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党錮の禁

索引 党錮の禁

党錮の禁(とうこのきん)は、後漢末期に起きた弾圧事件である。宦官勢力に批判的な清流派士大夫(党人)らを宦官が弾圧したもので、その多くが禁錮刑(現代的な禁錮刑とは異なり、官職追放・出仕禁止をさす)に処された事からこの名で呼ばれる。党錮の禁は166年(延熹9年)と169年(建寧2年)の2回行われ、それぞれ第一次党錮の禁、第二次党錮の禁と呼ばれた。.

43 関係: 劉表十常侍司隷校尉士大夫太学外戚宦官川勝義雄中常侍延熹建寧 (漢)張バク張倹 (後漢)何進後漢後漢書和帝 (漢)儒教党人派党派闘争公職追放禁錮竇武竇憲袁紹袁術魏 (三国)豪族貴族 (中国)黄巾の乱范曄郭泰郷挙里選董卓陳蕃李膺李膺 (後漢)汚職曹節 (宦官)曹操166年169年176年

劉表

劉 表(りゅう ひょう、漢安元年(142年) - 建安13年(208年)8月)は、中国後漢末期の政治家・儒学者。字は景升(けいしょう)。兗州山陽郡高平県の人。前漢の景帝の第4子の魯恭王劉余の第6子の郁桹侯劉驕の子孫。後漢の統制力が衰えた後に荊州に割拠した。.

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十常侍

十常侍(じゅうじょうじ)は、中国後漢末期の霊帝の時代に専権を振るった宦官の集団。 『後漢書』によれば.

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司隷校尉

司隷校尉(しれいこうい)は、古代中国の官名。 前漢、後漢、魏と西晋などの時代に置かれ、朝廷内の大臣(皇帝の親族を含む)の監察を行うことを職責とし、征和4年に武帝により初めて設置された。当初の職務は巫蠱(呪殺行為)の逮捕であった。 漢の帝都、長安と洛陽を取り巻く河南尹・河内郡・河東郡・弘農郡・京兆尹・右扶風・左馮翊の7郡(司州、司隷)を統括した。 司隷校尉の仕事は、刺史と似ているが、刺史が地方の上級役人を取り締まるのに対し、司隷校尉は中央の官吏を取り締まるため刺史よりも格上である(中国の制度では首都周辺は朝廷直轄として中央官の扱いであった。後世の直隷省)。さらに『漢官儀』によると、司隷校尉は御史大夫・尚書令とともに「三独座」と称され、別席をあたえられる顕官であった。 当初は節を持し兵を指揮していたが、後に兵権は廃止され、初元4年に諸葛豊が司隷校尉の時に節を没収された。元延4年には司隷校尉の官が廃止された。綏和2年の哀帝即位後、校尉の付かない司隷として復活し、大司空の直轄となった。 後漢の成立と共に司隷校尉は復活した。霊帝が刺史の他に州牧を設置し、地方の行政や軍事を統括するようになって州牧が太守より上位になったことで、司隷校尉の役割も監察官から、帝都周辺の守備や行政を担当する中央地区長官に変容し、次第に影響力を増していったが、建安18年に従来の州区分を廃して古代の九州制を復活させたため、司隷部も廃止となった。 曹魏の成立と共に司隷校尉は復活し、西晋もこれを引き継いだが、劉曜が中原を占領するに及んで洛陽周辺を荊州に統合したため、司隷校尉は消滅し以後復活することはなかった。 東晋では華北を失なったため、設置されなかった。ただし、同様に華北を実効支配していなかった蜀漢では、劉備が即位した時に張飛が司隷校尉に就任している(車騎将軍との兼務)。 秩石は比二千石。.

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士大夫

士大夫(したいふ)は、中国の北宋以降で、科挙官僚・地主・文人の三者を兼ね備えた者である。.

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太学

太学(たいがく)とは、古代の中国や朝鮮・ベトナムに設置された官立の高等教育機関。古代の教育体系においては最高学府にあたり、官僚を養成する機関であった。.

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外戚

外戚(がいせき)とは、皇帝、王の母親または妃の一族のことである。.

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宦官

宦官(かんがん)とは、去勢を施された官吏である。去勢技術は家畜に施すものとして生まれたため、宦官は牧畜文化を持つ国にのみ存在するという説があるが、現実には牧畜文化を持たない国においても宦官は存在した。.

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川勝義雄

川勝 義雄(かわかつ よしお、1922年(大正11年)11月8日 - 1984年(昭和59年)4月4日)は、日本の東洋史学者。京都市生まれ。.

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中常侍

中常侍(ちゅうじょうじ)は、古代中国の官職。皇帝の身の回りの事を司る侍中府の中の一役職であり、皇帝の傍に侍り、様々な取次ぎを行う。常に皇帝の傍にいるので、絶大な権力を誇った。 後漢の永元4年(92年)以降、宦官専任の官職となり渡邉将智『後漢政治制度の研究』(早稲田大学出版部、2014年) ISBN 978-4-657-14701-1 第一章「後漢における宦官の制度的基盤と尚書台」、宦官の中では大長秋(皇后侍従長)に次ぐ位。 後漢では中常侍は侍中とともに命令の取次や顧問応対(皇帝に直接進言を行うこと)が認められており、禁中への立ち入りや宿衛が厳しく規制されていた侍中と異なり、宦官である中常侍は常に自由に出入りする事ができたことから大きな力を得るに至った(反対に、後漢において政治権力を振るうことが可能であった宦官は現職の中常侍もしくは経験者に過ぎなかった)。 製紙法の蔡倫や三国志の奸臣として有名な十常侍などがこれに就いている。.

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延熹

延熹(えんき)は、後漢の桓帝劉志の治世に行われた6番目の元号。158年 - 167年。延熹10年は6月に改元されて永康元年となった。.

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建寧 (漢)

建寧(けんねい)は、後漢の霊帝劉宏の治世に行われた最初の元号。168年 - 172年。建寧5年は5月に改元されて熹平元年となった。.

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張バク

張 邈(ちょう ばく、? - 興平2年(195年))は、中国後漢末期の政治家。字は孟卓。兗州東平郡寿張県(山東省泰安市東平県)の人。弟は張超。『三国志』では「呂布伝」に付伝されている。.

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張倹 (後漢)

張 倹(ちょう けん、生没年不詳)は後漢の人物。山陽高平の人。字は元節。『後漢書』党錮列伝に記録がある。.

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何進

何 進(か しん、? - 光熹元年8月29日(189年9月22日))は、中国後漢末期の武将、政治家。字は遂高。荊州南陽郡宛県(現在の河南省南陽市)の人。異母妹は霊帝の皇后(何氏)。父は何真。継弟(義理の弟)は何苗(朱苗)。子の名は不詳。孫は何晏。.

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後漢

後漢(ごかん、東漢、、25年 - 220年)は、中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。.

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後漢書

『後漢書』(ごかんじょ)は、中国後漢朝について書かれた歴史書。二十四史の一つ。本紀十巻、列伝八十巻、志三十巻の全百二十巻からなる紀伝体。成立は5世紀南北朝時代の南朝宋の時代で編者は范曄(はんよう、398年 - 445年)。.

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和帝 (漢)

和帝(わてい)は、後漢の第4代皇帝。諱は劉肇。章帝の子(四男)。生母は梁貴人。平原懐王劉勝、殤帝の父。 幼少時は継母の竇太后と竇憲ら竇一族の専横を許していたが、成長するに及んでこれに対し反感を抱くようになり、実権を自らの元に取り戻そうと考えるようになった。一方の竇憲らも和帝の反感を察し、これを害そうと画策し始めた。その動きを察知した和帝は、ひそかに竇氏誅滅を計画した。和帝が密謀の相談役に選んだのは宦官の鄭衆(ていしゅう)であった。彼を用いたのは、宦官ゆえに密謀を行うに都合がよいことと、鄭衆自身が皇帝に対する忠誠心の厚い、明晰で行動力のある人物だったからである。92年(永元4年)、竇憲を宮廷内におびき出し、大将軍の印綬を取り上げ実権を剥奪、領地において自殺を命じた。これにより和帝は竇一族から政治の実権を取り戻すことに成功した。鄭衆はこの功績により鄲郷侯に封じられ、大長秋の官を授けられた。和帝はその後も鄭衆を信任し続けたため、これ以後宦官が政治に深く関わるようになった。 鄭衆自身は政治的には確かに有能で、しかも私心のない人物であったから、彼が政治に参与していた間は問題が表面化することはなかったが、それ以降の宦官の多くは、政治的には無能で金銭に貪欲な人物が多く、彼らの跳梁により政治の腐敗が深刻化した。このようなことから「後漢は和帝の時から衰退を始めた」とする意見が多い。和帝が若くして死去すると、幼帝の補佐として和帝の皇后である鄧氏の一族が外戚として政治の実権を握るなど、外戚勢力も復活した。以後の後漢でも幼帝が続き、その度ことに外戚勢力と宦官勢力との間で激しい争いが続くことになる。 外征面は後漢で最も栄え、西域では永元6年(94年)の時点でその50余国が後漢に従うほどになった。これは西域都護である班超個人の力量に拠るところが大きく、班超が中央に召喚された後は後漢の西域における影響力は急速に衰えた。匈奴との戦いも匈奴の内紛に助けられ有利に進めた。 文化面では、班固・班昭兄妹による『漢書』の編纂(永元4年(92年)の班固の死後、班昭が完成)、永元17年(105年)の蔡倫による製紙法の改良が挙げられる。.

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儒教

儒教の始祖、孔子 董仲舒 儒教(じゅきょう)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。.

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党人派

党人派(とうじんは)とは、官僚、軍人、皇族等の出身ではなく、一般人の政党員である政治家の一群を指す。政治家の分類における俗称の一つ。歴史的には、中国・後漢末期に発生した、党錮の禁で弾圧された集団の称として使われたことに由来する。.

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党派闘争

党派闘争(とうはとうそう)とは、目標は同じだが、戦術の異なる党派間に起きる抗争を指す。主な原因は主導権争いだが、報復が目的のこともある。 1970年代初頭に理論闘争の段階を越えて暴力的な対立抗争の段階に至り、暴力的な党派闘争を俗に「内ゲバ」と呼ぶようになった。 内ゲバとしては、新左翼党派である革マル派と中核派・革命的労働者協会との党派闘争は有名。四分五裂状態の共産主義者同盟(ブント)も、三つ巴的な党派闘争状態にある。また、日本共産党も新左翼に対する党派闘争には熱心であり、「ニセ左翼暴力集団」などと批判している。 アナキストにおいても、アナキスト革命連合が、他のアナキストや共産主義諸党派に対して党派闘争を展開した。 左翼による党派闘争ばかりが目立つが、武装闘争路線の右翼にも、小規模だが党派闘争はある。 Category:日本の新左翼の思想・文化 Category:日本共産党.

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公職追放

公職追放(こうしょくついほう)は、政府の要職や民間企業の要職につくことを禁止すること。狭義には、日本が太平洋戦争に降伏後、連合国軍最高司令官総司令部の指令により、特定の関係者が公職に就くことを禁止されたことをいい、本項で扱う。.

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禁錮

禁錮(きんこ)とは、自由刑に作業義務等による区分を設けている法制度において作業義務を科さない刑罰のうち長期のものである。作業義務のある懲役や作業義務のないより短期の拘留と区分する。 なお、アメリカ合衆国、イギリス、フランスなど自由刑に区分を設けない法制度の刑種について公的な資料などでは「拘禁刑」と表現されている。これらの国では長期の禁錮と短期の拘留のように刑種が別の区分になっていない。また、アメリカ合衆国やイギリスなどの拘禁刑には刑務作業が定められている場合があるものの、日本などの懲役刑が刑務作業を刑罰の内容としているのに対し、アメリカ合衆国やイギリスなどの拘禁刑は刑務作業を刑罰の内容として位置づけているものではない(後述)。.

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竇武

竇 武(とう ぶ、? - 168年)は、後漢末の人物。字は游平。 扶風平陵(陝西省咸陽市)の人。安豊戴侯となった竇融の玄孫。父は定襄太守となった竇奉である。妹は竇瓊英。竇武は若いころから学問と行いで名を立て、大澤中で教授し、時事に交わらず、関西地方(長安方面)で名を挙げた。 延熹8年(165年)、長女の竇妙が桓帝の後宮に入って撰ばれて貴人となり、時を置かず皇后に立てられると、外戚となった竇武もその引き立てに与り、郎中へ、そして越騎校尉へと昇進し、槐里侯に封じられる。 外戚ゆえに引き立てられ厚遇を受けていることを知る竇武は自らの行いを清め、一族にもそれを勤めさせ、礼としての賂さえ慎んで清名を得、名士を数多引き立てて、他者の嫉視に備えた。 この頃党錮の禁が行われており李膺、杜密等が既に獄に繋がれていた。そのことについて竇武は永康元年(167年)に城門校尉、槐里侯であった自らの進退をかけて桓帝を諫め、党錮の禁を解くことに成功する。 冬桓帝が崩御すると、解瀆亭侯の劉宏を擁立し帝位へ即けた。これが後の霊帝である。この功績によって竇武は大将軍に就くこととなり、更に改めて聞喜侯に封じられ、竇氏一族の主だったものも皆封侯の沙汰を受けた。 大将軍として自らの政権を磐石にしたい竇武と、清流派の雄として賄賂の横行で政府が腐敗することを憎む陳蕃は、宦官排斥で目的が一致した。二人は清流派と目される才能ある人材を数多登用して要職に配置し、政府への掌握力を高めると、建寧元年(168年)五月の日食に因って竇太后に宦官を除きたい旨を伝える。宦官の尽くを廃するのは止めて欲しい、除くなら罪のあるものだけにすべきとの竇太后の返答を得ると、二人は当時省内にあって専権を誇った中常侍の管霸及び中常侍の蘇康等を誅戮した。 この成功に気をよくした竇武・陳蕃は続いて曹節等を除きたいと竇太后に諮るが、とめどない要求を危惧する太后はこれを許さず、徒に時間が過ぎていった。 建寧元年(168年)八月に入り、天文の変遷を見てとった劉瑜が竇太后と竇武・陳蕃のそれぞれに釘を刺し、これに促されるように竇武・陳蕃は宦官一掃を計画する。 宦官尽くを族滅させるという計画は余りに急進的であった。その急進さゆえに一気呵成に成し遂げることを主張する陳蕃に対し竇武は万全を期すことにした。しかしそれが仇となり計画は長楽五官史の朱瑀へ漏れた。事は宦官側に知れ渡り、竇武・陳蕃は今上帝の廃立を図っていると濡れ衣を着せられ、兵によって攻められることになった。 大将軍の竇武は中央軍である五営を動かし、宦官側は近衛にあたる北軍五校士数千人を動かし、両者は衝突した。宦官側は兵を率いる将軍として護匈奴中郎将の張奐を抱き込むことに成功していた。張奐は当代随一の驍将であったため、その指揮下にあった北軍五校は次第に五営を圧倒していった。ついに宦官側の首魁である王甫が戦況不利となった五営の兵士たちに、叛乱したのは大将軍の竇武のほうだと叱りとばすと、戦況は一気に瓦解することになった。竇武らは敗れたのである。 その場は逃れたものの、追跡の手は弛まず、ついに包囲されて自殺した。 竇氏は殆ど滅ぼされたが、竇武の孫の竇輔のみは奇遇を得て生き延びることができた。彼は後に後漢末にあって荊州牧の劉表に従事として引き立てられ、次いで荊州を収めた曹操のところへ向かうことになる。 後漢書竇武伝ではその最後に竇武が生まれた時、その母は同時に一匹の蛇も生んだ。その蛇は竇武の母が死んだ時に姿を現し、人が葬にあたって哀礼を尽くすようにその母に礼を尽くした。それを時の人は竇氏にとってこれは瑞祥だろうとみなした、と書き残している。.

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竇憲

竇 憲(とう けん、? - 92年)、字は伯度、扶風平陵(現在の陝西省咸陽市)の人。竇融の曾孫に当たり、後漢朝では外戚の地位を占め要職を歴任した。.

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袁紹

袁 紹(えん しょう、永興2年(154年)以前? - 建安7年5月21日(202年6月28日))は、中国後漢末期の武将・政治家。字は。豫州汝南郡汝陽県(河南省商水県)の出身。 何進と協力して激しく宦官と対立。宦官勢力を壊滅させることに成功したが、董卓との抗争に敗れ、一時は首都の洛陽より奔り逼塞を余儀なくされた。後、関東において諸侯同盟を主宰して董卓としのぎを削った。同盟解散後も群雄のリーダー格として威勢を振るい、最盛期には河北四州を支配するまでに勢力を拡大したが、官渡の戦いにおいて曹操に敗れて以降は勢いを失い、志半ばで病死した。『三国志』魏志及び『後漢書』に伝がある。.

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袁術

袁 術(えん じゅつ/すい、? - 建安4年(199年))は、中国後漢末期の武将・政治家。 父は袁逢(司空)。同母兄は袁基(太僕)。従兄(または異母兄とも)は袁紹。叔父は袁隗。 後漢の名門である汝南袁氏出身。当初は官界にあったが、董卓による動乱の中で群雄の1人として名乗りを上げ、反董卓連合の崩壊後は孫堅らの支持を受けて一族の袁紹と抗争を繰り広げた。一時は曹操に敗れ揚州に追いやられたが、孫策らの力により揚州を実効支配し勢力圏を再構築。やがて自らを、帝舜の血族である陳の宣公時代の大夫の轅濤塗の末裔と称した。皇帝を称し、国号を「仲」としたが、孫策らの離反や曹操の攻撃により数年で瓦解し、失意の内に没した。.

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魏 (三国)

魏の系図 魏(ぎ、、220年 - 265年)は、中国の三国時代に華北を支配した王朝。首都は洛陽。曹氏の王朝であることから曹魏、あるいは北魏に対して前魏とも(この場合は北魏を後魏と呼ぶ)いう。 45年間しか続かなかった王朝だが、魏・蜀・呉の戦国史を描いた三国志(『三国志』・『三国志演義』など)などで後世に伝わり、日本で魏は卑弥呼を記述した「魏志倭人伝」で知られる。また、昭和に吉川英治が著した『三国志』を始め、この時代を描いた小説は今なお日本で人気があり、そのため知名度も高い王朝である。.

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豪族

豪族(ごうぞく)とは、国家や諸侯などの広域政権の領域の内部に存在し、ある地方において多くの土地や財産や私兵を持ち一定の地域的支配権を持つ一族のこと。地域的支配権の源泉は自分自身の所有する財産や武力であり、広域政権の権威を権力の源泉とする地方官は豪族とは呼ばれない。ただし地方官と豪族は排他的なカテゴリーではなく、同一人物が双方を兼ねたり、カテゴリー間を移行したりするケースは多くある。広域政権側が政権安定のために豪族層の政権内への取り込みを行ったり、逆に広域政権の支配力が弱まると地方官が豪族化することがあるからである。.

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貴族 (中国)

中国史における貴族は、魏晋南北朝時代から唐末期(220年 - 907年)にまで存在した血統を基幹として政治的権力を占有した存在を指す。後漢の豪族を前身とし、魏において施行された九品官人法により貴族層が形成された。北朝ではこれに鮮卑や匈奴といった北族遊牧民系統の族長層が加わり、その系譜を汲む隋・唐でもこの両方の系統の貴族が社会の支配層の主要部を形成した。中国史学では、貴族が社会の主導権を握っていた体制を貴族制と呼ぶ。 貴族は政治面では人事権を握って上級官職を独占することで強い権力を維持し、その地位を子弟に受け継がせた。このことにより官職の高下が血統により決定されるようになり、門地二品・士族と呼ばれる層を形成した。一方、文化面では王羲之・謝霊運などを輩出し、六朝から唐中期までの文化の担い手となった。隋代に導入された科挙により新しい科挙官僚が政界に進出してくるようになると貴族はこれと激しい権力争いを繰り広げるが、最終的に唐滅亡時の混乱の中で貴族勢力は完全に瓦解した。 貴族という用語は日本の歴史学界で使われる用語であり、当時の貴族による自称は士・士大夫・士族であった。これに倣い中国の歴史学界では士族の語が使われる。 この項目では特に注記の無い限り、宮崎市定『九品官人法の研究』をもとに記述する。.

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黄巾の乱

巾の乱(こうきんのらん、)は、中国後漢末期の西暦184年(中平1年)に太平道の教祖張角を指導者とする太平道の信者が各地で起こした農民反乱。目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻いた事から、この名称がついた。また、小説『三国志演義』では反乱軍を黄巾“賊”と呼称している。後漢の衰退を招き、三国時代に移る一つの契機となった。.

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范曄

范 曄(はん よう、398年 - 445年)は、中国魏晋南北朝時代の南朝宋の政治家・文学者・歴史家にして『後漢書』の作者。字は蔚宗。先祖は南陽郡順陽県(現在の河南省南陽市淅川県)の出身であり、会稽郡山陰県(現在の浙江省紹興市柯橋区)にて出生した。.

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郭泰

郭 泰(かく たい、128年 - 169年)は、中国後漢代の儒者。字は林宗。太原郡界休県の人。当時の名儒を数え上げた八顧の一人。後漢書では、編者の范曄が父の諱を避けて「郭太」「郭林宗」と表記される。.

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郷挙里選

郷挙里選(きょうきょりせん)は、中国で漢代に行われていた官吏任用法である。地方官や地方の有力者が管内の優秀な人物を推薦するという形式を以って行われる。.

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董卓

董 卓(とう たく、? - 初平3年4月23日(192年5月22日))は、中国後漢末期の武将・政治家。涼州隴西郡臨洮県(甘粛省定西市臨洮県)の人。字は仲穎(ちゅうえい)。 辺境の将軍の1人にすぎなかったが、軍事力を背景に次第に頭角を現すようになった。霊帝死後の政治的混乱に乗じて政治の実権を握り、少帝を廃して献帝を擁立し、一時は宮廷で権勢をほしいままにしたが、諸侯や他の朝臣らの反感を買い、最期は側近で養子になっていた呂布に殺された。『三国志』魏志及び『後漢書』に伝がある。.

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陳蕃

陳 蕃(ちん はん、99年以前 - 168年)は、後漢の政治家。字は仲挙、汝南平輿(現在の河南省平輿県)の人。子に陳逸。『後漢書』に伝がある。.

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李膺

李膺(り よう)は、中国史の人物。.

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李膺 (後漢)

李 膺(り よう、生年不明 - 169年)は、中国の後漢時代の官僚。字は元礼。潁川郡襄城県(河南省襄城県)の人。祖父の李脩(り しゅう)は、安帝の治世、太尉。父の李益(り えき)は趙国の相であった。子は李瓚。生まれつき礼法にこだわらず、亢然としていて人と交際しなかったという。ただ同郡の荀淑、陳寔らを師友とした。.

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汚職

汚職(おしょく)とは、議員・公務員など公職にある者が、自らの地位や職権・裁量権を利用して横領や不作為、収賄や天下りをしたり、またその見返りに特定の事業者等に対し優遇措置をとることなどの不法行為をいう。国際連合腐敗防止条約を始め国際法では、汚職は『腐敗』の一部と認識されている。 他方、便宜供与や優遇措置を求める側のする活動は、ロビー活動やレント・シーキングという。.

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曹節 (宦官)

曹 節(そう せつ、? - 181年)は、後漢の宦官。南陽郡新野県の人。字は漢豊。『後漢書』「宦者列伝」に記録がある。従子に曹紹。.

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曹操

曹 操(そう そう、拼音:Cáo Cāo、永寿元年(155年) - 建安25年1月23日(220年3月15日))は、後漢末期の武将、政治家。詩人、兵法家としても業績を残した。字は孟徳(もうとく)、幼名は阿瞞、また吉利。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の出身。 後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。廟号は太祖、謚号は武皇帝。後世では魏の武帝、魏武とも呼ばれる。.

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166年

記載なし。

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169年

記載なし。

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176年

記載なし。

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党錮の禍

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