利 政氏(あしかが まさうじ)は、戦国時代の武将。2代目古河公方(在職:延徳元年(1489年) - 永正9年(1512年))。父は足利成氏。母は伝心院(簗田満助の養女、満助の兄・簗田直助(なおすけ)の娘)。.

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足利晴氏

足利 晴氏(あしかが はるうじ)は、戦国時代の第4代古河公方(在職:1535年 - 1552年)。室町幕府が正式に認め、尚且つ影響力を持っていた古河公方としては最後の古河公方である。.

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都賀郡

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関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.

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藩(はん)は、諸侯が治める領地、およびその統治組織のことである。.

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里見氏

里見氏(さとみし)は、日本の氏族のひとつ。中世に日本の武家としてはじまった。本姓は源氏(河内源氏)。源(新田)義重の子・義俊を祖とする氏族で、新田氏の庶宗家である。戦国時代、一族からは房総地方を領する戦国大名・安房里見氏が出た。.

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長岡護美

長岡 護美(ながおか もりよし)は、明治期の外交官・華族(子爵)・貴族院議員。錦鶏間祗候、麝香間祗候。肥後熊本藩主・細川斉護の六男。.

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陣屋

復元された兵庫県佐用郡佐用町乃井野の旧三日月藩政庁三日月陣屋 兵庫陣屋絵図/神戸市立博物館蔵 陣屋(じんや)は、江戸時代の幕藩体制における、大名領(藩)の藩庁が置かれた屋敷、また徳川幕府直轄領の代官の住居および役所が置かれた建物のことである。.

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Goo

goo(グー)は、NTTレゾナントが運営するポータルサイトである。名称は「global network が無限大(∞)に拡大し続ける」ことに由来する。NTTグループがサービスするポータルサイト「NTT DIRECTORY」は「OCN navi」へ名称変更後、「OCNサーチ」としてサービスしている。.

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東慶寺

東慶寺(とうけいじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の寺院である。山号は松岡山、寺号は東慶総持禅寺。寺伝では開基は北条貞時、開山は覚山尼と伝える。現在は円覚寺末の男僧の寺であるが、開山以来明治に至るまで本山を持たない独立した尼寺で、室町時代後期には住持は御所様と呼ばれ、江戸時代には寺を松岡御所とも称した特殊な格式のある寺であった寺を指して御所と呼ぶものの初出は1667年(寛文7年)の銅製燈明蓋の銘文であり「鎌倉御所之塔頭二老海珠庵」とある(井上禅定1955 p.39)。現存する中で最古の寺法離縁状は1738年(元文3年)のものであるが、そこでも寺を指して「松ヶ岡御所様」と記している(高木侃2012 p.26)。。また江戸時代には群馬県の満徳寺と共に幕府寺社奉行も承認する縁切寺として知られ、女性の離婚に対する家庭裁判所の役割も果たしていた。.

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栃木県

栃木県(とちぎけん)は、日本の都道府県の一つ。関東地方北部に位置する。県庁所在地は宇都宮市。県内には日光国立公園が立地し、日光・那須などの観光地・リゾート地を有する。.

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武家官位

武家官位(ぶけかんい)とは、主として戦国期から江戸期にかけて、武士が任官または自称した官位(官職と位階)をいう。.

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永享の乱

永享の乱(えいきょうのらん)は、室町時代の永享10年(1438年)に関東地方で発生した戦乱。鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に端を発する、室町幕府6代将軍足利義教が持氏討伐を命じた事件、戦いである。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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江戸藩邸

松平忠昌上屋敷(龍ノ口屋敷)模型 江戸藩邸(えどはんてい)は、江戸時代に江戸に置かれた藩邸(藩の屋敷)である。ただし、江戸時代当時の歴史的呼称ではなく、後世つくられた歴史用語である。当時は、単に武家屋敷もしくは江戸屋敷と呼ばれ、個別の屋敷は当該屋敷を使用する武家の家名を付して○○家屋敷などと呼ばれた。.

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池之端

池之端(いけのはた)は、東京都台東区の町名。現行行政地名は池之端一丁目から池之端四丁目。郵便番号は110-0008。.

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源氏長者

源氏長者(げんじのちょうじゃ)は、源氏一族全体の氏長者の事を指す。原則として源氏のなかでもっとも官位が高い者が源氏長者となる(現任上首)。源氏のなかでの祭祀、召集、裁判、氏爵の推挙などの諸権利を持つ。一般的には、奨学院・淳和院の両別当を兼任するといわれているが、自身も源氏長者だった北畠親房の『職原鈔』によれば、奨学院別当のみでも要件を満たす(その場合、次席が淳和院別当となる)と解説している。.

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月桂院

月桂院(げつけいいん、永禄11年(1568年) - 明暦元年6月17日(1655年7月20日))は、小弓公方・足利頼純の娘。名は嶋(しま)、嶋子あるいは嶋姫、嶋女、お嶋。初めは倉ヶ崎城主・塩谷惟久の正室。後に豊臣秀吉の側室。足利国朝、喜連川頼氏の姉。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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日光県

日光県(にっこうけん)は、1869年(明治2年)に下野国内の幕府領・旗本領を管轄するために明治政府によって設置された県。管轄地域は現在の栃木県に広く分布している。本項では前身の真岡知県事(もおかちけんじ)についても記す。.

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摂津国

摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)は、日本の令制国の一つ。畿内に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。.

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1439年

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1455年

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1538年

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1582年

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1590年

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1593年

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1600年

400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年となる(グレゴリオ暦の規定による)。。.

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1602年

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1647年

記載なし。

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1789年

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1815年

記載なし。

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1839年

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1845年

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1870年

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1871年

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1883年

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