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古人大兄皇子

索引 古人大兄皇子

古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ、生年不詳 - 大化元年9月12日(645年10月7日)ここでは、吉備笠垂の密告日(9月12日)の内に、中大兄が討伐命令を出し、古人大兄が死亡した場合の日付を採用している。日本書紀には、密告記述に引き続く一文で、「中大兄、即(すなは)ち…古人大市皇子等を討たしむ。」(訓読文)と在る。(校注本には「即ち」の意味については注釈されていない。) - 「巻第二十五 孝徳天皇 大化元年八月-九月」 『日本書紀(四)[全5冊]』 坂本太郎 他校注(岩波文庫)1995年、252頁)は、飛鳥時代の皇族。舒明天皇の第一皇子。母は蘇我馬子の娘・蘇我法提郎女(ほほてのいらつめ)で大臣・蘇我入鹿とは従兄弟に当たる。娘は倭姫王(天智天皇の皇后)。古人皇子・古人大市皇子・吉野太子とも呼称される。 大臣・蘇我入鹿は、古人大兄皇子を皇極天皇の次期天皇に擁立しようと望んだ。そのため、有力な皇位継承資格者・山背大兄王(『上宮聖徳法王帝説』では厩戸皇子(聖徳太子)の子であるとされるが、『日本書紀』にはそのような記述はない。厩戸皇子自身が蘇我氏の一族であり、山背大兄王の母は入鹿の叔母(刀自古郎女)であり入鹿とは従兄弟に当たる)の存在が邪魔になり、643年11月、入鹿は斑鳩宮を襲い山背大兄王とその一族を滅ぼした。 645年6月、三韓から進貢の使者が来日し、宮中で儀式が行なわれた。古人大兄皇子は皇極天皇の側に侍していたが、その儀式の最中、異母弟・中大兄皇子(天智天皇)、中臣鎌子(藤原鎌足)らが蘇我入鹿を暗殺する事件が起きた。古人大兄皇子は私宮(大市宮)へ逃げ帰り「韓人が入鹿を殺した。私は心が痛い」(「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」)と言った。入鹿の父・蘇我蝦夷も自邸を焼いて自殺して蘇我本家は滅び、古人大兄皇子は後ろ盾を失った(乙巳の変)。 事件後、皇極天皇退位を受けて皇位に即く事を勧められたがそれを断り、出家して吉野へ隠退した。しかし、同年9月12日 吉備笠垂(きびのかさのしだる)から「古人大兄皇子が謀反を企てている」との密告を受け、中大兄皇子が攻め殺させた古人大兄を「討たせた」結果の「死」について、日本書紀の編者は「ある本」二書に語らせるのみで、直接的言及はなされていない。「ある本」一書に、11月30日の事として中大兄が討伐を命じ、古人大兄を殺させたむね記されている。 - 「巻第二十五 孝徳天皇 古人大兄の死」 『日本書紀(下)全現代語訳』 宇治谷 孟訳(講談社学術文庫)1988年、164頁。実際に謀反を企てていたかどうかは不明である日本書紀の該当部分文章構成は以下の通り。複数の共謀者の具体的名前を挙げ古人大兄が謀反を企てた(9月3日)むね断定的に記述された後、共謀者の吉備笠垂の密告(9月12日)の記述がなされるが、その検証の記述が一切無いまま、中大兄による討伐命令に至っている。ここで「検証の記述云々」とは、例えば、蘇我倉山田石川麻呂が蘇我日向に皇太子中大兄への謀反を讒言されたとき、孝徳天皇側から謀反の企てについて石川麻呂本人に問い合わせが何度もなされた記述が在るが、古人大兄の場合には謀反の企ての有無について問い合わせ等検証の記述が無いことを言う。 - 「巻第二十五 孝徳天皇 古人大兄の死 および 蘇我倉山田麻呂冤罪」 『日本書紀(下)全現代語訳』 宇治谷 孟訳(講談社学術文庫)1988年、164、184頁。.

31 関係: 吉備笠垂吉野大化大臣 (古代日本)天皇天智天皇孝徳天皇山背大兄王三韓乙巳の変刀自古郎女出家倭姫王皇后皇族聖徳太子飛鳥時代謀反舒明天皇蘇我入鹿蘇我倉山田石川麻呂蘇我蝦夷蘇我馬子蘇我日向藤原鎌足斑鳩宮斉明天皇10月7日643年645年9月12日 (旧暦)

吉備笠垂

吉備笠 垂(きびのかさ の しだる、生没年不詳)は飛鳥時代の官人。名は志太留とも表記される。姓は臣。冠位は大錦下。.

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吉野

吉野(よしの)は、大和国南部(現在の奈良県南部)一帯を指す地名である。特に吉野山から大峰山にかけての山岳地帯をいう。狩りに適した良い野という意味である。吉野は口吉野と奥吉野に分かれる。奥吉野は山々が連なる山岳地帯で、古くは大峰とよばれ、厳密には吉野に含まれなかった。大峰の山々は熊野まで連なる。大峰への道は修験者によって、熊野から開かれた。 記紀には応神や雄略の吉野での狩りの伝承が載せられている。.

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大化

大化(たいか)は、日本で最初の元号。西暦でいう645年から650年までの期間を指す。.

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大臣 (古代日本)

大臣(おおおみ)とは、古墳時代におけるヤマト王権に置かれた役職の1つ。王権に従う大夫を率いて大王(天皇)の補佐として執政を行った。姓(かばね)の一つである臣(おみ)の有力者が就任した。.

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天皇

天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.

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天智天皇

天智天皇(てんじてんのう/てんぢてんのう、推古天皇34年(626年) - 天智天皇10年12月3日(672年1月7日))は、第38代天皇(在位:天智天皇7年1月3日(668年2月20日) - 10年12月3日(672年1月7日))。和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。一般には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)として知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味する語。諱(実名)は葛城(かづらき/かつらぎ)。漢風諡号である「天智天皇」は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代に淡海三船が「殷最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けたと言われる。.

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孝徳天皇

孝徳天皇(こうとくてんのう、推古天皇4年(596年) - 白雉5年10月10日(654年11月24日))は、日本の第36代天皇(在位:孝徳天皇元年6月14日(645年7月12日) - 白雉5年10月10日(654年11月24日))。諱は軽(かる)。和風諡号は天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)。その在位中には難波宮に宮廷があったことから、後世その在位時期をその政策(後世でいうところの大化の改新)などを含めて難波朝(なにわちょう)という別称で称されることがあった。.

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山背大兄王

山背大兄王(やましろのおおえのおう、? - 皇極天皇2年11月11日(643年12月30日))は、『日本書紀』によれば7世紀前半の皇族。『上宮聖徳法王帝説』より厩戸皇子(聖徳太子)の子。母は蘇我馬子の娘・刀自古郎女(とじこ の いらつめ)で大臣・蘇我入鹿とは従兄弟に当たる。.

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三韓

2世紀頃の三韓諸国周辺。 4世紀頃の三韓諸国周辺。 三韓(さんかん)は、1世紀から5世紀にかけての朝鮮半島南部に存在した種族とその地域。朝鮮半島南部に居住していた種族を韓と言い、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる馬韓・弁韓・辰韓の3つに分かれていたことから「三韓」といった。三韓の「韓」はモンゴル語の「汗」と同じく「王」の意味である。衛氏朝鮮の「辰国」である。遼東郡の公孫氏が独立してからは、三韓諸国は公孫氏に服属した。.

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乙巳の変

具慶の合作によって描かれたもの。左上は皇極天皇。 談山神社所蔵『多武峰縁起絵巻』(奈良県桜井市) 乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)は、中大兄皇子、中臣鎌足らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変。その後、中大兄皇子は体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行した。俗に蘇我入鹿が殺された事件のことを指して「大化の改新」と言うこともあるが、厳密にはクーデターである「乙巳の変」の後に行われた一連の政治改革が「大化の改新」である。.

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刀自古郎女

刀自古郎女(とじこ の いらつめ、生没年不詳)は、飛鳥時代の女性。聖徳太子の妃。父は蘇我馬子、母は物部氏の女と伝えられている。.

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出家

出家(しゅっけ、pabbajja、pravrajyaa、प्रव्रज्या) とは、師僧から正しい戒律である『沙弥戒』や『具足戒』を授かって世俗を離れ、家庭生活を捨て仏教に入ることである。落飾(らくしょく)ともいう。対義語は還俗(げんぞく、“俗界に還る”の意)。 在家(ざいけ)と対比される。インドでは、紀元前5世紀頃、バラモン教の伝統的権威を認めない沙門(しゃもん)と呼ばれる修行者が現れ、解脱(げだつ)への道を求めて禅定や苦行などの修行にいそしんだ。有力な沙門の下には多くの弟子が集まり、出家者集団を形成したが、釈迦もその沙門の1人であった。 仏教における出家の伝統はこれに由来する。仏教教団において剃髪(ていはつ)して袈裟を被い、「正式に受戒(じゅかい)して入門した沙弥や沙弥尼」になることを言うが、その後、「具足戒を受けて正規の僧となった比丘や比丘尼」を呼ぶ場合にも使う。.

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倭姫王

倭姫王(やまとひめのおおきみ、生没年不詳)は、飛鳥時代の皇族。舒明天皇の第一皇子・古人大兄皇子の娘。母は未詳。天智天皇の皇后。子女は無し。 大化元年9月12日(645年10月7日)ここでは、吉備笠垂(きびのかさのしだる)の密告日(9月12日)の内に、中大兄が討伐命令を出し、古人大兄が死亡した場合の日付を採用している。日本書紀には、11月30日の事として中大兄が討伐を命じ、古人大兄を殺させたむね記した「ある本」一書が引用されている。 - 「巻第二十五 孝徳天皇 古人大兄の死」 『日本書紀(下)全現代語訳』 宇治谷 孟訳(講談社学術文庫)1988年、164頁 、父・古人大兄皇子が謀叛の疑いで中大兄皇子(後の天智天皇)に攻め殺される。天智天皇7年2月23日(668年4月10日)、中大兄皇子が天皇に即位したことにより大后となる。 天智天皇が病に倒れた際、大海人皇子(後の天武天皇)は「倭姫王が即位し、大友皇子が太政大臣として摂政を執るべき」むね進言した「巻第二十七 天智天皇 天智天皇崩御」 『日本書紀(下)全現代語訳』 宇治谷 孟訳(講談社学術文庫)1988年、239頁。また、天智天皇崩御後に倭姫王の即位または称制があったとする説もある。 天智天皇の危篤・崩御の際に詠んだ歌4首が『万葉集』に収められている。.

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皇后

皇后(こうごう、Empress)は、天皇や皇帝の正妃(正妻)、およびその人物に与えられる称号。 一夫多妻制のもとでは、天皇や皇帝の複数の妻のうち最上位の者となる。.

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皇族

女王旗)皇室儀制令19条では「親王旗親王妃旗内親王旗王旗王妃旗女王旗」。 皇族(こうぞく)は、天皇の親族のうち、男系の嫡出の血族(既婚の女子を除く)およびその配偶者の総称。すなわち、皇后、太皇太后、皇太后、親王、親王妃、内親王、王、王妃および女王の総称であり、天皇は含まれない。天皇を含む場合は「皇室」という。.

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聖徳太子

聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日))・厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)は、飛鳥時代の皇族・政治家。「聖徳太子」は、後世の諡号。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。.

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飛鳥時代

飛鳥時代(あすかじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つ。広義には、飛鳥に宮都が置かれていた崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)にかけての118年間を指す。狭義には、聖徳太子が摂政になった推古天皇元年(593年)から藤原京への遷都が完了した持統天皇8年(694年)にかけての102年間を指す。飛鳥時代は古墳時代、大和時代の終末期と重なるが、今日では分けて捉えるのが一般的である。 この時代、推古朝では飛鳥文化、天武・持統朝では白鳳文化が華開いた。また国号が「倭」から「日本」へと変えられたのもこの時代と考えられている。.

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謀反

謀反(むほん、むへん、ぼうへん)は、国家・君主・主君・時の為政者にそむくことである『大辞泉』小学館。謀叛とも表記するが、厳密には後述のように表記や読み方、また時代によって差異がある。特に武力・軍事力を動員して反乱を起こすことを指すことが多いが、少人数で君主・主君を暗殺する行為を謀反ということもある。ただし、近代の事件を指して謀反の語を使うことはまれであり、基本的に前近代の事件を指す言葉である。東アジアの人々に浸透した儒教の観念では大変重い罪であるととらえられた。.

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舒明天皇

舒明天皇(じょめいてんのう、推古天皇元年(593年)? - 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日))は、日本の第34代天皇(在位:舒明天皇元年1月4日(629年2月2日) - 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日))。 諱は田村(たむら)。 和風諡号は息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)。.

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蘇我入鹿

蘇我 入鹿(そが の いるか、不詳 - 皇極天皇4年(645年)6月12日)は、飛鳥時代の豪族。 大臣として大和朝廷の有力者であったが、乙巳の変において討たれ、その後蘇我氏が凋落するきっかけとなった。.

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蘇我倉山田石川麻呂

SVGで表示(対応ブラウザのみ) 蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだ の いしかわまろ/そがのくらのやまだのいしかわ の まろ、生年不詳 - 大化5年3月25日(649年5月15日))は、飛鳥時代の豪族。 名称は「蘇我倉山田麻呂」「倉山田臣」「山田臣」「山田大臣」などとも。 蘇我馬子の子である蘇我倉麻呂の子であり、蘇我蝦夷は伯父、蘇我入鹿は従兄弟に当たる。兄弟に日向・赤兄・連子・果安。.

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蘇我蝦夷

SVGで表示(対応ブラウザのみ) 蘇我 蝦夷(そが の えみし)は、飛鳥時代の政治家、貴族。大臣として権勢を振るうが乙巳の変で自害した。.

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蘇我馬子

各人物記事へのリンク表示) 蘇我 馬子(そが の うまこ)名に「子」の字が付くが男性である(当時は「子」が男女問わず用いられた)。子 (人名)を参照のこと。は、飛鳥時代の政治家、貴族。邸宅に島を浮かべた池があったことから嶋大臣とも呼ばれた。 敏達天皇のとき大臣に就き、 以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕え、54年にわたり権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築いた。.

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蘇我日向

蘇我日向(そがの ひむか、生没年不詳)は、7世紀後半の官人。祖父は蘇我馬子、父は蘇我倉麻呂(雄正)。兄弟に蘇我倉山田石川麻呂、蘇我赤兄、蘇我連子、蘇我果安。字は身刺(むさし)。.

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藤原鎌足

中臣 鎌足(なかとみ の かまたり)のち藤原 鎌足(ふじわら の かまたり)は、飛鳥時代の政治家。日本の歴史における最大氏族「藤原氏」の始祖。 大化の改新の中心人物であり、改新後も中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍し、藤原氏繁栄の礎を築いた。『藤氏家伝』には「偉雅、風姿特秀」と記されている。字は仲郎。.

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斑鳩宮

斑鳩宮(いかるがのみや)は、聖徳太子が現在の奈良県生駒郡斑鳩町に営んだ宮殿。 聖徳太子は、推古天皇9年(601年)に斑鳩宮を造営し、推古天皇13年(605年)に移り住んだ。また、太子の手により、斑鳩宮の西方に斑鳩伽藍群(法隆寺・中宮寺・法輪寺・法起寺)が建立された。 太子の薨去後は、太子の王子山背大兄王一族が住んでいたが、皇極天皇2年(643年)に蘇我入鹿の兵によって宮は焼き払われ、山背大兄王以下の上宮王家の人々は、法隆寺で自決に追い込まれたとされる。なお現在の法隆寺は蘇我氏滅亡後に再建されたとされ、明治期から法隆寺再建・非再建論争が行われた。今日でも法隆寺再建をめぐり論議がなされている。 発掘調査で判明したことは、まず宮は現在の東院伽藍の場所に建っていたこと、宮の範囲は二町四方であること、などである。しかし、宮全体構造はまだ分かっていない。また、厩戸皇子が建立したと伝えられる斑鳩寺は、西院伽藍の裏手の若草伽藍であり、金堂や塔が火災にあい焼失した痕跡が残っていた。伽藍中心部の広さは東西や139メートル、南北172.5メートルの四天王寺式伽藍配置であった。斑鳩宮と斑鳩寺(若草伽藍)は、方位がほぼ同じで同時期の造営であることがわかる。また、西院伽藍の東大門や西大門に沿う築地も同方向であるので、斑鳩宮造営と同時に築造され、道路や水路を広範囲に敷設したことと推測できる。さらに、飛鳥と斑鳩を結ぶ太子道も同方位である。太子道は、筋違い道とも呼ばれ、磯城郡田原本町保津と生駒郡斑鳩町高安を結ぶ道であった。1998年の発掘で田原本町保津の起点の東南から側溝20メートル(溝幅3メートル、深さ0.5メートル)の道が検出されている。 Category:日本の宮殿 Category:現存しない奈良県の建築物 Category:飛鳥時代の遺跡 Category:奈良県の考古遺跡 category:聖徳太子 Category:法隆寺 Category:斑鳩町の歴史.

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斉明天皇

皇極天皇(こうぎょくてんのう)、重祚して斉明天皇(さいめいてんのう;齊明天皇、推古天皇2年(594年) - 斉明天皇7年7月24日(661年8月24日))は、日本の第35代・第37代天皇。 在位期間は、皇極天皇として皇極天皇元年1月15日(642年2月19日) - 4年6月14日(645年7月12日)、斉明天皇として斉明天皇元年1月3日(655年2月14日) - 7年7月24日(661年8月24日)。 舒明天皇の皇后で、天智天皇・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・天武天皇の母である。推古天皇から一代おいて即位した女帝(女性天皇)になる。.

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10月7日

10月7日(じゅうがつなのか)はグレゴリオ暦で年始から280日目(閏年では281日目)にあたり、年末まであと85日ある。.

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643年

記載なし。

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645年

記載なし。

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9月12日 (旧暦)

旧暦9月12日は旧暦9月の12日目である。六曜は友引である。.

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