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南詔

索引 南詔

8世紀のアジア 南詔(なんしょう)は、8世紀半ば、中国西南部、雲南地方の洱海地区に勃興したチベット・ビルマ語族の王国。最盛期には四川や東南アジアにまで勢力を拡大した。.

51 関係: 吐蕃大理ペー族自治州大理国安史の乱中国ミャンマーチベット・ビルマ語派ハノイラオス僖宗 (唐)ピューベトナムインドイ族ウイグルカンボジアシルクロードタイ王国タイ語タイ族冊封公主六詔の君主一覧国号四川省皇帝王国西安市黄巣雲南陝西省東南アジア段思平朝貢成都市738年752年754年779年793年7世紀829年859年883年897年8世紀902年938年...9世紀 インデックスを展開 (1 もっと) »

吐蕃

吐蕃(とばん、拼音:TŭbōまたはTŭfān、チベット語:、ワイリー転写:Bod chen po)は、7世紀初めから9世紀中ごろにかけてチベットにあった統一王国。.

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大理ペー族自治州

大理ペー族自治州(だいりぺーぞくじちしゅう)は中華人民共和国雲南省に位置する自治州。人口の半数を漢族が半数を占め、残りは少数民族、その内ペー族は全体の3分の1を占める。自治州首府は大理市。.

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大理国

大理国(だいりこく、dàlǐguó)は、937年に白蛮(チベット系のペー族)出身の段思平が南詔(およびその後継国家の大長和、大天興、大義寧)にかわって樹立した国家。現在の雲南地方を主たる領域として統治していた。集権的ではなく、君主権はそれ程強くなかったと考えられている。 1094年、高昇泰は段氏の皇帝を廃し、国号を大中、元号を上治と改め、自ら皇帝として即位した。しかし、1096年、臨終を迎えた高昇泰は、息子のに、政権を段氏に返すよう遺言した。この中断より後の大理国は「後大理国」とも呼ばれる。 君主は終始国内的には皇帝号を称していたが、後大理国時代の1117年に北宋より「雲南節度使大理国王」に冊封もされ、対外称号と国内称号を使い分けている。1253年にモンゴル帝国の雲南・大理遠征を受けると、翌年大理はモンゴル帝国に降伏。クビライがモンゴル帝国第5代皇帝となると、その地はクビライの庶子・フゲチに与えられ、雲南王国となった(のち梁王国と改称)。大理の旧主の段一族はフゲチとその子孫に仕え、子女を梁王家に嫁がせて、この地における支配階級の一員「大理総管」としての地位を保ち続けた。1390年に明がこの梁王国を滅ぼした際、段一族は梁王家を裏切って明に取り入り大理国の復活を目論んだが、その領内にあった当時東アジアでも有数の銀山に目をつけていた洪武帝は段氏による王国復活を認めず、この地は漢唐以来隔絶していた中原政権に併合され、雲南全境の独立国家の歴史はここに終った。 首都は大理。.

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安史の乱

安史の乱(あんしのらん)、ないし安禄山の乱(あんろくざんのらん)は、755年から763年にかけて、唐の節度使・安禄山とその部下の史思明およびその子供達によって引き起こされた大規模な反乱。.

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中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

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ミャンマー

ミャンマー連邦共和国(ミャンマーれんぽうきょうわこく、ပြည်ထောင်စု သမ္မတ မြန်မာနိုင်ငံတော်、Myanmar)、通称ミャンマー/ビルマは、東南アジアのインドシナ半島西部に位置する共和制国家。独立した1948年から1989年までの国名はビルマ連邦。ASEAN加盟国、通貨はチャット、人口は 5,142万人(2014年)、首都はネピドー(2006年まではヤンゴン)。 南西はベンガル湾、南はアンダマン海に面する。南東はタイ、東はラオス、北東と北は中国、北西はインド、西はバングラデシュと国境を接する。インド東部とミャンマー南西部はベンガル湾をはさみ相対している。 多民族国家で、人口の6割をビルマ族が占め、ビルマ語が公用語である。他に、カレン族、カチン族、カヤー族、ラカイン族、チン族、モン族、ビルマ族、シャン族、北東部に中国系のコーカン族などの少数民族がおり、独自の言語を持つ民族も多い(言語参照)。.

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チベット・ビルマ語派

チベット・ビルマ語派(チベット・ビルマごは)は、シナ・チベット語族の一語派。シナ語派(中国語)とともにこの語族を構成し、。 チベットからヒマラヤ・アッサム・中国南西部・ミャンマー・タイにかけて分布。.

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ハノイ

ハノイ( )は、ベトナム社会主義共和国北部に位置する都市で、同国の首都。南部ホーチミン市に次ぐ同国第2の都市であり、政治と文化の都である。地名の「城舖河内」は、当時の街(現在のホアンキエム・バーディン・ドンダー・ハイバーチュンの4区にほぼ相当)が紅河とトーリック川(蘇瀝江)とに囲まれていたことに由来する。2009年の人口は650万人。紅河の右岸にあり、国内の工業の中心地で、農産物の集散地ともなっている。また、一柱寺など史跡も多い。東南アジア有数の世界都市であり、ホーチミン市がベトナム経済の中心地である反面、ハノイはベトナムの政治・文化の中心地と言われることが多い。.

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ラオス

ラオス人民民主共和国(ラオスじんみんみんしゅきょうわこく、ສາທາລະນະລັດ ປະຊາທິປະໄຕ ປະຊາຊົນລາວ)、通称ラオスは、東南アジアのインドシナ半島に位置する共和制国家。ASEAN加盟国、通貨はキープ、人口約691万人、首都はヴィエンチャン。 ASEAN加盟10カ国中唯一の内陸国。面積は日本の約63%に相当し、国土の約70%は高原や山岳地帯である。北は中国、東はベトナム、南はカンボジア、タイ、西はミャンマーと国境を接する。永世中立国。.

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僖宗 (唐)

僖宗(きそう)は、唐朝の第21代皇帝。懿宗の五男。.

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ピュー

ピュー(Pyu)とは、かつてミャンマー(ビルマ)のエーヤワディー川流域に居住していた民族集団である。本項ではピューの城郭都市についても述べる。 ピューは他称で、漢文史料の「驃」「剽」などの表記、ビルマ語のピュー(Pyu)に由来する伊東「ピュー」『新版 東南アジアを知る事典』新版、363頁。古くはPruと発音され、『ハンリン・タマイン(由来記)』には「微笑む」を意味するPrunに由来すると記されている服部「古代ビルマ概観」『大阪外国語大学学報』12巻、100頁。自称は古モン語の「ティルチュル(tircul、突羅成)」。 エーヤワディー川流域ではタイェーキッタヤー()、テーゴウン、ベイッタノー(ベイタノウ)、ワディー、マインモー、ハリン(ハリンジー)、ダガウンといった、10世紀以前に建設された7つのピューの城郭都市が発見されている。城郭都市と周辺の地域に共通する出土品から、かつてエーヤワディー川流域では一大文化圏が形成されていたと考えられており、その文化圏はピュー文化圏と呼ばれている。城郭都市の遺跡はエーヤワディー中流域にほぼ一直線に並んでおり、最南端のタイェーキッタヤーが最も新しい田村、松田『ミャンマーを知るための60章』、22-26頁。1-2世紀から3-4世紀にかけて存続していたベイッタノーが最古の城郭都市であるが、一部にはベイッタノーをピューの城郭都市と見なすことに疑問を投げかける意見もある。また、エーヤワディー流域以外に下ビルマの海岸地帯でもピューの城郭都市と同じ特徴を持つ遺跡が多く発見されている田村、根本『ビルマ』(暮らしがわかるアジア読本, 河出書房新社, 1997年2月)、94頁。 ピュー族の言語は完全に解読されておらず、歴史や社会の研究の大部分は考古学的発見と他民族が記した史料に依拠している。.

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ベトナム

ベトナム社会主義共和国(ベトナムしゃかいしゅぎきょうわこく、)、通称 ベトナム()は、東南アジアのインドシナ半島東部に位置する社会主義共和国。首都はハノイ。ASEAN加盟国、通貨はドン、人口9,250万人(2014年末)。 国土は南北に細長く、北は中華人民共和国、西はラオス、南西はカンボジアと国境を接する。東は南シナ海に面し、フィリピンと相対する。.

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インド

インドは、南アジアに位置し、インド洋の大半とインド亜大陸を領有する連邦共和制国家である。ヒンディー語の正式名称भारत गणराज्य(ラテン文字転写: Bhārat Gaṇarājya、バーラト・ガナラージヤ、Republic of India)を日本語訳したインド共和国とも呼ばれる。 西から時計回りにパキスタン、中華人民共和国、ネパール、ブータン、バングラデシュ、ミャンマー、スリランカ、モルディブ、インドネシアに接しており、アラビア海とベンガル湾の二つの海湾に挟まれて、国内にガンジス川が流れている。首都はニューデリー、最大都市はムンバイ。 1947年にイギリスから独立。インダス文明に遡る古い歴史、世界第二位の人口を持つ。国花は蓮、国樹は印度菩提樹、国獣はベンガルトラ、国鳥はインドクジャク、国の遺産動物はインドゾウである。.

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イ族

イ族(イぞく、彝族, )は中国の少数民族の一つ。2010年の第6次全国人口普査統計では人口は8,714,393人で、中国政府が公認する56の民族の中で7番目に多い。.

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ウイグル

ウイグル(、、)は、4世紀から13世紀にかけて中央ユーラシアで活動したテュルク系遊牧民族並びにその国家『突厥与回鶻史』では、モンゴル高原東部に興り、後に西トルキスタンや甘粛省・新疆ウイグル自治区に移住したトルコ系民族」としている。及びその後裔とも『大辞林』(三省堂、1988年)の「ウイグル」項20世紀の政治的必要性からの名乗りともされる「ウイグル」を自らの民族呼称とする民族を指し、後者は現在中華人民共和国の統治する新疆ウイグル自治区やカザフスタン・キルギス・ウズベキスタンなど中央アジアに居住している。人口は約1千万人。テュルク諸語のウイグル語を話すムスリム(イスラム教徒)である 。 本項では、古代から現在にいたるウイグルが興した国家や政権、および居住地域など、関連情報について概説する。.

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カンボジア

ンボジア王国(カンボジアおうこく、ព្រះរាជាណាចក្រកម្ពុជា)、通称カンボジアは、東南アジアのインドシナ半島南部の立憲君主制国家。ASEAN加盟国、通貨はリエル、人口1,513万人、首都はプノンペン。1970年にカンボジア王国が倒れてから勃発したカンボジア内戦を経て、1993年に誕生した。 南はタイランド湾に面し、西はタイ、北はラオス、東はベトナムと国境を接する。国民の90%以上が、クメール語(カンボジア語)を話し、仏教(上座部仏教)を奉ずるクメール人(カンボジア人)である。国歌は素晴らしき王国である。.

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シルクロード

ルクロード(絹の道、Silk Road, Seidenstraße, 繁体字:絲綢之路, 簡体字:丝绸之路)は、中国と地中海世界の間の歴史的な交易路を指す呼称である。絹が中国側の最も重要な交易品であったことから名付けられた。その一部は2014年に初めて「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」としてユネスコの世界遺産に登録された。 シルクロードの主要なルート.

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タイ王国

タイ王国(タイおうこく、ราชอาณาจักรไทย )、通称タイ(ประเทศไทย )は、東南アジアに位置する君主制国家。東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国、通貨はバーツ、人口6,718万人、首都はバンコク。 国土は、インドシナ半島中央部とマレー半島北部を占める。南はマレーシア、東はカンボジア、北はラオス、西はミャンマーと国境を接する。マレー半島北部の西はアンダマン海、東はタイランド湾に面する。 2014年にプラユット将軍率いる国軍が軍事クーデターを起こし、従来の憲法(2007年憲法)と議会を廃止し実権掌握以降、軍事独裁政権が継続している。 2016年10月13日にプーミポン・アドゥンラヤデート(プミポン)国王が崩御。 同年12月1日にワチラーロンコーンが国王に即位した。 2017年4月7日に新憲法が公布され、同日施行された。.

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タイ語

タイ語(タイご、 )はタイ王国の公用語。短縮形は「ไทย(タイ)」。タイ・カダイ語族カム・タイ語派に属する。 タイ・カダイ語族はシナ・チベット語族に属するとされてきたが、独立した語族であるとするのが通説である。欧米の学者を中心に、タイ・カダイ語族をオーストロネシア語族と合わせる説(オーストロ・タイ語族)や、さらにオーストロアジア語族およびミャオ・ヤオ語族とも合わせる説(オーストリック大語族)もある。.

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タイ族

タイ・カダイ語族言語の分布図図中のオレンジ色の領域が本項のタイ語民族の居住地域である タイ族(タイ語民族)とは、タイ・カダイ語族のうち(South-Western Tai、タイ語やラーオ語など)を母語とする人のこと。タイ人.

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唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.

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冊封

冊封(さくほう、さっぽう)とは、称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を伴う、外交関係の一種。「天子」とは「天命を受けて、自国一国のみならず、近隣の諸国諸民族を支配・教化する使命を帯びた君主」のこと。中国の歴代王朝の君主(元朝、清朝を含む)たちが自任した。 冊封が宗主国側からの行為であるのに対し、「朝貢国」の側は.

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公主

公主(こうしゅ)は、中国において皇帝の娘のこと、またその称号をさす。.

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六詔の君主一覧

* ろくしよう ろくしよう.

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国号

国号(こくごう)とは、主に国の称号、あるいは名称のこと。2通りの意味において使用されており、1つは「帝国」、「王国」、「大公国」、「公国」、「首長国(土侯国)」、「共和国(民国)」などの統治体制(政体)を表す部分を含めた国の名称を指す場合と、もう1つは政体を除いた国の名称を「国号」ということがある。 政体を含めない用例としては「韓国ノ国号ヲ改メ朝鮮ト称スルノ件」(明治43年勅令第318号)がある。同勅令は「韓国ノ国号ハ之ヲ改メ爾今朝鮮ト称ス」としており、政体(当時の韓国は帝政を布いていた帝国)を含めないで国号という語を用いている。なお、韓国併合ニ関スル条約(明治43年条約第4号)では互いの国名を「日本国・韓国」と表記しているが、それを遡る日韓議定書(1904年2月23日)では互いの国名を「大日本帝国・大韓帝国」としている。.

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四川省

三星堆遺跡の青銅仮面 四川省の伝統芸能『川劇』 四川省(しせんしょう、、、)は、中華人民共和国西南部に位置する省。略称は川あるいは蜀。省都は成都。西北部はチベットの伝統的な地方区分でいうアムド地方の東南部、西部はカムの東部にあたる。また、東部の重慶は直轄市として1997年に分離した。.

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皇帝

皇帝(こうてい、中国語: 皇帝、imperator、emperor; king of kings、Kaiser、Βασιλευς、император、İmparator)は、帝国の世襲の君主。諸王に超越する王(諸王の王)、君主国の君主の称号。皇帝という君主号には唯一神の意や、模倣・僭称も存在する。.

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王(おう)は、おおむね国の君主(国王)を指し、その君主号である。また、特定の領土を持たずとも、ある部族や種族の長たる者を王と呼ぶ。転じて、ある特定の分野での頂点あるいは頂点に近い位置にある者、または物を指すこともある。 または、主に東アジア地域において用いられた爵位の一つ。.

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王国

王国(おうこく)は、君主制の国家のうち、国王を元首とする国家を指す。.

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西安市

西安市(せいあんし/シーアンし、、、)は中華人民共和国陝西省の省都であり、古くは中国古代の諸王朝の都となった長安である。国家歴史文化名城に指定され、世界各国からの観光客も多い。経済的重要性から大幅な自主権をもつ副省級市にも指定されている。.

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黄巣

巣軍の進路 黄巣(こう そう)は、唐末の反乱指導者。874年から10年間、全土を転戦しながら反乱を指揮した。 この一連の大乱を黄巣の名をとって黄巣の乱と呼ぶ。黄巣の乱により全国王朝としての唐は実質的に滅び、以後は各地に割拠する軍閥の中で長安一帯をかろうじて治める一地方政権に転落する。.

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雲南

雲南(うんなん).

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陝西省

陝西省(せんせいしょう、中国語:陕西省、拼音:Shǎnxī Shěng(シャンシーシェン)、英語では山西省と区別するため「Shaanxi」と表記)は、中華人民共和国の行政区画の一つ。略称は秦、または三秦。古代中国の長安一帯を含む地域。.

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東南アジア

東南アジア(とうなんアジア)は、中国より南、インドより東のアジア地域を指す。インドシナ半島、マレー半島、インドネシア諸島、フィリピン諸島などを含む。主に、大陸部東南アジアと島嶼部東南アジアに分けられる。 '''東南アジア''' 東南アジアの地図 東南アジアの範域.

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段思平

段思平(だんしへい)はチベット系の白蛮(ペー族)出身で、中国西南部、雲南地方に大理国を興した初代王。937年に同じチベット・ビルマ語族の大義寧を滅ぼして建国した。 しへい.

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朝貢

朝貢(ちょうこう)は、皇帝に対して周辺諸国(君主)が貢物を献上し、皇帝側は恩恵として返礼品をもたせて帰国させることで外交秩序を築くもので、使節(朝貢使)による単なる儀礼的外交にとどまらず、随行する商人による経済実体(朝貢貿易)を伴うこともあり経済秩序としての性格を帯びることもある。.

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成都市

成都市にはパンダの繁殖基地がある 成都ジャイアントパンダ繁殖研究基地 四川省の伝統芸能『川劇』 麻雀は成都市における最もポピュラーな娯楽である 麻婆豆腐は成都の陳森富の妻劉氏が考案したとされている 成都武侯祠の劉備像・三国志の英雄 劉備は巴蜀の地で最期を遂げた 成都市の古地図(1930年) 琴台路(往年の宝石販売の大通り) 天府広場 成都市の木 銀杏(四川大学) 木芙蓉 成都市(せいとし/チェンドゥし、、、)は、中華人民共和国四川省の省都であり、副省級市。豊かな成都平原の中にあって古くから『天府の国』と呼ばれてきた。唐の時代から蜀錦を産出するため錦城の別称を持ち、また芙蓉の花を市花とするところから蓉城の別称ももつ。.

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738年

記載なし。

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752年

記載なし。

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754年

記載なし。

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779年

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793年

記載なし。

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7世紀

ブリールから啓示を受けるムハンマドで、14世紀に描かれた『集史』「預言者ムハンマド伝」載録の細密画(エディンバラ大学蔵)。 聖地メッカ。ムハンマドはメッカからメディナに逃れた後、イスラム教共同体(ウンマ)を組織し、再びこの都市に現れてイスラム教の支配下に置いた。画像はメッカのカアバとそれを取り囲むマスジド・ハラーム。 岩のドーム。ユダヤ教徒やキリスト教徒にとって重要な聖地であるエルサレムはイスラム教徒にとっては預言者ムハンマドが「夜の旅(イスラー)」を行った場所であり、それを記念してこの建物が建てられた。 ハルシャ王に歓待された。旅の記録は『大唐西域記』にまとめられ、有名な伝奇小説『西遊記』のもとともなった。 ナーランダ寺院。創立はグプタ朝時代にさかのぼるが、この時代までにインド随一の仏教総合大学に発展し、唐僧玄奘もこの地で唯識派のシーラバドラ(戒賢)に学んでいる。画像は現在のビハール州に残るナーランダ寺院跡。 シュリーヴィジャヤ王国。スマトラ島を中心にマレー半島周辺に交易圏を築き上げた海洋王国で、唐僧義浄が『南海寄帰内法伝』で記録したように多くの寺院が立ち並ぶ大乗仏教の拠点でもあった。画像はシュリーヴィジャヤ様式の青銅鍍金四臂観世音菩薩像。 「天寿国繍帳」。飛鳥時代を代表する工芸の一つで聖徳太子の妃である橘大郎女の発願で作成されたとされ、斑鳩中宮寺に伝来した。 吐蕃の王ソンツェン・ガンポと二人の妃(唐から来た文成公主とネパールから来たチツン)。吐蕃はチベットを統一し唐に倣った律令体制を発展させた。 太宗。父李淵の後を継いで二代皇帝となった太宗李世民は、唐の律令体制を完成させ「貞観の治」と呼ばれる安定期をもたらした。画像は台湾国立故宮博物院が所蔵する太宗の肖像画。 洛陽郊外の龍門にある奉先寺大仏。則天武后の命で造営されたもので、大仏の顔は則天武后をモデルにしているといわれる。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 「ギリシア火」。イスラム軍の猛攻で劣勢に置かれた東ローマ帝国もこの新兵器を用いて帝都の防衛に成功する。画像は『スキュリツェス年代記(歴史概観)』の挿絵(マドリッド国立図書館蔵)。 スペイン国立考古学博物館蔵)。 7世紀(ななせいき、しちせいき)とは、西暦601年から西暦700年までの100年間を指す世紀。.

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829年

記載なし。

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859年

記載なし。

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883年

記載なし。

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897年

記載なし。

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8世紀

イスラム帝国の拡大。ウマイヤ朝時代までにイスラム帝国は中央アジアからイラン・イラクを経て、エジプト・北アフリカを超えてイベリア半島まで拡がった。 ウマイヤド・モスク。ウマイヤ朝第6代カリフのワリード1世により705年にシリアのダマスカスに建築された現存する世界最古のモスクで、カアバ・預言者のモスク・岩のドームに次ぐイスラム教第4の聖地として巡礼者が絶えない。 イスラムの書法。すでに正統カリフ時代にはクルアーンの編纂が行われていたが、この世紀になると洗練された書体が生み出され用いられた。画像はアッバース朝初期に置かれた都クーファの名から「クーフィー体」と呼ばれた書体によるクルアーンの一節。 円城(ムダッワラ)都市バグダード。アッバース朝の第二代カリフ・マンスールによって766年に完成したこの都市はティグリス川に面した交通の要衝で最盛期にはその人口は100万人を擁した。アラビア語で「平安の都」を意味するマディーナ・アッ=サラームとも呼ばれる。画像はアッバース朝時代のバグダードの再現地図。 エローラ石窟群。画像は8世紀にインドのラーシュトラクータ朝の君主クリシュナ1世によりヒンドゥー教のシヴァ神の住むカイラス山(須弥山)になぞらえて建てられた第16窟のカイラサナータ寺院。 ボロブドゥール遺跡。インドネシアのジャワ島ケドゥ盆地にある大規模な仏教遺跡で、シャイレンドラ朝のダルマトゥンガ王時代に造営された。 唐の世界帝国。西域での覇権を確立した唐は華やかな異文化交流で知られることになる。画像は706年に造営された章懐太子李賢の墓の壁画「賓客図」で、黒衣で禿頭の人物は東ローマ帝国の使節と考えられている。 楊貴妃。絶世の美女として名高いばかりでなく、治世後半の玄宗皇帝の寵愛をほしいままにしたことで「傾城」とも「傾国」とも呼ばれる。安禄山の乱に巻き込まれ悲劇的な最期を遂げた。画像は日本の上村松園による歴史画。 大秦景教流行中国碑。781年にキリスト教ネストリウス派(景教)信者で中央アジア出身の伊斯がその伝来の経緯を記録した石碑。画像はその拓本の一部で、碑題の上に十字架があるのが読み取れる。 唐三彩の駱駝。8世紀前半まで唐は中央アジアの覇権を握り交通の要衝を保持していた。画像は駱駝に乗るソグド人と思われる西域の商人(上海博物館蔵)。 国立アジア美術館(ベルリン美術館)蔵)。 天平文化。遣唐使の頻繁な行き来により盛唐の文物が招来され、710年に遷都された平城京では国際色の豊かな文化が花開いた。画像はこの時代を代表する東大寺法華堂執金剛神。 平安遷都。桓武天皇により平城京から長岡京を経て平安京に都が遷った。平安京は長きにわたって都となり「千年の都」と呼ばれるようになる。画像は桓武天皇の肖像(延暦寺蔵)。 キー・ローのモノグラムの頁(Folio 34r)でトリニティ・カレッジ (ダブリン大学)図書館が所蔵している。 アーヘン大聖堂宝物館のカール大帝の胸像。カール大帝の800年の「西ローマ帝国復興」は東ローマ帝国との間に「二帝問題」の軋轢を生んだ。 8世紀(はちせいき、はっせいき)は、西暦701年から西暦800年までの100年間を指す世紀。.

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902年

記載なし。

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938年

記載なし。

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9世紀

船葬用の船体(オスロのヴァイキング船博物館蔵)。 イングランドを襲撃するデーン人(ヴァイキング)。画像は12世紀に書かれた『聖エドマンド殉教王伝』の挿絵。 マルウィヤ・ミナレット(サーマッラーのミナレット)。アッバース朝第8代カリフのムウタスィムが建築したサーマッラーの大モスク付属の螺旋式のミナレット。 ハールーン・アッラシード。アッバース朝最盛期のカリフで、『千夜一夜物語』では夜ごとにバグダードの街に繰り出す風流な君主として描かれている。 「知恵の館(バイト・アル・ヒクマ)」。アッバース朝カリフ・マアムーンの治世にバグダードには翻訳事業や学問研究のための「知恵の館」が設置された。画像はここに集まる学者たちを描いた13世紀の細密画(フランス国立図書館蔵)。 インド最後の仏教王朝のパーラ朝。ダルマパーラ王により9世紀末に北インドの大半が支配下に置かれた。画像は9世紀に造られたパーラ様式の文殊菩薩石像(ホノルル美術館)。 敦煌文書。敦煌には3万とも4万とも数えられる膨大な古文書が収蔵されている。画像は大英博物館所蔵の「金剛般若波羅蜜経」。これは現存する世界最古の木版印刷の巻子本(書籍)で唐の懿宗の治世の868年に作成されたもの。 禁止出境展览文物でもある「八重宝函」。 密教招来。空海らによって日本に密教がもたらされ平安時代の仏教に大きな影響を与えた。画像は密教で用いる胎蔵界曼荼羅で京都東寺所蔵のもの。 応天門の変。藤原氏による他氏排斥が進んで摂関政治が確立し、律令国家体制から王朝国家体制へと政体が変化した。画像は12世紀に応天門の変の経緯を描いた「伴大納言絵詞」(出光美術館蔵)。 ラパス県の4000メートル近くの標高にある遺跡で、最盛期である9世紀には人口は1万人を越えたと想定されている。画像は半地下式方形広場で人面の装飾がなされている。 Galerie des Batailles蔵)。 ラドガにて東スラブ人と出会うヴァリャーグのリューリク一行を描いたヴィクトル・ヴァスネツォフの歴史画。 ハギア・ソフィア教会アプス半ドームにある聖母子のモザイク画。 スラブ人への宣教。東ローマ帝国出身のキュリロス・メトディオス兄弟はグラゴール文字を作成しキリスト教の宣教に努めた。画像は18-19世紀にロシアで描かれたこの兄弟のイコン(聖画像)。 プリスカ遺跡。 9世紀(きゅうせいき)は、西暦801年から西暦900年までの100年間を指す世紀。.

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