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南北戦争における戦い一覧

索引 南北戦争における戦い一覧

南北戦争における戦い一覧は南北戦争において起こった戦いを記載する。原則として各戦線に分けて記載し年代順とする。戦闘名については南北戦争のネーミングを参照。.

228 関係: 半島方面作戦南北戦争南北戦争のネーミング南北戦争の海戦南部沿岸戦線 (南北戦争)太平洋岸戦線 (南北戦争)七日間の戦い北バージニア方面作戦ナモザイン教会の戦いペリービルの戦いナッシュビルの戦いミル・スプリングスの戦いミドルボギーの戦いミシシッピ川流域戦線マナサス駅作戦マチアスポイントの戦いマリオンの戦いマルバーンヒルの戦いマンスフィールドの戦いマークスミルズの戦いノースアンナの戦いノックスビル方面作戦マイン・ランの戦いマインクリークの戦いマクドウェルの戦いチャンピオンヒルの戦いチャンセラーズヴィルの戦いチャフィン農園の戦いチェスター・ステーションの戦いチカマウガの戦いチカソーバイユーの戦いハノーバーの戦いハノーバーコートハウスの戦いハンプトン・ローズ海戦ハートビルの戦いハーパーズ・フェリーの戦いハーツビルの戦いハッテラス入り江砲台の戦いハニースプリングスの戦いハイブリッジの戦いバミューダ・ハンドレッド方面作戦バレー方面作戦バッフィントン島の戦いバトンルージュの戦い (1862年)ポートハドソンの包囲戦ポートレパブリックの戦いポートロイヤルの戦いムーアズミルの戦いメリーランド方面作戦メルダジーンの戦い...メンフィスの戦いメイコン砦の戦いモノカシーの戦いモービル湾の海戦モーガンの襲撃ヨークタウンの包囲戦 (南北戦争)リッチモンドの戦いリッチモンド・ピータースバーグ方面作戦リパブリック讃歌ルイス農園の戦いレッド川方面作戦レイモンドの戦いローレンスの虐殺ローンジャックの戦いロアノーク島の戦いヴァルヴァードの戦いヴァン・ビューレンの戦いボールズブラフの戦いトレビリアン・ステーションの戦いトトポトミー・クリークの戦いトゥーペロの戦いヘレナの戦いヘンリー砦の戦いヘッドオブパッシーズの海戦ブランディ・ステーションの戦いブライス交差点の戦いブリストー方面作戦ブーンビルの戦いプライスの襲撃プラスキ砦の戦いプレーリーダンの戦いプレーリーグローブの戦いプレザントヒルの戦いパルメット農場の戦いビーバーダム・クリークの戦いビーン駅の戦いビックスバーグの包囲戦ビックスバーグ方面作戦ビッグベセルの戦いビッグサンディ遠征ピロー砦の戦いピーチツリークリークの戦いピーリッジの戦いピードモントの戦いピッグポイントの戦いディンウィディ・コートハウスの戦いフランクリン・ナッシュビル方面作戦フレデリックスバーグの戦いフロントロイヤルの戦いファイブフォークスの戦いフィルーピーの戦いドネルソン砦の戦いドルーリーズブラフの戦いニューマーケットの戦いニューバーンの戦い (南北戦争)ニューメキシコ作戦ニューオーリンズの戦い (南北戦争)ホワイトオーク道路の戦いホワイトオーク湿地の戦いホワイトストーンヒルの戦いホーズショップの戦いダビドソン砦の戦いベルモントの戦いベントンビルの戦いベア川の虐殺アポマトックス・コートハウスの戦いアポマトックス駅の戦いアポマトックス方面作戦アメリア・スプリングスの戦いアンティータムの戦いアーカンソー・ポストの戦いアトランタの戦いアトランタ方面作戦アイランドNo.10の戦いアキアクリークの戦いイウカの戦いイェロータバンの戦いウィリアムズバーグの戦いウィルミントンの戦いウィルソンの襲撃ウィルソンズ・クリークの戦いウィルソン桟橋の戦いウェインズボロの戦い (バージニア州)ウェストポートの戦いウォーハッチーの戦いエリザベスシティの水上戦オペクォンの戦いオラスティの戦いオーバーランド方面作戦オールドチャーチの戦いカロライナ方面作戦カンバーランド教会の戦いカーシージの戦いキャビンクリークの戦いキルディア山の戦いクレーターの戦いクロイズ山の戦いクロスキーズの戦いグレンデイルの戦いグロリエタの戦いグローブタバンの戦いグロスターポイントの戦いケネソー山の戦いケリーズフォードの戦いケープジラルドーの戦いゲティスバーグの戦いゲティスバーグ方面作戦ゲインズミルの戦いコリンスの包囲戦コリドンの戦いコルブ農園の戦いコロンビアの戦いコールドハーバーの戦いシャンティリーの戦いシャイローの戦いシーダー山の戦いシーダークリークの戦いシェパーズタウンの戦いジャクソン砦・セントフィリップ砦の戦いジョンソンビルの戦いジョーンズバラの戦いジェルサレム・プランク道路の戦いジェンキンスフェリーの戦いスポットシルバニア・コートハウスの戦いストーンズリバーの戦いスプリングヒルの戦いステッドマン砦の戦いスティーブンス砦の戦いスウェルズポイントの戦いスターリング・プランテーションの戦いセルマの戦いセントメアリー教会の戦いセブンパインズの戦いセイラーズクリークの戦いセイリーンビルの戦いタラホーマ方面作戦サムター要塞の戦いサンドクリークの虐殺サンダース砦の戦いサフォークの包囲戦サベイジ駅の戦いサウス山の戦い第三次チャタヌーガの戦い第三次ピーターズバーグの戦い第一次マーフリーズバラの戦い第一次チャールストン港の戦い第一次レキシントンの戦い第一次ブルランの戦い第一次ディープボトムの戦い第一次フィッシャー砦の戦い第一次インディペンデンスの戦い第一次ウィンチェスターの戦い第一次カーンズタウンの戦い第二次チャールストン港の戦い第二次メンフィスの戦い第二次ラッパハノック駅の戦い第二次リーム駅の戦い第二次ワグナー砦の戦い第二次ブルランの戦い第二次ピーターズバーグの戦い第二次ディープボトムの戦い第二次フランクリンの戦い第二次フィッシャー砦の戦い第二次インディペンデンスの戦い第二次ウィンチェスターの戦い第二次カーンズタウンの戦い第二次ガルベストンの戦い第二次コリンスの戦い第二次スプリングフィールドの戦い荒野の戦い西部戦線 (南北戦争)東部戦線 (南北戦争)機雷潜水艦海への進軍海軍悪地の戦い1864年のバレー方面作戦 インデックスを展開 (178 もっと) »

半島方面作戦

半島方面作戦を指揮した北軍のジョージ・マクレラン将軍 南軍の指揮官ジョセフ・ジョンストン将軍 南北戦争の半島方面作戦(はんとうほうめんさくせん、英:Peninsula Campaign、あるいはPeninsular Campaign)は、1862年3月から7月に東部戦線では北軍最初の大規模攻勢としてバージニア州南東部に発した作戦である。ジョージ・マクレラン少将に指揮されたこの作戦は、バージニア州北部にいる南軍を出し抜いて海陸協働で迂回経路を採り、アメリカ連合国の首都リッチモンドを陥れようという意図があった。マクレランは当初自分と同じくらい慎重なジョセフ・ジョンストン将軍に対して作戦をうまく進めていたが、ロバート・E・リー将軍の登場によって作戦の性格が変わり、北軍は惨めな敗北を喫した。 マクレランはその軍をモンロー砦で上陸させ、バージニア半島を北西に進んだ。南軍のジョン・B・マグルーダー准将は狭い半島に3本の防御線を布いた。最初の防御線はウォーウィック線と呼ばれ、ヨークタウンからマルベリー・アイランドを結ぶものであり、マクレラン軍に不意打ちを食らわせた。マクレランは急速に進軍したいという望みが潰え、自軍にはヨークタウンの包囲戦に備えるよう命令した。包囲戦の準備が完了する直前に、このときはジョンストンが直接指揮していた南軍はリッチモンドへ向けて後退を始めた。この方面作戦の最初の大きな戦闘はウィリアムズバーグの戦いであり、北軍はなんとか戦術的勝利を引き出したが、南軍はその後退を続けた。エルサムズ・ランディングの戦いでの水陸両面による側面攻撃でも南軍の後退を遮断することはできなかった。ドルーリーズブラフの戦いでは海軍によるジェームズ川を使ってリッチモンドに達しようという試みが撃退された。 マクレラン軍がリッチモンド郊外に到着すると、ハノーバー・コートハウスで小さな戦闘が起こったが、続いてジョンソンによる急襲であるセブンパインズの戦い、あるいはフェアオークスの戦いが起こった。この戦闘は決着が着かず、大きな損失を出したが、この方面作戦の間続くことになる効果を生んだ。ジョンストンがこの戦いで負傷し、6月1日に、より戦闘的なロバート・E・リー将軍に指揮官が交代し、リーはその軍の組織を再構成して攻勢に出る準備をした。 りーが指揮しマクレランに対して攻勢に出た6月25日から7月1日の終盤の戦闘は、半島方面作戦の部分と正式には考えられているが、一般には七日間の戦いと呼ばれ、本稿では詳述しない。.

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南北戦争

青が北部(アメリカ合衆国)諸州、赤が南部(アメリカ連合国)諸州。水色は合衆国に留まった奴隷州。 南北戦争(なんぼくせんそう、American Civil War)は、1861年から1865年にかけて、アメリカ合衆国の北部諸州とアメリカ連合国を称した南部諸州との間で行われた内戦である。奴隷制存続を主張するアメリカ南部諸州のうち11州が合衆国を脱退、アメリカ連合国を結成し、合衆国にとどまった北部23州との間で戦争となった。この戦争では史上初めて近代的な機械技術が主戦力として投入された。 英語の civil war は「内戦」を意味する語だが、アメリカでは独立後に内戦があったのはこの時だけなので(ユタ戦争など、内乱と呼ぶべき物はいくつかある)、アメリカ国内では通常これに定冠詞をつけ大文字にして The Civil War と表記する。アメリカ以外の国では自国の内戦と区別するため国名を冠して American Civil War と表記する(南北戦争のネーミングを参照)。.

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南北戦争のネーミング

南北戦争のネーミング(なんぼくせんそうのネーミング、Naming the American Civil War)では、南北戦争とその軍隊、戦闘の様々なネーミングを概説する。南北戦争には関わった人々の集団や地域の歴史的、政治的および文化的感受性を反映して様々な呼び方が生まれ使われてきた。.

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南北戦争の海戦

モービル湾の海戦、ルイス・プラング画 南北戦争の海戦(Naval battles of the American Civil War)では、初めて装甲艦や潜水艦が用いられ、新しく強力な艦砲が導入されるなど海戦のスタイルを変化させた。 南北戦争の海戦の最初の砲撃は1861年4月13日、サムター要塞の戦いのときにアメリカ合衆国密輸監視隊のカッター、USRCハリエットレーンが放ったものであり、最後のものは、ロバート・E・リー将軍が南軍と共に降伏した時から2か月以上経った1865年6月22日に、南軍の襲撃艇CSSシェナンドーがベーリング海峡で放ったものだった。.

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南部沿岸戦線 (南北戦争)

南北戦争の南部沿岸戦線(なんぶえんがんせんせん、Lower Seaboard Theater of the American Civil War)は、アメリカ合衆国の南東部海岸地域(サウスカロライナ州、フロリダ州、アラバマ州、ミシシッピ州、ルイジアナ州およびテキサス州)、およびミシシッピ川の南部(ルイジアナ州ポートハドソンから南)で起こった主要な陸軍と海軍の軍事作戦行動である。 内陸部での作戦行動は、ミシシッピ川の東で起こったものを西部戦線に、ミシシッピ川の西で起こったものをミシシッピ川流域戦線に含める。ウィリアム・シャーマンの海への進軍の到達点として起こったジョージア州海岸での作戦行動は西部戦線に含まれている。 アメリカ合衆国国立公園局によって作られた作戦の分類では、これらの戦闘を低地海岸戦線と湾(メキシコ湾)接近作戦行動と呼んでいるが、本稿で用いられるものよりもよりきめ細かなものになっている。国立公園局の小さな方面作戦は省略し、幾つかは纏めて大きな括りにした。この戦線での国立公園局分類のうち31の戦闘のみを詳述する。1861年のポートロイヤル遠征が加えられているが、これは国立公園局の分類には入っていない。.

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太平洋岸戦線 (南北戦争)

南北戦争の太平洋岸戦線(たいへいようがんせんせん、英:Pacific Coast Theater)は、アメリカ合衆国の太平洋に接する、あるいは近接する地域、カリフォルニア州、オレゴン州およびネバダ州とワシントン準州、ユタ準州およびアイダホ準州での軍事作戦行動である。激しい戦闘は通常カリフォルニア州の北軍分遣隊と南軍に同調するインディアンとの間で起こったが、北軍と南軍の部隊がこの戦線で衝突したこともあった。この地域ではどちらの軍も大きな部隊は持たず、その大半は小さな部隊間の戦闘だった。 アメリカ合衆国国立公園局によって作られた作戦の分類では、この戦線に含まれるのはわずか1つの方面作戦と1つの戦闘だけである。ミシシッピ川より西の作戦行動はミシシッピ川流域戦線に含まれている。.

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七日間の戦い

七日間の戦い(なのかかんのたたかい、英:Seven Days Battles)は、南北戦争の東部戦線の一部であり、1862年6月25日から7月1日の七日間に一連の6度の大きな戦闘が行われた。南軍の将軍ロバート・E・リーが、侵入してきた北軍のジョージ・マクレラン少将が指揮するポトマック軍を、リッチモンド付近からバージニア半島を下って追い出した。この戦いは半島方面作戦の最終段階となるものであり、独立した方面作戦ではない。 七日間の戦いは6月25日に北軍が仕掛けたオークグラブの小さな戦いで始まったが、リー軍は6月26日のビーバーダム・クリークの戦い、6月27日のゲインズミルの戦い、6月27日と28日のガーネッツ・アンド・ゴールディングズ・ファームの小戦闘、および6月29日のサベイジ駅での北軍の後衛に対する攻撃と続く、一連の攻撃を始めたことで、北軍のマクレランは直ぐに主導権を失った。マクレランのポトマック軍はずるずると後退を続け、安全圏であるジェイムズ川のハリソンズランディングに向かった。リー軍が北軍を捕まえる最後の機会は6月30日のグレンデイルの戦いだったが、命令通りに軍が動かず、北軍がマルバーンヒルの強固な防御陣地に逃げ込むことを許した。7月1日のマルバーンヒルの戦いではリーが無益な正面攻撃を敢行させ、強固な歩兵と砲兵の守りにあって大きな損失を出した。 七日間の戦いは、マクレラン軍がジェイムズ川に隣接する比較的安全な場所まで撤退して終わり、退却の過程でおよそ16,000名の損失を出した。リー軍は七日間の間攻勢を続けたが、20,000名以上の損失を出した。リーは、マクレランがもはやリッチモンドに対する脅威となることはないと確信し、北へ動いて北バージニア方面作戦とメリーランド方面作戦に進んだ、.

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北バージニア方面作戦

南北戦争の北バージニア方面作戦(英:Northern Virginia Campaign、またはSecond Bull Run Campaign、またはSecond Manassas Campaign)は、1862年8月から9月の間に、東部戦線のバージニア州で行われた一連の戦闘である。南軍の将軍ロバート・E・リーは、半島方面作戦の七日間の戦いでの成功に続いて、北のワシントンD.C.方向に動き、北軍のジョン・ポープ少将が率いるバージニア軍を破った。 リーは、ポープ軍がジョージ・マクレラン少将のポトマック軍と合流して勢力的に優位に立たれることを心配し、ストーンウォール・ジャクソン少将を北へ送って、ポープのゴードンスビルへの前進を妨害しようとした。両軍は8月9日のシーダー山で初めてまみえ、南軍が勝った。リーは、バージニア半島にいるマクレラン軍がもはやリッチモンドに対する脅威ではなくなったと判断し、その軍隊の残り大半であるジェイムズ・ロングストリートの軍にジャクソンの後を追わせた。ジャクソンはポープ軍の右翼を回り込む広域の操軍を行い、ポープ軍の背後のマナサス鉄道結節点にあった北軍の大規模補給庫を占領し、ポープ軍とワシントンD.C.の間に自軍を置いた。ジャクソンは1861年に行われた第一次ブルランの戦いの時の戦場近くに防御に適した陣地を確保し、リーとロングストリートの軍隊が戦場に到着した8月29日にはうまく北軍の攻撃を撃退した。8月30日、ポープは再度攻撃を掛けたが、ロングストリート軍とジャクソン軍による攻撃の間で捕獲されそうになり、大きな損失を出して後退を余儀なくされた。この方面作戦は、もう一度ジャクソン軍が側面攻撃に出て、9月1日のシャンティリーの戦いでポープ軍が敗北して終わった。 リーの北バージニア軍のポープ軍に対する操軍は軍事上の傑作だと考えられている。歴史家ジョン・J・ヘネシーは、「リーはもっと賢く戦えたかもしれないが、これは彼の偉大な作戦だった」と書いた。.

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ナモザイン教会の戦い

ナモザイン長老派教会(2009年)。「アメリア・コートハウス歴史協会(ヴァージニア州アメリア郡)」によって管理されている。 ナモザイン教会の戦い(ナモザインきょうかいのたたかい、Battle of Namozine Church)は、南北戦争も最終盤となった1865年4月3日に、バージニア州アメリア郡で起きたアポマトックス方面作戦の戦闘である。ロバート・E・リー将軍の指揮する南軍北バージニア軍が前日4月2日にリッチモンド、ピーターズバーグ両市を脱出してから、ユリシーズ・グラント中将が全軍指揮する北軍(ポトマック軍、シェナンドー軍、ジェームズ軍)の部隊との最初の戦闘となった。この戦闘で実際に戦ったのは、このときはまだ北軍シェナンドー軍と呼ばれた軍を、独立して指揮していたフィリップ・シェリダン少将の配下、ジョージ・アームストロング・カスター准将(名誉少将)の騎兵師団の旅団、特にウィリアム・ウェルズ大佐(名誉准将)の旅団であり、また南軍はウィリアム・P・ロバーツ准将とルーファス・バリンジャーの後衛騎兵旅団であり、後にブッシュロッド・ジョンソン少将師団から歩兵部隊も加わった。 この戦闘は前日に行われた第三次ピーターズバーグの戦い(ピーターズバーグの突破、あるいはピーターズバーグの陥落とも呼ばれる)の後で、ピーターズバーグとリッチモンドが陥落し、逃亡する南軍(北バージニア軍とリッチモンドの地元防衛軍)に対する北軍による飽くなき追撃の始まりとなった。この戦闘の6日後の1865年4月9日には、アポマトックス・コートハウスの戦い後にリーの北バージニア軍降伏に繋がった。カスター将軍の弟であるトマス・カスターは、この戦闘を含め4日間の勇敢な行動によって、2つの名誉勲章を授与された最初の者となった。.

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ペリービルの戦い

ペリービルの戦い(ペリービルのたたかい、英:Battle of Perryville、またはBattle of Chaplin Hills)は、南北戦争中盤の1862年10月8日、南軍のハートランド攻勢(ケンタッキー方面作戦)の頂点として、ケンタッキー州ペリービルの西、チャップリンヒルズで行われた戦闘である。.

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ナッシュビルの戦い

ナッシュビルの戦い(ナッシュビルのたたかい、英:Battle of Nashville)は南北戦争の大規模な戦いが続いた西部戦線の終わりを告げるフランクリン・ナッシュビル方面作戦の2日間にわたる戦いである。1864年12月15日から12月16日に、テネシー州ナッシュビルで戦われ、南北戦争の北軍による最大の勝利の一つになった。この時まで南軍では2番目に大きな軍隊だったテネシー軍は実質的に破壊され二度と戦うことはできなかった。.

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ミル・スプリングスの戦い

ミル・スプリングスの戦い(ミル・スプリングスのたたかい、英:Battle of Mill SpringsまたはBattle of Fishing Creek(南軍の呼称)、Battle of Logan's Cross Roads(北軍の呼称))は、南北戦争初期の1862年1月19日、ケンタッキー州ウェイン郡およびプラスキ郡で行われた戦闘である。この戦いでケンタッキー州東部における南軍の初期攻撃作戦を終わらせた。南北戦争の多くの戦闘中では比較的小さなものではあるが、ケンタッキー州の中で行われたものとしては2番目の大きさだった(1番目のペリービルの戦いは遥かに流血の多いものだった)。北軍にとっては最初の意義ある勝利となり、大衆の新聞で大いに祝されたが、これに続くユリシーズ・グラントによるヘンリー砦とドネルソン砦での勝利よって影が薄れた。.

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ミドルボギーの戦い

ミドルボギーの戦い(Battle of Middle Boggy、またはミドルボギー川の戦い、ミドルボギー貯蔵所の戦い)は、南北戦争の開戦から3年が経とうとする1864年2月13日、インディアン準州チョクトー族居留地(現在のオクラホマ州ポントトク郡アレンから南に4マイル (6 km))で起きた戦闘である。北軍ウィリアム・A・フィリップス大佐がドラグーン・トレイルをウォシタ砦に向けて降っているときに、カンザス第14騎兵隊(チャールズ・ウィレッツ少佐指揮)の兵士約350名と榴弾砲2門(ソロモン・カウフマン大尉指揮)を前衛隊として派遣した。その目標はミドルボギー川を渡すトレイルを守る南軍の前進基地だった。南軍はジョナサン・ネイル大尉が率い、第1チョクトーおよびチカソー騎兵隊、テキサス第20騎兵隊の分遣隊、騎馬ライフル銃隊のセミノール大隊の一部で構成されていた February 9, 2013.

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ミシシッピ川流域戦線

ミシシッピ川流域戦線の1862年の動き(西部戦線も含む) 南北戦争のミシシッピ川流域戦線(英:Trans-Mississippi Theater of the American Civil War)は、アメリカ合衆国のミシシッピ川から西の地域で北軍と南軍が激突した戦線であり、海軍の交戦も含まれる。南北戦争の主戦場となった東部戦線や西部戦線とは地理的に離れていたので、小規模の戦闘が行われただけで、戦争全体の趨勢にはほとんど影響していない。南軍はあちこちで攻勢を試みたが、この方面に大きな戦力を割くことができず、最終的にはテキサス州1州のみが残った。 アメリカ合衆国国立公園局(NPS)によって作られた作戦の分類では、本稿で使うものよりも詳細になっている。NPS分類の小さなものは省略するか、大きな作戦の中に組み込んだ。NPS分類にあるこの戦線での75の戦闘のうちほんの幾つかを記述することになる。.

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マナサス駅作戦

マナサス駅作戦(マナサスえきさくせん、Manassas Station Operationsは、南北戦争2年目の1862年8月25日から27日に、バージニア州プリンスウィリアム郡で、北バージニア方面作戦)の一部として起きた一連の作戦行動である。マナサス駅の他、ブリストー駅、ケトルラン、ブルラン橋あるいはユニオンミルズで発生した。この作戦は、8月28日から始まった第二次ブルランの戦いの前哨戦となった。 8月26日夜、南軍のストーンウォール・ジャクソン少将が指揮する北バージニア軍左翼が、北軍ジョン・ポープ少将軍のバージニア軍右翼をサラフェア・ギャップを通って回り込み、ブリストー駅でオレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道を襲い、さらに8月27日夜明け前には、マサナス・ジャンクションにあった北軍の大規模補給所まで行軍し、占領、破壊した。この急襲によりポープ軍はラッパハノック川沿いの防衛線から慌ただしい後退を強いられた。 8月27日、ジャクソン軍はユニオンミルズ(ブルラン橋)近くで北軍の1個旅団を崩壊させ、数百の損失を出させたうえに、ジョージ・テイラー准将に致命傷を負わせた。南軍リチャード・イーウェル少将の師団は、ケトルランで北軍ジョセフ・フッカー少将の師団と活発な後衛戦を演じ、合わせて約600名の損失を出した。イーウェル隊は暗くなるまで北軍の攻撃を持ち堪えた。8月27日から28日にかけての夜に、ジャクソンはその師団を北の第一次ブルランの戦いの戦場に進軍させ、未完成の鉄道路盤の背後に陣を布かせた。.

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マチアスポイントの戦い

マチアスポイントの戦い(Battle of Mathias Point)は、南北戦争開戦から3か月目に入った1861年6月27日に、バージニア州のマチアスポイントで起きた北軍砲艦と南軍砲台の砲撃戦である。北軍はUSSトマス・フリーボーンとUSSリライアンスの2艦と、36ないし50名の水兵または海兵の上陸部隊がいた。南軍はメリーランド州のポープス・クリークに近い、バージニア州キングジョージ郡のポトマック川沿いマチアスポイントの守備隊だった。南北戦争の開戦を告げたサウスカロライナ州チャールストン港のサムター砦の戦いから、2か月以上、特に際立った戦闘は起きていなかった。 この戦闘では、南軍が北軍の攻撃を撃退し、北軍ポトマック戦隊指揮官ジェイムズ・H・ウォードを戦死させた。ウォードはこの戦争で戦死した最初のアメリカ海軍士官となった。この戦争初期に北軍海軍と南軍の陸上砲台が交戦した戦闘が幾つかあったが、これらは北軍による海上封鎖、特にチェサピーク湾に対する封鎖行動の一部として起こった。またポトマック川を含めバージニア州の川を北軍が軍用にも商業用にも利用する可能性を、南軍が否定したという意味もあった。この戦闘直後に南軍はマチアスポイントに砲台を完成させ、維持していたが、北軍による半島方面作戦集結が開始された1862年3月9日に南軍は撤退した。.

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マリオンの戦い

マリオンの戦い(マリオンのたたかい、Battle of Marion)は、南北戦争の終盤、1864年12月17日から18日に、バージニア州スミス郡マリオンの町近くで起きた戦闘である。この戦いは、北軍のジョージ・ストーンマン少将が率いたバージニア州南西部のソルトビルやマリオンの工業インフラを破壊することを目指した襲撃の一部だった。北軍の騎兵と歩兵の連隊、総勢で約4,500名が12月17日にテネシー州を離れ、バージニア州南西部に入ったOfficial Records, p. 442.

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マルバーンヒルの戦い

マルバーンヒルの戦い(マルバーンヒルのたたかい、英:Battle of Malvern Hill、またはポインデクスター農園の戦い、英:Battle of Poindexter's Farm)は、南北戦争序盤の1862年7月1日、バージニア州ヘンリコ郡で、七日間の戦いの6つめかつ最後に起こった戦闘である。南軍ロバート・E・リー将軍はほとんど難攻不落なマルバーンヒルの北軍陣地に何度かバラバラの攻撃を掛けさせた。南軍は1インチも前線を進めることなく5,300名以上の損失を出した。北軍ジョージ・マクレラン少将はこの戦いでの勝利にも拘らず、砲艦に守られるジェイムズ川沿いハリソンズランディングの塹壕に軍隊を退き、半島方面作戦は終わった。.

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マンスフィールドの戦い

マンスフィールドの戦い(マンスフィールドのたたかい、英:Battle of Mansfield、またはサビーン交差点の戦い、英:Battle of Sabine Crossroads、またはプレザントグラブの戦い、英:Battle of Pleasant Grove)は、南北戦争中の1864年4月8日、ルイジアナ州デソト郡行われた、北軍のレッド川方面作戦では最初の大きな衝突だった。.

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マークスミルズの戦い

マークスミルズの戦い(Battle of Marks' Mills)は、南北戦争の開戦からちょうど3年が過ぎた1864年4月25日に、カムデン遠征の一部としてアーカンソー州クリーブランド郡で起きた戦闘である。ジェイムズ・F・フェイガン少将の指揮する南軍が、フランシス・M・ドレイク中佐の指揮する北軍の小さな分遣隊を圧倒した。このために北軍はカムデンの陣地を捨てることになった。.

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ノースアンナの戦い

ノースアンナの戦い(ノースアンナのたたかい、英:Battle of North Anna)は、南北戦争における北軍ユリシーズ・グラント中将の南軍ロバート・E・リーの北バージニア軍に対するオーバーランド方面作戦の一部として、1864年5月23日から26日に行われた戦闘である。両軍の会戦形式ではなくバージニア州中部の多くの場所で起こった小さな戦闘の連続であり、個々の戦闘は時として、「電信道路橋」と「ジェリコミル」(5月23日の戦闘)、「オックスフォード」、「クァールズミル」および「ハノーバージャンクション」(5月24日)というように直接その場所の名前で呼ばれることがある。.

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ノックスビル方面作戦

ノックスビル方面作戦(ノックスビルほうめんさくせん、英:Knoxville Campaign)は、南北戦争中の1863年秋にテネシー州東部で行われた一連の戦闘と操軍である。アンブローズ・バーンサイド少将の指揮する北軍がテネシー州ノックスビルを占領し、チャタヌーガに居た南軍ブラクストン・ブラッグ将軍のテネシー軍から派遣されたジェイムズ・ロングストリート中将指揮する部隊は、バーンサイド軍がチャタヌーガで包囲されている北軍を救援しないようにする任務があった。ロングストリートは東部戦線でロバート・E・リー将軍の片腕となる軍団指揮官だったが、西部戦線では独立した指揮官としての役割がうまくいかず、この方面作戦でも得るところは少なかった。.

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マイン・ランの戦い

マインランの戦い(マインランのたたかい、Battle of Mine Run, Payne's Farm, New Hope Church, Mine Run Campaign)は、南北戦争の1863年11月27日から12月2日にかけて、バージニア州オレンジ郡で行われた戦闘である。北軍ポトマック軍の指揮官ジョージ・ミード少将は、南軍ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍を破ろうとして不成功に終わった。この戦いはみせかけの戦闘開始と損失が少ないことに特徴があり、この年の東部戦線の終わりを告げた。.

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マインクリークの戦い

マインクリークの戦い(マインクリークのたたかい、Battle of Mine Creek、またはオーセージの戦い)は、南北戦争の終盤に入った1864年10月25日、プライスのミズーリ襲撃の間にカンザス州リン郡でおきた戦闘である。南北戦争の中でも最大級の騎兵戦であり、南軍スターリング・プライス少将のミズーリ軍2個師団が、北軍フレデリック・ベンティーン大佐とジョン・フィニス・フィリップス大佐の指揮する2個旅団に潰走させられた。 この戦闘は同じ8月25日に起きたプライスの軍と北軍の間の3回の戦闘では2つ目のものだった。最初の戦闘はその朝早くに数マイル離れておきたメルダジーンの戦いであり、3番目の戦闘はこの戦闘の数時間後に、近くのマーミトン川で起きたものだった。北軍は遥かに勢力で劣っていたものの、3回の戦闘全てに勝利して、プライス軍をカンザス州から追い出し、ミズーリ襲撃作戦の命運を決することになった。 この戦闘で北軍を指揮したアルフレッド・プレソントン少将は、東部戦線のブランディ・ステーションの戦い(1863年6月9日)でも南軍と騎兵戦を戦って勝利しており、ミシシッピ川の両岸で北軍のために騎兵戦で勝利するという功績を残した。.

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マクドウェルの戦い

マクドウェルの戦い(Battle of McDowell、またはシットリントンズヒルの戦い、Battle of Sitlington's Hill)は、南北戦争開戦から1年を経過した1862年5月8日、南軍ストーンウォール・ジャクソン少将がシェナンドー渓谷で戦ったバレー方面作戦の一部として、バージニア州ハイランド郡で起きた戦闘である。これに先立つ3月23日に、ジャクソン軍が戦術では負けたが、戦略的に勝利した第一次カーンズタウンの戦いが起こっており、このバレー方面作戦では2戦目だった。.

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チャンピオンヒルの戦い

チャンピオンヒルの戦い(チャンピオンヒルのたたかい、英:Battle of Champion Hill、あるいはベイカーズクリークの戦い、英:Battle of Bakers Creek)は、南北戦争ビックスバーグ方面作戦中の1863年5月16日に起こった、作戦の転回点となった戦闘である。北軍の指揮官ユリシーズ・グラント少将のテネシー軍が、撤退しつつあった南軍ジョン・C・ペンバートン中将の部隊を追撃し、ビックスバーグの東20マイル (32 km)の地点で打ち破り、その後の必然となったビックスバーグの包囲戦と降伏に繋げた。.

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チャンセラーズヴィルの戦い

チャンセラーズヴィルの戦い(チャンセラーズヴィルのたたかい、Battle of Chancellorsville)は、南北戦争の中盤、1863年4月30日から5月6日にかけて、バージニア州スポットシルバニア・コートハウスの村落近くで行われた戦闘である。北軍ジョセフ・フッカー少将のポトマック軍が、勢力では半分の南軍ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍と会戦を行った。これはリーが危険を承知で遥かに優勢な敵軍の前で自軍を分割して成功したので、その「完璧な戦闘」と呼ばれている。戦闘におけるリーの大胆さとフッカーの臆病さが相俟って北軍にとって深刻な敗北となった。南軍は勝利したが、友軍の銃火でストーンウォール・ジャクソン中将が致命傷を負い、その損失はリーをして「私の右腕を失った」と言わせたように、暗雲を投げかけるものになった。 チャンセラーズヴィル方面作戦は1863年4月27日朝に北軍がラッパハノック川を渡ったことで始まった。北軍はラピダン川をジャーマナ浅瀬とエリー浅瀬を使って渉り、4月30日と5月1日にチャンセラーズヴィル近くに集結した。5月1日に激しい戦闘が始まり、北軍が5月5日から6日にかけての夜に川を越えて撤退するまで続いた。.

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チャフィン農園の戦い

チャフィン農園の戦い(チャフィンのうえんのたたかい、英:Battle of Chaffin's Farm、あるいはニューマーケット高地の戦い、英:Battle of New Market Heights、またはハリソン砦の戦い、英:Battle of Fort Harrison)は、南北戦争終盤のピーターズバーグ包囲戦の一部として1864年9月29日から9月30日に、バージニア州ヘンライコ郡で行われた戦いである。.

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チェスター・ステーションの戦い

チェスター・ステーションの戦い(チェスター・ステーションのたたかい、Battle of Chester Station)は、南北戦争の開戦から4年目に入った1864年5月10日、バージニア州東部のチェスターフィールド郡で起きた戦闘である。南軍がベンジャミン・フランクリン・バトラー少将の指揮する北軍の一部を攻撃した。.

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チカマウガの戦い

チカマウガの戦い(チカマウガのたたかい、英:Battle of Chickamauga)は、南北戦争の西部戦線における、テネシー州中南部とジョージア州北西部で1863年9月18日から20日に行われた戦闘である。チカマウガ方面作戦と呼ばれる北軍攻勢の最後の戦闘だったが、北軍は西部戦線では最大の敗北を喫した。 対戦したのは北軍 ウィリアム・ローズクランズ 少将指揮するカンバーランド軍と南軍ブラクストン・ブラッグ将軍指揮するテネシー軍であり、戦闘名はチャタヌーガ中心部の北東約3.5マイル (5.6 km)でテネシー川に注ぐチカマウガ・クリークから採られた。.

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チカソーバイユーの戦い

チカソーバイユーの戦い(チカソーバイユーのたたかい、Battle of Chickasaw Bayou、またはウォルナットヒルズの戦い、Battle of Walnut Hills)は、南北戦争の1862年12月26日から29日、ビックスバーグ方面作戦の緒戦となった戦闘である。ジョン・C・ペンバートン中将が指揮する南軍が、ウィリアム・シャーマン少将が指揮して前進してきた北軍を撃退した。北軍はミシシッピ州ビックスバーグの攻略を目指していた。 12月26日、シャーマン指揮下の3個師団がヤズー川岸ジョンソンのプランテーションで上陸し、ビックスバーグの防衛線に北東から接近した。一方4個目の師団がさらに上流で12月27日に上陸した。12月27日、北軍は強固な防衛線が張られているウォルナットヒルズに向かう湿地を抜けて、その前線を押し出した。12月28日、これら防衛線に対して攻撃が仕掛けられたが、実を結ばなかった。12月29日、シャーマンが正面突破を命令したが、大きな損失を出して撃退され、撤退した。この南軍の勝利で、北軍ユリシーズ・グラント少将が目指す直接攻撃によるビックスバーグ攻略の試みが躓くことになった。.

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ハノーバーの戦い

ハノーバーの戦い(ハノーバーのたたかい、Battle of Hanover)は、南北戦争3年目の1863年6月30日、ゲティスバーグ方面作戦の一部として、ペンシルベニア州ヨーク郡南西部のハノーバーで起きた戦闘である。 南軍のJ・E・B・スチュアート少将が指揮する騎兵隊が北に向かって北軍ポトマック軍の周りを乗り回し、北軍の騎兵連隊を攻撃して、ハノーバーの通りから追い出した。北軍エロン・J・ファーンズワース准将の旅団が到着して反撃し、南軍の後衛を潰走させ、スチュアートその人を捕まえる寸前までいった。スチュアートも直ぐに反撃した。北軍はジョージ・アームストロング・カスター准将のミシガン旅団に補強されてその陣地を確保し、その後は手詰まりとなった。スチュアートは北と東に動いて北軍騎兵隊の周りを動き続け、ロバート・E・リーの本隊に加わろうとする試みを遅らせることになった。リーの本隊はゲティスバーグの西、キャッシュタウン・ギャップに集結しようとしていた。.

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ハノーバーコートハウスの戦い

ハノーバーコートハウスの戦い(Battle of Hanover Court House)は、南北戦争2年目の1862年5月27日、半島方面作戦の一部としてバージニア州ハノーバー郡で起きた戦闘である。 北軍フィッツ・ジョン・ポーター准将の第5軍団の1部隊が、北に広がってジョージ・マクレラン少将のポトマック軍右翼を守っていた。ポーターの目的はハノーバー・コートハウス近くの南軍に対処することだった、そこはフレデリックスバーグから南進してくる援軍の通り道であり、その脅威となっていた。ローレンス・オブライアン・ブランチ大佐の指揮する南軍の小部隊が、ピークの渡しでまとまりのない戦闘を行った後に敗れた。しかし、北軍の勝利は一時的なものであり、北軍の援軍は、シェナンドー渓谷の第一次ウィンチェスターの戦いでナサニエル・バンクス少将の部隊が敗走したために、フレデリックスバーグに呼び戻されることになった。.

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ハンプトン・ローズ海戦

ハンプトン・ローズ海戦(ハンプトン・ローズかいせん、Battle of Hampton Roads)、別名モニターとメリマックの戦い(the Battle of the Monitor and the Merrimack)は南北戦争中に生起した海戦。この海戦は鉄板で装甲された動力軍艦(すなわち装甲艦)同士の歴史上最初の戦いとして有名であり、アメリカ合衆国海軍の革新的な設計の装甲艦「モニター」とアメリカ連合国海軍の装甲艦「バージニア」(これは合衆国軍艦「メリマック」の焼けた船体を改造したものである)が交戦した。主要な海戦は1862年3月8日から9日にバージニア州ハンプトン・ローズ河口付近のシーウェルズ・ポイント (Sewell's Point) 沖で行なわれた。 戦闘は二日間続いた。一日目はバージニアの初登場であり、モニター抜きでの戦いだった。北軍の木造艦群は大損害を受け、その日は南軍の決定的優位のままに終わった。しかしながら、二日目にはモニターが到着し、「装甲艦の決闘」として知られる有名な戦闘が始まった。明確な勝敗は付かなかったが、海戦史において深い意義を持つ戦闘となった。この戦い以前にはほとんど全ての軍艦が木材を主な材料として造られていた。この戦いの後、船と海戦の様相は劇的に変化した。世界中の国家が自国の艦隊を先を争って鉄製に変えたのである。なぜなら敵の砲撃に耐える能力において、装甲艦が木造艦より優れていることが明白に証明されたからである。.

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ハートビルの戦い

ハートビルの戦い(ハートビルのたたかい、Battle of Hartville)は、南北戦争の1863年1月9日から11日、ミズーリ州ライト郡で、南軍ジョン・マーマデューク准将によるミズーリ州への第一次遠征の一部として起きた戦闘である。.

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ハーパーズ・フェリーの戦い

ハーパーズ・フェリーの戦い(ハーパーズ・フェリーのたたかい、英:Battle of Harpers Ferry)は、南北戦争のメリーランド方面作戦の一部として1862年9月12日から9月15日にかけて行われた戦いである。ロバート・E・リー将軍の南軍がメリーランド州に侵攻したとき、その一部であるストーンウォール・ジャクソンの軍団がバージニア州(現在はウェストバージニア州)ハーパーズ・フェリーの北軍守備隊を包囲して砲撃し、降伏させた。ジャクソン隊はその後メリーランド州シャープスバーグに急行して、リー軍と合流しアンティータムの戦いに参戦した。.

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ハーツビルの戦い

ハーツビルの戦い(ハーツビルのたたかい、英:Battle of Hartsville)は、南北戦争の西部戦線における「ストーンズリバー方面作戦」の緒戦としてテネシー州北部で1862年12月7日に行われた戦闘である。 ストーンズリバー方面作戦は1862年11月初めに、北軍ウィリアム・ローズクランズ将軍がそのカンバーランド軍をテネシー州ナッシュビルからマーフリーズバラ方向に移動させた時に始まった。南軍のテネシー軍を率いるブラクストン・ブラッグ将軍はペリービルの戦いで敗北した後、そこへ後退していた。ブラッグはジョン・ハント・モーガン大佐にその騎兵隊を率いて北に動き、ローズクランズの通信線にそって行動し、ナッシュビル以北でローズクランズ軍の物資調達を妨害するよう命じた。ハーツビルは、ナッシュビルの東方約40マイル (60 km)、カンバーランド川の上流側、マーフリーズバラの北方にある渡渉点であった。ハーツビルでの戦いは、モーガンが北への襲撃の途中での出来事であり、ローズクランズがその歩兵隊主力を動かす前のことだった。 ハーツビルの渡渉点を守っていたのはカンバーランド軍第14軍団の第39旅団であり、第106と第108オハイオ歩兵連隊、第104イリノイ連隊および第2インディアナ騎兵連隊で構成されていた。この旅団はアブサロム・B・ムーア大佐が指揮していた。暗闇の中に紛れて、モーガンは1862年12月7日の早朝に川を渉った。その部隊は主にケンタッキー兵で構成される約1,400名であり、北軍旅団よりも約1,000名少なかった。ほかにその3倍の勢力がある北軍が9マイル (14 km)離れたカスタリアンスプリングスに宿営しており、大砲の音が聞こえるくらい近かったが、干渉するにはかなり離れたところだった。 モーガンの攻撃は北軍宿営地を急襲した。ある参戦者の証言では、南軍は青い制服を着て哨戒線を通過できたということであり、他の証言では文民の服を着て避難民を装っていたともいう。攻撃は午前6時45分に始まり、大砲による砲撃と歩兵の攻撃が同時に起こり、騎兵は側面と後方を襲った。ムーア隊の1部隊が1時間後に逃げ出し、これが混乱を生んで北軍を後退させることになった。午前8時半までに南軍は北軍を包囲し、ムーア大佐に降伏を決心させることになった。 モーガンは北軍に58名の損失を与え、南軍の損失は149名だったが、捕虜にした北軍兵1,844名と捕獲した装備や物資が山と積まれた荷馬車隊と共に戦場を離れた。西部戦線の南軍全体の指揮官であるジョセフ・ジョンストン将軍はこれを「輝かしい手柄」と呼び、モーガンを即座に准将に指名するよう推薦した。アメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスがたまたまマーフリーズバラ近くにおり、モーガンが帰還したときに自ら昇進させた。 ハーツビルの戦闘は1862年12月から1863年1月に掛けてのネイサン・ベッドフォード・フォレストによる西テネシーへの襲撃、さらには1863年6月から7月に掛けての再度モーガンによるケンタッキー襲撃の前兆になった。ローズクランズは12月29日にマーフリーズバラに到着し、ストーンズリバーの戦いの準備をした。.

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ハッテラス入り江砲台の戦い

ハッテラス入り江砲台の戦い(ハッテラスいりえほうだいのたたかい、Battle of Hatteras Inlet Batteries)、またはハッテラス砦とクラーク砦の戦い(Battle of Forts Hatteras and Clark)は、南北戦争初期の小さいが重要な戦闘である。ノースカロライナ州アウターバンクスにある南軍の砦2つが、1861年8月28日に始まった北軍水陸協働攻撃に屈した。南軍砦の装備が悪く人員も整わなかった部隊は、北軍の7隻の艦船から砲撃に耐えることを強いられ、しかもそれに反撃できなかった。被害は軽かったが、守備隊はこの一方的な戦いを続けない途を選び、戦いの2日目に降伏した。この戦闘の直接の結果として、南軍による北部の海洋交易に対する妨害が著しく減じられ、北軍による南部港湾の封鎖範囲が拡がった。さらに重要なことは、北軍政府がノースカロライナのサウンドに入る途を得たことだった。ノースカロライナ州の幾つかの都市(中でもニューバーン、ワシントン、エリザベスシティおよびイーデントン)は直接脅威を受けるようになった。さらに、サウンドは南軍の守るバージニア州の海岸部、特にノーフォークの裏玄関だった。 この戦闘は幾つかの理由で重要である。これは南北戦争の北軍では初めての意義有る勝利だった。1861年7月21日に行われた第一次ブルランの戦い(別名第一次マナサスの戦い)での敗北の後、開戦当初に重たい雰囲気にあった北軍支持者を勇気づけた。これは海軍による封鎖戦略の最初の適用例だった。アメリカ陸軍とアメリカ海軍の部隊を巻き込む最初の水陸協働作戦であり、最初の統合作戦だった。最後に砲撃艦隊による新しい戦術が採用された。艦隊は動き続けることで、艦船の大砲に対する陸の大砲の伝統的な優位をほとんど排除した。.

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ハニースプリングスの戦い

ハニースプリングスの戦い(ハニースプリングスのたたかい、Battle of Honey Springs Encyclopedia of Oklahoma History and Culture.

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ハイブリッジの戦い

ハイブリッジの戦い(ハイブリッジのたたかい、Battle of High Bridge)は、南北戦争も最終盤となった1865年4月6日から7日に、バージニア州プリンスエドワード郡とカンバーランド郡に跨るファームビルの北東約4マイル (6.4 km) で起きたアポマトックス方面作戦の2度にわたる戦闘である。4月6日の戦闘のみをハイブリッジの戦いと呼ぶことも多い。 1865年4月6日、南軍トマス・ロッサー少将の指揮する騎兵隊が、ファームビルの近くにあるサウスサイド鉄道のハイブリッジとそれより低い位置にある荷車用橋を確保するために頑強に戦った。北軍の大襲撃部隊が、南軍の川の北岸に戻ろうという動きを阻止するために、橋を破壊しようとした。両軍ともに数人の士官が戦死または負傷した。北軍は戦死負傷合計で42名の損失になった。生き残った北軍も約800名が捕虜になった。南軍は約100名の損失となった。北軍のセオドア・リード大佐(名誉准将)と南軍のリューベン・B・ボストン大佐が戦死した。北軍のフランシス・ウォシュバーン大佐と、南軍のジェイムズ・ディアリング大佐(准将とされることが多いが、その任命が確認されていない)が、致命傷を負った。 4月7日、南軍のジェイムズ・ロングストリート中将の後衛部隊が橋を燃やそうとした。南軍は前日に橋を守っており、この日は北軍が橋を渡って追いかけて来ないようにしようとした。北軍第2軍団の部隊が橋を燃やそうとした南軍兵と戦い、南軍部隊を追い返して橋を守ろうとした。鉄道橋の一部が燃やされ、使えなくなったが、北軍は荷車用の橋を救い、その上を第2軍団が渡って、ロバート・E・リー将軍の指揮する北バージニア軍の追撃を続けることができた。この橋を完全に破壊できなかったために、南軍はアポマトックス川の北、ファームビルから北に3マイル (4.8 km) のカンバーランド教会で追いつかれ、戦闘になった(カンバーランド教会の戦い)。.

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バミューダ・ハンドレッド方面作戦

バミューダ・ハンドレッド方面作戦(バミューダ・ハンドレッドほうめんさくせん、英:Bermuda Hundred Campaign)は、南北戦争の1864年5月に、バージニア州リッチモンド郊外のバミューダ・ハンドレッドの町で行われた一連の戦闘である。北軍のジェームズ軍を指揮するベンジャミン・バトラー少将は東からリッチモンドを脅かしたが、南軍のP・G・T・ボーリガード将軍の軍隊に抑えられた。 バミューダ・ハンドレッドの北軍陣地.

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バレー方面作戦

トーンウォール・ジャクソン将軍 バレー方面作戦(バレーほうめんさくせん、英:Valley Campaign)は、南北戦争の初期1862年春に、南軍のストーンウォール・ジャクソン将軍がバージニア州シェナンドー・バレーで輝かしい戦果を挙げた作戦である。ジャクソンの17,000名の部隊は大胆で電撃的な動きを行って、幾つかの小さな戦いに勝利し、3個軍60,000名以上の北軍兵力がリッチモンド攻撃に参加することを阻止した。.

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バッフィントン島の戦い

バッフィントン島の戦い(バッフィントンとうのたたかい、英:Battle of Buffington Island、またはセントジョージズクリークの小戦闘、英:St.

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バトンルージュの戦い (1862年)

バトンルージュの戦い詳細、1862年8月5日Official Atlas, Plate XXIV. バトンルージュの戦い(Battle of Baton Rouge)は、南北戦争の1862年8月5日に、ルイジアナ州イーストバトンルージュ郡で起きた海陸の戦闘である。この戦闘に北軍が勝利することで、南軍がルイジアナ州を取り戻そうとする動きを止めた。.

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ポートハドソンの包囲戦

ポートハドソンの包囲戦(ポートハドソンのほういせん、英:Siege of Port Hudson)は南北戦争の1863年5月21日から7月9日まで、ルイジアナ州のミシシッピ川の町ポートハドソンを北軍が襲い、包囲した戦闘である。 北軍ナサニエル・バンクスの軍隊は、ユリシーズ・グラント少将によるビックスバーグの包囲戦と協調して、ミシシッピ川のポートハドソンにある南軍の要塞に対して侵攻した。北軍は1863年5月27日の正面攻撃に失敗した後で、包囲戦を布き、48日間続いた。バンクスは6月14日にも再度攻撃したが守備隊に撃退された。7月9日、ビックスバーグ陥落の報に接した南軍守備隊はポートハドソンの降伏を飲み、ミシシッピ川はそのニューオーリンズの河口から北軍の航行が全て可能になった。.

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ポートレパブリックの戦い

ポートレパブリックの戦い(Battle of Port Republic)は、南北戦争の1862年6月9日、南軍ストーンウォール・ジャクソン少将がシェナンドー渓谷で戦ったバレー方面作戦の一部として、バージニア州ロッキンガム郡で起きた戦闘である。この戦闘は南北両軍が同程度に決死の覚悟で戦ったために激しい攻防となり、バレー方面作戦の中でもジャクソンのバレー軍に最も大きな人的損失を出させたものになった。前日におきたクロスキーズの戦いと共にポートレパブリックの戦いはジャクソン南軍の決定的な勝利となり、北軍に後退を強いた。ジャクソン軍は、リッチモンド郊外で七日間の戦いを行っていたロバート・E・リー将軍の援軍に回れることになった。.

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ポートロイヤルの戦い

ポートロイヤルの戦い(ポートロイヤルのたたかい、英:Battle of Port Royal)は、南北戦争でも初期の水陸協働作戦の一つであり、1861年11月7日に、北軍の海軍艦隊と陸軍遠征隊が、ジョージア州サバンナとサウスカロライナ州チャールストンの間にあるポートロイヤル・サウンドを占領した。このサウンドはその入り口両岸にある南側のヒルトンヘッド島のウォーカー砦と北側のフィリップ島のボーリガード砦という2つの砦で守られていた。南軍の砲艦4隻も砦を支援していたが、実質的に戦闘の行方に影響しなかった。 攻撃部隊は大西洋を下ってくる間の嵐でかなり損傷を受けた後に、11月3日からサウンドの外で集結した。嵐による損失のために陸軍は上陸できなかったので、戦闘は艦隊の大砲と陸の砦の大砲との間での戦いとなった。 北軍艦隊は天候のために攻撃開始が遅れて、11月7日に攻撃のために移動したが、その間に南軍のウォーカー砦には援軍が到着した。海軍将官サミュエル・デュポンはその艦船を楕円形の航路の上で動かしながら、ある区間ではウォーカー砦、またある区間ではボーリガード砦に砲撃させた。この戦術はその前8月にハッテラス入り江砲台の戦いで効果的に採用されたところだった。しかし、デュポンの作戦は間もなく崩れ、大半の艦船はウォーカー砦の弱点に付け込む形で縦射できる配置を採った。南軍の砲艦4隻は形だけ顔を出したが、交戦を挑まれたときは近くのクリークに逃げ込んだ。午後早い時間にウォーカー砦の大砲の大半は使えなくなり、砦の守備隊が後方に逃げ出した。北軍旗艦からの上陸隊が砦を占領した。 ウォーカー砦が陥落すると、対岸のボーリガード砦の指揮官は兵士達が直ぐに脱出路を抑えられるのを恐れ、砦を放棄するよう命令した。別の上陸部隊がボーリガード砦を占領し、翌日星条旗を掲げた。 投入された火力は大きかったが、両軍とも南北戦争のその後の標準的な戦闘に比べて人命損失は小さかった。北軍艦隊の戦死者はわずか8名、南軍の砦では11名のみであり、他に南軍の4名が不明となった。負傷者を合わせた全損失は100名に満たなかった。.

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ムーアズミルの戦い

ムーアズミルの戦い(Battle of Moore's Mill)は、南北戦争の1862年7月28日に、ミズーリ州中央部、現在のキャラウェイ郡のキャルウッド近く、オーバス・クリーク沿いで起こった戦闘である。この戦闘や、1週間後に起こったカークスビルの戦い、さらにその5日後のコンプトンズフェリーの戦いによって、ミズーリ州北部にいた南軍の徴兵担当達を追い出すことになった。.

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メリーランド方面作戦

南北戦争のメリーランド方面作戦(英:Maryland Campaign、またはAntietam Campaign)は、1862年9月に東部戦線で行われ、戦争全体の大きな転換点となったと広く考えられている。南軍の将軍ロバート・E・リーが初めて北部の領地内に侵攻したが、北軍のジョージ・マクレラン少将率いるポトマック軍に撃退された。マクレランはリーの北バージニア軍の侵攻を阻止するように動き、最終的にシャープスバーグの近くで攻撃した。その結果として起こったアンティータムの戦いはアメリカ史の中で単一日の損失量としては最大となった。.

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メルダジーンの戦い

メルダジーンの戦い(メルダジーンのたたかい、Battle of Marais des Cygnes、またはオーセージの戦い、トレーディングポストの戦い)は、南北戦争の終盤に入った1864年10月25日、プライスのミズーリ襲撃の間にカンザス州リン郡でおきた戦闘である。同じ日に起こった3つの相互に関連する戦闘の中では最初のものとなった。いずれの戦闘も、南軍はスターリング・プライス少将の指揮するミズーリ軍の部隊が、北軍はアルフレッド・プレソントン少将の指揮する北軍暫定騎兵師団の部隊が関わった。 この戦闘の間、北軍プレソントンの騎兵師団では、ジョン・F・フィリップス大佐とフレデリック・ベンティーン大佐の合わせて2個旅団がトレーディングポストでプライス軍の後衛に追いついた。プライス軍は南部の輜重隊と共にメルダジーン川の渡河を援護していた。プレソントンの部隊は南軍の渡河を妨害することも、重大な損失を与えることもできなかったが、幾らかの捕虜を取り、大砲を鹵獲することができ、プライス軍の撤退継続を強いた。このことでその朝遅くのマインクリークの戦いという2つ目の戦闘に繋がり、さらに午後にはマーミトン川の戦いというこの日最後の戦闘になった。この2つの戦闘で北軍が勝利し、プライスのミズーリ襲撃隊の運命が決まることになった。.

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メンフィスの戦い

メンフィスの戦い(メンフィスのたたかい、英:Battle of Memphis、または第一次メンフィスの戦い)は、南北戦争中1862年6月6日にテネシー州メンフィス市直ぐ上流のミシシッピ川で行われた水上戦である。戦闘の様子はメンフィス市民の多くに目撃された。結果は南軍の大敗となり、ミシシッピ川における南軍の水上戦力は事実上消滅した。この一方的な結果にも拘らず、北軍はその戦略的意義を把握できなかった。歴史的に重要なことの一つとして、軍事経験の無かった市民が戦闘において艦船指揮を認められたことでは最後の機会となったことである。アメリカ海軍における職業意識の発展には1つの節目となっている。.

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メイコン砦の戦い

メイコン砦の戦い(メイコンとりでのたたかい、英:Battle of Fort Macon、あるいはメイコン砦の包囲戦、英:Siege of Fort Macon)は、南北戦争中の1862年3月23日から4月26日に、ノースカロライナ州カータレット郡アウターバンクスで起こった戦闘である。これは北軍アンブローズ・バーンサイド少将のノースカロライナ遠征の一部として起こった。 3月遅く、バーンサイド少将の陸軍はノースカロライナ州ニューバーンから南東に35マイル (56 km) ボーフォートに面した水路を支配する砲郭をそなえた石造りの砦、メイコン砦に向かって進軍した。北軍は砦に対して包囲線を布き、4月26日に砦への正確な砲撃を開始して、間もなく石造りの壁を崩壊させた。数時間の内に砦の傾斜面が崩壊し始め、午後遅くに南軍の指揮官モーゼス・J・ホワイト大佐が白旗を揚げるよう命じた。バーンサイドの降伏条件が受け入れられ、北軍は翌朝砦を占領した。.

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モノカシーの戦い

モノカシーの戦い(モノカシーのたたかい、英:Battle of Monocacy、またはモノカシー結節点の戦い、英:Battle of Monocacy Junction)は、南北戦争の1864年のバレー方面作戦中1864年7月9日に、メリーランド州フレデリックで起こった戦闘である。南軍ジュバル・アーリー中将軍がルー・ウォーレス少将が指揮する北軍を破った。この戦闘は、バージニア州ピーターズバーグで包囲されているロバート・E・リー軍から北軍の注意を逸らすためにシェナンドー渓谷とメリーランド州をアーリー軍が襲撃したその一部だった。.

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モービル湾の海戦

モービル湾の海戦(モービルわんのかいせん、英:Battle of Mobile Bay)は、南北戦争中1864年8月5日に行われた海戦である。デヴィッド・ファラガット海軍少将が指揮する北軍艦隊が、陸軍の支援も受けて、フランクリン・ブキャナン提督の指揮する小さな南軍艦隊と、モービル湾入口を守っていた3つの砦を攻撃した。 この戦闘はファラガットの無謀とも言える機雷原を突入するという決断で様相が変わった。その機雷によって鉄装甲のモニター艦が1隻沈没させられたばかりの決断だった。北軍艦隊は機雷原を通過し、海岸にある南軍砦の大砲射程範囲からも逃れた。その後南軍艦隊を装甲艦のCSSテネシー1艦まで減らした。しかしテネシーは退却せず、北軍艦隊全部を相手に戦った。テネシーの装甲は優れたものであり、受けた砲弾によるよりも敵艦に与えた損害の方が多かったが、数の不利までは覆せなかった。 テネシーは最終的に動けない船体となり、北軍艦隊に反撃することもできなくなった。その後艦長が降伏して戦闘は終わった。海軍の支援が無くなった陸上の3つの砦も数日中に降伏した。モービル湾下流部全体の支配権が北軍に移った。 モービルはミシシッピ川より東のメキシコ湾岸で南軍が支配していた最後の重要港であり、それが閉鎖されたことで、北軍による海上封鎖の最終仕上げとなった。 北軍はこの戦いに勝利することで、アメリカ連合国に残された3つの海港(他の2つはジョージア州サバンナとノースカロライナ州ウィルミントン)のうちの1つを封鎖したことに加え、陸上では同時期にアトランタを占領しており、北側の新聞で大々的に扱われ、3か月後に予定されたエイブラハム・リンカーンの再選に大きな弾みが付いた。.

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モーガンの襲撃

モーガンの襲撃(モーガンのしゅうげき、Morgan's Raid)は、アメリカ南北戦争の中盤に南軍の騎兵隊が北部のインディアナ州やオハイオ州まで侵入して大きな注目を集めた事件である。この襲撃は1863年6月11日から7月26日に起こり、南軍の指揮官ジョン・ハント・モーガン准将の名前を付けられている。 モーガンの騎兵隊は46日間に1,000マイル (1,600 km)以上も馬で駆け回り、テネシー州から北のオハイオ州までの地域を動いた。この襲撃は西部戦線のビックスバーグ方面作戦や東部戦線のゲティスバーグ方面作戦と時を同じくしていたが、どちらの作戦とも直接の影響は無かった。しかし、北軍の何万名もの兵士を通常任務から離れて追跡させ、北部の幾つかの州民を怖がらせる効果があった。モーガンは南部に戻ろうとしたときに、慌しく配置された北軍や州兵のために何度か挫折し、最終的にはオハイオ州北東部で残っていた部隊と共に降伏した。 南部人の多くにとっては、敵の前線背後に侵入したこの大胆な遠征は1863年の大襲撃として知られるようになり、当初は新聞で喝采を浴びた。しかし、ゲティスバーグやビックスバーグと共にこの年の夏の南軍にとって一連の敗北に追加されたものでもある。北部の新聞では、襲撃者が地方の店や家から個人的な物を購入する習性があったことに敬意を表して、モーガンの遠征をキャラコ襲撃と諧謔的に名付けたものもあった。.

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ヨークタウンの包囲戦 (南北戦争)

ヨークタウンの包囲戦(ヨークタウンのほういせん、英:Siege of Yorktown、またはヨークタウンの戦い、英Battle of Yorktown)は、南北戦争の半島方面作戦の一部として1862年4月5日から5月4日に行われた戦闘である。北軍ジョージ・マクレラン少将のポトマック軍はモンロー砦から行軍して、ウォーウィック防御線背後のバージニア州ヨークタウンでジョン・マグルーダー少将の小規模南軍と対峙した。マクレランはバージニア半島をリッチモンドまで遡る行軍を中断して、包囲戦を布いた。 4月5日、エラスムス・D・キーズ准将の第4軍団がリーズミルの南軍防御工作物で最初の接触を行ったが、ここはマクレランが抵抗無しで通過できると考えていた地域だった。マグルーダーが部隊を前後にこれ見よがしに動かしたことで、北軍はその工作物が強固に守られていると信じ込んだ。両軍が砲撃戦を交わす中で、キーズは南軍の防御の強度やその幅を偵察し、マクレランには南軍工作物に猛攻を加えることに反対する進言をした。マクレランは包囲戦用の防御物を建設するよう命令し、攻城戦用重砲を前線に持ってこさせた。その間に南軍のジョセフ・ジョンストンはマグルーダーに援軍を送った。 4月16日、北軍はダム1号の地点で南軍前線に探りを入れた。しかし、北軍はこの攻撃の当初の成功につけこむことができなかった。このことで機会を失ったマクレランはさらに2週間の時を要して海軍を説得し、ヨークタウンやグロスター・ポイントにある南軍の重砲を迂回してヨーク川をウェストポイントまで遡り、ウォーウィック防御戦の側面を衝くようにさせようとした。マクレランは5月5日の夜明けに大規模砲撃を掛けようと考えたが、南軍は5月3日の夜中にウィリアムズバーグの方向に抜け出していた この戦闘はアメリカ独立戦争の最終的な戦闘となった1781年のヨークタウンの戦い戦場跡に近い所で起こった。.

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リッチモンドの戦い

リッチモンドの戦い(リッチモンドのたたかい、英:Battle of Richmond)は、南北戦争中盤の1862年8月29日から8月30日に、南軍のハートランド攻勢(ケンタッキー方面作戦)の一部として、ケンタッキー州リッチモンド郊外、現在ではブルーグラス陸軍補給庫となっている場所周辺で行われた戦闘である。この戦闘は、南北戦争の中で南軍による最も完璧な勝利と言われることがある。.

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リッチモンド・ピータースバーグ方面作戦

リッチモンド・ピーターズバーグ方面作戦(リッチモンド・ピーターズバーグほうめんさくせん、英:Richmond-Petersburg Campaign、またはピーターズバーグ包囲戦、英Siege of Petersburg)は、南北戦争の1864年6月9日から1865年3月25日にかけて、バージニア州ピーターズバーグ周辺で行われた一連の戦闘である。一般にはピーターズバーグ包囲戦と呼ばれるが、町が完全に包囲されて補給も遮断されるような古典的な包囲戦ではなく、ピーターズバーグに限定した戦いでも無かった。これは9ヶ月を超える塹壕戦であり、ユリシーズ・グラント中将が率いる北軍がピーターズバーグを攻めあぐねた結果、塹壕線を構築して、最終的に町の東の郊外から始まり東部と南部の郊外を囲む30マイル (48 km)にも及ぶ戦線が形成された。ピーターズバーグは南軍のロバート・E・リー将軍とアメリカ連合国の首都リッチモンドにとって重要な補給拠点であった。ピーターズバーグを通ってリッチモンドに至る鉄道を遮断するために数多の攻勢が実施され、この多くが塹壕線の延伸をもたらし、アメリカ連合国の物資窮乏に拍車を掛けた。 リーは最終的に圧力に屈した。1865年3月25日には補給線が遂に切断されて本当の包囲戦が始まり、このためリーは1865年4月にはリッチモンドとピーターズバーグを放棄し、これは更なる撤退とアポマトックス・コートハウスにおける降伏に繋がった。ピーターズバーグ包囲戦は第一次世界大戦で常態化した塹壕戦の先例として軍事史の中で特筆される。また南北戦争の中でアフリカ系アメリカ人の兵士を最も大量に投入した戦いであり、彼らはクレーターの戦いやチャフィン農園の戦いなどで大きな犠牲を出した。.

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リパブリック讃歌

リパブリック讃歌(リパブリックさんか、原題: )は、アメリカ合衆国の民謡・愛国歌・賛歌であり、南北戦争での北軍の行軍曲である。作詞者は詩人のジュリア・ウォード・ハウであり、軍歌の作詞を女性が務めた珍しい事例である。原題を日本語で直訳すると「共和国の戦闘讃歌」となる。.

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ルイス農園の戦い

ルイス農園の戦い(ルイスのうえんのたたかい、Battle of Lewis's Farm、またはクエーカー道路の戦い、軍事道路の戦い、グレイブリーランの戦い)は、南北戦争も最終盤となった1865年3月29日に、バージニア州ディンウィディ郡で起きた戦闘である。通常はピーターズバーグ包囲戦と呼ばれるリッチモンド・ピータースバーグ方面作戦この方面作戦は、南軍とピーターズバーグ、リッチモンド両市が包囲されることはなかったので真の意味で包囲戦ではない。戦闘はピーターズバーグ以外の場所、主にリッチモンドの地域で起こった。詳細はリッチモンド・ピータースバーグ方面作戦を参照の最後の決戦となった戦いはこのルイス農園で始まった。ユリシーズ・グラント中将が指揮する北軍が、ロバート・E・リー将軍の指揮する南軍北バージニア軍をピーターズバーグとアメリカ連合国の首都であるリッチモンド両市の防衛的前線から追い出した。歴史家の多くやアメリカ合衆国国立公園局はこのルイス農園の戦いをアポマトックス方面作戦の最初の戦闘であると考えている。この方面作戦は1865年4月9日のリー軍の降伏に繋がったBryce A. Suderow, in his introduction to Chapter 5 of Ed Bearss's 2014 edition of Volume II of The Petersburg Campaign: The Western Front Battles, September 1864–April 1865, この戦闘は「ファイブフォークス方面作戦と見られるべきものの最初の戦闘」と考えるべき、と言っている。Bearss, 2014, p. 313.

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レッド川方面作戦

レッド川方面作戦(レッドかわほうめんさくせん、英:Red River Campaign、あるいはレッド川遠征、英:Red River Expedition)は、南北戦争中の1864年3月10日から5月22日にルイジアナ州のレッド川沿いで戦われた一連の戦闘である。この作戦は北軍の先手で始まり、北軍はナサニエル・バンクス少将の30,000名の部隊、南軍はリチャード・テイラーの6,000名から12,000名の部隊の間で争われた。 この作戦は元々北軍の総司令官ヘンリー・ハレックの発案であり、これを引き継いだユリシーズ・グラント中将がバンクスのメキシコ湾岸軍30,000名を使いアラバマ州モービルを占領することで、南軍の主力を包囲してしまおうという作戦に転用した。結果は北軍の惨憺たる失敗に終わり、お粗末な計画と管理の誤りによって特徴づけられ、一つの目的も十分に達成されなかった。テイラーは小さな軍隊でレッド川を守り、この戦争の中でも南軍の最も輝かしい成功の一つと考えられている。しかし、マンスフィールドの戦いでの南軍勝利の後、テイラーの直接の上官、エドマンド・カービー・スミス将軍の決断によって、テイラー軍で退却するバンクス軍を追撃する代わりにその半分を北のアーカンソー州に送ることになり、テイラーとスミスの間の反目を生み出すことになった。.

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レイモンドの戦い

レイモンドの戦い(レイモンドのたたかい、英:Battle of Raymond)は、南北戦争で起きた戦闘のひとつ。.

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ローレンスの虐殺

ーレンスの虐殺(ローレンスのぎゃくさつ、Lawrence Massacre、あるいはクァントリルの襲撃)は、南北戦争の1863年8月21日に、カンザス州の北軍への支持が強かった町ローレンスを、ウィリアム・クァントリルが率いた南軍のゲリラ部隊Bushwhacker)、「Quantrill's Raiders (クァントリルのレイダーズ)」が襲撃したものである。 ローレンスは以前から奴隷制度廃止運動を支持しており、ミズーリ州西部の奴隷制度擁護派郡部にある農園やプランテーションを攻撃し破壊することで知られていた、自由州の民兵と自警団であるジェイホーカーズとレッドレグスの中心であるという評判があった。.

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ローンジャックの戦い

ーンジャックの戦い(Battle of Lone Jack)は、南北戦争の1862年8月15日から16日に、ミズーリ州ジャクソン郡のローンジャック近くで起こった戦闘である。1862年に南軍がゲリラ部隊と共にミズーリ州で徴兵活動を行った中で発生した。.

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ロアノーク島の戦い

アノーク島の戦い(ロアノークとうのたたかい、英:Battle of Roanoke Island)は、南北戦争の初期、1862年2月7日から2月8日に、ノースカロライナ州とバージニア州の州境からわずか南、ノースカロライナの入り江で行われた水陸協働戦闘である。北軍アンブローズ・バーンサイド准将のノースカロライナ遠征の緒戦として行われた。攻撃部隊は海軍将官ルイス・M・ゴールズボロの指揮する北大西洋封鎖戦隊から引き抜かれたアメリカ合衆国海軍の砲艦戦隊、アメリカ合衆国陸軍が統御する別の砲艦戦隊およびバーンサイドが指揮する陸軍1個師団で構成された。守備側はウィリアム・F・リンチ艦長が指揮するモスキート戦隊と呼ばれるアメリカ連合国海軍の1群の砲艦とヘンリー・アレクサンダー・ワイズ准将が指揮する約2,000名の地元部隊だった。その防御はロアノーク島に接する海に面した4つの砦とその外郭の2つの砲台で補強されていた。戦闘が行われたときワイズは入院していたので、指揮権は副指揮官のH・M・ショー大佐に渡されていた。 戦闘の初日は北軍砲艦と岸の砦の間の砲撃戦で大半が過ごされ、時にはモスキート戦隊が加わった。その日かなり遅くなってバーンサイドの部隊は抵抗無しに上陸した。これには水兵達が操作する6門の榴弾砲が付いていた。そのときは戦うには遅過ぎたので、侵入部隊は夜の間の露営に入った。 2日目の2月8日、北軍兵が前進したが砲台の大砲と島の中央にいる歩兵によって止められた。南軍はその前線が通過不可能な湿地によって安全を守られていると考えていたが、両側面を衝かれて砦の中に逃亡させられた。しかし、これらの砦は占領された。ショー大佐は逃げる道は無いと認識し、意味のない流血を避けるために降伏した。.

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ヴァルヴァードの戦い

ヴァルヴァードの戦い(Battle of Valverde、1862年2月20日–2月21日)は、ニューメキシコ準州のヴァルヴァードの町とその周辺で戦われた、南北戦争のニューメキシコ作戦における大きなアメリカ連合国の成功であった。それにもかかわらず、のちの合衆国が大きく勝利したグロリエタの戦いの後に後退せざるを得なくなった。各勢力は、テキサスからの連合国騎馬隊とアリゾナ(実質的にはニューメキシコ南部)連合国志願兵からのいくつかの中隊と、対するは合衆国陸軍正規兵とニューメキシコ北部からの合衆国志願兵だった。 ヘンリー・ホプキンス・シブレー将軍は約2500名の旅団を率いてリオグランデ川を渡り、ニューメキシコのクレイグ砦の北、ヴァルヴァード近くの、河の東側の浅瀬に進み、合衆国軍(連邦軍)の砦とサンタフェにある本部との通信を遮断しようと望んだ。合衆国軍のエドワード・キャンビー中佐は、川を渡ってくる連合国の攻撃を未然に防ぐため、3200名の兵士とともにクレイグ砦を離れた。ちょうどその時、彼は彼らと向かい合って、キャンビーは急いで発砲を開始し、そして合衆国騎馬隊とわずかな歩兵隊と砲兵隊に川を越えさせて敵陣に送り込んだ。 連合国軍はオールドリオグランデの河川敷沿いのある場所に避難を求めて休止し、そこは非常に優れた防御陣地だった。すべての兵士が渡河した後、キャンビーは、正面攻撃は失敗に終わるとみて、連合国軍の左サイドから突撃することを決定して軍を配置した。しかしキャンビーの突撃前に、連合国軍が攻撃した。連邦軍は騎馬隊の突進で応戦したが、連合国軍の主力部隊は正面攻撃で圧迫し、砲兵隊の6台の砲台を捕らえて北軍の前線を破壊し、すぐに打ち負かした。キャンビーは素早く兵士を再編し、砦への避難を命令した。連合国側の援軍が到着し、シブレーが別の攻撃を仕掛けようとした時、キャンビーは死者と負傷者を片付けるために停戦を求めて白旗を上げた。シブレーは紳士的にこれに同意した。 この戦場の占有から連合国側は勝利を宣言したが、多くの死傷者に見舞われた。彼らはさらにアルバカーキとサンタフェを占領しようとしたが、しかし物資の欠乏によりたったの数ヶ月後にはニューメキシコ準州を去ることになった。連合国軍は作戦の起点となるテキサス州エルパソに避難をし、キャンビー率いる連邦軍はのちに新たな戦いを仕掛ける試みはなかった。 Category:南北戦争の戦闘 Category:1862年の戦闘 Category:1862年のアメリカ合衆国.

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ヴァン・ビューレンの戦い

ヴァン・ビューレンの戦い(Battle of Van Buren)は、南北戦争の1862年12月28日に、アーカンソー州クロウフォード郡で起きた戦闘である。北軍はこの戦闘に勝利してアーカンソー州北西部を確保することができた。.

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ボールズブラフの戦い

ボールズブラフの戦い(ボールズブラフのたたかい、英:Battle of Ball's Bluff、またはハリソン島の戦い、英:Battle of Harrison’s Island、またはリーズバーグの戦い英:Battle of Leesburg)は、南北戦争の初期、1861年10月21日に、バージニア州ラウドン郡で、北軍ジョージ・マクレラン少将の北バージニアにおける作戦の一部として行われた戦闘である。 その後に続く戦闘と比べると小さな戦いだったが、1861年の東部戦線では2番目に大きな戦闘であり、その後で北軍指揮系統に余波が及び、戦争中のアメリカ合衆国憲法下での三権分立の問題を引き起こした。.

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トレビリアン・ステーションの戦い

トレビリアン・ステーションの戦い(トレビリアン・ステーションのたたかい、Battle of Trevilian Station)は、南北戦争中の1864年6月11日と12日、バージニア州ルイーザ郡で、北軍ユリシーズ・グラント中将のオーバーランド方面作戦の中で、南軍ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍と対抗した戦闘である。北軍のフィリップ・シェリダン少将の指揮する騎兵隊が、南軍のウェイド・ハンプトン少将とフィッツヒュー・リー少将が指揮する騎兵隊と戦い、全て騎兵が戦ったものとしてこの戦争の中でも流血が多く最大の戦闘となった。 シェリダンの襲撃の目標はバージニア・セントラル鉄道の線路を破壊すること、グラントが計画するジェームズ川渡河の動きから南軍騎兵隊の注意を逸らすような陽動行動を行うこと、およびシャーロッツビルでデイビッド・ハンター少将の軍と合流することだった。ハンプトンの騎兵隊がトレビリアン・ステーションの鉄道沿いでシェリダン軍を叩き、6月11日の戦闘では手詰まりとなった。ジョージ・アームストロング・カスター准将が南軍の後に回り込み、ハンプトンの輜重隊を捕獲したが、間もなく包囲され、崩壊を防ぐために必死に戦うことになった。 6月12日、トレビリアン・ステーションの北西で騎兵隊同士が再度衝突し、アルフレッド・T・A・トーバート准将の北軍騎兵師団が7度の襲撃を行ったが、大きな損失を出して撃退された。シェリダンはその軍を退かせてグラントの本体と合流した。この戦闘は南軍の戦術的な勝利であり、シェリダンは、バージニア・セントラル鉄道を完全に破壊すること、あるいはハンター軍と合流することという目標を果たせずに終わった。.

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トトポトミー・クリークの戦い

トトポトミー・クリークの戦い(トトポトミー・クリークのたたかい、Battle of Totopotomoy Creek、、またはベセスダ教会の戦い、クランプス・クリークの戦い、シャディグローブ道路の戦い、ハノーバータウンの戦い)は、南北戦争の4年目に入った1864年5月28日から30日、バージニア州ハノーバー郡で、北軍ユリシーズ・グラント中将のオーバーランド方面作戦の中で、南軍ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍と対抗した戦闘である。 グラントはリー軍の右翼に回り込む軍の操作を続け、リー軍を開けた場所での会戦に持ち込もうとしたが、リーはジュバル・アーリー中将の北バージニア軍第2軍団で、北軍ガバヌーア・ウォーレン少将の前進してくる第5軍団を攻撃する機会を伺った。アーリーの指揮下、ロバート・E・ローズ少将とドッドソン・ラムスール少将の師団が北軍の部隊をシャディグローブ道路まで押し返したが、ラムスールの前衛隊が北軍歩兵と砲兵の激しい抵抗に遭って停止させられた。グラントは他の軍団長に南軍の全線にわたって攻撃を支援するよう命令した。南軍はトトポトミー・クリークの背後の塹壕に入っていた。北軍ウィンフィールド・スコット・ハンコックの第2軍団のみがクリークを渡ったが、直ぐに撃退された。決着のつかなかった戦闘の後、北軍は南東方面への動きを再開し、月末からのコールドハーバーの戦いに向かった。.

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トゥーペロの戦い

トゥーペロの戦い(トゥーペロのたたかい、英:Battle of Tupelo)は、南北戦争のアトランタ方面作戦に平行してミシシッピ州北部のテューペロで行われた戦闘であり、北軍が南軍に勝利することでアトランタに接近していたウィリアム・シャーマン軍の供給線が確保された。.

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ヘレナの戦い

ヘレナの戦い(ヘレナのたたかい、英:Battle of Helena)は、南北戦争ビックスバーグ方面作戦中の1863年7月4日に、アーカンソー州ヘレナで起こった戦闘である。同日に起こったゲティスバーグの戦いやビックスバーグの降伏の陰に隠れているが、北軍にとっては東アーカンソー州を確保する重要な戦闘だった。.

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ヘンリー砦の戦い

ヘンリー砦の戦い(ヘンリーとりでのたたかい、英:Battle of Fort Henry)は、南北戦争初期の1862年2月6日に、テネシー州西部で行われた戦いである。西部戦線では北軍とユリシーズ・グラント准将にとって最初の重要な勝利だった。 2月4日と5日にグラントはテネシー川沿いヘンリー砦の真北に2個師団を上陸させた。その作戦は2月6日に砦に向かって前進させ、一方でアンドリュー・H・フット海軍将官が指揮するアメリカ海軍の砲艦が同時攻撃を掛けるというものだった。海軍の効果的な砲撃に、砦が増水した川水でほとんど完全に浸水しているという悪い位置条件も重なり、陸軍が到着する前に、南軍の指揮官ロイド・ティルマン准将はフットに降伏した。 ヘンリー砦の降伏によりテネシー川はアラバマ州境まで北軍の交通が自由となり、そのことは2月6日から12日まで木製船の「ティンバークラッド」襲撃という形で実証され、南軍の船舶や鉄道橋を破壊した。グラント軍は陸路を12マイル (19 km)進んで、流血の多かったドネルソン砦の戦いに向かった。.

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ヘッドオブパッシーズの海戦

ヘッドオブパッシーズの海戦(Battle of the Head of Passes)は、南北戦争開戦から半年の1861年10月12日に、ルイジアナ州プラークミンズ郡ミシシッピ川デルタの先端近くで起こった海戦である。地元メディアから「モスキート艦隊」とも呼ばれたアメリカ連合国海軍のミシシッピ川防衛艦隊が、ヘッドオブパッシーズで停泊していた北軍海軍の封鎖戦隊を襲った。このモスキート艦隊には3隻の火船用筏が付いており、火を点けられ、装甲衝角艦CSSマナサスの後から戦闘に加わった。攻撃は10月12日早朝の月の入り後に始まり、北軍戦隊を潰走させた。北軍は算を乱してデルタの南西水路から逃げて行った。日の出後、南軍の海軍准将ジョージ・N・ホリンズはモスキート艦隊に上流に戻るよう命令を出した。.

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ブランディ・ステーションの戦い

ブランディステーションの戦い(のたたかい、英:Battle of Brandy Station、またはフリートウッドヒルの戦い、英:Battle of Fleetwood Hill)は、南北戦争で、すなわちアメリカの国土で起こった大半が騎兵同士の戦闘としては最大のものである。ゲティスバーグ方面作戦の初め1863年6月9日に、北軍アルフレッド・プレソントン少将の騎兵隊と南軍J・E・B・スチュアート少将の騎兵隊との間の戦いだった。 プレソントンはブランディステーションでスチュアートの騎兵隊に夜明けの急襲を掛けた。まる1日続く戦闘で何度も攻守ところを変え、最後に北軍が撤退したが、ロバート・E・リー将軍の歩兵部隊がカルペパー近くで宿営しているのを見付けられなかった。この戦闘によって、東部戦線のそれまでは南部優勢で推移していた騎兵同士の戦いの様相が変わった。戦争のこの時点から北軍の騎兵隊は力強さと自信を得るようになった。.

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ブライス交差点の戦い

ブライス交差点の戦い(ブライス交差点の戦い、英:Battle of Brice's Crossroads)は、南北戦争中の1864年6月10日に、ミシシッピ州リー郡のボールドウィン近くで行われた戦闘である。南軍ネイサン・ベッドフォード・フォレスト少将が率いる4,787名の分遣隊が北軍サミュエル・D・スタージス准将の率いる8,100名の軍勢と対戦した。この戦いは北軍の壊走におわり、フォレストの偉大な騎兵指揮官としての名声を確固たるものにした。 この戦闘は勢力で劣る部隊が戦術や地形を活かし、積極的な攻撃を行うことで勝利を得た例として教科書に載っている。この勝利にも拘らず、南軍はアラバマ州とミシシッピ州から一時的に北軍を追い出す以外ほとんど得るものが無かった。.

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ブリストー方面作戦

両軍の指揮官、ミード(左)とリー ブリストー方面作戦(ブリストーほうめんさくせん、英:Bristoe Campaign)は、1863年10月と11月に、南北戦争東部戦線のバージニア州で戦われた一連の戦闘である。北軍ポトマック軍の指揮官ジョージ・ミード少将は、南軍ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍を破ろうとして不成功に終わった。ポトマック軍が遂行した全ての方面作戦の中で、この作戦は最も目立たないものである。.

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ブーンビルの戦い

ブーンビルの戦い(ブーンビルのたたかい、)は、南北戦争初期の1861年6月17日、ミズーリ州クーパー郡で起こった小戦闘である。この戦いで北軍が勝ったことにより、ミズーリ川を支配し、ミズーリ州が南軍側に付こうという動きを止めた。.

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プライスの襲撃

プライスの襲撃ルート(左上の赤い矢印) プライスの襲撃(プライスのしゅうげき、英:Price's Raid、またはプライスのミズーリ遠征、英:Price's Missouri Expedition)は南北戦争のミシシッピ川流域戦線において、1864年に南軍騎兵隊が行った襲撃である。スターリング・プライス少将がミズーリ州とカンザス州で数多くの戦いを行い、最後はアルフレッド・プレソントン少将の北軍騎兵隊に敗北した。これはミシシッピ川の西では最後の主要作戦となった。.

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プラスキ砦の戦い

プラスキ砦の戦い(Battle of Fort Pulaski)は、南北戦争中のジョージア州サバンナに近いタイビー島の北軍陸軍と海軍の戦隊が、南軍の保持していたプラスキ砦を112日間包囲した後、開戦からほぼ丸1年が経った1862年4月10日から11日に30時間の砲撃を行った後に砦を占領した。この戦闘は、既存の海岸防御地を無用にした革新的パロット砲を使ったことで重要である。北軍は砲火の下で大規模な水陸共同作戦を展開した。 プラスキ砦の降伏により、港としてのサバンナは戦略的に閉鎖された。北軍は海上封鎖を拡大し、大西洋岸を南への航行を可能にし、陸兵1万名の大半を再配置した。南軍の陸軍と海軍の守備隊は北軍の前進を3か月以上止め、サバンナ市を守り、この戦争の間、北軍の海からの侵攻を止めた。海岸部鉄道の接続は、封鎖されていたサウスカロライナ州チャールストンまで延伸された。 プラスキ砦はジョージア州のサバンナ川の河口に近いコックスパー島にある。サバンナ市に海から入る水路を監視していた。サバンナは綿花を輸出する港として、鉄道の中心として、また州の工廠や民間造船所など州最大の工業地帯として商業的にも工業的にも重要だった。砦の背後のサバンナ川に、南の2つの入り江が導いていた。プラスキ砦のすぐ東、ヒルトンヘッド島が見える所に、灯台のあるタイビー島があった。.

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プレーリーダンの戦い

プレーリーダンの戦い(Battle of Prairie D'Ane、またはガムグローブの戦い、モスコーの戦い)は、南北戦争の開戦からちょうど3年が経とうとする1864年4月9日から13日に、カムデン遠征の一部としてアーカンソー州ネバダ郡で起きた戦闘である。この遠征は、北軍のナサニエル・バンクス少将と同海軍のデイビッド・ディクソン・ポーター少将が率いたレッド川遠征と協業する形で始められた。北軍の作戦参謀は、バンクス将軍の軍がルイジアナ州アレクサンドリアからレッド川を北に遡り、もう一方のフレデリック・スティール将軍が指揮する軍がアーカンソー州リトルロックから南に進んで、この2つの軍が合流する姿を描いた。その作戦の目的は、エドマンド・カービー・スミス将軍の指揮する南軍をシュリーブポートの要塞に押し込み、破ることにあった。これに成功すれば、北軍の2つの軍を大きな軍隊に統合して、西のテキサス州に攻勢をかけ続けることが第2段階の幾らか漠然とした姿になっていた Bearss, Edwin Steele's Retreat From Camden and the Battle of Jenkins Ferry (Little Rock: Arkansas Civil War Centennial Commission, Pioneer Press, 1961) Forsyth, Michael J., The Camden Expedition of 1864. (Jefferson, NC and London: McFarland and Company, 2003)。.

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プレーリーグローブの戦い

プレーリーグローブの戦い(Battle of Prairie Grove)は、南北戦争の1862年12月7日に、アーカンソー州ワシントン郡で起きた戦闘である。結果は戦術的な行き詰まりとなったが、北軍はアーカンソー州北西部を確保することができ、戦略的な成果を得た。.

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プレザントヒルの戦い

プレザントヒルの戦い(プレザントヒルのたたかい、英:Battle of Pleasant Hill)は、南北戦争のレッド川方面作戦の一部として1864年4月9日、ルイジアナ州プレザントヒル近くで行われた戦闘である。北軍はナサニエル・バンクス少将、南軍はリチャード・テイラー少将が率いた。 この戦闘は実質的に前日に近隣で行われ、日没頃に暗闇のために終わっていたマンスフィールドの戦いの延長だった。夜の時間が敵対関係の短い合間になった。4月9日、テイラーは新しく補強されたプレザントヒルの北軍に意欲的な襲撃を掛け、初めは優勢だったが、トマス・J・チャーチル准将のアーカンソー師団がその右側面を襲われて撃退された。戦闘後、北軍は士気が落ちて、指揮官に対する不信が残ったままであり、グランデコールを経由してアレクサンドリアまで引き上げた。 この戦闘は南軍が戦場から撤退したので公式には北軍の勝利である。しかし、バンクスとその軍隊は戦闘後間もなく撤退したので、どちらが実際の勝者かについて多くの議論があった。.

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パルメット農場の戦い

南北戦争のパルメット農場の戦い(Battle of Palmito Ranch)は、1865年5月12日から13日にかけて戦われた。ロバート・E・リーの軍の降伏の後のさまざまな出来事の中にあっては、無視されがちな事件であるが、これは南北戦争における最後の武力衝突と位置づけられている。.

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ビーバーダム・クリークの戦い

ビーバーダム・クリークの戦い(ビーバーダム・クリークのたたかい、英:Battle of Beaver Dam Creek、またはメカニクスビルの戦い、英:Battle of Mechanicsville、あるいはエラーソンズミルの戦い、英:Battle of Ellerson's Mill)は、南北戦争初期の1862年6月26日、バージニア州ハノーバー郡で行われた、七日間の戦いの最初の大きな戦闘である。南軍ロバート・E・リー将軍は、北軍ジョージ・マクレラン少将のチカホミニー川北岸にあった右側面に対してその攻勢を始めた。南軍A・P・ヒル少将がD・H・ヒル少将支配下の旅団の1つに支援されてその師団を投入し、ビーバーダム・クリークの背後に退いていたフィッツ・ジョン・ポーターの第5軍団に対して一連の実らない攻撃を掛けた。南軍の攻撃は大きな損失を出して撃退された。しかし、ストーンウォール・ジャクソン少将のシェナンドー渓谷師団が北西から接近しており、翌朝ポーターはゲインズミルの直ぐ向こう、ボースン・クリーク背後の陣地まで後退を強いられた。.

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ビーン駅の戦い

ビーン駅の戦い(ビーンえきのたたかい、Battle of Bean's Stationは、南北戦争3年目の1863年12月14日、テネシー州グレンジャー郡で起きた、ノックスビル方面作戦最後の戦闘である。南軍ジェイムズ・ロングストリート中将の軍は12月4日までノックスビル市の外郭に居たが、その後市を包囲していた陣地を放棄し、北東方向に向かった。北軍はノックスビル防衛軍を指揮していたアンブローズ・バーンサイド少将の後を継いだばかりのジョン・G・パーク少将が南軍の後を追ったSmith p. 39。 12月13日、北軍のジェイムズ・M・シャックルフォード准将の部隊は、ホルストン川沿いのビーン駅近くにいた。ロングストリートは一旦戻ってビーン駅を占領することにした。南軍の3部隊と砲兵隊がビーン駅に接近し北軍を捕まえようとした。12月14日午前2時までに、1隊が北軍の哨戒隊と小競り合いを行った。この哨戒隊は出来る限りの抵抗をし、シャッケルフォードに南軍の出現を報せた。シャッケルフォードは部隊を配置して攻撃に備えた。間もなく戦闘が始まり、ほぼ一日中続いた。 南軍の側面攻撃やその他の襲撃が様々な時刻と場所で起こったが、北軍は南から援軍が到着するまで持ち堪えた。夜の訪れまでに北軍はビーン駅を捨て、ビーン峡谷を抜けてブレインの交差点方向に撤退した。ロングストリートは翌朝北軍への再攻撃を始めたが、ブレインの交差点に近付くと北軍が塹壕線を固めており、追い出せそうにないことが分かった。ロングストリート軍は撤退し、間もなく北軍もその地域を離れた。このビーン駅の戦いでノックスビル方面作戦は終わった。ロングストリート軍は間もなくラッセルビルで冬季宿営に入ったSmith p. 82。.

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ビックスバーグの包囲戦

ビックスバーグの包囲戦(ビックスバーグのほういせん、英:Siege of Vicksburg)は、南北戦争のビックスバーグ方面作戦では最後の大きな戦闘である。北軍の指揮官ユリシーズ・グラント少将のテネシー軍はミシシッピ川を渡った後で、南軍ジョン・C・ペンバートン中将の部隊を要塞都市ビックスバーグを取り巻く防御線の中に追い込んだ。グラントは1863年5月19日と22日の2回、南軍の要塞に対する攻撃を行って大きな損失を出し撃退された後は、5月25日から7月4日までビックスバーグ市を包囲した。この7月4日に南軍は降伏し、ミシシッピ川の支配権が北軍の手に落ちた。この南軍の降伏は、その前日(7月3日)東部戦線におけるゲティスバーグの戦いでロバート・E・リー軍が敗北したことと組み合わせて、南北戦争の転回点と見なされている。.

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ビックスバーグ方面作戦

ビックスバーグ方面作戦(ビックスバーグほうめんさくせん、Vicksburg Campaign)は、南北戦争の西部戦線で、ミシシッピ川で南軍最後の拠点である要塞都市ミシシッピ州ビックスバーグに向けた一連の操軍と戦闘である。北軍ユリシーズ・グラント少将が指揮するテネシー軍がこの強固な要塞を占領し、そこに陣取っていた南軍ジョン・C・ペンバートン中将軍を打ち破って、ミシシッピ川の支配を確立した。 この方面作戦は、1862年12月26日から1863年7月4日の間に、多くの重要な海軍の行動、陸軍の動き、失敗した独創的作戦および11の異なる戦闘で構成された。軍事歴史家達はこの方面作戦を2つの段階、すなわち「ビックスバーグに対する作戦行動」(1862年12月26日から1863年1月)と「グラントのビックスバーグに対する作戦行動」(1863年3月から7月)に分けている。 グラントは当初2手に分かれての接近を計画した。ウィリアム・シャーマン少将に任せた半分はヤズー川に進軍し北東からビックスバーグに迫る、グラントは残りの軍隊を率いてミシシッピ中央鉄道を下るというものだった。これらの初期行動のどちらも失敗した。グラントは多くの「実験」や遠征を行った。グラントのバイユー作戦と呼ばれるものは、ミシシッピ川を使ってビックスバーグ砲台の南に出ようとするものだった。この独創的作戦は全部で5種類行い全てうまく行かなかった。最終的に北軍の砲艦と輸送船がビックスバーグの砲台下を抜け、陸路ルイジアナ州に入ったグラント軍と落ち合った。1863年4月29日と30日、グラント軍はミシシッピ川を渉りミシシッピ州ブルーンズバーグに上陸した。念入りな一連の示威行動と牽制で南軍をごまかし、上陸は抵抗無しに行われた。その後の17日間にグラントはその軍隊を内陸に動かし、5度の戦いに勝ってミシシッピ州都ジャクソンを占領し、ビックスバーグを攻撃して包囲した。 ペンバートン軍が7月4日(ゲティスバーグの戦いでの南軍敗北の1日後)に降伏した後、7月9日にポートハドソンがナサニエル・バンクス少将に降伏し、ミシシッピ川全体が北軍の支配下に落ちた。これらの出来事は南北戦争の転回点と広く認められている。グラントのビックスバーグ方面作戦はアメリカの軍事史の中でも傑作の一つと考えられている。.

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ビッグベセルの戦い

ビッグベセルの戦い(ビッグベセルのたたかい、英:Battle of Big Bethel、またはベセル教会の戦い、英:Battle of Bethel Churchまたはグレートベセルの戦い、英:Battle of Great Bethel)は、南北戦争初期の1861年5月10日に、バージニア州ハンプトンとヨーク郡(現在の自治体となっていない地域社会タブの近く)で起こった戦闘である。 北軍のベンジャミン・バトラー少将がハンプトンとニューポートニューズから寄せ集めた部隊を、リトルベセルとビッグベセルの教会にある南軍の前進基地に対して派遣した。北軍はエベネザー・W・ピアース准将の直接指揮下にあり、道路に沿って追撃して攻撃し、撃退された。第5ニューヨーク・ズアーブ隊が下流でクリークを渡って南軍の左側面に回り込もうとしたが撃退された。北軍は戦列を乱して後退し、ハンプトンとニューポートニューズまで戻った。 ビッグベセルの戦いは現在のバージニア州で起こった南北戦争最初の陸上戦闘であり、戦争全体でも最初の陸上戦闘とされている。最初の戦闘として他に可能性があるのは、現在のウェストバージニア州(当時はバージニア州の一部)で1861年6月3日に起こったフィルーピーの戦いであり、会戦というよりも小競り合いに過ぎないと考える者がいる。.

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ビッグサンディ遠征

ビッグサンディ遠征(ビッグサンディえんせい、Big Sandy Expedition、またはアイビーマウンテンの戦い、Battle of Ivy Mountain)は、南北戦争の初年1861年9月半ばに始まったケンタッキー州における北軍の初期作戦である。ウィリアム・"ブル"・ネルソン准将がケンタッキー州メイズビルで新しい旅団を編成し、東ケンタッキーのビッグサンディ・バレーに遠征し、ジョン・S・ウィリアムズ大佐の下に南軍部隊が拡大するのを止める命令を受けた。この遠征は3段階で行われた。最初は9月21日から10月20日であり、ネルソンがオハイオ州とケンタッキー州から志願兵5,500名の旅団を集結させた。10月23日、本隊を2つに分けた内の南の部隊はケンタッキー州ヘイゼルグリーンを確保し、北の部隊は同ウェストリバティを確保した。2部隊はセイラーズビル(リッキング・ステーション)で統合され、10月31日に最終段階に入った。それが11月8日のアイビーマウンテンの戦いであり、11月9日には南軍がパイクビル(パイクトン)から撤退することになった。.

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ピロー砦の戦い

ピロー砦の戦い(ピローとりでのたたかい、Battle of Fort Pillow)また特に北部ではピロー砦虐殺(ピローとりでぎゃくさつ、Fort Pillow Massacre)は、南北戦争中の1864年4月12日に、テネシー州ヘニングのミシシッピ川沿いピロー砦で行われた戦闘である。この戦闘では、降伏したアフリカ系アメリカ人の部隊に対する虐殺が、南軍ネイサン・ベッドフォード・フォレスト少将によって遂行されたのか、あるいは見過ごされたのかについて大きな議論を呼んだ。軍事歴史家のデイビッド・J・アイヒャーは「ピロー砦はアメリカの軍事史の中で最も暗く悲しい出来事の一つとなった」と結論付けた。.

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ピーチツリークリークの戦い

ピーチツリークリークの戦い(ピーチツリークリークのたたかい、英:Battle of Peachtree Creek)は、南北戦争のアトランタ方面作戦の一部として1864年7月20日に、ジョージア州フルトン郡で行われた戦闘である。この戦闘は北軍ウィリアム・シャーマン少将の軍隊として初めてアトランタ防衛軍に掛けられた大きな攻撃だった。戦闘に参加した主力は北軍がジョージ・ヘンリー・トーマス少将の指揮するカンバーランド軍であり、南軍はジョン・ベル・フッド中将の指揮するテネシー軍だった。フッドにとってはテネシー軍指揮官として最初の戦闘だった。.

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ピーリッジの戦い

ピーリッジの戦い(ピーリッジのたたかい、Battle of Pea Ridge、またはエルクホーン酒場の戦い、Battle of Elkhorn Tavern)は、南北戦争中の1862年3月7日から3月8日に、アーカンソー州の北西、ベントンビルに近いピーリッジで行われた戦闘である。この戦闘では、サミュエル・カーティス准将率いる北軍がアール・ヴァン・ドーン少将率いる南軍を破った。その結果、実質的に北軍によるミズーリ州支配が固まった。この戦いの特徴の一つは、南軍が北軍より勢力で上回っていた数少ない戦闘の一つということである。.

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ピードモントの戦い

ピードモントの戦い(ピードモントのたたかい、Battle of Piedmont)は、南北戦争中の1864年6月5日、バージニア州オーガスタ郡ピードモント村で、デイビッド・ハンター少将の指揮する北軍と、ウィリアム・E・"グランブル"・ジョーンズ准将の南軍が対戦した戦闘である。激戦が行われた後で、ジョーンズが戦死し、南軍が潰走した。ハンターは6月6日にスタントンを占領し、間もなくリンチバーグへの進軍を始め、その途中で軍事物資や公共資産を破壊した。.

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ピッグポイントの戦い

ビッグポイントの戦い(Battle of Pig Point)は、南北戦争開戦直後の1861年6月5日に、バージニア州のポーツマスに近いビッグポイントで起きた北軍砲艦と南軍砲台の砲撃戦である。ビッグポイントはハンプトン・ローズに近いナンスモンド川河口にあり、ニューポートニューズからは約5マイル (8 km) の位置にある。サムター砦の戦いで南北戦争が開戦してから特に重要な戦闘も無いままに1か月半が過ぎたときにこの戦闘が起こり、当時は幾らかの注目を受けた。戦闘そのものは決着が付かないものだったが、南軍は北軍砲艦の攻撃を跳ね返し、守備隊の砲撃で砲艦の乗組員5名を負傷させた。南北戦争初期には北軍砲艦と南軍砲台の交戦が幾つか起きたが、この戦闘もそれらと同様に北軍による海上封鎖、特にチェサピーク湾の封鎖に関連して発生した。南軍はそれらに対応して、バージニア州の川を北軍が軍用にも商業用にも利用する可能性を、否定したという動きの一部でもあった。.

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ディンウィディ・コートハウスの戦い

ディンウィディ・コートハウスの戦い(ディンウィディ・コートハウスのたたかい、Battle of Dinwiddie Court House)は、南北戦争も最終盤となった1865年3月31日に、バージニア州ディンウィディ郡で起きた戦闘である。リッチモンド・ピータースバーグ方面作戦の終わりからアポマトックス方面作戦の始まる時期に当たっていた。同じ3月31日に起きたホワイトオーク道路の戦いと共に、ロバート・E・リー将軍の指揮する南軍北バージニア軍による最後の攻勢であり、ユリシーズ・グラント中将が指揮する北軍(ポトマック軍、シェナンドー軍、ジェームズ軍)の進軍を止めようとした。グラント軍は、南軍に残っていた供給線を遮断し、南軍を会戦に引き出して決戦を挑ませることができないまでも、ピーターズバーグからリッチモンドまで構築された防衛前線をさらにその極限まで延伸させるように動いていた。 1865年3月29日、総勢約9,000名ないし12,000名とされる北軍の大騎兵部隊が、南軍前線の西端から約4マイル (6.4 km)、ファイブフォークスにあった道路の重要な交差点の南約5マイル (8 km) にあるディンウィディ・コートハウスに向かった。この部隊をフィリップ・シェリダン少将が指揮し、このときはまだシェナンドー軍と呼ばれていた。トマス・デビン准将の第1師団と、ジョージ・アームストロング・カスター准将(名誉少将)の第3師団で構成されていた。どちらも非公式の軍団長としてウェズリー・メリット准将(名誉少将)の全体指揮下に置かれていた。さらにポトマック軍からこの任務のために派遣されたジョージ・クルック少将の第2師団が付いた。ファイブフォークスはサウスサイド鉄道という南軍の重大な供給線を支配するための重要な交差点だった。3月29日午後の遅い時間にデビンとクルックの師団がディンウィディ・コートハウスに到着したのに対し、カスターの師団は他の2個師団から遅れること約7マイル (11 km) で、立ち往生した輜重隊を守っていた。 3月29日にはまた、ガバヌーア・ウォーレン少将の北軍第5軍団が南軍防衛線の最右翼であるホワイトオーク道路前線の端に移動した。その日に起きたルイス農園の戦いの結果、ウォーレンの軍団が南軍の哨戒線あるいは前進基地陣地の支配権を取り、重要な輸送と通信の経路であるボイドトン板張り道路をクエーカー道路との交差点で抑えた。ウォーレンの軍団は3月30日の1日、前線を前に出し続けたが、3月31日には南軍の急襲によって一時的に後退させられた。31日午後のホワイトオーク道路の戦いでは、部隊を再編した第5軍団がボイドトン板張り道路の陣地を取り戻し、ホワイトオーク道路を通して南軍の防衛前線と、約4マイル (6.4 km) 西のファイブフォークスにいたジョージ・ピケット少将の特任部隊と直接通信する経路を遮断した。31日が終わるとき、第5軍団はシェリダン軍の位置に最も近い歩兵軍団だった。 この3月31日の同じ時間帯に、シェリダンの騎兵隊はファイブフォークスを占領することを目指して、ディンウィディ・コートハウスから北に動いた。このとき南軍のジョージ・ピケット少将の歩兵隊と、フィッツヒュー・リー少将の騎兵隊から攻撃を受けて、防御的な姿勢を強いられた。この日の戦闘では様々な場所でシェリダン軍が押されたが、長く厳しく戦って行動を遅らせ、後退後も組織を保ちながら南軍に数百名の損失を出させた。最終的に輜重隊の護衛任務から解放されて前線に送られたアレクサンダー・C・M・ペニントン・ジュニア大佐とヘンリー・ケイプハート大佐の2個旅団を擁するカスターの師団が援軍となり、シェリダン軍は町の北でその前線を保持することができた。その町の郊外には強力な南軍部隊がいたので、シェリダン軍は夕暮れまで危険な状態にあった。しかしその夜、第5軍団チャールズ・グリフィン准将(名誉少将)の第1師団に属するジョセフ・J・バートレット准将の旅団が、さらにその数時間後にはウォーレンの軍団全軍が動いて、ピケット隊の側面に進むことでピケット隊をファイブフォークスに押し返し、翌日にはその前進した陣地の利点を生かすことができた。4月1日午前7時までに、シェリダンは歩兵1個軍団と自分の騎兵隊を共にファイブフォークスに向けて前進させた。 ホワイトオーク道路の戦いとディンウィディ・コートハウスの戦いは、当初は南軍が成功したものであり、ディンウィディ・コートハウスの場合はその日の終わりの時点で南軍の戦術的勝利と見られたが、最終的に南軍は前線を進めることができず、北軍を弱らせ後退させる、あるいはシェリダン軍を支援部隊から切り離すという戦略的目標も達成しなかった。南軍はこの2つの戦闘で、ただでさえ減退していた軍隊から少なくとも1,560名の損失を出した。この3月31日の両戦闘とその後の部隊の動きにより、翌4月1日のファイブフォークスの戦い、さらに4月2日の第三次ピーターズバーグの戦い(ピーターズバーグの突破とも呼ばれる)で南軍が敗北し、防衛線が崩壊する前段階を作った。4月2日から3日の夜に行われた南軍のピーターズバーグとリッチモンド脱出と、西への行軍を北軍が密に追撃し、最後は1865年4月9日、アポマトックス・コートハウスの戦い後にリーの北バージニア軍降伏に繋がった。.

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フランクリン・ナッシュビル方面作戦

北軍 フランクリン・ナッシュビル方面作戦(フランクリン・ナッシュビルほうめんさくせん、英:Franklin-Nashville Campaign、またはフッドのテネシー方面作戦、英:Hood's Tennessee Campaign)は、南北戦争の終盤1864年秋に、西部戦線のアラバマ州、テネシー州およびジョージア州北部で戦われた一連の戦闘である。南軍ジョン・ベル・フッド中将のテネシー軍がジョージア州アトランタから北に侵攻し、北軍ウィリアム・シャーマン少将の通信線とテネシー州中部を脅かしたが、ジョージ・ヘンリー・トーマス少将の北軍がテネシー州ナッシュビルでフッド軍に対して決定的な勝利を挙げた。.

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フレデリックスバーグの戦い

フレデリックスバーグの戦い(フレデリックスバーグのたたかい、英:Battle of Fredericksburg)は、アメリカ合衆国バージニア州フレデリックスバーグ市の内外で、1862年12月11日から12月15日にかけて、南軍のロバート・E・リー大将の北バージニア軍と北軍のアンブローズ・バーンサイド少将のポトマック軍との間で戦われ、南北戦争の中では最も一方的な結果になった戦闘である。北軍は12月13日に市の背後にある高台で塹壕に入って防御を固めた南軍に対して無益な正面攻撃を繰り返して恐るべき損失を出し、アメリカ連合国の首都リッチモンドへ向かっていたその方面作戦を早期に切り上げることになった。.

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フロントロイヤルの戦い

フロントロイヤルの戦い(Battle of Front Royal、またはガードヒルの戦い あるいはシーダービルの戦い)は、南北戦争の1862年5月23日、南軍ストーンウォール・ジャクソン少将がシェナンドー渓谷で戦ったバレー方面作戦の一部として、バージニア州ウォーレン郡で起きた戦闘である。ジャクソンは渓谷の地形と機動性を生かして自軍をまとめる一方で、敵軍は分割させるという戦略の妙を示した。ジョンソンは敵の側面を衝き、背面を脅かすことで北軍の大部隊を後退させ、しかも自軍の損失を最小に抑えた。.

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ファイブフォークスの戦い

ファイブフォークスの戦い(英:Battle of Five Forks)は、南北戦争の最終盤1865年4月1日にアポマトックス方面作戦の一部としてバージニア州ピーターズバーグの近くディンウィッデイー郡で行われた戦いである。この戦闘は南軍の最終的敗北を決定付けたという意味で、時として「南軍のワーテルロー」と言われることもあり、北軍のフィリップ・シェリダン少将が、南軍ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍のジョージ・ピケット少将と戦った。この戦闘でピケットが敗北したことで、リーがピーターズバーグ周辺の塹壕線を放棄する決断を下す引き金となり、撤退を始めた後の4月9日にアポマトックス・コートハウスで降伏することに繋がっていった。.

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フィルーピーの戦い

フィルーピーの戦い(フィルーピーのたたかい、英:Battle of Philippi、またはフィルーピーの競走、英:The Philippi Races)は、南北戦争の西バージニア方面作戦の一部として、1861年6月3日にバージニア州(現ウェストバージニア州)フィルーピー周辺で行われた戦闘である。南北戦争の東部戦線では初の陸上における組織的な戦闘だったが、重要な戦闘であるというよりも小競り合いに過ぎないとして、軽視されることが多い。.

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ドネルソン砦の戦い

ドネルソン砦の戦い(ドネルソンとりでのたたかい、英:Battle of Fort Donelson)は、南北戦争初期の1862年2月12日から16日に、西部戦線テネシー州西部で行われた戦いである。北軍によるこの砦の占領によって、カンバーランド川は南部への進入経路として開かれ、ユリシーズ・グラント准将は少将に昇進すると共に、それまで目立たずほとんど実績のない者であったのが、「無条件降伏」のグラントと渾名されるようになった。 この戦闘は2月6日のヘンリー砦の占領に続いて起こった。2月12日から13日にかけて、グラントはドネルソン砦に向けて陸路を2マイル (3 km)進み、幾度か小さな威力偵察を行った。2月14日、アメリカ海軍のアンドリュー・H・フット将官が指揮する砲艦隊が艦上の大砲で砦の勢力を減じようとしたが、ドネルソン砦の川に向けた大砲によって大きな損失を蒙り、後退を強いられた。 2月15日、南軍の指揮官ジョン・B・フロイド准将は、砦が囲まれている状況で、グラント軍に対して急襲を掛け、脱出路を開こうとした。攻撃の開始時点では戦場から離れていたグラントは、戦場に到着して兵士を集合させ反撃に移った。フロイドの試みは部分的には成功したものの、怖じ気づいて兵士達を塹壕の中に呼び戻した。 2月16日の朝、フロイドとその副官ギデオン・J・ピロー准将は二人とも、指揮権をサイモン・B・バックナー准将に渡し、バックナーがグラントからの無条件降伏を受け入れた。.

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ドルーリーズブラフの戦い

ドルーリーズブラフの戦い(ドルーリーズブラフのたたかい、英:Battle of Drewry's Bluff、またはダーリング砦の戦い、英:Battle of Fort Darling、またはドルーリー砦の戦い、英:Battle of Fort Drewry)は、南北戦争初期の1862年5月15日、バージニア州チェスターフィールド郡で、半島方面作戦の一部として行われた戦闘である。鉄装甲艦USSモニターやUSSガリーナを含む5隻の北軍海軍の砲艦がジェームズ川を遡り、アメリカ連合国の首都リッチモンドの防御度を試そうとした。この戦隊は水面下の障害物に苦しめられ、ドルーリーズブラフ砲台からの恐ろしく正確な砲撃に遭ってガリーナが大破した。北軍戦隊は撤退した。.

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ニューマーケットの戦い

ニューマーケットの戦いニューマーケットのたたかい、英:Battle of New Market)は、南北戦争で1864年のバレー方面作戦の1864年5月15日、バージニア州シェナンドー郡で行われた戦いである。バージニア士官学校の士官候補生部隊が南軍と共に戦い、北軍フランツ・シーゲル少将の部隊をシェナンドー渓谷から追い出すことになった。.

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ニューバーンの戦い (南北戦争)

ニューバーンの戦い(ニューバーンのたたかい、英:Battle of New Bern、またはBerne)は、南北戦争初期の1862年3月14日に、アンブローズ・バーンサイド准将のノースカロライナ州遠征の一部としてニューバーン市近くで行われた戦闘である。バーンサイドの率いる北軍海岸師団には北大西洋封鎖戦隊から武装艦船が従っていた。対抗して守る南軍はローレンス・O・ブランチ准将の指揮するノースカロライナ軍と民兵隊だったが、勢力で劣り、訓練も足りていなかった。守備隊はこの戦闘よりも随分前に設けられていた胸壁の背後で戦ったが、その前線には中央に弱点があり、そこを北軍兵の攻撃で衝かれた。前線のその中央が突破された時、民兵隊の多くが崩壊し、南軍は総退却を強いられることになった。ブランチ将軍は30マイル(50 km) 離れたキンストンまで退却してやっとその部隊の統制を取り戻すことができた。ニューバーンは北軍の支配下に入り、それは戦争の残り期間も続いた。.

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ニューメキシコ作戦

ニューメキシコ作戦(New Mexico Campaign)は、1862年2月から3月までの南北戦争における軍事作戦。アメリカ連合国軍のヘンリー・ホプキンス・シブレー准将が、コロラド州の金鉱とカリフォルニア州の港湾を含むアメリカ南西部での支配力を増すことを目的に、ニューメキシコ準州北部に侵攻した。歴史的には、アメリカ西部の支配を強めたことと、南北戦争の戦域を大きく広げたという点で、連合国軍によるもっとも野心的な試みと位置づけられている。.

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ニューオーリンズの戦い (南北戦争)

ニューオーリンズの戦い(ニューオーリンズのたたかい、英:Battle of New Orleans)は、南北戦争の初期1862年4月25日-5月1日に北軍がルイジアナ州ニューオーリンズを無血で占領した戦いである。その前に南軍のジャクソン砦とセントフィリップ砦に対して戦った後、北軍はニューオーリンズ市そのものは抵抗無く占領し、南部の多くの都市が蒙ったような破壊も免れた。しかし、その軍政府長官による堅く厳しい管理によって不満が続くことになった。この南部最大の都市の占領は南北戦争の転回点となり、国際関係でも重要な出来事となった。.

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ホワイトオーク道路の戦い

ホワイトオーク道路の戦い(ホワイトオークどうろのたたかい、Battle of White Oak Road、またはハッチャーズランの戦い、グレイブリーランの戦い、ボイドトン板張り道路の戦い、ホワイトオーク尾根の戦い)は、南北戦争も最終盤となった1865年3月31日に、バージニア州ディンウィディ郡で起きた戦闘である。リッチモンド・ピータースバーグ方面作戦の終わりからアポマトックス方面作戦の始まる時期に当たっていた。同じ3月31日に起きたディンウィディ・コートハウスの戦いと共に、ロバート・E・リー将軍の指揮する南軍北バージニア軍による最後の攻勢であり、ユリシーズ・グラント中将が指揮する北軍(ポトマック軍、シェナンドー軍、ジェームズ軍)の進軍を止めようとした。グラント軍は、南軍に残っていた供給線を遮断し、南軍を会戦に引き出して決戦を挑ませることができないまでも、ピーターズバーグからリッチモンドまで構築された防衛前線をさらにその極限まで延伸させるように動いていた。 1865年3月29日、ガバヌーア・ウォーレン少将の北軍第5軍団が南軍防衛線の最右翼であるホワイトオーク道路前線の端に移動した。その日に起きたルイス農園の戦いの結果、ウォーレンの軍団が南軍の哨戒線あるいは前進基地陣地の支配権を取り、重要な輸送と通信の経路であるボイドトン板張り道路をクエーカー道路との交差点で抑えた。ウォーレンの軍団はフィリップ・シェリダン少将の部隊(シェナンドー軍)に最も近い歩兵部隊だった。シェリダン軍は南軍前線の端から西に約4マイル (6.4 km) のディンウィディ・コートハウスに移動しており、ファイブフォークスのすぐ南にあったBearss, 2014, p. 432.

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ホワイトオーク湿地の戦い

ホワイトオーク湿地の戦い(ホワイトオークしっちのたたかい、Battle of White Oak Swamp)は、南北戦争2年目の1862年6月30日、七日間の戦い(半島方面作戦)の一部としてバージニア州ヘンライコ郡で起きた戦闘である。北軍ポトマック軍が南東のジェームズ川方向に後退するに従い、ウィリアム・B・フランクリン少将が指揮するその後衛部隊が、ホワイトオーク橋の渡しでストーンウォール・ジャクソン師団の進軍を止めさせ、砲撃戦となった。一方2マイル (3 km) 南のフレイザー農園では、グレンデイルの戦いという大きな会戦が起こっていた。ホワイトオーク湿地の戦いは通常大きなグレンデイルの戦いの一部だと見なされている。フランクリンの第6軍団に抵抗されたために、ジャクソンはロバート・E・リー将軍から命じられていたグレンデイルで北軍に対して統合して攻撃を掛けるという作戦に加われなかった。このホワイトオーク湿地の戦いは決着が付けられなかった。北軍は崩壊を避けられ、マルバーンヒルで強力な防御陣地を布くことが可能になった。.

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ホワイトストーンヒルの戦い

ホワイトストーンヒルの戦い(Battle of Whitestone Hill)は、1863年にアメリカ合衆国ダコタ準州で起きた対スー族戦争の最終段階の戦闘である。9月3日から5日、アメリカ陸軍アルフレッド・サリー准将の指揮する部隊が、インディアンの集落を攻撃した。その集落に居たインディアンは、ヤンクトナイ族、サンティ族、テトン・スー族だった。サリーは女性と子供を含め300ないし400人のインディアンを殺し、あるいは負傷させ、捕虜にした。サリーの部隊の損失は約60名だった。サリーは1864年にもスー族に対する作戦を続けることになった。.

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ホーズショップの戦い

ホーズショップの戦い(ホーズショップのたたかい、Battle of Haw's Shop、またはエノン教会の戦い、Battle of Enon Church)は、南北戦争の4年目に入った1864年5月28日、バージニア州ハノーバー郡で、北軍ユリシーズ・グラント中将のオーバーランド方面作戦の中で、南軍ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍と対抗した戦闘である グラントは5月23日から26日に行われたノースアンナの戦いに続く膠着状態を放棄し、再度リー軍の右翼を大きく回り込んで、パムンキー川を遮蔽にして南西に動いた。リー軍は真っ直ぐ南に動き、トトポトミー・クリークの南岸に陣地を採った。南軍はウェイド・ハンプトン少将の指揮する騎兵隊を派遣して、グラントの次の動きに関する情報を集めさせた。5月28日、ハンプトン隊がデイビッド・マクマートリー・グレッグ准将の指揮する北軍騎兵隊に遭遇した。それに続いた戦闘で騎兵が馬を降り、防御のために土盛り工作物を使ったものとなり、両軍とも勝利に繋がるものを得られなかった。グレッグはアルフレッド・T・A・トーバート准将師団の2個旅団、およびジョージ・アームストロング・カスター准将の旅団の援軍を受け、渾身の攻撃を掛けたが、その時にハンプトンは撤退の命令を出していた。 7時間続いた戦闘では決着が付かなかったが、オーバーランド方面作戦の中では2番目に重要な騎兵戦となり、この戦争の中でも犠牲の多いものとなった。両軍ともに勝利を主張した。北軍フィリップ・シェリダン少将が指揮する騎兵軍団は、ハンプトン隊を戦場から駆逐し、北軍騎兵隊の優秀さを示したと豪語した。しかし、ハンプトンは北軍騎兵隊の攻撃を7時間持ち堪え、その偵察対象に当たることを阻止し、グラント軍の配置についての貴重な情報をリー将軍に伝えることができた。.

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ダビドソン砦の戦い

在のダビドソン砦跡、右奥に火薬庫爆発によるクレーターが見られる。パイロット・ノブは後景の丘 ダビドソン砦の戦い(ダビドソンとりでのたたかい、Battle of Fort Davidson、またはパイロット・ノブの戦い、Battle of Pilot Knob)は、南北戦争の終盤に入った1864年9月27日、プライスのミズーリ襲撃では緒戦となった戦闘である。ミズーリ州アイアン郡のパイロット・ノブ市のすぐ外で起こった。北軍のダビドソン砦守備隊は勢力で1対10以上にも劣りながら、南軍の繰り返された襲撃を撃退し、夜の間に南軍の包囲線にあった隙間に付け込んで砦から脱出することに成功した。翌日、南軍は砦を占領したが、プライスは兵員も弾薬も消耗させており、南部のためにセントルイスを占領するという目標を諦めることになった。.

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ベルモントの戦い

ベルモントの戦い(ベルモントのたたかい、Battle of Belmont)は、南北戦争の序盤、1861年11月7日にミズーリ州ミシシッピ郡で行われた戦闘である。北軍の准将、後に総司令官となり、最後はアメリカ合衆国大統領にもなったユリシーズ・グラントにとって西部戦線で最初の試金石となる戦闘であった。 11月6日、グラントはイリノイ州カイロから船でケンタッキー州コロンバスにある南軍の要塞攻撃に向かった。翌朝、南軍はミシシッピ川を渡ってミズーリ州ベルモントにいることが分かった。グラントは部隊をミズーリ州側に上陸させて、ベルモントに向けて行軍させた。グラント郡は南軍キャンプを占領して破壊した。しかし、散り散りになっていた南軍が直ぐに再編されコロンバスから援軍も到着した。南軍は対岸からの激しい砲撃にも支えられて反撃した。グラントは部隊を川舟まで後退させ、ケンタッキー州パデューカまで移動した。この戦闘の規模は小さかったが、当時他の場所では戦争の進展が無く、新聞で大いに注目された。.

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ベントンビルの戦い

ベントンビルの戦い(ベントンビルのたたかい、英:Battle of Bentonville)は、南北戦争の終盤カロライナ方面作戦の一部として、1865年3月19日から21日にノースカロライナ州のベントンビル(現在はフォーオークス近く)で起こった戦いである。北軍ウィリアム・シャーマン少将と南軍ジョセフ・ジョンストン将軍の間で戦われた最後の大会戦だった。ジョンストンは、この戦闘の圧倒的な敵兵力と自軍が蒙った比較的大きな損失に照らして、1ヶ月足らず後にダーラム駅近くのベネットプレースでシャーマンに降伏した。4月始めのロバート・E・リー将軍の降伏に続いてジョンストン軍の降伏は実質的な終戦を意味していた。.

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ベア川の虐殺

ベア川の虐殺(ベアかわのぎゃくさつ、英:Bear River massacre、またはベア川の戦い、英:Battle of Bear River、またはボア・オゴイの虐殺、英:Massacre at Boa Ogoi)は、1863年1月29日に、当時のワシントン準州南東部ベア川とビーバー・クリーク(現在のバトル・クリーク)の合流点で、アメリカ陸軍が、女・子供を含むショーショーニー族インディアンを無差別虐殺した軍事行動である。 この戦場跡は現在、アイダホ州フランクリン郡プレストン市近くに位置する。アメリカ陸軍分遣隊はショーショーニー族に対抗するベア川遠征の一部としてパトリック・エドワード・コナー大佐に率いられた。.

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アポマトックス・コートハウスの戦い

アポマトックス・コートハウスの戦い(アポマトックス・コートハウスのたたかい、英:Battle of Appomattox Courthouse)は、南北戦争の最終盤1865年4月9日にアポマトックス方面作戦の最後としてバージニア州アポマトックス郡で行われた戦いである。この戦闘での敗北の結果、南軍ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍は、北軍ユリシーズ・グラントに降伏し、南北戦争を事実上終わらせることになった。.

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アポマトックス駅の戦い

アポマトックス駅の戦い(アポマトックスえきのたたかい、Battle of Appomattox Station)は、南北戦争も最終盤となった1865年4月8日に、バージニア州アポマトックス郡のファームビル近くで起きたアポマトックス方面作戦でも最後から2番目の戦闘である。北軍はジョージ・アームストロング・カスター准将(名誉少将)が指揮する騎兵師団、南軍はリューベン・リンゼイ・ウォーカー准将が指揮する北バージニア軍砲兵隊に下馬した騎兵とマスケット銃で武装した砲兵、さらには幾らかの落伍兵の支援がある部隊が戦った。 1865年4月1日からの2日間で、ファイブフォークスの戦い、第三次ピーターズバーグの戦い、サザランド駅の戦いが続いた後で、ロバート・E・リー将軍の指揮する南軍北バージニア軍は、長期にわたって守っていたピーターズバーグから撤退した。北軍はこれを時には並行し、時には後を追う形で西に向かって密に追撃した。南軍は物資や食料が不足し始めており、特に4月6日に起きたセイラーズクリークの戦いの前後で、脱走、落伍および戦闘そのもので多くの戦力を失って行った。4月7日のカンバーランド教会の戦いの後、リー軍は3夜連続で行軍を続け、北軍より少しでも前に出ようとしていた。フィリップ・シェリダン少将の指揮する北軍騎兵軍団がアポマトックス駅で南軍の輜重隊を捕獲するために、4月8日に長駆約30マイル (48 km) を馬で走り、南軍より前に出て、その退路を塞いだ。 4月8日午後2時から3時、アポマトックス駅での戦闘が始まったとき、ニューヨーク第2騎兵連隊K中隊の前衛隊が、北バージニア軍のためにリンチバーグから食料、弾薬、その他物資を積んで送られてきた無防備な列車3編成に乗り込み、その降伏を強いた。この連隊の他の兵士やアレクサンダー・ペニントン・ジュニア大佐旅団の兵士がその支援のために駅に入った。鉄道を走らせた経験のある兵士が約5マイル (8 km) 東にあったジェームズ軍の宿営所まで、その3編成の貨車を走らせた。4台目の機関車と1両か2両の貨車が脱出してリンチバーグに向かい、少なくとも1両の残された貨車が燃やされた。 南軍北バージニア軍第3軍団砲兵隊長リンゼイ・ウォーカー准将の指揮する予備砲兵隊が、駅の近く、リンチバーグ駅馬車道沿いに駐屯していた。この砲兵隊をマーティン・ゲイリー准将の指揮する約500名の騎兵が護衛し、さらにクリスピン・ディッケンソン大尉のリングゴールド大隊とデイビッド・ウォーカー大尉のオティ大隊の砲兵がマスケット銃で再装備して支援し、リングゴールド大隊のW・F・ロビンソン中尉が付近で集めた落伍兵も幾らかいた。ウォーカー准将は駅に北軍が居ることを知ると直ぐに、駅に向かっての砲撃を始めた。カスター隊は約2マイル (3.2 km) 離れた位置から、その砲声の発信源を突き止め、リンチバーグ駅馬車道近くにあったウォーカー砲兵隊の駐屯所を攻撃した。ウォーカー隊は約25門の大砲を半円状に並べて自隊を守り、さらに35ないし73門の大砲を予備に置いて、そこに集中していた。 北軍騎兵隊は補給列車を捕獲した後で、南軍の砲兵大隊とそれを支援する下馬した騎兵、武装した砲兵と工兵、さらに歩兵の落伍兵の集団を攻撃した歴史家のクリス・カルキンスは、マーティン・ゲイリー准将の騎兵500名が、リューベン・リンゼイ・ウォーカー准将砲兵隊にとって唯一の支援部隊であり、ウォーカーは下馬した騎兵を大砲の両側に置いた、と述べている。しかし、カルキンスは、ウォーカーの砲兵の多くがマスケット銃で武装しており、狙撃兵として行動したとも記した。この戦闘時にウォーカーの傍には正規の歩兵部隊が居なかったが、リングゴールド大隊のW・F・ロビンソン中尉が付近で集めた落伍兵がいた。 Calkins, Chris.

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アポマトックス方面作戦

アポマトックス方面作戦(アポマトックスほうめんさくせん、英:Appomattox Campaign)は、南北戦争の1865年3月と4月に、バージニア州で行われた一連の戦闘である。南軍将軍ロバート・E・リーの北バージニア軍が降伏し、南北戦争を実質的に終わらせることになった。.

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アメリア・スプリングスの戦い

アメリア・スプリングスの戦い(アメリア・スプリングスのたたかい、Battle of Amelia Springs)は、南北戦争も最終盤となった1865年4月5日に、バージニア州アメリア郡で起きたアポマトックス方面作戦の戦闘である。4月2日に起きた第三次ピーターズバーグの戦い(ピーターズバーグの突破、あるいはピーターズバーグの陥落とも呼ばれる)の後で、アメリカ連合国の首都リッチモンド市とピーターズバーグ市が陥落し、両市を脱出した南軍(北バージニア軍とリッチモンドの防衛軍)が西方に逃亡し、これを追撃した北軍(ポトマック軍、シェナンドー軍、ジェームズ軍)との戦闘になった。戦闘は4月5日日中と、その夜から翌6日朝にかけての2回、ほぼ同じ場所で行われた。この戦闘は、翌6日のセイラーズクリークの戦いと共に、ユリシーズ・グラント中将が全軍指揮する北軍と、ロバート・E・リー将軍の指揮する南軍北バージニア軍との間の最後の会戦とされ、4月9日のアポマトックス・コートハウスの戦い後にリーの北バージニア軍降伏に繋がった。 1865年4月5日、南軍マーティン・ゲイリー准将の指揮する騎兵隊が、フィッツヒュー・リー少将の全体指揮下にあるトマス・ロッサー少将とトマス・T・マンフォード大佐の師団の騎兵から支援を受け、北軍ヘンリー・E・デイビース・ジュニア准将の率いる騎兵1個旅団に反撃したDavis, Burke, 1981 ed., p. 231.

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アンティータムの戦い

アンティータムの戦い(アンティータムのたたかい、英:Battle of Antietam、またはシャープスバーグの戦い(Battle of Sharpsburg、特に南部での呼び方))は、南北戦争の中盤1862年9月17日、メリーランド方面作戦の一環としてメリーランド州シャープスバーグ近く、およびアンティータム・クリークで行われた戦闘であり、北部の大地で行われたことでは南北戦争で初めての主要会戦であった。両軍合わせて約23,000名の損失があり、合衆国の歴史の中でも単一日の戦闘として最も流血の多い戦闘となった。 北軍のジョージ・マクレラン少将はメリーランドにロバート・E・リー将軍の南軍を追求した後で、アンティータム・クリークの背後に防御陣を築いた北バージニア軍に対する攻撃を掛けた。9月17日の夜明け、北軍ジョセフ・フッカー少将の軍団が、北バージニア軍の左翼に強攻を掛けた。ミラーのトウモロコシ畑で攻撃と反撃が続き、戦闘はダンカー教会の回りにも及んだ。窪んだ道路に対して行われた北軍の突撃が南軍の中央を後退させることになったが、北軍も右翼の2人の軍団長が共に戦死・負傷して後退しており、戦闘は予断を許さなかった。午後になって、北軍アンブローズ・バーンサイドの軍団が戦闘に突入し、アンティータム・クリークに架かる石橋を確保した後、南軍の右翼に向けて前進した。この重要な局面に、ハーパーズ・フェリーから南軍A・P・ヒルの師団が到着し、急襲を掛けてバーンサイド軍を押し返し、戦闘を終わらせた。 両軍とも最初多くの部隊を予備にし、順次投入する戦術を取った。その結果南軍は最終的に予備を使い切ったが、マクレランは自軍の4分の1程度の予備を最後まで残した。北バージニア軍は数の上では1対2と負けていたが、地形をうまく利用して北軍と対等に渡り合えた。夜の間に両軍共その戦線を集約した。北バージニア軍は相当な損失を被り、9月18日の1日中ポトマック軍との小競り合いを続けたが、有利な地形を北軍に奪取された状態ではもはや北軍に打撃を与えるチャンスはなく、その間に疲れ切った軍隊は川の南に退いた。 ポトマック軍に数の優位があったにも関わらず、北バージニア軍が撤退を選ばずにここで戦ったのは、地形を利用することでポトマック軍を破れると考えていたためである。しかしマクレランは適切な順序で順次南軍の弱点を突いていき、南軍の逆転を許さなかった。マクレランは、ここでは戦術的大勝利を狙うことよりも、確実に勝つことが重要であることを知っていたため、最後まで予備部隊を残し事態の急変に備えた。これにより北バージニア軍を壊滅させることはなかったが、北バージニア軍のメリーランド侵攻は終わり、リーはバージニア州内に軍隊を引き上げざるを得なくなった。この戦闘は戦術的な勝利の意味よりも、エイブラハム・リンカーンが奴隷解放を宣言する自信を得たことで、北軍にとって戦略的な勝利の意味がはるかに大きかった。.

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アーカンソー・ポストの戦い

アーカンソー・ポストの戦い(アーカンソー・ポストのたたかい、英:Battle of Arkansas Post、またはハインドマン砦の戦い、英:Battle of Fort Hindman)は南北戦争のビックスバーグ方面作戦の一部として、1863年1月9日から11日にかけて、アーカンソー州アーカンザス川河口近くのアーカンソー・ポストで行われた戦闘である。.

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アトランタの戦い

アトランタの戦い(アトランタのたたかい、英:Battle of Atlanta)は、南北戦争のアトランタ方面作戦の一部として1864年7月22日に、ジョージア州フルトン郡アトランタの直ぐ南東で行われた戦闘である。この方面作戦の最後を示すような戦闘名ではあるが、実際には作戦の中間で起こり、アトランタの陥落まではまだ6週間を要した。.

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アトランタ方面作戦

ポッターハウスの前の防柵と逆茂木。1864年撮影 アトランタ方面作戦(アトランタほうめんさくせん、英:Atlanta Campaign)は、1864年の夏に、南北戦争の西部戦線で、ジョージア州北西部とアトランタ周辺で行われた一連の戦闘である。最終的にアトランタが陥落し、終戦への道を歩み始めた。.

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アイランドNo.10の戦い

アイランドNo.10の戦い(アイランドNo.10のたたかい、英:Battle of Island Number Ten、またはニューマドリードの戦い、英:Battle of New Madrid)は、南北戦争初期の1862年2月28日から4月8日に、西部戦線ミズーリ州とテネシー州の州境近くミシシッピ川で行われた戦いである。北軍の陸軍と海軍が島を包囲して占領し、ミシシッピ川の支配権を確保した。.

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アキアクリークの戦い

アキアクリークの戦い(Battle of Aquia Creek)は、南北戦争開戦直後の1861年5月29日から6月1日に、バージニア州のスタフォード郡で起きた北軍砲艦と南軍砲台の砲撃戦である。南軍は北軍の艦船や商船がチェサピーク湾に入り、ポトマック川下流を上がってこないよう、また防衛のために、岸に幾つかの砲台を築いた。アキア・クリークの砲台はそこにある鉄道終着駅の防衛も兼ねていた。北軍は南部州海岸、特にチェサピーク湾港の封鎖のためにこれら砲台を破壊し取り除こうとしていた。この戦闘そのものは決着が付かなかった。両軍はほとんど損傷を与えられず、双方に大きな損失は生じなかった。北軍の艦艇は南軍をその陣地から排除できず、守備隊に損傷を与えられず、砲台にも重大な被害を及ぼせなかった。砲台に入っていた南軍は北軍とその艦船に重大な損傷を与えられなかった。この戦闘から間もない1861年7月7日日曜日、南軍はアキアランディング砲台沖で初めて機雷を使ったが成功しなかった。1862年3月9日、北軍による半島方面作戦による脅威に対応するために、南軍はこの砲台から部隊を移動させ、砲台を放棄することになった。アメリカ合衆国国立公園局は、この戦闘を南北戦争の主要戦闘384件の1つに加えている。.

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イウカの戦い

イウカの戦い(イウカのたたかい、英:Battle of Iuka)は、南北戦争初期の1862年9月19日に、ミシシッピ州イウカで行われた戦いである。イウカ・コリンス方面作戦の最初の戦闘であり、北軍ウィリアム・ローズクランズ少将が南軍スターリング・プライス少将の進軍を止めた。.

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イェロータバンの戦い

イェロータバンの戦い(イェロータバンのたたかい、英:Battle of Yellow Tavern)は、南北戦争のオーバーランド方面作戦の一部として、1864年5月11日に行われた戦闘である。北軍と南軍の騎兵隊が衝突し、伝説的南軍騎兵の指揮官J・E・B・スチュアート少将が瀕死の重傷を負ったことで最も良く知られている。.

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ウィリアムズバーグの戦い

ウィリアムズバーグの戦い(ウィリアムズバーグのたたかい、英:Battle of Williamsburg)は、南北戦争初期の1862年5月5日、バージニア州ヨーク郡、ジェームズシティ郡およびウィリアムズバーグで、半島方面作戦の一部として行われた戦闘である。半島方面作戦では最初の会戦であり、41,000名の北軍(ポトマック軍)と32,000名の南軍が戦い、決着は付かず、南軍が撤退を続けることになった。 1ヶ月続いたヨークタウンの包囲戦から南軍が撤退した後で、北軍ジョセフ・フッカー准将の師団がウィリアムズバーグ近くで南軍の後衛に遭遇した。フッカーはウィリアムズバーグ道路に沿った土盛りのマグルーダー砦を攻撃したが撃退された。ジェイムズ・ロングストリート少将が指揮した南軍の反撃は北軍の左側面を圧倒する怖れがあったが、フィリップ・カーニーの師団が到着し北軍の陣地を安定させた。続いてウィンフィールド・スコット・ハンコック准将の旅団が動いて南軍の左側面を脅かし、放棄されていた2つの堡塁を確保した。南軍は反撃したが不成功だった。ハンコックの局所的な成功は生かされなかった。南軍は夜の間にリッチモンド方向への撤退を続けた。.

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ウィルミントンの戦い

ウィルミントンの戦い(ウィルミントンのたたかい、Battle of Wilmington)は、南北戦争の終戦が見えてきた1865年2月11日から22日に、そのほとんどがノースカロライナ州ウィルミントン市郊外で行われた戦闘である。1月に第二次フィッシャー砦の戦いで北軍が勝利したことにより、砦から30マイル (48 km) 上流のウィルミントン市は、もはや南軍の港として使われなくなっていた。市の南にあるケープフェア川に沿った南軍の防御陣が落ちた後で、ウィルミントン市は北軍に占領された。南軍のブラクストン・ブラッグ将軍は物資や装備が北軍の手に落ちないよう、市から脱出する前に、特にタバコや綿花の保管物を燃やした。.

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ウィルソンの襲撃

ウィルソンの襲撃(ウィルソンのしゅうげき、英:Wilson's Raid)は、南北戦争の最終盤、1865年3月から4月にアラバマ州からジョージア州で行われた北軍騎兵隊の作戦行動である。ジェイムズ・H・ウィルソン准将が北軍の騎兵軍団を率い、南部の製造施設を破壊し、南軍ネイサン・ベッドフォード・フォレスト中将のかなり小さな部隊の抵抗を受けたが、これを寄せ付けなかった。.

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ウィルソンズ・クリークの戦い

ウィルソンズ・クリークの戦い(ウィルソンズ・クリークのたたかい、英:Battle of Wilson's Creek、またはオークヒルズの戦い、英:Battle of Oak Hills)は、南北戦争の初期1861年8月10日に、ミズーリ州スプリングフィールド近くで北軍とミズーリ州兵との間で行われた戦闘である。これはミシシッピ川より西で行われた最初の主要会戦であり、「西のブルラン」と呼ばれることもある。 ナサニエル・ライアン准将の西部軍はスプリングフィールドで宿営しており、ベンジャミン・マカロック准将指揮下の南軍が接近していた。8月9日、両軍はそれぞれ敵に対する作戦を立てた。8月10日の午前5時頃、ライアンとフランツ・シーゲル大佐が指揮する2部隊が、スプリングフィールドより12マイル (19 km) 南西のウィルソンズ・クリークで南軍を攻撃した。南軍の騎兵隊が最初の打撃を受けてブラディヒルから後退した。南軍が間もなく駆け付けてその陣地を安定させた。 南軍はその日3度攻撃したが、北軍の前線を突き破れなかった。ライアンがこの戦闘で戦死し、サミュエル・D・スタージス少佐が指揮を引き継いだ。一方、南軍はスケッグズブランチの南でシーゲルの部隊を潰走させた。午前11時に終わった南軍の3回目の攻撃後、南軍は後退した。しかし、スタージスは部隊兵が消耗しており、弾薬が尽き掛けていることを認識したので、スプリングフィールドへの撤退を命令した。南軍はあまりに乱れており、装備も悪かったので追撃できなかった。この南軍の勝利でミズーリ州の南部同調者を元気づけ、プライスとそのミズーリ州兵がレキシントンまで北に大胆な押し出しを行う弾みになった。10月遅く、クレイボーン・フォックス・ジャクソン知事が招集した残党の集会がネオショで開かれ、脱退条例を可決した。ウィルソンズ・クリークは1861年のミズーリ州で最も重要な戦闘となり、南軍はミズーリ州南西部を支配することになった。.

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ウィルソン桟橋の戦い

ウィルソン桟橋の戦い(ウィルソンさんばしのたたかい、Battle of Wilson's Wharf、またはポカホンタス砦の戦い、Battle of Fort Pocahontas)は、南北戦争の4年目に入った1864年5月24日、北軍ユリシーズ・グラント中将のオーバーランド方面作戦の中で、南軍ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍と対抗した戦闘である。 南軍フィッツヒュー・リー少将の騎兵師団(約2,500名)が、バージニア州チャールズシティの東、ジェームズ川沿いのウィルソン桟橋にあった北軍の補給所を攻撃した。しかし、そこに砦を建設中だったエドワード・A・ワイルド准将の指揮する、アメリカ合衆国有色人部隊のアフリカ系アメリカ人2個連隊(約1,100名)に撃退されることになった。砦は後にポカホンタス砦と命名された。この戦闘はロバート・E・リーの北バージニア軍がアフリカアメリカ人の部隊と初めて対戦した戦闘となった。.

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ウェインズボロの戦い (バージニア州)

ウェインズボロの戦い(ウェインズボロのたたかい、Battle of Waynesboro)は、南北戦争も最終盤となった1865年3月2日に、バージニア州オーガスタ郡のウェインズボロで起きた戦闘である。南軍のジュバル・アーリー中将の部隊が破壊され、アーリーとしては最後の戦闘になった。.

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ウェストポートの戦い

ウェストポートの戦い(ウェストポートのたたかい、英:Battle of Westport)は、時としてミズーリ州のゲティスバーグとも呼ばれ、南北戦争中の1864年10月23日に、現在のミズーリ州カンザスシティで行われた戦闘である。サミュエル・R・カーティス少将指揮する北軍が、スターリング・プライス少将指揮する勢力で劣る南軍に対して決定的な勝利を挙げた。この戦闘はプライスのミズーリ州遠征の転回点となり、プライス軍はアーカンソー州を抜けて撤退することになった。.

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ウォーハッチーの戦い

ウォーハッチーの戦い(ウォーハッチーのたたかい、Battle of Wauhatchie)は、南北戦争3年目の1863年10月28日と29日、テネシー州ハミルトン郡とマリオン郡、およびジョージア州デイド郡で起きた戦闘である。北軍はテネシー川のブラウン渡しを確保し、チャタヌーガにいる北軍部隊への供給線を開いた。南軍は渡し場を守る北軍を排除して、再度供給線を止めようとしたが、敗北した。ウォーハッチーは南北戦争の中でも数少ない夜戦の1つである。.

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エリザベスシティの水上戦

リザベスシティの水上戦(エリザベスシティのすいじょうせん、英:Battle of Elizabeth City)は、南北戦争初期の1862年2月10日、ノースカロライナ州エリザベスシティ近くのパスクォタンク川で行われた戦闘である。北軍北大西洋封鎖戦隊の艦船が南軍モスキート戦隊の艦船と対抗した。南軍はエリザベスシティの南東境界近く、コブスポイント(現在はコブ・ポイントと呼ばれる)にあった4門の大砲からなる岸の砲台からの支援もあった。この戦闘は北軍陸軍のアンブローズ・バーンサイド少将が率い、バーンサイド遠征とも呼ばれたノースカロライナ州での作戦の一部だった。結果は北軍の勝利となり、エリザベスシティとその周辺水系を北軍が抑え、南軍の艦艇は捕獲、沈没または逃散ということになった。.

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オペクォンの戦い

ペクォンの戦い(オペクォンのたたかい、英:Battle of Opequon、より一般的には第三次ウィンチェスターの戦い、英:Third Battle of Winchester)は、南北戦争の終盤、1864年のバレー方面作戦の一部として9月19日にバージニア州ウィンチェスターで行われた戦闘である。 南軍のジュバル・アーリー中将軍がウェストバージニア州マーティンズバーグでボルティモア・アンド・オハイオ鉄道を襲撃したので、北軍のフィリップ・シェリダン少将は第6軍団と第19軍団を伴い、ベリービル・パイクを通ってウィンチェスターに向けて進軍し、オペクォン・クリークを越えた。北軍の進軍が遅れてその間にアーリーは自軍を集結できるだけの時間が取れ、主力による猛攻を行って、戦いは数時間続いた。両軍の損失は大きかった。南軍の前線は次第にウィンチェスターの町の方向に後退させられた。午後半ばに、第8軍団と騎兵隊が南軍の左側面に回りこんだ。アーリーは総退却を命じた。両軍共にその規模、戦いの激しさ、さらには将官クラスの重大な損失とその後の影響の故に、多くの歴史家達はこの戦闘をシェナンドー渓谷における最も重要な戦闘と考えている。.

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オラスティの戦い

ラスティの戦い(オラスティのたたかい、Battle of Olustee)は、南北戦争中の開戦から3年にならんとする1864年2月20日、フロリダ州ベイカー郡で起きた戦闘である。南北戦争の中でフロリダ州では最大の戦闘となった。.

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オーバーランド方面作戦

ーバーランド方面作戦(英:Overland Campaign、またはWilderness Campaign)は、南北戦争の1864年5月と6月に、バージニア州で行われた一連の戦闘である。北軍の総司令官ユリシーズ・グラント中将は、ジョージ・ミード少将のポトマック軍やその他の軍隊を指揮して、南軍将軍ロバート・E・リーの北バージニア軍に対する戦いを仕掛けた。グラントはこの方面作戦中、夥しい損失と何度も戦術的な敗北を喫したが、リー軍をピーターズバーグで動きの取りにくい状態に追い込んだことで戦略的には北軍の勝利と考えられている。.

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オールドチャーチの戦い

ールドチャーチの戦い(オールドチャーチのたたかい、Battle of Old Church、またはマタデクィンクリークの戦い、Battle of Matadequin Creek)は、南北戦争の4年目に入った1864年5月30日、バージニア州ハノーバー郡で、北軍ユリシーズ・グラント中将のオーバーランド方面作戦の中で、南軍ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍と対抗した戦闘である 両軍がトトポトミー・クリークを挟んで対峙したとき、アルフレッド・T・A・トーバート准将の指揮する北軍騎兵師団が、オールドチャーチ交差点に近いマタデクィン・クリークでマシュー・C・バトラー准将の南軍騎兵旅団と衝突した。下馬した両軍騎兵の間に激しい戦闘が起きた後、数に劣る南軍がオールドコールドハーバーから1.5マイル (2.4 km) 以内まで後退を強いられた。翌日には北軍がその重要な交差点を抑えることになった。.

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カロライナ方面作戦

ライナ方面作戦(カロライナほうめんさくせん、英:Carolinas Campaign)は、南北戦争の終盤1865年初めの、西部戦線最後の方面作戦だった。1865年1月北軍ウィリアム・シャーマン少将はジョージア州サバンナから北上し、両カロライナ州を通ってバージニア州の北軍との合流を目指した。3月のベントンビルの戦いでジョセフ・ジョンストン将軍の南軍が敗北し、4月に降伏したことで、南軍の最後の戦力が消失したことを意味した。.

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カンバーランド教会の戦い

ンバーランド教会の戦い(カンバーランドきょうかいのたたかい、Battle of Cumberland Church)は、南北戦争も最終盤となった1865年4月7日に、バージニア州カンバーランド郡のファームビル近くで起きたアポマトックス方面作戦の戦闘である。北軍ポトマック軍の第2軍団が南軍北バージニア軍と戦った。 4月6日に起きたセイラーズクリークの戦いの後、南軍リチャード・H・アンダーソン中将とジョン・B・ゴードン少将の残存部隊が、アポマトックス川に架かる二重構造の橋、ハイブリッジに向かっていた。この橋は上が鉄道橋、下が荷車用道路橋になっていた。この部隊は川の北岸に渡って、その後に西への撤退を続けようとしていた。南軍はその前の日のハイブリッジの戦いで橋を救うために戦ったが、自軍が渡ってしまったこのときは橋を壊す考えだった。しかし、誤りや遅れが生じたために、北軍アンドリュー・A・ハンフリーズ少将の第2軍団が橋の袂に到着し始めるまで破壊を始められないでいた。ハイブリッジの戦いの第2段階となる小さな戦闘が起きた後、北軍は鉄道橋の全体的な破壊を食い止め、荷車用橋は利用できる形で確保できた。 ハンフリーズの部隊は、南軍の行軍している最後の師団であるウィリアム・マホーン少将の師団を、西へ4マイル (6.4 km)、ファームビルの北3マイル (4.8 km) であるカンバーランド教会まで追撃した。南軍は教会の周りの高台に防御的な配置を始めた。それから間もなく、ジェイムズ・ロングストリート中将の下に残っていた南軍歩兵部隊の全軍がファームビルから来てマホーン隊と合流した。ロングストリート隊はファームビルを発った後に鉄道と荷車の橋を燃やしていた。後に残されていた南軍の騎兵隊と歩兵1個旅団はその近くで川を歩いて渡るしかなかった。 カンバーランド教会に来る途中の戦闘で、トマス・A・スミス准将が致命傷を負った後、北軍のハンフリーズはマホーン隊の直ぐ後で教会近くに到着していた2個師団に南軍の前線を攻撃するよう命じた。ハンフリーズは南軍の陣地があまりに強力でこれを落とせないと判断し、フランシス・C・バーロー准将を呼び戻した。その師団はゴードンの軍団を追って真っ直ぐファームビルに向かっているところだった。ハンフリーズはさらにポトマック軍指揮官のジョージ・ミード少将に、ロバート・E・リーの全軍が川の北にいるという伝言を送った。その南軍全軍と戦うために援軍を送って欲しい旨提案していた。南軍がファームビルの橋を壊していたことを、その時はハンフリーズもミードも知らず、従ってその日の午後に援軍がハンフリーズの元には着かないことが分かっていなかった。 ハンフリーズは、近くで起きた騎兵隊の戦闘が、リーの歩兵部隊と戦うための援軍が到着したものと誤解し、新たな攻撃を命じたがこれも南軍に撃退された。騎兵同士の戦闘でJ・アービン・グレッグ大佐(名誉准将)が南軍に捕まった。ハンフリーズは、早急に援軍を得られず、夜が近づいていたので、それ以上の攻撃は命じなかった。カンバーランド教会の戦いで、第2軍団は少なくとも571名の損失を出し、ファームビルの戦いと呼ばれることもある騎兵の戦闘では74名の損失を出した。南軍の損失は不明だが、北軍の出した損失の半分程度と推計されている。アメリカ合衆国国立公園局はその数字を255名としている。 ロバート・E・リー将軍は北軍がカンバーランド教会の自軍の近くまで来ていることを理解し、その夜11時ごろに、前夜に続いてさらに西への行軍を続けさせることにした。南軍はカンバーランド教会で北軍を追い返し、その時の損失も小さかったが、南軍の動きは遅れており、そのためにアポマトックス川の南岸にいる北軍が南軍を追い越してアポマトックス・コートハウスに至って遮断し、そこで次のの戦闘になった。.

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カーシージの戦い

ーシージの戦い(Battle of Carthage (1861)、またはドライフォークの戦い、Battle of Dry Fork)は、南北戦争の開戦から3か月目、1861年7月5日にミズーリ州ジャスパー郡カーシージでおきた戦闘である。経験を積んだ北軍フランツ・シーゲル大佐が兵士1,100名を率いて、ミズーリ州を北軍に留めさせるために動いていた。ミズーリ州知事クレイボーン・F・ジャクソン自身が率いたミズーリ州軍は4,000名を米墨戦争の英雄スターリング・プライスに統率させ、他にも戦闘に参加しなかった非武装の2,000名がいた。この戦闘は、ジョー・シェルビー大尉が率いた独立系レンジャー部隊が戦場で導入した新しい戦術が大きく効いて、戦略的にミズーリ州軍の勝利となったFlaherty and Sutherland.

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キャビンクリークの戦い

ャビン・クリークの戦い(キャビン・クリークのたたかい、Battle of Cabin Creek)は、インディアン準州チェロキー族の領土にあったキャビン・クリークで戦われた戦闘であり、南北戦争中の1863年と1864年の2度発生した。その場所はテキサス道路がキャビン・クリークと交わる所であり、現在のビッグキャビンの町に近い。2回の戦闘とも、南軍が北軍の輜重隊の動きを妨げるために仕掛けられた。 最初の戦闘は1863年7月、ギブソン砦に向かっていた北軍輜重隊を南軍の分遣隊が襲撃したものである。南軍は北軍の分遣隊を止めることができず、その月後半に行われたハニースプリングスの戦いで北軍が勝利する要因になった。2度目の戦闘は1年後の1864年9月、再度南軍が北軍の輜重隊を襲ったものであり、南軍はラバ、荷車、物資合わせて100万ドル以上に相当するものを捕獲した。しかし、戦争の行方に戦略的な影響を与えるには遅すぎた。南軍の将軍でチェロキー族出身のスタンド・ワティーが2回とも襲撃を率いた。.

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キルディア山の戦い

ルディア山の戦い(キルディアさんのたたかい、Battle of Killdeer Mountain)、またはターカホクティ山の戦い(Battle of Tahkahokuty Mountain)は、1864年7月28日から29日に、アメリカ陸軍アルフレッド・サリー准将がダコタ準州でスー族インディアンに対する遠征を行った間に起きた戦闘である。戦場は現在のノースダコタ州ダン郡だった。サリーの遠征隊には総計4,400名以上の兵士が参加しており、アメリカ陸軍がインディアンに対して起こしたものの中でもそれまでの最大のものだった。.

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クレーターの戦い

レーターの戦い(クレーターのたたかい、Battle of the Crater)は、南北戦争のピーターズバーグ包囲戦中に起こった戦闘である。1864年7月30日、南軍ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍と北軍ジョージ・ミード少将のポトマック軍(総司令官ユリシーズ・グラント中将の直接監督下にあった)との間で行われた。 北軍は数週間の準備期間の後の7月30日、アンブローズ・バーンサイドが坑道に仕掛けさせた火薬が爆発し、ピーターズバーグの南軍防御線に隙間を開けた。この幸先の良い開始とは裏腹に、全てのことが攻撃側の北軍にとって急速に悪い方向に進んだ。次から次と部隊が爆発でできたクレーターの回りや中に突入し、そこで兵士達は混乱状態に飲み込まれた。南軍は素早く体制を立て直し、ウィリアム・マホーン少将が率いて数度反撃した。隙間は埋められ、北軍は大損失を出して撃退された。アフリカ系アメリカ人の兵士からなるエドワード・フェレーロ准将の師団がこっぴどくやられた。この戦闘はグラントにとってピーターズバーグ包囲戦を終わらせる最高のチャンスだったはずである。実際にはその後8ヶ月も続く塹壕戦となった。バーンサイドはこの失態の責任を取らされて解任された。.

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クロイズ山の戦い

イズ山の戦い(クロイズさんのたたかい、Battle of Cloyd's Mountain)は、南北戦争の開戦から4年目に入った1864年5月9日、バージニア州西部のプラスキ郡で起きた戦闘である。この戦いに北軍が勝利したことにより、テネシー州とバージニア州を繋いでいた南軍として最後の連絡線を破壊することになった。.

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クロスキーズの戦い

ーズの戦い(クロスキーズのたたかい、英:Battle of Cross Keys)は、南北戦争初期の1862年6月8日、バージニア州ロッキンガム郡で行われた戦闘である。南軍ストーンウォール・ジャクソン少将のシェナンドー渓谷を舞台にしたバレー方面作戦の一部だった。この戦闘の翌日に行われたポートレパブリックの戦いと共に南軍の決定的勝利となり、北軍はシェナンドー渓谷から撤退し、ジャクソンはリッチモンド郊外で行われた七日間の戦いでロバート・E・リー将軍の軍隊の支援に回ることができた。.

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グレンデイルの戦い

レンデイルの戦い(グレンデイルのたたかい、英:Battle of Glendale、その他に次の呼称がある。フレイザー農園の戦い(Battle of Frayser's Farm)、フレージャー農園の戦い(Frazier's Farm)、ネルソン農園の戦い(Nelson's Farm)、チャールズシティ交差点の戦い(Charles City Crossroads)、ニューマーケット道路の戦い(New Market Road)、リドルの店の戦い(Riddell's Shop))は、南北戦争序盤の1862年6月30日、バージニア州ヘンリコ郡で、七日間の戦いの5つめの戦いとして起こった戦闘である。 南軍のベンジャミン・フーガー、ジェイムズ・ロングストリートおよびA・P・ヒル各少将の師団がグレンデイルあるいはフレイザー農園の近くで後退する北軍に集中した。ロングストリートとヒルの攻撃はウィルス教会近くで北軍の防御線を突破し、ジョージ・A・マッコール准将の師団を崩壊させマッコールを捕虜にした。ジョセフ・フッカーおよびフィリップ・カーニー各准将の師団による北軍の反撃で穴を埋め、ウィルス教会道路に沿った撤退中の戦線を救った。フーガー隊の前進はチャールズシティ道路で停められた。ストーンウォール・ジャクソン少将の師団はウィリアム・B・フランクリン准将の軍団によりホワイトオーク湿地の戦いで遅らされた。南軍のセオフィラス・H・ホームズ少将がターキー橋で北軍左側面に回り込もうとしたが、ジェームズ川の北軍砲艦によって撃退された。 この戦いはリー軍にとってジェームズ川から北軍を切り離す最後の機会だった。戦闘後の夜、北軍はマルバーンヒルで強固な陣地を造り上げた。.

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グロリエタの戦い

リエタの戦い(-のたたかい、Battle of Glorieta Pass)は、1862年3月26日から3月28日にニューメキシコ準州北部で戦われた、南北戦争中のニューメキシコ作戦における決定的な戦闘のことである。.

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グローブタバンの戦い

ーブタバンの戦い(グローブタバンのたたかい、Battle of Globe Tavern)は、南北戦争中の1864年8月18日から21日、バージニア州ピーターズバーグの南で起きた戦闘である。6月に始まったピーターズバーグ包囲戦の中で、北軍はウェルドン鉄道を分断しようという動きの2回目を試みた。ガバヌーア・ウォーレン少将指揮下の北軍が数マイルの鉄道軌道を破壊し、南軍P・G・T・ボーリガード将軍とA・P・ヒル中将の指揮する南軍からの激しい攻撃にも耐え忍んだ。この方面作戦の中では北軍にとって最初の勝利だった。北軍の前線が南と西に伸び、南軍はこれを迂回するために30マイル (48 km) も荷車で物資を運ぶことを強いられるようになった。.

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グロスターポイントの戦い

ターポイントの戦い(Battle of Gloucester Point)は、南北戦争開戦直後の1861年5月7日に、バージニア州のグロスターポイントで起きた北軍砲艦と南軍砲台の砲撃戦である。サウスカロライナ州チャールストン港のサムター砦で南北戦争が始まったとき、すなわち1861年4月14日から3週間後のことであり、少なくともバージニア州では最初の交戦となった。南軍はヨーク川の北岸グロスターポイントの砲台にバージニア州の部隊が守備についていたものであり、このときバージニア州は正式にアメリカ連合国に加盟していなかったので、公式の南軍ではなかった。対する北軍は海軍の砲艦USSヤンキー1隻だった。この戦争初期に北軍海軍と南軍の陸上砲台が交戦した戦闘が幾つかあったが、これは北軍による海上封鎖、特にチェサピーク湾に対する封鎖行動の一部として起こった。またバージニア州の川を北軍が軍用にも商業用にも利用する可能性を、南軍が否定したという意味もあった。.

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ケネソー山の戦い

ネソー山の戦い(ケネソーさんのたたかい、Battle of Kennesaw Mountain)は、南北戦争アトランタ方面作戦中の1864年6月27日、ジョージア州コブ郡で行われた戦闘である。北軍ウィリアム・シャーマン少将が、南軍ジョセフ・ジョンストン将軍の指揮するテネシー軍に対して、最も苛烈な正面攻撃を掛けさせ、痛い敗北に終わった。 1864年にシャーマンがアトランタ市に対して行った方面作戦は、当初からジョンストン軍の側面に回り込む操作が続いており、その操作の度に南軍の強力に防御された陣地から撤退を強いることとなったが、両軍とも大きな被害を出すことは無かった。そのような操作で2か月が過ぎ、70マイル (110 km) を移動して来た後、シャーマン軍の行く手はジョージア州マリエッタ市に近いケネソー山という強力な防御物で塞がれ、これまでの戦術とは異なる大規模な正面攻撃を行うという戦術を選んだ。ケネソー山の北端に対してジェイムズ・マクファーソン少将のテネシー軍が陽動行動を行い、一方、ジョン・A・ローガン少将の軍団がその南西隅にあるピジョンヒルを攻撃した。これと同時にジョージ・ヘンリー・トーマス少将のカンバーランド軍が南軍前線の中央にあるチーザムヒルに対して強力な攻撃を掛けた。この2つの攻撃とも多くの損失を出して撃退されたが、ジョン・マカリスター・スコフィールド少将のオハイオ軍が陽動行動を行って南軍の左翼を脅かすという戦略に成功した。南軍はケネソー山を捨てて、さらにアトランタ市に一歩近づく撤退を行い、しかもジョンストンはテネシー軍の指揮を外された。.

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ケリーズフォードの戦い

リーズフォードの戦い(ケリーズフォードのたたかい、Battle of Kelly's Ford、またはケリーズビルの戦い、Battle of Kellysville)は、南北戦争3年目の1863年3月17日、バージニア州カルペパー郡で、ラッパハノック川沿いの騎兵戦の一部として起きた戦闘である。この年6月に起きたブランディ・ステーションの戦いなど夏のゲティスバーグ方面作戦の騎馬戦の前哨戦となった。北軍騎兵師団ウィリアム・W・アバレル准将の騎兵2,100騎が、ラッパハノック川を越えて、その前の冬に嫌がらせをしてきていた南軍の騎兵隊を攻撃した。南軍フィッツヒュー・リー准将の騎兵旅団約800名が反撃した。北軍は場所によっては成功を収めた後、午後遅くに圧力を受けて後退し、リーの騎兵隊を倒せなかった。.

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ケープジラルドーの戦い

ープジラードの戦い(ケープジラードのたたかい、Battle of Cape Girardeau)は、南北戦争の3年目、1863年4月26日に、ミズーリ州ケープジラード郡で、南軍ジョン・マーマデューク准将によるミズーリ州への第二次遠征の一部として起きた戦闘であり、北軍ジョン・マクニール准将の守備隊を追いかけて始まった。この戦闘は今日まで「戦い」と呼ばれてはいるが、比較的小さな戦闘であり、その重要性はマーマデュークによるミズーリ襲撃を終わらせることになった転回点としてである。.

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ゲティスバーグの戦い

ティスバーグの戦い(ゲティスバーグのたたかい、Battle of Gettysburg)は、南北戦争において事実上の決戦となった戦い。ゲティスバーグ戦役の中核を成し、アメリカ合衆国軍とアメリカ連合国が双方総力を結集、南北戦争史上最大の激戦となった。この戦いが転換点となり、合衆国軍が優勢になったと見るのが伝統的見解である。.

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ゲティスバーグ方面作戦

ティスバーグ方面作戦(ゲティスバーグほうめんさくせん、英:Gettysburg Campaign)は、1863年6月と7月に、南北戦争の東部戦線で戦われた一連の戦闘である。南軍将軍ロバート・E・リーの北バージニア軍は、チャンセラーズヴィルの戦いの勝利の後で、北に動いてバージニア州、メリーランド州およびペンシルベニア州で攻撃的な作戦を展開した。北軍ジョセフ・フッカー少将とジョージ・ミード少将(6月28日以降)に指揮されるポトマック軍はリー軍を追跡し、ゲティスバーグの戦いで打ち破ったが、リー軍がバージニアに逃れるのを許した。 ペンシルベニア州南部の大半では、ゲティスバーグ方面作戦が「1863年の緊急事態」として広く知られ、州知事アンドリュー・カーティンが緊急に志願民兵の連隊(複数)を起ち上げ、侵略の脅威に対抗した。この軍事作戦で、メリーランド州およびペンシルベニア州の何千という避難民が迫り来る南軍を避けて北や東に逃亡し、ペンシルベニア州南部のボロや郡では人口の変動になった。また戦闘での損失は47,000名となり、市民の財産の被害額は数十万ドルに上った。.

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ゲインズミルの戦い

インズミルの戦い(ゲインズミルのたたかい、英:Battle of Gaines' Mill、または第一次コールドハーバーの戦い、英:First Battle of Cold Harbor、あるいはチカホミニー川の戦い、英:Battle of Chickahominy River)は、南北戦争序盤の1862年6月27日、バージニア州ハノーバー郡で、七日間の戦いの3つめの戦いとして起こった戦闘である。南軍のロバート・E・リー将軍はチカホミニー川の北、ボースン湿地の背後に強固な防御線を布いた北軍フィッツ・ジョン・ポーター准将の第5軍団に対する攻撃を再開した。 薄暮頃、南軍は遂に協働攻撃を掛け、ポーターの前線を突破しその兵士達を川の方向に追い込んだ。北軍は夜の間に川を越えて撤退した。ゲインズミルでの敗北により、北軍ポトマック軍の指揮官ジョージ・マクレラン少将はリッチモンドに向けての前進を中止し、ジェームズ川まで引き返し始める決断をした。この戦いで1862年の南軍にとってリッチモンドが救われた。この戦いは1864年のコールドハーバーの戦いとほぼ同じ場所で起こり、同じくらい大きな総損失を出させた。.

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コリンスの包囲戦

リンスの包囲戦(コリンスのほういせん、Siege of Corinth、または第一次コリンスの戦い、First Battle of Corinth)は、南北戦争初期の1862年4月29日 から5月30日まで、ミシシッピ州東北部コリンスで行われた戦いである。.

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コリドンの戦い

リドンの戦い(コリドンのたたかい、Battle of Corydon)は、南北戦争のモーガンの襲撃中の1863年7月9日に、インディアナ州ハリソン郡で起こった戦闘である。これは南北戦争の間にインディアナ州で起こった唯一の戦闘である。南軍は死傷者の数では北軍の2倍以上にもなったが、南軍勝利という結果になり、ジョン・ハント・モーガン准将の部隊は東のオハイオ州に向かう前に物資や現金を手に入れることができた。ゲティスバーグの戦いを除いて、北軍政府が北部の大地で戦われたと認めた唯一の戦闘でもある。.

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コルブ農園の戦い

ルブ農園の戦い(コルブのうえんのたたかい、Battle of Kolb's Farm)は、南北戦争中の1864年6月22日、ジョージア州コブ郡のマリエッタ市近くで、北軍のジョセフ・フッカー少将と、南軍のジョン・ベル・フッド中将の間で戦われた戦闘である。フッドが北軍への攻撃を試みたが、地形の状態が悪く失敗した。.

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コロンビアの戦い

ンビアの戦い(コロンビアのたたかい、Battle of Columbia)は、南北戦争も終盤となった1864年11月24日から29日、テネシー州モーリー郡でフランクリン・ナッシュビル方面作戦の一部として起きた戦闘である。ジョン・ベル・フッド中将の率いる南軍テネシー軍はアラバマ州北部からテネシー川を上り、テネシー州コロンビアに達してダック川を渡った。ジョン・マカリスター・スコフィールド少将の指揮する北軍が、ネイサン・ベッドフォード・フォレスト少将が指揮するフッドの騎兵隊と小競り合いを演じた。北軍はコロンビアの南で防御線を引いたが、間もなくダック川を渡って北に撤退し、町を捨てた。フッド軍のテネシー州侵入は、スコフィールドの後退する部隊を29日のスプリングヒルの戦いで止めようとするところまで続いた。.

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コールドハーバーの戦い

ールドハーバーの戦い(コールドハーバーのたたかい、英:Battle of Cold Harbor)は、南北戦争の中盤1864年5月31日から6月12日に行われた、北軍ユリシーズ・グラント中将が、南軍ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍に対して起ち上げたオーバーランド方面作戦の最後の戦いである。この戦いはアメリカ史の中でも流血が多く、一方的な結果となったことで記憶されている。南軍の防御を施した部隊に対し北軍が絶望的な正面攻撃を敢行して、数千の兵士が倒れた。グラントはその自叙伝の中でこの戦闘のことを「私は常に、コールドハーバーでの最後の攻撃が行われたことを後悔してきた。同じような攻撃が1863年5月22日にビックスバーグでも行われたと言うことが出来る。コールドハーバーでは、我々の受けた大きな損失を償えるようなものは何も得られなかった。」と述懐した。.

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シャンティリーの戦い

ャンティリーの戦い(シャンティリーのたたかい、英:Battle of Chantilly、南軍の呼び方ではオックスヒルの戦い、英:Battle of Ox Hill)は、南北戦争の1862年9月1日、バージニア州フェアファックス郡で行われた戦いであり、北バージニア方面作戦を終わらせるものとなった。.

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シャイローの戦い

ャイローの戦い(シャイローのたたかい、英:Battle of Shiloh、またはBattle of Pittsburg Landing)は、南北戦争初期の1862年4月6日から7日に、西部戦線テネシー州南西部で行われた大きな戦いである。アルバート・ジョンストン将軍とP・G・T・ボーリガード将軍が指揮する南軍が、ユリシーズ・グラント少将の指揮する北軍に急襲を掛け、敗北寸前まで追い込んだ。ちなみにシャイローとは、ヘブライ語で「平和な土地」という意味である。 戦闘の1日目、南軍はグラントのテネシー軍がドン・カルロス・ビューエル少将のオハイオ軍と合流する前に叩いてしまうことを期待して、テネシー川から北軍の守備隊を遠ざけ西のオウル・クリークの沼地に追い遣ろうという意図で攻撃を仕掛けた。南軍の前線が激しい戦闘の間に混乱し、その間にグラントの兵士は北東のピッツバーグ・ランディングの方向に後退した。「ホーネッツネスト」と渾名されるやや窪んだ道路に陣取ったベンジャミン・M・プレンティスとW・H・L・ウォレス各准将の師団が防御し、北軍が数多い大砲列の保護の下に安定を取り戻す貴重な時間を得た。ジョンストン将軍は1日目の戦闘中に戦死し、副司令だったボーリガードがその夜に北軍最後の陣地に対する攻撃を決断した。 その夜にビューエル将軍の援軍が到着し翌朝には流れが変わった。ビューエルとグラントは全線にわたる反撃に転じた。この時までのアメリカ史で最も流血の多い戦闘の後で南軍は退却を強いられ、ミシシッピ州北部への北軍侵入を食い止めるという望みが絶たれた。.

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シーダー山の戦い

ーダー山の戦い(シーダーさんのたたかい、英:Battle of Cedar Mountain、またはスローターズ山の戦い、英:Battle of Slaughter's Mountain、シーダーランの戦い、英:Battle of Cedar Run)は、南北戦争の北バージニア方面作戦の緒戦として1862年8月9日に、バージニア州カルペパー郡で起こった戦闘である。ナサニエル・バンクス少将の指揮する北軍がシーダー山の近くで、ストーンウォール・ジャクソン少将の指揮する南軍を攻撃した。南軍はバージニア州中部に北軍が進行するのを食い止めるためにカルペパー・コートハウスに進軍していた。戦闘の初期段階では南軍が戦場から追い出されかかったが、その反撃で北軍の前線を破り、南軍勝利となった。.

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シーダークリークの戦い

ーダークリークの戦い(シーダークリークのたたかい、英:Battle of Cedar Creek、またはベルグラブの戦い、英:The Battle of Belle Grove)は、南北戦争の1864年のバレー方面作戦では最後でかつ最も決定的な勝敗がついたものとして、1864年10月19日に、バージニア州フレデリック郡、シェナンドー郡およびウォーレン郡で起こった戦闘である。南軍ジュバル・アーリー中将が率いる最後の北部侵略軍が実質的に崩壊し、南軍はワシントンD.C.を脅かすことができなくなったばかりか、シェナンドー渓谷の経済基盤を守ることもできなくなった。エイブラハム・リンカーン大統領の再選は事実上この勝利で助けられ、フィリップ・シェリダン少将は永続する名声を得ることになった。.

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シェパーズタウンの戦い

ェパーズタウンの戦い(シェパーズタウンのたたかい、英:Battle of Shepherdstown、またはボトラーズフォードの戦い、英:Battle of Boteler's Ford)は、南北戦争のメリーランド方面作戦の終わりを告げるものとして、1862年9月19日から20日にウェストバージニア州ジェファーソン郡で行われた戦闘である。.

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ジャクソン砦・セントフィリップ砦の戦い

ャクソン砦・セントフィリップ砦の戦い(Battle of Forts Jackson and St.)は、南北戦争開戦から1年が経過した1862年4月18日から28日、ニューオーリンズ占領を目指した北軍の重要な戦闘である。ミシシッピ川のニューオーリンズ市より下流にあった2つの南軍の砦を、北軍西メキシコ湾封鎖戦隊が攻撃した。これら砦が北軍戦隊の侵攻を遮っている限り、ニューオーリンズ市は安泰だったが、それが破られると、市までその進行を抑える手段が無かった。 ニューオーリンズ市はアメリカ連合国の中でも大きな都市であり、既に北から攻撃される脅威の下にあったが、さらに南からは北軍のデヴィッド・ファラガット提督が川からの北上を図った。南軍海軍は既に1861年10月12日のヘッドオブパッシーズの海戦で北軍戦隊を追い払ったことがあった。上流からの脅威はまだメキシコ湾ほど近づいて来ていなかったが、南軍はケンタッキー州やテネシー州で一連の敗北を喫し、バージニア州リッチモンドにあるアメリカ連合国陸軍省と海軍省はニューオーリンズの守備隊を他に回さざるを得なくなっていた。兵士や装備が引き抜かれたので、4月半ばまでに、2つの砦と、戦力的に問題のある砲艦の寄せ集めを除けば、ほとんど南には何も残っていなかった。北からの圧力を減らすこと無しに、エイブラハム・リンカーン大統領は南から海陸協働による攻撃に取り掛からせた。北軍陸軍は政治家将軍のベンジャミン・フランクリン・バトラーが率いる18,000名が出動した。北軍海軍は艦隊司令のデヴィッド・ファラガットが率いる西メキシコ湾封鎖戦隊の大部分が加わった。この戦隊には、デイビッド・ディクソン・ポーター海軍中佐の率いる臼砲搭載スクーナーと支援艦で構成される半自立の戦隊が補強した。 海軍の遠征隊はメキシコ湾のシップ島に集結した。準備ができると海軍の部隊が艦船を川に入れ、4月14日までに完了した。続いて砦に近い場所まで移動し、4月18日には臼砲による砦砲撃が始まった。 それに続いた戦闘は2つの部分に分けることができる。南軍の保持する砦に対して筏に載せた臼砲からほとんど効果の無い砲撃を行った段階、続いて4月24日夜にファラガットの戦隊の多くが砦下をうまく通り過ぎた段階だった。この通過の間に北軍の艦船1隻が失われ、他に3隻が後退したが、南軍の砲艦は事実上全滅させられた。その後のニューオーリンズ市侵攻は特に反撃も無く市の占領まで進み、南軍がその後も取り返すことが出来なかった重大で致命的ですらある打撃となった。砦は北軍戦隊が通過した後も残っていたが、ジャクソン砦の士気が落ちた兵士達が反乱を起こし、降伏することになった。.

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ジョンソンビルの戦い

ョンソンビルの戦い(ジョンソンビルのたたかい、Battle of Johnsonville)は、南北戦争も終盤となった1864年11月4日から5日、テネシー州ベントン郡とハンフリーズ郡ジョンソンビルの近くで起きた戦闘である。南軍の騎兵隊指揮官ネイサン・ベッドフォード・フォレスト少将が23日間におよぶ西テネシーへの襲撃遠征を行い、その頂点がテネシー州ジョンソンビル北軍補給基地への攻撃だった。フォレスト軍の攻撃でテネシー川に浮かぶ多くの船や、数百万ドルに相当する物資を破壊し、テネシー州の州都ナッシュビルにあった北軍ジョージ・ヘンリー・トーマス少将の兵站操作を妨害した。その結果、トーマス軍はフランクリン・ナッシュビル方面作戦で、テネシー州に侵入して来たジョン・ベル・フッド中将の南軍を破るという作戦に一時的な障害を生じた。しかし最終的にはトーマス軍がフッド軍を破ることにはなった。.

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ジョーンズバラの戦い

ョーンズバラの戦い(ジョーンズバラのたたかい、Battle of Jonesborough)は、南北戦争アトランタ方面作戦中の1864年8月31日から9月1日に、ジョージア州クレイトン郡で行われた戦闘である。ウィリアム・シャーマン少将が率いる北軍が、アトランタ市を守っていたジョン・ベル・フッド将軍の率いる南軍テネシー軍を市から引き離し、破壊できるようにした。 フッド軍そのものが崩れたわけではなかったが、アトランタ市は放棄され、この戦争の残り期間は北軍が占領した。アトランタ市の陥落は戦争の行方について政治的にも軍事的にも大きな影響を与えることになった。この戦闘でアトランタ方面作戦は一区切りとなった。.

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ジェルサレム・プランク道路の戦い

ェルサレム・プランク道路の戦い(ジェルサレム・プランクどうろのたたかい、Battle of Jerusalem Plank Road、または第一次ウェルドン鉄道の戦い、First Battle of Weldon Railroad)は、南北戦争中の1864年6月21日から23日、バージニア州ピーターズバーグ近くで行われた戦闘である。ピーターズバーグ包囲戦の中で最初に行われた戦闘であり、北軍は包囲線を西に伸ばし、ピーターズバーグへの供給用鉄道を遮断しようとした。北軍ポトマック軍の2個歩兵軍団が鉄道を絶とうとしたが、南軍北バージニア軍第3軍団の中でも主にウィリアム・マホーン准将の指揮する師団に攻撃され追い返された。この勝敗はつかなかった戦闘で、ウェルドン鉄道は一時的に南軍の支配下に入ったが、北軍はその防御線を西に伸ばし、包囲の圧力を増し始めた。.

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ジェンキンスフェリーの戦い

ェンキンスフェリーの戦い(Battle of Jenkins' Ferry)は、南北戦争の開戦からちょうど3年が過ぎた1864年4月30日に、アーカンソー州グラント郡で起きた戦闘である。北軍によるレッド川方面作戦の一部だったカムデン遠征ではクライマックスとなった。南北両軍の勢力を考えるとこの戦闘でかなりの損失を蒙り、しかも両軍ともに将軍が1人戦死した。この戦闘の結果、北軍はアーカンソー州カムデンの危険性の高い陣地からリトルロックの防衛拠点までの撤退を完成させることができた。.

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スポットシルバニア・コートハウスの戦い

ポットシルバニア・コートハウスの戦い(スポットシルバニア・コートハウスのたたかい、英:Battle of Spotsylvania Court House、または単にスポットシルバニアの戦い、英:Battle of Spotsylvania)は、南北戦争の中盤1864年5月8日から21日に、北軍ユリシーズ・グラント中将が、南軍ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍に対して起ち上げたオーバーランド方面作戦の2番目の戦いである。戦場はバージニア州中部のラピダン川とラッパハノック川の地域であり、1862年から1864年の間に両軍共に10万名以上が倒れた場所でもあった。 この戦闘は全長がおよそ4マイル (6 km)の塹壕線に沿って行われ、リーの北バージニア軍が、グラントとジョージ・ミード少将のポトマック軍の春の攻勢を止めようという2回目の試みだった。流血が多く引き分けに終わった荒野の戦いから1週間も経たないうちに起こっており、南軍は52,000名、対する北軍は100,000名が参加した。.

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ストーンズリバーの戦い

トーンズリバーの戦い(ストーンズリバーのたたかい、英:Battle of Stones River、あるいは第二次マーフリーズバラの戦い、英:Second Battle of Murfreesboro、南部では単にマーフリーズバラの戦い、英:Battle of Murfreesboro)は、南北戦争の西部戦線における「ストーンズリバー方面作戦」の頂点として、中部テネシー州で1862年12月31日から1863年1月2日に行われた戦闘である。南北戦争の主要戦闘の中でも両軍とも最高の損失率となった。戦闘自体は引き分けだったが、北軍が2度にわたる南軍の攻撃を撃退し、その後に南軍が撤退したことで、東部戦線におけるフレデリックスバーグの戦いでの敗北後沈滞していた北軍の士気を大いに上げ、南軍の中部テネシー州支配という願望を打ち砕いた。.

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スプリングヒルの戦い

プリングヒルの戦い(スプリングヒルのたたかい、Battle of Spring Hill)は、南北戦争も終盤となった1864年11月29日、テネシー州モーリー郡スプリングヒルでフランクリン・ナッシュビル方面作戦の一部として起きた戦闘である。ジョン・ベル・フッド中将の率いる南軍テネシー軍が、コロンビアからスプリングヒルを通って撤退途中にあったジョン・マカリスター・スコフィールド少将の指揮する北軍を攻撃した。南軍は指揮の誤りが続き、北軍に大きな損失を与えられなかった。北軍は夜の間に北のフランクリンに向けて抜け出し、南軍はこれを抑えられなかった。翌日、フッドはスコフィールド隊を追跡し、要塞化したフランクリンを攻撃したが、大変大きな損失を出すことになった。.

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ステッドマン砦の戦い

テッドマン砦の戦いステッドマンとりでのたたかい、英:Battle of Fort Stedman)は南北戦争の最終盤1865年3月25日に行われた戦いである。バージニア州ピーターズバーグ周辺に築かれた北軍の包囲線に対し、南軍ジョン・B・ゴードン少将に率いられた部隊が夜明け前の攻撃を行った。この攻撃はピーターズバーグ包囲戦を破るための南軍による最後の重大な試みだったが、失敗した。.

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スティーブンス砦の戦い

ティーブンス砦の戦い(スティーブンスとりでのたたかい、英:Battle of Fort Stevens)は、南北戦争の1864年のバレー方面作戦中1864年7月11日と12日に、コロンビア特別区北西部で起こった戦闘である。南軍ジュバル・アーリー中将軍と北軍ホレイショ・ライト少将軍との間で戦われ、北軍が勝利した。.

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スウェルズポイントの戦い

ウェルズポイントの戦い(Battle of Sewell's Point)は、南北戦争開戦直後の1861年5月18日から21日に、バージニア州ノーフォークのスウェルズポイントで起きた、北軍砲艦と南軍砲台の砲撃戦である。北軍は砲艦のUSSモンティチェロとこれを支援するUSSトマス・フリーボーンの2艦だった。どちらの側にもほとんど損傷は無かった。 4月の末までにUSSカンバーランドと少数の支援船がチェサピーク湾の南端でバージニア州南東部の港を海上封鎖し、これを通過しようとした船舶数隻を捕獲していた。砲艦USSモンティチェロがスウェルズポイントの砲台を砲撃したのは、南北戦争で北軍海軍が南軍に対して行った最初期の行動だった。このモンティチェロの行動が、この戦争で北軍による最初の砲撃だったとする資料もあるが、1861年5月7日に、同じくバージニア州ヨーク川のグロスターポイントで、北軍の砲艦USSヤンキーが、まだアメリカ連合国陸軍に組み込まれていなかったバージニア州志願兵の籠もる川岸砲台と、短時間の砲撃戦を交わしていた。これをグロスターポイントの戦いと呼ぶこともある資料によってグロスターポイントの戦いの日付は異なる。指揮官の報告書でははっきりと5月7日としている。.

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スターリング・プランテーションの戦い

ターリング・プランテーションの戦い(Battle of Stirling's Plantation、またはフォードーチェ橋の戦い、Battle of Fordoche Bridge)は、南北戦争の3年目、1863年9月29日にルイジアナ州ポイントクーピー郡で起きた戦闘である。北軍が南軍の動きをけん制するために派遣していた部隊が、南軍に襲撃され、歩兵2個連隊のほとんどが捕まることになった。.

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セルマの戦い

南軍のネイサン・ベッドフォード・フォレスト将軍 セルマの戦い(セルマのたたかい、Battle of Selma)は、南北戦争の終戦が見えてきた1865年4月2日、アラバマ州 セルマで起きた戦闘である。当時のセルマは人口約1万人の町だった。北軍のジェイムズ・H・ウィルソン少将が指揮する部隊が、南軍ネイサン・ベッドフォード・フォレストが指揮する部隊を破った。 1865年3月22日、ウィルソンは騎兵3個師団、総勢13,500名を率い、テネシー州からアラバマ州に入った所にあるグレイブリースプリングスを出発し、この戦争ではほとんど無傷のまま残されていたアラバマ州南部深くにむけて襲撃に向かった。ウィルソン軍団に対抗したのがフォレスト中将の率いる総勢2,000名の部隊であり、その多くは老人や少年だった。4月1日にはエベネザー教会の戦いで、フォレスト隊と駆けながらの戦闘となり、フォレスト隊がセルマ市に退却し、そこの守備隊と合流した。ウィルソンはセルマに向かいながら、自隊を3隊に分けた。セルマの防御は強固だったが、それを活かせるだけの兵力が無かった。ウィルソンの部隊が幾つかの地点で防御線を突破し、市内の南軍を降伏させた。フォレストやリチャード・テイラー中将を含め士官、兵卒の多くがその降伏の前に市を脱出した。セルマの町はフォレストですら難攻不落と考えていたところだったが、アメリカ連合国に残されていた地域に入って来る容赦しない北軍の圧倒的な動きを止めることはできないことを示すことになった。.

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セントメアリー教会の戦い

ントメアリー教会の戦い(セントメアリーきょうかいのたたかい、Battle of Saint Mary's Church、またはサマリア教会の戦い、Battle of Samaria Church、ナンスの店の戦い、Battle of Nance's Shop)は、南北戦争中の1864年6月24日、バージニア州チャールズシティで起きた騎兵隊同士の戦闘である。北軍ユリシーズ・グラント中将のオーバーランド方面作戦の中で、南軍ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍と対抗した。 フィリップ・シェリダン少将の指揮するポトマック軍騎兵軍団が、バージニア・セントラル鉄道を襲撃し、トレビリアン・ステーションの戦い(6月11日、12日)を行って成果を出せずに戻って来ると、ホワイトハウス・ランディングで放棄されたばかりだった補給所から輜重車を集め、ジェームズ川の方向に進んだ。6月24日、南軍のウェイド・ハンプトン少将の指揮する騎兵隊が、セントメアリー教会で北軍デイビッド・グレッグ准将の師団を攻撃した。南軍は5個旅団、北軍は2個旅団と、数で南軍が勝り、北軍の守る胸壁から追い出すことができたが、グレッグ隊は輜重隊への攻撃を遮ることに成功し、妨害されずにジェームズ川まで移動させることができた。.

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セブンパインズの戦い

ブンパインズの戦い(セブンパインズのたたかい、英:Battle of Seven Pines、またはフェアオークスの戦い、英:Battle of Fair Oaks、またはフェアオークス駅の戦い、英:Fair Oaks Station)は、南北戦争初期の1862年5月31日と6月1日、バージニア州ヘンリコ郡で、半島方面作戦の一部として行われた戦闘である。北軍ジョージ・マクレラン少将がバージニア半島を登って攻勢を掛けた頂点をなすものであり、そのポトマック軍はリッチモンド郊外まで達した。 5月31日、南軍のジョセフ・ジョンストン将軍はチカホミニー川の南で孤立しているように見えた北軍2個軍団を圧倒しようとした。南軍の攻撃は協調が取れていなかったものの、北軍第4軍団を後退させ、大きな損失を出させた。両軍は補強を行い次々と部隊を戦闘に投入した。北軍は第3軍団とエドウィン・V・サムナー准将の第2軍団下のジョン・セジウィック少将師団(雨で膨れ上がった川をグレープバイン橋で渉った)に支援され、その陣地を安定させることができた。ジョンストン将軍はこの戦闘中に重傷を負い、南軍の指揮は一時的にグスタヴス・ウッドソン・スミスが執った。6月1日、南軍はさらに援軍を得て、北軍に対する攻撃を再開したが、あまり進展は無かった。両軍ともに勝利を宣言した。 この戦闘は戦術的に引き分けだったが、その時までの東部戦線では最大の戦い(西部戦線のシャイローの戦いが損失の多さで最大であり、それに次ぐものだった)であり、北軍の攻勢が終わり、これに続く6月後半には七日間の戦いと北軍の撤退に繋がった。.

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セイラーズクリークの戦い

イラーズクリークの戦い(セイラーズクリークのたたかい、英:Battle of Sayler's Creek、またはヒルズマン農園の戦い、英:Battle of Hillsman Farm、またはロケット農園の戦い、英:Battle of Lockett Farm)は、南北戦争の最終盤1865年4月6日にアポマトックス方面作戦の一部としてバージニア州ピーターズバーグの南西、アメリア郡、プリンスエドワード郡およびノットウェイ郡で行われた戦いである。.

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セイリーンビルの戦い

イリーンビルの戦い(セイリーンビルのたたかい、英:Battle of Salineville)は、南北戦争のモーガンの襲撃中の1863年7月26日に、オハイオ州セイリーンビル近くで起こった戦闘である。南軍が関わった戦闘では最も北で起こったものの一つだった。北軍の決定的勝利によってジョン・ハント・モーガン准将の残っていた南軍騎兵隊を壊滅させ、モーガンはその日遅くに捕虜になった。.

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タラホーマ方面作戦

タラホーマ方面作戦(タラホーマほうめんさくせん、英:Tullahoma Campaign、または中部テネシー方面作戦、英:Middle Tennessee Campaign)は、南北戦争中の1863年6月24日から7月3日まで行われた一連の戦闘である。北軍ウィリアム・ローズクランズ少将が指揮するカンバーランド軍は、強固な防御陣地から南軍ブラクストン・ブラッグ将軍の指揮するテネシー軍を追い出し、南軍を中部テネシーから駆逐し、テネシー州チャタヌーガに脅威を与えた。 タラホーマ方面作戦は南北戦争でローズクランズが成したほぼ間違いなく最も意義有る功績であり、歴史家達は両軍にほとんど損失が無かったにも拘わらず意義有る目標を達した「輝かしい」作戦と記述した。しかし、同じ時期に行われたゲティスバーグの戦い(7月1日~3日)やビックスバーグ方面作戦(7月4日決着)における北軍勝利の陰に隠れ、敵軍もほとんど手つかずの状態だったので、9月のチカマウガの戦いでローズクランズの悲惨な敗北に繋がってしまった。.

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サムター要塞の戦い

ムター要塞の戦い(サムターようさいのたたかい、サムター要塞砲撃)とは、1861年4月12日から4月14日にかけて行なわれた戦闘。南北戦争の発端とされる戦いであるが、開戦前の小競り合いとする者もいる。南北戦争を語る上での重要な戦いのひとつである。 サムター要塞とはサウスカロライナ州の港、チャールストンを守っていた要塞の一つで、港への水路の真正面にあった。.

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サンドクリークの虐殺

ンドクリークの虐殺は、1864年11月29日にアメリカのコロラド地方で、米軍が無抵抗のシャイアン族とアラパホー族インディアンの村に対して行った、無差別虐殺。.

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サンダース砦の戦い

ンダース砦の戦い(サンダースとりでのたたかい、Battle of Fort Sanders)は、南北戦争3年目の1863年11月29日、テネシー州ノックス郡で起きた、ノックスビル方面作戦の趨勢を決めた戦闘である。南軍ジェイムズ・ロングストリート中将の軍が、北軍アンブローズ・バーンサイド少将の防衛線を突破しようとしたが、南軍の一方的な敗北となり、ノックスビル包囲戦は終わりを迎えた。.

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サフォークの包囲戦

フォークの包囲戦(サフォークのほういせん、Siege of Suffolk)は、南北戦争3年目の1863年4月11日から5月4日、バージニア州サフォーク周辺で戦われた戦闘である。.

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サベイジ駅の戦い

ベイジ駅の戦い(サベイジえきのたたかい、英:Battle of Savage's Station)は、南北戦争序盤の1862年6月29日、バージニア州ヘンリコ郡で、七日間の戦いの4つめの戦いとして起こった戦闘である。北軍の主力ポトマック軍はジェームズ川に向けて全軍撤退を始めていた。南軍ジョン・マグルーダー少将は3個旅団を率いて、鉄道とウィリアムズバーグ道路に沿って追撃し、サベイジ駅近くで北軍の後衛、エドウィン・V・サムナー少将の第2軍団を攻撃し、一方、ストーンウォール・ジャクソンの師団はチカホミニー川北岸で立ち往生していた。北軍はホワイトオーク湿地を渡って撤退を続け、多くの物資や野戦病院にいた2,500名以上の負傷兵を放棄した。.

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サウス山の戦い

ウス山の戦い(サウスさんのたたかい、Battle of South Mountain、南部の初期文献ではブーンズバラギャップの戦い、Battle of Boonsboro Gap)は、南北戦争のメリーランド方面作戦の一部として1862年9月14日に行われた戦いである。サウス山の山径3箇所、すなわち、クランプトンギャップ、ターナーギャップおよびフォックスギャップの占有を巡って3つの会戦が行われた。北軍ジョージ・マクレラン少将がポトマック軍を指揮し、南軍ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍を追跡するためにこれらの山径を通過する必要があった。リー軍は勢力的には負けていたが、マクレラン軍の進軍を1日遅らせた後に撤退した。.

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第三次チャタヌーガの戦い

三次チャタヌーガの戦い(だいさんじチャタヌーガのたたかい、英:Third Battle of Chattanooga、一般的には単にチャタヌーガの戦い、英:Battle of Chattanooga、他にルックアウト山の戦い、英:Battle of Lookout Mountain、ミッショナリー・リッジの戦い、英:Battle of Missionary Ridgeという呼び方もされる)は南北戦争の1863年11月23日から25日に、テネシー州チャタヌーガ近くで行われた戦いである。北軍のユリシーズ・グラント少将はブラクストン・ブラッグ将軍の南軍を破ることで、テネシー州にいた最後の南軍を排除し、ディープサウス侵攻への道が開け、1864年のアトランタ方面作戦に繋がった。.

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第三次ピーターズバーグの戦い

三次ピーターズバーグの戦い(だいさんじピーターズバーグのたたかい、Third Battle of Petersburg、またはピーターズバーグの突破、ピーターズバーグの陥落)は、南北戦争も最終盤となった1865年4月2日に、バージニア州ディンウィディ郡のピーターズバーグの南と南西で起きた戦闘である。この戦闘が292日に及んだリッチモンド・ピータースバーグ方面作戦(ピーターズバーグ包囲戦とも呼ばれる)を終わらせ、南北戦争を終戦に導くアポマトックス方面作戦の開始となった。ユリシーズ・グラント中将が全軍指揮する北軍(ポトマック軍、シェナンドー軍、ジェームズ軍)が、前日4月1日のファイブフォークスの戦いで勝利した後、ピーターズバーグの塹壕と防御工作物に籠るロバート・E・リー将軍の指揮する南軍北バージニア軍に強襲を掛けた。この戦闘の結果、南軍の右翼側面、背面、および残っていた供給線が露出あるいは遮断されることとなり、南軍守備兵も戦死、負傷、捕虜となって1万名以上を減らした。 ピーターズバーグでただでさえ厚みが無くなっていた南軍の防衛線は、それまでの北軍の動きによって極限まで伸ばされ、適切に守備兵を配置できる能力を超えるところまで伸び切っていた。さらに3月下旬に続いた戦闘によって脱走兵や損失を出していたことがこれに輪を掛けた。北軍は南軍の勢力をかなり上回っており、それがピーターズバーグの防衛線に強襲を掛けたが、南軍守備隊の最後の守りが北軍の突破を止めていた。その間にアメリカ連合国政府の要人、南軍に残っていた部隊の大半、さらには地元の守備隊と南軍海軍の人員が、4月2日から3日に掛けての夜に、ピーターズバーグと首都リッチモンドから脱出することができた。この日の戦闘で南軍の前線を支えてきたA・P・ヒル中将が戦死した。 1865年4月3日、北軍兵がリッチモンドとピーターズバーグの町を占領したが、北軍の大半は南軍北バージニア軍を追撃し、4月9日のアポマトックス・コートハウスの戦い後にリーの北バージニア軍を包囲し、降伏させた。.

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第一次マーフリーズバラの戦い

一次マーフリーズバラの戦い(だいいちじマーフリーズバラのたたかい、英:First Battle of Murfreesboro)は、南北戦争中盤の1862年7月13日に、南軍のハートランド攻勢(ケンタッキー方面作戦)の一部として、テネシー州ラザフォード郡マーフリーズバラで行われた戦闘である。.

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第一次チャールストン港の戦い

一次チャールストン港の戦い(だいいちじチャールストンこうのたたかい、First Battle of Charleston Harbor)は、南北戦争の1863年4月7日にサウスカロライナ州チャールストン近くで起きた戦闘である。攻撃したのは北軍海軍の装甲戦闘艦9隻の戦隊であり、その中には当初のUSSモニターの改良艦7隻が含まれていた。この攻撃に協力するはずだった北軍陸軍が戦闘に加われなかった。サミュエル・フランシス・デュポン海軍少将の指揮下にあった艦船が、チャールストン港入り口近くにあった南軍の防御陣地を攻撃した。ワシントンD.C.の海軍省役人は、重砲を搭載した戦闘艦で伝統的な砦の防御力を下げさせるという新しい形態の戦闘の有効性を示す圧倒的な成功を期待していた。 デュポンは、7隻のパセーイク級モニター艦と、強力なUSSアイアンサイド、さらに実験的装甲艦であるUSSケオククを任されていた。海軍の資源がチャールストン港への攻撃に向けられたので、他の海軍作戦は中断させられていた。長い準備期間を要した後、潮の状態と可視性で攻撃に進むことが可能と判断された。速度の鈍いモニター艦が午後のかなり遅くに戦列に付き、潮の向きが変わったときに、デュポンは作戦を中断しなければならなかった。砲撃は2時間足らず続き、戦隊は港防衛の第一列ですら突破できなかった。戦隊の1隻が沈みかけた状態となり、他の艦船も損傷を受けて、戦隊は後退した。戦隊乗組みの水兵1名が戦死し、21名が負傷した。一方南軍は5名が戦死、8名が負傷した。デュポンは戦隊の艦長達と相談した後、それ以上攻撃してもほとんど成功の可能性が無いと判断した。よって翌朝の戦闘再開を止めた。.

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第一次レキシントンの戦い

一次レキシントンの戦い(First Battle of Lexington、またはヘンプベイルズ(麻の樽)の戦い、Battle of the Hemp Bales)は、南北戦争の開戦から5か月となった1861年9月13日から20日に、ミズーリ州ラファイエット郡の郡庁所在地レキシントンでおきた戦闘である。南軍はアメリカ連合国を支持するミズーリ州軍であり、この戦闘に勝利したことで、既に高かったこの地域での南軍支持の機運が高まり、ミズーリ・バレーは短期間ながら南軍の支配下に固まった。 なお、レキシントンでは1864年10月19日にも小さな戦闘があって南軍が勝利しており、これを第二次レキシントンの戦いと呼ぶ。.

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第一次ブルランの戦い

一次ブルランの戦い(英:First Battle of Bull Run、南部での呼称は第一次マナサスの戦い)は、南北戦争の陸上戦闘では最初の大会戦である。1861年7月21日にバージニア州マナサスの近くで行われた。 南軍北軍双方が急ごしらえの部隊で戦闘を行った。はじめはアービン・マクドウェル准将の指揮する北軍が攻勢を取り、ブルラン・クリーク(ポトマック川水系の支流の一つ)を渡ったが、やがて南軍がジョセフ・ジョンストンとP・G・T・ボーリガード両准将の指揮で押し返し、北軍をワシントンD.C.まで退却させた。南軍が南北戦争の本格化とともに緒戦に大勝したことは、戦争を長期化させる要因になった。.

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第一次ディープボトムの戦い

一次ディープボトムの戦い(だいいちじディープボトムのたたかい、First Battle of Deep Bottom、またはダービータウンの戦い、ストロベリープレーンズの戦い、ニューマーケット道路の戦い、グラベルヒルの戦いと様々に呼ばれる)は、南北戦争中の1864年7月27日から29日、バージニア州ヘンライコ郡で起きた戦闘である。6月に始まったピーターズバーグ包囲戦の中で、一か月以上膠着状態が続き、北軍はトンネルを掘って南軍陣地を爆破する準備を進めていた(7月30日のクレーターの戦い)。その動きについて南軍防衛線の気を逸らすために、ウィンフィールド・スコット・ハンコック少将とフィリップ・シェリダン少将の指揮する軍団が、アメリカ連合国の首都リッチモンドと鉄道を脅かす遠征に派遣された。この北軍の歩兵軍団と騎兵軍団はベイリーのクリークとファッセルのミルにある南軍の防御陣地を破ることができずに引き返したが、南軍のピーターズバーグに置いた勢力を一時的に減らすという別の目的は達した。.

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第一次フィッシャー砦の戦い

一次フィッシャー砦の戦い(だいいちじフィッシャーとりでのたたかい、First Battle of Fort Fisher)は、南北戦争の終戦近くに、ノースカロライナ州ウィルミントン郊外フィッシャー砦に対して、北軍の陸軍と海軍が合同で行った一回目の攻撃である。フィッシャー砦は「南部のジブラルタル」と言われることもあり、南軍最後の主要海岸拠点であり、南北戦争を通じて莫大な戦略的価値があった。北軍の陸軍はジェームズ軍指揮官のベンジャミン・フランクリン・バトラー少将が率い、1864年12月23日から27日まで続いた。 北軍の海軍はまず砦の壁を壊そうとして、火薬を満載した船を爆破しようとしたが、失敗した。続いて砦の戦力を弱め、降伏を強いるために2日間の艦砲射撃を行った。その2日目、陸軍が砦を包囲するために部隊の上陸を始めた。しかし、バトラーは敵の援軍が接近してきているという報せを受け取り、気象条件が悪化する中で、砦が難攻不落であると宣言して、作戦を中止した。バトラーはその2週間後に解任され、アルフレッド・テリー少将が後任になった。.

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第一次インディペンデンスの戦い

一次インディペンデンスの戦い(だいいちじインディペンデンスのたたかい、First Battle of Independence)は、南北戦争の1862年8月11日に、ミズーリ州ジャクソン郡のインディペンデンス市内で起こった比較的小さな戦闘である。この戦いに勝利した南軍は数日間ジャクソン郡地域を支配し、その間に徴兵担当が活動を完了できた。 なお、第二次インディペンデンスの戦いは1864年に発生しており、このときも南軍が勝利した。.

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第一次ウィンチェスターの戦い

一次ウィンチェスターの戦い(だいいちじウィンチェスターのたたかい、英:First Battle of Winchester)は、南北戦争初期の1862年5月25日、バージニア州フレデリック郡およびウィンチェスター周辺で、行われた戦闘である。南軍ストーンウォール・ジャクソン少将のシェナンドー渓谷を舞台にしたバレー方面作戦の中でも大きな勝利だった。.

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第一次カーンズタウンの戦い

一次カーンズタウンの戦い(First Battle of Kernstown)は、南北戦争2年目の1862年3月23日、バージニア州フレデリック郡とウィンチェスター市で起きた戦闘であり、南軍のストーンウォール・ジャクソン少将によるシェナンドー・バレーを通るバレー方面作戦の緒戦となった。 ジャクソンは、ナサニエル・バンクス少将の全体指揮下にあるバレーの北軍を足止めさせようとしている時に、ネイサン・キンボール大佐の小さな分遣隊が脆弱な状態にあるという情報を受け取った。しかしそれは誤報であり、実際にはジャクソンの部隊の2倍以上ある完全な歩兵師団だった。ジャクソン隊から出た騎兵の攻撃は撃退され、即座にそれを小さな歩兵旅団で補強した。ジャクソンは他の2個旅団でサンディリッジを通り北軍の右翼を包囲しようとした。しかし北軍エラスタス・B・タイラー大佐の旅団がこの動きに対応し、キンボールの旅団がその支援に動いた時に、南軍は戦場から追い出された。北軍はその後追撃を掛けなかった。 この戦闘は南軍の戦術的敗北だったが、北軍が南軍の首都リッチモンドに対して半島方面作戦を仕掛けている時であり、これにシェナンドー・バレーから援軍を送ることを妨げたので、南部にとっては戦略的勝利と考えられる。この戦闘より先に1861年7月2日のホークスランの戦いでジャクソンは敗北したことがあり、常勝と言われたジャクソンにとって第一次カーンズタウンの戦いは数少ない敗北の2つ目となった。.

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第二次チャールストン港の戦い

二次チャールストン港の戦い(だいにじチャールストンこうのたたかい、Second Battle of Charleston Harbor、またはチャールストン港包囲戦、ワグナー砦包囲戦、モリス島の戦い)は、南北戦争の1863年7月18日から9月7日にサウスカロライナ州チャールストン近くで起きた戦闘である。北軍は陸海共同軍で、南軍のチャールストン守備隊を攻撃した。.

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第二次メンフィスの戦い

二次メンフィスの戦い(だいにじメンフィスのたたかい、英:Second Battle of Memphis)は、南北戦争中の1864年8月21日に、テネシー州シェルビー郡で行われた戦闘である。 1864年6月のブライス交差点の戦いや7月のトゥーペロの戦いに続いて北軍の後方をかき回すため、南軍ネイサン・ベッドフォード・フォレスト少将による作戦行動だった。.

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第二次ラッパハノック駅の戦い

二次ラッパハノック駅の戦い(だいにじラッパハノックえきのたたかい、Second Battle of Rappahannock Station)は、南北戦争3年目の1863年11月7日、バージニア州のオレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道のラッパハノック駅のある村近く(現在のレミントン町)で起きた戦闘である。ブリストー方面作戦の一部として、南軍はジュバル・アーリー少将の指揮下で、北軍はジョン・セジウィック少将の指揮下で起こった。この戦闘は北軍の勝利に終わった。なお、一年前の1862年8月の北バージニア方面作戦中に、やはりラッパハノック駅の近くで戦闘が起きており、これを第一次ラッパハノック駅の戦いと呼んでいる。.

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第二次リーム駅の戦い

二次リーム駅の戦い(だいにじリームえきのたたかい、Second Battle of Ream's Station)は、南北戦争中の1864年8月25日、バージニア州ディンウィディ郡で起きた戦闘である。6月に始まったピーターズバーグ包囲戦の中で、北軍ウィンフィールド・スコット・ハンコック少将の指揮する軍隊が、ピーターズバーグにいるロバート・E・リー将軍の南軍にとって重要な供給線であるウェルドン鉄道の部分の破壊を始めた。リーはハンコック軍の動きを妨害するために、A・P・ヒル中将指揮下の軍隊を送り、リーム駅付近で防御を固めていた北軍を潰走させることができた。しかし、鉄道の重要な部分が失われ、この方面作戦の残り期間は兵站の難しさが酷くなった。.

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第二次ワグナー砦の戦い

マサチューセッツ第54連隊が突撃した軌跡 戦いの様子を描いた絵画『古き旗は地に着かない』 第二次ワグナー砦の戦い(だいにじワグナーとりでのたたかい、Second Battle of Fort Wagner、他に第二次モリス島襲撃、モリス島ワグナー砦の戦い)は、南北戦争3年目の1863年7月18日、サウスカロライナ州チャールストン近くで行われた戦闘である。北軍のクインシー・A・ギルモア准将が指揮する部隊が南軍のワグナー砦を襲撃したが失敗した。ワグナー砦はチャールストン港の南、モリス島にあった。この戦闘は第一次ワグナー砦の戦いから1週間後に起こった。.

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第二次ブルランの戦い

二次ブルランの戦い(だいにじブルランのたたかい、英:Second Battle of Bull Run、南部での呼称は第二次マナサスの戦い英:Battle of Second Manassas)は、南北戦争の東部戦線の一部であり、1862年8月28日から8月30日に戦われた。南軍の将軍ロバート・E・リーの北バージニア軍によって、北軍のジョン・ポープ少将のバージニア軍に対抗して遂行された攻撃的作戦の頂点をなすものであり、1861年に同じ場所で戦われた第一次ブルランの戦い(第一次マナサスの戦い)よりもはるかに大きな規模と戦力で戦われた。 南軍のストーンウォール・ジャクソン少将は広範囲に及ぶ敵の側面に回り込む行軍に続いて、バージニア州マナサスの鉄道結節点にあった北軍の補給庫を占領し、北軍ポープ将軍のワシントンD.C.との通信線を脅かした。ジャクソンは北西へ数マイル後退し、ストーニー・リッジで防御的布陣を行った。1862年8月28日、ジャクソンはグラブトン近くのブローナー農園で北軍の1隊を攻撃したが、引き分けに終わった。同じ日、ジェイムズ・ロングストリート少将が指揮するリー軍の1翼がサラフェアギャップの戦いで北軍の軽い抵抗を突破し、戦場に近付いた。 ポープはジャクソンが罠に嵌ったと確信するようになり、その軍の主力をジャクソンに集中させた。8月29日、ポープは工事中の鉄道路盤に沿って陣取ったジャクソン軍に繰り返し攻撃を掛けさせた。この攻撃は両軍に大きな損失を与えたが北軍が撃退された。正午、ロングストリート軍がサラフェアギャップから戦場に到着し、ジャクソン軍の右翼に陣取った。8月30日、ポープは改めて攻撃を掛けさせたが、ロングストリートが戦場に到着したことを知らないようであった。北軍フィッツ・ジョン・ポーターの第5軍団による攻撃に対して南軍が集中砲火を浴びせて打撃を与え、ロングストリートの5師団25,000名からなる右翼が反撃を行ったが、これは南北戦争の中でも最大の同時集中攻撃になった。北軍の左翼が崩壊し、ブルラン川の後方に撤退した。北軍後詰め部隊の効果的な行動により、第一次マナサスの戦いのような惨事の再現だけは免れた。それでもポープ軍のセンタービルへ向けた撤退は慌ただしいものだった。.

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第二次ピーターズバーグの戦い

二次ピーターズバーグの戦い(Second Battle of Petersburg、またはピーターズバーグへの攻撃、(Assault on Petersburg)は、南北戦争のリッチモンド・ピーターズバーグ方面作戦(一般にはピーターズバーグ包囲戦とも呼ばれる)の開始時点、1864年6月15日から18日に、南軍ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍がピーターズバーグを補強できる前に、北軍のユリシーズ・グラント中将がピーターズバーグ市を奪おうとした戦闘である。 P・G・T・ボーリガード将軍の指揮する実質的に勢力の劣る南軍に対して北軍は4日間にわたって猛攻を繰り返したが、ボーリガードの強力な防衛陣地と、北軍の将軍達の協調が取れていなかった攻撃のために、勢力の格差を帳消しにしてしまうことになった(特に北軍のウィリアム・F・"ボールディ"・スミス少将は6月15日のまたとない機会を見過ごしてしまった)。6月18日までに、リー軍の少なからぬ援軍が到着し、それ以上の攻撃を実行できなくした。この戦闘で北軍が南軍を敗れなかったために10ヶ月におよぶピーターズバーグ包囲戦が始まることになった。.

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第二次ディープボトムの戦い

二次ディープボトムの戦い(だいにじディープボトムのたたかい、Second Battle of Deep Bottom、またはファッセルのミルの戦い(特に南部で)、ニューマーケット道路の戦い、ベイリーのクリークの戦い、チャールズシティ道路の戦い、ホワイトの酒場の戦いと様々に呼ばれる)は、南北戦争中の1864年8月14日から20日、バージニア州ヘンライコ郡のディープボトムで起きた戦闘である。6月に始まったピーターズバーグ包囲戦の中で起きた。 8月13日から14日に掛けての夜、ウィンフィールド・スコット・ハンコック少将の指揮する軍隊がディープボトムでジェームズ川を渡り、アメリカ連合国の首都リッチモンドに脅威を与え、ピーターズバーグ、塹壕、およびシェナンドー渓谷から南軍を誘き出した。8月14日、北軍第10軍団がニューマーケット・ハイツに接近し、一方第2軍団がベイリーのクリークに沿って右翼に北軍の前線を伸ばした。この夜、第10軍団がファッセルのミルに近い北軍右翼に移動した。8月16日、北軍がミルの近くで攻撃して当初は成功したが、南軍が反撃して北軍を撃退した。数日小競り合いが続いた後、8月20日夜に北軍はジェームズ川の南岸に戻った。南軍は北軍を追い返すことで脅威を去らせるという目標を達したが、北軍が期待していたようにその勢力を散開させられることになった。.

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第二次フランクリンの戦い

二次フランクリンの戦い(だいにじフランクリンのたたかい、英:Second Battle of Franklin、通常は単にフランクリンの戦いとして知られている)は、南北戦争のフランクリン・ナッシュビル方面作戦の一部として1864年11月30日にテネシー州フランクリンで行われた戦闘である。南軍にとってはこの戦争最大級の惨事となった。北軍のジョン・マカリスター・スコフィールド少将が指揮するオハイオ軍は戦闘の後で戦場を離れたが、南軍は北軍の防御陣に対する正面攻撃を行って失敗した結果、6人の将官が戦死または致命傷を負ったことを含め恐ろしいぐらいの損失を蒙った。西部の「ピケットの突撃」と呼ばれることもある。この戦いに続いて12月にはナッシュビルの戦いで南軍は大きな損失を出し、ジョン・ベル・フッド将軍のテネシー軍は戦える軍隊としての終わりを告げた。.

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第二次フィッシャー砦の戦い

二次フィッシャー砦の戦い (だいにじフィッシャーとりでのたたかい、Second Battle of Fort Fisher ) は、南北戦争の終戦近くにノースカロライナ州ウィルミントン郊外フィッシャー砦に対して、北軍の陸軍と海軍が合同で行った攻撃である。 フィッシャー砦は「南部のジブラルタル」と言われることもある南軍最後の主要海岸拠点であり、南北戦争を通じて莫大な戦略的価値があった。.

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第二次インディペンデンスの戦い

二次インディペンデンスの戦い(だいにじインディペンデンスのたたかい、Second Battle of Independence)は、南北戦争の終盤に入った1864年10月21日から22日、プライスのミズーリ襲撃の間におきた比較的小さな戦闘であるが、かなり激しい戦いが行われた。戦場はミズーリ州インディペンデンス市を中心にしており、現在では国際連合平和プラザ、ハリー・トルーマン鉄道操車場、ジョージ・ケイレブ・ビンガムの住居、コミュニティ・オブ・クライスト教会の寺院、公会堂、石の教会および本部がある所である。 この戦闘は南軍の スターリング・プライス少将が率いたミズーリ襲撃の行方を決定づける段階の始まりとなった。この翌日に起きたウェストポートの戦いでプライスのミズーリ軍は敗北することになった。この1年前に北軍が「一般命令第11号」を発していたので、その影響をまともに受けたジャクソン郡で起きた戦闘として、南北戦争の中でも最も劇的なものになった。 1862年には第一次インディペンデンスの戦いが起こっていた。このときも南軍の勝利で終わっていた。.

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第二次ウィンチェスターの戦い

二次ウィンチェスターの戦い(だいにじウィンチェスターのたたかい、英:Second Battle of Winchester)は、南北戦争のゲティスバーグ方面作戦の一部として1863年6月13日から6月15日に、バージニア州フレデリック郡およびウィンチェスターで起こった戦闘である。南軍リチャード・イーウェル中将がペンシルベニア州に向かってシェナンドー渓谷を下る途中で、北軍ロバート・H・ミルロイ少将が指揮する守備隊を破り、ウィンチェスター市を占領し、4,000名の北軍兵を捕獲した。.

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第二次カーンズタウンの戦い

二次カーンズタウンの戦い(だいにじカーンズタウンのたたかい、英:Second Battle of Kernstown)は、南北戦争の1864年のバレー方面作戦中1864年7月24日に、バージニア州ウィンチェスターの郊外、カーンズタウンで起こった戦闘である。南軍ジュバル・アーリー中将軍が、北軍ジョージ・クルック准将の部隊を完璧に破り、シェナンドー渓谷から追い出してポトマック川の向こうメリーランド州まで後退させた。.

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第二次ガルベストンの戦い

二次ガルベストンの戦い(だいにじガルベストンのたたかい、英:Second Battle of Galveston、通常は単にガルベストンの戦いと呼ばれる)は、南北戦争中1863年1月1日にテキサス州ガルベストンで起こった戦闘である。南軍ジョン・マグルーダーがガルベストンを占領していた北軍を攻撃し追い出した。 この戦い以前の1862年10月4日に、第一次ガルベストンの戦いが起きており、北軍がガルベストン市を占領してガルベストン港の封鎖に成功していた。.

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第二次コリンスの戦い

二次コリンスの戦い(だいにじコリンスのたたかい、英:Second Battle of Corinth、単に「コリンスの戦い」と呼ばれるのが通常だが、同じ年早くに起こったコリンスの包囲戦と区別するために第二次をつける)は、南北戦争初期の1862年10月3日と10月4日に、ミシシッピ州コリンスで行われた戦いである。イウカ・コリンス方面作戦の2番目の戦闘であり、北軍ウィリアム・ローズクランズ少将が、この時は南軍アール・ヴァン・ドーン少将を破った。.

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第二次スプリングフィールドの戦い

二次スプリングフィールドの戦い(だいにじスプリングフィールドのたたかい、Second Battle of Springfield)は、南北戦争の1863年1月8日、ミズーリ州スプリングフィールドで起きた戦闘である。戦闘は都心部でおこった。南北戦争での市街戦は珍しいことだった。なおスプリングフィールド市では1861年10月にも戦闘が起きていた(第一次スプリングフィールドの戦い)。さらにその前の8月10日にはミシシッピ川流域戦線初期としては最大の戦いになったウィルソンズ・クリークの戦いが起きていた。.

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荒野の戦い

荒野の戦い(こうやのたたかい、英:Battle of the Wilderness)は、南北戦争の中盤1864年5月5日から7日に、北軍ユリシーズ・グラント中将が、南軍ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍に対して起ち上げたオーバーランド方面作戦の最初の戦いである。この戦いで両軍は大きな損失を出し、グラント対リーの流血の多い消耗戦の始まりとなり、最終的にアメリカ連合国首都リッチモンドを囲むまで続いた。戦闘そのものは戦術的に引き分けたが、グラントはその鉾先を逸らし攻勢を継続した。.

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西部戦線 (南北戦争)

西部戦線概観 (1861年–1865年) 南北戦争の西部戦線(せいぶせんせん、英:Western Theater of the American Civil War)は、アメリカ合衆国のミシシッピ川から東、アパラチア山脈から西の地域で北軍と南軍が激突した戦線である。東部戦線とは地理的懸隔もあってやや独立した動きとなっていたが、戦争(1861年-1865年)の後半は東部との連係が重要な課題となった。.

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東部戦線 (南北戦争)

南北戦争の東部戦線(とうぶせんせん、英:Eastern Theater of the American Civil War)は、アメリカ合衆国東部と大西洋岸で北軍と南軍が激突した戦線であり、戦争の全期間(1861年 - 1865年)、主戦場となった。本稿ではその戦いの流れを時間を追って概説する。.

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機雷

EODにより爆破処分される係維機雷。 機雷(きらい)とは、水中に設置されて艦船が接近、または接触したとき、自動または遠隔操作により爆発する水中兵器をいう。水中で人為的に仕掛けられる爆発装置のリムペットマインなどは含まない。機雷は機械水雷の略である。機雷に触れることを触雷(しょくらい)、機雷を設置した海域を機雷原(きらいげん)、機雷を撤去することを掃海という。.

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潜水艦

潜水艦(せんすいかん、Submarine、U-Boot、潛艇)は、水中航行可能な軍艦である。.

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海への進軍

ャーマンの海への進軍(シャーマンのうみへのしんぐん、Sherman's March to the sea)とは、アメリカ南北戦争終盤期の1864年11月15日から12月22日にかけて、北軍のウィリアム・シャーマン将軍がアメリカ南部連合(南軍)の早期降伏を目的として、南部連合の中心州であったジョージア州のアトランタから南東約400キロ先の港町サバナまでの主要部を、50キロから100キロ幅で行った破壊進撃を意味する。鉄道などの基盤、産業施設、個人の資産に至るまでを破壊し、戦争に対する物質的・精神的な支えを喪失させたこの戦いは、後の20世紀の総力戦を予告するものであった。.

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海軍

ョージ・ワシントン アメリカ海軍のアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦 海軍(かいぐん、navy)は軍事作戦のために主に艦艇を使用する軍事組織を言う。.

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悪地の戦い

アルフレッド・サリー准将 悪地の戦い(あくちのたたかい、Battle of the Badlands)は、1864年8月7日から9日に、アメリカ陸軍アルフレッド・サリー准将がダコタ準州で、ラコタ族、ヤンクトナイ族、ダコタ・スー族インディアンに対する遠征を行った間に起きた戦闘である。現在のノースダコタ州メドラ市とセンティネルビュート市の間で起きた。1862年のダコタ戦争で始まった紛争の延長だった。サリーの部隊は悪地を通って進軍し、スー族から大した抵抗も受けなかった。.

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1864年のバレー方面作戦

1864年のバレー方面作戦(1864ねんのバレーほうめんさくせん、英:Valley Campaigns of 1864)は、南北戦争の1864年5月から10月までバージニア州のシェナンドー渓谷で起こった作戦行動と戦闘である。軍事歴史家達はこの期間を3つの別々の「方面作戦」に分割するが、3つを併せて検討しその関連性を見るのが有益である。.

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