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同朋衆

索引 同朋衆

同朋衆(どうぼうしゅう)とは室町時代以降将軍の近くで雑務や芸能にあたった人々のこと。一遍の起した時衆教団に、芸能に優れた者が集まったものが起源とされる。阿弥衆、御坊主衆とも呼ばれた。1866年(慶応2年)に廃止された。 時宗を母体としているために阿弥号を名乗る通例があるが、阿弥号であっても時宗の僧であるとは限らない。観阿弥、世阿弥や、江戸幕府における同朋衆がその例である。.

77 関係: 千利休千早城大仙院天正太平記室町幕府室町時代小笠原長秀世阿弥万葉集一遍京都庭師延元他阿征夷大将軍徳川家康徳川氏信濃国念仏善阿弥周阿唐物元弘囲碁称念寺 (坂井市)筑前国細川頼之織田信長猿楽絵巻物田中千阿弥由阿相阿弥芸能芸阿弥音阿弥鎌倉幕府鎌倉時代華道頓阿観阿弥講談社豊臣秀吉越前国足利義満足利義政龍安寺茶坊主茶道...能阿弥金蓮寺 (京都市)若宮八幡宮社若年寄連歌柏書房東山御物東山文化松平太郎村井康彦村田珠光桑田忠親横井清武士歓喜光寺水墨画江戸城江戸幕府河原者清浄光寺朝日新聞社新田義貞慶応慈照寺拾阿弥時宗1866年 インデックスを展開 (27 もっと) »

千利休

千利休(せん の りきゅう、せん りきゅう、大永2年(1522年) - 天正19年2月28日(1591年4月21日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人。 わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久、津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられ、「利休七哲」に代表される数多くの弟子を抱えた。子孫は茶道の三千家として続いている。天下人・豊臣秀吉の側近という一面もあり、秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」のなかで多くの大名にも影響力をもった。しかしやがて秀吉との関係に不和が生じ、最後は切腹へと追い込まれた。切腹を命ぜらるに至った真相については諸説あって定まっていない。.

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千早城

千早城と周辺地域の空中写真/国土航空写真 千早城(ちはやじょう)は、大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早にある日本の城。国の史跡に指定されている。鎌倉時代末期より南北朝時代に存在した楠木正成の城である。四方を絶壁に囲まれ要塞堅固を誇ったといわれる連郭式山城である。楠木七城の一つ。.

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大仙院

大仙院(だいせんいん)は、京都府京都市北区にある臨済宗の大徳寺内にある塔頭寺院。.

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天正

天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.

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太平記

『太平記』(たいへいき)は、日本の古典文学作品の1つである。歴史文学に分類され、日本の歴史文学の中では最長の作品とされる。 全40巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318年 (文保2年) - 1368年(貞治6年)頃までの約50年間)を書く軍記物語。今川家本、古活字本、西源院本などの諸種がある。「太平」とは平和を祈願する意味で付けられていると考えられており、怨霊鎮魂的な意義も指摘されている。 第二次世界大戦後、「太平記」を称する小説やテレビドラマが多く作られたため、混同を避けるために『古典太平記』と呼ばれることもある。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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小笠原長秀

小笠原 長秀(おがさわら ながひで)は、室町時代の武将、守護大名。信濃守護。小笠原長基の次男。長将の弟、政康の兄。幼名は豊若丸。 初めは上洛して将軍足利義満に出仕した。明徳3年/元中9年(1392年)、相国寺の落慶供養では先陣随兵を務めている。応永6年(1399年)の応永の乱では畠山基国に従って堺を攻め、同年、信濃守護に補任された。入部に先立ち、将軍足利義持は水内郡太田荘領家職について、押領人を退けるよう御教書を発した。 応永7年(1400年)、京都から下向し、国衙の後庁のあった善光寺に入部したが、国人に対する排斥と守護権力の強化は大いに反感を買い、有力武将や大文字一揆勢との大塔合戦へと発展し、大敗して大井光矩の仲介によって京都に逐電した。応永8年(1401年)に信濃守護職を解任され、信濃は幕府の直轄領(料国)となった。応永12年(1405年)に弟政康に家督と小笠原氏の所領を譲渡した。 応永31年(1424年)筑摩郡で死去(『豊前豊津小笠原家譜』)。享年59。著書に「犬追物起源」がある。.

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世阿弥

世阿弥(ぜあみ、世阿彌陀佛、正平18年/貞治2年(1363年)? - 嘉吉3年8月8日(1443年9月1日)?)は、日本の室町時代初期の大和猿楽結崎座の猿楽師。父の観阿弥(觀阿彌陀佛)とともに猿楽(申楽とも。現在の能)を大成し、多くの書を残す。観阿弥、世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれている。 幼名は鬼夜叉、そして二条良基から藤若の名を賜る。通称は三郎。実名は元清。父の死後、観世大夫を継ぐ。40代以降に時宗の法名(時宗の男の法名(戒名)は阿弥陀仏(阿彌陀佛)号。ちなみに世は観世に由来)である世阿弥陀仏が略されて世阿弥と称されるようになった。世の字の発音が濁るのは、足利義満の指示によるもの。正しくは「世阿彌」。.

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万葉集

元暦校本万葉集 『万葉集』(まんようしゅう、萬葉集)は、7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集である。天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、成立は759年(天平宝字3年)以後とみられる。 日本文学における第一級の史料であることは勿論だが、方言による歌もいくつか収録されており、さらにそのなかには詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても非常に重要な史料である。.

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一遍

一遍(いっぺん、延応元年(1239年) - 正応2年(1289年))は鎌倉時代中期の僧侶。時宗の開祖。.

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

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庭師

庭師(にわし)とは、庭を造る人のこと。古くは園丁(えんてい)やガーデナーと呼ばれる。庭石、樹木や池、水路から芝などを含めて、庭を一つの造形空間として設計施工、製作する人、またその樹木などの植物の生育を管理し、定期的に剪定したりする管理の仕事もする専門家である。.

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延元

延元(えんげん)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。建武の後、興国の前。1336年から1339年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が後醍醐天皇、後村上天皇。北朝方が光明天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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他阿

他阿(たあ、嘉禎3年(1237年)- 文保3年1月27日(1319年2月17日))は、鎌倉時代後期の時宗の僧。遊行上人2世。正しくは他阿弥陀仏と称し、他阿と略する。法諱は真教(ただし同時代史料にはみえず、初出は『本朝高僧伝』。燈心文庫に真教と署名のある文書があり、他阿に同定する説あり)。俗姓は源氏久我家ともいわれる。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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徳川氏

徳川氏(とくがわし/とくがわうじ、)は、徳川家康が創始した日本の氏族。新田氏系得河氏・得川氏の末裔を称した際に嘉字を用いて徳川と称したことが始まりとなり、江戸幕府将軍家と親族の家名とした。しかし『徳川家譜』に記される家系に関しては『尊卑分脈』の該当記録に似通った流れはあるものの、当代史料による検証がならず、得川氏と家康の家系との同一性は実証できていない。.

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信濃国

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.

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念仏

念仏(ねんぶつ)とは、仏教における行のひとつで、仏の姿や功徳を思い描いたり、その名号を口に出して呼ぶこと。サンスクリット語では"buddha-anusmRti"で、仏陀に対する帰敬、礼拝、讃嘆、憶念などの意。日本では一般的には、浄土教系の宗派において合掌礼拝時に「南無阿弥陀仏」と称える「称名念仏」を指すことが多い。.

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善阿弥

善阿弥(ぜんあみ、元中3年/至徳3年(1386年)? - 文明14年(1482年)?)は室町時代の庭師。河原者という被差別身分の出身ながら、室町幕府の八代将軍足利義政に重用された。 善阿弥作と伝えられるものに、長禄2年(1458年)の相国寺蔭涼軒、寛正2年(1461年)の花の御所泉殿、その翌年の高倉御所泉水、文正元年(1466年)の相国寺山内睡隠軒がある。応仁の乱の最中は奈良に移り、興福寺大乗院なども手掛けた。生年は、没時に97歳とあることからの推測で、明徳4年(1393年)とも。 興福寺中院の作庭においての待遇は「毎日三十疋、引物二千疋、手の物十一人、毎日人別二十疋宛、引物惣中五百疋」というものだった(『経覚私要鈔』)。睡隠軒の作庭を見た季瓊真蘂は「少岳を築るを見る。善阿の築く所、その遠近峯礀、尤も奇絶たるなり。これに対するに飽かず。忽然として帰路を忘るなり。」と賞賛した。晩年の善阿弥が病床に伏した際には、義政は使者を遣わして見舞い、高貴な薬を届けたという。 子の小四郎らも庭師として仕え、慈照寺(銀閣寺)の庭園は彼の子の二郎、三郎、及び彼の孫の又四郎による作品である。善阿弥などの作庭に携わった者や、作業を行った熟練した技術を持つ河原者たちを、特に山水河原者とも称する。.

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周阿

周阿(しゅうあ、生年未詳 - 永和3年/天授3年(1377年)?)は、南北朝時代の地下(じげ=庶民)の連歌師。俗名を坂の小二郎と称した。 連歌を救済(ぐさい・きゅうぜい)に師事し、その後継と目された。二条良基の撰した連歌の法則を定めた「応安新式」の制定にも関与した。年は不明だが東国に下向しており、晩年は九州に下った。知的で人の意表をつく句風は、室町時代初期にかけての連歌壇にはやった。 「菟玖波集」に入集しているほか、「紫野千句」「侍公周阿百番連歌合」などにも句が残されている。.

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唐物

唐物(からもの)とは、中世から近世にかけて尊ばれた中国製品の雅称である。狭義には宋、元、明時代の美術作品を指す場合もある。なおこの場合の「唐」は広く中国のことを指し、唐時代に作られたという意味ではない。 また、江戸時代以後「唐物屋」など長崎貿易で扱う舶来品全般を唐物とする場合がある。.

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元弘

元弘(げんこう)は、日本の元号の一つ。元徳の後、建武の前。1331年から1333年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.

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囲碁

囲碁(いご)とは、2人で行うボードゲームの一種。交互に盤上に石を置いていき、自分の石で囲んだ領域の広さを争う。単に碁(ご)とも呼ばれる。.

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称念寺 (坂井市)

念寺(しょうねんじ)は、福井県坂井市にある時宗の寺院。山号は長林山。院号は往生院。.

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筑前国

筑前国(ちくぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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細川頼之

細川 頼之(ほそかわ よりゆき)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての武将、政治家。第2代室町幕府管領、中国管領、四国管領。阿波・伊予・備後・讃岐・土佐守護。第6代細川京兆家当主。幼名は弥九郎。はじめ武蔵守、後に相模守時野谷(1979)p.555。 足利氏の一門である細川氏の武将として、阿波、讃岐、伊予など四国地方における南朝方と戦い、観応の擾乱では幕府方に属す。管領への就任で幕政を指導し、幼少の足利義満を補佐して半済令の施行や南朝との和睦などを行う。天授5年/康暦元年(1379年)の康暦の政変で失脚するが、その後は赦免されて幕政に復帰する。.

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織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

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猿楽

猿楽(さるがく、猿樂)は、平安時代に成立した日本の伝統芸能。能は江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治以降のことである。.

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絵巻物

源氏物語絵巻(東屋)徳川美術館蔵 平治物語絵巻(三条殿夜討の巻)ボストン美術館蔵 蒙古襲来絵詞 三の丸尚蔵館蔵 鳥獣人物戯画 高山寺蔵(甲巻、兎と蛙の相撲の場面) 絵巻物(えまきもの)は、日本の絵画形式の1つで、横長の紙(または絹)を水平方向につないで長大な画面を作り、情景や物語などを連続して表現したもの。「絵巻」とも言う。絵画とそれを説明する詞書が交互に現われるものが多いが、絵画のみのものもある。 最初の絵巻物は、奈良時代に制作された『絵因果経』であると言われる。これは巻物の下段に経文、上段にそれを絵解きする絵画を配したものである。 平安時代になると、王朝文学の物語、説話などを題材とした絵巻が制作されるようになった。これらは、金銀箔や野毛、砂子を撒き、花鳥などの下絵をあしらった料紙に連綿体で書かれた詞書と、それに対する絵を交互に配する独特の様式を生み出した。 物語絵巻は、『枕草子』『伊勢物語』『源氏物語』『宇治拾遺物語』などを、独特の表現で描写し、特に『源氏物語絵巻』は、濃厚な色彩で貴族の生活を描き、家屋は屋根を省略した吹抜屋台で描かれていて、当時の住居の状況や建具の使用状況などが一望できる。 鎌倉時代には、歌仙絵巻、戦記絵巻、そして寺社縁起や高僧の伝記絵巻などが多く制作された。 『源氏物語絵巻』・『信貴山縁起』・『伴大納言絵巻』・『鳥獣人物戯画』を、日本の四大絵巻物と称される。.

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田中千阿弥

中 千阿弥(たなか せんなみ、生没年不詳)は、千利休の祖父で子に堺の有力町衆である田中与兵衛がいる。『千家系譜』、『千利休由緒書』によると、千阿弥の遠祖は里見義俊の子の田中義清であり、その子孫と自称したが、明確な確証はない。.

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由阿

由阿(ゆあ、正応4年(1291年)- 天授5年/康暦元年(1379年)頃?)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての時宗の僧・万葉学者。正しくは由阿 弥陀仏。 遊行上人2世他阿真教の門弟となり、相模国清浄光寺に住して『万葉集』の研究に没頭した。1365年(貞治4年/正平20年)関白二条良基に招かれ、翌1366年(貞治5年・正平21年)上洛して『万葉集』を講じて自ら著した『詞林采葉抄』を献上した。このとき74歳であった。仙覚の伝統を受け継いで実証的な研究を進め、『拾遺采葉抄』『青葉丹花抄』などを著した。 Category:鎌倉時代の僧 Category:室町・安土桃山時代の僧 Category:南北朝時代の学者 Category:1291年生.

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相阿弥

阿弥(そうあみ、生年不明 - 大永5年10月27日(1525年11月12日))は室町時代の絵師、鑑定家、連歌師。姓は中尾、名は真相(しんそう)、号は松雪斎・鑑岳。父は芸阿弥、祖父は能阿弥。.

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芸能

芸能(げいのう)とは、芸術の諸ジャンルのうち人間の身体をもって表現する技法のことである『大百科事典 4』、1202頁。。職業として芸能に携わる者を芸能人と呼ぶ。 また、日本に古くからあった芸術と技能は特に日本伝統芸能を参照。.

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芸阿弥

芸阿弥(げいあみ、永享3年(1431年) - 文明17年11月2日(1485年12月8日))は室町時代の絵師、連歌師、表具師、鑑定家。姓は中尾、名は真芸(しんげい)、号は学叟(がくそう)。父は能阿弥、子は相阿弥。 父・能阿弥の跡を継いで足利義政に同朋衆として仕え、絵画制作、書画など唐物の管理・鑑定、表具・座敷飾りの指導、連歌など足利将軍家・室町幕府内の多様な芸能全般を取り仕切った。応仁の乱による混乱のためか史料・画跡などはあまり残っていないが、唯一確証のある作品として月翁周鏡・蘭坡景茝・横川景三が賛を寄せた「観瀑図」(根津美術館所蔵、重要文化財)がある。これは、建長寺の画僧祥啓が芸阿弥に3年間師事し、文明12年(1480年)に帰郷する際に餞別として与えたものであり、「学叟真芸五十歳」との款記がある。.

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音阿弥

音阿弥(おんあみ、またはおんなみ、応永5年(1398年)- 文正2年1月2日(1467年2月6日))は室町時代の猿楽能役者。観世三郎元重。観阿弥の孫、世阿弥の甥に当たる。三世観世大夫。.

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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華道

華道古典生花 上旬の月 月光筒 華道の伝統的様式 華道(かどう)は、植物のみや、植物を主にその他様々な材料を組み合わせて構成し、鑑賞する芸術である。「花道」とも表記し、またいけばな(生け花、活花、挿花)とも呼ばれる。 ただし華道という呼称は「いけばな」よりも求道的意味合いが強調されている。華道にはさまざまな流派があり、様式・技法は各流派によって異なる。 華道は日本発祥の芸術ではあるが、現代では国際的に拡がってきている。欧米のフラワーデザインは、3次元のどこから見ても統一したフォルムが感じられるように生けるとされる。華道の場合、鑑賞する見る方向を正面と定めている流派も多くあるが、3次元の空間を2次元で最大限に表す流派もある。また華道は色鮮やかな花だけでなく、枝ぶりや木の幹の形状、葉や苔となどすべてを花材とし鑑賞する点でも、海外のアレンジの概念とは一線を画している。.

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頓阿

頓阿(二階堂貞宗) 頓阿(とんあ / とんな、正応2年(1289年) - 文中元年/応安5年3月13日(1372年4月17日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代の僧・歌人。父は二階堂氏一族の二階堂光貞(みつさだ)とされるが、藤原師実の子孫という説もある。俗名は二階堂貞宗(にかいどう さだむね、「貞」字は父・光貞または生まれた当時の執権北条貞時の1字、「宗」字は光貞の父・二階堂宗実(むねざね)の1字と思われる)。子に僧・歌人の経賢がいる。 若い頃に比叡山で篭居して天台教学を学び、その後高野山でも修行。20歳代後半に金蓮寺の真観に師事し時衆となった。西行を史蹟を慕って諸国を行脚、京都東山双林寺の西行の旧跡に草庵を構えるなど隠遁者の生活を送った。二条為世に師事して活躍、二条派(歌道)再興の祖とされ、20歳代で慶運・浄弁・吉田兼好とともに和歌四天王の一人とされた。地下(じげ)の歌人であり、歌壇での活躍は晩年であった。「新拾遺和歌集」撰進の際には撰者二条為明(ためあき、為世の次男・為藤の子)が選集の途中で亡くなったことから、頓阿がそれを引き継いで完成させたが、撰者となったのは76歳の時である。北朝の実力者二条良基(二条派とは別系の五摂家の一つ、二条家の当主)の保護を受けた。 『続千載集』以下の勅撰和歌集に44首が入集。著書に『井蛙抄』、『愚問賢註』などがある。 Category:鎌倉時代の僧 Category:鎌倉時代の歌人 Category:室町・安土桃山時代の歌人 Category:南北朝時代の人物 (日本) Category:二階堂氏 Category:1289年生 Category:1372年没.

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観阿弥

観阿弥(かんあみ/かんなみ 觀阿彌陀仏 正慶2年/元弘3年(1333年) - 至徳元年/元中元年5月19日(1384年6月8日))は日本の南北朝時代から室町時代にかけての申楽師。息子の世阿弥とともに、いわゆる能を大成した人物である。名は清次。時宗の法名(時宗の男の法名(戒名)は阿弥陀仏(阿彌陀佛)号。ちなみに観は観世に由来)は観阿弥陀仏。その略称が観阿弥で、早くから観世大夫、あるいは観阿弥、観阿として記録に登場する。観世家の祖。観阿弥最後の舞台となった静岡市葵区宮ヶ崎町の静岡浅間神社には、26世宗家観世清和による顕彰碑がある。.

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講談社

株式会社講談社(こうだんしゃ、英称:Kodansha Ltd.)は、日本の総合出版社。創業者の野間清治の一族が経営する同族企業。.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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越前国

越前国(えちぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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足利義満

足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。.

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足利義政

足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 - 1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。初名は足利 義成(- よししげ)。 幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。.

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龍安寺

山門 龍安寺(りょうあんじ)は、京都府京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の寺院。妙心寺との関係が深く、山内塔頭と同様の扱いを受けている。山号は大雲山と号し、石庭で知られる。本尊は釈迦如来、開基(創建者)は細川勝元、開山(初代住職)は義天玄承である。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。.

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茶坊主

茶坊主(ちゃぼうず)とは、室町時代から江戸時代に存在していた職名の一つ。将軍や大名の周囲で、茶の湯の手配や給仕、来訪者の案内接待をはじめ、城中のあらゆる雑用に従事した。刀を帯びず剃髪していたため「坊主」と呼ばれているが、僧ではなく武士階級に属する。.

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茶道

茶を点てる様子。写真は、盆と鉄瓶を使った簡略的な点茶の例。 茶道(さどう、ちゃどう)は、日本伝統の湯を沸かし、茶を点(た)て、茶を振る舞う行為(茶の儀式)。また、それを基本とした様式と芸道。 元来「茶湯」(ちゃとう)、「茶の湯」といった。千利休は「数寄道」、小堀政一(遠州)は「茶の道」という語も使っていたが、江戸時代初期には茶道と呼ばれた(『茶話指月集』『南方録』など)。「茶道」の英語訳としては tea ceremony のほか、茶道の裏千家と表千家ではそれぞれ the way of tea、chanoyu を用いている。岡倉覚三(天心)は英文の著書 The Book of Tea(『茶の本』)において、Teaism と tea ceremony という用語を使い分けている。 主客の一体感を旨とし、茶碗に始まる茶道具や茶室の床の間にかける禅語などの掛け物は個々の美術品である以上に全体を構成する要素として一体となり、茶事として進行するその時間自体が総合芸術とされる。 現在一般に、茶道といえば抹茶を用いる茶道のことだが、江戸期に成立した煎茶を用いる煎茶道も含む。 広間の茶室の例 道具は左から風炉と釜、建水、柄杓立と柄杓、水指、煙草盆と火入・灰吹。床の間には掛物(一行書「明月和水流」)と花入、香合を飾る。 草庵風茶室の例(高台寺遺芳庵) 草庵風茶室の例(如庵).

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能阿弥

能阿弥(のうあみ、応永4年(1397年) - 文明3年(1471年))は、室町時代の水墨画家、茶人、連歌師、鑑定家、表具師。姓は中尾、名は真能(さねよし)。法号は真能。号は鴎斎、春鴎斎子。子に芸阿弥、孫に相阿弥がいる。 元は越前朝倉氏の家臣だったが、足利義教、義政に同朋衆として仕えて能阿弥と号し、幕府における書画等(唐物)の鑑定や管理を行い、また東山御物の制定を行った。特に水墨画に優れ阿弥派の開祖とされ、鶴図を描き義政に絶賛されたといわれる。自由に御物の名品を見ることの出来る立場を生かし、「花鳥図屏風」や「白衣観音図」のような、牧谿の図様をそのまま取り込んだ作品を残している。茶道においては、書院飾りの完成、台子飾りの方式の制定などを行い、小笠原流の礼法を参酌して今日に伝えられているような茶の点て方を考案した。『山上宗二記』では「同朋中の名人」と記されている。そのほか連歌、立花、香道にも優れ、連歌では七賢の一人に挙げられ、北野天満宮の連歌奉行も務めた。 著書に『君台観左右帳記』、東山御物の目録である『御物御絵目録』(相阿弥の時に完成)、自筆巻子として「集百句之連歌巻」(天理大学附属天理図書館蔵)がある。.

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金蓮寺 (京都市)

金蓮寺(こんれんじ)は、京都市北区にある時宗四条派本寺の寺院。山号は錦綾山。本尊は阿弥陀如来。四条道場とも呼ばれる。.

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若宮八幡宮社

若宮八幡宮社(わかみやはちまんぐうしゃ)は、京都市東山区に鎮座する神社。陶器神社とも呼ばれる。旧社格は郷社。.

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若年寄

若年寄(わかどしより)とは.

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連歌

連歌(れんが)は、鎌倉時代ごろから興り、南北朝時代から室町時代にかけて大成された、日本の伝統的な詩形の一種。多人数による連作形式を取りつつも、厳密なルール(式目)を基にして全体的な構造を持つ。和歌のつよい影響のもとに成立し、後に俳諧の連歌や発句(俳句)がここから派生している。.

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柏書房

柏書房(かしわしょぼう)は、日本の出版社。人文学、歴史学や図書館学に関する出版が多い。 近年の刊行物では、『アホでマヌケなアメリカ白人』(マイケル・ムーア、松田和也訳)が話題を呼んだ。.

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東山御物

東山御物(ひがしやまぎょもつ/ひがしやまごもつ)とは、室町幕府8代将軍・足利義政によって収集された絵画・茶器・花器・文具などの称。「東山」は、義政が山荘を営んだ東山の地に因む。ただし、その中には室町幕府歴代将軍から継承された物が多数含まれ、また、江戸幕府歴代将軍の収集物が「柳営御物」と呼ばれるのに対する意味で、室町幕府歴代将軍の収集物全体を指して「東山御物」と呼ぶ場合もある。 なお、明治以前には「東山殿御物」・「東山殿之御物」・「東山殿御所持」などの呼称が用いられており、「東山御物」の4文字表記が出現するのは明治に入ってからである。なお、東山御物の称が普及したのは、創元社『茶道全集』(1936年発行)によるところが大きいとする説がある。 義政の祖父にあたる義満や父の義教ら歴代将軍は唐物志向が強く、日明貿易により宋・元などの中国絵画(唐物)を収集し、「天山」「道有」などの鑑蔵印が押された。義政期には唐物の管理や鑑定を行っていた同朋衆能阿弥が「御物御画目録」(280幅、東京国立博物館所蔵)を編纂し、材質・形態別の分類を行い、画家や画題、賛者などを記した。また、能阿弥は他にも東山御物について撰述した『君台観左右帳記』を著している。 だが、応仁・文明の乱により散逸した物や諸大名に下賜されたり、幕府財政難のために土倉に売却されるなどして、地方に移ったものやそのまま行方不明になった物も少なくない。安土桃山時代に入ると、義政を「茶道の祖」として崇敬する風潮が茶人の間で生まれ、東山御物の茶器が重んじられるようになった。現代に残る東山御物の多くが国宝や重要文化財に指定されている。.

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東山文化

銀閣寺庭園 東山文化期に和室(畳、障子、襖、床の間)や枯山水が様式化された。 茶道 龍安寺石庭 東山文化(ひがしやまぶんか)とは、室町時代中期の文化を指す用語。八代将軍足利義政(1436年-1490年)が築いた京都の東山山荘を中心に、武家、公家、禅僧らの文化が融合して生まれたとされる。慈照寺銀閣は東山文化を代表する建築である。.

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松平太郎

Image:BrunetAndTeam.jpg|thumb|right|フランス軍事顧問団と榎本軍(前列右から2人目が松平太郎) - 人物にカーソルを合わせると名前が表示され、クリックでリンク先に飛びます。 poly 0 350 18 341 48 315 47 304 36 305 22 283 22 246 36 220 65 210 69 194 62 171 66 136 94 132 109 152 104 201 140 219 150 231 156 285 145 369 118 391 68 391 54 433 49 462 10 457 砲兵隊頭取細谷安太郎 poly 224 555 152 405 172 353 186 294 184 237 216 224 219 202 211 165 229 146 250 146 267 156 271 168 284 171 272 182 273 216 304 224 323 289 323 349 333 388 339 431 326 450 339 529 306 552 ジュール・ブリュネ大尉 poly 324 560 355 524 348 388 337 375 334 343 342 299 369 265 393 230 410 224 404 202 404 185 392 185 399 175 399 163 435 150 454 159 463 169 463 205 468 224 498 241 509 257 517 308 519 330 496 394 473 558 蝦夷共和国副総裁松平太郎 poly 548 372 531 327 528 285 529 244 545 231 575 212 558 192 558 175 556 175 554 147 560 138 577 131 594 131 609 159 605 165 610 187 610 212 646 227 679 261 708 299 670 363 666 383 657 387 664 396 671 449 716 503 714 517 658 453 654 534 528 535 通訳田島応親 poly 162 365 148 235 109 184 117 144 135 106 164 92 175 78 169 49 169 31 178 24 195 24 208 35 215 41 215 47 207 55 208 72 217 82 225 91 253 104 263 141 193 365 アンドレ・カズヌーヴ伍長 poly 265 227 267 150 272 139 297 129 293 106 287 91 294 66 305 60 321 60 333 71 338 78 344 81 344 89 340 97 336 103 334 122 360 139 365 139 376 149 391 179 398 226 358 245 371 305 315 362 ジャン・マルラン軍曹 poly 380 222 386 171 404 151 405 134 399 116 403 114 396 99 410 86 444 97 451 104 451 109 442 115 444 133 441 142 460 170 福島時之助 poly 457 166 461 121 475 104 503 89 509 82 499 72 496 48 489 21 523 17 539 37 541 48 534 71 534 78 547 91 565 99 580 104 627 185 623 210 545 307 577 481 469 493 アルテュール・フォルタン軍曹 rect 0 0 713 561 Use button to enlarge or cursor to investigate desc none 松平太郎(まつだいら たろう、天保10年(1839年) - 明治42年(1909年)5月24日)は、幕末の幕臣。陸軍奉行並。いわゆる「蝦夷共和国」において副総裁を務めた。名は正親。正七位。.

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村井康彦

村井 康彦(むらい やすひこ、1930年8月28日 - )は、日本の歴史学者。専攻は日本文化史。国際日本文化研究センター・滋賀県立大学名誉教授、財団法人京都市芸術文化協会顧問、元京都市美術館館長。.

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村田珠光

村田 珠光(むらた じゅこう、応永29年(1422年)または30年(1423年) - 文亀2年5月15日(1502年6月19日)または7月18日(8月20日))は、室町時代中期の茶人、僧。「わび茶」の創始者と目されている人物。なお僧であったため、本来ならば苗字は記されないが、慣習的に「村田珠光」という呼び方が広まっている。 近年では「しゅこう」と濁らせないとする説もある。.

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桑田忠親

桑田 忠親(くわた ただちか、1902年11月21日 - 1987年5月5日)は、日本の歴史学者。國學院大學名誉教授。.

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横井清

横井 清(よこい きよし、1935年10月31日 - )は、日本中世史学者。 京都市生まれ。1958年立命館大学文学部卒、1962年同大学院文学研究科博士課程中退、京都市史編纂補助、1970年代花園大学文学部助教授、1980年代富山大学人文学部教授、1990年代桃山学院大学文学部教授。1989年『的と胞衣』で毎日出版文化賞受賞。中世民衆史を専攻し、差別、穢れなどの問題を実証的に論じた。.

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武士

武士(ぶし)は、10世紀から19世紀にかけての日本に存在した、宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員である。「もののふ」(cf. wikt) とも読み倣わすが、その起源については大伴氏や物部氏の名に求めるなど諸説がある。 同義語として武者(むしゃ、むさ)があるが、「武士」に比べて戦闘員的もしくは修飾的ニュアンスが強い(用例:武者絵、武者修業、武者震い、鎧武者、女武者、若武者、落武者などさらには、「影武者」のように、本義のほかに一般用語としても使われるようになった語もある。)。すなわち、戦闘とは無縁も同然で「武者」と呼びがたい武士とは言え、呼ぶことが間違いというわけではない。はいるが、全ての武者は「武士」である。他に類義語として、侍、兵/兵者(つわもの)、武人(ぶじん)などもあるが、これらは同義ではない(「侍」は該当項目を参照。兵/兵者や武人は、武士に限らず、日本に限らず用いられる)。「武士」は性別を問う語ではなく性別表現に乏しいものの、女性の武士が戦闘員的特徴を強く具える場合に限って女武者(おんなむしゃ)という呼び方をする「女武士」や「姫武士」などという呼称は見られない。。 武士は平安時代に発生し、その軍事力をもって貴族支配の社会を転覆せしめ、古代を終焉させたとする理解が通常されている。旧来の政権を傀儡として維持したまま自らが実質的に主導する中世社会を構築した後は、近世の終わり(幕末)まで日本の歴史を牽引する中心的存在であり続けた。近代に入って武士という存在そのものを廃したのも、多くの武士が参画する近代政府(明治政府)であった。.

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歓喜光寺

歓喜光寺(かんきこうじ)は、京都府京都市山科区にある時宗六条派本寺の寺院。山号は紫苔山。院号は河原院。本尊は阿弥陀如来。開山は聖戒。六条道場とも呼ばれる。.

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水墨画

水墨画(すいぼくが)または墨絵(すみえ)は、「墨」一色で表現される絵画である。墨線だけでなく、墨を面的に使用し、ぼかしで濃淡・明暗を表す。 中国で唐代後半に山水画の技法として成立し、宋代には、文人官僚の余技としての、四君子(梅兰竹菊)の水墨画が行われた。また、禅宗の普及に伴い、禅宗的故事人物画が水墨で制作された。明代には花卉、果物、野菜、魚などを描く水墨雑画も描かれた。 日本には鎌倉時代に禅とともに伝わった。日本に伝わった絵画は、『達磨図』・『瓢鮎図』などのように禅の思想を表すものであったが、徐々に変化を遂げ、「山水画」も書かれるようになった。.

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江戸城

江戸城(えどじょう)は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった日本の城である。江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。 江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である。近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭になった。 徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。明治維新後の東京奠都で宮城(きゅうじょう)となった。以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。 国の特別史跡に指定されている。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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河原者

河原者(かわらもの。河原乞食・河原人とも呼ばれる)は中世日本の代表的な被差別民の一種である。.

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清浄光寺

清浄光寺(しょうじょうこうじ)は、神奈川県藤沢市にある時宗総本山の寺院。藤沢山無量光院清浄光寺と号す。近世になって遊行寺(ゆぎょうじ)と通称され、明治時代より法主(ほっす)・藤沢上人と遊行上人が同一上人であるために通称の遊行寺の方が知られている。藤沢道場ともいう。.

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朝日新聞社

株式会社朝日新聞社(あさひしんぶんしゃ、英語:The Asahi Shimbun Company)は、全国紙『朝日新聞』を発行する日本の新聞社である。新聞以外に雑誌・書籍の出版や芸術作品の展示・公演、スポーツ大会の開催などの事業活動も行う例えば、全国高等学校野球選手権大会(いわゆる「夏の甲子園」)を日本高等学校野球連盟と共に主催している。。 新聞販売店の名称は「ASA」(朝日新聞サービスアンカー, Asahi Shimbun Service Anchor)であり、日本全国で約3000か所、従業員数約7万8,000人を擁する。日本ABC協会の調査によると海外を含む。 創立は1879年(明治12年)1月8日、日本国内の本支社数は5社、取材拠点は293か所、印刷拠点は24か所であり、日本国外機関は34拠点存在する。.

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新田義貞

新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。 河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。 鎌倉末期から南北朝の混乱の時代にあって、足利氏と並び武家を統率する力のある家系であった新田家の当主で、足利尊氏の対抗馬であり、好敵手でもあった。ただし、鎌倉時代後期の新田家は足利家に対して従属関係にあり、延元の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある。また、軍記物語『太平記』においては、前半の主人公の一人とも言える存在である。 鎌倉幕府を攻撃して事実上滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏が建武政権に反旗を翻すと、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命されてこれに対抗した。これにより各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。東国の一御家人から始まり、鎌倉幕府を滅ぼして中央へと進出し、その功績から来る重圧に耐えながらも南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯だった。 死後、江戸時代に義貞が着用していた兜が偶然見つかり、福井藩主松平光通は兜が発見された場所に新田塚を建てた。明治時代、福井知藩事・松平茂昭は新田義貞のために新田塚に祠を建て、のち義貞を主祭神する藤島神社となり、建武中興十五社の一つに列せられた。.

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慶応

慶応(けいおう、旧字体: 慶應)は日本の元号の一つ。元治の後、明治の前。1865年から1868年までの期間。この時代の天皇は孝明天皇、明治天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂、徳川慶喜。日本での「一世一元の詔」発布以前では最後の元号。.

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慈照寺

東山慈照寺(じしょうじ)は、京都府京都市左京区にある、臨済宗相国寺派の寺院。相国寺の境外(けいがい)塔頭である。室町時代後期に栄えた東山文化を代表する建築と庭園を有する。 室町幕府8代将軍足利義政が鹿苑寺の舎利殿(金閣)を模して造営した楼閣建築である観音殿は銀閣(ぎんかく)、観音殿を含めた寺院全体は銀閣寺(ぎんかくじ)として知られる。「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。銀閣は、金閣、飛雲閣(西本願寺境内)とあわせて京の三閣と呼ばれる。 山号は東山(とうざん)。開基(創立者)は足利義政、開山は夢窓疎石とされている。夢窓疎石は実際には当寺創建より1世紀ほど前の人物(故人)であり、このような例を勧請開山という。.

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拾阿弥

拾阿弥・十阿弥(じゅうあみ、生年不詳 - 永禄2年(1559年))は、戦国時代の茶坊主。尾張国守護代織田氏に仕えた同朋衆。 「捨阿弥」は誤記。.

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時宗

時宗(じしゅう)は、鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派の日本仏教。開祖は一遍。鎌倉仏教のひとつ。総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(通称遊行寺)。 時宗の開祖・一遍像。藤沢市清浄光寺。.

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1866年

記載なし。

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