229 関係: 城主、城下町、お家騒動、かわらけ投げ、十河存保、南北朝時代 (日本)、卒塔婆、反乱、史跡、史料、吉野川、堤防、堺、堺公方、堀、墓、大内義興、大物崩れ、大阪、大永、天下、天正、天文 (元号)、夫人、如意ヶ嶽の戦い、姫田城、学者、室町幕府、室町時代、宴会、家督、守護、守護所、安土桃山時代、寺町、小字、小笠原長清、小笠原成助、居城、川崎城、上桜城、中富川の戦い、中嶋の戦い、七条城、市場、三好実休、三好之長、三好元長、三好長治、三好長慶、...、三好氏、三好政権、九条政基、平城、平成、平方メートル、幕府、久米田の戦い、享禄、井戸、今切川、会所 (中世)、征夷大将軍、徳島城、徳島バス、徳島県、徳島県の城、徳島県道14号松茂吉野線、徳島県道・香川県道1号徳島引田線、徳島自動車道、応仁の乱、土塁、土橋、地層、地形、地籍調査、僧、ビートたけし、周防国、和歌、和泉国、アメリカ軍、公家、兵庫城、勝瑞駅、国道11号、四国、四国の史跡一覧、四国山地、四国旅客鉄道、石、火災、硯、礎石、神戸淡路鳴門自動車道、秋月城 (阿波国)、空中写真、等持院の戦い、管領、管領代、篠原自遁、篠原長房、細川和氏、細川真之、細川頼之、細川頼有、細川頼春、細川詮春、細川高国、細川氏、細川氏綱、細川清氏、細川澄之、細川澄元、細川持隆、細川成之、細川政元、細川政権 (戦国時代)、細川晴元、紀伊水道、続日本100名城、緑色片岩、美人、羽子板、経済、絵師、終止符、炭化物、畿内、発掘調査、芦屋河原の合戦、芸能人、鎌倉時代、遺構、菩提寺、行政区画、養子縁組、西条城 (阿波国)、要塞、諱、高徳線、高松自動車道、讃岐国、鳴門インターチェンジ、越水城、足利義稙、足利義維、足利義詮、足利義輝、足利義満、軍馬、船岡山合戦、防塁、阿波国、関白、間、藍住インターチェンジ、藍住町、自殺、長宗我部元親、長宗我部氏、酒池肉林、連歌、暗殺、枯山水、東山文化、板西城、板野インターチェンジ、板野郡、村田修三、桂川原の戦い、武家屋敷、歌人、水濠、永正、永正の錯乱、江口の戦い、江戸時代、池、洪水、淡路国、湾、湿地、木津城、戦国時代 (日本)、戦闘、戦死、明治、海岸、文化、文化人、日本、日本の城、日本の城一覧、播磨国、支城、政治、教育委員会、承久の乱、書家、1338年、1340年、1362年、1363年、1462年、1507年、1509年、1519年、1520年、1526年、1552年、1562年、1564年、1576年、1577年、1582年、15世紀、16世紀、1945年、1994年、1997年、1999年、1月29日、2000年、2001年、2004年、2005年、2007年、2017年。 インデックスを展開 (179 もっと) »
城主
城主(じょうしゅ)は「城の主」、「一城の主将」。 関連する役割として、城主当代の代理の「城代」、城を守るだけに派遣された守備大将「城将」と呼ばれる者たちが居る。.
城下町
山城(波賀城)と城下町 熊本城の城下町 龍野城の城下町 和歌山城の城下町 城下町(じょうかまち)とは、日本における都市の形態の一つ。領主の居城を中心に成立した都市である。江戸時代以降は、必ずしも城が中心とは限らず、戦闘を想定しない行政施設としての陣屋を中心とした陣屋町もあるが、広義ではそれらも含めて城下町と呼ぶ。 城下(じょうか)とも呼ばれ、近世以前はこの呼称が一般的であった。.
お家騒動
お家騒動(御家騒動、おいえそうどう)は、江戸時代の大名家における内紛である。現代においては、比喩的に企業(同族経営の会社に多い)や家族といった組織における内部抗争をお家騒動に擬えて呼ぶことがある。.
かわらけ投げ
かわらけ投げ(かわらけなげ、土器投げ、瓦投げ)は、厄よけなどの願いを掛けて、高い場所から素焼きや日干しの土器の酒杯や皿を投げる遊びである。 京都市の神護寺が発祥の地とされる。以後、日本各地の高台にある花見の名所などで、酒席の座興として広まったとされる。 古くからの観光地などでは、現在でもかわらけ投げが行える場所がある。.
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十河存保
十河 存保(そごう まさやす / ながやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。.
南北朝時代 (日本)
南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.
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卒塔婆
卒塔婆(そとうば、そとば).
反乱
反乱・叛乱(はんらん、rebellion、insurgency、uprising)とは、国家等の支配者に対して被支配層が個人で、もしくは徒党を組み、暴力的、破壊的、示威的行動によって何らかの不満を表明し、その不満の原因解決を迫り、あるいは被支配層みずからの手で不満の原因を解決しようとする行為である。 漢字圏の歴史上の叛乱には「~の乱(らん)」とのみ呼ばれるものもあるが、「乱」に反乱の意味はなく、この場合の「乱」は単に「世が乱れること」を意味している。 また、国家的規模でなくとも、軍隊の構成員や船の乗組員などが共謀して公然と上官等の権威に対抗する場合も反乱という。この場合の反乱には英語では「」の語が充てられる。 なお、この語はあくまで反乱を「起こされる側」の表現であり、実際に「起こす側」が自ら反乱と言うことはなく「決起」などと呼ぶ。 フィクションにおいては人間同士にとどまらず、人間以外の動物などの人間と同等の意思や知性等を持たない生物、人工知能などの無生物が人間に対して牙をむくような場合も反乱として扱われる。.
史跡
特別史跡「姫路城跡」(兵庫県姫路市) 史跡(しせき、非常用漢字:史蹟)とは、貝塚、集落跡、城跡、古墳などの遺跡のうち歴史・学術上価値の高いものを指し、国や自治体によって指定されるものである。この語は一般には遺跡全般と同義で現在においてもその意味で使用される場合も多いが、日本においては1919年(大正8年)の史蹟名勝天然紀念物保存法以降、特に法律で指定保護されている遺跡を指すようになり、現在では狭義の「史跡」は文化財の種別の一つとして文化財保護法第109条第1項に規定されている。.
史料
史料(しりょう、Quellen、Source, historical materials)は、歴史を考察する上で手がかりになるもののことで、紙に文字で書き記された文献や、考古学上の遺構・遺物・遺跡、イメージ史料となる絵画、写真、オーラル・ヒストリー、伝承などを含む。歴史家が歴史を研究・記述する際に用いるあらゆるものが史料である(紙の代わりに古くは木簡・竹簡、粘土板、石板などにも書かれたが、これらは伝世品であれば「文献」と言い、出土品なら遺物と言いわけるのが一般的である)。.
吉野川
吉野川(よしのがわ)は、一級水系である吉野川水系の本川で、高知県および徳島県を流れる幹川流路延長194 km、流域面積3,750 km2の河川である。最長川幅は荒川の2,537 mに次いで広く、2,380 mである。 日本三大暴れ川の1つとして数えられ、利根川(坂東太郎)・筑後川(筑紫次郎)と並び四国三郎(しこくさぶろう)の異名を持つ。(順位争いで「四国次(二)郎」といわれることもある)。.
堤防
堤防(ていぼう)とは、人家のある地域に河川や海の水が浸入しないように、河岸や海岸に沿って土砂を盛り上げた治水構造物のことである。一部は、土手(どて)とも呼ばれる。 鳥取市鹿野).
堺
堺(さかい)は、大阪湾に面し、大阪市(大坂)の南に位置する都市。また、その市街地を中心とする地域。 地名は、方違神社付近がかつて摂津国・河内国・和泉国の3国の「境(さかい)」であったことに由来する。市街地はその西方に形成され、大小路通を境に摂津国住吉郡と和泉国大鳥郡に跨っていた。.
堺公方
堺公方(さかいくぼう)は、大永7年(1527年)から享禄5年(1532年)にかけての足利義維に対する呼称である。堺大樹(さかいたいじゅ)とも呼ばれた(大樹は将軍の意)。義維はこの時期和泉国堺にあって、異母兄の将軍足利義晴と対峙した。堺公方の奉行人はほとんど幕府同様に文書を発給していたことから、その体制を堺幕府と呼ぶ研究者もいる。 永正5年(1508年)以来曲がりなりにも室町幕府を担ってきた管領細川高国の陣営に内紛が起こり、それをきっかけに長らく阿波国に逼塞していた対立陣営の義維・細川晴元・三好元長らが堺に進出し、そこを拠点に将軍・細川管領家(京兆家)家督の座や畿内の支配を目指した。その活動期間中、将軍義晴はほぼ近江国内に亡命しており、江州大樹(ごうしゅうたいじゅ)などと呼ばれていた。巻き返しを図って奔走した高国は享禄4年(1531年)に敗れて(大物崩れ)自害したが、堺公方側は間もなく内訌を始め、将軍への接近を試みる細川晴元が三好元長を滅ぼすと、義維も阿波へ没落し、その活動に幕が下ろされた。 明応の政変以降、足利将軍家は将軍とその対抗者の両流に分かれたが、永正の錯乱・等持院の戦いと時に立場を入れ替え、やはり分裂していた京兆家の一方とそれぞれが結び付きながら相克を繰り返した。堺公方と幕府の両陣営が覇権を争って拮抗したのも、その流れの末に生じた事態であった。この時の堺公方陣営は、幕府並みの体制を敷いて畿内を勢力範囲に収め、しかも幕府側の中核であった細川高国を倒しながら、幕府(義晴政権)に取って代わる前に、あっけなく自壊したのであった。.
堀
松本城の堀 大坂城の堀 堀(ほり)は、敵や動物の侵入を防ぐため、古代から近世にわたって、城、寺、豪族の住居、集落、古墳などの周囲に掘られた溝のことである。.
墓
墓(はか)は遺体または遺骨を収めて故人を弔う構造物 亘徳、2017年2月6日閲覧。墳墓(ふんぼ)、墳塋(ふんえい)ともいう。一般に墓石・墓碑などの目印を置き、これを墓標(ぼひょう)という。また、この墓石・墓碑を指して墓ということもある。.
大内義興
大内 義興(おおうち よしおき)は、室町時代後期から戦国時代にかけての周防(山口)の戦国大名。周防の在庁官人・大内氏の第15代当主。 父は周防守護で大内氏の第14代当主・大内政弘。弟(一説に庶兄とも)に大内高弘(隆弘とも、初めは出家して大護院尊光)がいる。正室は長門守護代・内藤弘矩の娘。子に義隆(第16代当主)、娘(大友義鑑正室、後に大友義鎮(宗麟)や大内義長(第17代当主)がこの間に生まれる)。室町幕府の管領代となって将軍の後見人となり、周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城の7ヶ国の守護職を兼ねた。.
大物崩れ
大物崩れ(だいもつくずれ)は、戦国時代初期の享禄4年6月4日(1531年7月17日)、摂津大物(現在の兵庫県尼崎市大物町)で行われた合戦。赤松政祐・細川晴元・三好元長の連合軍が、細川高国・浦上村宗の連合軍を破った戦い。大物崩れの戦い・天王寺の戦い・天王寺崩れとも呼ばれる。.
大阪
大阪(おおさか、Ōsaka)は、日本の近畿地方(関西地方)の地名である。日本第二の都市・西日本最大の都市である大阪市(狭義の大阪)と、大阪市を府庁所在地とする大阪府を指す地域名称であり、広い意味では大阪市を中心とする京阪神(近畿地方、大阪都市圏、近畿圏)を漠然と総称することにも使われる。近畿の経済・文化の中心地で、古くは大坂と表記し、古都・副都としての歴史を持つ。.
大永
大永(だいえい、たいえい)は、日本の元号の一つ。永正の後、享禄の前。1521年から1527年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇、後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義稙、足利義晴。.
天下
華夷思想に基づくもの。「天下」概念は時代および国によってその定義が異なるため、これはあくまで実例の一つである。赤の範囲が「華」あるいは「夏」の領域で、一般庶民に至るまで漢の礼制・法制にしたがう。青は漢の徳の及ぶ「外臣」および「朝貢国」の領域で、「外臣」とは漢皇帝に臣属した夷狄の君主たち。「外臣」の国では外臣のみが漢の礼制・法制にしたがう。その外側にはいまだ漢の徳の及んでいない「化外」の領域がある。外臣・朝貢国・化外は基本的に「夷」の領域である。一般に「天下」概念は観念上にこのような同心円的構造をもって成立する 天下(てんか、てんが、てんげ、あめのした)は、全世界を意味する概念。字義的には「普天の下」という意味で、地理的限定のない空間のことであるが、用法によっては一定の地理概念と同じ意味に用いられることもある。また一般に天下は、一定の秩序原理を伴い、その対象とされる地域・民衆・国家という形で捉えられる。すなわち一般に「世界」は「世界観」がなくても客観的に存在しているものと認識されるが、「天下」は一定の秩序原理によって観念的に成立している。.
天正
天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.
天文 (元号)
天文(てんぶん、てんもん)は、日本の元号の一つ。享禄の後、弘治の前。1532年から1555年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義晴、足利義輝。.
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夫人
夫人(ふじん、ぶにん).
如意ヶ嶽の戦い
如意ヶ嶽の戦い(にょいがたけのたたかい)は、永正6年6月17日(1509年7月4日)の夜半に現在の京都市左京区の如意ヶ嶽周辺で行われた戦い。大規模な戦闘になったのか、京都への再侵攻を試みたのか、阿波国への帰着の突破を計ろうとしたのかは不明。地図などによると如意ヶ谷と記載されることもある。.
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姫田城
姫田城(ひめだじょう)は、徳島県鳴門市大麻町姫田にあった日本の城。.
学者
学者(がくしゃ)とは、何らかの学問の研究や教授を専門職とする人、およびその職業人の総称である。研究者(けんきゅうしゃ)とも言う。学問の専門家。.
室町幕府
花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.
室町時代
室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.
宴会
宴会場 宴会(えんかい)とは、飲食を共にすることによりお互いのコミュニケーションを深める行為をいう。通常2 - 3人程度で行うものは宴会とはいわず、ある程度まとまった人数で行う場合に宴会という。類義語として、宴(うたげ)、饗宴(きょうえん)、飲み会(のみかい)、パーティなどがある。.
家督
家督(かとく)とは、家父長制における家長権を意味する。鎌倉時代に家督の嫡子単独相続、遺産の分割相続が原則とされた。室町時代に両者とも嫡子相続を原則としたが、現実には完全な制度として確立しておらず、内紛が発生した。のち江戸幕府の絶対的な権力を背景として、家督の嫡子単独相続が確立した。 なお、主に武家においては、断絶した家名を他氏の者が相続することを名跡を継ぐといい、実子または血縁者が相続する場合の家督継承と区別された。主な例としては平姓畠山氏を源氏の足利義純が相続し、源姓畠山氏に変わった事などが知られている。 また、鎌倉時代には家督権は財産権とあわせて跡職(跡式)・跡目と称して嫡子が継いだが、庶子に分割する相続財産をも跡職と称した。その後、江戸時代には先代の死亡にともなう相続の場合を跡目相続、先代の隠居による場合を家督相続と呼び分けた。 明治憲法下においても家制度の一環として法制度として存続したが、日本国憲法施行直後の民法大改正によって廃止された。とはいえそれから70年以上経った今日でも家督を重んじる社会通念が西日本を中心に残っている。.
守護
守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.
守護所
守護所(しゅごしょ)とは、中世日本において守護が居住した館の所在地のこと。守護の政治的権限の拡大とともに政庁所在地としての機能が国衙より移されていった。.
安土桃山時代
安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。 なお、美術史では1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡までを「安土桃山時代」と称するのが一般的である。.
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寺町
寺町(てらまち)とは、寺院が集中して配置された地域につけられる町名であり日本全国の都市に見られる。多くの城下町においては寺院を都市の外縁にまとめ、攻撃の際の盾とする意図があった。.
小字
小字(こあざ)とは市区町村内の区画である字(あざ)のうち、大字を除くものにあたり、一筆耕地が集合したものを指す藤岡謙二郎・山崎謹哉・足利健亮『日本歴史地理用語辞典 新装版』平成3年(1991年)1月、柏書房、P8。ISBN 476010612X。単に字(あざ、あざな)ともいう。これはヨーロッパにおける耕区()にあたる。近世からの村(藩政村)が明治の市町村合併によって大字となり、これと旧来からの字を区別して「小字」と呼ぶようになった『国史大辞典 第一巻』吉川弘文館、昭和54年(1979年)3月、P117。。.
小笠原長清
小笠原 長清(おがさわら ながきよ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の甲斐国の武将。甲斐源氏の一族である加賀美遠光の次男。 信濃守護家小笠原氏、弓馬術礼法小笠原流の祖。.
小笠原成助
小笠原 成助(おがさわら なりすけ、生年不明 - 天正10年(1582年))は、安土桃山時代の武将。長門守を称す。阿波小笠原氏の当主。一宮城を居城とした事から「一宮成助」とも呼ばれる。名の読み方は「なりすけ」で、成祐や成佐など同音異字の表記がある。妻は三好長慶の妹、野口冬長女。.
居城
居城(きょじょう)とは、領主が普段から住む城。または、領主が拠点とする城をいう。しばしば本城と呼ばれる場合もある。城に領主などが住む、または本拠としていることを意味する形容動詞の言葉として使われることがある。 また、拠点とする建造物が館である場合には居館(きょかん)という。館は城郭に比して防御力に劣るため、合戦に備えて防衛拠点(山城や支城など)を近くに設けることが多く、戦国時代中期ごろまでは、平時は山麓などの居館に領主が住み、合戦が始まると山城などに籠もった。戦国時代後期以降は、平時・有事ともに対応する大規模な城郭(平城・平山城)を構築するようになり、居館は城郭と一体化するようになった。.
川崎城
川崎城(かわさきじょう).
上桜城
上桜城(うえざくらじょう)は、徳島県吉野川市川島町桑村にあった日本の城。徳島県指定史跡。.
中富川の戦い
中富川の戦い(なかとみがわのたたかい)は、天正10年(1582年)、阿波国へ攻略を目指す土佐国の長宗我部元親と、これを阻もうとする勝瑞城を本陣とする十河存保以下の三好氏諸将との間で起きた戦いである。攻防戦は約20日間行われた戦いで、人的被害は阿波国史上最高のものであった。.
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中嶋の戦い
中嶋の戦い(なかじまのたたかい)は、享禄4年3月10日(1531年3月28日)から同年5月後半までの摂津中嶋・天王寺周辺で行われた戦い。別名「天王寺の戦い」とも呼ばれており、その後の大物崩れにつながっていく。.
七条城
七条城(しちじょうじょう)は、徳島県板野郡上板町七條にあった日本の城。.
市場
ポルトガルの市場 シンガポールの市場 市場(いちば、しじょう、market、 マーケット)とは、定期的に人が集まり商いを行う場所、あるいは、この市場(いちば)における取引機構に類似した社会機構の概念を指す。「市(いち)」「市庭」とも言う。.
三好実休
三好 実休(みよし じっきゅう)は、戦国時代の武将。三好氏の家臣。三好元長の次男。.
三好之長
三好 之長(みよし ゆきなが)は、戦国時代の武将。三好長慶の曽祖父(または祖父)にあたり、三好氏が畿内に進出するきっかけを作り出した名将である。.
三好元長
三好 元長(みよし もとなが)は、戦国時代の阿波国の武将。細川晴元(六郎)に仕え、その偏諱を与えられて元長と名乗る。 父に関しては三好長秀という説が有力であるが、祖父で長秀の父・三好之長の子という説もある。本来ならば之長の後継者だった長秀が早くに戦死したため、之長が元長を長秀の養子にしたという説もある。.
三好長治
三好 長治(みよし ながはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての阿波国の大名。.
三好長慶
三好 長慶(みよし ながよし)は、戦国時代の武将。畿内・阿波国の戦国大名。室町幕府の摂津国守護代、相伴衆。 細川政権を事実上崩壊させ、室町幕府将軍・足利義晴、足利義輝共々京都より放逐し、三好政権を樹立する。その後は足利義輝、六角義賢、畠山高政らと時に争い、時に和議を結び畿内の支配者として君臨した。.
三好氏
三好氏(みよしし)は、日本の氏族の一つ。信濃源氏の一族で鎌倉時代の阿波守護・小笠原氏の支流。室町時代には阿波守護細川氏の守護代を務め、戦国時代に細川氏に対して下剋上を起こし、阿波をはじめとする四国東部のみならず畿内一円に大勢力を有し、三好政権を築いた。.
三好政権
三好政権(みよしせいけん)とは、天文18年(1549年)から永禄11年(1568年)まで存在した日本の武家政権である。同時代における他の戦国大名の地方政権とは大きく異なる中央政権であったと言われる。そのため、織田政権の前提となる「プレ統一政権」であると評価されることもある。.
九条政基
九条 政基(くじょう まさもと、文安2年5月7日(1445年6月12日) - 永正13年4月4日(1516年5月5日))は、室町時代末期から戦国時代初期の公家。関白・九条満家の子。従一位・関白・左大臣・准三宮。「政」の字は足利義政から偏諱を受けたものである。慈眼院と号す。.
平城
平城(ひらじろ、ひらじょう)は、平地に築かれた城をいう。江戸時代の軍学者により分類された地勢による城郭分類法の一つである。.
平成
平成(へいせい)は日本の元号の一つ。昭和の後。今上天皇在位中の1989年(平成元年)1月8日から現在に至る。2001年(平成13年)の始まりには西暦における20世紀から21世紀への世紀の転換もあった。2019年(平成31年)4月30日に今上天皇退位により終了する予定であり、予定通り終了した場合、30年113日間(=11,070日間)にわたることとなる。なお、日本の元号では昭和(64年)、明治(45年)、応永(35年)に次いで4番目の長さである(5番目は延暦の25年)。 西暦2018年(本年)は平成30年に当たる。本項では平成が使われた時代(平成時代)についても記述する。.
平方メートル
平方メートル(へいほうメートル、square metre)は、計量法および国際単位系 (SI) における面積の単位である。1平方メートルは、「辺の長さが一メートルの正方形の面積」と定義される。 日本では、メートルを「米」と書くことから、「平方米」を略して平米(へいべい、へーべー)と略したり発音される場合もある。ただし計量法では、「平米」の表記も「へいべい」、「へーべー」の読みも認められていない。 平方メートルの単位記号は、mである。大文字によるMは用いることはできない。 1平方メートルは以下に等しい。.
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幕府
幕府(ばくふ)は、日本の中世及び近世における征夷大将軍などの武家の最高権力者を首長とする武家政権のことをいう。あるいはその武家政権の政庁、征夷大将軍の居館・居城を指す名称としても用いられる。近衛大将の唐名。.
久米田の戦い
久米田の戦い(くめだのたたかい)は、永禄5年(1562年)3月5日、和泉国八木郷の久米田寺周辺(現大阪府岸和田市)に布陣する三好実休に対し、畠山高政が攻め入った合戦。両軍併せて17,000から50,000の兵力が激突し、三好実休はこの合戦にて戦死を遂げ、三好氏没落の遠因となった合戦とされる。 同時期に、六角義賢が畠山高政と同調して京都でも三好氏と戦となったため、別名「南北接激戦」とも言われている。.
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享禄
享禄(きょうろく)は、日本の元号の一つ。大永の後、天文の前。1528年から1531年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義晴。.
井戸
戦国時代の井戸。井桁を備え、つるべと桶で使用する。 井戸(いど)は地下水、温泉、石油、天然ガスなどをくみ上げるため、または水を注入するために、地面を深く掘った設備である。 一般に「井戸」といった場合には地下の帯水層から地下水を汲み上げるために地層や岩石を人工的に掘削した採水施設を指すことが多い河野伊一郎著 『地下水工学』鹿島出版会 p.43 1989年野本寛一編『食の民俗事典』柊風舎 p.531 2011年。以下、地下水を汲む井戸を中心に説明する。.
今切川
今切川(いまぎれがわ)は、吉野川水系の支流で主に徳島県徳島市の北端を流れる河川である。一級河川に指定されている。.
会所 (中世)
会所(かいしょ)とは、文字通り解釈すれば、なんらかの会、催し物、寄合・会合が行われるところであるが、日本の中世期に発展して、ある特定の区画、さらには独立した建物が「会所」と名づけられることもあった。特に、会所が最も発達した室町時代については、節を設けて詳しく解説する。また、江戸時代における会所については会所 (近世)を参照のこと。.
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征夷大将軍
征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.
徳島城
徳島城の航空写真(1974年撮影・国土航空写真) 徳島城(とくしまじょう)は、徳島県徳島市徳島町にあった日本の城。城跡は国指定の史跡、名勝(表御殿庭園)になっている。.
徳島バス
徳島バス株式会社(とくしまバス、英称: TOKUSHIMA BUS Co., Ltd. )は、徳島県最大の路線バス・高速バス・貸切バス事業者である。徳島市に本社がある。1961年3月25日に南海電気鉄道と資本提携してからは、同社の関連会社となり、同社の持分法適用会社を経て、2009年4月より正式に子会社となった。通称は「徳バス」。本社は徳島県徳島市出来島本町一丁目25番地。 日中戦争の最中に施行された陸運統制令により、存在した県内の9つのバス事業者が統合して発足した「徳島バス統合株式会社」に端を発する。1942年に「徳島統合バス株式会社」に商号変更されたのち、1947年8月31日に現在の商号となり、今日に至る。.
徳島県
徳島県(とくしまけん)は、日本の県の一つ。四国の東部に位置する。県庁所在地は徳島市。.
徳島県の城
徳島県の城(とくしまけんのしろ)は徳島県内にかつてあった城館をとりまとめたものである。.
徳島県道14号松茂吉野線
徳島県道14号松茂吉野線(とくしまけんどう14ごう まつしげよしのせん)は板野郡松茂町広島と阿波市吉野町柿原を結ぶ主要地方道である。終点付近を除けば全線に亘ってロードサイド店が立地し、混雑の度合いが比較的大きい。.
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徳島県道・香川県道1号徳島引田線
徳島県道・香川県道1号 徳島引田線(とくしまけんどう・かがわけんどう1ごう とくしまひけたせん)は、徳島県徳島市から香川県東かがわ市に至る県道(主要地方道)である。.
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徳島自動車道
徳島自動車道(とくしまじどうしゃどう、TOKUSHIMA EXPRESSWAY)は、徳島県鳴門市の鳴門ジャンクション (JCT) を起点とし、愛媛県四国中央市の川之江東JCTに至る延長105.8キロメートル (km) の高速道路である。略称は徳島道(とくしまどう、TOKUSHIMA EXPWY)。 高速道路ナンバリングによる路線番号は、鳴門JCT - 徳島JCT(事業中)間が高松自動車道と松山自動車道(川之江JCT - 松山インターチェンジ (IC) 間)とともに「E11」が、徳島JCT(事業中) - 川之江東JCT間が高知自動車道(川之江JCT - 高知IC間)とともに「E32」が各区間割り振られている。.
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応仁の乱
応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。.
土塁
土塁(どるい、earthwork fortification)とは、敵や動物などの侵入を防ぐために築かれた土製の堤防状の壁である。.
土橋
江戸時代の土橋の例 - 歌川広重『名所江戸百景』より「小梅堤」。曳舟川にいくつもの橋がかかっている。手前の橋に土橋の構造が見てとれる。こうした小規模の橋はたいていこうした造りであった。 土橋(どばし、つちはし、つちばし)は、一般には木の橋の一種で、橋面に土をかけてならした橋である。城における土橋はこれと異なり、堀を横断する通路として設けられる土の堤である。.
地層
アルゼンチン サルタ州 サンカルロスに見られる地層 ポーランド南東部のカルパティア山脈に見られる地層 本記事では地層(ちそう、英:単数形 stratum、複数形 strata)について解説する。.
地形
地形(ちけい、英語:landform)は、地球表面の不均衡のことである。なお、日本語の日常語では地表の高低や起伏の形を指す。.
地籍調査
地籍調査(ちせきちょうさ)とは、国土調査法(昭和26年6月1日法律第180号)に基づく国土調査の一環として行う土地の調査のことである。.
僧
僧(そう、संघ Saṃgha)はサンガを音写した「僧伽」の略で仏教の戒律を守る、男性の出家修行者である「比丘(びく)」と女性の出家修行者である「比丘尼(びくに)」の集団のこと。仏教の三宝の一つ。在家信者を含めた教団を僧(サンガ)とは呼ばず、出家者が四人以上集まったとき僧となる。男性の出家修行者の集団を比丘僧といい、女性の場合は比丘尼僧という。衆あるいは和合衆と訳される。.
ビートたけし
ビートたけし(1947年1月18日 - )は、日本のお笑いタレント、司会者、映画監督である。本名:北野 武(きたの たけし)。東京都足立区島根出身。 タモリ、明石家さんまと共に、日本のお笑いBIG3の一角を担う。日本国外では本名北野 武で、映画監督として知られる。.
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周防国
周防国(すおうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.
和歌
和歌(わか)とは、短歌型式の古典詩。古典短歌。広義には『万葉集』に所収される歌体の総称。 「和歌」の訓は「やまとうた」である。「和」の代わりに「倭」の字が、「歌」の代わりに「謌」、「哥」の字が宛てられたこともある。なお、歌謡と混同されるおそれがない文脈においては「歌」「うた」と表記され、呼ばれることもある。 長連歌、俳諧、狂歌、川柳風狂句は定型の古典詩であるが、和歌には含まれない。また、明治の和歌革新家とその後継者の短歌作品、すなわち近現代短歌は「短歌」と称され、「和歌」とは称されない。近現代短歌はこの項では取り上げない。.
和泉国
和泉国(いずみのくに/いづみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.
アメリカ軍
アメリカ軍(アメリカぐん、United States Armed Forces)は、アメリカ合衆国が有する軍隊。アメリカ合衆国軍(アメリカがっしゅうこくぐん)、合衆国軍(がっしゅうこくぐん)とも呼ばれ、日本では米軍(べいぐん)と略される。.
公家
公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.
兵庫城
兵庫城(ひょうごじょう)は、兵庫県神戸市兵庫区中之島(摂津国兵庫津)周辺にあった日本の城である。尼崎藩時代には兵庫陣屋と呼ばれ奉行が置かれ明治時代には兵庫県庁があった。.
勝瑞駅
勝瑞駅(しょうずいえき)は、徳島県板野郡藍住町勝瑞東勝地にある、四国旅客鉄道(JR四国)高徳線の駅である。駅番号はT03。 池谷駅から乗り入れる鳴門線の列車も利用可能である。.
国道11号
国道11号(こくどう11ごう)は、徳島県徳島市から香川県高松市を経由して愛媛県松山市に至る一般国道である。.
四国
四国内の高速道路網(緑線)および本四架橋を含む県境をまたぐ大規模架橋(青線)。赤星および赤丸は人口上位10都市 四国(しこく)は、日本列島を構成する島の一つである島国 (領土がすべて島から成る国)である日本を構成する6,852の島に対する『国土交通省』による区分け ⇒ 6,852島(本土5島・離島6,847島)。<出典>『国土交通省』サイト 離島振興課 離島とは(島の基礎知識) 2009年11月27日閲覧。 ただし、島について地理学上はこのような分類・区分けはない。。 北海道・本州・九州とともに主要4島の一つでもあり、この中では最も小さい 国土地理院(注:表中の「沖縄島 おきなわじま」は、通称名「沖縄本島」の正式名称)【参考】 日本の島の面積順に上位10島 ⇒ 本州、北海道、九州、四国、択捉島、国後島、沖縄本島、佐渡島、奄美大島、対馬。 国立天文台 (編)理科年表 平成19年版 P565、ISBN 4621077635。。最高標高は石鎚山の1,982mで、福井・石川・岐阜県境の両白山地三ノ峰 (2128m) 以西の西日本では最も高い。面積は18,297.78km2で、世界の島の中では、バナナル島(ブラジル)に次ぐ第50位の大きさである世界の島の面積順位より抜粋、出典 List of islands by area(島:オーストラリア大陸の面積未満で、四方を水域に囲まれる陸地) ------------------------- ------------------------- ------------------------- ------------------------- 四国とその付随する島(小豆島、大三島、大島、中島、伯方島、豊島など)を合わせて「四国地方」と言う地方公共団体(都道府県)別では、徳島県、香川県、愛媛県、高知県の4県が所在する。 。これら付随する島を含めないことを強調したい場合、「四国本土」あるいは「四国島」と呼ぶこともある。(日本の地理・四国、日本の地域・四国地方も参照) 四国には、徳島県、香川県、愛媛県、高知県の4つの地方公共団体(県)があり、4県総人口は3,762,941人であり、概ね横浜市人口に匹敵する,。(表右下 四国地方も参照) 四国の古代の呼称は、「伊予之二名島」・「伊予二名洲」(いよのふたなのしま)である。.
四国の史跡一覧
四国の史跡一覧(しこくのしせきいちらん)は、四国地方にある史跡を一覧形式でまとめたものである。.
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四国山地
四国山地(しこくさんち)は、四国の中央部を東西に貫く山地。中央構造線の南に千数百メートル級の急峻な山々が連なり、さまざまな様相をなしている。四国山脈(しこくさんみゃく)ともいう。 範囲は中央構造線より南側の四国全域に亘る。西南日本内帯に属する讃岐山脈や高縄山地は通常は四国山地に含めない。.
四国旅客鉄道
四国旅客鉄道株式会社(しこくりょかくてつどう、英称:Shikoku Railway Company)は、1987年(昭和62年)4月1日に日本国有鉄道(国鉄)から旅客鉄道事業を引き継ぎ発足したJR旅客鉄道会社のうちの一つ。 旧国鉄四国総局の流れを汲み、四国地方を中心に855.2 kmの鉄道路線を有する。本社は香川県高松市。通称はJR四国(ジェイアールしこく)。コーポレートカラーは水色。会社スローガンは「Always Railways」である。.
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石
石(いし、stone)は、岩より小さく、砂(sand)よりも大きい、鉱物質のかたまり広辞苑第六版【いし 石】。.
火災
火災(かさい)とは、火による災害である。一般的には火事(かじ)ともいう。また、小規模な火災のうちに消し止められたものは小火(ぼや)、焼失面積が大きく被害が甚大なものは大火(たいか)ともいう。被害は有形財産の焼失はもとより、怪我人や死者がでることも頻繁にある。.
硯
硯(すずり)は、墨を水で磨り卸すために使う、石・瓦等で作った文房具である。中国では紙・筆・墨と共に文房四宝のひとつとされる。硯及び附属する道具を収める箱を硯箱といい、古来優れた工芸品が多数あり、一般に硯箱は、桐や花梨でできているものが多い。.
礎石
多宝塔の礎石(離宮八幡宮) 礎石(そせき)とは、建造物の土台(礎)となって、柱などを支える石のこと。転じて、ものごとの土台や基礎のことをさす。 礎石を用いない場合、柱が直接地面と接することから湿気や食害などで腐食や老朽化が早く進む。 近代以前の建物において通常使われるものであったため、地震による倒壊や焼失をした後でも礎石だけは残り、後世、歴史などを知る貴重な資料となる。.
神戸淡路鳴門自動車道
戸淡路鳴門自動車道(こうべあわじなるとじどうしゃどう、KOBE-AWAJI-NARUTO EXPWY)は、本州四国連絡道路 神戸・鳴門ルートであり、兵庫県神戸市の山陽自動車道 神戸西インターチェンジ (IC) を起点とし、徳島県鳴門市の高松自動車道 鳴門ICに至る、延長89.0キロメートル (km) の高規格幹線道路(国道28号の自動車専用道路)である。略称は神戸淡路鳴門道、神淡鳴道(しんたんめいどう)。 高速道路ナンバリングによる路線番号は、「E28」が割り振られている。 本州の神戸市から、明石海峡を渡り淡路島を縦断、さらに鳴門海峡を渡り四国の鳴門市に至る、本州四国連絡道路の3ルートのうちの1つ。.
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秋月城 (阿波国)
秋月城(あきづきじょう)は、室町時代の阿波国阿波郡秋月庄(現在の徳島県阿波市土成町秋月)にあった日本の城。阿波市指定史跡。.
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空中写真
アメリカのマンハッタンの航空写真(斜め写真)(1942年撮影) 空中写真(くうちゅうしゃしん)とは、飛行中の飛行体一般的には飛行機、ヘリコプター、グライダー、超軽量動力機、飛行船、気球などの航空機、無線操縦の模型飛行機、パラモーター、パラグライダー、ハンググライダー、パラシュート、凧などが利用される。からカメラにより地表面を撮影した写真のこと。航空写真、空撮空撮と略した場合は、映画やビデオなどの動画撮影も含まれる。とも。 リモートセンシング衛星の衛星画像の場合はトゥルーカラー画像やナチュラルカラー画像のことを指す。.
等持院の戦い
等持院の戦い(とうじいんのたたかい)は、戦国時代の永正17年(1520年)5月5日に山城国等持院(現在の京都府京都市北区)で細川高国軍と三好之長軍との間で行われた戦い。この戦いで勝利した高国は細川氏当主の座を固め、13年にも及ぶ家督争い(両細川の乱)に一旦決着を付け、室町幕府管領として権勢を振るった。.
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管領
管領(かんれい)は、以下の役職・地位およびその座にあった者を指す名称。.
管領代
管領代(かんれいだい)とは室町幕府の職名。 永正5年(1508年)、室町幕府10代将軍足利義稙が将軍に再任された時、管領細川高国とは別に山城守護大内義興が管領代に任ぜられたとの記録がある。 戦国時代には実質上管領家は細川氏のみであったため、管領は将軍の就位儀式時以外は補任されず、その時管領に故障があった場合、管領代が指定されて管領の職務を代行した。史料的には天文15年(1546年)、13代将軍足利義輝が近江坂本で将軍に就任した時、近江守護六角定頼がこの職に補任されたのが唯一の例である。 なお、応仁の乱後に細川政元が明応の政変を引き起こし、細川氏が事実上幕府を壟断するようになって、同氏の内衆が幕府奉行人と並んで重要政務に奉書を発給するようになるが、これら細川氏奉行人は幕府から右京兆代(京兆は細川氏の極官である右京大夫の唐名を指す)と呼ばれたため、細川氏奉行人を管領代、その発給文書を管領代奉書と呼ぶ研究者もある。 Category:室町幕府の職制 Category:中世日本の称号.
篠原自遁
原 自遁(しのはら じとん)は、戦国時代から安土桃山時代の阿波国の武将。木津城主。.
篠原長房
原 長房(しのはら ながふさ)は戦国時代の武将。三好氏の家臣で阿波国麻植郡上桜城主。篠原長政の子。 三好長慶の弟・三好実休の重臣であり、実休討死の後は遺児・三好長治を補佐し阿波において三好家中をまとめた。三好氏の分国法である新加制式の編纂にあたるなど、能吏として知られる一方で、阿波・讃岐両国の軍勢を率いてしばしば畿内へ出兵した。.
細川和氏
細川 和氏(ほそかわ かずうじ / - ともうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。細川公頼の子。.
細川真之
細川 真之(ほそかわ さねゆき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。 通称は、六郎、掃部頭。阿波守護細川持隆の子。母は小少将で、三好長治、十河存保、長宗我部右近大夫は異父弟にあたる。子に細川隆之、細川允之、畠山之照(畠山高政の養子)がいる。.
細川頼之
細川 頼之(ほそかわ よりゆき)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての武将、政治家。第2代室町幕府管領、中国管領、四国管領。阿波・伊予・備後・讃岐・土佐守護。第6代細川京兆家当主。幼名は弥九郎。はじめ武蔵守、後に相模守時野谷(1979)p.555。 足利氏の一門である細川氏の武将として、阿波、讃岐、伊予など四国地方における南朝方と戦い、観応の擾乱では幕府方に属す。管領への就任で幕政を指導し、幼少の足利義満を補佐して半済令の施行や南朝との和睦などを行う。天授5年/康暦元年(1379年)の康暦の政変で失脚するが、その後は赦免されて幕政に復帰する。.
細川頼有
細川 頼有(ほそかわ よりあり、元徳3年5月2日(1332年5月26日) - 明徳2年/元中8年8月9日(1391年9月7日))は、南北朝時代から室町時代の武将、守護大名。備後・阿波守護。父は細川頼春。兄に頼之、詮春、弟に頼元、満之。子に頼長、頼顕。通称は讃岐十郎。官職は掃部助、宮内少輔、右馬頭。『常楽記』は頼之と同腹の兄弟と伝えるが、他の史料の記述なども考慮すると頼之とは異腹の兄弟とみなされている。 近世細川家の祖となった細川藤孝(細川幽斎)、忠興(三斎)父子や熊本県知事・首相を務めた細川護熙は頼有の末裔にあたる。.
細川頼春
細川 頼春(ほそかわ よりはる)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人。阿波・伊予・備後・日向・越前守護。名門細川氏の一門で、のちに代々室町幕府管領職を世襲する嫡流細川京兆家の祖である。父は細川公頼。兄に和氏、弟に師氏。妻に里沢禅尼ほか。子に頼之、詮春、頼有、頼元、満之。幼名は源九郎、通称は蔵人。官位は従四位下讃岐守、刑部大輔。.
細川詮春
細川 詮春(ほそかわ あきはる、元徳2年(1330年) - 正平22年/貞治6年4月25日(1367年5月24日)?)は南北朝時代の人物。官位は讃岐守、左近将監。父は細川頼春。兄に頼之、弟に頼有、頼元、満之。子に義之。細川氏の一族であり、阿波守護家(阿波細川家・讃州家)の祖となる。 元徳2年(1330年)、生誕。幼名は九郎。のち2代将軍・足利義詮足利義詮も同じく1330年生まれで同い年である。義詮が死去したのは、正平22年/貞治6年(1367年)の12月であるため、「細川系図」・『系図纂要』の説が正しかった場合、詮春は義詮と生没年が同じということになる。より偏諱を受けて詮春と名乗る。 詮春の事績については不明な点が多く、例えば「細川系図」・『系図纂要』では正平22年/貞治6年4月に没したと記されている。その一方で『応仁後記』『阿府志』には兄の頼之が3代将軍・足利義満(義詮の子)の補佐のために上洛した際に詮春が阿波の留守を任されたと記されている。ところが、頼之の上洛は同年9月であるため、いずれかの事実が誤りということになる。また、官位についてもそれを裏付ける同時代の記録は存在しない。また、正平18年/貞治2年(1363年)には勝瑞城を築き、それまでの拠点であった秋月城から移り住んだとされているが、同城の築城者を細川和氏・頼春とする説もあるため、これも確証がない。その他の活動として、禅宗に帰依して妙照寺(のちの井戸寺)を再興したことが挙げられる。 そのため、史実として確認できるのは頼之に従って阿波国に入り、後に阿波国守護職となった義之を儲けた後に早世したことのみとなってしまう。しかし、細川宗家である京兆家を上屋形と呼ぶのに対し、詮春の子孫が阿波守護家は下屋形あるいは阿波屋形と尊称され、幕府の宿老会議にも度々列席するなど、各地の守護となった細川庶流家の中では高い家格を有した。 死後は嫡男の義之が跡を継いだ。.
細川高国
細川 高国(ほそかわ たかくに)は、戦国時代の武将、大名。第31代室町幕府管領。摂津・丹波・山城・讃岐・土佐守護。第15代細川京兆家当主。 細川氏一門・野州家の細川政春の子に生まれ、細川氏嫡流(京兆家)当主で管領の細川政元の養子となった。室町幕府第11代将軍足利義高(のちの義澄)より偏諱(「高」の字)を与えられ、高国と名乗った。弟に晴国(高国の実子とも)、通政(輝政)。実子に稙国ほか、養子に氏綱がいる。 養父政元が暗殺された後の混乱(永正の錯乱)を経て、同じく政元の養子であった阿波守護家出身の細川澄元を結果的に排除し、京兆家の家督を手中にした。澄元とは両細川の乱と呼ばれる抗争を長期にわたって継続したが、管領として幕政の掌握を続けた。ところが、細川氏の権力構造の基礎である「内衆」とよばれる分国の重臣達が、京兆家の抗争に伴って各々対立し大いに疲弊。外様である大内氏を頼ったが、大内勢の帰国後は圧倒的な支持基盤を構築できず、最終的には澄元の嫡男・晴元に敗れて自害に追い込まれた。.
細川氏
細川氏(ほそかわし)は、本姓は源氏、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。清和源氏の名門足利氏の支流。名字は鎌倉時代に三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)に土着したことに由来する。 南北朝時代に足利尊氏に従って発展し、嫡流は室町幕府の管領家に列する有力守護大名となる。また江戸時代には、傍流から肥後熊本藩54万石の藩主家を出した。.
細川氏綱
細川 氏綱(ほそかわ うじつな)は、戦国時代後期の武将で、室町幕府第35代にして最後の管領。摂津守護。第18代細川京兆家当主。細川尹賢の子で、父の盟友でもあった細川高国の養子。.
細川清氏
細川 清氏(ほそかわ きようじ)は、南北朝時代の武将、守護大名。室町幕府2代将軍足利義詮の執事、伊勢・伊賀・若狭守護。.
細川澄之
細川 澄之(ほそかわ すみゆき)は、室町時代後期(戦国時代)の武将。第29代室町幕府管領。第13代細川京兆家当主。第24、26、27、28代室町幕府管領・細川政元の養子となった。.
細川澄元
細川 澄元(ほそかわ すみもと)は、戦国時代の武将・守護大名。第30代室町幕府管領。丹波・摂津・讃岐・土佐守護。第14代細川京兆家当主。 細川高国と争い(両細川の乱)管領に就任し一時的に政権を樹立するも短期間で崩壊、管領の座も高国に奪われる形で解任。養父の細川政元には嫡子として認められていたものの、管領としての力は無きに等しかった。.
細川持隆
細川 持隆(ほそかわ もちたか)は、戦国時代の武将。細川氏一門。阿波守護。第34代室町幕府管領の細川晴元は従弟にあたる。 明応6年(1497年)、細川之持の子として生まれる。永正9年(1512年)、父の死去により家督を継いで阿波守護となった。細川高国と細川本家当主の座を奪い合っていた細川晴元(持隆の従兄弟)をよく補佐し、享禄4年(1531年)には軍を率いて和泉に渡海し、高国の討伐戦(大物崩れ)で功績を挙げた。ところが、晴元が三好元長を攻めようとした時にこれに反対して晴元から離反して阿波に帰国してしまった。その後、将軍足利義晴の仲裁で晴元と和解する一方で、足利将軍家の連枝である足利義維を阿波に迎え入れた。 天文8年(1539年)、赤松晴政(政村)の要請を受けて備中に出陣し、出雲の尼子晴久(詮久)と戦ったが、このときは敗れた。 天文18年(1549年)、晴元が三好長慶に敗れて没落した後、天文22年(1553年)に長慶の弟・三好実休によって見性寺において殺された(勝瑞事件)。享年57。 勝瑞事件の原因として三好長慶に対抗するため足利義栄(義維の子)を擁して上洛を謀ったが実休に漏れたとする説、阿波国内での実休の力の増大に脅威を感じて暗殺を謀ったのが実休に漏れたとする説、細川晴元の再起を持隆が支援しているのが実休に漏れたとする説があるが、晴元と長慶の戦いの最中に積極的な行動を起こさずに三好氏に好意的とも言える立場を採った持隆が突然長慶・実休と対立するに至った背景には不明な点が多い。.
細川成之
細川 成之(ほそかわ しげゆき)は、室町時代から戦国時代の武将、守護大名。室町幕府相伴衆、阿波・三河・讃岐守護。細川氏の一門で阿波細川家当主。細川教祐(のりすけ)の子で、伯父・細川持常の養嗣子。官位は兵部少輔、讃岐守。政之、義春の父。後に本家に当たる京兆家を継いだ細川澄元は孫に当たる。.
細川政元
細川 政元(ほそかわ まさもと)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、室町幕府守護大名であり、第24、26、27、28代管領。細川氏の第12代当主。丹波・摂津・土佐守護。足利将軍家の在職将軍10代義材を追放して11代義澄を擁立し、政権を掌握。事実上の最高権力者となり、「半将軍」とも呼ばれた。 室町幕府の三管領(足利一門の斯波、畠山、細川)である細川氏本家・京兆家の生まれ。父は応仁の乱時に東軍を率いた細川勝元。母は勝元の正室・山名熙貴の娘(養父は山名宗全)とされるが、根拠となる史料は無い。修験道に没頭して女性を近づけず独身を貫いたため実子はおらず、政元をもって細川家の嫡流は途絶え、養子に澄之、澄元、高国がいる。 将軍を挿げ替え(明応の政変)、管領として幕政を牛耳り(京兆専制)、比叡山焼き討ちを行ったり畿内周辺にも出兵するなど、細川京兆家の全盛期を築き当時日本での最大勢力に広げたが、3人の養子を迎えたことで家督争いが起こり、自らもその争いに巻き込まれる形で家臣に暗殺された(永正の錯乱)。応仁の乱の混乱以来、実力者政元の登場によって小康状態にあった京・畿内周辺は、その死と澄元・高国両派の争いによって再び長期混迷していくこととなる。.
細川政権 (戦国時代)
細川政権(ほそかわせいけん)は、明応2年(1493年)から天文18年(1549年)まで存在した日本の戦国時代における武家政権である。この時期に足利将軍の権威は弱体化していた室町幕府で、細川家宗家の京兆家当主が管領を独占して実権を握っており、足利将軍を推戴しつつも実質的に政権を担った。細川京兆家による専制であることから「京兆専制」とも呼称される。.
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細川晴元
細川 晴元(ほそかわ はるもと)は、室町時代後期(戦国時代)の武将・戦国大名。.
紀伊水道
紀伊水道(きいすいどう)は、和歌山県、徳島県、兵庫県淡路島によって囲まれる海域。東西・南北とも約50km。 名称の由来は、水道に沿って東部に位置し、かつての行政区画だった令制国の一つ、紀伊国(きいのくに)に因る。.
続日本100名城
続日本100名城(ぞくにほん100めいじょう)は、数ある日本の城のうち財団法人日本城郭協会が2017年に定めた名城の一覧である。同協会が2017年に迎える設立50周年の記念事業の一環として、2016年に日本国内の名城と呼ばれる城郭を公募し、2017年4月6日の「城の日」に発表した。2006年に発表された日本100名城に続くものとして選定を求める声があった。選定は約500城の候補から6人の専門家が行い、前回100選で史実に即して復元されていないとして落選した城も選定された。.
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緑色片岩
緑色片岩(りょくしょくへんがん、)は変成岩(広域変成岩)の一種で、結晶片岩のひとつ。 緑色片岩という語は、岩石学や鉱物学の観点で厳密に用いられる場合と、やや広い意味で用いられる場合がある。特に日本では後者の用法がみられる。 玄武岩に代表される火成岩などが、比較的に低温・低圧のもとで広域変成作用を受けて生成されたもので、変成岩としては変成度合いが小さいものである。豊富に含む緑色の成分と、発達した面状構造(片理)がみせる縞模様によって外観が美しいとされ、日本では庭石などに愛好されている。.
美人
奥亮子(陸奥宗光夫人。明治の東京で美人として誉れ高く「鹿鳴館の華」と呼ばれた) 柳原白蓮。大正三美人のひとり。 美人(びじん)とは、容貌の美しい人物をさす言葉。美女(びじょ)・佳人(かじん)・麗人(れいじん)と同義。古代中国で女官の官名とされたことから、古くから女性に対して用いられた。未成年者はとくに美少女と呼ばれる。男性に対して用いる際は美男子未成年者は美少年)という。 (男、女によっても呼び方が違う。.
羽子板
羽子板(はごいた)は、長方形で柄のある板。.
経済
経済(けいざい、οικονομία、oeconomia、economy)とは、社会が生産活動を調整するシステム、あるいはその生産活動を指す。.
絵師
絵師(えし)とは、.
終止符
終止符(しゅうしふ)は、横書き文書で文の終わりに打たれる点である。約物のひとつであり、図に示すようにベースライン(:en:Baseline (typography))上に置かれる。 英語では、period ピリオド又は full stop フルストップ(:en:full stop)と呼ばれる。アメリカ英語では period が普通であり、イギリス英語では full stop がやや優勢である。.
炭化物
炭化物(たんかぶつ、carbide)とは、炭素と、炭素よりも陽性が高い元素からなる化合物の総称。いくつかの型に大別される。.
畿内
畿内(きない、きだい、うちつくに)とは、.
発掘調査
掘調査(はっくつちょうさ、)とは、.
芦屋河原の合戦
芦屋河原の合戦(あしやがわらのかっせん)は、戦国時代初期の永正8年(1511年)7月26日から8月10日まで摂津国鷹尾城と芦屋河原周辺で行われた合戦。細川澄元軍は軍勢を二分して進軍、一隊が阿波国より堺に上陸、7月13日に深井城の合戦となり、もう一隊が兵庫に上陸、芦屋河原の合戦となった。別名葦屋河原の戦いや鷹の尾城の戦いとも呼ばれている。.
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芸能人
芸能人(げいのうじん)は、芸能を職業とする人。本来「観客の前で芸を披露することをなりわいとする人々」を指す。広義の意味の芸能人は伝統芸能を披露する人々を含む。.
鎌倉時代
伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).
遺構
遺構(いこう)は、過去の建築物、工作物、土木構造物などが後世に残された状態、言い換えれば過去の人類の活動の痕跡のうちの不動産的なものを指す。現在まで残存している部分のみを言ったり、かつての建造物の構造の痕跡が確認される全体を指したりする。英語で言うところのが、日本語の遺構に近い概念だが、一般的にFeatureには、垂直的なもの(ピット、壁、溝など)は含まれるが、水平的なもの(生活面、床面、庭、道路など)は含まれないとされる。 縄文時代の柱穴遺構(青森県三内丸山遺跡六本柱建物跡).
菩提寺
菩提寺(ぼだいじ)は、代々その寺の宗旨に帰依して、(先祖の)位牌を納めてある寺。菩提所とも呼ばれる。ここでいう菩提とは「死後の冥福」を指し、菩提を弔う寺院という意味である。例えば、徳川家の寛永寺や増上寺が有名。古代・中世では一般的に氏寺と呼ばれていた。 香華院(こうげいん)は、仏前に香や花を供える役割を担う寺院のこと。香華寺(こうげじ)や香華所(こうげしょ)とも呼ばれる。陵墓・霊廟・墓所などに隣接して置かれる。例えば、皇室の陵墓に隣接する泉涌寺、伊達政宗の霊廟「瑞鳳殿」に隣接する瑞鳳寺などがこれにあたる。 檀那寺、旦那寺(だんなでら)は、檀信徒(檀家)の布施、すなわち檀那(旦那)によって運営される寺のこと。本来の意味では信徒と寺との経済的関係を示しているに過ぎないが、江戸時代に寺請制度によって個人は必ず1つの寺に管理されるようになり、多くの庶民は経済的支援をする寺と先祖の墓を管理してもらうそれが一致する。.
行政区画
行政区画(ぎょうせいくかく)とは、国家が円滑な国家機能を執行するために領土を細分化した区画のこと。行政区分(ぎょうせいくぶん)、行政区域(ぎょうせいくいき)ともいう。それらの行政区画を施政・統治する機構を行政単位という。 通常、複数の行政区画が集まり、より上級の行政区画を形成する。また、ある行政区画Aが上級の行政区画Bに所属するとき、AがBと同級の行政区画CやDに所属することもない。 国土の面積、人口の分布、政体のあり方などにより各国の制度が異なり、それぞれ行政区画の名称、等級、構造、数も異なる。モナコやナウルなどの小国のように、行政区画が存在しない国もある。.
養子縁組
養子縁組(ようしえんぐみ)とは、具体的な血縁関係とは無関係に人為的に親子関係を発生させることをいう。この関係によって設定された親子関係をそれぞれ養親(ようしん)と養子(ようし)、または女子の場合には養女(ようじょ)、養子から見て養親の家(または家族)を養家(ようか)と呼称する。.
西条城 (阿波国)
西条城(さいじょうじょう)は、徳島県阿波市吉野町西条にあった日本の城。別名は西条東城、戎城、西城。.
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要塞
堡式城郭の例。オランダのブールタング 要塞(ようさい)とは、外敵等から戦略上重要な地点を守る為に築かれた構築物。とりで(砦、堡、塞)、城砦(じょうさい)、城堡(じょうほ)ともいう。.
諱
諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.
高徳線
| 高徳線(こうとくせん)は、香川県高松市の高松駅から徳島県徳島市の徳島駅に至る四国旅客鉄道(JR四国)の鉄道路線(幹線)である。 日本国有鉄道(国鉄)時代、佐古駅 - 徳島駅間は徳島本線にも属する重複区間であったが、運賃を高徳本線(幹線)として計算していたこともあり、民営化時に徳島本線を佃駅 - 佐古駅間として重複区間は解消された。また、民営化後の1988年にJR四国は線路名称を改正し、高徳本線を高徳線に改称した。.
高松自動車道
松自動車道(たかまつじどうしゃどう、TAKAMATSU EXPRESSWAY)は、徳島県鳴門市から香川県を経由して愛媛県四国中央市へ至る高速道路(高速自動車国道)である。略称は高松道(たかまつどう、TAKAMATSU EXPWY)。国土開発幹線自動車道の路線名は、四国横断自動車道で、その一部にあたる。 当路線が神戸淡路鳴門自動車道(明石海峡大橋、大鳴門橋)と直結したことで京阪神方面への流れが大きく変わり、当路線を通過する京阪神方面 - 高松の高速バスは屈指のドル箱路線にまで成長している。 高速道路ナンバリングによる路線番号は、徳島自動車道(鳴門ジャンクション (JCT) - 徳島JCT(事業中)間)と松山自動車道(川之江JCT - 松山インターチェンジ (IC) 間)とともに、「E11」が割り振られている。.
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讃岐国
讃岐国(さぬきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.
鳴門インターチェンジ
インターチェンジ(なるとインターチェンジ)は、徳島県鳴門市撫養町木津字原山にある神戸淡路鳴門自動車道と高松自動車道のインターチェンジである。鳴門本線料金所(なるとほんせんりょうきんじょ)を併設する。.
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越水城
越水城(こしみずじょう)は摂津武庫郡(兵庫県西宮市)にあった日本の城。現在は西宮市立大社小学校に案内看板・石碑が建っている。.
足利義稙
足利 義稙(あしかが よしたね)は、室町幕府第10代将軍。父は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟で、一時兄の養子として継嗣に擬せられた足利義視。母は裏松重政の娘(日野富子の妹に当たる人物であるが名は伝わらない)。 初名は義材(よしき)。将軍職を追われ逃亡中の明応7年(1498年)に義尹(よしただ)、将軍職復帰後の永正10年(1513年)には義稙(よしたね)と改名している。 将軍在職は2つの時期に分かれており、1度目は延徳2年7月5日(1490年7月22日)から明応3年12月27日(1495年1月23日)まで在職した後、約13年半の逃亡生活を送る。2度目は永正5年7月1日(1508年7月28日)から大永元年12月25日(1522年1月22日)まで在職した。.
足利義維
足利 義維(あしかが よしつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての人物。室町幕府第11代将軍・足利義澄の次男(※実際には12代将軍・足利義晴より年長で長男とされる、後述参照)。第10代将軍・足利義稙の養子。第14代将軍・足利義栄の父。堺公方・平島公方と呼ばれた。.
足利義詮
足利 義詮(あしかが よしあきら)は、南北朝時代の室町幕府第2代将軍。初代将軍足利尊氏の嫡男足利竹若丸、足利直冬という二人の庶兄に次いで三男とされる。。母は鎌倉幕府最後の執権・北条守時の妹で正室の赤橋登子。.
足利義輝
足利 義輝(あしかが よしてる)は、室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第13代征夷大将軍(在職:天文15年(1546年) - 永禄8年5月19日(1565年6月17日))。.
足利義満
足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。.
軍馬
軍馬(ぐんば、war horse,charger)とは、戦闘時の騎乗などができるよう特別な訓練を受けた軍用の馬のことである。戦馬。.
船岡山合戦
船岡山合戦(ふなおかやまがっせん)は、永正8年(1511年)8月23日、室町幕府将軍足利義稙を擁立する細川高国・大内義興と前将軍足利義澄を擁立する細川澄元との間で起きた、幕府の政権と細川氏の家督をめぐる戦いである。応仁の乱の際に船岡山を巡って発生した戦いと区別するため「永正の船岡山の戦い」ともいう。.
防塁
防塁(ぼうるい)は、日本の城の一形態である。沿岸、国境線、尾根などに土塁や石垣(石塁)、空堀や水堀、さらに塹壕などを平行線状に築いた防御構築物である。.
阿波国
阿波国(あわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.
関白
関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.
間
間(けん)は、尺貫法で使う長さの単位である。日本では計量法により取引・証明(計量法#取引又は証明に該当するもの・しないもの)に用いることは禁止されている。 本来、建物の柱の間隔を1間とする、長さそのものではない単位だった(現在でも俗に和室の寸法などで使われる)が、日本では農地の測量に使われるようになり、ある長さを1間とする長さの単位となった。それゆえ、中国の度量衡にはない単位である。.
藍住インターチェンジ
藍住インターチェンジ(あいずみインターチェンジ)は、徳島県板野郡藍住町東中富字鑓場傍示にある徳島自動車道のインターチェンジ。板野町や石井町の最寄りインターチェンジのひとつである。.
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藍住町
藍住町(あいずみちょう)は、徳島県の北東部に位置する町である。.
自殺
自殺(じさつ)とは、自分で自分を殺すこと。自害、自死、自決、自尽、自裁などとも言い、状況や方法で表現を使い分ける場合がある。 世界保健機関(WHO)によると、世界で2014年時点で毎年約80万人が自殺している。世界の自殺の75%は低中所得国で起こり、自殺は各国において死因の10位以内に入り、特に15〜29歳の年代では2位になっている(2012年)と報告している。 自殺は様々な事情が複雑に絡み合って生じる場合が多い。高所得国における主な理由は精神疾患(特にうつ病とアルコール乱用)であり、ほか金銭的問題、人間関係の破綻、慢性痛や病気などがある。WHOは「自殺は、そのほとんどが防ぐことのできる社会的な問題。適切な防止策を打てば自殺が防止できる」としている。そのうえでWHOは、一人一人のこの上なく尊い生命を守るため、本格的な予防戦略である世界自殺予防戦略(SUPRE)を実施している。このようなWHOに準ずる形で、各国で行政・公的機関・NPO・有志の方々による多種多様な自殺予防活動が行われている。日本では『支援情報検索サイト』『いきる・ささえる相談窓口』などが設けられていて「もしあなたが悩みを抱えていたら、ぜひ相談してください」と呼びかけている。日本では景気の回復に伴い、1978年から統計が始まった10万人あたりの自殺率が過去最低を下回った。.
長宗我部元親
長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国の戦国大名。長宗我部氏第21代当主。位階は従五位下で死後に正五位、昭和3年(1928年)には正三位が贈られた。 長宗我部国親の長男で、母は美濃斎藤氏の娘。正室は石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹。 土佐国の守護職を兼ねる細川京兆家当主で管領の細川晴元より、京兆家の通字である「元」の一字を受けたため、かつて同じく細川氏より「元」の字を受けた15代当主(長宗我部元親 (南北朝時代))と同名を名乗ることとなった。 土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い四国に勢力を広げる。しかし、その後に織田信長の手が差し迫り、信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ土佐一国に減知となった。豊臣政権時、戸次川の戦いで愛息・信親を亡くすと生活は荒れ、家中を混乱させたままこの世を去った。.
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長宗我部氏
長宗我部氏(ちょうそかべし)は、日本の武家の一つ。平安時代末から戦国時代の武家。戦国時代に土佐を統一し四国に進出した戦国大名、長宗我部元親で有名。長曽我部・長曾我部とも記される。 本姓は秦氏を称した。家紋は「七つ酢漿草かたばみ」。室町時代以降、通字に「親」を用いた。 現・当主は長宗我部(ちょうそ'''が'''べ)友親。.
酒池肉林
酒池肉林(しゅちにくりん)は、酒や肉が豊富で豪奢な酒宴という意味の四字熟語である。「肉林」の「肉」に「肉欲」の意はなく、女性に囲まれて大騒ぎをする宴というのは誤用である。 中国語では、発祥から現在まで「酒池肉林」は、はてしなく過度な奢侈的生活を過ごす、贅沢三昧な生活をすることを意味している。.
連歌
連歌(れんが)は、鎌倉時代ごろから興り、南北朝時代から室町時代にかけて大成された、日本の伝統的な詩形の一種。多人数による連作形式を取りつつも、厳密なルール(式目)を基にして全体的な構造を持つ。和歌のつよい影響のもとに成立し、後に俳諧の連歌や発句(俳句)がここから派生している。.
暗殺
リンカーン大統領の暗殺を描いた絵画(米国) ガンディー・暗殺されたインドの政治家 金玉均・暗殺された李氏朝鮮の政治家 ジョン・レノン・イングランド出身の音楽家、銃弾を受け死去 坂本龍馬・幕末の英雄、盟友の中岡と共に死去 暗殺(あんさつ)は、主に政治的、宗教的または実利的な理由により、要人殺害を密かに計画・立案し、不意打ちを狙って実行する殺人行為(謀殺)のこと。 見せしめや弾圧、粛清の一種としても存在する。.
枯山水
龍安寺 方丈庭園(石庭) 龍吟庵 東庭(赤砂の枯山水) 枯山水(かれさんすい、かれせんずい)とは日本庭園や日本画の様式・風のひとつである。仮山水(かさんすい)、故山水(ふるさんすい)、乾泉水(あらせんすい)、涸山水(かれさんすい)ともいう。.
東山文化
銀閣寺庭園 東山文化期に和室(畳、障子、襖、床の間)や枯山水が様式化された。 茶道 龍安寺石庭 東山文化(ひがしやまぶんか)とは、室町時代中期の文化を指す用語。八代将軍足利義政(1436年-1490年)が築いた京都の東山山荘を中心に、武家、公家、禅僧らの文化が融合して生まれたとされる。慈照寺銀閣は東山文化を代表する建築である。.
板西城
板西城(ばんざいじょう)は、現在の徳島県板野郡板野町古城にあった日本の城。板野町指定史跡。.
板野インターチェンジ
板野インターチェンジ(いたのインターチェンジ)は、徳島県板野郡板野町にある高松自動車道のインターチェンジ。板野町のほか石井町などの最寄りインターチェンジの1つである。 高速バス用バス停留所(板野BS)は当IC内ではなく、あいあいロード(当ICから藍住IC方面へ約800m)にある。.
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板野郡
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村田修三
村田 修三(むらた しゅうぞう、1938年9月27日 - )は、日本史学者、大阪大学名誉教授。城郭研究で知られる。 兵庫県生まれ。京都大学文学部史学科卒業。1967年同大学院博士課程中退。奈良女子大学助教授、教授、1998年大阪大学文学研究科教授、2002年定年退官、名誉教授。.
桂川原の戦い
桂川原の戦い(かつらかわらのたたかい)は大永7年2月12日(1527年3月14日)夜中から2月13日まで京都桂川原一帯で行われた戦い。この戦いは堺公方の誕生のきっかけとなった。桂川の戦いとも言う。.
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武家屋敷
武家屋敷(ぶけやしき)は、武家が所有した邸宅である。 大名が所有するものは大名屋敷あるいは藩邸と呼ばれることもある。現在は下級武士の住まいである侍屋敷も武家屋敷と呼ぶことが多くなっている。 ここでは、現代の侍屋敷の呼称としての武家屋敷についても記述する。.
歌人
歌人(かじん)とは、和歌または短歌を詠む人物のことをいう。歌詠み(うたよみ)ともいう。.
水濠
水濠(すいごう).
永正
永正(えいしょう)は、日本の元号の一つ。文亀の後、大永の前。1504年から1521年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇。室町幕府将軍は足利義澄、足利義稙。.
永正の錯乱
永正の錯乱(えいしょうのさくらん)は、永正4年(1507年)に室町幕府管領細川政元が暗殺されたことを発端とする、管領細川氏(細川京兆家)の家督継承をめぐる内訌である。背景には京兆家を支えてきた内衆などの畿内の勢力と政元の養子の一人細川澄元を擁する阿波の三好氏などとの対立があり、これに将軍足利義澄に対抗して復権を目指す前将軍足利義稙の動きも絡んでいた。複雑な情勢の推移を経て、政元の暗殺から1年後には畿内勢が支持する別の養子細川高国が家督に就き足利義稙が将軍に返り咲いたが、これに逐われた足利義澄・細川澄元・三好氏の勢力も巻き返しを図り、畿内において長期にわたって抗争が繰り返された(両細川の乱)。.
江口の戦い
江口の戦い(えぐちのたたかい)は、天文18年(1549年)6月12日から6月24日にかけて摂津江口城(現在の大阪府大阪市東淀川区)において三好長慶軍と同族の三好政長(宗三)が衝突した戦いである。江口合戦とも呼ばれる。.
江戸時代
江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.
池
池(いけ、pond)とは、.
洪水
ハイチで発生した洪水(2004年) フランス・パリで発生した洪水(1910年) 日本・三重県津市で発生した洪水(2004年9月) 台風6号による洪水。この付近は避難勧告が発令された。(2002年7月11日午前5時6分、善宝池周辺にて) 洪水(こうずい)とは、大雨などが原因で河川から増水・氾濫した水によって陸地が水没したり水浸しになる自然災害(天災)である。欧州連合のは、洪水を常態では水が無い陸地が水によって覆われることと定義している。工学的には、単に平常時よりも河川が増水する現象を指すため、河川が増水すれば災害の有無と関係なく呼称される。また、「水が湧き出る/流れる」の意味から、潮汐の流入を含む場合もある。洪水発生の原因は河川や湖などの水量であり、氾濫や堤防の決壊などを発端に境界を越えて引き起こされる。 洪水等の水によりもたらされる被害(洪水以外には降雨に誘発された土砂崩れなどがある)を総称して水害や水災害と呼び、これを制御することを治水と呼ぶ。.
淡路国
淡路国(あわじのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.
湾
山湾(日本) スワンエイジ湾(イギリス) 湾(わん)は、海や湖の一部で、陸に入り込んだ領域。英語では規模の大きなものをgulf(ガルフ)、小さなものをbay(ベイ)と呼ぶ。.
湿地
km2にもなる世界最大の湿地帯。2006年4月撮影の空中写真。 雨竜沼湿原/日本の代表的な湿地帯の一つ。2006年7月撮影。 NASAの衛星画像。 モン・サン=ミシェル(手前の小島)とサン・マロ湾の干潟潮汐によって劇的な変化を日々見せるサン・マロ湾一帯は有史以前より聖地であったが、陸地化は時代を追うごとに進み、19世紀後半以降は人為の働きも加わって加速的に進捗した。21世紀は一転、潮の満ち干を妨げていた施設を排除して乾燥化を防ぐ方向にある。2006年6月撮影。 湿地(しっち、英語:wetland)は、淡水や海水によって冠水する、あるいは定期的に覆われる低地のことである。生物、特に水生生物やそれを餌とする鳥類の重要な生育・生息場所となる。英語の音写でウェットランドとも呼ばれる。湿地の特徴によって他と区別される地域一帯は、湿地帯(しっちたい)と呼ばれる。.
木津城
木津城(きづじょう)は、徳島県鳴門市撫養町木津にあった日本の城。鳴門市指定史跡。.
戦国時代 (日本)
日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.
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戦闘
戦闘(せんとう、、proeliumプロエリウム)とは、相互に敵対する二つの勢力による暴力の相互作用である。戦斗、戰闘とも。 戦闘が行われている場所を戦場(せんじょう)、戦地といい、歴史的に戦闘(合戦など)が行われた場所は古戦場(こせんじょう)と呼ぶことがある。歴史的な慣習によって、「―の戦い」、「―の合戦」、「―の会戦」という用語も用いられる。 ここでは戦闘一般に関する軍事学の研究を概説する。 戦闘とは一般的に、敵対している部隊が特定の目的を達成するために戦闘力を行使する行動、またはその行動によって引き起こされる一連の交戦状況であり、具体的には発見(索敵)、機動、攻撃・防御、追撃・後退行動と段階的に進展する。戦闘において部隊を指導するのは戦術であり、戦闘の目的や投入される戦力の装備、規模は作戦計画によって決定される。戦闘では敵と敵施設に対して武器、兵器を使用して殺傷することによって抵抗行動を排除、破壊し、作戦目標を達成することが主要な作業となる。戦闘当事者である兵士たちは非常に強い肉体的・精神的なストレスを受けながら戦闘行動をとることになるため、被弾や被爆で死傷するだけでなく、衝撃的な経験からPTSDなどの精神疾患を患う場合もある。また戦闘は戦闘当事者双方ともに生死の狭間という極限状況において活動するため、戦場心理と呼ばれる特別な心理状態になることもある。そのため、戦闘力の要素として火力や機動力などのほかに軍事的リーダーシップが含まれると考えられている。.
戦死
アメリカ陸軍兵士の葬儀。兵士がバトルフィールド・クロス(戦場で作成する簡易的な墓標)に対して最後の別れを行っている。 戦死(せんし、Killed in action: KIA)とは、軍人が戦争や戦闘により死亡すること。その定義や範囲は複数存在するが、通常は戦争による民間人の死亡は含まれない。.
明治
明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.
海岸
日本南端の海岸来間島の長間浜 磯の海岸(千葉県鴨川市) フィリピン共和国バタンガス州ナスグブ町の海岸 海岸(かいがん)とは、陸が海に接する部分のこと。海辺(うみべ)、渚・沚(なぎさ)、汀(みぎわ)、水際(みずぎわ・すいさい)などともいう。.
文化
文化(ぶんか、)にはいくつかの定義が存在するが、総じていうと人間が社会の成員として獲得する振る舞いの複合された総体のことである。社会組織(年齢別グループ、地域社会、血縁組織などを含む)ごとに固有の文化があるとされ、組織の成員になるということは、その文化を身につける(身体化)ということでもある。人は同時に複数の組織に所属することが可能であり、異なる組織に共通する文化が存在することもある。もっとも文化は、次の意味で使われることも多い。.
文化人
文化人(ぶんかじん)とは、文化の創造的な面に携わる人物のこと。芸術家や著作家、思想家、学者など、主に芸術や学問の分野で働く者。.
日本
日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.
日本の城
日本の城(にっぽんのしろ・にほんのしろ)では、日本国内に築かれた城について解説する。アイヌのチャシや沖縄県および鹿児島県の奄美群島にあったグスクについても一部解説する。 姫路城(世界遺産・現存天守) 日本における城は、古代の環濠集落から石垣と天守を持つ近世の城まで多様なものが含まれる。幕末の台場や砲台も、城に含めることがある。造営は、堀や土塁を築く普請(ふしん、土木工事)と、門や塀を造る作事(さくじ、建築)からなる。屋敷や櫓・天守も作事に含まれる。 中世の城では、戦闘員である武士がおもに駐在し、その武士たちを抱える主君の武家や豪族は、城のある山とは別の場所に館を構えて居住していた。戦国時代には、主君も城内に居住するスタイルが現れ、おもな家臣たちも城内に屋敷を与えられ、その家族や日常の世話をする女性も居住した。戦国末期から近世の城郭では、外郭を築き、城下町も取り込む城も現れた。江戸時代の1615年に一国一城令が発布されるまでは、城は各地に多数存在し、砦のような小さなものも含めると数万城あったといわれる。中世・近世に、平地に築かれた館や館造りの陣屋等は城には含まないものの城郭構の陣屋や館、少しでも城に近づけて造られたものは、城とすることがある。.
日本の城一覧
日本の城の一覧(にほんのしろのいちらん)は、日本の城(および朝鮮半島の倭城)の都道府県ごとの一覧索引である。財団法人日本城郭協会が選定した100名城の一覧については「日本100名城」を参照のこと。また、天守を主とする「画像」の一覧については、「日本の城の画像」を参照のこと。.
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播磨国
播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陽道に属する。.
支城
支城(しじょう)とは、本城を守るように配置された補助的役割を持つ出城・砦・陣屋などのことを指す。枝城(えだじろ)などとも呼ばれた。戦国時代には、本城・支城間に支城網(しじょうもう)と呼ばれる多彩な連絡網が形成されるようになった。.
政治
本記事では政治(せいじ)とは何かについて解説していく。.
教育委員会
教育委員会(きょういくいいんかい、)は、教育に関する事務をつかさどる行政委員会である。.
承久の乱
承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。承久の変、承久合戦ともいう。 日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いであり、朝廷側の敗北で後鳥羽上皇は隠岐に配流され、以後、鎌倉幕府では北条氏による執権政治が100年以上続いた。北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなった。 1185年に鎌倉幕府が成立した以降、東日本を勢力下におく鎌倉幕府と、西日本を勢力下におく朝廷による2頭政治が続いていた。その間、幕府の初代将軍の源頼朝が落馬で死亡、2代将軍の頼家と3代将軍の実朝が次々と暗殺され、天皇家の血を引く源氏将軍が鎌倉から滅亡した。その1219年以降、鎌倉は伊豆を収める世襲一族の北条氏が実権を握り、さらに北条氏は、幕府内で朝廷の代理人である執権であったが、幕府を実質的に手中に収めるに至り、日本を統治するのは朝廷であり朝廷主導の政治が本来の姿とする朝廷側の怒りが高まっていった。この2年後に起きた承久の乱の結果、鎌倉幕府主導の政治体制が固まり、朝廷を監視する六波羅探題を京都に置き、朝廷の権力は制限され、皇位継承等にも鎌倉幕府が影響力を持つようになった。.
書家
『蘭亭序』(部分)神龍半印本 王羲之 宸筆 書譜』(部分)孫過庭書 書家(しょか)は、書における高度な技術と教養を持った専門家のこと。日本では書人ともいい、近年、異称であるが書道家ともいわれるようになった。中国語では、書法家(繁体字)という。独自の感性で墨文字アート、墨象画を手掛けている書き手は、書家とは異なる。.
1338年
記載なし。
1340年
記載なし。
1362年
記載なし。
1363年
記載なし。
1462年
記載なし。
1507年
記載なし。
1509年
記載なし。
1519年
記載なし。
1520年
記載なし。
1526年
記載なし。
1552年
記載なし。
1562年
記載なし。
1564年
記載なし。
1576年
記載なし。
1577年
記載なし。
1582年
記載なし。
15世紀
大航海時代。大西洋を渡り新世界を発見したコロンブス。 マチュ・ピチュ遺跡。アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿いの尾根にある遺跡で標高2430mの高さにある。用途は未だ明らかでない所もあるが、15世紀に建造されたインカ帝国の技術の高さを反映している。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 香辛料の魅惑。15世紀には東方との交易路はオスマン帝国に遮断される事になり、香辛料の供給不足が大きな問題となった。画像は1410年代に描かれた『世界の記述(東方見聞録)』の挿絵で、インドでの胡椒採収が取り上げられている。 エンリケ航海王子。ポルトガルは東方への航路の開発を推進したが、その中心となったのは「航海王子」の名を持つエンリケ王子である。サグレスに設置した「王子の村」が航海士の育成に貢献したことはよく知られている。画像は「サン・ヴィセンテの祭壇画」で聖人のすぐ右隣に位置する黒帽で黒髭の人物が王子ととされているが異論もある。 キルワの大モスク跡。 サマルカンド近郊のウルグ・ベク天文台。ティムール朝の君主ウルグ・ベクは天文学に造詣が深く「ズィージ・スルターニー」のような精緻な天文表も作成させた。 Musée des Augustins蔵)。 ロシア正教会の自立。東ローマ帝国の衰退に伴い「タタールの軛」を脱したロシアでは独自の組織が形成され文化的にも新たな展開が見られた。画像はこの時代を代表するモスクワ派のイコン(聖画像)でアンドレイ・ルブリョフの「至聖三者」(モスクワのトレチャコフ美術館蔵)。 グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)。ポーランド・リトアニア連合軍がドイツ騎士団を破り、東方植民の動きはここで抑えられた。画像はこの戦いを描いたポーランド人画家ヤン・マテイコの歴史画(ワルシャワ国立美術館蔵)。 天文時計で1410年頃作成されてから、後世の補修はあるものの今日まで動いているものである。 プラハ大学学長ヤン・フスの火刑。コンスタンツ公会議の決定によりカトリック教会と相容れぬ異端の徒として処刑されたが、これがチェック人の憤激を呼び起こすことになった。 オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルク。劣勢のフランス軍を鼓舞し百年戦争の終結に大きな役割を果たしたが魔女裁判で火刑に処せられた。 グーテンベルク聖書(42行聖書)』の「創世記」。 『中世の秋』。歴史家ホイジンガはこの題名でこの時代のブルゴーニュ公国の歴史を描いた。画像はヤン・ファン・エイクの「宰相ロランの聖母」。ロランはこの国の宰相で、背後にはブルゴーニュのオータンの風景が広がる。 ブルネレスキの巨大なドーム建築で知られる「花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)」。 ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」。メディチ家などの文化支援活動に支えられてルネサンス文化が花開いた。画像の中心の女神は美と愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)で、その周囲を多くの神々が取り囲んでいる(ウフィッツィ美術館蔵)。 サイイド朝からローディー朝へ。北インドではデリーを中心にイスラム系王朝が続いた。画像はデリーのローディー・ガーデン内にあるサイイド朝の君主ムハンマド・シャーの霊廟。この公園の敷地にはローディー朝君主たちの霊廟もある。 タイを支配したアユタヤ朝は上座部仏教を保護し東南アジアでも有数の国家となっていた。画像はアユタヤに残るワット・プラ・シーサンペットで、1448年にボーロマトライローカナート王により建立された寺院である。 万里の長城。モンゴル人を漠北に追い払ってからもその侵入に備え明代には長城が幾度となく修復・増築を繰り返されていた。画像は1404年に「慕田峪長城」と名付けられた長城で北京市の北東に位置するもの。 鄭和の南海大遠征。永楽帝時代には明の国威を示す大艦隊が各地に派遣された。画像は1417年にベンガルから運ばれたキリンを描いた「瑞應麒麟図」。 「仁宣の治」。明は仁宗洪熙帝と続く宣宗宣徳帝の時代に安定期を迎えた。画像は明の宣宗宣徳帝の入城を描いたもの(台北故宮博物院蔵)。 如拙「瓢鮎図」。禅宗の流入は「五山文学」や「舶来唐物」などを通じて室町時代の文化に大きな影響を与えた。この「瓢鮎図」も将軍足利義持の命で描かれた水墨画で数多くの禅僧の画讃がつけられている。京都妙心寺塔頭退蔵院の所蔵。 文化を極めた。 応仁の乱。将軍後継をめぐる守護大名の争いで京都の町は焦土と化した。以後足利将軍の権威は衰え下剋上の時代へと進むことになる。画像は応仁の乱を描いた「紙本著色真如堂縁起」(真正極楽寺蔵)。 15世紀(じゅうごせいき)とは、西暦1401年から西暦1500年までの100年間を指す世紀。.
16世紀
16世紀(じゅうろくせいき)は、西暦1501年から西暦1600年までの100年間を指す世紀。 盛期ルネサンス。歴代ローマ教皇の庇護によりイタリア・ルネサンスの中心はローマに移動した。画像はこの時代に再建がなされたローマのサン・ピエトロ大聖堂の内部。 カール5世。スペイン王を兼ねイタリア各地やネーデルラントも支配したが周辺諸国との戦いにも明け暮れた。画像はティツィアーノによる騎馬像(プラド美術館蔵)。 「太陽の沈まない帝国」。カール5世の息子フェリペ2世の時代にスペインは目覚ましい発展を遂げ貿易網は地球全体に及んだ。画像はフェリペ2世によって建てられたエル・エスコリアル修道院。ここには王宮も併設されておりフェリペ2世はここで執務を行った。.
1945年
この年に第二次世界大戦が終結したため、世界史の大きな転換点となった年である。.
1994年
この項目では、国際的な視点に基づいた1994年について記載する。.
1997年
この項目では、国際的な視点に基づいた1997年について記載する。.
1999年
1990年代最後の年であり、1000の位が1になる最後の年でもある。 この項目では、国際的な視点に基づいた1999年について記載する。.
1月29日
1月29日(いちがつにじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から29日目に当たり、年末まであと336日(閏年では337日)ある。.
2000年
400年ぶりの世紀末閏年(20世紀および2千年紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年のままとなる(グレゴリオ暦の規定による)。。Y2Kと表記されることもある(“Year 2000 ”の略。“2000”を“2K ”で表す)。また、ミレニアムとも呼ばれる。 この項目では、国際的な視点に基づいた2000年について記載する。.
2001年
また、21世紀および3千年紀における最初の年でもある。この項目では、国際的な視点に基づいた2001年について記載する。.
2004年
この項目では、国際的な視点に基づいた2004年について記載する。.
2005年
この項目では、国際的な視点に基づいた2005年について記載する。.
2007年
この項目では、国際的な視点に基づいた2007年について記載する。.
2017年
この項目では国際的な視点に基づいた2017年について記載する。.
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