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六勝寺

索引 六勝寺

六勝寺(ろくしょうじ、りくしょうじ)とは、平安時代後期から室町時代にかけて、洛外白河街区に位置した、法号に「勝」の字をもつ六山の御願寺である。白河天皇に続く院政の中枢部として大いに栄えたが、後世の維持管理は停滞し、応仁の乱以降はほぼ廃絶した。現在においては石碑や町名などに面影を残すが、寺域や伽藍配置などにおいて不明な点は多く、発掘による考古学的調査および復元作業が進められている。.

37 関係: 堀河天皇女院室町時代岡崎公園 (京都市)崇徳天皇世田谷区平安時代京都市勧業館京都市動物園京都市美術館伽藍保元の乱応仁の乱ロームシアター京都勅願寺祈願所白河 (洛外)白河天皇落慶鳥羽天皇近衛天皇阿弥陀堂藤原師実藤原璋子金堂院政東大路通東京都東海道戒名愚管抄1077年1102年1118年1128年1139年1149年

堀河天皇

堀河天皇内裏跡 堀河天皇(ほりかわてんのう、承暦3年7月9日(1079年8月8日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日))は平安時代後期の第73代天皇(在位:応徳3年11月26日(1087年1月3日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日))。諱は善仁(たるひと)。 白河天皇の第二皇子、母は藤原師実の養女・中宮賢子。准母に同母姉媞子内親王(郁芳門院)。.

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女院

女院(にょいん/にょういん)とは、三后(太皇太后・皇太后・皇后)や、それに準ずる身位(准后、内親王など)の女性に宣下された称号を指し、平安時代中期から明治維新まで続いた制度である。「院」はすなわち太上天皇、「女院」とはそれに準ずる待遇を受けた女性のことである。上皇に倣って院庁を置き、別当・判官代・主典代その他諸司を任じ、殿上を定め、蔵人を補した。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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岡崎公園 (京都市)

岡崎公園(おかざきこうえん)は、京都府京都市左京区岡崎にある都市公園(総合公園)である。.

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崇徳天皇

崇徳天皇(すとくてんのう、元永2年5月28日(1119年7月7日) - 長寛2年8月26日(1164年9月14日))は日本の第75代天皇(在位保安4年2月19日(1123年3月18日) - 永治元年12月7日(1142年1月5日))。譲位後は新院、 配流後は讃岐院とも呼ばれた。諱を顕仁(あきひと)という。 鳥羽天皇の第一皇子。母は中宮・藤原璋子(待賢門院)。.

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世田谷区

世田谷区(せたがやく)は、東京都の特別区の一つで、東京23区の南西部に位置する。東京都内最大の人口を有する特別区。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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京都市勧業館

京都市勧業館(きょうとしかんぎょうかん)は、京都府京都市左京区にある、イベント会場である。通称:みやこめっせ。1996年(平成8年)に建てられた建物は川崎清の設計で、平安建都1200年記念事業の一つとして建設された。また、館内は常設展示(京都伝統産業 ふれあい館、日図デザイン博物館)とイベント用の複数の展示場、会議室などがある。.

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京都市動物園

京都市動物園(きょうとしどうぶつえん)は、京都府京都市左京区岡崎にある京都市立の動物園である。正式名称ではないが「岡崎動物園」と呼ばれることもある。周囲には平安神宮、南禅寺、ロームシアター京都、京都市美術館がある。繁殖に力を入れており、日本初の繁殖成功が多くある。.

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京都市美術館

京都市美術館(きょうとしびじゅつかん)は京都府京都市左京区岡崎の岡崎公園にある美術館。1933年(昭和8年)開館。1928年(昭和3年)に京都で行われた昭和天皇即位の礼を記念して計画が始まったため、当初は大礼記念京都美術館という名称であった。本館の設計は前田健二郎。敗戦後駐留軍により接収されていた。1952年(昭和27年)の接収解除時に京都市美術館に改称。館長は潮江宏三。.

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伽藍

法隆寺西院伽藍。正面が中門 伽藍(がらん)は、僧侶が集まり修行する清浄な場所の意味であり、後には寺院または寺院の主要建物群を意味するようになった。サンスクリット語のの音写で、「僧伽藍摩(そうぎゃらんま)」「僧伽藍」が略されて「伽藍」と言われた。漢訳の場合は「衆園(しゅおん)」「僧園(そうおん)」などと訳された例があるが、通常「伽藍」とのみ呼ばれる。.

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保元の乱

保元の乱(ほうげんのらん)は、平安時代末期の保元元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変である。この公家の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増し、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの一つとなった。.

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応仁の乱

応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。.

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ロームシアター京都

ームシアター京都(ロームシアターきょうと、英称:ROHM Theatre Kyoto)は、京都府京都市左京区岡崎最勝寺町にあるコンサートホールである。正式名称は京都会館(きょうとかいかん)。 京都市の所有で、開館時の設計は前川國男。1960年(昭和35年)に開館。2012年より一部の改築および改修が行われた。それに伴いネーミングライツ(命名権)による現名称に改称し、2016年1月10日にリニューアルオープンした。.

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勅願寺

勅願寺(ちょくがんじ)とは、時の天皇・上皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された祈願寺のこと。寺格の一つ。 実際には、寺が創建されてから、勅許によって「勅願寺になった」寺も数多い。また勅願寺になれば寺領が得られることもあり、戦国時代頃からは寺の側から働きかけて勅許をもらうという例もあった。 明治時代初期まで勅願寺の指定が行われていたが、神仏分離令によって指定が廃止された。.

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祈願所

所(きがんじょ)は神社、寺院の1つで、特に人々が神仏に願い事を行う寺社を指す。寺院の場合は祈願寺、御願寺と言う。 また、天皇によって祈願寺となった寺院を、特に勅願寺と言う。.

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白河 (洛外)

白河(しらかわ、白川)は、かつて京都洛外、山城国愛宕郡に属していた白川流域を指す名称。本来は白川の南側地域のみを指していたが、後に北側地域も含むようになり南側を「南白河/下白河」北側を「北白河」・と称した(『山城名勝志』)。現在では京都市左京区に属するが、南白河は岡崎・北白河は北白川に分割されている。.

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白河天皇

白河天皇(しらかわ てんのう)は、第72代天皇(在位:延久4年12月8日(1073年1月18日) - 応徳3年11月26日(1087年1月3日))。諱を貞仁(さだひと)という。 後三条天皇の第一皇子。母は藤原氏閑院流藤原公成の娘で、藤原能信の養女である藤原茂子。同母妹に篤子内親王(堀河天皇中宮)。.

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落慶

落慶(らっけい)とは、寺社などの新築、また修理の完成(落成)を祝うこと、またはその祝いそのものである。.

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鳥羽天皇

鳥羽天皇(とばてんのう、旧字体:鳥羽、康和5年1月16日(1103年2月24日) - 保元元年7月2日(1156年7月20日))は平安時代後期の第74代天皇(在位嘉承2年7月19日(1107年8月9日) - 保安4年正月28日(1123年2月25日))。諱は宗仁(むねひと)。 堀河天皇の皇子。母は贈皇太后・藤原苡子。子の崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代28年に渡り院政を敷いた。.

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近衛天皇

近衛天皇(このえてんのう、旧字体:近衞、保延5年5月18日(1139年6月16日)- 久寿2年7月23日(1155年8月22日))は、日本の第76代天皇(在位:永治元年12月7日(1142年1月5日) - 久寿2年7月23日(1155年8月22日))。諱は躰仁(なりひと)。 鳥羽天皇の第九皇子。母は藤原得子(美福門院)。.

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阿弥陀堂

阿弥陀堂(あみだどう、 阿彌陀堂) は、阿弥陀如来を本尊とする仏堂のこと。平安時代からの浄土信仰に伴って数多く建てられた。 阿弥陀堂の形式は大別して2つある。1つは、現世に阿弥陀仏を見て、かつ来世に極楽往生を遂げるために、主に修行を目的として造られたものであり、天台宗の常行堂(常行三昧堂)に始まる。もう1つは、この世に阿弥陀仏の極楽世界と、その荘厳を想像して造られたものであり、平等院鳳凰堂がその例である。.

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藤原師実

藤原 師実(ふじわら の もろざね)は、平安時代中期から後期(院政期)にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原頼通の六男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。.

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藤原璋子

藤原 璋子(ふじわら の しょうし / たまこ、康和3年(1101年)久安元年8月22日(1145年9月10日))は、平安後期の国母。鳥羽天皇の中宮で、崇徳・後白河両天皇の母。女院号は待賢門院(たいけんもんいん)。.

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金堂

金堂(こんどう、きんどう)とは、; こんどう.

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院政

院政(いんせい)は、天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治である。摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治形態である。 天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると法皇となるが、上皇は「院」とも呼ばれたので、院政という。1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼ぶことがある。 「院政」という言葉自体は、江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中でこうした政治形態を「政在上皇」として「院政」と表現し、明治政府によって編纂された『国史眼』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。.

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東大路通

東大路通と四条通との交差点、祇園にある八坂神社 東大路通、東山区役所付近、東山区 修学院付近の東大路通 東大路通(ひがしおおじどおり)は京都市の主要な南北の通りの一つ。 平安京の東の端、東京極大路であった寺町通に代わり、現在の市街地東端の南北幹線と認識される。 旧称の東山通(ひがしやまどおり)という呼び方も現在も通用し、交差点名、バス停留所名などには市電時代からの「東山○○」が用いられる。 なお京都市内には、東大路通以外に、大路の名のつくものに北大路通、西大路通、葛野大路通などの幹線道路があるが、いずれも近代以降に設けられたもので、明治以前には存在しなかった。大和大路通(大和街道)は明治以前から存在する。 北は北山通、南はカーブしてそのまま九条通となる東福寺までである。 明治末期から大正初期に掛けての京都市三大事業によって丸太町通から七条通まで、その後の大正 - 昭和初期の都市計画事業によって北は北大路通、南は九条通までが拡幅され、北大路通との交差点である高野から南へ東福寺までは京都市電の東山線が敷設された。 市電の通っていなかった高野から北、北山通の間は道幅が狭くなる。 京都市内の幹線道路にしては珍しく、祇園から五条坂にかけてはかなりアップダウンがある。 東山五条交差点・清水道・祇園を中心として、観光シーズンにはかなりの渋滞が発生する。急行100号系統、206号系統など、京都駅と主要観光地を結ぶ路線バスの主経路にもなっているが、渋滞のために遅れを生ずることがしばしばである。特に東山五条交差点のすぐ北にある五条坂バス停の南行きは、観光シーズンには次々に到着するバスが長蛇の列を作って乗り込んでくる乗客の乗降に手間取り、2車線のうちの左側車線に長時間停車し、右側車線は右折車のために塞がるため、渋滞が深刻となっていた。ここ数年、春秋の観光シーズンには渋滞軽減のため、五条坂バス停を北に200メートルほど(五条坂よりも清水坂の方が近い位置)移動する措置が取られている。 東海道本線の東大路通との交点に東大路駅を設置する要望があり、周辺商店街には多くの「JR東大路駅の早期実現を」の掲示が見られるが、具体化の段階ではない。.

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東京都

東京都シンボルマーク。1989年(平成元年)に旧東京市の成立100周年を記念して同年6月1日に制定。「東京都の頭文字の「T」を中央に秘めている『都政 2012』東京都生活文化局広報広聴部広報課 編集・発行、2012年3月発行。東京都が作成した、240ページほどの冊子。」と解説されている。(都の木はイチョウではあるが)イチョウの葉の形を象ったわけではない、という。 東京都(とうきょうと)は、日本の首都事実上の首都。詳細後述であり、関東地方に位置する東京都区部(東京23区)、多摩地域(市部、西多摩郡)、島嶼部(大島支庁・三宅支庁・八丈支庁・小笠原支庁)を管轄する広域地方公共団体(都道府県)の一つである。都庁所在地は新宿区(東京と表記する場合もある)。 都公認の英語の表記はTokyo Metropolis (Tokyo Met.) 。他にはTokyo PrefectureとTokyo Metropolitan Prefectureがある。.

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東海道

東海道(とうかいどう、うみつみち)は、五畿七道の一つ。本州太平洋側の中部の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から近世)を指す。.

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戒名

戒名(かいみょう)は、仏教において受戒した者に与えられる名前である。仏門に入った証であり、戒律を守るしるしとして与えられる。 上座部仏教と大乗仏教の両方で行われており、多くの場合、出家修道者に対して授戒の師僧によって与えられる。上座部では出家後に南伝仏典に残る阿羅漢に変名するため、その意味で「法名」と呼ぶ。 また、仏弟子として新たに身につける真の名前という意義から「法諱」(ほうい、ほうき)ともいった。 また日本においては、死生観の変化により死後に成仏するという思想のもと、故人に戒名を授ける風習が生れた。(「成仏#日本文化のなかでの「成仏」」を参照。)死後の戒名は、特に日本において盛んに行われている。寺に支払った金額によって戒名のランクが変化する。とは言うものの、故人の社会的地位始め社会貢献度、またお寺への貢献度などによるため、高額を払ったからといって、高い位の戒名をもらえるわけではない。 一般にカナ文字を用いないため、転じて、「漢字のみの縦書き文字列」の俗的表現として用いられることがあり、特に新聞・雑誌編集においてカナ文字を含まない見出しをこう称し、読者に不快感を催しかねない表現とされる。; 戒名を用いない宗旨.

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愚管抄

『愚管抄』(ぐかんしょう)は、鎌倉時代初期の史論書。作者は天台宗僧侶の慈円。全7巻。承久の乱の直前、朝廷と幕府の緊張が高まった時期の承久2年(1220年)頃成立したが、乱後に修訂が加えられている。.

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1077年

記載なし。

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1102年

記載なし。

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1118年

記載なし。

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1128年

記載なし。

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1139年

記載なし。

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1149年

記載なし。

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