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加藤泰宦

索引 加藤泰宦

加藤 泰宦(かとう やすのぶ、元文2年5月8日(1737年6月6日)- 明和8年7月4日(1771年8月14日))は、伊予新谷藩の第5代藩主。 第4代藩主・加藤泰広の長男。母は原田氏。正室は松平近貞の娘・宣遊院。子は加藤泰賢(長男)、加藤泰由(次男)、娘(大久保教富正室)。官位は従五位下、近江守。幼名は右門。 宝暦6年(1756年)8月26日、父の隠居で跡を継ぐ。駿府加番や朝鮮通信使の接待役を務めた。明和8年(1771年)7月4日、35歳で死去し、跡を長男・泰賢が継いだ。法号は仁良院殿謙巌恵譲大居士。墓所は大洲市新谷の大恩寺。 やすのふ *05 Category:1737年生 Category:1771年没.

17 関係: 加藤泰広加藤泰賢宝暦伊予国元文駿府城近江国松平近貞 (豊後国府内藩主)朝鮮通信使明和1737年1756年1771年5月8日 (旧暦)6月6日7月4日 (旧暦)8月14日

加藤泰広

加藤 泰広(かとう やすひろ、宝永7年3月17日(1710年4月15日)- 天明5年2月16日(1785年3月26日))は、伊予大洲藩の支藩・新谷藩の第4代藩主。 大洲藩主・加藤泰恒の七男。母は山田氏(法心院)。正室は大関増恒の娘。子は加藤泰宦(長男)、高力直道(六男)、安西政泰(七男)、娘(近藤用常正室、のち大久保忠温継室)。官位は従五位下、織部正。通称は右京。初名は泰春。 享保9年(1724年)閏4月16日、先代藩主で従兄の泰貫の養嗣子となる。享保12年(1727年)12月18日に叙任する。教養に優れた人物で、藩士子弟の教育化に尽くした。駿府城加番も務めている。宝暦6年(1756年)8月26日、長男・泰宦に家督を譲って隠居し、天明5年(1785年)2月16日に新谷で死去した。享年76。墓所は大洲市新谷の大恩寺。 やすひろ *04 Category:1710年生 Category:1785年没.

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加藤泰賢

加藤 泰賢(かとう やすまさ、明和4年4月22日(1767年5月19日)- 文政13年10月21日(1830年12月5日))は、伊予新谷藩の第6代藩主。 第5代藩主・加藤泰宦の長男。母は松平近貞の娘・宣遊院。正室は加藤泰衑の娘・恭心院。継室は板倉勝矩の娘・琴。継々室は鳥居忠求の娘・謡台院。子は加藤泰儔(長男)、加藤泰好(次男)、娘(脇坂安能室)。官位は従五位下、出雲守。幼名は覚十郎。 明和8年(1771年)、父の死去で跡を継ぐ。天明3年(1783年)には藩校・求道軒を創設して藩士子弟の養育に努めたが、寛政12年(1800年)より駿府加番となったためにそのための出費、並びに藩内における災害で凶作が相次ぎ、藩財政が破綻寸前となった。このため、倹約を徹底し、さらに藩士の知行削減や御用銀の拠出を行なったが、文化6年(1809年)、本家に援助を要請する。そして、新谷藩は事実上、大洲藩の管理下に置かれることとなった。そしてこの責任を取る形で、文化7年(1810年)3月10日、長男・泰儔に家督を譲って隠居し、翌年3月18日には剃髪した。文政13年(1830年)10月21日、64歳で死去した。法号は観信院殿道源宗徹大居士。墓所は愛媛県大洲市新谷の法眼寺。 やすまさ *06 Category:1767年生 Category:1830年没.

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宝暦

宝暦(ほうれき、ほうりゃく、旧字体: 寶曆)は日本の元号の一つ。寛延の後、明和の前。1751年から1764年までの期間を指す。この時代の天皇は桃園天皇、後桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川家重、徳川家治。.

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伊予国

伊予国(いよのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。.

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元文

元文(げんぶん)は日本の元号の一つ。享保の後、寛保の前。1736年から1741年までの期間を指す。この時代の天皇は桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.

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駿府城

駿府城の航空写真(1988年撮影)国土航空写真 城郭図 駿府城(すんぷじょう)は駿河国安倍郡府中、現在の静岡県静岡市葵区にあった日本の城である。別名は府中城や静岡城など。 江戸時代には駿府藩や駿府城代が、明治維新期には再び駿府藩(間もなく静岡藩に改称)が置かれた。.

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近江国

近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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松平近貞 (豊後国府内藩主)

松平 近貞(まつだいら ちかさだ、元禄2年1月22日(1689年2月11日) - 宝暦7年5月13日(1757年6月29日))は、豊後府内藩の第4代藩主。一生系大給松平家6代。 三河田原藩主三宅康雄の次男で、母は2代藩主松平近陳の娘。正室は3代藩主松平近禎の娘。子に松平近形(長男)、三宅康之(次男)、娘(土岐頼煕正室)、娘(大給松平近朝室)、娘(久松松平定秀正室)、娘(堀田一敦室のち島津忠瑛室)、娘(加藤泰宦正室)、娘(阿部正賀正室)。官位は従五位下。主膳正。対馬守。 正徳2年(1712年)正月、先代藩主で母方のおじの近禎の婿養子となり、享保10年(1725年)の近禎の死去により跡を継いだ。享保の大飢饉や享保17年(1732年)の虫害による大被害で藩財政は一気に悪化し、幕府から3000両の金を借用して何とかする有様であった。寛保3年(1743年)4月にも城下で大火が起こり、幕府から2000両借用するなどして藩財政は破綻した。 このため、租税政策を重点において定免制度の制定や厳しい倹約令の制定、さらに商人から御用金をせしめて藩財政を再建しようとしたが、やがて失意のうちに延享2年(1745年)9月18日、家督を長男の近形に譲って隠居した。宝暦7年(1757年)5月13日、69歳で死去した。法号は雲晴院。墓所は東京都小石川の伝通院と大分県の浄安寺。 Category:府内藩主 Category:譜代大名 Category:三宅氏 ちかさた Category:1689年生 Category:1757年没.

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朝鮮通信使

孝宗6年 朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)とは、室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮から日本へ派遣された外交使節団である。正式名称を朝鮮聘礼使と言う。 2017年10月、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)が主催する事業「世界の記憶」(せかいのきおく、英: Memory of the World: MOW)遺産に登録された。.

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明和

明和(めいわ)は日本の元号の一つ。宝暦の後、安永の前。1764年から1772年までの期間、施行された。この時代の天皇は後桜町天皇、後桃園天皇。江戸幕府将軍は徳川家治。.

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1737年

記載なし。

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1756年

記載なし。

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1771年

記載なし。

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5月8日 (旧暦)

旧暦5月8日は旧暦5月の8日目である。六曜は赤口である。.

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6月6日

6月6日(ろくがつむいか)はグレゴリオ暦で年始から157日目(閏年では158日目)にあたり、年末まであと208日ある。誕生花はジギタリス、スターチス。.

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7月4日 (旧暦)

旧暦7月4日(きゅうれきしちがつよっか)は旧暦7月の4日目である。六曜は仏滅である。.

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8月14日

8月14日(はちがつじゅうよっか、はちがつじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から226日目(閏年では227日目)にあたり、年末まであと139日ある。.

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