164 関係: ちりめん、へそ、うどん、十寸見河東、十八大通、印籠、即興劇、吉原 (東京都)、坂東三津五郎、大口屋暁雨、大和屋、大阪、大阪歌舞伎座、大正、天保、天保の改革、天明、外郎売、宝暦、安房国、安政、寿司、寿曽我対面、寛延、小袖、尾上多賀之丞 (3代目)、尾上菊五郎、尾上菊五郎 (3代目)、尾上菊五郎 (初代)、山梨県、屋形船、岩井半四郎 (5代目)、島原 (京都)、上総国、上方、中村座、中村勘三郎 (18代目)、中村芝翫 (4代目)、常磐津節、世界 (曖昧さ回避)、市川小團次 (4代目)、市川三升、市川團十郎、市川團十郎 (12代目)、市川團十郎 (2代目)、市川團十郎 (3代目)、市川團十郎 (6代目)、市川團十郎 (7代目)、市川團十郎 (8代目)、市川團十郎 (9代目)、...、市川團蔵 (6代目)、市川猿之助、市川男女蔵、市川段四郎 (4代目)、市川海老蔵、市村座、市村羽左衛門、市村羽左衛門 (8代目)、市村羽左衛門 (9代目)、下駄、一中節、乞食、幡随院長兵衛、幕末、享保、京都、延宝、延享、伊勢平氏、侠客、俳名、俳諧、心中、マナー、チケット、トリヴィア、ヘビ、パントマイム、ファン、刀、喧嘩、カラス、サクラ、出汁、元禄、元文、硯、福地源一郎、稲荷寿司、竹本義太夫、立役、精進料理、紫、紋付、義太夫節、給仕、煎餅、煙管、片岡仁左衛門、片岡仁左衛門 (11代目)、瀧泉寺、瀬川菊之丞 (3代目)、白酒 (日本酒)、銭湯、花魁、隈取、音羽屋、韓信、鞘、遊女、道化師、道頓堀角座、頭、諱、高麗屋、都一中、閻魔、蔵前、長唄、酒、鉢巻、雷門、接吻、東京、東京奠都、松嶋屋、松本幸四郎、松本幸四郎 (5代目)、検閲、正徳 (日本)、武士、歌舞伎、歌舞伎十八番、江戸、江戸三座、河原崎権十郎、河原崎権十郎 (3代目)、河竹黙阿弥、河東節、法善寺、清元節、源頼朝、源氏、澤瀉屋、澤村田之助 (6代目)、濡れ場、札差、成田屋、戦前、明治、明治維新、海苔巻き、浄瑠璃、浅草寺、浅葱色、新町遊廓、文久、文化 (元号)、文政、日本芸術文化振興会、曾我兄弟の仇討ち、曾我祐成、曾我時致、1832年。 インデックスを展開 (114 もっと) »
ちりめん
ちりめん(レーヨン製)の表面を拡大したところ。 ちりめん(縮緬、クレープ織り、)は、絹を平織りにして作った織物。 縦糸にはほとんど撚り(より)のない糸を使い、横糸に強い撚りをかけた右より(右回りにねじる)と左より(左回りにねじる)の糸を交互に織ったものである。そのため精練すると布が縮み生地の表面にシボ(凹凸)が現れる。主に高級な呉服や風呂敷に使われる。 絹・レーヨンで織られたちりめんは、水に付けると縮むので水分を避けること。ポリエステルで織られたちりめんは、水に付けても縮まない。 日本のちりめんの主なものに、京都府丹後地方の丹後ちりめん、滋賀県長浜市の浜ちりめんがある。現在、京都府丹後地方では原料の糸を絹から綿・化合繊に変えた丹後ちりめんも織られている。越後ちりめんを産する現在の新潟県(上越市高田など)もちりめんの主な生産地の一つである。テレビドラマ『水戸黄門』では、主人公水戸光圀は「越後の縮緬問屋の隠居で光右衛門」と名乗っている。.
へそ
へそ(臍)は、腹部のまんなかの小さなへこみ。臍帯のとれた跡広辞苑 第五版 p.2401 へそ。胎児期に母親から栄養や酸素の供給を受けていた管(へその緒)の痕跡である。ほぞとも。 臍という漢字はほぞとも読み、「ほぞをかむ」などの慣用句に用いられる。解剖学では漢字を原則として音読みで読むため、さいと発音し、医学でもそのように発音することが普通である。経絡学ではへその中も経穴のひとつとみなされ、「臍中」と書いてさいちゅうと呼んでいる.
うどん
うどんは、小麦粉を練って長く切った、ある程度の幅と太さを持つ麺またはその料理であり、主に日本で食されているものを指すが、過去の日本の移民政策の影響や食のグローバル化の影響により、関係各国にも近似な料理が散見される。 饂飩とも書く。 細い物などは「冷麦」「素麺」と分けて称することが一般的ではあるが、乾麺に関して太さによる規定(後述)がある以外は厳密な規定はなく、細い麺であっても「稲庭うどん」の例も存在し、厚みの薄い麺も基準を満たせば、乾麺については「きしめん、ひもかわ」と称してよいと規定があり、これらもうどんの一種類に含まれる。.
十寸見河東
十寸見 河東(ますみ かとう)は、河東節の家元の名跡。現在は長らく途絶えていて十寸見会が名跡の管理を行なっている。墓所は大田区海岸寺。.
十八大通
十八大通(じゅうはちだいつう)は、江戸時代の代表的な通人と呼ばれた人々のこと。その多くは札差であった。ただし、「十八」という数は「八百万の神々」「江戸八百八町」などのように、多数という意味、または吉数に因んだものと思われ、人数にも諸説がある。 彼らは義侠心に富み、しゃれっ気があり、吉原遊びに途方もない大金を使う遊び人で、金の使いっぷりが景気良く、男伊達でもあるという、江戸ッ子気質の大尽であった。十八大通に数えられていようといまいと、蔵前の旦那と呼ばれる札差達は色々な遊び芸事に夢中になった。その文芸との関わりは、歌舞伎や俳諧のほか、茶番劇・琴・能・踊・河東節・浄瑠璃・一中節・らっぱ等々、多方面にわたった。ことに歌舞伎では興業の援助者であり、役者たちのパトロンでもあった。 大通が歌舞伎役者の振舞をまね、衣装や持ち物までそっくりに揃えて、一人の役者の熱心なファンになると、役者のほうでも舞台で大通の姿を入れて応える。両者はますます芝居じみて派手で大袈裟な行動をみせるようになる。なかでも最も有名となったのは、御蔵前の今助六とよばれた大口屋暁雨である。 十八大通として知られる人達が活躍したのは、主に宝暦年間(1751年 - 1763年)から天明年間(1781年 - 1788年)のことであり、その多くは札差で占められていたが、文化・文政期(1804年 - 1829年)頃には札差は数人どまりで、あまり派手な浪費譚や、吉原を舞台にした景気の良い話が残されていない。古くは遊里で一晩に100両、200両と蕩尽して遊ぶのがもてはやされたが、化政期頃になると10両、20両でこれだけの遊びをしてきた、という方が遊び巧者であり、本当の通人と見られるようになってきた。.
印籠
印籠(いんろう)とは、薬などを携帯するための小さな容器のことを言う。当初は印を入れたことから印籠と称される。数える単位は合(ごう)、または具(ぐ・そなえ)。 平たい長方形をしており、素材は木製または金属製で3段から5段くらいに分割できるようになっている。各段の両脇に紐(緒締め=おじめ)を通して、落下防止用の根付けで留め、紐を帯に挟んで使用した。特に螺鈿や蒔絵などが施されたものもある。.
即興劇
即興劇(そっきょうげき、Improvisational theatre)は、台本を用意せずに、即興的な演技手法を用いて、俳優が自発的に演じる形式の演劇である。たんに「即興」とも、インプロヴィゼーション(improvisation)、インプロブ(improv)、インプロ(impro)とも呼ばれる。.
吉原 (東京都)
手彩色絵葉書東京吉原(明治大正時代) 吉原(よしわら)は、江戸時代に江戸郊外に作られた、公許の遊女屋が集まる遊廓(吉原遊廓)、およびその地域の名。現在の東京都台東区千束四丁目、および三丁目の一部にあった。現在は日本一のソープランド街として知られる。.
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坂東三津五郎
坂東 三津五郎(ばんどう みつごろう)は、歌舞伎役者の名跡。屋号は大和屋。定紋は三ツ大、替紋は花勝見。また替紋として八代目は角切角に梶の葉を、九代目は梶の葉を、それぞれ使うことも多かった。;初代 坂東三津五郎;二代目 坂東三津五郎;三代目 坂東三津五郎;四代目 坂東三津五郎;贈五代目 坂東三津五郎;六代目 坂東三津五郎;七代目 坂東三津五郎;八代目 坂東三津五郎;九代目 坂東三津五郎;十代目 坂東三津五郎 Category:歌舞伎役者 Category:歌舞伎役者の名跡.
大口屋暁雨
大口屋暁雨(おおぐちや ぎょうう)は十八大通の筆頭といわれた江戸時代の通人。本名は大口屋治兵衛(じへえ)で家業は旧浅草区蔵前の札差。暁雨は号で後に暁翁と号す。生没年不詳。 札差株仲間が享保9年 (1724年) に結成された当時から営業している起立人の1人である。天王町組に属して43年間営業し、のち廃業している。.
大和屋
大和屋(やまとや).
大阪
大阪(おおさか、Ōsaka)は、日本の近畿地方(関西地方)の地名である。日本第二の都市・西日本最大の都市である大阪市(狭義の大阪)と、大阪市を府庁所在地とする大阪府を指す地域名称であり、広い意味では大阪市を中心とする京阪神(近畿地方、大阪都市圏、近畿圏)を漠然と総称することにも使われる。近畿の経済・文化の中心地で、古くは大坂と表記し、古都・副都としての歴史を持つ。.
大阪歌舞伎座
大阪歌舞伎座(おおさかかぶきざ)は、かつて大阪府大阪市南区難波新地四番町(のち三番町に変更。現・中央区千日前)にあった歌舞伎劇場である。 松竹の興行が行われていたが、経営はその傍系会社であった千日土地建物(千土地興行を経て日本ドリーム観光に改称)が行ってきた。千日前交差点の角地に立地し、まだ高層建築物が少なかった当時の大阪で、地上7階建のビルディングは正面の巨大丸窓と共に異彩を放っていた。劇場自体はビルの1 - 4階部分を占め、東京・歌舞伎座よりも芝居が見やすく、スケールの大きな劇場として知られた。.
大正
大正(たいしょう)は日本の元号の一つ。明治の後、昭和の前。大正天皇の在位期間である1912年(明治45年/大正元年)7月30日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの期間。.
天保
天保(てんぽう)は日本の元号の一つ。文政の後、弘化の前。1831年から1845年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉、徳川家慶。.
天保の改革
天保の改革(てんぽうのかいかく)は、江戸時代の天保年間(1830年 - 1843年)に行われた、幕政や諸藩の改革の総称である。享保の改革、寛政の改革と並んで、江戸時代の三大改革の一つに数えられる。貨幣経済の発達に伴って逼迫した幕府財政の再興を目的とした。またこの時期には、諸藩でも藩政改革が行われた。.
天明
天明(てんめい)は日本の元号の一つ。安永の後、寛政の前。1781年から1789年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治、徳川家斉。.
外郎売
外郎売(ういろううり)は、享保3年(1718年)正月、江戸森田座の『若緑勢曾我』(わかみどり いきおい そが)で二代目市川團十郎によって初演された歌舞伎十八番の一つである。 現在は十二代目團十郎が復活させたもの(野口達二脚本)が上演されている。 九代目市川團十郎の虎屋東吉(鳥居忠清画).
宝暦
宝暦(ほうれき、ほうりゃく、旧字体: 寶曆)は日本の元号の一つ。寛延の後、明和の前。1751年から1764年までの期間を指す。この時代の天皇は桃園天皇、後桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川家重、徳川家治。.
安房国
安房国(あわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
安政
安政(あんせい)は日本の元号の一つ。嘉永の後、万延の前。1855年嘉永から安政への改元が行なわれたのはグレゴリオ暦1855年1月15日であり、和暦が新年を迎えないうちに西暦だけが新年を迎えている期間であった。安政元年は西暦1855年1月15日から同2月16日までの短い期間であるため、和暦と西暦を一対一で対応させようとする場合、嘉永7年=安政元年=西暦1854年、安政2年=西暦1855年となって実際とはずれが生じる。から1860年までの期間を指す。この時代の天皇は、孝明天皇。江戸幕府将軍は、徳川家定、徳川家茂。.
寿司
寿司(すし・鮨・鮓、英語:Sushi吉野(1971))とは、米飯と主に魚介類を組み合わせた日本料理である。 大別すると、酢飯と生鮮魚介を用いた「早鮨(早ずし)」と、魚介類を飯と塩で乳酸発酵させた「なれ鮨(なれずし)」に区分される。.
寿曽我対面
寿曽我対面(ことぶき そがのたいめん、正字体:壽曾我對面)は歌舞伎狂言の演目。『吉例寿曽我』とも、また略して『曽我の対面』『対面』とも通称される。一幕の時代物。初演は延宝4年正月(1676年2月)、江戸中村座。.
寛延
寛延(かんえん)は日本の元号の一つ。延享の後、宝暦の前。1748年から1751年までの期間を指す。この時代の天皇は桃園天皇。江戸幕府将軍は徳川家重。.
小袖
菱川師宣筆「見返り美人」 江戸時代(17世紀)東京国立博物館蔵 女性は緋色地に花輪模様の元禄小袖を着用する。模様は綸子地に刺繍で表したものとみられる長崎巌『染と織を訪ねる』、p.67。 小袖(こそで)は、日本の伝統的衣装の一つ。現代日本で一般的に用いられている、和服(着物)の元となった衣類である。袖口の開きが大きく、袖丈一杯まで開いている袖の形状を、大袖(おおそで)と言うのに対し、「小袖」は袖口の開きが狭いことから付いた名称である。.
尾上多賀之丞 (3代目)
三代目 尾上 多賀之丞(さんだいめ おのえ たがのじょう、1889年(明治22年)9月21日 - 1978年(昭和53年)6月20日)は、戦前戦後にかけて活躍した歌舞伎役者。本名は樋口 鬼三郎。俳名は梅華。屋号は音羽屋。 叔父は歌舞伎役者四代目淺尾工左衛門。役者としての初舞台は明治24年 (1891)、市川鬼三郎の名前で東京四谷桐座『鈴木主水噂新宿』(鈴木主水)。明治32年(1899年)頃、一時、木挽町にいた鏑木清方に入門、日本画を習得している。明治44年 (1911) 9月五代目市川鬼丸(いちかわ きがん)を襲名し名題昇進。 以後小芝居で花形役者として活躍するが、その才能を六代目尾上菊五郎に見出され、1921年(大正10年)10月市村座の『網模様燈篭菊桐』(小猿七之助)の滝川で菊五郎一座に女房役として迎えられる。1927年(昭和2年)6月、新橋演舞場の新作『厄年』のいろは茶屋お六で三代目尾上多賀之丞を襲名。1968年(昭和43年)重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。1971年 菊池寛賞受賞。1978年(昭和53年)2月、数え90歳で『かっぽれ』を躍ったのを名残に没した。 女形の名脇役として、六代目菊五郎から、二代目松緑、七代目梅幸を経て七代目菊五郎と、音羽屋三代の相方を勤める。晩年は後進の指導に当っていた。 『暗闇の丑松』のお今、『ひらかな盛衰記』「源太勘当」の延寿、『梅雨小袖昔八丈』(髪結新三)の後家お常など新作や時代物、世話物などを演じたが、中でも『盲長屋梅加賀鳶』(加賀鳶)のおさすりお兼は最大の当り役で、80代を過ぎても、すっきりした江戸前の伝法さと溢れるばかりの色気とで舞台を彩っていた。 養子が六代目尾上菊蔵。.
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尾上菊五郎
尾上 菊五郎(おのえ きくごろう)は、歌舞伎役者の名跡。屋号は音羽屋。定紋は重ね扇に抱き柏、替紋は四ツ輪。役者文様に斧琴菊がある。;初代 尾上菊五郎;二代目 尾上菊五郎;三代目 尾上菊五郎;四代目 尾上菊五郎;五代目 尾上菊五郎;六代目 尾上菊五郎;七代目 尾上菊五郎.
尾上菊五郎 (3代目)
三代目 尾上菊五郎(さんだいめ おのえ きくごろう、天明4年(1784年) - 嘉永2年閏4月24日(1849年6月14日))とは、江戸時代後期の歌舞伎役者。屋号は音羽屋。定紋は重ね扇に抱き柏、替紋は四ツ輪。俳名に賀朝・梅幸・三朝・梅壽、雅号に扇舎がある。また別名に植木屋 松五郎(うえきや まつごろう)、菊屋 万平(きくや まんぺい)がある。「尾上菊五郎」の名跡を一代で江戸歌舞伎を代表する大看板のひとつにのし上げた。.
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尾上菊五郎 (初代)
初代 尾上菊五郎(しょだい おのえ きくごろう、享保2年〈1717年〉 - 天明3年12月29日〈1784年1月21日〉)とは、江戸時代の歌舞伎役者。屋号音羽屋、俳名梅幸。幼名は竹太郎。 京都都萬太夫座の芝居茶屋の出方音羽屋半平の子。初め若女形の尾上左門の門下となり、尾上竹太郎と名乗る。享保15年(1730年)京都榊山四郎太郎座で尾上菊五郎を名乗り若衆方として初舞台。同20年(1735年)からは若女形として舞台に立ち評判を取る。 その後寛保元年(1741年)、大坂で二代目市川海老蔵と同座し、翌年の寛保二年には、『鳴神』で海老蔵演じる鳴神上人を相手に雲の絶間姫を演じて大評判を取る。これをきっかけに同年海老蔵と共に江戸に下り、市村座に出て女形として売り出した。その後宝暦2年(1752年)に立役に転じる。しかし明和3年(1766年)、江戸堺町で営んでいた油屋からの出火により隣接する中村座と市村座の両座を焼失、これが「菊五郎油見世火事」といわれるほど反発を買い、帰坂せざるを得なくなった。その後は四年を経てふたたび江戸に下り大当りを取り、三都の舞台で活躍し、最後は大坂で没した。 当り役は『仮名手本忠臣蔵』の大星由良助、『ひらかな盛衰記』の延寿・畠山重忠など。子に二代目尾上菊五郎がいる。.
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山梨県
山梨県(やまなしけん)は、本州の内陸部に位置する日本の県の一つ。県庁所在地は甲府市。令制国の甲斐国に相当する。.
屋形船
新潟信濃川で、活躍する屋形船、ばんだい丸 屋形船(やかたぶね)とは、和船の一種で、主に船上で宴会や食事をして楽しむ、屋根と座敷が備えられた船のこと。楼船(ろうせん)ともいう。.
岩井半四郎 (5代目)
五代目 岩井 半四郎(ごだいめ いわい はんしろう、安永5年(1776年) - 弘化4年4月6日(1847年5月20日))は化政期に女形として活躍した江戸の歌舞伎役者。幼名は長松(ちょうまつ)。屋号は大和屋。俳名に梅我・杜若、通称に杜若半四郎・眼千両・大太夫などがある。.
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島原 (京都)
京都市 島原大門 江戸時代の島原遊郭。歌川広重、1830年代 島原(しまばら)は京都市下京区に位置する花街の名称。「嶋原」とも書く。正式名は西新屋敷といい、6つの町(上之町、中之町、中堂寺町、太夫町、下之町、揚屋町)で構成されている。島原は1976年に京都花街組合連合会を脱会し、現在は輪違屋のみが正式なお茶屋の鑑札を有し、置屋兼お茶屋の営業を行っている。.
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上総国
上総国(かずさのくに、正仮名遣:かづさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 常陸国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介であった。.
上方
上方(かみがた・かみかた)は、江戸時代に京都や大阪を初めとする畿内を呼んだ名称である。広義では、畿内を初めとする近畿地方一帯を指す語としても使われる。.
中村座
復元された中村座(江戸東京博物館) 京橋) 中村座の定式幕 中村座(なかむらざ)は、江戸にあった歌舞伎劇場で江戸三座のひとつ。座元は中村勘三郎代々。控櫓は都座。.
中村勘三郎 (18代目)
十八代目 中村 勘三郎(じゅうはちだいめ なかむら かんざぶろう、1955年(昭和30年)5月30日 - 2012年(平成24年)12月5日)は、歌舞伎役者、俳優。本名は波野 哲明(なみの のりあき)。屋号は中村屋。定紋は角切銀杏、替紋は丸に舞鶴。舞踊名に藤間勘暢(ふじま かんちょう)がある。 子役時代から46年間名乗った前名である五代目 中村 勘九郎(ごだいめ なかむら かんくろう)としても知られた。愛称は本名からきた「のりちゃん」。 所属事務所は。.
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中村芝翫 (4代目)
四代目 中村 芝翫(よだいめ なかむら しかん、天保2年3月3日(1831年4月15日) - 明治32年(1899年)1月16日)は、歌舞伎役者。屋号は成駒屋。俗に「大芝翫」(おおしかん)と呼ばれた名優。立役・実悪・女形。 大坂道頓堀に歌舞伎役者中村富四郎の長男として生まれる。中村玉太郎、中村政之助、中村駒三郎の芸名を経て、1838年(天保9年)、四代目中村歌右衛門の養子となる。同年江戸に下り翌年3月、初代中村福助を名乗る。1860年(万延元年)7月四代目中村芝翫を襲名。1863年(文久3年)には守田座座頭になる。以後は江戸の舞台で活躍する。美しい容貌で、いくらがんばっても本物のように描けないと浮世絵師を嘆かせたという。人気も物凄く、名人と呼ばれた四代目市川小團次も、芝翫には勝てず、一時は大坂へ帰ろうかと思ったり、他の俳優が、彼を舞台でいじめる役が居なくなって困ったほどだった。その美しい姿は今日も錦絵や舞台写真で窺うことができる。 立役・実悪・女形を兼ね、時代物世話物も得意。ことに父四代目歌右衛門から仕込まれた所作事は絶品だった。 口跡に秀でておらずしかも科白覚えが悪く、舞台では常に黒子が科白だしの後見をしていたほどであった。このことは、芝翫が初演時に演じた『白浪五人男』の南郷力丸でも「特に科白を覚えるのがきらいだ」と二代目河竹新七(黙阿弥)に書かれるほど知られていた。しかし複雑な踊りの手順はことごとく覚えていたという。後年、九代目市川團十郎と『二人道成寺』を踊った時は、團十郎が汗だくなのに対し芝翫は涼しげな顔で周囲を驚嘆させたという。 実生活でも逸話の多い人で、養子の四代目中村福助(後の五代目中村歌右衛門)が地球儀を見せて、ここが日本ですと教えると「べらぼうめ、日本がそんなに狭いわけがねえ」と怒り出す。そこでアメリカを指して日本ですと言ったら「あたりめえよ、そうでなくちゃいけねえ」と答えた。近所で火事が起ると、なにもかもほったらかして見物に行った。 温厚篤実な性格だったが、覇気に欠ける嫌いがあった。それがわざわいし、明治以降は古風な芸が時代に合わなくなっていった。また、口跡の悪さが年と共にひどくなり、科白覚えが悪いことが新作に向かないなどの理由で、大舞台からは遠ざけられ、小芝居に出るようになった。特に1893年(明治26年)、巡業中の多治見で『法界坊』を上演中に足を負傷し、演技に支障をきたすようになるなど、ますます精彩を欠き晩年は不遇であった。 それでも時折歌舞伎座の舞台に立った。実際の舞台に接した岡本綺堂は、芝翫の顔立ちの良さは九代目團十郎の比ではないほど立派なもので、あの鋭い目で見得をすると他の俳優が光を失うと述懐している。 当り役は『妹背山婦女庭訓』の大判事、『寿曽我対面』の工藤、『熊谷陣屋』の熊谷、『助六』の意休、『義経腰越状』の五斗兵衛、『山門』の石川五右衛門、『夏祭浪花鑑』の團七、『金閣寺』の松永大膳、『日高川』の船頭、『隅田川続俤』の法界坊、『鎌倉三代記』の佐々木高綱。所作事は『六歌仙容彩』、『京鹿子娘道成寺』。 Category:歌舞伎役者 Category:摂津国の人物 Category:大阪市出身の人物 Category:1831年生 Category:1899年没.
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常磐津節
常磐津節(ときわづぶし/ときわずぶし)は、三味線音楽の一種。浄瑠璃を語る太夫と、三味線弾きで構成される。重要無形文化財(総合指定)。初代常磐津文字太夫(1709年-1781年)が、延享4年 (1747年) に豊後節より創設した。語り物の浄瑠璃の一つで、全盛期を迎えていた江戸歌舞伎とともに発展した。語りと歌との均衡が取れ、整然とまとめられた旋律「オトシ」と呼ばれる独自の技法を持ち、この特徴から常磐津節は劇付随音楽として歌舞伎など舞踊劇になくてはならない音曲といわれる。三味線方は、中棹の紅木三味線と象牙の撥(ばち)を用い、太夫の語りに合わせた絶妙な間合いで相方をつとめる。創流当初は佐々木市蔵などの佐々木姓、鳥羽屋里長などの鳥羽姓が見受けられるが、江戸時代を通して明治期に至るまで岸澤式佐を家元とする岸澤派が主流となる(現在は常磐津姓の三味線弾きが多数を占める)。また、歌舞伎出語りの時には、柿色の肩衣、蛸足と呼ばれる独自の見台を用いるのが特色である。現在では歌舞伎伴奏のほか、日本舞踊の伴奏音楽として、また、素浄瑠璃の演奏会などで頻繁に演奏されている。定紋は角木瓜、替紋は松皮菱である。.
世界 (曖昧さ回避)
世界(せかい).
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市川小團次 (4代目)
四代目 市川小團次(よだいめ いちかわ こだんじ、文化9年(1812年)1月 - 慶応2年5月8日(1866年6月20日))は幕末の歌舞伎役者。幼名は榮太(えいた)、また榮次郎(えいじろう)とも。俳名は米升。屋号は高島屋。定紋は三升。.
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市川三升
五代目市川三升(いちかわ さんしょう、1880年(明治13年)10月31日 - 1956年(昭和31年)2月1日)は、大正から昭和の中頃にかけての歌舞伎役者。屋号は成田屋。定紋は三升、替紋は杏葉牡丹。本名は堀越福三郎(ほりこし ふくさぶろう)。 堅気の銀行員から恋愛結婚で市川宗家に婿養子に入り、やがて宗家としての自覚から30近くになって歌舞伎役者に転向した異色の人物として知られる。「五代目」とありながら、実際にこの「市川三升」の名跡を名乗ったのはこの堀越福三郎ただ一人なので、通常は単に市川 三升(いちかわ さんしょう)と呼ぶことが多い。また死後に追贈された十代目 市川團十郎(じゅうだいめ いちかわ だんじゅうろう)としても知られる。俳名は夜雨。.
市川團十郎
三升 杏葉牡丹 鎌輪ぬ 市川 團十郞(いちかわ だんじゅうろう、新字体:団十郎)は歌舞伎役者の名跡。屋号は成田屋。定紋は三升(みます)、替紋は杏葉牡丹(ぎょよう ぼたん)。役者文様は鎌輪ぬ(かまわぬ)。 昭和初期に山梨県笛吹市一宮町の旧家で発見された堀越氏系図によると、遠祖は能係を務めた武田家臣で、初代團十郎の曾祖父にあたる堀越十郎が市川三郷町(旧三珠町上野)の地を領し、武田滅亡後に下総国へ落ち延びたという。ただし市川宗家は、初代團十郎は成田山新勝寺にほど近い幡谷の出身で、新勝寺とは少なからず縁があったと公式に表している。これが「成田屋」という市川宗家の屋号の由来である。--> -->.
市川團十郎 (12代目)
十二代目 市川 團十郎(じゅうにだいめ いちかわ だんじゅうろう、1946年(昭和21年)8月6日 - 2013年(平成25年)2月3日)は、日本の歌舞伎役者。屋号は成田屋、定紋は三升(みます)、替紋は杏葉牡丹(ぎょようぼたん)。日本芸術院会員。本名は堀越 夏雄(ほりこし なつお)、俳名に柏莚(はくえん)がある。.
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市川團十郎 (2代目)
二代目 市川團十郎(にだいめ いちかわ だんじゅうろう、元禄元年10月11日(1688年11月3日) - 宝暦8年9月24日(1758年10月25日))は、正徳から享保年間にかけて江戸で活躍した歌舞伎役者。屋号は成田屋。定紋は三升(みます)。俳名は三升、才牛斎、栢莚、雛助。.
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市川團十郎 (3代目)
三代目 市川團十郎(さんだいめ いちかわ だんじゅうろう、享保6年(1721年) - 寛保2年2月27日(1742年4月2日))は享保期の歌舞伎役者。屋号は成田屋。定紋は三升(みます)。 享保6年 (1721) 生まれ。父は初代團十郎の高弟初代三升屋助十郎。幼名助太郎。 同10年 (1725) 、五歳で二代目團十郎の養子となり、同12年 (1727) 、初舞台。初名市川升五郎。 享保20年 (1735) 、養父二代目の隠居にともない、三代目市川團十郎を襲名。将来を嘱望されていたが、寛保元年 (1741) 、旅先の大坂で発病し、翌年のはじめに22歳で病死した。.
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市川團十郎 (6代目)
六代目 市川 團十郎(ろくだいめ いちかわ だんじゅうろう、安永7年(1778年) - 寛政11年5月13日(1799年6月16日))は天明から寛政の頃に活躍した歌舞伎役者。屋号は成田屋。定紋は三升。 安永7年 (1778)、五代目市川團十郎の子として生れるが、妾腹だったためいったん門弟の二代目市川升蔵に引き取られ、そこから父のいとこにあたる芝居茶屋の和泉屋勘十郎の養子に入れられ、さらに天明2年(1782) に改めて父の養子として迎えられた。翌年、市川徳蔵を名乗って初舞台。同じ年に四代目市川海老蔵を襲名する。 寛政3年 (1791)、六代目市川團十郎を襲名。花やかな美男役者で人気が高かったが、同11年 (1799) に『助六』で当りを取ったのち、風邪をこじらせて急死してしまう。享年わずか22だった。 Category:江戸時代の歌舞伎役者 Category:武蔵国の人物 Category:1778年生 Category:1799年没.
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市川團十郎 (7代目)
七代目 市川 團十郎(しちだいめ いちかわ だんじゅうろう、寛政3年(1791年) - 安政6年3月23日(1859年4月25日))は化政期から天保にかけて活躍した江戸の歌舞伎役者。屋号は成田屋。定紋は三升(みます)。俳名は三升、白猿、夜雨亭、壽海老人、子福者、二九亭。 天保の改革のあおりを受けて江戸を追放されたことで有名。.
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市川團十郎 (8代目)
八代目 市川 團十郎(はちだいめ いちかわ だんじゅうろう、文政6年10月5日(1823年11月7日) - 嘉永7年8月6日(1854年9月27日))は天保年間から幕末にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号は成田屋。定紋は三升、替紋は杏葉牡丹。俳名に白猿がある。.
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市川團十郎 (9代目)
九代目 市川 團十郞(くだいめ いちかわ だんじゅうろう、新字体:団十郎 1838年11月29日(天保9年10月13日) - 1903年(明治36年)9月13日)は明治時代に活躍した歌舞伎役者。屋号は成田屋。定紋は三升(みます)、替紋は杏葉牡丹(ぎょよう ぼたん)。俳号に紫扇(しせん)・團州(だんしゅう)・壽海(じゅかい)・三升(さんしょう)、雅号には夜雨庵(ようあん)。本名は堀越 秀(ほりこし ひでし)。 五代目 尾上菊五郎、初代 市川左團次とともに、いわゆる「團菊左時代」を築いた。写実的な演出や史実に則した時代考証などで歌舞伎の近代化を図る一方、伝統的な江戸歌舞伎の荒事を整理して今日にまで伝わる多くの形を決定、歌舞伎を下世話な町人の娯楽から日本文化を代表する高尚な芸術の域にまで高めることに尽力した。 その数多い功績から「劇聖」(げきせい)と謳われた。また歌舞伎の世界で単に「九代目」(くだいめ)というと、通常はこの九代目 市川團十郎のことをさす。.
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市川團蔵 (6代目)
六代目 市川團蔵(ろくだいめ いちかわ だんぞう、寛政12年〈1800年〉 - 明治4年10月22日〈1871年12月4日〉)とは、江戸時代の歌舞伎役者。屋号は三河屋、定紋は縦長三升、替紋は結び柏。俳名は三猿、團猿、雅号に市紅庵、松秀舎。 父は四代目市川團蔵の門弟初代市川荒五郎。江戸に生まれ、文化2年(1805年)市川昭世と名乗って初舞台を踏む。文化10年 、七代目市川團十郎の門下に加わり市川三蔵と改名。文化13年には初代市川茂々太郎と改名、この間に子供芝居に出る。上方や九州の舞台にも立ち、天保2年(1831年)、大坂で初代市川白蔵と改名。天保5年、江戸に帰って二代目市川九蔵を襲名する。その後は江戸と上方を往復しながら舞台を務める。嘉永5年8月(1852年)、五代目市川團蔵の未亡人の養子となり、同年10月大坂角の芝居『金烏玉兎倭入船』で六代目市川團蔵を襲名した。 体格は小柄ではあったがいろいろな役をこなした。しかし芸風は地味で人気は上がらなかったという。一方、初代團蔵と二代目團蔵が得意とした演目を「古劇八種」というお家芸にまとめている。養子に七代目市川團蔵がいる。墓所は谷中墓地にある。.
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市川猿之助
二代目市川段四郎の六部実ハ将軍太郎良門(左)と二代目市川猿之助の下男実ハ田原小藤太。二代目段四郎は前の初代猿之助で、二代目猿之助の父にあたる。明治43年 (1910) 10月東京歌舞伎座「二代目市川段四郎・二代目市川猿之助 襲名披露興行」より。『鎌髭』は四代目市川團十郎が安永3年 (1774) に初演した成田屋 市川宗家の「歌舞伎十八番」の一つだが、早くから台本が散逸してその大略も分からなくなっていた。これを大幅な創作を加えて復活上演したのが猿之助父子で、それ以来この演目は澤瀉屋 猿之助・段四郎家のお家芸として定着した。 代々喜熨斗家の墓は台東区寛永寺。 --> 市川 猿之助(いちかわ えんのすけ)は、歌舞伎役者の名跡。屋号は澤瀉屋。定紋は澤瀉、替紋は三つ猿。;初代 市川猿之助;二代目 市川猿之助;三代目 市川猿之助;四代目 市川猿之助 Category:歌舞伎役者の名跡 Category:歌舞伎役者.
市川男女蔵
市川 男女蔵(いちかわ おめぞう)は、歌舞伎役者の名跡。屋号は瀧野屋、二代目は小谷屋とも。定紋は初代から三代目までが三升の中に男、以後は隅切り角に一葉紅葉。 四代目男女蔵が二代目市川左團次の未亡人に乞われて三代目左團次を襲名したため、以後「市川男女蔵」は「市川左團次」の前に襲名する名跡となる。その結果代々の左團次と男女蔵は、親子でありながら父は高島屋・息子は瀧野屋と、異なる屋号を持つことになった。.
市川段四郎 (4代目)
四代目 市川段四郎(よだいめ いちかわ だんしろう、1946年(昭和21年)7月20日 - )は歌舞伎役者。本名は喜熨斗宏之(きのし ひろゆき)。屋号は澤瀉屋。定紋は三升に段の字、替紋は八重澤瀉。俳名に笑楽。舞踏の名取は琴吹 千草(ことぶき ちぐさ)。.
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市川海老蔵
市川海老蔵(いちかわ えびぞう、市川蝦蔵・市川ゑび蔵とも)は歌舞伎の名跡。屋号は成田屋。定紋は三升(みます)、替紋は杏葉牡丹(ぎょよう ぼたん)。また替紋とほぼ同様の使われ方をする役者文様に寿海老(ことぶき えび)がある。.
市村座
市村座(いちむらざ)は、江戸にあった歌舞伎劇場で、江戸三座のひとつ。座元は市村羽左衛門代々。控櫓は主に桐座だったが、都座と玉川座が代興行したこともある。明治時代以降も経営者が変わりながら運営されていたが、1932年(昭和7年)の焼失により廃座となった。.
市村羽左衛門
市村 宇左衞門 / 羽左衞門(いちむら うざえもん、新字体:羽左衛門)は、歌舞伎役者の名跡。名の部分は七代目までが宇左衛門、以後が羽左衛門。 屋号は七代目までは不詳、七代目から十六代目までは菊屋、十六代目以降は橘屋。 十六代目以降の定紋は根上り橘(ねあがり たちばな)、替紋は渦巻(うずまき)。.
市村羽左衛門 (8代目)
八代目 市村羽左衛門(はちだいめ いちむら うざえもん、元禄11年〈1698年〉 - 宝暦12年5月7日〈1762年6月28日〉)とは、江戸時代中期の歌舞伎役者。また市村座の座元。屋号は菊屋、俳名は可江。雅号橘中庵。 芝居茶屋主人菊屋善兵衛の三男として江戸に生まれる。母が五代目市村宇左衛門の姉だったことから、元禄16年(1703年)、父を後見人として5歳で四代目市村竹之丞を襲名し、市村座の座元となる。初舞台はそれから二年後の宝永2年(1705年)正月興行『万歳田村丸』の天童子だった。その後、座元と役者を兼ね江戸の芝居に重きをなすようになる。元文2年(1737年)、将軍家の若君竹千代の名を憚って八代目市村宇左衛門を襲名。寛延元年(1748年)さらに名を「羽左衛門」と改めた。以後市村座の座元は「羽左衛門」の名を代々名乗る。 座元を60年間勤める傍ら、舞台でも若衆、女形、実事、敵役など幅広い役柄をこなした。子に九代目市村羽左衛門、三代目坂東彦三郎がいる。墓所は東京都江戸川区の大雲寺だが、ほかに江東区の自性院にも供養塔がある。なお八代目羽左衛門ゆかりの名所として、「曽我御霊社奉寄進石宝殿」がある。春の江戸の芝居に必ず取り上げられた「曽我物」の人物曽我兄弟を供養するため、八代目が駒込富士神社(東京都文京区本駒込五丁目)に寄進したものである。.
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市村羽左衛門 (9代目)
九代目 市村羽左衛門(くだいめ いちむら うざえもん、享保9年〈1724年〉 - 天明5年8月25日〈1785年9月28日〉)とは、享保の初期から天明初期にかけて活躍した歌舞伎役者。 屋号菊屋、俳名は家橘。 八代目市村羽左衛門の長男で、弟は三代目坂東彦三郎。享保16年(1731年)7月、市村満蔵を名乗り市村座で初舞台、延享2年(1745年)に市村亀蔵と改名。宝暦11年(1761年)3月、伊勢参りの名目で上方へ行き、伊勢参宮ののち大坂に行き、中山文七座に同座して五変化の所作事などを見せ、のちに京にも行きやはり五変化の所作を上演して名をあげる。同年11月江戸に戻った。宝暦12年(1762年)、父八代目羽左衛門の死去により市村座の座元を相続すると同時に市村羽左衛門を襲名。しかしその後火事や先代からの借金に苦しめられ、天明4年(1784年)にはついに市村座は倒産閉場し、控櫓の桐座に興行権を譲るに至った。その翌年、中村座の座元中村勘三郎の勧めにより羽左衛門は中村座に出演し、一世一代として変化舞踊を演じたが、そのなかで猿まわしの猿に扮し『娘道成寺』の所作事を演じた。同年8月に没す。 若いころは魚のような顔つきだと評され荒事ばかりを演じていたが、のちに和事や実事、また女の役も演じるようになり、八代目に劣らず幅広い芸風を誇った。特に所作事においては名人との評判を得ている。子に十代目市村羽左衛門がいる。.
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下駄
一般的な下駄 下駄(げた)は、鼻緒があり、底部に歯を有する日本の伝統的な履物 特許庁。足を乗せる木板に「歯」と呼ばれる接地用の突起部を付け(歯がないものもある)、「眼」と呼ぶ孔を3つ穿って鼻緒を通す。足の親指と人差し指の間に鼻緒を挟んで履く(歴史的には、人差し指と中指の間に鼻緒を挟む履き方もあった)。.
一中節
一中節(いっちゅうぶし)は浄瑠璃の一種。また古曲の一。国の重要無形文化財。 初代都太夫一中(1650年~1724年)が元禄から宝永ごろにかけて京都において創始した。先行する浄瑠璃の長所を取入れ、当時勃興してきた義太夫節とは逆に、温雅で叙情的な表現を目指したところに特色がある。三味線は中棹を用い、全体的に上品かつ温雅、重厚を以てその特徴とする。 当初は上方の御座敷浄瑠璃として出発し、世人にひろく愛好されたが、後に江戸に下って歌舞伎の伴奏音楽としても用いられた。その後、ふたたび主として素浄瑠璃専門となって現代に至っている。上方では早く衰退し、現在では東京を中心に伝承されている。一中節自体ははやい時期に細い流れとなってしまったが、ここから出た豊後節および豊後節三流が邦楽に与えた影響ははかりしれない。.
乞食
乞食(こつじき、こじき)とは、.
幡随院長兵衛
江戸時代後期に描かれた幡随院長兵衛のイメージ。歌川国芳「国芳もやう正札附現金男・幡随長兵衛」 幡随院長兵衛夫妻の墓 (源空寺) 幡随院 長兵衛(ばんずいいん ちょうべえ、元和8年(1622年) - 慶安3年4月13日(1650年5月13日)あるいは、明暦3年7月18日(1657年8月27日)とも)は、江戸時代前期の町人。町奴の頭領で、日本の侠客の元祖ともいわれる。『極付幡随長兵衛』など歌舞伎や講談の題材となった。本名は塚本 伊太郎(つかもと いたろう)。妻は口入れ屋の娘・きん。.
幕末
幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.
享保
享保(きょうほう、きょうほ)は日本の元号の一つ。正徳の後、元文の前。1716年から1736年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇、桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.
京都
京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.
延宝
延宝(えんぽう、旧字体: 延寳)は日本の元号の一つ。寛文の後、天和の前。1673年から1681年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱、徳川綱吉。.
延享
延享(えんきょう)は日本の元号の一つ。寛保の後、寛延の前。1744年から1748年までの期間を指す。この時代の天皇は桜町天皇、桃園天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗、徳川家重。.
伊勢平氏
伊勢平氏(いせへいし)は、承平天慶の乱に功のあった平貞盛の四男平維衡よりはじまる平氏一族の一つ、高望王流坂東平氏の庶流である。平氏の中でも伊勢平氏、特に平正盛の系統(六波羅家あるいは六波羅流)を平家(へいけ)と呼ぶ場合がある。.
侠客
侠客(きょうかく)とは、強きを挫き、弱きを助ける事を旨とした「任侠を建前とした渡世人」の総称。.
俳名
俳名(はい-みょう)は、本来俳号と同義であるが、江戸時代中期以降の芸能分野においては、.
俳諧
俳諧(はいかい)とは、主に江戸時代に栄えた日本文学の形式、また、その作品のこと。誹諧とも表記する。正しくは俳諧の連歌あるいは俳諧連歌と呼び、正統の連歌から分岐して、遊戯性を高めた集団文芸であり、発句や連句といった形式の総称である。.
心中
心中(しんじゅう、旧仮名遣い:しんぢゆう)とは、本来は相思相愛の仲にある男女が双方の一致した意思により一緒に自殺または嘱託殺人すること。情死とも。.
マナー
マナー(manners)とは、行儀・作法のことを指す。.
チケット
チケット (ticket).
トリヴィア
トリヴィア(trivia)は、 「くだらないこと、瑣末なこと、雑学的な事柄や知識、豆知識」 を指す。 一説に、ラテン語で「三叉路」3(tres)+道(via)を意味する言葉で、古代ローマの都市において三叉路が多かったことから、「どこにでもある場所」「ありふれた場所」を指すようになり、さらに転じて、くだらないこと、瑣末なことを意味するようになったという。 また、中世の教養科目(リベラル・アーツ)のうち基本となる3つ(文法・修辞学・弁証法)のことをtrivium(三学、複数形でtrivia)と呼んだため、そこから「初歩的でつまらない」という意味が生じたともいう。 形容詞はトゥリヴィアル(trivial)。数学では、ごく基本的で明らかなことを指してトゥリビアル(「自明な」と訳される)という用語をよく使う。.
ヘビ
ヘビ(蛇)は、爬虫綱有鱗目ヘビ亜目(Serpentes)に分類される爬虫類の総称。体が細長く、四肢がないのが特徴。ただし、同様の形の動物は他群にも存在。.
パントマイム
パントマイム()は、台詞ではなく身体や表情で表現する演劇の形態。黙劇(もくげき)、無言劇(むごんげき)とも呼ばれる。.
ファン
ファン(fan)は、特定の人物や事象に対する支持者や愛好者のこと。「熱狂的な」を意味するファナティック(fanatic)の略。対義語で、特定の人物や事象に対する嫌悪者は「ヘイター」(hater)という。.
刀
19世紀 フランス海軍将校が使用していた刀 刀「ラハイヤン」とアラビア語の信仰告白「アラーの他に神はなし。ムハンマドはアラーの使徒である」が描かれたサウジアラビアの国旗 刀(かたな)は武器(刀剣)の一種であり、剣の内でもとくに片側にしか刃のない物を指し、切断力を増す為に反りのついた構造のものが多い。反りのついていないものは特に直刀と称する。日本語としては「かた・な」と分解できてそれぞれ片、刃をあらわす。日本の刀に関する詳細は日本刀の項を参照。.
喧嘩
喧嘩(けんか、英語 quarrel, dispute)とは、個人的な争いの中でも、裁判に持ち込まれないもののこと平凡社『世界大百科事典』vol.9 p.37「喧嘩」竹内常一 執筆。.
カラス
ラス(烏、鴉、鵶、雅)は、鳥類カラス科の1グループ。カラス属 または近縁な数属を含む。 多くは全身が黒く、黒い鳥の代表とみなされ、諺などではよく白いサギと対比させられる。ただし、実際は、白黒2色のコクマルガラス、暗褐色に白斑のホシガラスなどもおり、必ずしも真っ黒のものだけではない。.
サクラ
ラ(桜)は、バラ科モモ亜科スモモ属(サクラ属)(Prunus, Cerasus) の落葉樹の総称。 サクラは日本文化に馴染みの深い植物である(#日本人とサクラ)。また、日本において観賞用として植えられているサクラの多くはソメイヨシノという品種である。英語では桜の花のことをCherry blossomと呼ぶのが一般的であるが、日本文化の影響から、sakuraと呼ばれることも多くなってきている。 現在、ヨーロッパ・西シベリア・日本・中国・米国・カナダなど、主に北半球の温帯に、広範囲に分布している。 サクラの果実はサクランボまたはチェリーと呼ばれ、世界中で広く食用とされる。 サクラ全般の花言葉は「精神の美」「優美な女性」西洋では「優れた教育」も追加される。.
出汁
出汁・出し・だしは、昆布や鰹節などの食品を煮て出した汁。煮出汁の略で、出し汁、にだしともいう広辞苑第5版。.
元禄
元禄(げんろく、旧字体: 元祿)は日本の元号の一つ。貞享の後、宝永の前。1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.
元文
元文(げんぶん)は日本の元号の一つ。享保の後、寛保の前。1736年から1741年までの期間を指す。この時代の天皇は桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.
硯
硯(すずり)は、墨を水で磨り卸すために使う、石・瓦等で作った文房具である。中国では紙・筆・墨と共に文房四宝のひとつとされる。硯及び附属する道具を収める箱を硯箱といい、古来優れた工芸品が多数あり、一般に硯箱は、桐や花梨でできているものが多い。.
福地源一郎
福地源一郎 留学生時代 福地 源一郎(ふくち げんいちろう、天保12年3月23日(1841年5月13日) - 明治39年(1906年)1月4日)は、幕末から明治時代にかけての武士(幕臣)・ジャーナリスト・作家・劇作家・政治家。衆議院議員。幼名は八十吉(やそきち)。号は櫻癡(おうち、新字体:桜痴)。福地 桜痴(ふくち おうち)として知られる。執筆に吾曹子の名を用いて、吾曹先生とも呼ばれた。劇界への影響力から斯界では池之端の御前とも呼ばれた。.
稲荷寿司
荷寿司 江戸時代後期の稲荷寿司屋台(深川江戸資料館) 稲荷寿司(いなりずし)は、甘辛く煮た油揚げの中に、酢飯を詰めた寿司の一種。「お稲荷さん」「お稲荷」「いなり」などとも呼ばれる。.
竹本義太夫
竹本義太夫(たけもとぎだゆう、慶安4年〈1651年〉 - 正徳4年9月10日〈1714年10月18日〉)とは、江戸時代の浄瑠璃語り。義太夫節浄瑠璃の創始者。本名五郎兵衛、初期には清水五郎兵衛と名乗る。のちに竹本筑後掾と称した。.
立役
立役(たちやく)は、歌舞伎における尋常な成年男子の役、またその役を演じる役者。 対象とならない役は、芯からの悪人(敵役)、滑稽を主とするもの(道化役)、老人(老役)であるが、現在では役者の職掌としての敵役・道化役はなくなり、立役役者がこれをかねているものの、役の分類としては下記のような区別が存在している。その役柄の階級は武士から町人にいたるまで幅広く、多く劇中において善人方としてふるまい、白塗りのこしらえをもっぱらとする。立役役者は歌舞伎における中心的な存在であり、ほかの職掌にある役者よりも高い地位にあるものとされた。通常、立役が座頭をつとめる。.
精進料理
精進料理(しょうじんりょうり)とは、仏教の戒律に基づき殺生や煩悩への刺激を避けることを主眼として調理された料理。 ここでは、中国において仏教から成立した精進料理と、韓国料理や日本料理の和食の一分野である精進料理について紹介する。.
紫
紫色の水晶、アメシスト セイヨウスモモ 紫(むらさき)は、純色の一種。青と赤の間色であり、典型的な紫は菫よりやや赤寄り。紫色(むらさきいろ、ししょく)は同義語。英語ではパープル といい、菫色(すみれいろ、きんしょく)、バイオレット を紫に含む場合もある。古英語ではパーピュア といい、紋章学で用いる。虹の七色(赤・橙・黄・緑・青・藍・紫)のうち、光の波長が最も短い(380〜430nm)。これより波長が短いものを紫外線という。.
紋付
紋付(もんつき)とは家紋の入った着物のこと。紋服(もんぷく)ともいう。紋付という言葉には二義あり、一つは紋の入った着物一般もしくは着物に紋が入っていることを指して用い、もう一つは特に男物の紋付小袖の略称として用いる。しかし、紋付とのみ言った場合には後者のほうが一般的で、羽織、裃、女ものの着物は含まれない。本項では紋付小袖について述べる(着物に紋が入ることの意味に関しては家紋の項を参照)。.
義太夫節
義太夫節(ぎだゆうぶし)とは、江戸時代前期、大坂の竹本義太夫がはじめた浄瑠璃の一種。略して義太夫(ぎだゆう)ともいう。国の重要無形文化財。.
給仕
給仕(きゅうじ)は、食事時にそばに控えて、飲食物をテーブルに出すなど飲食の世話をすることである。また、給仕人(給仕をする人)のことも給仕と呼ぶ。 飲食店では従業員(ウェイター等)が、家庭などでは使用人がおこなう。 広義には、食事に限らず、雑用を任されることを意味する。.
煎餅
餅(せんべい)とは、穀物の粉を使って作る食べ物の一つである。多くは薄く丸い形状をしている。.
煙管
煙管(きせる)とは、日本の喫煙具の一種で、パイプに類似する。麻薬関係での使用については、麻薬の各項目を参照されたい。 煙管。2010年5月、伊勢市おかげ横丁にて撮影.
片岡仁左衛門
片岡 仁左衛門(かたおか にざえもん、旧字体:仁左衞門)は、歌舞伎役者の名跡。 屋号は初代と二代目は不詳、三代目から五代目までが土佐屋、六代目が富桝屋、七代目以降が松嶋屋。七代目以降の定紋は七つ割丸に二引、替紋は追っかけ五枚銀杏。.
片岡仁左衛門 (11代目)
十一代目 片岡 仁左衛門(じゅういちだいめ かたおか にざえもん、安政4年12月4日(1858年1月18日) - 昭和9年(1934年)10月16日)は、明治から昭和初期にかけて活躍した歌舞伎役者。主に立役。屋号は松嶋屋。定紋は七ツ割丸に二引。俳名に我當、萬麿。本名は片岡 秀太郎(かたおか ひでたろう) 養子に十三代目片岡仁左衛門。.
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瀧泉寺
瀧泉寺(りゅうせんじ)は、東京都目黒区下目黒にある、天台宗の寺院。山号は泰叡山(たいえいざん)。不動明王を本尊とし、一般には目黒不動(目黒不動尊)の通称で呼ばれる。江戸三大不動・江戸五色不動の一つ。江戸三十三箇所第33番札所。関東三十六不動第18番。「目黒」の地名はこの目黒不動に由来する、とする説もある。青木昆陽の墓があることでも知られる。.
瀬川菊之丞 (3代目)
三代目 瀬川菊之丞(さんだいめ せがわ きくのじょう、宝暦元年〈1751年〉 - 文化7年12月4日〈1810年12月29日〉)とは、化政期に活躍した女形の歌舞伎役者。屋号は始め富士屋、のち濱村屋。俳名は玉川、路考。通称は仙女菊之丞、仙女路考。 上方出身。日本舞踊市山流の初世市山七十郎の次男として生まれる。はじめ父の元で修行し市山七之助を名乗り、明和2年(1765年)11月には市山富三郎と改名する。明和8年(1771年)、大坂の竹田芝居で『桂川連理柵』の信濃屋お半を演じて評判となり、これがもとで翌年5月に中の芝居に出る事になり、やはり信濃屋お半を演じた。 一方江戸では、安永2年(1773年)春に二代目瀬川菊之丞が死去する。その遺言によれば後継として、当時大坂にいた富三郎を指名したというが、これについては二代目菊之丞の弟子だった富三郎の兄、瀬川七蔵(のちの初代瀬川如皐)の口添えがあったともいう。富三郎は同年の暮江戸に下り瀬川富三郎と改名し、翌安永3年(1774年)春の市村座で二代目菊之丞一周忌追善として、『百千鳥娘道成寺』(ももちどりむすめどうじょうじ)を踊り、大評判となる。同年11月市村座の顔見世で三代目瀬川菊之丞を襲名した。 人気・実力ともに江戸歌舞伎の最高峰として活躍し、文化5年(1808年)には女形ながら座頭となったほどだった。風姿と口跡に優れ、地芸と所作を兼ねたほか、世話物の娘役と傾城を得意とし、舞踊にも優れていた。四代目岩井半四郎とともに「女形の両横綱」と称された。.
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白酒 (日本酒)
白酒(しろざけ)とは、雛祭りにおいて祝いのために出される酒のことを指す。アルコール分は約9%、糖質は約45%含まれ、酒税法ではリキュール類に分類される。.
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銭湯
江戸東京たてもの園(野外博物館)に移築された子宝湯の入口部分 銭湯(せんとう)は、客が入浴できるようにした日本の公衆浴場の一種。風呂屋(ふろや)とも、湯屋(ゆや)とも呼ばれる(詳細は後述)。.
花魁
手彩色絵葉書東京吉原(明治大正時代) 花魁(おいらん)は、吉原遊廓の遊女で位の高い者のことをいう。現代の高級娼婦、高級愛人などにあたる。18世紀中頃、吉原の禿(かむろ)や新造などの妹分が姉女郎を「おいらん」と呼んだことから転じて上位の吉原遊女を指す言葉となった。「おいらん」の語源については、妹分たちが「おいらの所の姉さん」と呼んだことから来ているなどの諸説がある と言われる事が多いが、これはどれも通説であり現在典拠に基づいた説は存在しない。 上記脚注の「いろの辞典(改訂版)」編者の小松奎文は川柳研究家であり、学術的な典拠は示されておらず、また、この通説が一般化したのは近世風俗志(守貞謾稿)の記述の一部を引用した上記脚注書のような一般書籍が多数発行されているからに他ならず、近世風俗志(守貞謾稿)の記述自体が原典引用の無いものは「聞き書き」だと大前提だと断っており、また、第廿編娼家下「花魁」の項目は「おいらん」という音であって、「花魁」を「おいらん」と読む証左はなにも無い。 近世風俗志及び、これも一般書籍で引用される"いつちよく咲たおいらが桜かな”の初出は「吉原讃嘲記(寛文7年・1667)」であるが、この後、「増補俚言集覧」と「近世事物考」に類似した川柳が引用されたため、これがあたかも語源であるような錯誤が生まれたと思われる。 江戸時代、京や大坂では最高位の遊女のことは「太夫」と呼んだ。また、吉原にも当初は太夫がいたが、宝暦年間に太夫が消滅し、それ以降から高級遊女を「おいらん」と称するようになった。今日では、広く遊女一般を指して花魁と呼ぶこともある。 下記に江戸時代の花魁について記述する。.
隈取
取(くまどり)とは、歌舞伎独特の化粧法のことである。初代市川團十郎が、坂田金時 の息子である英雄坂田金平役の初舞台で紅と墨を用いて化粧したことが始まりと言われる。芝居小屋などにおいて遠くの観客が役者の表情を見やすくするために主に使われる。中国古典劇の京劇にも臉譜(れんぷ)と呼ばれる独特の隈取があり、両者には色彩によって個性を強調するなど共通点が多い。.
音羽屋
音羽屋(おとわや)は、歌舞伎役者の屋号。 初代尾上菊五郎の父・半平は、京の都萬太夫座(みやこ まんだゆう ざ)付き芝居茶屋の出方を営んでいたが、生まれたのが東山の清水寺にほど近い地だったことから、その境内の「音羽の滝」にちなんで、自らを音羽屋半平(おとわや はんぺい)と名乗っていたことがその名の由来。 音羽屋の代表的な名跡には以下のものがある。なお参考までに定紋も併せて記した。.
韓信
韓 信(かん しん)は、中国秦末から前漢初期にかけての武将。劉邦の元で数々の戦いに勝利し、劉邦の覇権を決定付けた。張良・蕭何と共に漢の三傑の一人。 なお、同時代に戦国時代の韓の王族出身の、同じく韓信という名の人物がおり、劉邦によって韓王に封じられているが、こちらは韓王信と呼んで区別される。.
鞘
thumb 鞘(さや)とは、刃物の身(ブレード)の部分を包む覆いのことをいう。刃先を鋭利に保つために保護するとともに、刃が周りを傷つけないように隔離し、保管や携行中の安全を確保する機能を持つ。材質は、伝統的には革、木、獣の角、布、金属などであるが、現代では合成樹脂が使われることもある。これらは単一で用いられるより、組み合わせて用いられることが多い。 転じて、筆や鉛筆などの先端を保護するキャップも鞘という。.
遊女
遊女(ゆうじょ、あそびめ)は、遊郭や宿場で男性に性的サービスをする女性のことで、娼婦、売春婦の古い呼称『大百科事典』 (平凡社, 1935)。「客を遊ばせる女」と言う意味が一般的である。.
道化師
お祭りの道化師 トマス・モア一家の肖像画。後列右から2人目がモア家お抱えの道化ヘンリー・パテンソン。1592年 道化師(どうけし、中国語:小丑)または道化(どうけ)は、滑稽な格好、行動、言動などをして他人を楽しませる者の総称。大道芸やサーカスのクラウン 、中世ヨーロッパの宮廷道化師、歌舞伎の道化方、幇間など、世界各地にさまざまな形がある。.
道頓堀角座
道頓堀角座(どうとんぼりかどざ)は、.
頭
人の頭部 『グレイの解剖学』人間の頭部 図1194 頭(あたま)あるいは頭部は、動物の体の前方の口器、感覚器官、中枢神経系が集中して特別に分化した部位である。目、耳といった感覚器官や、摂食器官である口器の複合した前面部分は、特に顔と呼ぶことがある。頭部の付け根はしばしば可動性を有するくびれた部分となり、首と呼ばれる。ヒトでは顔と首を除いた部分に頭髪が生えており、この部分だけを頭部の他の部分から区別して頭と呼ぶこともある。.
諱
諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.
高麗屋
麗屋(こうらいや)は、歌舞伎役者の屋号。 初代松本幸四郎が若い頃、江戸神田の「高麗屋」という商店(下総国佐原の小間物屋だった説もある)で丁稚奉公していたことがその名の由来。 高麗屋の代表的な名跡には以下のものがある。なお参考までに定紋も併せて記した。.
都一中
都 一中(みやこ いっちゅう)は、一中節の三味線方の名跡。代々都派の家元。別名「都太夫一中」。.
閻魔
閻魔(ヤマ)を描いたチベットの仏画(17-18世紀ごろ) 閻魔(えんま)は仏教、ヒンドゥー教などでの地獄、冥界の主山北篤監修 『東洋神名事典』 。冥界の王として死者の生前の罪を裁く神関根俊一 『仏尊の事典』 。日本の仏教においては地蔵菩薩の化身とみなされ同一視されている久保田悠羅、F.E.A.R. 『密教曼荼羅』 。閻王ともいう。.
蔵前
蔵前(くらまえ)は、東京都台東区の町名。現行行政地名は蔵前一丁目から蔵前四丁目。郵便番号は111-0051。.
長唄
長唄(ながうた)は、近世邦楽の一ジャンル、三味線音楽の一ジャンル、江戸の音曲の一つであり、正式名称は江戸長唄(えど ながうた)という。 またこれとは別に、地歌の一分類として上方長歌(かみがた ながうた)がある。.
酒
様々な種類の酒 缶チューハイに記された点字"おさけ" 酒(さけ)は、エタノール(アルコールの一種)が含まれた飲料の総称で、抑制作用があるため飲むと酩酊を起こす。お酒という丁寧な呼び方もよく用いられ、酒類やアルコール飲料、またソフトドリンクに対して「ハードドリンク」とも呼ばれることがある。西洋ではワインに相当する語彙が総称として用いられることがある。 酒は人類史において最古から存在する向精神薬の一つである。人間には普遍的に「自分以外の存在になりたい」という潜在的願望があり、酒による酩酊はその願望を叶える有効な手段の一つだった。しかし、酩酊は往々にして混乱や無秩序をもたらし、社会から忌避される。「百薬の長とはいへど、よろづの病は酒よりこそ起これ」などと言われ、古来より酒は社会にとって両価値的存在だった。 酒の歴史は古く、有史以前から作られていたと見られている(→#歴史)。製造方法や原料等多種多様であるが、原材料から発酵によってエタノールを生成することで共通している。果実原料ではブドウを使ったワインやリンゴなど果実酒、穀物原料では大麦によるビールや米など、イモ類ではサツマイモを使った焼酎など。様々なアルコール度数を持った酒が作られる(→#種類)。 効用としては、俗にストレスの解消、コミュニケーションの円滑化、疲労回復が挙げられる(→#効用)。しかし脳を委縮させ、時に違法薬物を上回ると言われる最も有害な薬物であり、世界で毎年250万人の死亡につながり死因の4%を占める。作用量と致命的な量が近く急性アルコール中毒になりやすい薬物であり、アルコール乱用や、禁断症状が致命的な振戦せん妄となりうるアルコール依存症となることもあり、アルコール飲料はIARC発がん性でグループ1(発がん性あり)にも分類される。(→#健康への影響)判断力が低下し、交通事故などの事故、また一時的に記憶が完全になくなることもある。社会的には暴力や自殺が挙げられる(→#飲酒と社会)。 このように及ぼす影響が大きいため、2010年に世界保健機関のアルコールの有害な使用を低減するための世界戦略が採択されており、また政府の税収確保のため、酒の製造および流通(販売)は、多くの国において法律により規制されている(→#法律)。宗教ごとに酒の扱いは異なっており、儀式に用いられたり、神への捧げものであったり、また身を清め神との一体感を高めるための飲み物とされている。宗教によっては、飲酒を禁じているものもある(→#宗教と酒)。.
鉢巻
中学校の運動会。鉢巻を締めての選手入場 沖縄県久高島の神事「イザイホー」。鉢巻を締めた祝女(ノロ) 東洲斎写楽画『四代目松本幸四郎の肴屋五郞兵衞』 助六の病鉢巻 必勝 鉢巻(はちまき)とは、主に日本において精神の統一や気合の向上のために用いられる、頭に付ける細長い布あるいは紐である。 通常は赤や白の綿の布が用いられることが多いが、さまざまな色があるカラー鉢巻と呼ばれるものもあり、1本の鉢巻に2色以上の色が付いている場合もある。 通常、幅約3~5cm、長さ90~120cm程度のものが多い。中には2~3mのロング鉢巻というのもある。 鉢巻には一般的な鉢巻紐(棒鉢巻)のほか、最初から環状に結い付けてある結上鉢巻もある。 鉢巻紐の結び方としては、布を堅くよじってロープ状にした「ねじり鉢巻」、結び目を額に置く「向こう鉢巻」と呼ばれるものがある。 サラシ地の和手拭やタオル、バンダナなどを代用品にする場合も多い。.
雷門
雷門(かみなりもん)は、浅草寺の山門。東京都台東区浅草一丁目2番 - 3番地に位置する。正式名称は風雷神門(ふうらいじんもん)であり、「雷門」と書かれた提灯の逆側には「風雷神門」と書かれている。日本を象徴する風景として、外国人向けに日本を紹介するパンフレット、お土産のレリーフなどに採用されることが多い。 門に向かって、右側に風神、左側に雷神が配される、朱塗りの山門である。門の中央には、重さ約700Kgの提灯が吊りさげられており、浅草のランドマークとなっている。.
接吻
接吻(せっぷん)は、口づけ、キス / キッス(kiss)、チュウともいい、愛情表現、友愛表現のひとつ。人が自分の親愛や友愛の情や魔除けその他を示すために唇を、相手の額や頬、唇などに接触させる行為。.
東京
西新宿東京スカイツリー/レインボーブリッジ渋谷/国会議事堂 東京(とうきょう、)は、日本の関東平野中央部の東京湾に面する都市、あるいは都市圏であり、江戸幕府の所在地・江戸が慶応4年7月(1868年9月)に「東京」に名称変更されたものである。 明治2年3月28日に、日本の都(みやこ)が京都から「東京」に遷された。そして現在の日本の事実上の首都である。 現在の東京は世界都市であり、都市圏として世界最大の人口・経済力を擁している。.
東京奠都
東京奠都(とうきょうてんと)は、明治維新のとき江戸が東京とされ、都として定められたこと。京都との東西両京としたうえで、慶応4年7月17日(1868年9月3日)に江戸が東京と改称され、同年9月に元号が明治に改められ、同年10月13日に天皇が東京に入り、明治2年(1869年)に政府が京都から東京に移された。遷都と奠都の用語の違いについては後述する(#奠都と遷都の語義)。.
松嶋屋
松嶋屋(まつしまや)は、歌舞伎役者の屋号。 由来は不詳。 松嶋屋の代表的な名跡には以下のものがある。なお参考までに定紋も併せて記した。.
松本幸四郎
松本 幸四郎(まつもと こうしろう)は、歌舞伎役者の名跡。屋号は初代が大和屋、二代目以降が高麗屋。定紋は四つ花菱(よつ はなびし)、替紋は浮線蝶(ふせ ちょう)。七代目は日本舞踊藤間流の藤間勘右衛門も同時に名乗り、また八代目以降は日本舞踊松本流の宗家でもある。 本来は市川團十郎の弟子筋にあたる家だが、二代目松本幸四郎の実の父は二代目市川團十郎であったともいわれ、その縁からか、成田屋に市川團十郎の跡継ぎがいない場合には、常にこの高麗屋から養子が入って市川宗家を継いでいる。; 初代 松本幸四郎; 二代目 松本幸四郎; 三代目 松本幸四郎; 四代目 松本幸四郎; 五代目 松本幸四郎; 六代目 松本幸四郎; 七代目 松本幸四郎; 八代目 松本幸四郎; 九代目 松本幸四郎; 十代目 松本幸四郎 Category:歌舞伎役者 Category:歌舞伎役者の名跡.
松本幸四郎 (5代目)
五代目 松本 幸四郎(ごだいめ まつもと こうしろう、明和元年(1764年) - 天保9年5月10日(1838年7月1日)は江戸の歌舞伎役者。屋号は高麗屋。定紋は四つ花菱、替紋は浮線蝶。俳名に錦升・金升・錦江、雅号に秋夜亭がある。江戸後期の名優で、その面立ちから俗に鼻高幸四郎(はなたか こうしろう)と呼ばれた。 父は四代目松本幸四郎。明和7年 (1770) 市川純蔵と名乗り江戸中村座で初舞台。三代目市川高麗蔵を経て享和元年11月 (1801)、父の男女川京十郎改名とともに五代目松本幸四郎を襲名。天保9年5月 (1838)、中村座出演中に倒れて死去。 はじめ立役を演じていたが実悪に転じた。鋭い目つきと高い鼻が凄みを与え、東洲斎写楽・初代歌川豊国・三代目歌川豊国の芝居絵にもその芸風が窺われる。実悪では三都随一、古今無類と最大級の賛辞を受けた。彼が舞台で見得をするとあまりの怖さに子供が泣出したと言われている。文化2年11月 (1805) 市村座『けいせい吉野鐘』では評判記『役者大極丸』に「年若なれどもお江戸の大立者、実事実悪とも兼備たるお上手故めったにのぼす事ではないわいの」と書かれている。 当り役は『菅原伝授手習鑑・寺子屋』の松王、『仮名手本忠臣蔵』の高師直、『義経千本桜』の権太。とくに『伽羅先代萩』(めいぼく せんだいはぎ)の仁木弾正(にっき だんじょう)は生涯の当り役となり、今日に至るまで彼に敬意を評して、仁木の左の眉尻にはホクロを描いたり(このホクロは五代目の顔の特徴のひとつだった)、四つ花菱や三つ銀杏の紋様が衣装の至る所にちりばめられていたりする(四つ花菱は松本幸四郎の定紋、三つ銀杏は市川染五郎の定紋)。顔のもう一つの特徴だった高い鼻は、『菅原伝授手習鑑・車引』の松王が客席ではなく舞台下手に向かって横向きに見得を切るいう独特の型になって今日に伝わっている(元は幸四郎の鼻の高さを強調した演出だったのが定着した)。 四代目鶴屋南北と組み、時代物では『時今也桔梗旗揚』(馬盥)の武智光秀のような謀反人、世話物では『東海道四谷怪談』の直助権兵衛、『謎帯一寸徳兵衛』の大島團七などの悪役を演じた。いずれも冷酷な役どころで、とくに世話物では庶民の生々しい姿を写実的に演じ新しい芸風を確立。その後の歌舞伎に大きな影響を与えた。 子に六代目松本幸四郎、養子に三代目市川壽美蔵がいる。墓所は東京都江戸川区の大雲寺。 Category:江戸時代の歌舞伎役者 Category:武蔵国の人物 Category:1764年生 Category:1838年没.
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検閲
検閲(けんえつ)は、狭義には国家等の公権力が、表現物(出版物等)や言論を検査し、国家が不都合と判断したものを取り締まる行為をいう - 弁護士ドットコム(2018年5月19日閲覧)。.
正徳 (日本)
正徳(しょうとく)は日本の元号の一つ。宝永の後、享保の前。1711年から1716年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇。江戸幕府将軍は徳川家宣、徳川家継。.
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武士
武士(ぶし)は、10世紀から19世紀にかけての日本に存在した、宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員である。「もののふ」(cf. wikt) とも読み倣わすが、その起源については大伴氏や物部氏の名に求めるなど諸説がある。 同義語として武者(むしゃ、むさ)があるが、「武士」に比べて戦闘員的もしくは修飾的ニュアンスが強い(用例:武者絵、武者修業、武者震い、鎧武者、女武者、若武者、落武者などさらには、「影武者」のように、本義のほかに一般用語としても使われるようになった語もある。)。すなわち、戦闘とは無縁も同然で「武者」と呼びがたい武士とは言え、呼ぶことが間違いというわけではない。はいるが、全ての武者は「武士」である。他に類義語として、侍、兵/兵者(つわもの)、武人(ぶじん)などもあるが、これらは同義ではない(「侍」は該当項目を参照。兵/兵者や武人は、武士に限らず、日本に限らず用いられる)。「武士」は性別を問う語ではなく性別表現に乏しいものの、女性の武士が戦闘員的特徴を強く具える場合に限って女武者(おんなむしゃ)という呼び方をする「女武士」や「姫武士」などという呼称は見られない。。 武士は平安時代に発生し、その軍事力をもって貴族支配の社会を転覆せしめ、古代を終焉させたとする理解が通常されている。旧来の政権を傀儡として維持したまま自らが実質的に主導する中世社会を構築した後は、近世の終わり(幕末)まで日本の歴史を牽引する中心的存在であり続けた。近代に入って武士という存在そのものを廃したのも、多くの武士が参画する近代政府(明治政府)であった。.
歌舞伎
歌舞伎(かぶき)は、日本固有の演劇で、伝統芸能の一つ。重要無形文化財(1965年4月20日指定同日文化財保護委員会告示第18号「無形文化財を重要無形文化財に指定する等の件」)。歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は2005年にユネスコにおいて傑作宣言され、2009年9月に無形文化遺産の代表一覧表に記載された。.
歌舞伎十八番
歌舞伎十八番(かぶきじゅうはちばん)は、天保年間に七代目市川團十郎(当時五代目市川海老蔵)が市川宗家のお家芸として選定した、18番の歌舞伎演目。当初は歌舞妓狂言組十八番(かぶき きょうげん くみ じゅうはちばん)といい、それを略して歌舞伎十八番といったが、後代になると略称の方がより広く一般に普及した。 十八番の演目は、いずれもかつて初代團十郎・二代目團十郎・四代目團十郎が特に得意とした荒事ということになっているが、そのなかには、すでに撰者の七代目團十郎の時代には内容がよくわからなくなってしまっていたものも含まれている。そうした演目は、いずれも明治以降に大幅な創作が加えられた上で「復活上演」されている。 十八番のなかで最も人気が高い(=上演回数が多い)のは『助六』『勧進帳』『暫』の三番。『助六』は原型となった演目の初演から100年近くも経った七代目團十郎の時代に現行の体裁に落ち着いたもの、『勧進帳』はその七代目自身が数年の歳月をかけて新たに書き下ろし九代目團十郎が現行の型を完成させたもの、『暫』もまた先述の九代目が明治の中頃になって現行の型を完成させたもので、これらはいずれも初代や二代目の團十郎とは関連性が希薄な、当時における事実上の新作といえるものである。.
江戸
江戸図屏風に見る、初期の江戸 弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図 江戸(えど) は、東京の旧称であり、1603年から1867年まで江戸幕府が置かれていた都市である。 現在の東京都区部に位置し、その前身及び原型に当たる。.
江戸三座
江戸三座(えど さんざ)は、江戸時代中期から後期にかけて江戸町奉行所によって歌舞伎興行を許された芝居小屋。官許三座(かんきょ さんざ)、公許三座(こうきょ さんざ)、また単に三座(さんざ)ともいう。江戸には当初数多くの芝居小屋があったが、次第に整理されて四座になり、最終的に三座となった。 三座は江戸時代を通じて日本独自の伝統芸能である歌舞伎を醸成、明治以降も歌舞伎の殿堂として大正末年頃まで日本の演劇界を牽引した。.
河原崎権十郎
河原崎 權十郞(かわらさき ごんじゅうろう、新字体:権十郎)は、歌舞伎役者の名跡。屋号は山崎屋。定紋は八ツ花菱に二ツ巴、替紋は菱宝結び。.
河原崎権十郎 (3代目)
三代目 河原崎 権十郎(さんだいめ かわらさき ごんじゅうろう、大正7年(1918年)2月11日 - 平成10年(1998年)2月18日)は歌舞伎役者。屋号は山崎屋、俳号は紫扇。定紋は八ツ花菱に二ツ巴、替紋は菱宝結び。愛知県名古屋市出身。本名は長谷 真佐一(ながたに まさかず)。 よく響きわたる声と役者然とした風貌、歳を重ねるごとに滋味と老巧が加わり、主役から脇役まで全ての役どころに精通していた。生涯で61回もの代役を演じたのは歌舞伎界の最多記録。菊五郎劇団のみならず歌舞伎界の重鎮的存在だった。.
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河竹黙阿弥
黙阿弥 河竹 黙阿弥(かわたけ もくあみ、旧字体:默阿彌、文化13年2月3日(1816年3月1日) - 明治26年(1893年)1月22日)は、江戸時代幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者。本名は吉村 芳三郎(よしむら よしさぶろう)。俳名に其水(そすい)。別名に古河 黙阿弥(ふるかわ-)。江戸日本橋生まれ。.
河東節
河東節(かとうぶし)は浄瑠璃の一種。また古曲の一つ。重要無形文化財(1993年4月15日指定http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys_mb/MainDetail.aspx?s.
法善寺
---- 法善寺(ほうぜんじ)は、大阪府大阪市中央区難波にある浄土宗の寺院。.
清元節
清元節(きよもとぶし)または清元(きよもと)とは、三味線音楽のひとつで、浄瑠璃の一種。主として歌舞伎や歌舞伎舞踊の伴奏音楽として用いられる。.
源頼朝
源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.
源氏
源氏(げんじ、みなもとうじ)は、「源」を氏の名とする氏族。姓(カバネ)は朝臣。 日本において皇族が臣下の籍に降りる(臣籍降下)際に名乗る氏の1つで、多数の流派がある。清和天皇の子孫である清和源氏が有名である。.
澤瀉屋
澤瀉屋(おもだかや)は、歌舞伎役者の屋号。 初代市川猿之助(二代目市川段四郎)の生家が副業として薬草の澤瀉を扱う薬屋を商なっていたといわれることに由来する。.
澤村田之助 (6代目)
六代目 澤村田之助(ろくだいめ さわむら たのすけ、新字体:沢村、1932年(昭和7年)8月4日 - )は歌舞伎役者。屋号は紀伊國屋、定紋は釻菊、替紋は波に千鳥。舞踊の名取名は藤間 勘之(ふじま かんじ)。本名は山中 宗雄(やまなか むねお)。重要無形文化財保持者(人間国宝)。.
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濡れ場
濡れ場(ベッドシーン、セックスシーンとも)は、映画やテレビドラマなどに登場する性交シーンのこと。性交以外の性行為や、性描写のないヌードシーンも濡れ場と呼ばれることがある。.
札差
札差(ふださし)は、江戸時代に幕府から旗本・御家人に支給される米の仲介を業とした者。 浅草の蔵前に店を出し、米の受け取り・運搬・売却による手数料を取るほか、蔵米を担保に高利貸しを行い大きな利益を得た。札差の「札」とは米の支給手形のことで、蔵米が支給される際にそれを竹串に挟んで御蔵役所の入口にある藁束に差して順番待ちをしていたことから、札差と呼ばれるようになった。.
成田屋
成田屋(なりたや)は、歌舞伎役者の屋号。歌舞伎における屋号の始まりといわれる。.
戦前
戦前(せんぜん、antebellum、prewar、Vorkriegszeit)とは、ある戦争が始まる前の時代。対義語は戦後。.
明治
明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.
明治維新
Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.
海苔巻き
海苔巻き 海苔巻き(のりまき)とは、食品に海苔を巻くこと、または海苔を巻いた料理そのもの。単に海苔巻きと言えば多くの場合寿司の巻物を指す事が多い。 寿司以外に、おにぎりに板海苔や焼海苔を巻きつけた海苔むすびなどについても言う。海苔を巻いて(もしくは衣に海苔を入れて)油で揚げたものは「磯辺揚げ」、焼いた餅などを海苔で巻いたものは「磯辺焼き」という。.
浄瑠璃
浄瑠璃(じょうるり)は、三味線を伴奏楽器として太夫がを語る音曲・劇場音楽である。 詞章が単なる歌ではなく、劇中人物のセリフやその仕草、演技の描写をも含み、語り口が叙事的な力強さを持つ。このため浄瑠璃を口演することは「歌う」ではなく「語る」と言い、浄瑠璃系統の音曲をまとめてと呼ぶ。 江戸時代初期以降、個々の太夫の口演が「――節」と呼ばれるようになり、その後流派として成立して、現在は義太夫節義太夫節は浄瑠璃の一流派であるが、上方では義太夫節以外の一中節・豊後節・宮薗節などが早くに廃れたため、「浄瑠璃」がもっぱら義太夫節を意味する場合がある。・河東節・一中節・常磐津節・富本節・清元節・新内節・宮薗節(薗八節)の8流派が存在する。 単独で素浄瑠璃として演じられるほか、流派によっては人形劇である人形浄瑠璃として(文楽など)、歌舞伎音楽として、日本舞踊の伴奏として演じられる(流派ごとの上演形態については後述)。 はリンク切れ)、義太夫節に特有の事項なので、当記事ではなく、記事「義太夫節#演出面から見た人形浄瑠璃と丸本歌舞伎」 での言及が妥当であろう -->.
浅草寺
浅草寺(せんそうじ)は、東京都台東区浅草二丁目にある、東京都内最古の寺である。山号は金龍山。本尊は聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)。元は天台宗に属していたが第二次世界大戦後独立し、聖観音宗の総本山となった。観音菩薩を本尊とすることから「浅草観音」あるいは「浅草の観音様」と通称され、広く親しまれている。東京都内では、唯一の坂東三十三箇所観音霊場の札所(13番)である。江戸三十三箇所観音霊場の札所(1番)でもある。全国有数の観光地であるため、正月の初詣では毎年多数の参拝客が訪れ、参拝客数は常に全国トップ10に収まっている。.
浅葱色
浅葱色(あさぎいろ)とは、ごく薄い藍色のことである。また、現在は明るい青緑をこう呼ぶこともある。 青色よりも緑に近く、花色より薄い。新選組が羽織等で使用。 しばしば淡い黄色の浅黄色(あさぎいろ もしくは あさきいろ)と混同されるが、別の色である。.
新町遊廓
新町遊廓(しんまちゆうかく)は、大坂で唯一江戸幕府公認だった遊廓(花街)。現在の大阪府大阪市西区新町1 - 2丁目に存在した。.
文久
文久(ぶんきゅう)は日本の元号の一つ。万延の後、元治の前。1861年から1864年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂。.
文化 (元号)
文化(ぶんか)は日本の元号の一つ。享和の後、文政の前。1804年から1818年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇、仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。 町人文化が顕著に発展した時期であり、後続する文'''政'''期とあわせ、化政文化という。.
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文政
文政(ぶんせい)は日本の元号の一つ。文化の後、天保の前。1818年から1831年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。.
日本芸術文化振興会
日本芸術文化振興会(にほんげいじゅつぶんかしんこうかい)は、文部科学省(文化庁)所管の独立行政法人。.
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曾我兄弟の仇討ち
一万丸 箱王丸(曾我兄弟) 歌川国芳画 曾我兄弟の仇討ち(そがきょうだいのあだうち)は、建久4年5月28日(1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件。赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つである。武士社会において仇討ちの模範とされていた。.
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曾我祐成
曾我 祐成(そが すけなり)は、鎌倉時代初期の武士。曾我兄弟の仇討ちで知られる。 安元2年(1176年)、祐成が5歳の時、実父・河津祐泰が同族の工藤祐経に暗殺された。その後、母が自身と弟を連れ相模国曾我荘(現神奈川県小田原市)の領主・曾我祐信に再嫁した。のち養父・祐信を烏帽子親に元服して祐成を名乗り、その後は北条時政の庇護の下にあったという。 建久4年(1193年)、富士の巻狩りが行われた際、弟・時致と共に父の敵・工藤祐経を殺害したが、仁田忠常に討たれた。.
曾我時致
曾我 時致(そが ときむね)は、鎌倉時代初期の武士。曾我兄弟の仇討ちで知られる。 安元2年(1176年)、3歳の時、実父・河津祐泰が同族の工藤祐経に暗殺される。その後、母が兄と自身を連れ相模国曾我荘(現神奈川県小田原市)の領主・曾我祐信に再嫁する。建久元年(1190年)9月7日、北条時政を烏帽子親として元服、その偏諱を賜って時致と名乗ったとされ、その後は時政の庇護の下にあったという。 建久4年(1193年)富士の巻狩りが行われた際、兄・祐成と共に父の敵・工藤祐経を殺害した。兄は仁田忠常に討たれたが、時致は将軍源頼朝を襲おうとし、その宿所に侵入したが女装した小舎人の御所五郎丸によって捕らえられた。翌日、頼朝の取調べを受けた際、仇討ちに至った心情を述べて頼朝は助命を考えたが、祐経の遺児・犬房丸の要望により処刑された。.
1832年
記載なし。
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