208 関係: そろばん、ねずみ算、ままこ立て、反転、反比例、吉田光由、坂部広胖、塵劫記、大宝律令、大陸、天元術、太閤検地、変数 (数学)、学制、宣教師、官司請負制、安島直円、安政、寺院、対数、小寺裕、小野友五郎、山路主住、川原秀城、川北朝鄰、上野健爾、中川真、中巌円月、中根元圭、帰納、万葉集、三上義夫、三角形、三角法、一関市博物館、九九、九章算術、平均律、幾何学、久留島喜内、久留米藩、二項係数、五経、今村知商、代数学、代数方程式、建築、建部賢弘、会田安明、佐々木力、...、佐藤健一 (和算研究家)、佐野市、体積、徐光啓、微分、微分積分学の基本定理、微分法、徳川吉宗、係数、土木工学、区間 (数学)、ユークリッド原論、ビッグコミック増刊号、ピエール・ド・フェルマー、ピタゴラスの定理、ベルヌーイ数、周易、和算に恋した少女、和田寧、イサーク・ティチング、オイラーのφ関数、オクターヴ、キリスト教、グラフ (関数)、サイクロイド、冪級数、円 (数学)、円周率、円理、内田五観、公式、公理、元 (王朝)、元治、前漢、国立国会図書館、珠算、球、礒村吉徳、神社、神田孝平、福田理軒、積分法、策彦周良、筑後国、筆算、算師、算盤、算道、算額、算術、算法少女、算法少女 (小説)、算木、箕田源二郎、籌算、級数、絵馬、組合せ数学、甲府藩、直角二等辺三角形、遠藤寛子 (作家)、遣唐使、遣隋使、遺題継承、菊池大麓、菱形、面積、順列、表面積、行列式、西田知己、規矩術、解析学、角倉了以、計算、詰将棋、高野長英、魔方陣、財務、部分積分、関孝和、藤原松三郎、藤田貞資、金王八幡宮、長崎海軍伝習所、長谷川寛、長方形、虚数、暦、柳楢悦、授時暦、林鶴一、東京都、東北大学、松永良弼、根上生也、栃木県、梅文鼎、極値、正多角形、正三角形、正方形、武田真元、比例、毛利重能、江戸幕府の地図事業、江戸時代、沢口一之、測量、清、渋谷区、有馬頼ゆき、星宮神社 (佐野市)、明、明治、昭和、易経、新田、日本、日本学士院、日本数学会、数学、数列、数値解析、教科書、曲線、1622年、1627年、1639年、1657年、1679年、1690年、1692年、1722年、1734年、1757年、1769年、1781年、1787年、1807年、1820年、1830年、1840年、1868年、1872年、1873年、1877年、1884年、1887年、1896年、1911年、1940年、1946年、1954年、1997年、2の12乗根、7世紀。 インデックスを展開 (158 もっと) »
そろばん
そろばん そろばん(漢字表記:算盤、十露盤など)とは計算補助用具の一種で、串(細い棒)で刺した珠(たま)を移動させ、その位置で数を表現し、計算の助けとするもの。 日本では珠を用いた計算補助用具(西洋式には「abacus」と呼ぶもの)全般を指す場合にも、「そろばん(ソロバン)」の語が使われることがあるが、本項では東アジア式のそろばんと日本式のそろばん(英語でsoroban 又は Japanese abacus)の双方を解説し、特に日本式のそろばんについて詳説する。.
ねずみ算
ずみ算(ねずみざん)は和算の一つで、「ある期間に、ネズミがどれだけ増えるか」ということを計算する問題である。初出は吉田光由が著した『塵劫記』とされている。 ねずみ算の結果は膨大な数となるため、「急激に数が増えること」を「ねずみ算式に増える」と表現することがある。なお、ネズミ講の語源はねずみ算からきている。文部科学省が定める学習指導要領には、ねずみ算としての指導要領は盛り込まれていない。.
ままこ立て
ままこ立てとは、室町時代に起こった数学遊戯の1つである。 人を環状に並べ、いくつか決まった数(番目)にいる者を順に抜き出して、残った者を決める遊び。ただし枕草子に「継子立」に関する記述があり10世紀頃にはあったと思われる。.
反転
反転(はんてん)とは何らかのものを逆にすること。数学、化学の専門用語としてはそれぞれ以下の意味を持つ。.
反比例
反比例(はんぴれい、inverse proportionality)とは、2つの量があってそれらの一方が他方の逆数に比例していることをいう。量 A, B について A ∝ B−1 が成り立つとき、あるいは同じことだが、定数(比例定数)k を用いて が成り立つとき A は B に反比例する (inversely proportional) という。反比例のことを逆比例(ぎゃくひれい)ともいう。A が B に反比例するとき、A と B を入れ替えても同様のことが成り立つので A と B は(互いに)反比例の関係にあるということもある。またこのとき、入れ替えたあとの比例定数は入れ替える前のそれと等しい; 反比例の記号として ∝−1 を用いることがある; A ∝−1 B.
吉田光由
吉田 光由(よしだ みつよし、慶長3年(1598年) - 寛文12年11月21日(1673年1月8日))は、江戸時代前期の和算家である。.
坂部広胖
坂部 広胖(さかべ こうはん(ひろなお)、宝暦9年(1759年) - 文政7年8月24日(1824年9月16日))は江戸時代中期の和算家。旧姓は戸田氏で坂部姓を経て戸田姓に復する。字は子顕。仮名は勇左衛門。号は中嶽、澗水、また晩成堂尾崎秀樹編『新潮日本人名辞典』(新潮社、1991年) 790頁参照。。.
塵劫記
『塵劫記』(じんこうき)は江戸時代の算術書。.
大宝律令
大宝律令(たいほうりつりょう)は、701年(大宝1年)に制定された日本の律令である。「律」6巻・「令」11巻の全17巻。唐の律令を参考にしたと考えられている。大宝律令は、日本史上初めて律と令が揃って成立した本格的な律令である。.
大陸
大陸と海洋 大陸を色分けで表した動画。様々な考え方を反映するために一部が統合または分割される。例として、ヨーロッパとアジアを合わせてユーラシアとして表した赤系統部分、南北アメリカを一つの大陸と考える緑系統部分がある。 ダイマクション地図では、少ないひずみで各大陸の形状が表現できる。 大陸(たいりく、)とは、地球の地殻上に存在する陸塊である。一般的にはユーラシア大陸・アフリカ大陸・北アメリカ大陸・南アメリカ大陸・オーストラリア大陸・南極大陸の6つの陸上部分を指すが、これは相対的な判断によるもので厳格な基準は設けられていない "Most people recognize seven continents—Asia, Africa, North America, South America, Antarctica, Europe, and Australia, from largest to smallest—although sometimes Europe and Asia are considered a single continent, Eurasia."。衝突や分裂など大陸の動きは、かつては大陸移動説として説明されたプレートテクトニクスで理論化され、地質学の研究課題となっている。.
天元術
天元術(てんげんじゅつ)は、中国で生まれた代数問題の解法である。.
太閤検地
太閤検地(たいこうけんち)は、羽柴秀吉が日本全土で行なった検地(田畑(山林は除く)の測量及び収穫量調査)。天正の石直し、文禄の検地ともいう。.
変数 (数学)
数学、特に解析学において変数(へんすう、variable)とは、未知あるいは不定の数・対象を表す文字記号のことである。代数学の文脈では不定元(ふていげん、indeterminate)の意味で変数と言うことがしばしばある。方程式において、特別な値をとることがあらかじめ期待されている場合、(みちすう)とも呼ばれる。また、記号論理学などでは(変数の表す対象が「数」に限らないという意味合いを込めて)変項(へんこう)とも言う。.
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学制
学制(がくせい、明治5年8月2日太政官第214号)は、明治5年8月2日(1872年9月4日)に太政官より発された、日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令である。109章からなり、「大中小学区ノ事」「学校ノ事」「教員ノ事」「生徒及試業ノ事」「海外留学生規則ノ事」「学費ノ事」の6項目を規定した。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画し、身分・性別に区別なく国民皆学を目指した。教育令(明治12年太政官布告第40号)の公布により、1879年(明治12年)9月29日に廃止された。.
宣教師
宣教師(せんきょうし)は、ある特定の思想や宗教を伝えるために、自分の属する共同体を離れて活動する者のこと。もともとはキリスト教用語で、イエス・キリストの高弟たちのことを使徒と呼ぶが、そのギリシア語表現であるアポストロス(απόστολος)本来の意味は「遣わされた者」であり、これがラテン語に訳された際に、同じ意味を持つ"missio"の語が充てられた。宣教師を意味するヨーロッパの各言語における表記は、このラテン語表記に由来する。(missionary、Missionarなど。)現代では本来のキリスト教用語として意味だけでなく、広義で新思想の普及者を指してそう呼ぶことがある。.
官司請負制
官司請負制(かんしうけおいせい)とは、公家社会において、特定の氏族が特殊技能を家職・家業としてそれに関連する官司を支配し、その上首(責任者)にあたる官職を世襲する体制のこと。律令制の衰退する平安時代後期に発生し、中世もしくは幕末に至るまで継続した。 官司請負制によって継承されるのは、単にその官職が持つ地位や名誉、職権のみではなく、それに付属する所領や課税権限など様々な経済的な権益などを伴っていた。これを「職」と称する。.
安島直円
安島 直円(あじま なおのぶ、享保17年(1732年) - 寛政10年4月5日(1798年5月20日))は江戸時代中期の財政家・和算家。新庄藩士。本姓は藤原氏。家系は藤原秀郷流の安島氏。仮名は万蔵。字は伯規、号は南山。諱は直円。名は資料によっては安島万蔵とも載せ、新庄藩の資料では安嶋直円ともある。父は新庄藩御勘定頭・安島庄右衛門清英。兄弟に安島弥惣次清茂、伊東平蔵直休がいる。妻は於なを。家禄は80石。寛政10年(1798年)江戸藩邸にて没。江戸(現在の東京都港区三田)の曹洞宗常林寺に葬られた他、国元の菩提寺である出羽国最上郡新庄町(山形県新庄市)は桂嶽寺に分骨された。戒名は祖眞院智算量空居士。位階は贈従五位。和算に長け、同門の藤田定資をして「当代の名人」と言わしめ、江戸時代の数学の発展に寄与、後世の人は関孝和と並んで和算の二大焦点と評した家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典第1巻』(新人物往来社、1993年)408頁参照。。.
安政
安政(あんせい)は日本の元号の一つ。嘉永の後、万延の前。1855年嘉永から安政への改元が行なわれたのはグレゴリオ暦1855年1月15日であり、和暦が新年を迎えないうちに西暦だけが新年を迎えている期間であった。安政元年は西暦1855年1月15日から同2月16日までの短い期間であるため、和暦と西暦を一対一で対応させようとする場合、嘉永7年=安政元年=西暦1854年、安政2年=西暦1855年となって実際とはずれが生じる。から1860年までの期間を指す。この時代の天皇は、孝明天皇。江戸幕府将軍は、徳川家定、徳川家茂。.
寺院
日本の寺院の地図記号 寺院(じいん、梵、)は、仏像が祀られ、仏教の出家者が起居し、修行を行う施設である。寺(てら)、仏閣(ぶっかく)ともいう。 本来は仏教用語であるが、神道を除く諸宗教の教会・神殿を指す語としても広く用いられている(ごく稀に神社にも用いられることがある)。.
対数
対数(たいすう、logarithm)とは、ある数 を数 の冪乗 として表した場合の冪指数 である。この は「底を とする の対数(x to base; base logarithm of )」と呼ばれ、通常は と書き表される。また、対数 に対する は(しんすう、antilogarithm)と呼ばれる。数 に対応する対数を与える関数を考えることができ、そのような関数を対数関数と呼ぶ。対数関数は通常 と表される。 通常の対数 は真数, 底 を実数として定義されるが、実数の対数からの類推により、複素数や行列などの様々な数に対してその対数が定義されている。 実数の対数 は、底 が でない正数であり、真数 が正数である場合この条件は真数条件と呼ばれる。 について定義される。 これらの条件を満たす対数は、ある と の組に対してただ一つに定まる。 実数の対数関数 はb に対する指数関数 の逆関数である。この性質はしばしば対数関数の定義として用いられるが、歴史的には対数の出現の方が指数関数よりも先であるネイピア数 のヤコブ・ベルヌーイによる発見が1683年であり、指数関数の発見もその頃である。詳細は指数関数#歴史と概観や を参照。。 y 軸を漸近線に持つ。.
小寺裕
小寺 裕(こてら ひろし 1948年 - )は、日本の教育者、数学史家、和算家。.
小野友五郎
小野 友五郎(おの ともごろう、文化14年10月23日(1817年12月1日) - 明治31年(1898年)10月29日)は、江戸時代末期から明治時代にかけての日本の数学者・海軍軍人・財務官僚。諱は広胖(ひろとき、しばしばこうはんとも音読される)。官位は内膳正。元常陸笠間藩士、後に幕臣。和算家としては広胖、洋算家としては友五郎と呼ばれることが多い。.
山路主住
山路 主住(やまじ ぬしずみ、宝永元年(1704年) - 安永元年12月11日(1773年1月3日))は、江戸時代中期の和算家・天文学者。本姓は平氏。幼名は久次郎。字は君樹。弥左衛門と称し、連貝軒と号した。 中根元圭・松永良弼・久留島喜内らに関流の和算を学んだ。関流三伝。師の中根が徳川吉宗の側近として西暦への改暦を目論んでいたこともあり、宝暦の改暦の際に天文方西川正休・渋川則休の手伝として上京している。しかし改暦で西洋暦は取り上げられず、結果として宝暦暦は貞享暦の改変に留まった。 明和元年(1764年)には天文方に任じられた。改暦後も息子の山路之徽や仙台藩の門人の戸板保佑らと共に西洋暦を研究し、崇禎暦書による西洋暦を完成させている。この暦は天文方の山路家・吉田家などで検証された。寛政の改暦では、麻田剛立らによる暦象考成後編による西洋暦の方が優れていたため、これも採用されなかった。 また関流の和算を集大成し、免許制度を確立するなど、関流和算を広く普及させる基盤を作り上げ、藤田貞資・安島直円・有馬頼徸・松永貞辰・船山輔之・石井雅穎など、関流の発展に大きな影響を及ぼした門人を多く輩出している。 数学の業績にはあまり独創的なものはないが、循環小数の研究は有名である。.
川原秀城
川原秀城(かわはら ひでき、1950年3月15日 - )は、中国思想研究者、東京大学人文社会系研究科名誉教授。東アジアの儒学が専門。 福岡県生まれ。1972年京都大学理学部数学科卒業、1974年同文学部哲学科(中国哲学史専攻)卒業、1980年同大学院文学研究科博士課程単位取得退学、岐阜大学教育学部助教授、1992年東京大学文学部助教授、1995年教授。2015年定年退任。.
川北朝鄰
川北 朝鄰(かわきた ともちか、1840年6月15日(天保11年5月16日) - 1919年(大正8年)2月22日)は、関流七伝免許皆伝の和算家で、参謀本部陸地測量部の測量官を務めた陸軍技師。.
上野健爾
上野 健爾(うえの けんじ、1945年12月11日 - )は、日本の数学者。四日市大学関孝和数学研究所長、法政大学大学院工学研究科教授、日本数学協会会長、京都大学名誉教授。専門は複素多様体論。学力低下問題を中心に数学教育の問題にも言及している。 1945年熊本県生まれ。1968年東京大学理学部数学科卒業。.
中川真
中川 真(なかがわ しん、1951年 - )は、日本の音楽学者、大阪市立大学教授。 奈良県生まれ。京都大学文学部哲学科美学美術史学専攻卒業、大阪大学大学院芸術学専攻修士課程修了。大阪大学文学部助手、京都市立芸術大学音楽学部講師、助教授、大阪市立大学文学研究科教授、国際センター所長兼任。2001年「音と環境の芸術学」で大阪芸術大学博士(芸術文化学)。 サウンドアート、サウンドスケープ、東南アジアの民族音楽を研究する。1992年『平安京 音の宇宙』でサントリー学芸賞、京都音楽賞受賞。小泉文夫音楽賞、インドネシア政府文化表彰など。ガムラン合奏団を主宰し活発な公演活動を行ういっぽう、船場アートカフェにてアート・プロジェクトを企画する。 2012年から開催されている釜ヶ崎芸術大学で講師を務める。.
中巌円月
中巌円月(ちゅうがんえんげつ、正安2年1月6日(1300年1月28日) - 文中4年/応安8年1月8日(1375年2月9日))は、南北朝時代の臨済宗の僧。相模国鎌倉の出身で、俗姓は土屋氏。中巌は道号で、諡号は仏種慧済禅師。 年少期に鎌倉寿福寺(臨済宗建長寺派)に入った後、醍醐寺に入って密教を学び、また曹洞宗の東明慧日に師事した。1325年(正中2年)中国の元に入り、1332年(元弘2年)日本に戻った。その後、万寿寺・建仁寺・建長寺などの住持を歴任し、臨済宗における一派を形成した。 また、数学に詳しく、随筆の『文明軒雑談』には数学や度量衡の話題を多く記している他、自身でも『觽耑算法』という数学書を著しているが、後者は現存していない川本慎自「禅僧の数学知識と経済活動」中島圭一 編『十四世紀の歴史学 新たな時代への起点』(高志書院、2016年) ISBN 978-4-86215-159-9。 神武天皇については、「呉の太伯の子孫」であるとして、「天皇中国人説」を唱えた(山本七平 『現人神の創作者たち』)。.
中根元圭
中根 元圭(なかね げんけい、寛文2年(1662年) - 享保18年9月2日(1733年10月9日))は、江戸時代中期の和算家・天文家である。漢学や音楽理論にも長けていた。名は璋。通称を丈右衛門、字は元圭または元珪とする。また律襲、律聚と号する。 近江国浅井郡の人。京都の白山町に住んでいたため白山先生と呼ばれ、銀座の役人を勤めていた。元々は田中由真の門人であり、早くから『新撰古暦便覧』『三正俗解』『授時暦図解発揮』などの著作がある。 享保6年(1721年)建部賢弘の推薦で江戸に招かれ、天文書などの有用な書に限り洋書の輸入を認めるよう徳川吉宗に進言した。これが享保5年(1720年)に禁書の令が緩められたきっかけとされているが、年号に矛盾があり、進言は享保2年(1717年)とする説もある。享保11年(1726年)に『暦算全書』の訓訳を命じられ、同18年(1733年)72歳の時に完成したが、この歳に没している。 音楽理論にもすぐれ、別々に発展していた雅楽・俗楽それぞれの音階の関係を考察し、1692年に1オクターヴを12乗根に開いた十二平均律を『律原発揮』として著している。.
帰納
帰納(きのう、、)とは、個別的・特殊的な事例から一般的・普遍的な規則・法則を見出そうとする論理的推論の方法のこと。演繹においては前提が真であれば結論も必然的に真であるが、帰納においては前提が真であるからといって結論が真であることは保証されない。 なお数学的帰納法・構造的帰納法・整礎帰納法・完全帰納法・累積帰納法・超限帰納法などの帰納法は、名前と違い帰納ではなく演繹である。.
万葉集
元暦校本万葉集 『万葉集』(まんようしゅう、萬葉集)は、7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集である。天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、成立は759年(天平宝字3年)以後とみられる。 日本文学における第一級の史料であることは勿論だが、方言による歌もいくつか収録されており、さらにそのなかには詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても非常に重要な史料である。.
三上義夫
三上 義夫(みかみ よしお、1875年〈明治8年〉2月16日 - 1950年〈昭和25年〉12月31日)は日本の数学史家、和算研究家。日本の数学と中国の数学を英文で西洋に紹介した。 父親は三上助衛門安忠、母親は勝。妻は近藤幸八郎の三女武。.
三角形
200px 三角形(さんかくけい、さんかっけい、拉: triangulum, 独: Dreieck, 英, 仏: triangle, (古風) trigon) は、同一直線上にない3点と、それらを結ぶ3つの線分からなる多角形。その3点を三角形の頂点、3つの線分を三角形の辺という。.
三角法
三角法(さんかくほう)とは、三角形の角の大きさと辺の長さの間の関係の研究を基礎として、他の幾何学的図形の各要素の量的関係や、測量などへの応用を研究する数学の学問領域の一つである。様々な数学の分野の中でもきわめて古くから存在し、測量や天文学上の計算などの実用上の要求と密接に関連して生まれたものである(→歴史)。三角法と数表を用いることで、直接に測ることの難しい長さを良い精度で求めることができる(→応用分野)。三角法は平面三角法、球面三角法、その他の三角法に分けられる(→平面三角法、→球面三角法、→その他の三角法)。三角関数は歴史的には三角法から派生して生まれた関数である(→三角関数)。.
一関市博物館
一関市博物館(いちのせきしはくぶつかん)は岩手県一関市にある博物館。.
九九
算数における九九(くく)とは自然数の乗法などの計算を表にまとめて語呂よく暗記する方法のことである。足し算九九や引き算九九や掛け算九九や割り算九九があるが、単に九九という場合は、普通1桁同士の掛け算九九を指す。また除数が1桁の割り算九九を八算(はっさん)、二桁を見一などという。.
九章算術
九章算術の1頁。劉徽の註釈本。 宋代の本を復刻した本) 九章算術(きゅうしょうさんじゅつ)とは古代中国の数学書。 著者はわかっておらず、加筆修正を経て次第に現在に伝わる形に完成したとされている。研究によると前漢の張蒼や耿寿昌も加筆した。263年に劉徽が本書の註釈本を制作したことなどから、制作年代は紀元前1世紀から紀元後2世紀と考えられている。『算数書』(1983年12月に湖北省・荊州で発見された)に続いて、古い数学書である。.
平均律
平均律(へいきんりつ)は、1オクターヴなどの音程を均等な周波数比で分割した音律。一般には12平均律を指すことが多い。.
幾何学
最先端の物理学でも用いられるカラビ-ヤウ多様体の一種。現代幾何学では図も書けないような抽象的な分野も存在する。 幾何学(きかがく、)は、図形や空間の性質について研究する数学の分野である広辞苑第六版「幾何学」より。イエズス会マテオ・リッチによる geometria の中国語訳である。以前は geometria の冒頭の geo- を音訳したものであるという説が広く流布していたが、近年の研究により否定されている。 もともと測量の必要上からエジプトで生まれたものだが、人間に認識できる図形に関する様々な性質を研究する数学の分野としてとくに古代ギリシャにて独自に発達しブリタニカ国際大百科事典2013小項目版「幾何学」より。、これらのおもな成果は紀元前300年ごろユークリッドによってユークリッド原論にまとめられた。その後中世以降のヨーロッパにてユークリッド幾何学を発端とする様々な幾何学が登場することとなる。 幾何学というとユークリッド幾何学のような具体的な平面や空間の図形を扱う幾何学が一般には馴染みが深いであろうが、対象や方法、公理系などが異なる多くの種類の幾何学が存在し、現代においては微分幾何学や代数幾何学、位相幾何学などの高度に抽象的な理論に発達・分化している。 現代の日本の教育では、体系的な初等幾何学はほぼ根絶されかけたが、近年、中・高の数学教育で線型幾何/代数幾何を用いない立体を含む、本格的な綜合幾何は見直されつつある。.
久留島喜内
久留島 喜内(くるしま きない、1690年頃? - 宝暦7年11月29日(1758年1月9日))は江戸時代の和算家で将棋指し。本名は義太(よしひろ)。沾数(扇数)と号した。収入のほとんどを酒につぎ込むほどの酒好きで、自身では著書をほとんど残さなかった。その独創的な学説が伝わるのは、弟子が彼の原稿・理論をまとめたことによる。.
久留米藩
久留米藩(くるめはん)は、筑後国御井郡の久留米城(現在の福岡県久留米市)に藩庁を置いた藩。1620年以降幕末まで摂津有馬氏が藩主を務め、21万石を領した。 米藩(べいはん)とも称される。.
二項係数
数学における二項係数(にこうけいすう、binomial coefficients)は二項展開において係数として現れる正の整数の族である。二項係数は二つの非負整数で添字付けられ、添字 を持つ二項係数はふつう \tbinom と書かれる(これは二項冪 の展開における の項の係数である。適当な状況の下で、この係数の値は \tfrac で与えられる)。二項係数を、連続する整数 に対する各行に を から まで順に並べて得られる三角形状の数の並びをパスカルの三角形と呼ぶ。 この整数族は代数学のみならず数学の他の多くの分野、特に組合せ論において現れる。-元集合から -個の元を(その順番を無視して)選ぶ方法が \tbinom nk 通りである。二項係数の性質を用いて、記号 \tbinom nk の意味を、もともとの および が なる非負整数であった場合を超えて拡張することが可能で、そのような場合もやはり二項係数と称する。.
五経
五経(ごけい・ごきょう)または六経(りっけい・りくけい)は、儒教で基本経典とされる5種類または6種類の経書の総称。すなわち『詩』・『書』・『礼』・『楽』・『易』・『春秋』の六経から、はやく失われた『楽』を除いたものが「五経」である。すべて孔子以前からの書物であるが、伝統的な儒教の考えでは孔子の手を経て現在の形になったと考えられている。 ただし、実際に五経として読まれる書物の内容は時代によって異なっており、また孔子以後の儒家たちの注釈である「伝」を含めた形で読まれた。 現行のいわゆる五経は、唐代の『五経正義』以来の『周易』『尚書』『毛詩』『礼記』『春秋左氏伝』である。.
今村知商
今村 知商(いまむら ともあき、ちしょう とも。通称:仁兵衛とも、生没年不詳)は、江戸時代初期の数学者、和算家。河内国狛庄(現:大阪府)出身である。村松茂清と並んで円理の研究の先駆者として知られる。 1640年前後に活動したとされるが、生涯や伝記はほとんど不明で、幼少期の頃から数学を好んでいたことと毛利重能の弟子であり「毛利の三子」の一人であった。安藤有益、平賀保秀、隅田江雲などが知商の弟子であることしか分かっていない。 著書は現存されており、1639年に漢文で書かれた数学に於ける公式集の『堅亥録』や1640年に、数学の問題の解き方を和歌や長歌で記した『因帰算歌』があり、1642年には中国の政治史、政教を記した最古の歴史書である『書経』に記載が確認される閏月についての注釈が宋の蔡沈によって書かれてあるが、更にそれの注釈として計算を詳らかに説明した『日月会合算法』がある。 また、知商は数値を使った計算方法ではなく図形の問題を好んだとされ、後に知商の弟子である安藤有益が1662年に知商の著書『竪亥録』の注釈書である『竪亥録仮名抄』を書いた。 また、1660年に礒村吉徳の『算法闕疑抄』が著されるまで吉田光由が著者の『塵劫記』と知商の『竪亥録』が当時の教科書であった。.
代数学
代数学(だいすうがく、algebra)は数学の一分野で、「代数」 の名の通り数の代わりに文字を用いて方程式の解法を研究する学問として始まった。しかし19世紀以降の現代数学においては、ヒルベルトの公理主義やブルバキスタイルに見られるように、代数学はその範囲を大きく広げているため、「数の代わりに文字を用いる数学」や「方程式の解法の学問」という理解の仕方は必ずしも適当ではない。現代数学においては、方程式の研究は方程式論(代数方程式論)という代数学の古典的一分野として捉えられている。現在は代数学と言えば以下の抽象代数学をさすのが普通である。 現代代数学は、一般的に代数系を研究する学問分野であると捉えられている。以下に示す代数学の諸分野の名に現れる半群・群・環・多元環(代数)・体・束は代数系がもつ代表的な代数的構造である。 群・環・多元環・体の理論はガロアによる代数方程式の解法の研究などに起源があり、束論はブールによる論理学の数学的研究などに起源がある。 半群は、群・環・多元環・体・束に共通する最も原始的な構造である。 現代日本の大学では 1, 2 年次に、微分積分学と並んで、行列論を含む線型代数学を教えるが、線型代数学は線型空間という代数系を対象とすると共に、半群・群・環・多元環・体と密接に関連し、集合論を介して、また公理論であるために論理学を介して、束とも繋がっている。 現代ではまた、代数学的な考え方が解析学・幾何学等にも浸透し、数学の代数化が各方面で進んでいる。ゆえに、代数学は数学の諸分野に共通言語を提供する役割もあるといえる。.
代数方程式
数学において、代数方程式 (だいすうほうていしき、algebraic equation) とは(一般には多変数の)多項式を等号で結んだ形で表される方程式の総称で、式で表せば の形に表されるもののことである。言い換えれば、代数方程式は多項式の零点を記述する数学的対象である。.
建築
建築(けんちく)とは、人間が活動するための空間を内部に持った構造物を、計画、設計、施工そして使用するに至るまでの行為の過程全体、あるいは一部のこと。また、そのような行為によって作られた構造物そのものを指すこともある。後者は建築物とも呼ばれる。.
建部賢弘
建部 賢弘(たけべ かたひろ、寛文4年(1664年)6月 - 元文4年7月20日(1739年8月24日))は、江戸時代中期の数学者。父は旗本の建部直恒。号を不休。.
会田安明
会田安明 会田安明(あいだ やすあき、「やすあきら」とも、延享4年2月10日(1747年3月20日) - 文化14年10月26日(1817年12月4日))は、江戸時代の和算家。字は子貫、自在亭と号す。安旦と表記されることもある。会田算左衛門とも名乗った。.
佐々木力
佐々木 力(ささき ちから、1947年3月7日- )は、日本の科学史学者、元東京大学教養学部教授 - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧:書評自体は上野俊哉によるが、引用箇所は上野の著作範囲外にある。、大学院総合文化研究科教授。中国科学院教授。専門は科学史・科学哲学、とくに数学史であり、日本オイラー研究所名誉所長なども務めたが、「反時代的な社会主義者」を自称するトロツキストでもあり、日本陳独秀研究会会長も務めた - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧。「九条科学者の会」呼びかけ人を務めている。.
佐藤健一 (和算研究家)
佐藤 健一(さとう けんいち、1938年 - )は、日本の数学史研究者。 満州国新京市生まれ。1962年東京理科大学理学部数学科卒業。高校で数学教師をしながら近世寺子屋の数学教育を研究。明治大学付属中野八王子高等学校教頭。東京理科大学非常勤講師、日本数学史学会会長、和算研究所理事長、NPO法人和算を普及する会代表。.
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佐野市
佐野市(さのし)は、栃木県の南西部(安足)に位置する市。旧安蘇郡および足利郡の一部であり、2005年2月28日に旧佐野市、安蘇郡田沼町、同郡葛生町の新設合併により発足した。人口は12万人で足利市に次ぎ栃木県では第5位、近年は佐野ラーメンとアウトレットモールでも有名である。.
体積
体積(たいせき)とは、ある物体が 3 次元の空間でどれだけの場所を占めるかを表す度合いである。和語では嵩(かさ)という。.
徐光啓
徐 光啓(じょ こうけい、嘉靖41年3月21日(1562年4月24日) - 崇禎6年10月7日(1633年11月8日))は、明代末期の中国の暦数学者。有名なキリスト教徒。字は子先。.
微分
数学におけるの微分(びぶん)、微分係数、微分商または導函数(どうかんすう、derivative)は、別の量(独立変数)に依存して決まるある量(函数の値あるいは従属変数)の変化の感度を測るものである。微分は微分積分学の基本的な道具である。例えば、動く物体の位置の時間に関する導函数はその物体の速度であり、これは時間が進んだときその物体の位置がどれほど早く変わるかを測る。 一変数函数の適当に選んだ入力値における微分係数は、その点における函数のグラフの接線の傾きである。これは導函数がその入力値の近くでその函数の最適線型近似を記述するものであることを意味する。そのような理由で、微分係数はしばしば「瞬間の変化率」として記述される。瞬間の変化率は独立変数に依存する従属変数である。 微分はにも拡張できる。この一般化において、導函数はそのグラフが(適当な変換の後)もとの函数のグラフを最適線型近似する線型変換と解釈しなおされる。ヤコビ行列はこの線型変換を独立および従属変数を選ぶことで与えられる基底に関して表現する行列であり、独立変数に関する偏微分を用いて計算することができる。多変数実数値函数に対して、ヤコビ行列は勾配に簡約される。 導函数を求める過程を微分あるいは微分法、微分演算 (differentiation) と言い、その逆の過程(原始函数を求めること)をという。微分積分学の基本定理は反微分が積分と同じであることを主張する。一変数の微分積分学において微分と積分は基本的な操作の二本柱である。.
微分積分学の基本定理
微分積分学の基本定理(びぶんせきぶんがくのきほんていり、fundamental theorem of calculus)とは、「微分と積分が互いに逆の操作・演算である」 ということを主張する解析学の定理である。微分積分法の基本定理ともいう。ここで「積分」は、リーマン積分のことを指す。 この事実こそ、発見者のニュートンやライプニッツらを微分積分学の創始者たらしめている重要な定理である。 この定理は主に一変数の連続関数など素性の良い関数に対するものである。これを多変数(高次元)の場合に拡張する方法は一つではないが、ベクトル解析におけるストークスの定理はその一例として挙げられるだろう。また、どの程度病的な関数について定理が成り立つのかというのも意味のある疑問であるといえる。 現在では微分積分学の初期に学ぶ基本的な定理であるが、この定理が実際に発見されたのは比較的最近(17世紀)である。この定理が発見されるまでは、微分法(曲線の接線の概念)と積分法(面積・体積などの求積)はなんの関連性も無い全く別の計算だと考えられていた。.
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微分法
数学における微分法(びぶんほう、differential calculus; 微分学)は微分積分学の分科で、量の変化に注目して研究を行う。微分法は積分法と並び、微分積分学を二分する歴史的な分野である。 微分法における第一の研究対象は函数の微分(微分商、微分係数)、および無限小などの関連概念やその応用である。函数の選択された入力における微分商は入力値の近傍での函数の変化率を記述するものである。微分商を求める過程もまた、微分 (differentiation) と呼ばれる。幾何学的にはグラフ上の一点における微分係数は、それが存在してその点において定義されるならば、その点における函数のグラフの接線の傾きである。一変数の実数値函数に対しては、一点における函数の微分は一般にその点における函数の最適線型近似を定める。 微分法と積分法を繋ぐのが微分積分学の基本定理であり、これは積分が微分の逆を行う過程であることを述べるものである。 微分は量を扱うほとんど全ての分野に応用を持つ。たとえば物理学において、動く物体の変位の時間に関する導函数はその物体の速度であり、速度の時間に関する導函数は加速度である。物体の運動量の導函数はその物体に及ぼされた力に等しい(この微分に関する言及を整理すればニュートンの第二法則に結び付けられる有名な方程式 が導かれる)。化学反応の反応速度も導函数である。オペレーションズ・リサーチにおいて導函数は物資転送や工場設計の最適な応報の決定に用いられる。 導函数は函数の最大値・最小値を求めるのに頻繁に用いられる。導函数を含む方程式は微分方程式と呼ばれ、自然現象の記述において基本的である。微分およびその一般化は数学の多くの分野に現れ、例えば複素解析、函数解析学、微分幾何学、測度論および抽象代数学などを挙げることができる。.
徳川吉宗
徳川 吉宗(とくがわ よしむね)は、江戸幕府第8代将軍。将軍就任以前は越前国葛野藩主、紀州藩第5代藩主を務めた。 徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。初代将軍・徳川家康は曾祖父に当たる。父と2人の兄の死後、紀州藩主を継ぎ藩財政の再建に努め、成果を挙げた。第7代将軍・徳川家継の死により秀忠の血をひく徳川将軍家の男系男子が途絶えると、6代将軍家宣の正室・天英院の指名により御三家出身では初の養子として宗家を相続し、江戸幕府の第8代将軍に就任した。紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、将軍家宣時代の正徳の治を改める幕政改革を実施。幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、市民の意見を取り入れるための目安箱の設置などの享保の改革を実行した。徳川家重に将軍の座を譲った後も大御所として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことから米将軍(八十八将軍)と呼ばれた。 この幕府改革で破綻しかけていた財政の復興などをしたことから中興の祖と呼ばれる。年貢率を引き上げるなど農民を苦しめた上で成り立った改革だったため、百姓一揆の頻発を招いた。また、庶民にも倹約を強いたため、景気は悪化し、文化は停滞した。.
係数
係数(けいすう、coefficient)は、多項式の各項(単項式)を構成する因子において、変数(不定元)を除いた、定数等の因子である。例えば、4α+3β+2における、4と3と2である。この例では2がそれであるが、それ自体で項全体となっている項(あるいは、形式的には 1に掛かっている係数)を、特に定数項と呼ぶ。.
土木工学
土木工学(どぼくこうがく、civil engineering)とは、良質な生活空間の構築を目的として、自然災害からの防御や社会的・経済的基盤の整備のための技術(土木技術)について研究する工学である。.
区間 (数学)
数学における(実)区間(じつくかん、(real) interval)は、実数からなる集合で、その集合内の任意の二点に対しその二点の間にあるすべての数がその集合に属するという性質を持つものである。例えば、 を満たす数 全体の成す集合は、 と, およびその間の数すべてを含区間である。他の著しい例として、実数全体の成す集合, 負の実数全体の成す集合および空集合などが挙げられる。 実区間は積分および測度論において、「大きさ」「測度」「長さ」などと呼ばれる量を容易に定義できるもっとも単純な集合として重要な役割がある。測度の概念は実数からなるより複雑な集合に対して拡張され、ボレル測度やルベーグ測度といったような概念までにつながっていく。 不確定性や数学的近似および算術的丸めがあっても勝手な公式に対する保証された一定範囲を自動的に与える一般の法としてのを考えるにあたって、区間はその中核概念を成す。 勝手な全順序集合、例えば整数の集合や有理数の集合上でも、区間の概念は定義することができる。.
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ユークリッド原論
ュリュンコスで発見された『ユークリッド原論』のパピルスの写本断片。紀元100年ごろの作。図は『原論』第2巻の命題5に添えられたもの。 ユークリッド原論(ユークリッドげんろん)は、紀元前3世紀ごろにエジプトのアレクサンドリアの数学者ユークリッドによって編纂されたと言われる数学書『原論』(げんろん、Στοιχεία, ストイケイア、Elements)のことである。著者のユークリッドに関する資料は乏しく実在性を疑う説もあり、原論執筆の地がアレクサンドリアであることに対する明確な根拠も無い。プラトンの学園アカデメイアで知られていた数学の成果を集めて体系化した本と考えられており、論証的学問としての数学の地位を確立した古代ギリシア数学を代表する名著である。古代の書物でありながらその影響は古代に留まらず、後世の人々によって図や注釈が加えられたり翻訳された多種多様な版が作られ続け、20世紀初頭に至るまで標準的な数学の教科書の一つとして使われていたため、西洋の書物では聖書に次いで世界中で読まれてきた本とも評される。英語の数学「Mathematics」の語源といわれているラテン語またはギリシア語の「マテーマタ」(Μαθήματα)は「レッスン(学ばれるべきことども)」という意味であり、このマテーマタを集大成したものが『原論』である。.
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ビッグコミック増刊号
『ビッグコミック増刊号』は、小学館発行の男性向け漫画雑誌『ビッグコミック』の姉妹誌。年5回、2月(かつては3月)・5月・7月・9月・11月の17日に発売されている。.
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ピエール・ド・フェルマー
ピエール・ド・フェルマー ピエール・ド・フェルマー(Pierre de Fermat、1607年末または1608年初頭 - 1665年1月12日)はフランスの数学者。「数論の父」とも呼ばれる。ただし、職業は弁護士であり、数学は余暇に行ったものである。.
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ピタゴラスの定理
90 度回転し、緑色の部分は裏返して橙色に重ねる。 視覚的証明 初等幾何学におけるピタゴラスの定理(ピタゴラスのていり、Pythagorean theorem)は、直角三角形の3辺の長さの関係を表す。斜辺の長さを, 他の2辺の長さを とすると、定理は が成り立つという等式の形で述べられる。三平方の定理(さんへいほうのていり)、勾股弦の定理(こうこげんのていり)とも呼ばれる。 ピタゴラスの定理によって、直角三角形をなす3辺の内、2辺の長さを知ることができれば、残りの1辺の長さを知ることができる。例えば、直交座標系において原点と任意の点を結ぶ線分の長さは、ピタゴラスの定理に従って、その点の座標成分を2乗したものの総和の平方根として表すことができる2次元の座標系を例に取ると、ある点 の 軸成分を, 軸成分を とすると、原点から までの距離は と表すことができる。ここで は平方根を表す。。このことは2次元の座標系に限らず、3次元の系やより大きな次元の系についても成り立つ。この事実から、ピタゴラスの定理を用いて任意の2点の間の距離を測ることができる。このようにして導入される距離はユークリッド距離と呼ばれる。 「ピタゴラスが直角二等辺三角形のタイルが敷き詰められた床を見ていて、この定理を思いついた」など幾つかの逸話が知られているものの、この定理はピタゴラスが発見したかどうかは分からない。バビロニア数学のプリンプトン322や古代エジプトなどでもピタゴラス数については知られていたが、彼らが定理を発見していたかどうかは定かではない。 中国古代の数学書『九章算術』や『周髀算経』でもこの定理が取り上げられている。中国ではこの定理を勾股定理、商高定理等と呼び、日本の和算でも中国での名称を用いて鉤股弦の法(こうこげんのほう)等と呼んだ。三平方の定理という名称は、敵性語が禁じられていた第二次世界大戦中に文部省の図書監修官であった塩野直道の依頼を受けて、数学者末綱恕一が命名したものである。.
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ベルヌーイ数
ベルヌーイ数 (ベルヌーイすう、Bernoulli number) は数論における基本的な係数を与える数列であり、もともと、連続する整数のべき乗和を定式化する際の展開係数として1713年にヤコブ・ベルヌーイが著書 Ars Conjectandi (推測術) にて導入したことからこの名称がついた。ベルヌーイ数は、べき乗和の展開係数にとどまらず、級数展開の係数や剰余項、リーマンゼータ関数においても登場する。また、ベルヌーイ数はすべてが有理数である。.
周易
周易(しゅうえき)は易経に記された、爻辞、卦辞、卦画に基づいた占術である。「易」の意味は、変化、蜥蜴、日月、など、昔から諸説ある。伝説によると易経は周王朝時代に成立した、中国で最初の書物とされているが、易経の繋辞伝は漢の時代に成立したものなので、伝説以上のものではない。中国哲学研究者の三浦國雄はその著書において、易経について、 もともとこれは、おみくじのような断片的な占いのことばだったはずですが、一冊のテキストに編集されていく過程でずいぶん化粧をほどこされ、いつの間にか『易経』などと呼ばれて神聖な儒教の経典の仲間入りどころか、そのトップに祀り上げられたのです。 「化粧をほどこされ」たと述べたのは、漢の時代に繋辞伝をはじめとする注釈が書かれたことを指していて、これでこの書物もずいぶんらしくなったのですが、それでも卜筮の書というその性格が否定されたわけではありませんでした。 と語っている。 易経は、古い時代からの卜辞の集積から爻辞が生まれ、次いで卦名、卦辞が作成されるといった変遷を経て成立したものであることが、近年の出土資料からはっきりしてきた。そういった考察をまとめた研究の1つに、元勇準の「『周易』の儒教経典化研究: 出土資料『周易』を中心に」がある。また1977年に安徽阜陽双古堆の西漢汝陰候墓から出土した、阜陽漢簡『周易』には卦辞爻辞に対して卜辞が付けられていて、詳細な占筮の書として使用されていたことを裏付けている。 従って台湾の邵詩譚や徐世大などの「周易の本文は卜筮のために書かれたものではない」という説は今日では成立の余地が殆んどない。 易経は周易の原文である爻辞、卦画、卦名、卦辞に十翼と呼ばれる附文を加えたものである。古くは十翼は孔子の作と伝説的に言われてきたが、十翼の文体は孔子の時代の文体よりはるかに新しく、漢代以降の文体であることは、現代の学者の認めるところである。古くは北宋の欧陽脩が既に孔子説を否定している。 また周易とは別に易の名を持つ占術に、断易や五行易とよばれる占術がある。これは易卦の爻に十干十二支を付加し、その五行の消長によって吉凶を断じるものである。ただ五行易の原典の1つである易冒では、易卦の爻に変化するものがない鎮静卦における占断は易卦の卦辞に従うとしており、断易もまた周易から切り離されたものではない。.
和算に恋した少女
『和算に恋した少女』(わさんにこいしたしょうじょ)は、中川真(脚本)、風狸けん(作画)による日本の漫画。小学館の『ビッグコミック増刊号』で2011年から2014年まで連載(当初は不定期)、また『ビッグコミック』(同社刊)にも同期間に不定期で掲載された。 和算家の少女律と同心転のコンビを主人公に、江戸時代の江戸で起きた数学に絡んだ事件を解決していく一話完結タイプの推理漫画である。.
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和田寧
和田 寧(わだ ねい、天明7年(1787年) - 天保11年9月18日(1840年10月13日))は、江戸時代の和算家・武士。前名は香山政明、字は子永、通称は直五郎、豊之進。号は算学、円象。.
イサーク・ティチング
イサーク・ティチング(イサーク・チチング、イサーク・ティツィングとも表記される。Isaac Titsingh。1745年1月10日-1812年2月2日)は、オランダの外科医、学者、在日オランダ商館長(カピタン)、駐清オランダ大使。アムステルダム出身。 ティチングは、東アジアで長く経験を積み、オランダ東インド会社の最高位職を歴任した。江戸時代中期の1779年から1784年の間3度にわたりオランダ商館長として日本に滞在し、1785年には、ベンガルのチンスラでオランダ東インド会社総督に就任した。清との貿易に関心を寄せたティチングは、1795年、実質的なオランダ大使として乾隆帝の治世60年記念式典に列席した。.
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オイラーのφ関数
φ(''n'')の最初の1000個の値 オイラーのトーシェント関数(オイラーのトーシェントかんすう、Euler's totient function)は各正の整数 に対して、 から までの自然数のうち と互いに素なものの個数を として与えることによって定まる数論的関数 である。慣例的に と表記されるため、オイラーの 関数(ファイかんすう、phi function)とも呼ばれる。また、簡略的にオイラーの関数と呼ぶこともある。 例えば、 のうち と互いに素なのは の 2 個であるから、定義によれば である。また例えば のうち 以外は全て と互いに素だから、 と定まる。なおトーシェント関数の値域に含まれない自然数をノントーシェントという。 から までの値は以下の通りである。 1761年にレオンハルト・オイラーが発見したとされるが、それより数年前に日本の久留島義太が言及したとも言われる。.
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オクターヴ
ターヴは、西洋音楽における8度音程であり、周波数比2:1の音程である。 「オクターブ」とも表記される。.
キリスト教
リスト教で最も頻繁に用いられるラテン十字 アギア・ソフィア大聖堂にある『全能者ハリストス』と呼ばれるタイプのモザイクイコン。 キリスト教(キリストきょう、基督教、Χριστιανισμός、Religio Christiana、Christianity)は、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教「キリスト教」『宗教学辞典』東京大学出版会、1973年、146頁。「キリスト教」『大辞泉』増補・新装版、小学館、1998年11月20日、第一版、714頁。 小学館、コトバンク。。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。その多く(正教会正教会からの出典:・東方諸教会東方諸教会からの出典:・カトリック教会カトリック教会からの出典:・聖公会聖公会からの出典:・プロテスタントルーテル教会からの出典:改革派教会からの出典:バプテストからの出典:メソジストからの参照:フスト・ゴンサレス 著、鈴木浩 訳『キリスト教神学基本用語集』p103 - p105, 教文館 (2010/11)、ISBN 9784764240353など)は「父なる神」「御父」(おんちち、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)。と「その子キリスト」「御子」(みこ、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)・「子なる神」。と「聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。 世界における信者数は20億人を超えており、すべての宗教の中で最も多い。.
グラフ (関数)
関数のグラフ(graph)は、直観的には、関数を平面内の曲線もしくは空間内の曲面としてダイアグラム状に視覚化したものである。形式的には、関数 のグラフとは、順序対 の集合である。 例えば、 と が常に実数であるような関数の場合、グラフは座標平面上の点の集まりとみなすことができる。このような関数のうち、応用上重要な関数の多くは、グラフを座標平面上に曲線として描くことが可能である。 グラフの概念は、関数のみならず、より一般の写像や対応に対しても定義される。標語的には、グラフは関数や対応を特徴付ける集合であるといえる。.
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サイクロイド
right サイクロイド (cycloid) とは、円がある規則にしたがって回転するときの円上の定点が描く軌跡として得られる平面曲線の総称である。一般にサイクロイドといえば定直線上を回転するものを指すことが多い。サイクロイドと併せて外サイクロイドや内サイクロイドについても解説する。.
冪級数
数学において、(一変数の)冪級数(べききゅうすう、power series)あるいは整級数(せいきゅうすう、série entière)とは の形の無限級数である。ここで は 番目の項の係数を表し、 は定数である。この級数は通常ある知られた関数のテイラー級数として生じる。 多くの状況において (級数の中心 (center))は である。例えばマクローリン級数を考えるときがそうである。そのような場合には、冪級数は簡単な形 \sum_^\infty a_n x^n.
円 (数学)
数学において、円(えん)とは、平面(2次元ユークリッド空間)上の、定点 O からの距離が等しい点の集合でできる曲線のことをいう。ここで現れる定点 O を円の中心と呼ぶ。円には、その中心が1つあり、また1つに限る。中心から円周上の 1 点を結んだ線分を輻(や)とよび、その長さを半径というが、現在では輻のことを含めて半径と呼ぶことが多い。中心が点 O である円を、円 O と呼ぶ。定幅図形の一つ。 円が囲む部分、すなわち円の内部を含めて円ということもある。この場合は、曲線のことを円周という。これに対して、内部を含めていることを強調するときには円板という。また、三角形、四角形などと呼称を統一して、円形ということもある。 数学以外の分野ではこの曲線のことを「丸(まる)」という俗称で呼称することがある。 円: 中心、半径・直径、円周.
円周率
円周率(えんしゅうりつ)は、円の周長の直径に対する比率として定義される数学定数である。通常、ギリシア文字 (パイ、ピー、ラテン文字表記: )で表される。数学をはじめ、物理学、工学といった様々な科学分野に出現し、最も重要な数学定数とも言われる。 円周率は無理数であり、その小数展開は循環しない。円周率は、無理数であるのみならず、超越数でもある。 円周率の計算において功績のあったルドルフ・ファン・コーレンに因み、ルドルフ数とも呼ばれる。ルドルフは、小数点以下35桁までを計算した。小数点以下35桁までの値は次の通りである。.
円理
円理(えんり)とは、和算において、円周・曲線の長さや円の面積、球の体積といった円や弧に関する算法、およびそこから派生した各種の理論を指す。.
内田五観
内田 五観(うちだ いつみ、文化2年(1805年)3月 - 明治15年(1882年)3月29日)は和算家である。 通称は恭または弥太郎、号は宇宙堂。文化12年(1815年)関流宗統五伝の日下誠(号を五瀬(いつせ))の算学塾に入門し、文政5年(1822年)18歳で宗統を譲られる。天保2年(1831年)に蘭学者の高野長英に入門した。天保3年(1832年)『古今算鑑』を著す。天保5年(1834年)富士山の高さを測量し、3475.7mの値を得て、『日本高山直立一覧』を著す。天保9年(1838年)韮山代官の江川英龍のもとで江戸湾の測量を行う。その後江戸幕府の職を辞し、私塾で門弟の指導にあたる。明治2年(1869年)陰陽寮が廃止されて大学校天文暦道局が設置されると、天文暦道御用掛に任じられ星学局督務などを務めたが、太陽暦への改暦によって天文局は廃止された。後に内務省で度量衡の統一にかかわった。東京学士会院の創立時の会員でもある。.
公式
数学において公式(こうしき)とは、数式で表される定理のことである。転じて比喩的に「問題を簡単に解決することができる魔法のようなもの」というような意味で用いられることがある。同様な意味で「方程式」という言葉が用いられることも多い。.
公理
公理(こうり、axiom)とは、その他の命題を導きだすための前提として導入される最も基本的な仮定のことである。一つの形式体系における議論の前提として置かれる一連の公理の集まりを (axiomatic system) という 。公理を前提として演繹手続きによって導きだされる命題は定理とよばれる。多くの文脈で「公理」と同じ概念をさすものとして仮定や前提という言葉も並列して用いられている。 公理とは他の結果を導きだすための議論の前提となるべき論理的に定式化された(形式的な)言明であるにすぎず、真実であることが明らかな自明の理が採用されるとは限らない。知の体系の公理化は、いくつかの基本的でよく知られた事柄からその体系の主張が導きだせることを示すためになされることが多い。 なお、ユークリッド原論などの古典的な数学観では、最も自明(絶対的)な前提を公理、それに準じて要請される前提を公準 (postulate) として区別していた。.
元 (王朝)
元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心領域として、東アジア・北アジアの広大な土地を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で国姓は「奇渥温」である。伝統的な用語上では、「モンゴル帝国が中国に支配後、中華王朝に変化した国」というように認定されたが、視点によって「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」と、様々な意見もある。 中国王朝としての元は、唐崩壊(907年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 - 1644年)が中国統治を引き継ぐ。しかし、中国歴代征服王朝(遼・金・清など)の中でも元だけが「政治制度・民族運営は中国の伝統体制に同化されなく、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特有性も強く持つ」のような統治法を行った。一方、行政制度や経済運営の面では、南宋の仕組みをほぼ潰して、中華王朝従来の体制を継承してることとは言わない。.
元治
元治(げんじ)は日本の元号の一つ。文久の後、慶応の前。1864年から1865年までの期間。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂。.
前漢
前漢(ぜんかん、紀元前206年 - 8年)は、中国の王朝である。秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、長安を都とした。 7代武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、14代孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡。その後、漢朝の傍系皇族であった劉秀(光武帝)により再興される。前漢に対しこちらを後漢と呼ぶ。 中国においては東の洛陽に都した後漢に対して西の長安に都したことから西漢と、後漢は東漢と称される。前漢と後漢との社会・文化などには強い連続性があり、その間に明確な区分は難しく、前漢と後漢を併せて両漢と総称されることもある。この項目の社会や文化の節では前漢・後漢の全体的な流れを記述し、後漢の項目では明確に後漢に入って流れが変化した事柄を記述する。 漢という固有名詞は元々は長江の支流である漢水に由来する名称であり、本来は劉邦がその根拠地とした漢中という一地方をさす言葉に過ぎなかったが、劉邦が天下統一し支配が約400年に及んだことから、中国全土・中国人・中国文化そのものを指す言葉になった(例:「漢字」)。 文中の単位については以下の通り。距離・1里=30歩=1800尺=415m 面積・1畝=1/100頃=4.65a 重さ・1/120石=1斤=16両=384銖.
国立国会図書館
国立国会図書館(こくりつこっかいとしょかん、英称:)は、日本の国会議員の調査研究、行政、ならびに日本国民のために奉仕する図書館である。また、納本制度に基づいて、日本国内で出版されたすべての出版物を収集・保存する日本唯一の法定納本図書館である。設置根拠は国会法第130条及び国立国会図書館法第1条。 国立国会図書館は、日本の立法府である国会に属する国の機関であり、国会の立法行為を補佐することを第一の目的とする議会図書館である。同時に、納本図書館として日本で唯一の国立図書館としての機能を兼ねており、行政・司法の各部門および日本国民に対するサービスも行っている。バーチャル国際典拠ファイルに参加している。 施設は、中央の図書館と、国立国会図書館法3条に定められた支部図書館からなる。中央の図書館として東京本館(東京都千代田区永田町)および関西館(京都府相楽郡精華町精華台)が置かれ、また東京本館に付属して国会分館がある。 支部図書館としては国際子ども図書館(東京都台東区上野公園)のほか、司法機関に1館(最高裁判所図書館)、国立国会図書館法の規定により行政各部門に置かれる支部図書館及びその職員に関する法律(昭和24年法律第101号。支部図書館法)に基づいて行政機関に26館が置かれる。.
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珠算
算(しゅざん)とはそろばんを使った計算のことである。 珠算発祥地の中国が、珠算を2013年にユネスコの無形文化遺産に申請し登録された。.
球
球(きゅう、ball)とは、.
礒村吉徳
村 吉徳(いそむら よしのり、? - 1711年2月11日(宝永7年12月24日))は、江戸時代初期に活躍した数学者。文蔵、喜兵衛とも名乗った。号は泥竜、琢鳴である。1660年頃に書かれた『算法闕疑抄』の作者で知られている。また、本来ならば代数を使用しなければ解けない問題でさえ、そろばんで解いたことからそろばんの名人でもあった。.
神社
出雲大社(神代創建と言われる、島根県出雲市) 八坂神社(飛鳥時代創建)(京都府京都市東山区) 蒙疆神社(昭和時代創建、張家口。写真は1952年のもので、当時はもう廃社された) 神社(じんじゃ・かむやしろ)とは、日本固有の宗教である神道の信仰に基づく祭祀施設。産土神、天神地祇、皇室や氏族の祖神、偉人や義士などの霊などが神として祀られる。文部科学省の資料では、日本全国に約8万5千の神社がある。登録されていない数万の小神社を含めると、日本各地には10万社を超える神社が存在している。また、近畿地方には生国魂神社など創建が古い神社が多く存在する。.
神田孝平
孝平(かんだ たかひら、1830年10月31日(文政13年9月15日) - 1898年(明治31年)7月5日)は、江戸時代末期から明治時代にかけての日本の洋学者、政治家。男爵。号は淡崖。元は諱を孟恪、通称を孝平(こうへい)と名乗っていた。 兵庫県令、文部少輔、元老院議官、貴族院議員を歴任した。.
福田理軒
福田 理軒(ふくだ りけん、通称:理八郎、主計介とも、初期の名前は本橋 惟義、1815年(文化12年)5月 - 1889年(明治22年)8月17日)は、大坂出身の江戸時代末期から明治時代にかけての数学者。子供は数学者の福田治軒(福田半とも)で、弟子には岩田清庸、松見文平らがいる。 丸山健夫の『筆算をひろめた男 幕末明治の算数物語』と言う本に生涯が描かれており、題名通り「日本に筆算を広めた人物」として知られる他、1834年には兄の復と共に大坂の和算塾であった順天堂塾(現:順天中学校・高等学校)の創立者としても知られる。 また、主な作品に1857年に日本で最初に西洋の数学について紹介した彌永昌吉・中村誠太郎、三村征雄、湯川秀樹 『万有百科大事典 16 物理・数学』 相賀徹夫、小学館〈日本大百科全書〉(原著1976年4月20日)、初版(日本語)、474頁。『西算速知』や、1879年には日本で最初に数学史の本としてまとめ上げた書物 - 順天160年史、2012年9月26日閲覧。『算法玉手箱』、日本初の解析幾何学書である『代微積拾級訳解』がある。 名は泉とも名乗り、号は理軒、順天堂で、兄は理軒と同じく数学者の福田復(福田金塘とも)。主に測量や天文などの技術を弟子に教えた。 1877年には日本初の学会である東京数学会社の設立に参加した。.
積分法
積分法(せきぶんほう、integral calculus)は、微分法と共に微分積分学で対を成す主要な分野である。 実数直線上の区間 [a, b] 上で定義される実変数 x の関数 f の定積分 (独: bestimmte Integral, 英: definite integral, 仏: intégrale définie) は、略式的に言えば f のグラフと x-軸、および x.
策彦周良
『集古十種』より 策彦周良(さくげんしゅうりょう、文亀元年4月2日(1501年4月19日) - 天正7年6月30日(1579年7月23日))は、戦国時代の臨済宗の禅僧、外交官。号は策彦のほか謙斎、怡斎、怡雲子など。.
筑後国
筑後国(ちくごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。7世紀末までに成立した。.
筆算
算(ひっさん)とは、紙に書いて行う計算のことである。他の計算方法には、暗算、珠算(そろばん)、電卓計算などがある。 通常、筆算では、一つの計算を人間が扱いやすいような簡単な計算に分解して行う。これによって、そのままでは難しい複雑な計算も行うことができる。もっとも、分解して計算すること自体は紙を必要とせず、暗算でも行うことができる。しかしながら、分解して行う計算では途中の計算結果を覚えておかなくてはならず、ところが、人間の記憶力は限られているため、筆算のように紙に書いて計算することが重要になる。筆算は、限られた記憶容量しかない人間が複雑な計算を行うための有用な技術である。.
算師
算師(さんし)とは、律令制において計数を掌る官職。主計寮・主税寮・大宰府に設置され、後に修理職や木工寮などにも設置された。.
算盤
算盤(さんばん)とは中国数学や和算において、籌算すなわち算木(算筹)を用いた計算の際に使用される盤のことである。木製の板もしくは紙でつくられることが多い。.
算道
算道(さんどう)とは、日本律令制の大学寮において、算術を研究する学科。.
算額
算額の問題例 算額(さんがく)とは、江戸時代の日本で、額や絵馬に和算の問題や解法を記して、神社や仏閣に奉納したものである。 平面幾何に関する算額(特に円の中に多数の円や別図形の中に多数の球を入れるなど接点を持つもの)が多い。和算家のみならず、一般の愛好家も数多く奉納している。.
算術
算術 (さんじゅつ、arithmetic) は、数の概念や数の演算を扱い、その性質や計算規則、あるいは計算法などの論理的手続きを明らかにしようとする学問分野である。.
算法少女
『算法少女』(さんぽうしょうじょ)は、安永4年(1775年)に出版された和算書。当時の和算書で唯一、著者が女性名義になっている珍しい本であり、現在では国立国会図書館などでわずかに見ることの出来る稀覯本である。国会図書館に所蔵されている資料は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる。また、1935年(昭和10年)に謄写版が古典数学書院から復刻された。 本書を題材に、児童文学作家の遠藤寛子が小説『算法少女』を著している。 2009年(平成21年)に本書の現代語訳と問題の解答を解説し、資料として天理大学附属天理図書館蔵『算法少女』の影印を収録した『和算書「算法少女」を読む』がちくま学芸文庫から出版された。.
算法少女 (小説)
『算法少女』(さんぽうしょうじょ)は、児童文学作家の遠藤寛子による少年少女小説。1973年に岩崎書店から出版され遠藤(1973)、のち2006年にちくま学芸文庫から復刊された遠藤(2006)。 安永4年(1775年)に出版された和算書『算法少女』を題材にして書かれ、物語も安永4年に時代が設定されている。.
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算木
楊輝の三角形 算木(さんぎ)または算筹(さんちゅう)とは中国数学や和算で用いられた計算用具である。縦または横に置くことで数を表した。算木に基づく算木数字も使われた。算木を用いた計算法を籌算という。.
箕田源二郎
箕田 源二郎(みた げんじろう、1918年3月31日 - 2000年)は、日本の画家、絵本作家、美術教育者。本名、源次郎。.
籌算
算(ちゅうさん、拡張新字体・筹算)とは、算木(筹、算、策)と呼ばれる一組の棒を用いる、一種の器具代数術。布の盤(算盤)上に算木を並べて行ったことから布算ともいう。中国のほか朝鮮半島や日本をはじめとする漢字文化圏で広く利用された。 中国において籌算は戦国時代から行われていた。論証的な幾何学を重視する古代ギリシアの数学と比べて、官僚が広大な土地を統治するために必要な実用数学を重んじるのが中国数学の特徴であり、数値計算と代数の分野で特に発達していた。その基礎となったのが算木による計算術である。実際、中国文化圏における数学体系の基盤となった『九章算術』(紀元前1世紀ごろ)や類似の数学書は、具体的な問題と籌算による解法という形式で書かれていた。宋代から元代に至って、朱世傑の4元高次連立方程式に代表される高度な数学が発展したのも籌算の役割が大きかった。しかし13世紀ごろ、実用的な計算をより早く容易に実行できる算盤(そろばん)が普及したことで廃れた。.
級数
数学における級数 (きゅうすう、series) とは、ひと口に言えば数や関数など互いに足すことのできる数学的対象の列について考えられる無限項の和のことである。ただし「無限の項の総和」が何を表しているのかということはしばしば解析学の言葉を用いて様々な場合に意味を与える(#級数の収束性の節を参照)ことができるが、そのようなことができない「発散する級数」もあれば、級数自体を新たな形式的対象としてとらえることもある。小さくなっていく実数を項とする級数の収束性については様々な判定条件が与えられている。 級数を表す記法として、和記号 を用いた表現 や三点リーダ を用いた表現 などがある。 有限個の項以外は とすることで有限個の対象の和を表すこともでき、無限項の和であることを特に強調する場合には無限級数とも言う。無限の項の和の形に表された級数が何を表しているかということは一見必ずしも明らかではないため、何らかの意味付けを与えなければならない。最もよく採用される理解の方法は、有限個の項の和が収束する先を無限級数の値とすることである。例えば、 より となる。このほかに、解析接続などの手法により、みかけ上発散している級数に対して のような等式が意味付けされることもある。.
絵馬
絵馬(厳島神社) 絵馬(えま)は、神社や寺院に祈願するとき、あるいは祈願した願いが叶ってその謝礼をするときに社寺に奉納する、絵が描かれた木の板である。.
組合せ数学
組合せ数学(くみあわせすうがく、combinatorics)や組合せ論(くみあわせろん)とは、特定の条件を満たす(普通は有限の)対象からなる集まりを研究する数学の分野。特に問題とされることとして、集合に入っている対象を数えたり(数え上げ的組合せ論)、いつ条件が満たされるのかを判定し、その条件を満たしている対象を構成したり解析したり(組合せデザインやマトロイド理論)、「最大」「最小」「最適」な対象をみつけたり(極値組合せ論や組合せ最適化)、それらの対象が持ちうる代数的構造をみつけたり(代数的組合せ論)することが挙げられる。.
甲府藩
府藩(こうふはん)は、甲斐国に存在した藩の一つ。.
直角二等辺三角形
角二等辺三角形 直角二等辺三角形(ちょっかくにとうへんさんかくけい、英: )は、二等辺三角形の持つ特徴に加え、直角三角形の持つ特徴を併せ持つ図形である。3つの角のうち2つの角がそれぞれ45°である三角形と定義してもよい。 直角二等辺三角形は二等辺三角形の一つでもあり、直角三角形の一つでもある。等しい長さの2辺で構成される1角(頂角)が直角である。 底辺どうしが重なり合うように二つの直角二等辺三角形を並べると正方形ができる。逆に正方形を対角線で2つに分けるといずれも直角二等辺三角形となっている。 直角二等辺三角形は線対称な図形であり、対称軸は頂角の点から対辺(底辺)に下ろした垂線である。頂角は直角なので、垂線によって二等分された角は、45°となる。このことから、この対称軸で直角二等辺三角形を二等分すると、その結果の二つの図形も直角二等辺三角形となることがわかる。したがって、この垂線の長さは、底辺の長さのとなる。 ピタゴラスの定理より、底辺以外の1辺と底辺との比は、1:\sqrtとなることがわかる。底辺以外の1辺の長さをとした場合、\fracで面積を求めることができる。また、底辺の長さのみが分かっている場合でも、底辺の長さをとし、\fracで面積を求めることができる。したがって、直角二等辺三角形の場合、任意の1辺の長さが分かれば、面積を求めることができる。 また、底角は45°であるので、t.
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遠藤寛子 (作家)
遠藤 寛子(えんどう ひろこ、1931年 - )は、日本の児童文学作家・教師。.
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遣唐使
遣唐使(けんとうし)とは、日本が唐に派遣した使節である。日本側の史料では唐の皇帝と対等に交易・外交をしていたとされるが、『旧唐書』や『新唐書』の記述においては、「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。中国では618年に隋が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。寛平6年(894年)に56年ぶりに再開が計画されたが、遣唐大使の菅原道真の建議により休止され、907年に唐が滅び、そのまま消滅する形となった。遣唐使船には、多くの留学生が同行し往来して、政治家・官僚・僧にも多くの人材を供給した。留学生井真成の墓も中国で発見された。.
遣隋使
遣隋使(けんずいし)とは、推古朝の時代、倭国(俀國)が技術や制度を学ぶために隋に派遣した朝貢使のことをいう。600年(推古8年)~618年(推古26年)の18年間に5回以上派遣されている。なお、日本という名称が使用されたのは遣唐使からである。 大阪の住吉大社近くの住吉津から出発し、住吉の細江(現・細江川)から大阪湾に出、難波津を経て瀬戸内海を筑紫(九州)那大津へ向かい、そこから玄界灘に出る。 倭の五王による南朝への奉献以来約1世紀を経て再開された遣隋使の目的は、東アジアの中心国・先進国である隋の文化の摂取が主であるが、朝鮮半島での影響力維持の意図もあった。この外交方針は次の遣唐使の派遣にも引き継がれた。.
遺題継承
遺題継承(いだいけいしょう)とは、和算書に於ける後世の学者に解を求めさせることである。.
菊池大麓
菊池 大麓(きくち だいろく、1855年3月17日(安政2年1月29日) - 1917年(大正6年)8月19日)は明治時代から大正時代にかけての日本の数学者、教育行政官。男爵、理学博士。 東京帝国大学(東京大学の前身)理科大学長・総長、文部次官・大臣、学習院長、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、帝国学士院院長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した。.
菱形
菱形(ひしがた、りょうけい)、斜方形(しゃほうけい、)は、4本の辺の長さが全て等しい四角形である。 成立条件に、.
面積
面積(めんせき)とは、平面内の、あるいは曲面内の図形の大きさ、広さ、の量である。立体物の表面の面積の合計を特に表面積(ひょうめんせき)と呼ぶ。.
順列
初等組合せ論における順列(じゅんれつ、sequence without repetition、arrangement)は、区別可能な特定の元から有限個を選んで作られる重複の無い有限列をいう。 初等組合せ論における「」はともに n-元集合から -個の元を取り出す方法として可能なものを数え上げる問題に関するものである。取り出す順番を勘案するのが -順列、順番を無視するのが -組合せである。.
表面積
表面積(ひょうめんせき)は、立体図形の表面の面積。 ユークリッド空間では、図形が a 倍に拡大されると、体積が a3 倍になるのに対し、表面積は a2 倍になる。ただし、3軸それぞれについて a、b、c 倍に拡大された場合は、体積は abc 倍になるが、表面積の変化は図形による。 せん断成分のある変形に対しては、体積は一定だが表面積は一般に異なる。たとえば、底面が合同で高さが同じ平行六面体と直方体は、体積が等しいが表面積は異なる。 表面積は、一般には積分を使って計算される。対称性の高い図形のみ、初等数学で求まる公式が得られる。楕円体のように、体積は簡単に求まるが表面積を求めるには複雑な計算が必要な図形もある。.
行列式
数学における行列式(ぎょうれつしき、)とは、正方行列に対して定義される量で、歴史的には行列が表す一次方程式の可解性を判定する指標として導入された。幾何的には線型空間またはより一般の有限生成自由加群上の自己準同型に対して定義され、線型変換によって空間の体積要素が何倍に変わるかという概念を抽象化したものと見なすことができる。行列の可逆性を判定する指標として線型代数学における最も重要な指標の一つと見なされている。.
西田知己
西田知己(にしだ ともみ、1962年― )は、日本史学者。 上智大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程単位取得退学。上智大学コミュニティ・カレッジなどで講師。近世文化を研究。.
規矩術
規矩術(きくじゅつ、規矩法とも)は、木造大工の加工技術の一つで木造建物の仕口・継手その他接合部分など、部材の形状全般を規および矩によって作り出す手法。「規」(ぶんまわし)はコンパス、「矩」は曲尺(かねじゃく、指矩(さしがね)とも)や定規を意味する。.
解析学
解析学(かいせきがく、英語:analysis, mathematical analysis)とは、極限や収束といった概念を扱う数学の分野である 日本数学会編、『岩波数学辞典 第4版』、岩波書店、2007年、項目「解析学」より。ISBN978-4-00-080309-0 C3541 。代数学、幾何学と合わせ数学の三大分野をなす。 数学用語としての解析学は要素還元主義とは異なっており、初等的には微積分や級数などを用いて関数の変化量などの性質を調べる分野と言われることが多い。これは解析学がもともとテイラー級数やフーリエ級数などを用いて関数の性質を研究していたことに由来する。 例えばある関数の変数を少しだけずらした場合、その関数の値がどのようにどのぐらい変化するかを調べる問題は解析学として扱われる。 解析学の最も基本的な部分は、微分積分学、または微積分学と呼ばれる。また微分積分学を学ぶために必要な数学はprecalculus(calculusは微積分の意、接頭辞preにより直訳すれば微積分の前といった意味になる)と呼ばれ、現代日本の高校1、2年程度の内容に相当する。また解析学は応用分野において微分方程式を用いた理論やモデルを解くためにも発達し、物理学や工学といった数学を用いる学問ではよく用いられる数学の分野の一つである。 解析学は微積分をもとに、微分方程式や関数論など多岐に渡って発達しており、現代では確率論をも含む。 現代日本においては解析学の基本的分野は概ね高校2年から大学2年程度で習い、進度の差はあれ世界中の高校や大学等で教えられている。.
角倉了以
川沿いの顕彰碑 嵐山の角倉了以像 角倉 了以(すみのくら りょうい、天文23年(1554年) - 慶長19年7月12日(1614年8月17日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての京都の豪商。 朱印船貿易の開始とともに安南国との貿易を行い、山城(京都)の大堰川、高瀬川を私財を投じて開削した。また江戸幕府の命令により富士川、天竜川、庄内川などの開削を行った。地元京都では商人としてよりも琵琶湖疏水の設計者である田辺朔郎と共に「水運の父」として有名である。 長男に角倉素庵、弟に吉田宗恂。吉田光由は一族にあたる。墓所は京都市嵯峨野の二尊院。.
計算
計算(けいさん)とは、与えられた情報をもとに、命題に従って演繹することである。 これは人間が無意識のレベルで行っている判断(→判断力)や、動物一般が行っている思考を、計算という形で意識化する手法ともいえ、その意味では「ものを考えること」一般が「計算」の一種だとみなすことも可能である。計算に使用される手続きはアルゴリズムと呼ばれる。対人関係において、戦略をアルゴリズムとして状況を有利に運ぶことも時に「計算」と表現される。 もっとも一般的かつ義務教育の範疇で最初に習うものは、算術(算数)における四則演算を、演算記号に示されたアルゴリズム通りに処理するものである。こういった「計算」は日常生活から専門的分野まで幅広く行われており、これを専門に処理する装置や機械も、人類の歴史において数多く開発され利用されている。.
詰将棋
詰将棋(つめしょうぎ)とは、将棋のルールを用いたパズル。詰め将棋と表記されることもある。 駒が配置された将棋の局面から王手の連続で相手の玉将を詰めるパズルで、元は指し将棋(詰将棋と区別する上でこう呼称する)の終盤力を磨くための練習問題という位置づけであったと思われるが、現在ではパズルとして、指し将棋から独立した一つの分野となっている。造物、詰物、図式ともいう。.
高野長英
野長英像 渡辺崋山の弟子、椿椿山により天保前半頃描かれる。奥州市立高野長英記念館蔵、重要文化財 高野 長英(たかの ちょうえい、文化元年5月5日(1804年6月12日) - 嘉永3年10月30日(1850年12月3日))は、江戸時代後期の医者・蘭学者。通称は悦三郎、諱は譲(ゆずる)。号は瑞皐(ずいこう)。実父は後藤実慶。養父は叔父・高野玄斎。江戸幕府の異国船打払令を批判し開国を説くが、弾圧を受け死去した。1898年(明治31年)7月4日)、その功績により正四位を追贈された。主著に『戊戌夢物語』『わすれがたみ』『三兵答古知機』など。また、オランダ語文献の翻訳作業も多く行っている。.
魔方陣
方陣(まほうじん、英:Magic square)とは、 個の正方形の方陣に数字を配置し、縦・横・対角線のいずれの列についても、その列の数字の合計が同じになるもののことである。特に1から方陣のマスの総数 までの数字を1つずつ過不足なく使ったものを言う。 このときの一列の和は、 と計算できる。.
財務
財務(ざいむ)という言葉は、場面・文脈に応じて多義的に用いられているが、おおよそ以下の意味で用いられる。.
部分積分
部分積分(ぶぶんせきぶん、英: Integration by parts)とは、微分積分学・解析学における関数の積の積分に関する定理であり、積の積分をより計算が容易な積分に変形するために頻繁に使われる手法である。 具体的には、2つの微分可能な関数 u(x)、v(x)、区間 a ≤ x ≤ b に対して成り立つ以下のような関係式を指す。 不定積分の場合であれば、同様に以下の関係式が成り立つ。 またはより簡潔に と表記される。ここで du と dv は x の関数 u, v の微分、即ち である。.
関孝和
関 孝和 記念切手1992年 関 孝和(せき たかかず/こうわ、寛永19年(1642年)3月? - 宝永5年10月24日(1708年12月5日))は、日本の江戸時代の和算家(数学者)である。本姓は藤原氏。旧姓は内山氏、通称は新助。字は子豹、自由亭と号した。.
藤原松三郎
藤原 松三郎(ふじわら まつさぶろう、1881年2月14日 - 1946年10月12日)は、日本の数学者・数学史家。第二次世界大戦前において、90編の欧文論文を著し、世界数学者会議で2度の学術講演を行うなど、当時の日本の数学界を代表する数学者であり、また日本数学史、中国数学史、朝鮮数学史をカバーする和漢数学史家としても大きな業績を残した。特に8000枚という膨大な遺稿「日本数学史」は『明治前日本数学史』全5巻(岩波書店、1955-1960)としてまとめられ、現在においても和算史を研究する上で最も重要かつ基本的な文献となっている。.
藤田貞資
藤田 貞資(ふじた さだすけ、享保19年9月16日(1734年10月12日) - 文化4年8月6日(1807年9月7日))は、江戸時代中期の和算家である。定資、定賢とも。通称は彦太夫、後に權平と改める。字は子證、雄山と号す。 武蔵国男衾郡本田村(現埼玉県深谷市)の本田家に生まれ、後に藤田定之の養子となる。宝暦12年(1762年)28歳の時に山路主住の作暦手伝となるが、明和4年(1767年)に眼病のため天文方手伝を退いた。翌年、久留米藩主で関流の和算家でもある有馬頼徸に召抱えられ二十人扶持を受けた。門人の神谷定令と共に主著『精要算法』を巡って会田安明と論争した。文化4年(1807年)病のため致仕、同年74歳で没している。 山路主住の高弟として天下第一人と称されており、ライバルである会田安明も「定資を讃えて海内の一人と云えり」と記している。しかし同門の安島直円が独創的な研究成果を残している一方で、藤田の研究業績はさして見るべきものがないと評されている。 弟子に米沢藩士の黒井忠寄がいる。.
金王八幡宮
金王八幡宮(こんのうはちまんぐう)は、東京都渋谷区渋谷にある八幡宮である。.
長崎海軍伝習所
長崎海軍伝習所絵図」鍋島報效会蔵 長崎海軍伝習所(ながさきかいぐんでんしゅうじょ)は、安政2年(1855年)に江戸幕府が海軍士官養成のため長崎西役所(現在の長崎県庁)に設立した教育機関。幕臣や雄藩藩士から選抜して、オランダ軍人を教師に、蘭学(蘭方医学)や航海術などの諸科学を学ばせた。築地の軍艦操練所の整備などにより安政6年(1859年)に閉鎖された 併設された飽浦修船工場、長崎製鉄所は、長崎造船所の前身となった。.
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長谷川寛
長谷川 寛(はせがわ ひろし、通称:善左衛門、藤次郎とも、1782年(天明2年) - 1839年1月5日(天保9年11月20日))は、江戸時代末期の数学者、和算家。江戸出身で、号は西磻、極翁である。1830年に、和算の初歩から丁寧に著した独習書であり、明治時代に和算の教科書として使われた『算法新書』が主著として知られる。また長谷川派の創始者だが寛は生涯、子供がおらず弟子の長谷川弘(養子になる前の名前:佐藤秋三郎篤信)を養子として育てた。.
長方形
長方形 長方形(ちょうほうけい、rectangle)とは.
虚数
虚数(きょすう)とは、実数ではない複素数のことである。ただし、しばしば「虚数」と訳される は、「2乗した値がゼロを超えない実数になる複素数」として定義される場合がある。 または で表される虚数単位は代表的な虚数の例である。 1572年にラファエル・ボンベリ は虚数を定義した。しかし当時は、ゼロや負の数ですら架空のもの、役に立たないものと考えられており、負の数の平方根である虚数は尚更であった。ルネ・デカルトも否定的にとらえ、著書『La Géométrie(幾何学)』で「想像上の数」と名付け、これが英語の imaginary number の語源になった。その後徐々に多くの数学者に認知されていった。.
暦
暦(こよみ、れき)とは、時間の流れを年・月・週・日といった単位に当てはめて数えるように体系付けたもの。また、その構成の方法論(暦法)や、それを記載した暦書・暦表(日本のいわゆる「カレンダー」)を指す。さらに、そこで配当された各日ごとに、月齢、天体の出没(日の出・日の入り・月の出・月の入り)の時刻、潮汐(干満)の時刻などの予測値を記したり、曜日、行事、吉凶(暦注)を記したものをも含める。 細分すると、.
柳楢悦
柳 楢悦(やなぎ ならよし、天保3年9月15日(1832年10月8日) - 明治24年(1891年)1月15日)は、日本の海軍軍人・和算家・数学者・測量学者・政治家。最終階級は海軍少将。錦鶏間祗候・元老院議官・貴族院議員。 江戸(現・東京)生まれ。津藩の下級藩士・柳惣五郎の長男。嘉納治朗作希芝(嘉納治五郎の父)の娘を後妻としている。.
授時暦
授時暦(じゅじれき)は、中国暦の一つで、元の郭守敬・王恂・許衡らによって編纂された太陰太陽暦の暦法。名称は『書経』堯典の「暦象日月星辰、授時人事」に由来する。至元18年(1281年)から実施され、明でも大統暦(だいとうれき)と名を変えられて明の末年(1644年)までの364年間に渡って使用された。.
林鶴一
林 鶴一(はやし つるいち、1873年(明治6年)6月13日 - 1935年(昭和10年)10月4日)は日本の数学者、数学史家。京都帝国大学理工科大学の助教授、東北帝国大学理科大学の教授を務めた佐々木重夫。.
東京都
東京都シンボルマーク。1989年(平成元年)に旧東京市の成立100周年を記念して同年6月1日に制定。「東京都の頭文字の「T」を中央に秘めている『都政 2012』東京都生活文化局広報広聴部広報課 編集・発行、2012年3月発行。東京都が作成した、240ページほどの冊子。」と解説されている。(都の木はイチョウではあるが)イチョウの葉の形を象ったわけではない、という。 東京都(とうきょうと)は、日本の首都事実上の首都。詳細後述であり、関東地方に位置する東京都区部(東京23区)、多摩地域(市部、西多摩郡)、島嶼部(大島支庁・三宅支庁・八丈支庁・小笠原支庁)を管轄する広域地方公共団体(都道府県)の一つである。都庁所在地は新宿区(東京と表記する場合もある)。 都公認の英語の表記はTokyo Metropolis (Tokyo Met.) 。他にはTokyo PrefectureとTokyo Metropolitan Prefectureがある。.
東北大学
記載なし。
松永良弼
松永 良弼(まつなが よしすけ、元禄3年(1690年)?-延享元年6月23日(1744年8月1日))は、江戸時代中期の数学者。初め寺内姓を名乗る。通称は平八郎・権平・安右衛門。号は東岡(とうこう)・探玄子(たんげんし)など。 関孝和門下の荒木村英に学び、後に中根元圭・久留島喜内とともに建部賢弘らの学説も取り入れて、和算の発展に尽くした。一時期は久留米藩・平藩にも仕えている。 代表的な著書として元文4年(1739年)に出された『方円算経』が知られており、円周率を小数第51位までを算出した(うち第49位までは合致している)他、円や多角形などに関する理論をまとめている。また著者不明の数学書『円理乾坤之巻』の著者に比定する説がある。 関流和算の功労者である一方で、その将来を憂えていた一人でもあった。例えば理論や技巧に傾いて実用を軽んじる和算の風潮を強く批判する書簡を、親友である久留島義太に送っている。.
根上生也
根上 生也(ねがみ せいや、1957年 - )は日本の数学者(理学博士)。横浜国立大学大学院環境情報研究院教授、理工学部数理科学EP担当。専門は、位相幾何学的グラフ理論、離散数学、トポロジー、数学教育。 東京工業大学理学部数学科卒業。同大学院理工学研究科情報科学博士課程中退。東京工業大学助手、横浜国立大学助教授を経て現職。東工大における指導教官は本間龍雄。 日本における位相幾何学的グラフ理論のパイオニアである。「根上多項式」や「平面被覆予想」の提唱者として有名。 2005年4月から9月まで、フジテレビで放送された教育番組『ガチャガチャポン!』にて「数学探偵セイヤ」として出演した。 2008年には、映画『容疑者Xの献身』の監修(数学)をした。.
栃木県
栃木県(とちぎけん)は、日本の都道府県の一つ。関東地方北部に位置する。県庁所在地は宇都宮市。県内には日光国立公園が立地し、日光・那須などの観光地・リゾート地を有する。.
梅文鼎
梅文鼎(ばい ぶんてい、1633年-1721年)は、清朝中国の天文家・数学者・暦学者。字は定九、号は勿庵。.
極値
数学において、関数の局所的な(つまり、ある点の近傍における)最大値または最小値のことをそれぞれ極大値(きょくだいち、maximal, local maximum)、極小値(きょくしょうち、minimal, local minimum)といい、これらを併せて極値(きょくち)と総称する。 極値は局所的な概念であるため、ある点で極値をとってもその点が全域的な最大・最小値を取るとは限らないが、極値自体が適当な区間における最大・最小値の候補と考えることができるため、関数の振る舞いを知る上で重要である。極値を調べる方法としては、微分を利用することで極値をとるための必要条件を求めることができる。.
正多角形
正多角形(せいたかっけい、せいたかくけい、regular polygon)とは、全ての辺の長さが等しく、全ての内角の大きさが等しい多角形である。 正多角形は線対称の図形であり、正n角形に対称軸はn本ある。また、正偶数角形は点対称の図形でもある。 辺の数が同じ正多角形どうしは全て互いに相似である。.
正三角形
正三角形(せいさんかくけい、equilateral triangle)は、正多角形である三角形である。つまり、3本の辺の長さが全て等しい三角形である。3つの内角の大きさが全て等しい三角形と定義してもよい。1つの内角は 60°(π/3 rad)である。また一つの内角が60°である二等辺三角形は正三角形となる。 正三角形.
正方形
正方形(せいほうけい、英: square)または正四角形は、平面上の幾何学において、4つの辺の長さが全て等しく、4つの角の角度が全て等しい四角形のことであり、正多角形の1種である。正方形は、長方形、菱形、凧形、平行四辺形、台形の特殊な形だと考えることもできる。なお1m2の面積は、一辺1mの正方形の面積と定義される。1cm2、1km2なども同様である。.
武田真元
武田 真元(たけだ しんげん、? - 弘化3年12月26日(1847年2月11日))は、江戸時代後期の数学者。和泉国堺出身。通称は篤之進・徳之進。号は真空堂・無量齋。実名は子孚。号は参伍。後に土御門家に仕えて主計正の官途名を名乗った。 幼少時代、大坂のとある畳屋の丁稚であったが、算盤をやらせると天才的な速さで計算を終え、金利計算も正確であった。そこで畳屋の主人の紹介で坂正永、続いてその高弟の村井宗矩(規正・大坂の昆布問屋、文化14年(1817年)3月17日に63歳で死去)に学ぶ。後に村井と親しかった間重富より天文学を学んだという。後に間重富の推挙を受けて陰陽頭を代々務める土御門家に出仕して上役であった和田寧より円理学(円の面積や球体の体積、曲線などについて学ぶ学問)の奥義を受けた。以後、大坂をはじめ全国各地から門人が集まり、一時は弟子の総数が1,000人に及び、彼の流派を「武田流」あるいは「真元流」と称した。その弟子達に対して彼は日頃より「数の他に理なく、理の他に数なし」と主張していたという。 彼が考案した有名な課題に「浪花二十八智恵渡り」という問題がある。これは「分流した川で隔てられた中州と他の3つの陸地を結ぶ7つの橋がある1つの橋を一回ずつ渡って7つの橋を全て渡る方法を考えよ 」と言う問題で今日の一筆書きの問題であるが、これは半世紀前にドイツのレオンハルト・オイラーが考案した「ケーニヒスベルクの橋の問題」とほぼ同様の問題であり、日本における位相幾何学の草分けと評価する意見もある。 だが、彼には敵が多く、彼の計算を巡って文政7年(1824年)頃に江戸の木村定次郎や京都の榎子春(豊後)から彼の理論を批判されて大論争となり、続いて同じ年に今度は真元の方が京都智積院の円通の仏教天文学を邪説と非難して論争を行って論破し、江戸幕府に要請して円通の著書を発売禁止とした。 ところが、天保6年(1835年)、弟子の福田復(金塘)が奉納した算額に書かれた証明を巡って真元と福田が対立、真元が福田を「邪道」と糾弾して破門としたために福田とその弟・泉(理軒)が激しく反発、他の数学者も巻き込んだ論争となった。だが、次第に福田兄弟の考えを支持する学者が多くなり、これを見た真元の門下からも福田兄弟の塾などへ移る者が相次いだ。このために「武田流」(「真元流」)は急速に衰退していった。真元も挽回を試みるが、往時の勢いを取り戻す事は出来ず、失意のうちに病死した。 代表的な著作に『階梯算法』(『算法階梯』とも、文政元年(1818年))や『算法便覧』(同7年(1824年))などがある。弟子に山崎真辰・内藤真矩・武田謙蔵らがいる。.
比例
比例(ひれい、proportionality)とは、変数を用いて書かれる二つの量に対し一方が他方の定数倍であるような関係の事である。.
毛利重能
毛利 重能(もうり しげよし、生没年不詳)は、江戸時代前期の和算家。現在知られている中では最も古い。通称・勘兵衛、官位は出羽守。 当初、豊臣秀吉に仕えて出羽守となり、明に留学して算術を学ぶ。大坂の陣では同姓の誼で毛利勝永の部隊にいたとある。著書『割算書』(通称 1622年。)は、『算用記』と共に江戸時代初期を代表する貴重な和算書である。『割算書』の奥付には、「摂津国武庫郡瓦林から京都へ移り住み、“割算の天下一”という名(割算天下一指南の看板)の下に塾を開いた」と書かれている。また、割算書には、割り算の起源としてキリスト教の逸話を引用して紹介していることから、重能は日本古来から伝わる算道のみならず、切支丹の教えや西洋式の数学に関しても、ある程度の知識があったとされている。 後の代表的な和算家吉田光由や今村知商、あるいは関孝和の師匠でもあった高原吉種などの弟子達を育てたことでも有名である。門弟は数百人にも上ったとある。この吉田光由・今村知商・高原吉種は俗に「毛利の三子」と呼ばれた高弟である。熊野神社内に1972年(昭和47年)に「毛利重能顕彰碑」が建立され、その傍らに毛利重能を祀る1973年(昭和48年)建立の「算学神社」がある。.
江戸幕府の地図事業
江戸幕府の地図事業(えどばくふのちずじぎょう)は、江戸時代に江戸幕府によって進められた国土基本図の編纂事業のこと。大きく分けて日本地図である日本図(にほんず)と諸藩に作らせた国絵図(くにえず)に分けられる。.
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江戸時代
江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.
沢口一之
沢口 一之(さわぐち かずゆき、生没年未詳)は江戸時代前期の大坂で活躍した和算家。大坂の和算家橋本正数の弟子。『古今算法記』(寛文11年(1671年))を著したこと、その学統が長崎で継承されたらしきこと以外、詳しいことはわかっていない。.
測量
1728年刊 "Cyclopaedia" より、測量機器と測量手法の図 測量(そくりょう)は、地球表面上の点の関係位置を決めるための技術・作業の総称。地図の作成、土地の位置・状態調査などを行う。 日本では高度の精度を必要としない測量は基本的に誰でも行うことができるが、国または地方公共団体の実施する基本測量、公共測量等は測量法に従って登録された測量士又は測量士補でなければ技術者として従事することはできず、またこうした測量は測量法に従って登録された、営業所ごとに測量士が一人以上置かれた測量業者でなければ請け負うことはできない。一方、登記を目的とした測量は土地家屋調査士でなければ行うことはできない。 測量の歴史は古く、古代エジプトの時代から行われてきた。日本では1800年に伊能忠敬が日本地図作成のため、蝦夷地(現在の北海道)で本格的な測量を行ったのが始まりとされる。.
清
清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.
渋谷区
渋谷区(しぶやく)は、東京都の特別区のひとつ。区の成立は1932年(昭和7年)で、1962年(昭和37年)の住居表示施行後から現在まで32の町名がある。区役所の所在地は、宇田川町(2015年10月から2018年までは、渋谷1丁目の仮庁舎に一時移転中)。.
有馬頼ゆき
有馬 頼徸(ありま よりゆき)は、江戸時代中期の大名・数学者(和算家)。筑後国久留米藩の第7代藩主。久留米藩有馬家8代。 数学者としては関流算術を修め、当時最高水準の和算書『拾璣算法』を著した「算学大名」として著名である。一方為政者としては久留米藩歴代中最長の治世(54年)を保ち、窮民救済などに意を払ったものの、大規模な一揆も発生しており、平坦なものではなかった。.
星宮神社 (佐野市)
星宮神社(ほしのみやじんじゃ)は栃木県佐野市大蔵町にある神社である。旧社格は村社。銅造の鳥居(明神鳥居)が佐野市の文化財に指定されている。.
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明
明(みん、1368年 - 1644年)は、中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。 朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。.
明治
明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.
昭和
昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.
易経
『易経』(えききょう、正字体:易經、)は、古代中国の書物。『卜』が動物である亀の甲羅や牛や鹿の肩甲骨に入ったヒビの形から占うものであるのに対して、『筮』は植物である『蓍』の茎の本数を用いた占いである。商の時代から蓄積された卜辞を集大成したものとして易経は成立した。易経は儒家である荀子の学派によって儒家の経典として取り込まれた。現代では、哲学書としての易経と占術のテキストとしての易経が、一部重なりながらも別のものとなっている。中心思想は、陰陽二つの元素の対立と統合により、森羅万象の変化法則を説く。著者は伏羲とされている。 中国では『黄帝内經』・『山海經』と合わせて「上古三大奇書」とも呼ぶ。.
新田
新田(しんでん)とは、新たに田や畑などとするため開墾して出来た農地のことである。また、その地名。その開墾までの流れを新田開発といい、本項では新田開発も含めて解説する。.
日本
日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.
日本学士院
日本学士院(にっぽんがくしいん、)は、日本学士院法(以下「法」)に基づいて設置されている日本の国立アカデミーであり、文部科学省の特別の機関である。1879年に東京学士会院として発足し、その後帝国学士院に改組された。太平洋戦争後に日本学士院となり現在に至る。.
日本数学会
一般社団法人 日本数学会(いっぱんしゃだんほうじんにほんすうがっかい、The Mathematical Society of Japan、略称: MSJ)は、1877年(明治10年)に設立された東京数学会社を起源とする1946年(昭和21年)に設立された学会である。数学の研究に関する交流の場であり、数学を一般社会へ普及することを図る。また、関係諸方面と協力して学術文化の向上発展に寄与することを目的とする。会員約 5,000 名を擁する組織である。日本国内および国際的に、数学の進歩・発展のために力をつくしている。.
数学
数学(すうがく、μαθηματικά, mathematica, math)は、量(数)、構造、空間、変化について研究する学問である。数学の範囲と定義については、数学者や哲学者の間で様々な見解がある。.
数列
数学において数列(すうれつ、numerical sequence)とは、数が列になったもの (sequence of numbers) を言う。 ある数はそれ単独で興味深い性質や深い意味を持っているかもしれない。単独ではそれほど面白くはない数たちもまとめて考えると興味深い性質を持つかもしれない。数列を考える意識は後者に属する。数列とは例えば正の奇数を小さい順に並べた のような数の“並び”である。並べる数に制限を加えて、たとえば自然数のみを並べるならば、これを自然数列と略称する。整数、有理数、実数などのほかの数体系を用いる場合も同様の略称を用いる。各々の数の“置かれるべき場所”は数列の項 (こう、term) と呼ばれる。数の並びが数列と呼ばれるためには、数列の各項を“順番に並べる”こと、つまりそれぞれの数が何番目の項に配置されているのかを一意に示すように番号付けができなければならない。したがって、“最も簡単”な数列は自然数を小さい順に並べた数列 ということになる(これは自然数が順序数であることによる)。 考える数列に端が存在する場合がある。数列の端に存在する項は、その数列の最初の項、または最後の項であると考えることができる。数列の最初の項をその数列の初項(しょこう、first term)といい、最後の項を数列の末項(まっこう、last term)と呼ぶ。 数列に対して必ずしも初項と末項を定めることはできない。たとえば「すべての自然数」を表わす数列の項の数は「自然数の個数」に等しいが、自然数は無限に存在するため、その末項は存在しない。このように末項が定まらないような数列は、無限数列(むげんすうれつ、infinite sequence)と呼ばれ、末項を持つ数列は有限数列(ゆうげんすうれつ、finite sequence)と呼ばれる。 初項を表わす添字は自由に与えることができ、議論や計算を簡単にするように選ばれるが、慣習的に 0 または 1 が与えられることも多い。たとえば有限数列の初項の添字を 1 から始めた場合、末項は項数に等しい添字 が与えられるため、記述が簡単になる。 特別な数列には、項の並びに規則性のあるものがある。代表的なものは、等差数列や等比数列あるいはフィボナッチ数列のように漸化式で定義される数列である。.
数値解析
バビロニアの粘土板 YBC 7289 (紀元前1800-1600年頃) 2の平方根の近似値は60進法で4桁、10進法では約6桁に相当する。1 + 24/60 + 51/602 + 10/603.
教科書
教科書(きょうかしょ、textbook; schoolbook).
曲線
数学における曲線(きょくせん、curve, curved line)は、一般にまっすぐとは限らない幾何学的対象としての「線」を言う。 つまり、曲線とは曲率が零とは限らないという意味での直線の一般化である。 数学の様々な分野において、その研究領域に応じたそれぞれやや異なる意味で「曲線」の語が用いられる(から、精確な意味は文脈に即して捉えるべきである)が、それらの意味の多くは以下に挙げる定義の特別な実例になっているはずである。すなわち、曲線とは局所的に直線と同相であるような位相空間を言う。それは日常語で言えば、曲線は点の集合であって、それらの点が十分近くであれば直線のように見えるが、変形があってもよいというような意味である。数学の各分野で扱われる。 最初に触れる曲線の簡単な例というのはほとんどの場合「平面曲線」(例えば平らな紙の上に描いた曲がった線)であろうが、螺旋のように三次元的なものもある。幾何学的な必要性や、例えば古典力学からの要請で任意次元の空間に埋め込まれた曲線の概念も必要とされる。一般相対論において世界線とは時空内の曲線である。; 注: 一般用語として、「曲線」が(成長曲線やフィリップス曲線の例に見るように)函数のグラフ、あるいはより多様なの意味で用いられることがあるが、本項で言う意味とは(近い関連はあるにせよ)異なるものと理解すべきである。.
1622年
記載なし。
1627年
記載なし。
1639年
記載なし。
1657年
記載なし。
1679年
記載なし。
1690年
記載なし。
1692年
記載なし。
1722年
記載なし。
1734年
記載なし。
1757年
記載なし。
1769年
記載なし。
1781年
記載なし。
1787年
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1807年
記載なし。
1820年
記載なし。
1830年
記載なし。
1840年
記載なし。
1868年
記載なし。
1872年
記載なし。
1873年
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1877年
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1884年
記載なし。
1887年
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1896年
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1911年
記載なし。
1940年
記載なし。
1946年
記載なし。
1954年
記載なし。
1997年
この項目では、国際的な視点に基づいた1997年について記載する。.
2の12乗根
2の12乗根(2の12じょうこん)\sqrt は、代数的無理数である。音楽理論において非常に重要であり、十二平均律における半音の周波数比を表わす。歴史的にこの数はシモン・ステヴィンによって1580年(草稿、1610年に書き直し)に調律との関連で初めて提唱された。.
7世紀
ブリールから啓示を受けるムハンマドで、14世紀に描かれた『集史』「預言者ムハンマド伝」載録の細密画(エディンバラ大学蔵)。 聖地メッカ。ムハンマドはメッカからメディナに逃れた後、イスラム教共同体(ウンマ)を組織し、再びこの都市に現れてイスラム教の支配下に置いた。画像はメッカのカアバとそれを取り囲むマスジド・ハラーム。 岩のドーム。ユダヤ教徒やキリスト教徒にとって重要な聖地であるエルサレムはイスラム教徒にとっては預言者ムハンマドが「夜の旅(イスラー)」を行った場所であり、それを記念してこの建物が建てられた。 ハルシャ王に歓待された。旅の記録は『大唐西域記』にまとめられ、有名な伝奇小説『西遊記』のもとともなった。 ナーランダ寺院。創立はグプタ朝時代にさかのぼるが、この時代までにインド随一の仏教総合大学に発展し、唐僧玄奘もこの地で唯識派のシーラバドラ(戒賢)に学んでいる。画像は現在のビハール州に残るナーランダ寺院跡。 シュリーヴィジャヤ王国。スマトラ島を中心にマレー半島周辺に交易圏を築き上げた海洋王国で、唐僧義浄が『南海寄帰内法伝』で記録したように多くの寺院が立ち並ぶ大乗仏教の拠点でもあった。画像はシュリーヴィジャヤ様式の青銅鍍金四臂観世音菩薩像。 「天寿国繍帳」。飛鳥時代を代表する工芸の一つで聖徳太子の妃である橘大郎女の発願で作成されたとされ、斑鳩中宮寺に伝来した。 吐蕃の王ソンツェン・ガンポと二人の妃(唐から来た文成公主とネパールから来たチツン)。吐蕃はチベットを統一し唐に倣った律令体制を発展させた。 太宗。父李淵の後を継いで二代皇帝となった太宗李世民は、唐の律令体制を完成させ「貞観の治」と呼ばれる安定期をもたらした。画像は台湾国立故宮博物院が所蔵する太宗の肖像画。 洛陽郊外の龍門にある奉先寺大仏。則天武后の命で造営されたもので、大仏の顔は則天武后をモデルにしているといわれる。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 「ギリシア火」。イスラム軍の猛攻で劣勢に置かれた東ローマ帝国もこの新兵器を用いて帝都の防衛に成功する。画像は『スキュリツェス年代記(歴史概観)』の挿絵(マドリッド国立図書館蔵)。 スペイン国立考古学博物館蔵)。 7世紀(ななせいき、しちせいき)とは、西暦601年から西暦700年までの100年間を指す世紀。.
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和算家。