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今参局

索引 今参局

今参局(いままいりのつぼね、生年不詳 - 長禄3年1月19日(1459年2月22日))は、室町時代の女性。通称お今。室町幕府第8代将軍・足利義政の乳母。大舘満冬(みつふゆ)の娘、兄に大舘教氏(のりうじ)がいる。父と兄はそれぞれ、義政の祖父・義満(3代将軍)、父・義教(6代将軍)から偏諱の授与を受けている。今参局自身の本名は不明。義政側近の有力者として烏丸資任、有馬持家(有馬元家とも)と共に三魔(おいま、からすま、ありま)と称された。.

45 関係: かたせ梨乃大舘佐子大舘義冬大舘氏大舘氏明大河ドラマ宝徳室町幕府室町時代守護守護代尾張国乳母康正征夷大将軍琵琶湖管領細川勝元織田郷広織田敏広烏丸資任畠山持国花の乱豊臣秀吉足利義満足利義政足利義教長禄沖島有馬元家有馬持家斯波義健新田義貞新田氏日野富子日野重子日本放送協会景徐周麟1449年1451年1455年1459年1月19日 (旧暦)2月22日

かたせ梨乃

かたせ 梨乃(かたせ りの、本名;杉田 典子(すぎた のりこ)、1957年5月8日 - )は、日本の女優。東京都出身。パーフィットプロダクション所属。雙葉高校卒業、獨協大学外国語学部英語学科中退。特技は英語。.

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大舘佐子

大舘 佐子(おおだち さこ・さんこ・さんご、生没年不詳)は、室町時代の女性。.

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大舘義冬

大舘 義冬(おおだち よしふゆ、生没年不詳)は、南北朝時代の武士。大舘氏明の子。.

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大舘氏

別紋:酢漿草 大舘氏館跡。 大舘氏(おおだちし)は、日本の姓氏のひとつ。大館氏とも表記する。”おおだて”と読む場合もある。.

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大舘氏明

大舘 氏明(おおだち うじあき、嘉元3年(1303年)? - 興国元年/暦応3年9月3日(1340年9月24日)もしくは興国3年/康元2年9月3日(1342年10月3日))は、南北朝時代の武士。大舘宗氏の子。舎弟の幸氏が新田義貞と同年代かそれより上の年代の生まれと考えられており、そのため氏明も義貞より年齢は上であると推定されている。.

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大河ドラマ

『大河ドラマ』(たいがドラマ)は、1963年(昭和38年)から放送されているNHKのテレビドラマシリーズ。略称は大河。 1984年から1986年にかけて放送されたNHK新大型時代劇と2009年から2011年にかけて放送されたスペシャルドラマ『坂の上の雲』についてもこの項で述べる。.

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宝徳

宝徳(ほうとく)は、日本の元号の一つ。文安の後、享徳の前。1449年から1451年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

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守護代

守護代(しゅごだい)とは、鎌倉時代と室町時代に守護の下に置かれた役職である。.

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尾張国

尾張国(おわりのくに/をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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乳母

乳母(うば、めのと)とは、母親に代わって子育てをする女性のこと。.

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康正

康正(こうしょう)は、日本の元号の一つ。享徳の後、長禄の前。1455年から1457年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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琵琶湖

琵琶湖(びわこ)は、滋賀県にある湖。日本で最大の面積と貯水量を持つ。湖沼水質保全特別措置法指定湖沼。ラムサール条約登録湿地。河川法上は一級水系「淀川水系」に属する一級河川であり、同法上の名称は「一級河川琵琶湖」で、滋賀県が管理している例えば、琵琶湖岸に構築物を無許可で設置すると、河川法に基づいて滋賀県から撤去命令が出される。例:。.

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管領

管領(かんれい)は、以下の役職・地位およびその座にあった者を指す名称。.

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細川勝元

細川 勝元(ほそかわ かつもと)は、室町時代の武将・守護大名。第16、18、21代室町幕府管領。土佐・讃岐・丹波・摂津・伊予守護。第11代細川京兆家当主。父は第14代室町幕府管領、細川持之。政元の父。応仁の乱の東軍総大将として知られている。.

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織田郷広

織田 郷広(織田 郷廣、おだ さとひろ、? - 宝徳3年(1451年))は、室町時代の武将、尾張守護代。父は織田教信『信長公記』の系図(または織田常松『清州町史』掲載の織田氏推定系図を父とする説もある)。兄弟に織田教長、織田常信、織田久長?、織田良信?。子は織田敏広、織田広近、織田広遠。「郷」の一字は斯波義郷から偏諱を賜ったもの推定される。 織田郷広の被官坂井七郎右衛門広道(号:性通)が公卿万里小路時房の代官と称して寺社領・本所領を横領。その後、郷広の推挙で時房はこの坂井を実際に代官としたが、横領行為を止めないため時房は管領細川持之に陳情した。嘉吉元年(1441年)、その責任を逃れるため、郷広は逐電した。嘉吉2年(1442年)、郷広の跡を受け、次代勘解由左衛門尉久広(弟。甥または嫡男とされる敏広と同一人物とも)が尾張守護代となる。郷広は守護代の再任をはかるため8代将軍足利義政の乳母・今参局に働きかけ、今参局の進言で義政より赦免の内諾を得る。しかし、甲斐常治の意を受けた義政の生母日野重子がこれに怒り、困惑した義政が赦免を反故にしたことにより断念した。幕府の後ろ盾を得ることを諦め、宝徳3年(1451年)、直接主家の斯波義健に許しを請うが受け入れられなかった。後に越前にて将軍・義政の上意を得た甲斐常治に派遣された久広らに殺害された。.

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織田敏広

織田 敏広(おだ としひろ、織田敏廣)は、戦国時代の武将。室町幕府の管領斯波氏の家臣で尾張上四郡の守護代。織田伊勢守家(岩倉織田氏)の祖とされる。また、従兄弟の織田久広と同一人物という説がある。.

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烏丸資任

烏丸 資任(からすまる すけとう、応永24年(1417年) - 文明14年12月15日(1483年1月23日))は室町時代の公家。室町幕府8代将軍足利義政の寵臣。烏丸豊光の子。号は蓮光院。子に烏丸益光、養子に烏丸冬光がいる。従姉は日野重子。 足利義教の三男で次期将軍を継承する可能性が低かった義政は、幼少時には母方の一族である資任の屋敷(烏丸殿)にて育てられた石原比位呂「義政期の将軍家と天皇家」『室町時代の将軍家と天皇家』(勉誠出版、2015年) ISBN 978-4-585-22129-6。ところが、嘉吉3年(1443年)、義政が兄の急死で急遽将軍を継ぐことになったために資任の烏丸殿がそのまま将軍の御所として用いられる事になり、長禄3年(1459年)に義政が室町殿に移るまでこの状態が続いた。このため、将軍の育ての親的存在になった資任の発言力が高まることになった。 文安元年(1444年)に参議、長禄2年(1458年)には従一位・准大臣に任じられた。応仁元年(1467年)に出家し、西誉と号する。応仁の乱を避けて三河国伊良湖御厨(愛知県田原市)に下向し、文明14年(1482年)に同地にて66歳で薨去。 今参局(御今)や有馬持家とともに一時幕政に深く関与したが、3人とも「おいま」「ありま」「からすま(る)」と「ま」がつくことから「三魔」と呼ばれた。.

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畠山持国

山 持国(はたけやま もちくに)は、室町時代の守護大名。室町幕府管領、河内・紀伊・越中・山城守護。足利氏一門の畠山氏出身。畠山満家の嫡男。義就の父。 危機的状況を脱して管領に就任、勢力拡大を目指すも晩年にお家騒動を発生させ、畠山氏衰退の元を生み出してしまった。.

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花の乱

『花の乱』(はなのらん)は、1994年4月3日から同年12月11日にかけて放送された33作目のNHK大河ドラマ。放送回数は全37話。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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足利義満

足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。.

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足利義政

足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 - 1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。初名は足利 義成(- よししげ)。 幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。.

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足利義教

足利 義教(あしかが よしのり、義)は、室町幕府の第6代将軍(在職:1428年 - 1441年)。第3代将軍・足利義満の五男。母は側室の藤原慶子で、第4代将軍・足利義持の同母弟。僧侶時代は義円(ぎえん、義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。.

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長禄

長禄(ちょうろく)は、日本の元号の一つ。康正の後、寛正の前。1457年から1461年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

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沖島

沖島(おきしま)または沖ノ島(おきのしま)は、琵琶湖の沖合約1.5 kmに浮かぶ小島。琵琶湖最大の島である。琵琶湖国定公園第2種特別地域。.

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有馬元家

有馬 元家(ありま もといえ、生年不明 - 応仁2年11月10日(1469年1月1日))は、室町時代中期の武将。通称は上総介。摂津有馬郡分郡守護。赤松氏の支流である有馬氏出身で有馬持家の子。子に則秀。 室町幕府8代将軍足利義成(後の義政)に近侍しその寵臣となったと言われ、義政の乳母今参局(御今)及び義政の母日野重子の従弟烏丸資任と共に義政側近の有力者となり「三魔」と呼ばれた(おいま、からすま、ありまと、「ま」がつく3人)。相国寺の瑞渓周鳳の日記『臥雲日件録』康正元年1月6日(1455年1月23日)条には「政は三魔より出づ」と記されている。 文安元年(1444年)から翌2年(1445年)に同族の赤松満政が播磨守護山名宗全に反乱を起こし、父持家は一旦満政に味方したがその後幕府側に寝返って満政を討ち取り、態度を咎められて隠居したため元家が有馬郡守護職を継いだ。しかし、享徳3年(1454年)に又従兄弟の赤松則尚が赤松氏復帰を掲げて播磨で反乱を起こし、翌4年(康正元年、1455年)に宗全に討ち取られ、元家も連座して12月13日に出家遁世した。その後足利義視に仕えていたが、応仁の乱の最中に義政の命令を受けた赤松政則に殺害された。 三魔のうち有馬については長らく持家だとされていたが、持家に関しては特に専横の振る舞いは記録されていないこともあり、近年では元家が三魔の1人であると言われている。.

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有馬持家

有馬 持家(ありま もちいえ、応永3年(1396年)? - 宝徳2年(1450年)?)は、室町時代中期の武将。摂津有馬氏の当主。通称は兵部少輔。有馬義祐の子。子に元家。赤松満祐、満政とは従兄弟。 有馬氏は摂津国有馬郡を領して将軍の近習を務め、本家の赤松氏とは別に室町幕府に直勤していた。 初名は教実(のりざね)、のち第4代将軍足利義持より偏諱を受けて持家と改名。前述の通り赤松氏の分家であることから、姓は赤松とも。 永享元年(1429年)頃から6代将軍足利義教(義持の弟)の御伴衆となる。嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱直後も本家である赤松満祐方には与せず、山名宗全率いる幕府側の赤松追討軍に加わったとみられる。その後、新たに播磨守護を兼ねた宗全が持家の従兄弟・赤松満政の領する播磨東3郡を侵食すると、満政は怒り挙兵するが敗北。逃亡した満政は持家を頼る。持家は一度は満政に呼応し挙兵するが敗れ、満政父子を討ち取り幕府へ帰順するが、態度を咎められ隠居した。 8代将軍足利義成(後の義政)に近侍し、その寵臣となったと言われ、義政の乳母今参局(御今)および義政の母日野重子の従弟烏丸資任と共に義政側近の有力者として知られ、「三魔」と並び称されたという(おいま、からすま、ありまと、「ま」がつく3人)。相国寺の瑞渓周鳳の日記『臥雲日件録』康正元年1月6日(1455年1月23日)条には「政は三魔より出づ」と記されている。 ただし、他の2人と異なり、持家に関しては特に専横の振る舞いは記録されておらず、義政側近中の「ま」がつく人ということで数合わせとして挙げられたとも考えられる(一説に持家が死去したのは宝徳2年(1450年)といい、そうなると義政将軍期としては時期が合わない)。その事から近年では子の元家が三魔の一人であると言われている。 もちいえ Category:室町・安土桃山時代の武士 Category:摂津国の人物 Category:1390年代生 Category:1450年代没.

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斯波義健

斯波 義健(しば よしたけ)は、室町時代中期の守護大名。斯波氏(武衛家)の第9代当主。越前・尾張・遠江守護。斯波義郷の子。.

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新田義貞

新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。 河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。 鎌倉末期から南北朝の混乱の時代にあって、足利氏と並び武家を統率する力のある家系であった新田家の当主で、足利尊氏の対抗馬であり、好敵手でもあった。ただし、鎌倉時代後期の新田家は足利家に対して従属関係にあり、延元の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある。また、軍記物語『太平記』においては、前半の主人公の一人とも言える存在である。 鎌倉幕府を攻撃して事実上滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏が建武政権に反旗を翻すと、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命されてこれに対抗した。これにより各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。東国の一御家人から始まり、鎌倉幕府を滅ぼして中央へと進出し、その功績から来る重圧に耐えながらも南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯だった。 死後、江戸時代に義貞が着用していた兜が偶然見つかり、福井藩主松平光通は兜が発見された場所に新田塚を建てた。明治時代、福井知藩事・松平茂昭は新田義貞のために新田塚に祠を建て、のち義貞を主祭神する藤島神社となり、建武中興十五社の一つに列せられた。.

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新田氏

新田氏(にったし)は、上野国発祥の豪族(軍事貴族)。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流河内源氏の棟梁 鎮守府将軍源義家の三男義国の長男新田義重を祖とする上野源氏の総称。義国流足利氏と同族である。上野国(群馬県)を本貫とした。家紋は「大中黒・新田一つ引(おおなかぐろ・にったひとつびき)」。.

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日野富子

日野 富子(ひの とみこ、永享12年(1440年) - 明応5年5月20日(1496年6月30日))は、室町時代後期から戦国時代前期の女性。室町幕府8代将軍足利義政の正室。父は蔵人右少弁・贈内大臣日野重政、母は従三位北小路苗子(北小路禅尼)。兄弟に勝光(兄)、永俊(11代将軍足利義澄の義父)、資治(日野兼興の養子)、妹に良子(足利義視室)。9代将軍足利義尚の母。従一位。.

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日野重子

日野 重子(ひの しげこ、応永18年(1411年) - 寛正4年8月8日(1463年9月20日))は、室町時代中期の女性。日野家出身。室町幕府6代将軍・足利義教の側室。日野重光の子。7代将軍・足利義勝、8代将軍・足利義政の生母。兄は日野義資で、その孫が日野勝光、日野富子。義教の正室宗子は姉で、烏丸資任は従弟にあたる。 永享6年(1434年)に義勝、永享8年(1436年)に義政を産む。嘉吉の乱で夫・義教が殺害された後、幼年の義勝や義政を補佐して幕政に関与し、義政の寵愛を受けた乳母・今参局と対立した。今参局は義政正室富子の産んだ子が早世したのが彼女の呪詛のためとされて流刑にされ、長禄3年(1459年)、自害させられるが、これは富子の指示とも重子の指示とも言われる。 寛正4年8月8日(1463年9月20日)に死去。それに伴い、斯波義敏、畠山義就が赦免された。.

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日本放送協会

日本放送協会(にっぽんほうそうきょうかい、英称:Japan Broadcasting Corporation)は、日本の公共放送を担う事業者。よく誤解されるが国営放送ではない。日本の放送法(昭和25年法律第132号)に基づいて設立された放送事業を行う特殊法人。総務省(旧・郵政省)が所管する外郭団体である。 公式略称は、「NIPPON HOSO KYOKAI」の頭文字を取り「」と呼称・記される。 公共放送としての事業規模は、英国放送協会 (BBC) などと並び、国内にNHKエンタープライズ、NHKグローバルメディアサービス、NHK出版など13の連結子会社を持つ。また、関連会社として日本国外にNHKコスモメディアアメリカ、NHKコスモメディアヨーロッパが設立されている。1986年には子会社である株式会社NHKエンタープライズを出資母体として、NHKエンタープライズ25%、株式会社電通25%の共同出資による株式会社総合ビジョンを設立した。しかし、これは事業の縮小を経て2013年7月1日付けでNHKエンタープライズに吸収合併した。 愛宕山。 中継車(いすゞ・フォワード).

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景徐周麟

景徐周麟(けいじょしゅうりん、永享12年(1440年)- 永正15年3月2日(1518年4月11日))は、室町時代後期の臨済宗の僧。父は大舘持房、母は赤松則友の娘。諱は周麟。道号は景徐。別に宜竹・半隠・対松。 幼い時に京都相国寺の用堂中材に師事して出家し、長じてその法を継いだ。応仁の乱の際には難を避けて近江永源寺に身を寄せていた時期もある。長享元年(1487年)に等持寺に住み、延徳2年(1490年)に遣明使の正使の命を受けたがこれを辞退している。明応4年(1495年)、相国寺に住し、翌5年(1496年)に3代将軍足利義満の檀那塔である鹿苑院に移り、永正5年(1508年)には相国寺に戻った。晩年は相国寺内に慈照院を建てて退隠した。 Category:大舘氏 Category:日本の禅僧 (臨済宗) Category:室町・安土桃山時代の僧 Category:1440年生 Category:1518年没.

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1449年

記載なし。

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1451年

記載なし。

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1455年

記載なし。

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1459年

記載なし。

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1月19日 (旧暦)

旧暦1月19日(きゅうれきいちがつじゅうくにち)は、旧暦1月の19日目である。六曜は先勝である。.

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2月22日

2月22日(にがつにじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から53日目にあたり、年末まであと312日(閏年では313日)ある。.

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