ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
ダウンロード
ブラウザよりも高速アクセス!
 

倶利伽羅峠の戦い

索引 倶利伽羅峠の戦い

倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい、倶梨伽羅峠の戦い)、または、砺波山の戦い(となみやまのたたかい、礪波山の戦い)は、平安時代末期の寿永2年5月11日(1183年6月2日)に、越中・加賀国の国境にある砺波山の倶利伽羅峠(現富山県小矢部市-石川県河北郡津幡町)で源義仲軍と平維盛率いる平家軍との間で戦われた合戦。治承・寿永の乱における戦いの一つ。.

58 関係: 加賀国城長茂たいまつ宝達山寿永富山県小矢部市上杉和彦平家物語平安京平安時代平忠度平知度平維盛平盛俊平行盛平通盛平氏今井兼平以仁王伊勢平氏信濃国信濃源氏北陸道倶利伽羅峠石川県玉葉火打城の戦い砺波市篠原の戦い田単田斉百錬抄道の駅倶利伽羅 源平の郷高岡市越中国越前国能登国般若野の戦い (平安時代)楯親忠横田河原の戦い樋口兼光河北郡治承治承・寿永の乱津幡町源平火牛まつり源平盛衰記源義仲源行家...戦国時代 (中国)日本の合戦一覧故事1180年1181年1183年5月11日 (旧暦)6月2日 インデックスを展開 (8 もっと) »

加賀国

加賀国(かがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと加賀国 · 続きを見る »

城長茂

城 長茂(じょう ながもち)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての越後国の武将。初諱は助茂で後に長茂に改称した。越後平氏の一族で城資国の子、資永(助長)の弟。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと城長茂 · 続きを見る »

たいまつ

たいまつ(松明、炬火、トーチ、英語:torch)は、明かりとして使うために、手で持てるようにした火のついた木切れなどである。通常、長い棒や竿(さお)などの突端に、枯れ草や、松脂など燃えやすいものに浸した布切れを巻きつけたものである。 西洋の城や教会など石造りの建物や地下室では、電気のない時代、廊下や部屋に明かりを投げかけるために、壁の高いところに腕木で突き出させた燭台(sconce、突出し燭台)にたいまつを挿すこともあった。 たいまつを使って夜を照らしたり神聖な火を運ぶという神事や火祭りは世界各国に見られる。また、夏などにたいまつで田畑の上を飛ぶ害虫を焼く「虫送り」「虫追い」なども行われていたが、これも後に農作業から火祭りへと取り入れられ、火祭りに五穀豊穣、火除け、虫除けなどの意味が付される場合もある。 日本語の「たいまつ」の語源は、「焚き松」や「手火松」など諸説ある。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いとたいまつ · 続きを見る »

宝達山

宝達山(ほうだつさん)は、石川県中部にある山である。山域は羽咋郡宝達志水町、かほく市、河北郡津幡町、富山県氷見市、高岡市に跨り、山頂は宝達志水町にある。標高は637.1mで、能登地方の最高峰である。 名称は江戸時代に金山が存在したことに由来するとされる。 宝達山水源の森は、水源の森百選に選ばれている。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと宝達山 · 続きを見る »

寿永

寿永(じゅえい、正字体:壽永)は、日本の元号の一つ。養和の後、元暦の前。1182年から1183年までの期間を指す。この時代の天皇は安徳天皇と後鳥羽天皇。後白河法皇の院政期。 源氏と平家が相争った治承・寿永の乱の時代。源頼朝の源氏方ではこの元号を使用せず以前の治承を引き続き使用していたが、源氏方と朝廷の政治交渉が本格化し、朝廷から寿永二年十月宣旨が与えられた寿永2年(1183年)以降、京都と同じ元号が鎌倉でも用いられるようになる。また、平家方では都落ちした後も次の元暦とその次の文治の元号を使用せず、この寿永をその滅亡まで引き続き使用した。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと寿永 · 続きを見る »

富山県

富山県(とやまけん)は、日本の都道府県の一つ。中部地方の日本海側、北陸地方のほぼ中央に位置する。県庁所在地は富山市。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと富山県 · 続きを見る »

小矢部市

小矢部市(おやべし)は、富山県西部にある市。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと小矢部市 · 続きを見る »

上杉和彦

上杉 和彦(うえすぎ かずひこ、1959年11月 - )は、日本の歴史学者、明治大学教授。専門は中世史、特に鎌倉幕府。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと上杉和彦 · 続きを見る »

平家物語

『平家物語』(へいけものがたり)は、鎌倉時代に成立したと思われる、平家の栄華と没落を描いた軍記物語である。 保元の乱・平治の乱勝利後の平家と敗れた源家の対照、源平の戦いから平家の滅亡を追ううちに、没落しはじめた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を見事に描き出している。平易で流麗な名文として知られ、「祇園精舎の鐘の声……」の有名な書き出しをはじめとして、広く知られている。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと平家物語 · 続きを見る »

平安京

平安京復元模型写真(大内裏付近) 平安京(へいあんきょう/たいらのみやこ)は、延暦13年10月22日(西暦794年11月22日)から、一説には明治2年(1869年)まで日本の首都であった都市である。平安城ともいい、桓武天皇によって長岡京からの遷都地に選ばれ、唐の首都長安城に倣って計画都市として建設された。現在の京都府京都市・京都市街であり、当時の街路をほぼそのままに主要都市として現存している。明治2年(1869年)に政府(太政官)が東京(旧江戸)に移転して首都機能を失った。平安京が置かれてから鎌倉幕府が成立するまでの約400年間を日本史では「平安時代」という。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと平安京 · 続きを見る »

平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと平安時代 · 続きを見る »

平忠度

平 忠度(たいら の ただのり)は、平安時代の平家一門の武将。平忠盛の六男。平清盛の異母弟。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと平忠度 · 続きを見る »

平知度

平 知度(たいら の とものり、生年不詳 - 寿永2年5月11日(1183年6月2日))は、平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の七男。従五位上三河守。 清盛の七男とされるが母は不明。治承3年(1179年)、治承の政変の後、尾張守から、三河守に遷る。翌治承4年(1180年)、源頼朝を討つべく、甥維盛、叔父忠度とともに大将軍の一人として東国に下向するが、富士川の戦いで敗北を喫し帰京。翌治承5年(1181年)に参加した墨俣川の戦いでは源行家らの軍勢に勝利を納めるが、寿永2年(1183年)の倶利伽羅峠の戦いに参加した際、源義仲軍に壊滅的な敗北を喫する。この際に知度は、源親義・重義父子と交戦して相打ちとなり、戦死を遂げた(あるいは自刃したとも)。清盛に連なる平家一門において最初の戦没者である。 石川県河北郡津幡町にはその首塚と伝わる石碑が現存する。なお、『系図纂要』はその子に重義を挙げるが、上述の岡田重義を知度の子と読み違えた誤謬とみられる。 Category:平安時代の武士 とものり とものり とものり Category:生年不明 Category:1183年没 Category:治承・寿永の乱で戦死した人物.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと平知度 · 続きを見る »

平維盛

平 維盛(たいら の これもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の嫡孫で、平重盛の嫡男。 平氏一門の嫡流であり、美貌の貴公子として宮廷にある時には光源氏の再来と称された。治承・寿永の乱において大将軍として出陣するが、富士川の戦い・倶利伽羅峠の戦いの二大決戦で壊滅的な敗北を喫する。父の早世もあって一門の中では孤立気味であり、平氏一門が都を落ちたのちに戦線を離脱、那智の沖で入水自殺したとされている。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと平維盛 · 続きを見る »

平盛俊

平 盛俊(たいら の もりとし)は、平安時代末期の武将。伊勢国一志郡須賀郷を基盤とする伊勢平氏に連なる有力家人。「彼の家、第一の勇士」(『玉葉』寿永2年6月5日条)といわれた。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと平盛俊 · 続きを見る »

平行盛

平 行盛(たいら の ゆきもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の次男である平基盛の長男。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと平行盛 · 続きを見る »

平通盛

平 通盛(たいら の みちもり)は、平安時代末期の平家の武将。平教盛の嫡男。平教経らの兄。妻の1人は小宰相。越前三位と呼ばれた。本名は公盛。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと平通盛 · 続きを見る »

平氏

平氏(へいし、たいらうじ)は、「平」を氏の名とする氏族。姓(カバネ)は朝臣。家紋は揚羽蝶、鱗など。 日本において皇族が臣下に下る(臣籍降下)際に名乗る氏の一つで、有名な桓武平氏を含め4つの流派がある。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと平氏 · 続きを見る »

今井兼平

今井 兼平(いまい かねひら)は、平安時代末期の武将。正式な名のりは中原 兼平(なかはら の かねひら)。父は中原兼遠。木曾義仲の乳母子で義仲四天王の一人。兄に樋口兼光、弟に今井兼光、妹に巴御前がいる。信濃国今井の地を領して今井を称した。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと今井兼平 · 続きを見る »

以仁王

以仁王(もちひとおう、仁平元年(1151年) - 治承4年5月26日(1180年6月20日))は、平安時代末期の皇族。後白河天皇の第三皇子。「以仁王の令旨」を出して源氏に平氏打倒の挙兵を促した事で知られる。邸宅が三条高倉にあったことから、三条宮、高倉宮と称された。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと以仁王 · 続きを見る »

伊勢平氏

伊勢平氏(いせへいし)は、承平天慶の乱に功のあった平貞盛の四男平維衡よりはじまる平氏一族の一つ、高望王流坂東平氏の庶流である。平氏の中でも伊勢平氏、特に平正盛の系統(六波羅家あるいは六波羅流)を平家(へいけ)と呼ぶ場合がある。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと伊勢平氏 · 続きを見る »

信濃国

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと信濃国 · 続きを見る »

信濃源氏

信濃源氏(しなのげんじ)は、中世に信濃国に土着し本拠とした源姓の氏族を指した呼称。いずれも清和源氏で、以下の数流がある。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと信濃源氏 · 続きを見る »

北陸道

北陸道 北陸道(ほくりくどう、ほくろくどう、くぬがのみち)は、五畿七道の一つ。本州日本海側の中部の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から近世)を指す。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと北陸道 · 続きを見る »

倶利伽羅峠

倶利伽羅峠(くりからとうげ)は、富山県と石川県の境にある砺波山の峠である。倶梨伽羅峠と表記することもある。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと倶利伽羅峠 · 続きを見る »

石川県

石川県(いしかわけん)は、日本の都道府県の一つ。本州の中央部、日本海側の北陸地方に位置する。県域は令制国 の加賀国と能登国 に当たる。県庁所在地は金沢市。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと石川県 · 続きを見る »

玉葉

『玉葉』(ぎょくよう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて執筆された、日本の公家九条兼実の日記。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと玉葉 · 続きを見る »

火打城の戦い

火打城の戦い(ひうちじょうのたたかい)は、治承・寿永の乱の中の一つ。越前・加賀の在地反乱勢力とそれを追討すべく出撃した平氏との寿永年間における戦いのうちの緒戦である。火打城は燧城、燧ヶ城の表記もある。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと火打城の戦い · 続きを見る »

砺波市

波市(となみし)は、富山県西部の市。農家が田園に点々と散在する散居村の美しい風景、チューリップの球根の生産で有名。 砺波平野の中心に位置し、北陸自動車道砺波ICが立地することから、大型の郊外型商業施設が多い。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと砺波市 · 続きを見る »

篠原の戦い

原の戦い(しのはらのたたかい)は、寿永2年(1183年)6月1日、加賀国篠原(現・石川県加賀市旧篠原村地区)において源義仲軍と平氏軍との間で行われた戦闘である。平安時代末期における治承・寿永の乱の戦闘の一つである。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと篠原の戦い · 続きを見る »

田単

単(でん たん、紀元前3世紀前半頃)は、中国・戦国時代の斉の武将。燕によって滅亡寸前に追い詰められた斉を優れた知略によって救った。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと田単 · 続きを見る »

田斉

斉(でんせい)は、中国の戦国時代、紀元前386年に田氏が姜姓呂氏の斉(姜斉または呂斉)を滅ぼして新たに立てた国。国号は単に斉であるが、西周・春秋時代の呂斉と特に区別する場合に嬀斉または田斉と呼ばれる。戦国時代中期には、湣王の頃に東帝を称するまでになるほど強盛を誇り、戦国七雄の一つにも数えられる。首都は呂斉の時と変わらず臨淄であった。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと田斉 · 続きを見る »

百錬抄

『百錬抄』(ひゃくれんしょう)は、公家の日記などの諸記録を抜粋・編集した歴史書。鎌倉時代後期の13世紀末頃に成立したとみられる。編著者は不詳。百練抄とも書く。書名は唐の詩人白居易の「百練鏡」に由来すると考えられ、当初は「練」の字が用いられていたが、江戸時代以後に「錬」の字が用いられるようになった。 17巻よりなるが完本ではなく、巻一から巻三までが欠けている。安和元年(968年)から正元元年12月(1260年1月)までは天皇紀の形をとる漢文の編年体で記されている。 著者は不詳だが、勧修寺流吉田経房の『吉記』をはじめ同流の出身者の日記が多く引用されていることから、勧修寺流関係者説が有力と考えられている。時間的には後深草天皇が譲位する天元元年12月で完結するが、その後深草は本文中で「新院」と呼ばれていることから、原本が完成したのは次の亀山天皇の在位中だったことが分かる。その後、修正が加えられて遅くても金沢文庫本が作成される前には完成していたと推定されている。 巻三までの内容は不明、巻四の冷泉院から巻七途中の近衛院までは信西の『本朝世紀』の抄出だが、同書自体に散逸が多いため貴重である。その後は同じく巻七途中の二条院の部分までは現存しない平親範の日記が用いられていたと考えられ、以後は吉田経房とその子孫の資経や経俊らの日記から引用されたとみられている。巻八の高倉院から巻十五後嵯峨院までは九条廃帝を除いて1代1巻で構成され、最後の2巻を後深草院にあてている。 京都中心の記録で、武家方の『吾妻鏡』とは対照的である。今日伝わるものとしては、塙保己一が紅葉山文庫本・学問所古本などをもって校訂を加え享和2年(1803年)に出版した刊本をはじめ、写本としては嘉元2年(1304年)に金沢貞顕が吉田定房の本をもって校訂した金沢文庫本系のものがある。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと百錬抄 · 続きを見る »

道の駅倶利伽羅 源平の郷

火牛の計」像 道の駅倶利伽羅 源平の郷(みちのえき くりから げんぺいのさと)は、石川県河北郡津幡町にある石川県道215号森本津幡線の道の駅である。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと道の駅倶利伽羅 源平の郷 · 続きを見る »

高岡市

岡市(たかおかし)は、富山県北西部の市である。県庁所在地である富山市に次ぐ富山県第2の都市で、県西部(呉西)の中心都市である。 加賀藩主前田利長が築いた高岡城の城下町として発展し、高岡城の廃城後は商工業都市として発展した。伝統工芸の高岡銅器に代表される鋳物の生産が盛んで、豊かな水と電力を背景にアルミニウム工業も発達している。 「高岡」の地名は『詩経』の一節「鳳凰鳴矣于彼高岡(鳳凰鳴けり彼の高き岡に)」に由来し、前田利長が築城と開町に際して名づけた瑞祥地名である。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと高岡市 · 続きを見る »

越中国

越中国(えっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。北陸道に属する。現在の富山県にあたる地域である。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと越中国 · 続きを見る »

越前国

越前国(えちぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと越前国 · 続きを見る »

能登国

能登国(のとのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと能登国 · 続きを見る »

般若野の戦い (平安時代)

般若野の戦い(はんにゃののたたかい)は、寿永2年5月9日(1183年5月31日)に越中国(富山県)般若野で行われた平氏軍(平盛俊)と源氏および北陸蜂起勢力連合軍(今井兼平)との間の戦い。 寿永2年(1183年)5月9日の明け方、加賀より軍を進め般若野の地で兵を休めていた平氏軍の先遣隊平盛俊の軍を、木曾義仲の先遣隊今井兼平の軍が奇襲し、平盛俊軍は戦況不利に陥り退却した。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと般若野の戦い (平安時代) · 続きを見る »

楯親忠

楯 親忠(たて ちかただ)は、平安時代末期の武将。木曾義仲の家臣で、義仲四天王の一人。根井行親の六男。 義仲に従って横田河原の戦いや倶利伽羅峠の戦いなどに参戦し、活躍する。元暦元年(1184年)、宇治川の合戦に父・行親と共に参戦し、六条河原で討ち取られたとされている。義仲の敗死後に行親の妻は義仲子孫と共に上野国(群馬県渋川市北橘)に逃亡している。渋川市内に楯親忠の供養塔がある。 長野県南佐久郡佐久穂町辺りに屋敷を構えていた。 Category:平安時代の武士 Category:信濃国の人物 Category:治承・寿永の乱で戦死した人物 Category:生年不明 Category:1184年没.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと楯親忠 · 続きを見る »

横田河原の戦い

横田河原の戦い(よこたがわらのたたかい)は、治承・寿永の乱の中の戦いの一つ。信濃で挙兵した源義仲らの諸源氏に対して平氏方の越後の城助職が攻め込んで発生した戦い。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと横田河原の戦い · 続きを見る »

樋口兼光

樋口 兼光(ひぐち かねみつ)は、平安時代末期の武将。中原兼遠の次男。今井兼平の兄。正式な名のりは中原 兼光(なかはら の かねみつ)。木曾義仲の乳母子にして股肱の臣。義仲四天王の一人。信濃国筑摩郡樋口谷(現・木曽町日義)に在して樋口を称した。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと樋口兼光 · 続きを見る »

河北郡

*.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと河北郡 · 続きを見る »

治承

治承(じしょう / ちしょう)は、日本の元号の一つ。安元の後、養和の前。1177年から1181年までの期間を指す。この時代の天皇は高倉天皇、安徳天皇。 治承期は、平氏政権の本格的な確立期および、それに反発して起こった全国的な内乱、すなわち治承・寿永の乱の初期に当たる。源頼朝の関東政権では、この先の養和・寿永の元号を使わず、治承を引き続き使用した。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと治承 · 続きを見る »

治承・寿永の乱

治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)は、平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる大規模な内乱である。古代最後の内乱であり中世最初の内乱である。後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機に各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、最終的には、反乱勢力同士の対立がありつつも平氏政権の崩壊により源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に至る。 一般的には「源平合戦(げんぺいかっせん、げんぺいがっせん)」あるいは「源平の戦い(げんぺいのたたかい)」などの呼称が用いられることがあるが、こうした呼称を用いることは適当でないとする議論がある(詳しくは後述)。また、奥州合戦終結までを治承寿永の乱に含めるという見解もある。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと治承・寿永の乱 · 続きを見る »

津幡町

津幡町(つばたまち)は、石川県の中央部に位置する町。河北郡に所属する。金沢市への通勤率は42.4%(平成17年国勢調査)。 津幡の地名は、この地域が津幡川と河北潟を行き来する舟(船)の津(停泊地)の端であるのが由来とされる。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと津幡町 · 続きを見る »

源平火牛まつり

源平火牛まつり(げんぺいかぎゅうまつり)は、富山県小矢部市石動地区(旧 石動町)で毎年7月最終土曜日に行われる祭で、メインイベントとして「火牛の計レース」が行われる。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと源平火牛まつり · 続きを見る »

源平盛衰記

『源平盛衰記』(げんぺいせいすいき/げんぺいじょうすいき)は、軍記物語の『平家物語』の異本のひとつ。48巻。著者不明。読み本系統に分類される。(詳しくは『平家物語』を参照).

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと源平盛衰記 · 続きを見る »

源義仲

源 義仲 (みなもと の よしなか)は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれている。 以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉と荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となるが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと源義仲 · 続きを見る »

源行家

行家が大敗を喫した墨俣川の戦いの碑(岐阜県安八郡墨俣町) 源 行家(みなもと の ゆきいえ)は、平安時代末期の武将。河内源氏第五代源為義の十男。初めの名乗りを義盛(よしもり)という。新宮十郎、新宮行家とも。以仁王の挙兵に伴い、諸国の源氏に以仁王の令旨を伝え歩き、平家打倒の決起を促した。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと源行家 · 続きを見る »

戦国時代 (中国)

中国の戦国時代(せんごくじだい)は、春秋時代に続く時代で、紀元前403年に晋が韓・魏・趙の3つの国に分かれてから、紀元前221年に秦による中国統一がなされるまでをいう。この名前は『戦国策』から取られている。 どの時点をもって春秋と戦国の境目とするかは、歴史家の間でも意見が分かれている。詳しくは春秋戦国時代の項目を参照。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと戦国時代 (中国) · 続きを見る »

日本の合戦一覧

日本の合戦一覧(にほんのかっせんいちらん)は、日本の歴史上で発生した武力を以って行った主要な争いの一覧である。 概ね「戦い」や「合戦」は軍隊同士の大規模な戦闘、「乱」は国家や公的な組織に対する内戦・反乱・クーデターに当たる争い、「変」は国家や公的な組織による内戦・反乱・クーデター、「役」は外国・異民族との戦争。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと日本の合戦一覧 · 続きを見る »

故事

故事(こじ)とは、大昔にあった物や出来事。また、遠い過去から今に伝わる、由緒ある事柄。特に中国の古典に書かれている逸話のうち、今日でも「故事成語」や「故事成句」として日常の会話や文章で繁用されるものをいう。 故事成語/故事成句(こじ せいご/こじ せいく)とは、故事をその語源とする一群の慣用語句の総称。本来の中国語ではただ「成語」というが、日本では故事を語源とするものをその他の熟語や慣用句と区別するために、このような呼び方となった。 ものごとのいわれ(由来)や、たとえ(比喩)、おもい(観念)、いましめ(標語)など、面と向かっては言い難いことを婉曲に示唆したり、複雑な内容を端的に表したりする際に便利な語句で、中には日本語の単語として完全に同化したもの(「完璧」「矛盾」など)や、日本語のことわざとして定着したもの(「井の中の蛙大海を知らず」「虎の威を借る狐」など)も多い。 以下には日本でも繁用される主な故事成語を五十音順にあげた。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと故事 · 続きを見る »

1180年

記載なし。

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと1180年 · 続きを見る »

1181年

記載なし。

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと1181年 · 続きを見る »

1183年

記載なし。

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと1183年 · 続きを見る »

5月11日 (旧暦)

旧暦5月11日は旧暦5月の11日目である。六曜は先負である。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと5月11日 (旧暦) · 続きを見る »

6月2日

6月2日(ろくがつふつか)は、グレゴリオ暦で年始から153日目(閏年では154日目)にあたり、年末まであと212日ある。誕生花はタイム、シャクナゲ。.

新しい!!: 倶利伽羅峠の戦いと6月2日 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

倶利伽羅峠の合戦倶梨伽羅峠の戦い砺波山の戦い礪波山の戦い

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »