ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

五街道

索引 五街道

五街道(ごかいどう)は、江戸時代の江戸・日本橋を起点に伸びる東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の五つを指した陸上幹線道である。1601年(慶長6年)に徳川家康が全国支配のために江戸と各地を結ぶ以下の5つの街道を整備し始め、2代将軍秀忠の代になって基幹街道に定められた。.

160 関係: 加賀国垂井宿千住宿古事類苑参勤交代塩の道 (日本)壬生通壬生通り大和の古道奥州街道姫街道宮宿宿場宇都宮宿寺泊町寛永小山宿小倉北区山陰街道山陽道岩槻区川越街道上総国中原街道中山道中部地方七里の渡し万治三国街道一里塚幸手市享保京街道 (大坂街道)五稜郭今市宿伊勢参宮街道伊勢路 (熊野古道)会津会津西街道伝馬佐屋街道佐倉街道佐渡国御油宿徳川家康徳川家光徳川御三家徳川秀忠徒歩旅行土井利勝...土佐国土佐街道地方凡例録北国街道 (信越)北陸道善光寺品川宿内藤新宿出羽国函館市入鉄炮出女八幡宿 (下総国)八王子市元禄勘定奉行国道119号国道142号国道17号国道18号国道19号国道1号国道20号国道21号国道4号国道8号倉賀野宿矢倉沢往還秩父市秩父往還米沢城米沢街道美濃路羽州街道甲州街道甲府市熊谷宿熱田区白河市鎌倉街道道中奉行街道街道てくてく旅街道をゆく飯田街道西国街道見附宿高崎宿高田市高野街道讃岐国讃岐街道越後国鹿児島城追分宿近江国鈴鹿峠船橋市関ヶ原の戦い関所薩摩街道藤岡市脇往還金刀比羅宮金毘羅街道金沢市長崎市長崎街道若松城陸奥国東金市東金御成街道東海道松戸宿板橋宿正保水戸市水戸街道江戸江戸幕府江戸四宿江戸時代河出書房新社木之本町木曽路本坂通朱印状成田街道明和明治維新浜名湖文化 (元号)日光市日光御成道日光例幣使街道日光街道日光脇往還日光東照宮日本実業出版社日本橋 (東京都中央区)慶長1601年1604年1624年1636年1646年1659年1694年1716年1772年1811年 インデックスを展開 (110 もっと) »

加賀国

加賀国(かがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

新しい!!: 五街道と加賀国 · 続きを見る »

垂井宿

垂井宿(たるいじゅく)は中山道57番目の宿場(→中山道六十九次)。美濃国不破郡垂井村(現・岐阜県不破郡垂井町)に存在した。 西町・中町・東町の3町に分かれ、本陣は中町にあった。問屋場は3か所あった。毎月5と9の日に南宮神社鳥居付近で開かれた六斎市は大勢の人で賑わった。大垣・墨俣などを経由して東海道宮宿とを結ぶ脇往還美濃路との追分で、西美濃の交通の要衝であった。.

新しい!!: 五街道と垂井宿 · 続きを見る »

千住宿

千住宿(せんじゅしゅく、せんじゅじゅく)は日光街道(正式には日光道中)および奥州街道(正式には奥州道中)の日本橋から1番目の宿場町で、江戸四宿の一つである。.

新しい!!: 五街道と千住宿 · 続きを見る »

古事類苑

古事類苑(こじるいえん)は、明治政府により編纂が始められた類書(一種の百科事典)である。1896年(明治29年)-1914年(大正3年)に刊行された。古代から1867年(慶応3年)までの様々な文献から引用した例証を分野別に編纂しており、日本史研究の基礎資料とされている。日本最大にして唯一の「官撰百科事典」。.

新しい!!: 五街道と古事類苑 · 続きを見る »

参勤交代

参勤交代(さんきんこうたい)とは、各藩の藩主を一年おきに江戸に出仕させる江戸幕府の法令のことである。参勤交替、参覲交代、参覲交替などとも書く。 藤堂様御国入行列附版画/伊賀文化産業協会蔵.

新しい!!: 五街道と参勤交代 · 続きを見る »

塩の道 (日本)

塩の道(しおのみち)は、塩や海産物を内陸に運ぶのに使われた道のことをいう。また反対に内陸からは、山の幸(食料に限らず、木材や鉱物も含む)が運ばれた道でもある。製塩が化学製法に代わり、専売法に依る規制がかけられる以前は海辺の塩田に頼っていたことから、日本の各地で、海と山を結ぶかたちで数多くあった。日本各地にあった塩の道は、現在も整備された形で物流の主要なルートとして残っている。 また海外においても、ネパール西北部のカリガンダキ渓谷地域やマレーシア(ボルネオ島)サバ州の世界最大の花ラフレシアが咲くクロッカー山脈公園を横切る塩の道をはじめ、各地に存在している。.

新しい!!: 五街道と塩の道 (日本) · 続きを見る »

壬生通

*壬生通り:江戸時代の五街道日光街道小山宿(正確にはその北の喜沢追分)から壬生宿・鹿沼宿を経由して日光街道今市宿へ至る道。日光西街道。.

新しい!!: 五街道と壬生通 · 続きを見る »

壬生通り

壬生通り(みぶどおり)または壬生道は、日光街道小山宿(正確にはその北の喜沢追分)から壬生宿・鹿沼宿を経由して日光街道今市宿へ至る道。日光西街道とも。 楡木宿~今市宿間は日光例幣使街道と共通であり、現在地元では一般にこの区間は日光例幣使街道と呼ばれ、壬生通りと呼ばれるのは小山~楡木間のみとなっている。更に、迅速測図では、小山(喜沢追分)~楡木も「旧例幣使街道」と記されている。.

新しい!!: 五街道と壬生通り · 続きを見る »

大和の古道

大和の古道(やまとのこどう)とは、日本の古代道路のうち、大和国内に設置されたものをいい、.

新しい!!: 五街道と大和の古道 · 続きを見る »

奥州街道

奥州街道(おうしゅうかいどう)とは、江戸時代の五街道の一つ。江戸日本橋を起点として千住から白河へと至る街道である。下野国宇都宮宿以南の区間は日光街道と共用されており、宇都宮宿伝馬町の追分で日光街道と分岐していた。.

新しい!!: 五街道と奥州街道 · 続きを見る »

姫街道

姫街道(ひめかいどう)は、浜名湖の北側、本坂峠を経由して静岡県磐田市見付町(東海道見附宿)と愛知県豊川市御油町(東海道御油宿)を結ぶ街道である。道程約60キロメートル。古くは東海道の本道で、二見の道(ふたみのみち)と呼ばれていた。中世以降、浜名湖南岸の往来が盛んになると長距離を移動する利用者は減り、地震などで浜名湖南岸が通行不能になった後に迂回路としてよく利用された。本坂峠を経由したことから本坂越(ほんざかごえ)、本坂通(ほんざかどおし/ほんざかどおり)、本坂道(ほんざかみち)、本坂街道(ほんざかかいどう)などと呼ばれた。戦国時代に街道が整備され、江戸時代には東海道に付属する街道とされ、宿が置かれた。幕末頃から姫街道の呼称が定着し、明治以降、新道が出来て本坂峠はトンネルで通過するようになり、峠越えの道は廃道となっている。.

新しい!!: 五街道と姫街道 · 続きを見る »

宮宿

宮宿(みやしゅく、みやじゅく、宮の宿、熱田宿)は、東海道五十三次の41番目の宿場である。中山道垂井宿にいたる脇街道美濃路や佐屋街道との分岐点でもあった。一般には宮の宿と呼ばれることが多かったが、幕府や尾張藩の公文書では熱田宿と書かれている。.

新しい!!: 五街道と宮宿 · 続きを見る »

宿場

中山道妻籠宿 宿場(しゅくば)とは、主に江戸時代、五街道や脇往還において駅逓事務を取り扱うため設定された町場をいう。宿駅ともいい、古代、奈良時代・平安時代から駅馬・伝馬の制度によって整備されていった。 また、宿場を中心に形成された町を宿場町(しゅくばまち)と呼ぶ。.

新しい!!: 五街道と宿場 · 続きを見る »

宇都宮宿

宇都宮宿(うつのみやじゅく)は、日光街道(日光道中)および奥州街道(奥州道中)の17番目の宿駅(宿場町)で、下野国河内郡宇都宮にあった。宇都宮城の城下町にあり、両街道の追分であったほか、国内各地を結ぶ主要道路が通る交通の要衝で、日光街道で最も賑わった宿場町と云われている。現在の栃木県宇都宮市中心市街地中西部地域。.

新しい!!: 五街道と宇都宮宿 · 続きを見る »

寺泊町

寺泊町(てらどまりまち)は、新潟県の中部にかつて存在した三島郡の町。2006年1月1日長岡市に編入された。西廻り航路の港町、北陸街道の宿場町として知られていた町である。本州の中では佐渡島と最短の距離にあり、佐渡との間を佐渡汽船が定期航路を運航していた。.

新しい!!: 五街道と寺泊町 · 続きを見る »

寛永

寛永(かんえい)は日本の元号の一つ。元和の後、正保の前。1624年から1645年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.

新しい!!: 五街道と寛永 · 続きを見る »

小山宿

小山宿(おやましゅく、おやまじゅく)は、江戸時代に日光街道(日光道中)に設けられた下野国の宿場。現在は栃木県小山市の中心部に相当する。 日光街道の江戸・日本橋から数えて12番目の宿場である。.

新しい!!: 五街道と小山宿 · 続きを見る »

小倉北区

足立公園から見る小倉市街の夜景 紫川に架かる常盤橋 小倉北区(こくらきたく)は、北九州市を構成する7区の行政区の一つである。北九州市の中心地区であり、小倉駅や北九州市役所がある。.

新しい!!: 五街道と小倉北区 · 続きを見る »

山陰街道

山陰街道(さんいんかいどう)は、日本の街道である。京から丹波を経て山陰地方を通り、周防国の小郡(現・山口市)で西国街道に合流する。山陰道(さんいんどう)、山陰路(さんいんじ)、丹波街道(たんばかいどう)、丹州街道(たんしゅうかいどう)、丹波路(たんばじ)、丹州路(たんしゅうじ)とも呼ばれた。しかし、明治時代に京都府令により「山陰街道」の名称に統一された。 現在の国道9号線は、これにほぼ沿っている。 なお、古代・中世における山陰道と近世の山陰街道は、ルートが異なっている。.

新しい!!: 五街道と山陰街道 · 続きを見る »

山陽道

山陽道(さんようどう、かげとものみち)は、五畿七道の一つである。 本州西部の瀬戸内海側の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から中世)を指す。 行政区分としては、影面道、光面道(かげとものみち)、または中国(ちゅうごく)とも称された。 街道においては江戸時代を中心に、.

新しい!!: 五街道と山陽道 · 続きを見る »

岩槻区

岩槻区(いわつきく)は、埼玉県さいたま市を構成する10区のうちの一つ。さいたま市で最も面積が広い。.

新しい!!: 五街道と岩槻区 · 続きを見る »

川越街道

川越街道と彫られた石の標識(埼玉県新座市、2002年7月) 川越市。札の辻(2005年1月) 川越街道(かわごえかいどう)とは江戸時代の街道で、江戸日本橋より中山道を進み、江戸四宿の1つ板橋宿の平尾追分で分岐して川越城下に至る街道で伊能忠敬「大日本沿海輿地全図」では実測、10里34町33間半(約43km)だった。当街道とほぼ平行して、または当街道を拡幅して、国道254号が建設され、現在では同国道のうち東京都豊島区の池袋六ツ又交差点から埼玉県川越市の新宿町(北)交差点までの通称となっている。 和光市.

新しい!!: 五街道と川越街道 · 続きを見る »

上総国

上総国(かずさのくに、正仮名遣:かづさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 常陸国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介であった。.

新しい!!: 五街道と上総国 · 続きを見る »

中原街道

中原街道(なかはらかいどう)は、相模国(神奈川県)平塚と武蔵国江戸(東京)とを結ぶ街道で、多摩川を丸子で渡る。、東海道の一部としても機能していた。.

新しい!!: 五街道と中原街道 · 続きを見る »

中山道

五十五里塚跡、下諏訪宿 福島宿) 一里塚(岐阜県垂井町) 中山道(なかせんどう)は、江戸時代の五街道の一つで、江戸の日本橋と京都の三条大橋を内陸経由で結ぶ街道である。「中仙道板橋駅の北側にある踏切が「中仙道踏切」という名称である。」、「仲仙道」とも表記するほか、「木曾街道」や「木曽路」の異称も有した。.

新しい!!: 五街道と中山道 · 続きを見る »

中部地方

中部地方(ちゅうぶちほう)は、日本の地方区分(全国八地方区分)の一つで、近代における本州中部の総称。東海地方・中央高地(東山地方)・北陸地方から成り、9つの県がある。.

新しい!!: 五街道と中部地方 · 続きを見る »

七里の渡し

七里の渡し(しちりのわたし)は東海道五十三次で知られる宮宿(愛知県名古屋市熱田区)から桑名宿(三重県桑名市)までの海路で、かつての官道。この渡しの宮宿側、または、桑名宿側の渡船場のみを指して「七里の渡し」と呼ぶことも多い。.

新しい!!: 五街道と七里の渡し · 続きを見る »

万治

万治(まんじ)は日本の元号の一つ。明暦の後、寛文の前。1658年から1661年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

新しい!!: 五街道と万治 · 続きを見る »

三国街道

中央の道路が二居ダム脇を通過する三国街道(国道17号)写真下は宿場の湯がある二居宿 三国街道(みくにかいどう)は、中山道の高崎(群馬県高崎市)から分かれ、北陸街道の寺泊(新潟県長岡市寺泊地域)へ至る街道である。.

新しい!!: 五街道と三国街道 · 続きを見る »

一里塚

一里塚(いちりづか)は、旅行者の目印として大きな道路(街道)の側に1里(約3.927キロメートル)毎に設置した塚(土盛り)である。 塚の側に榎などの木を植えたり標識を立てたりしていた。いわゆる街道のマイルストーン・キロポストと同様であり、一里塚は中国にも存在する。 日本では、平安時代末期に、奥州藤原氏が白河の関から陸奥湾までの道に里程標を立てたのが最初と言われている。室町時代の一休(または一休に近しい遊女・地獄太夫)が「門松は冥土の旅の一里塚 目出度くもあり目出度くもなし」との歌を詠んでいる。 一里塚が全国的に整備されるようになったのは江戸時代である。慶長9年2月4日(グレゴリオ暦1604年3月4日)、徳川家康が子の徳川秀忠に命じ、金山奉行の大久保長安が総監督となって設置したのが始まりである。江戸幕府は江戸の日本橋を起点として全国の各街道の1里(約4 km)ごとに一里塚を設置するよう指令を出し、長安の指揮の元に一里塚の設置が行われ、10年ほどで完了した。一里塚の大きさは5間(約9 m)四方、高さ1丈(約1.7 m)に土を盛り上げてつくられ、一里塚の上には榎などの木が植えられ、木陰で旅人が休息を取れるように配慮されていた。また、植えられた樹木は築いた塚の崩壊を根で防ぐ役割も持つ。 一里塚の本来の姿は街道の両側に対で設置されるものである。ただし現存する一里塚の多くは道の片側にのみ存在している事が多い。街道を挟んで一対で現存する一里塚には国の史跡に指定されているものもある。また、都道府県や市町村の史跡に指定されている一里塚や、未指定であっても地域住民の崇敬の対象として守られている塚やその跡地も多い。.

新しい!!: 五街道と一里塚 · 続きを見る »

幸手市

幸手市(さってし)は、埼玉県東部にある人口約5万人の市である。.

新しい!!: 五街道と幸手市 · 続きを見る »

享保

享保(きょうほう、きょうほ)は日本の元号の一つ。正徳の後、元文の前。1716年から1736年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇、桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.

新しい!!: 五街道と享保 · 続きを見る »

京街道 (大坂街道)

大坂街道(おおさかかいどう)は、近世日本の街道である。京街道(きょうかいどう)とも呼ばれた。大坂(大阪市)から京(京都市)を結んでいた。.

新しい!!: 五街道と京街道 (大坂街道) · 続きを見る »

五稜郭

テレオ空中写真(1976年) 国土航空写真 五稜郭(ごりょうかく)は、江戸時代末期に江戸幕府により蝦夷地の箱館(現在の北海道函館市)郊外に建造された稜堡式の城郭である。同時期に築城された長野県佐久市の龍岡城も稜堡式城郭であり「五稜郭」と呼ばれるが、単に「五稜郭」といえば函館の城郭とする場合も多い。 予算書時点から五稜郭の名称は用いられていたが、築造中は、亀田役所土塁(かめだやくしょどるい)または亀田御役所土塁(かめだおんやくしょどるい)とも呼ばれた。元は湿地でネコヤナギが多く生えていた土地であることから、柳野城(やなぎのじょう)の別名を持つ。 五稜郭は箱館開港時に函館山の麓に置かれた箱館奉行所の移転先として築造された。しかし、1866年(慶応2年)の完成からわずか2年後に幕府が崩壊、短期間箱館府が使用した後、箱館戦争で旧幕府軍に占領され、その本拠となった。明治に入ると郭内の建物は1棟を除いて解体され、陸軍の練兵場として使用された。その後、1914年(大正3年)から五稜郭公園として一般開放され、以来、函館市民の憩いの場とともに函館を代表する観光地となっている。 国の特別史跡に指定され、「五稜郭と箱館戦争の遺構」として北海道遺産に選定されている。なお五稜郭は文化庁所管の国有財産であり、函館市が貸与を受け、函館市住宅都市施設公社(指定管理者)が管理している。.

新しい!!: 五街道と五稜郭 · 続きを見る »

今市宿

今市宿.

新しい!!: 五街道と今市宿 · 続きを見る »

伊勢参宮街道

伊勢参宮街道(いせさんぐうかいどう)は、日本の各方面から伊勢神宮への参拝道として整備された街道のことである。伊勢街道・伊勢本街道・参宮街道と呼ばれる。.

新しい!!: 五街道と伊勢参宮街道 · 続きを見る »

伊勢路 (熊野古道)

野古道の地図図中の青い道が伊勢路 熊野古道の伊勢路(いせじ)とは、伊勢国・伊勢神宮から、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へ通じる参詣道であり、熊野参詣道のひとつである。伊勢神宮から熊野速玉大社までの総距離は約170km浅井貴司・小坂亮太・福永保典・井上喜博"「次の一歩」 高まる機運 2014みえ回顧 ② 熊野古道 世界遺産10周年"中日新聞2014年12月24日付朝刊、三重版10ページ。 国の史跡「熊野参詣道」(2000年〈平成12年〉11月2日指定)の一部として、2002年(平成14年)12月19日に追加指定を受けている。2004年(平成16年)7月に登録されたユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部pp.39,75。世界遺産登録区間は断続的に計32.9km。 古くから、伊勢神宮と熊野三山を結ぶ交通路で『東海道中膝栗毛』にも登場し、「伊勢へ七度、熊野へ三度」と呼ばれる信仰の路であった。紀伊路などの和歌山県側の古道が貴族にも多く利用されてきたのに対して、伊勢路は主に庶民が利用する道として歴史を重ねてきた。.

新しい!!: 五街道と伊勢路 (熊野古道) · 続きを見る »

会津

会津(あいづ)は、福島県の西部に当たり、西に越後山脈と東に奥羽山脈に挟まれた日本海側内陸の地域である。福島県は、奥羽山脈と阿武隈高地によって区切られており、西から順に「会津」と「中通り」と「浜通り」の三地域に区分されている。 なお、イントネーションについて、福島県内では、「あいづ」と、いにアクセントを置く。.

新しい!!: 五街道と会津 · 続きを見る »

会津西街道

大内峠と大内宿の間にある一里塚 大内宿と氷玉峠の間にある大内峠、戊辰戦争で激戦地となった。会津側から望む。 会津西街道(あいづにしかいどう)は、江戸時代に会津藩主・保科正之によって整備された、会津の若松城下から下野の今市に至る街道。会津からは下野街道(しもつけかいどう)とも、日光街道とも、江戸街道とも、南山通りとも呼ばれた。.

新しい!!: 五街道と会津西街道 · 続きを見る »

伝馬

伝馬(てんま/でんば)は、古代から近世までの日本に見られた使者や物資を馬で運ぶ交通制度、またはそれに使われる馬である。伝馬制(てんませい)、駅伝制(えきでんせい)とも呼ばれる。.

新しい!!: 五街道と伝馬 · 続きを見る »

佐屋街道

佐屋街道・道標(名古屋市) 佐屋街道(さやかいどう)は、江戸時代に東海道宮宿(熱田宿)(愛知県名古屋市)と桑名宿(三重県桑名市)を、陸路万場宿、佐屋宿の陸路を経て、佐屋から桑名宿への水路三里の渡しによって結んでいた。佐屋路(さやじ)、東海道佐屋廻りとも呼ばれる。本記事は、以下表記を「佐屋路」に統一する。.

新しい!!: 五街道と佐屋街道 · 続きを見る »

佐倉街道

佐倉街道(さくらかいどう)とは、江戸時代の脇街道の一つで、佐倉城を終点とするもの。大別して2つのものが存在する。江戸時代史では、その2つの佐倉街道を区別するために、便宜上、水戸街道新宿の追分~佐倉を結ぶ佐倉街道を「水戸佐倉道」、寒川湊(現在の千葉港)と佐倉を結ぶ佐倉街道を「千葉佐倉道」と呼び分ける場合がある。.

新しい!!: 五街道と佐倉街道 · 続きを見る »

佐渡国

佐渡国(さどのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

新しい!!: 五街道と佐渡国 · 続きを見る »

御油宿

御油宿(ごゆしゅく、ごゆじゅく)は、東海道五十三次の35番目の宿場である。現在の愛知県豊川市御油町に所在する。街道の面影を残す松並木(御油の松並木)が美しいことから観光地になっている。.

新しい!!: 五街道と御油宿 · 続きを見る »

徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

新しい!!: 五街道と徳川家康 · 続きを見る »

徳川家光

徳川 家光(とくがわ いえみつ)は、江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年 - 1651年)。2代将軍秀忠の次男(嫡男)である。母は浅井長政の娘で織田信長の姪にあたる江。乳母は春日局(福)、乳兄弟に稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利がいる。 15人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は家光のみである。.

新しい!!: 五街道と徳川家光 · 続きを見る »

徳川御三家

徳川御三家(とくがわごさんけ)は、江戸時代において徳川氏のうち徳川将軍家に次ぐ地位を持っていた3家のこと。単に御三家(ごさんけ)とも呼ばれる。.

新しい!!: 五街道と徳川御三家 · 続きを見る »

徳川秀忠

徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍。.

新しい!!: 五街道と徳川秀忠 · 続きを見る »

徒歩旅行

徒歩旅行(とほりょこう)とは、徒歩で移動する旅行をいう。類義語として、「歩き旅」、「ウォーキング」及び「ハイキング」などがある。.

新しい!!: 五街道と徒歩旅行 · 続きを見る »

土井利勝

土井 利勝(どい としかつ)は、安土桃山時代の武将・政治家。江戸時代前期の譜代大名であり、江戸幕府の老中・大老である。下総国小見川藩主、同佐倉藩主、同古河藩初代藩主。土井家宗家初代。徳川秀忠政権における老中として、絶大な権勢を誇った『江戸お留守居役の日記』 42ページ。その事績や資料については原念斎が編纂した『賢相野史』に詳しい。.

新しい!!: 五街道と土井利勝 · 続きを見る »

土佐国

土佐国(とさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

新しい!!: 五街道と土佐国 · 続きを見る »

土佐街道

土佐街道(とさかいどう)とは、土佐国(現在の高知県)に通じる道の総称。.

新しい!!: 五街道と土佐街道 · 続きを見る »

地方凡例録

地方凡例録(じかたはんれいろく)は、江戸時代後期に高崎藩主松平輝和の命令を受けた郡奉行大石久敬によって著された地方書である。.

新しい!!: 五街道と地方凡例録 · 続きを見る »

北国街道 (信越)

北国街道(ほっこくかいどう)は日本の街道である。江戸幕府によって整備された脇街道で、北国脇往還(ほっこくわきおうかん)、善光寺街道(ぜんこうじかいどう)などとも呼ばれる。 追分で中山道と分かれ、善光寺を経て直江津で北陸道に合流する。.

新しい!!: 五街道と北国街道 (信越) · 続きを見る »

北陸道

北陸道 北陸道(ほくりくどう、ほくろくどう、くぬがのみち)は、五畿七道の一つ。本州日本海側の中部の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から近世)を指す。.

新しい!!: 五街道と北陸道 · 続きを見る »

善光寺

善光寺(ぜんこうじ)は、長野県長野市元善町にある無宗派の単立寺院で、住職は「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務める。日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来を本尊とし、善光寺聖の勧進や出開帳などによって、江戸時代末には、「一生に一度は善光寺詣り」と言われるようになった。今日では御開帳が行われる丑年と未年に、より多くの参拝者が訪れる。.

新しい!!: 五街道と善光寺 · 続きを見る »

品川宿

品川宿(しながわしゅく、しながわじゅく)は、東海道五十三次の宿場の一つ。東海道の第一宿であり、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれた。.

新しい!!: 五街道と品川宿 · 続きを見る »

内藤新宿

内藤新宿(ないとうしんじゅく)は、江戸時代に設けられた宿場の一つ。甲州街道に存在した宿場のうち、江戸日本橋から数えて最初の宿場であり、宿場内の新宿追分から甲州街道と分岐している成木街道(青梅街道)の起点でもあった。現在の住所では、東京都新宿区新宿一丁目から二丁目・三丁目の一帯にあたる。 東海道の品川宿・中山道の板橋宿・日光街道(奥州街道)の千住宿と並んで、江戸四宿と呼ばれた。地名から四谷新宿と呼ばれることもある。.

新しい!!: 五街道と内藤新宿 · 続きを見る »

出羽国

出羽国(でわのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。.

新しい!!: 五街道と出羽国 · 続きを見る »

函館市

函館市(はこだてし)は、北海道にある市である。渡島総合振興局所在地。札幌市、旭川市に次ぐ北海道第三の人口約26万人を有する中核市。.

新しい!!: 五街道と函館市 · 続きを見る »

入鉄炮出女

入鉄炮出女(いりてっぽうとでおんな)は、江戸時代における交通政策の1つ。入り鉄砲出女、入り鉄炮出女とも表記される。.

新しい!!: 五街道と入鉄炮出女 · 続きを見る »

八幡宿 (下総国)

八幡宿(やわたしゅく)とは、佐倉街道(成田街道)のうち水戸街道からの分岐である新宿から数えて3番目の宿場である(ただし、市川宿を数えずに新宿の次とする説もある)。 現在の千葉県市川市八幡。新宿から八幡宿までは五街道の1つである日光街道の支線として道中奉行の支配下に置かれていた(水戸街道は千住宿で日光街道から分岐し、次の新宿で佐倉街道と分岐している)。新宿からは2里6町、船橋宿からは1里15町、江戸日本橋からは5里33町。 江戸から近く、参勤交代における宿泊地として認識されていなかった(本陣・脇本陣ともに未設置)上に、関所と江戸川の渡し場のある市川宿が近くにあったこと、更に南の今井の渡しを経由してあるいは海路を経て行徳から船橋宿に抜けるルートも認められていたために宿場町としての発展は近隣よりも及ばなかったという。.

新しい!!: 五街道と八幡宿 (下総国) · 続きを見る »

八王子市

八王子市(はちおうじし)は、東京都の多摩地域南部にある市である。東京都唯一の中核市に指定されている。.

新しい!!: 五街道と八王子市 · 続きを見る »

元禄

元禄(げんろく、旧字体: 元祿)は日本の元号の一つ。貞享の後、宝永の前。1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.

新しい!!: 五街道と元禄 · 続きを見る »

勘定奉行

勘定奉行(かんじょうぶぎょう)は、江戸幕府の職名の一つ。勘定方の最高責任者で財政や幕府直轄領の支配などを司る。寺社奉行・町奉行とともに三奉行の一つで、共に評定所を構成した。元禄年間までは勘定頭(かんじょうがしら)とも称した。評定所においては、関八州内江戸府外の訴訟について担当した。定員は約4人で役高は3000石。老中の下にあり、郡代・代官・蔵奉行などを支配した。1698年以降は、うち1人が大目付とともに道中奉行を兼務した。1721年には財政・民政を主に扱う勝手方勘定奉行と訴訟関連を扱う公事方勘定奉行とに分かれた。勝手方と公事方の職務は全く別のものであり、事実上名称のみが共通している状態であった。.

新しい!!: 五街道と勘定奉行 · 続きを見る »

国道119号

日光市相生町付近 宇都宮市石那田町付近 宇都宮市西2丁目付近 終点の西原交差点 国道119号(こくどう119ごう)は、栃木県日光市から同県宇都宮市に至る一般国道である。.

新しい!!: 五街道と国道119号 · 続きを見る »

国道142号

終点の大社通り交差点より少し東に進んだところから諏訪大社下社秋宮方面を見る 終点の大社通り交差点 国道142号(こくどう142ごう)は、長野県北佐久郡軽井沢町から同県諏訪郡下諏訪町に至る一般国道である。.

新しい!!: 五街道と国道142号 · 続きを見る »

国道17号

日本橋 日本国道路元標 国道17号(こくどう17ごう)は、東京都中央区から新潟県長岡市を経由して同県新潟市へ至る一般国道である。.

新しい!!: 五街道と国道17号 · 続きを見る »

国道18号

国道18号(こくどう18ごう)は、群馬県高崎市から新潟県上越市に至る一般国道である。.

新しい!!: 五街道と国道18号 · 続きを見る »

国道19号

浪市薬師町 国道19号(こくどう19ごう)は、愛知県名古屋市から長野県長野市へ至る一般国道である。この内、岐阜県恵那市から長野県塩尻市にかけて、旧中山道に相当する。高速道路では愛知県 - 岐阜県中津川市にかけて中央自動車道と、長野県内では塩尻市 - 安曇野市で長野自動車道と、鉄道では名古屋市 - 長野県塩尻市にかけて中央本線と、塩尻市 - 安曇野市で篠ノ井線と並走する。.

新しい!!: 五街道と国道19号 · 続きを見る »

国道1号

国道1号(こくどう1ごう)は、東京都中央区から大阪府大阪市北区へ至る一般国道である。ルートは旧東海道をほぼ踏襲した現代の東海道となっている。.

新しい!!: 五街道と国道1号 · 続きを見る »

国道20号

国道20号(こくどう20ごう)は、東京都中央区から千代田区を経由して長野県塩尻市へ至る一般国道である。.

新しい!!: 五街道と国道20号 · 続きを見る »

国道21号

国道21号(こくどう21ごう)は、岐阜県瑞浪市から滋賀県米原市へ至る一般国道である。.

新しい!!: 五街道と国道21号 · 続きを見る »

国道4号

国道4号(こくどう4ごう)は、東京都中央区から栃木県宇都宮市、福島県福島市、宮城県仙台市、岩手県盛岡市を経て、青森県青森市へ至る一般国道である。.

新しい!!: 五街道と国道4号 · 続きを見る »

国道8号

| 国道8号(こくどう8ごう)は、新潟県新潟市から滋賀県栗東市を経由して京都府京都市へ至る一般国道である。 新潟市から日本海沿いに北陸地方を縦断して滋賀・京都に至る幹線国道であり、かつての北陸道を継承するものである。新潟県 - 滋賀県にかけて北陸自動車道と、滋賀県 - 京都府にかけて名神高速道路と並走する。現在、新潟市内の新潟バイパス区間の交通量は、日本ではトップクラスとなっている。.

新しい!!: 五街道と国道8号 · 続きを見る »

倉賀野宿

倉賀野宿(くらがのしゅく)とは、中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて12番目の宿場である。日光例幣使街道が分岐している。現在の群馬県高崎市倉賀野町に相当する。.

新しい!!: 五街道と倉賀野宿 · 続きを見る »

矢倉沢往還

倉沢往還(やぐらざわおうかん)は、江戸時代に整備された街道で、江戸赤坂門から相模国、足柄峠を経て駿河国沼津宿を結び、東海道の脇往還としても機能していた。 江戸から大山への参詣道として使われ「大山街道」、「大山道」、厚木街道などとも呼ばれた。 現在は、ほぼこの旧往還に沿って青山通り・国道246号が通っている。.

新しい!!: 五街道と矢倉沢往還 · 続きを見る »

秩父市

秩父市(ちちぶし)は、埼玉県の北西部の秩父地方にある人口約6.2万人の市。面積は約578km2で、埼玉県内では最も広い市町村でもある。.

新しい!!: 五街道と秩父市 · 続きを見る »

秩父往還

秩父往還(ちちぶおうかん)とは、中山道熊谷宿がある石原村(現、熊谷市)を起点として荒川渓谷沿いを通り、秩父大宮(秩父市)のある秩父盆地を横断し、雁坂峠を越えて甲州に入り甲府に至る街道である。秩父往還道、秩父甲州往還とも呼ばれ、甲州側からは雁坂口、秩父路、秩父側からは甲州路、信玄路などの呼称が見られる。.

新しい!!: 五街道と秩父往還 · 続きを見る »

米沢城

米沢城(よねざわじょう)は、山形県米沢市丸の内(出羽国置賜郡)にあった中世から近世にかけての日本の城(平城)である。江戸時代は米沢藩上杉氏の藩庁および、二の丸に米沢新田藩の藩庁が置かれていた。2017年には続日本100名城に選定された。.

新しい!!: 五街道と米沢城 · 続きを見る »

米沢街道

代において、福島県会津若松市と山形県米沢市を結ぶ国道121号 米沢街道(よねざわかいどう)は、陸奥国会津郡若松(現在の福島県会津若松市)と出羽国置賜郡米沢(現在の山形県米沢市)を結ぶ街道である会津若松市史研究会 (2006), p.4会津若松市史研究会 (2006), pp.71-72.

新しい!!: 五街道と米沢街道 · 続きを見る »

美濃路

美濃路(みのじ)は江戸時代に東海道・宮宿と中山道・垂井宿とを結んだ脇往還(脇街道)である。.

新しい!!: 五街道と美濃路 · 続きを見る »

羽州街道

name.

新しい!!: 五街道と羽州街道 · 続きを見る »

甲州街道

州街道(こうしゅうかいどう)は、甲斐国(山梨県)へつながる道。江戸幕府によって整備された五街道のひとつ。.

新しい!!: 五街道と甲州街道 · 続きを見る »

甲府市

府市(こうふし)は、山梨県の中部に位置する同県の県庁所在地。 市域は山梨県の中央を南北に三日月形に縦断しており、市街中心部は甲府盆地の中央北寄りに位置する。山梨県は首都圏整備法上の首都圏に属する県であり、その位置関係から東の関東地方への志向性が強い。 甲府という名称は、1519年(永正16年)に甲斐国の守護大名武田信虎が、居館を石和(現在の笛吹市石和町)、次いで川田(現在の甲府市川田町)から躑躅ヶ崎館(現在の武田神社・甲府市古府中町)へ移した際に、甲斐国の府中という意味から甲府と命名したことに始まるものである(律令制に基づく国衙が置かれたわけではない)。戦国時代には大名領国を形成した武田氏の本拠地となり、武田氏滅亡後は徳川氏や豊臣系大名浅野氏の甲斐国経営の中心となり、国中地域や甲斐国の政治的中心地と位置付けられる。江戸時代には江戸の西方の守りの要として重要視され、また甲州街道の宿場町としても盛えた。近年では、宝石研磨産業が盛んである。 2000年(平成12年)11月1日に特例市に指定され、現在は施行時特例市として2019年4月の中核市移行を目指している。2016年7月現在、全国の県庁所在地の中で人口が最も少ない。.

新しい!!: 五街道と甲府市 · 続きを見る »

熊谷宿

accessdate.

新しい!!: 五街道と熊谷宿 · 続きを見る »

熱田区

熱田区(あつたく)は、名古屋市を構成する16区のうちの1つである。古くは東海道五十三次の宮宿の宿場町、熱田神宮の鳥居前町として栄えた場所である。.

新しい!!: 五街道と熱田区 · 続きを見る »

白河市

白河市(しらかわし)は、福島県中通り南部に位置する。奥州三関の一つ白河の関が置かれ、みちのくの玄関口として知られる。.

新しい!!: 五街道と白河市 · 続きを見る »

鎌倉街道

鎌倉街道(かまくらかいどう)は、各地より鎌倉に至る道路の総称。特に鎌倉時代に鎌倉政庁が在った鎌倉と各地を結んだ古道については鎌倉往還(かまくらおうかん)や鎌倉道(かまくらみち)とも呼ばれ、また鎌倉海道(かまくらかいどう)とも書く。一方で、現況の道路で「鎌倉街道」や「かまくらみち」と通称される路線も存在する。.

新しい!!: 五街道と鎌倉街道 · 続きを見る »

道中奉行

道中奉行(どうちゅうぶぎょう)は、江戸幕府における職名のひとつ。一時期設置され上水などを統括していた道奉行とは異なる役職である。.

新しい!!: 五街道と道中奉行 · 続きを見る »

街道

一般国道と旧街道が並行している区間の写真。写真は国道166号(左)の竹内峠(竹内街道:右)。日本全国にこのような整備された新道と旧街道が並行する区間が現存する。 街道(かいどう)とは、ある場所と場所を陸上でつなぐ交通路・道路のことである。つながる場所としては街・集落であることが圧倒的に多いが、一方が人里離れた神社・寺院であることも多い。.

新しい!!: 五街道と街道 · 続きを見る »

街道てくてく旅

街道てくてく旅(かいどうてくてくたび)とは、NHKBShiで2005年11月に放送開始された旅番組である。正式な番組名はシリーズによって異なる。海外でもNHKワールドを通じて放送された。街道てくてく旅はシリーズ化されており、旅人と旅程を変えたシリーズが2010年まで断続的にNHK-BSで放送された(総合テレビでも1週間のハイライトを放映している)。.

新しい!!: 五街道と街道てくてく旅 · 続きを見る »

街道をゆく

『街道をゆく』(かいどうをゆく)は、司馬遼太郎による、読み切りでの紀行集。単行本・文庫版いずれも、朝日新聞出版で新版刊行。1971年(昭和46年)作者47歳の時に「週刊朝日」で連載開始。1996年(平成8年)2月に急逝したことで、43冊目の『濃尾参州記』で絶筆(未完)となった。.

新しい!!: 五街道と街道をゆく · 続きを見る »

飯田街道

飯田街道(いいだかいどう)と呼ばれる街道は諸説あり、現在も、歴史的にも複数存在する。.

新しい!!: 五街道と飯田街道 · 続きを見る »

西国街道

西国街道の指標 西国街道(さいごく〈さいこく・せいごく・せいこく〉かいどう)は、江戸時代における街道の1つであり、近世山陽道の別名である。また、西国路(さいごく〈さいこく・せいごく・せいこく〉じ)、中国街道(ちゅうごくかいどう)、中国路(ちゅうごくじ)梶本 (2003)、2頁大坂 - 西宮を結ぶ街道(浜街道)も中国街道・中国路とも呼ばれる。、山陽路(さんようじ)などとも呼ばれる。 京都から下関、あるいは九州の太宰府までの経路で長崎までともされる。、律令時代に大路として整備された「山陽道」とほぼ一致する関西歴史散歩の会 (2005)、7-8頁兵庫県教育委員会 (2006)、263頁。 また、狭義の西国街道として、同街道のうち京都 - 西宮までの区間関西歴史散歩の会 (2005)、5頁(山崎通)、あるいは同じく山陽道として西宮 - 下関の区間を指すこともある竹内 (2006)、176頁。.

新しい!!: 五街道と西国街道 · 続きを見る »

見附宿

歌川広重『東海道五十三次・見附』 見附宿(みつけしゅく、みつけじゅく) は、東海道五十三次の28番目の宿場である。.

新しい!!: 五街道と見附宿 · 続きを見る »

高崎宿

崎宿(たかさきしゅく)とは、中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて13番目の宿場。 また、高崎宿から三国街道が分岐しており、その起点の宿場である。現在の群馬県高崎市にあたる。.

新しい!!: 五街道と高崎宿 · 続きを見る »

高田市

市(たかだし)は、かつて新潟県西部(上越地方)に存在した市。現在の上越市南部。市制施行前は中頚城郡に属していた。.

新しい!!: 五街道と高田市 · 続きを見る »

高野街道

三日市宿、河内長野-三日市間) 高野街道(こうやかいどう)とは、かつて京・大坂から高野山への参詣道として用いられた街道で、主に大阪府河内長野市から和歌山県橋本市の間を指す。 また、現在の国道371号旧道のうち、大阪府河内長野市から和歌山県橋本市までの区間の呼称にもなっている。.

新しい!!: 五街道と高野街道 · 続きを見る »

讃岐国

讃岐国(さぬきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

新しい!!: 五街道と讃岐国 · 続きを見る »

讃岐街道

讃岐街道(さぬきかいどう)とは讃岐国(現在の香川県)に通じる道の総称。.

新しい!!: 五街道と讃岐街道 · 続きを見る »

越後国

越後国(えちごのくに)は、かつて日本の行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

新しい!!: 五街道と越後国 · 続きを見る »

鹿児島城

鹿児島城の航空写真(1974年撮影・国土航空写真) 石垣と水堀 鹿児島城(かごしまじょう)は、薩摩国鹿児島城山麓(現在の鹿児島県鹿児島市城山町)に築かれた江戸時代の日本の城である。別名「鶴丸城(つるまるじょう)」。鹿児島では一般的に古くから別名の鶴丸城で呼ばれている。別名の由来は、屋形の形状が鶴が羽を広げたようであったことによる。 1601年(慶長6年)に島津忠恒(家久)により築城され、以後廃藩置県まで島津氏の居城であった。城跡は鹿児島県史跡に指定されている。.

新しい!!: 五街道と鹿児島城 · 続きを見る »

追分宿

追分宿 追分宿(おいわけしゅく)とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて二十番目の宿場。 現在の長野県北佐久郡軽井沢町追分にあたる。北国街道(北陸道)との分岐点でもあり「追分」の名はこれに由来する。元禄時代には旅籠屋71軒、茶屋18軒、商店28軒を数え、飯盛女も最盛期には200~270人もいたとされるほど栄えた。また、民謡に多く見られる追分節の発祥の地である。旧脇本陣の油屋は、堀辰雄や立原道造、室生犀星らに愛され、堀辰雄の小説『菜穂子』、『ふるさとびと』に登場する牡丹屋という旅館はこの油屋がモデルである。.

新しい!!: 五街道と追分宿 · 続きを見る »

近江国

近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

新しい!!: 五街道と近江国 · 続きを見る »

鈴鹿峠

鈴鹿峠(すずかとうげ)は、三重県亀山市と滋賀県甲賀市の境に位置する東海道(国道1号)の峠。標高は357m。.

新しい!!: 五街道と鈴鹿峠 · 続きを見る »

船橋市

船橋市全域の衛星写真 船橋市(ふなばしし)は千葉県北西部の葛南地域に位置する市。 2003年(平成15年)4月1日に中核市へ移行しており、2012年(平成24年)4月1日に熊本市の政令指定都市への移行以後は中核市最大の人口を擁する。 また、千葉市に次いで千葉県では人口第2位である。東京都特別区部への通勤率は35.7%(平成22年国勢調査)。.

新しい!!: 五街道と船橋市 · 続きを見る »

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.

新しい!!: 五街道と関ヶ原の戦い · 続きを見る »

関所

関所の冠木門様式の門(石部宿場の里にて) 関所(せきしょ)とは、交通の要所に設置された、徴税や検問のための施設である。単に関(せき)とも。陸路(街道)上に設置された関所は「道路関」、海路に設置された関所は「海路関」とも呼ばれる。陸路では、峠や河岸に設置されることが多い。.

新しい!!: 五街道と関所 · 続きを見る »

薩摩街道

白銀坂(大口筋、鹿児島県姶良市、国の史跡) 高岡町、国の天然記念物) 山鹿宿(出水筋、熊本県山鹿市) 薩摩街道(さつまかいどう)は、江戸時代に整備された脇往還のひとつである。鹿児島街道(かごしまかいどう)とも呼称される。 筑前国山家宿(現福岡県筑紫野市)を始点として、薩摩国鹿児島(現鹿児島県鹿児島市)に至る路線(薩摩藩領では「出水筋(西目筋・小倉筋)」と呼称)のほかに、「大口筋」「高岡筋(東目筋・日向筋)」(現代の国道10号・主要地方道高鍋高岡線(宮崎県の県道24号)などに相当 )などが存在する。 現代においては、江戸時代の薩摩街道に沿って走る国道3号や一般県道徳重横井鹿児島線(鹿児島県の県道206号)などの通称としても用いられる。鹿児島県道206号は妙円寺詣りのルートとして、現在でも妙円寺詣りの時期になると鶴丸城などより、鹿児島県日置市伊集院町徳重の徳重神社に詣でに歩く人も多い。.

新しい!!: 五街道と薩摩街道 · 続きを見る »

藤岡市

藤岡市(ふじおかし)は、群馬県の南西部に位置する市。.

新しい!!: 五街道と藤岡市 · 続きを見る »

脇往還

脇往還(わきおうかん)は、江戸時代の五街道以外の主要な街道をいう。脇街道(わきかいどう)、また単に脇道(わきみち)ともいった。各藩の大名に管轄を任せていたため五街道ほど整備は行き届かなかったが、諸藩の経済や文化の発展に大きく寄与した。のちに五街道とともに主要幹線道路として幕府から重要視されたため江戸幕府直轄となり、万治2年(1659年)に道中奉行の管轄にあった。宿駅・一里塚・並木などが整備された所も多い。脇往還の全長は約6500キロメートル (km) あったとされ、小さな脇街道も含めると1万2000 kmにも達する道路網を形成した。.

新しい!!: 五街道と脇往還 · 続きを見る »

金刀比羅宮

金刀比羅宮(ことひらぐう)は、香川県仲多度郡琴平町の象頭山中腹に鎮座する神社である。こんぴらさんと呼ばれて親しまれており、金毘羅宮、まれに琴平宮とも書かれる。.

新しい!!: 五街道と金刀比羅宮 · 続きを見る »

金毘羅街道

金毘羅街道(こんぴらかいどう)とは、各地と金刀比羅宮(香川県仲多度郡琴平町)を結ぶ参詣道として整備された街道。複数の経路が存在し、地域によっては金毘羅往来(こんぴらおうらい)とも呼ばれる。 中でも特に利用者が多かった高松街道、丸亀街道、多度津街道、阿波街道、伊予・土佐街道は金毘羅五街道(こんぴらごかいどう)と通称される。これら主要な街道以外にも金毘羅参りに利用されていた街道は金毘羅街道・金毘羅往来と呼ばれていた。本項目各節では、この「金毘羅五街道」および同街道群に歴史上密接に関連付けられている往来・街道について解説する。.

新しい!!: 五街道と金毘羅街道 · 続きを見る »

金沢市

金沢市(かなざわし)は、石川県のほぼ中央に位置する、石川県の県庁所在地。旧石川郡および河北郡。1996年4月1日、中核市に指定された。.

新しい!!: 五街道と金沢市 · 続きを見る »

長崎市

佐山から望む長崎市街地。長崎市の夜景は世界新三大夜景・日本三大夜景にも数えられている。 長崎市(ながさきし)は、九州の北西部に位置する都市で、長崎県の県庁所在地である。国から中核市に指定されている。 古くから、外国への玄関口として発展してきた港湾都市である。江戸時代は国内唯一の貿易港出島を持ち、ヨーロッパ(主にオランダ)から多くの文化が入ってきた。外国からの文化流入の影響や、坂の多い街並みなどから、日本国内の他都市とは違った景観を保持している。 人口は長崎県で最大である。市域面積の13.1%である市街地に人口の約78%が住み、市街地の人口密度は7,900人/km2となっている。人口密度が高いため山間部にも建物が密集する。.

新しい!!: 五街道と長崎市 · 続きを見る »

長崎街道

元禄頃の長崎街道 (ケンペル『日本誌』、ロンドン、1727年刊) 出島商館長一行 (ケンペル『日本誌』) 常盤橋 黒崎地区) 長崎県の日見峠 後世になり塩田宿入口に設置された碑 佐賀宿西側。街道はのこぎり型に細かく折れ曲がっており、わざと見通しを悪くして佐賀城下の防衛を行ったと言われている。 長崎街道(ながさきかいどう)は、江戸時代に整備された脇街道の一つで、豊前国小倉(福岡県北九州市小倉北区)の常盤橋を始点として、肥前国長崎(長崎県長崎市)に至る路線である。57里(約223.8km)の道程で、途中に25の宿場が置かれた。 また現代においては、江戸時代の長崎街道に沿って走る国道200号や国道3号および国道34号の通称としても用いられる。.

新しい!!: 五街道と長崎街道 · 続きを見る »

若松城

若松城(わかまつじょう)は、福島県会津若松市追手町にあった日本の城である。 地元では鶴ヶ城(つるがじょう)と言うが、同名の城が他にあるため、地元以外では会津若松城と呼ばれることが多い。文献では旧称である黒川城(くろかわじょう)、または単に会津城とされることもある。国の史跡としては、若松城跡(わかまつじょうあと)の名称で指定されている。.

新しい!!: 五街道と若松城 · 続きを見る »

陸奥国

奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.

新しい!!: 五街道と陸奥国 · 続きを見る »

東金市

東金市(とうがねし)は、九十九里平野にある、千葉県の市である。人口は約6万1千人。千葉市への通勤率は13.7%(平成22年国勢調査)。.

新しい!!: 五街道と東金市 · 続きを見る »

東金御成街道

東金御成街道(とうがねおなりかいどう)は、九十九里方面での鷹狩のために徳川家康が土井利勝に命じて、慶長19年正月から数ヶ月間かけて元和元年11月に完成した道路。なお、短期間で作られたとするのは明らかな誤りであることが証明されている。船橋~東金間約37キロメートルをほぼ一直線に結んでいた。なお東金市田間から山武市小松までの部分は砂押街道と呼ばれる。.

新しい!!: 五街道と東金御成街道 · 続きを見る »

東海道

東海道(とうかいどう、うみつみち)は、五畿七道の一つ。本州太平洋側の中部の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から近世)を指す。.

新しい!!: 五街道と東海道 · 続きを見る »

松戸宿

松戸宿の現代地図に旧水戸街道の道筋を重ねた地図。 松戸宿(まつどしゅく)は、水戸街道千住宿から2つ目の宿場町。.

新しい!!: 五街道と松戸宿 · 続きを見る »

板橋宿

子が馬のための草鞋を取り替えている。 板橋宿(いたばし-しゅく)は、日本の近世にあたる江戸時代に整備され、栄えていた宿場町。 中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて1番目の宿場名所絵では起点と終点も数に入れるため、表記上の数がずれる。したがって、浦和宿は「第二」の図。(武蔵国のうち、第1の宿現在では、東京都に属する唯一の宿。)。 同時に、川越街道(川越・児玉往還)の起点でもある。 所在地は、江戸期には東海道武蔵国豊島郡板橋郷下板橋村宝亀2年(西暦771年)10月27日以前は東山道武蔵国豊島郡広岡郷の一部。以後、東海道に属す。平安時代末期以降は板橋郷の一部。。 現在の住所では東京都板橋区本町、および、仲宿、板橋1丁目、3丁目にあたる。.

新しい!!: 五街道と板橋宿 · 続きを見る »

正保

正保(しょうほう)は日本の元号の一つ。寛永の後、慶安の前。1645年から1648年までの期間を指す。この時代の天皇は後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.

新しい!!: 五街道と正保 · 続きを見る »

水戸市

水戸市(みとし)は、茨城県の中部に位置する県庁所在地で、施行時特例市である。.

新しい!!: 五街道と水戸市 · 続きを見る »

水戸街道

水戸街道(みとかいどう)は、江戸時代に定められた日本の幹線道路で、五街道に準ずる脇街道の一つである。.

新しい!!: 五街道と水戸街道 · 続きを見る »

江戸

江戸図屏風に見る、初期の江戸 弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図 江戸(えど) は、東京の旧称であり、1603年から1867年まで江戸幕府が置かれていた都市である。 現在の東京都区部に位置し、その前身及び原型に当たる。.

新しい!!: 五街道と江戸 · 続きを見る »

江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

新しい!!: 五街道と江戸幕府 · 続きを見る »

江戸四宿

江戸四宿(えどししゅく)、または単に四宿とは、江戸時代に五街道の各々について江戸・日本橋()に最も近い宿場町の総称で、五街道の起点である日本橋から2里(約8 km)以内のところにあった。江戸と地方を結ぶ各街道の最初の宿場町であり、江戸の出入り口として重要な役割を担い、人・物資・情報・文化の集散地として機能し、周辺地域と異なった街並みや風格をもっていた末吉恵・菊地俊夫,首都大学東京 『観光科学研究(2)』.

新しい!!: 五街道と江戸四宿 · 続きを見る »

江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

新しい!!: 五街道と江戸時代 · 続きを見る »

河出書房新社

株式会社河出書房新社(かわでしょぼうしんしゃ)は、日本の出版社である。本社は東京都渋谷区千駄ヶ谷にある。 3代目社長の河出朋久は歌人でもあり、歌集『白葉集』1-3(短歌研究社、2004-06)がある。佐佐木幸綱、高野公彦、小野茂樹など学生歌人を社員登用していたこともある。.

新しい!!: 五街道と河出書房新社 · 続きを見る »

木之本町

木之本町(きのもとちょう)は、かつて滋賀県北東部に存在した町。 2010年(平成22年)1月1日、東浅井郡と伊香郡の他全5町とともに長浜市へ編入、消滅した。.

新しい!!: 五街道と木之本町 · 続きを見る »

木曽路

木曽路(きそじ).

新しい!!: 五街道と木曽路 · 続きを見る »

本坂通

本坂通と東海道 本坂通(ほんさかどおり/ほんさかどおし)は、浜名湖の北側、本坂峠を経由して東海道見附宿と御油宿を結ぶ街道である。道程約60キロメートル。古くは東海道の本道で、二見の道と呼ばれ、中世以降、本坂峠を経由したことから本坂越、本坂道、本坂街道などと呼ばれた。 戦国時代に街道が整備され、江戸時代には東海道に付属する街道とされ、宿が置かれた。 幕末頃から姫街道の呼称が見られている。 ここでは、近世以前について説明をし、記事での表記は基本「本坂通」に統一する。近代以降については姫街道(東海道)を参照。.

新しい!!: 五街道と本坂通 · 続きを見る »

朱印状

織田信長朱印状/兵庫県立歴史博物館蔵 朱印状(しゅいんじょう)とは、日本において(花押の代わりに)朱印が押された公的文書(印判状)のことである。主に戦国時代から江戸時代にかけて戦国大名・藩主や将軍により発給された。 特に、江戸時代において将軍が公家・武家・寺社の所領を確定させる際に発給したものは、領地朱印状とも呼ばれる。.

新しい!!: 五街道と朱印状 · 続きを見る »

成田街道

千葉県道路愛称名の成田街道の始点付近を撮影(千葉県道8号船橋我孫子線との分岐点)中野木交差点(左・船橋市前原西1丁目1、右・習志野市谷津6丁目21) 御成街道)からの分岐点にある成田街道道標成田街道入口交差点(船橋市前原西1丁目16) 成田街道(なりたかいどう)は、江戸時代には水戸街道新宿(にいじゅく)から分岐して佐倉藩や成田山新勝寺に向かう街道であり、現在は千葉県道路愛称名により国道296号の船橋市前原西の中野木交差点~印旛郡酒々井町下台と、国道51号の酒々井町下台~成田市寺台の寺台インターチェンジを指し示す。ただし、この成田街道は江戸時代後期に成田山参詣が盛んになってからの愛称であり、江戸幕府の公式文書では「佐倉街道」(江戸城と譜代の大藩佐倉藩を結ぶ街道の意味)と呼称され、酒々井からは多胡藩など九十九里浜方面へ向かっており、成田山新勝寺に向かう道はその支道であった事に注意を必要とする。 このほか、水戸街道我孫子宿から分岐して利根川沿いに成田へ向かう道も同名で呼ばれた。現在は国道356号の一部となっている。.

新しい!!: 五街道と成田街道 · 続きを見る »

明和

明和(めいわ)は日本の元号の一つ。宝暦の後、安永の前。1764年から1772年までの期間、施行された。この時代の天皇は後桜町天皇、後桃園天皇。江戸幕府将軍は徳川家治。.

新しい!!: 五街道と明和 · 続きを見る »

明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

新しい!!: 五街道と明治維新 · 続きを見る »

浜名湖

浜名湖(はまなこ)は、静岡県浜松市、湖西市にまたがる湖。.

新しい!!: 五街道と浜名湖 · 続きを見る »

文化 (元号)

文化(ぶんか)は日本の元号の一つ。享和の後、文政の前。1804年から1818年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇、仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。 町人文化が顕著に発展した時期であり、後続する文'''政'''期とあわせ、化政文化という。.

新しい!!: 五街道と文化 (元号) · 続きを見る »

日光市

日光市(にっこうし)は、栃木県の北西部に位置する市。.

新しい!!: 五街道と日光市 · 続きを見る »

日光御成道

日光御成道(にっこうおなりみち)とは、江戸時代に五街道と同様整備された脇往還の一つである。中山道の本郷追分を起点として北上し岩淵宿、川口宿から岩槻宿を経て幸手宿手前の上高野で日光街道に合流する脇街道である。 日光御成道が「幕府管掌の公道として正式に組込まれた時期は不明」岩槻市(1985)595頁。。「天和2年(1682年)に御成道の宿場に組入れられたことから、岩槻宿も天和2年頃には御成道筋の宿場に指定された」と考えられている。 将軍が日光社参の際に使用された街道であり、日光御成街道(にっこうおなりかいどう)とも呼ばれている。.

新しい!!: 五街道と日光御成道 · 続きを見る »

日光例幣使街道

日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)は、江戸時代の脇街道の一つで、徳川家康の没後、東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道である。倉賀野宿を起点とし、中山道と分岐、太田宿、栃木宿を経て、楡木(にれぎ)宿にて壬生通り(日光西街道)と合流して日光坊中へと至る。楡木より今市(栃木県日光市)までは壬生通り(日光西街道)と重複区間である。 現在、栃木県日光市から鹿沼市、栃木市、佐野市、足利市、群馬県太田市、伊勢崎市、高崎市に至る路線が「日光例幣使街道」または「例幣使街道」と呼ばれている。特に日光市から鹿沼市にかけての区間には日光杉並木が現存する。.

新しい!!: 五街道と日光例幣使街道 · 続きを見る »

日光街道

日光街道(にっこう かいどう)は、日本の江戸時代に設けられていた五街道の一つ。 江戸日本橋(武蔵国豊島郡日本橋、現在の東京都中央区日本橋)を起点とし、日光坊中(下野国都賀郡日光東照宮、現在の栃木県日光市山内)に至る街道。 道中には21の宿場が置かれていた。日本橋から宇都宮までの道程は奥州街道と共通であった。この区間にはもともと古道奥州道があったが、日光街道の開通とともに日光街道と称されるようになった。 現在も、国道4号の宇都宮市以南と、国道119号の通称として用いられる。.

新しい!!: 五街道と日光街道 · 続きを見る »

日光脇往還

日光脇往還(にっこうわきおうかん)は、江戸時代に鴻巣の追分まで、中山道と街道を同じくし、ここで分岐し袋村(埼玉県吹上町)・行田・上新郷(埼玉県羽生市)・利根川を川俣の渡しで越え、館林・佐野・栃木・今市と経て日光街道に合流する街道である。またの名は「日光裏街道」。 沿道では日光道などと呼ばれていたが、日光街道と区別するために、千人同心街道、日光火の番街道、八王子街道、館林道などとも呼ばれた。 八王子千人同心が日光勤番のために整備した八王子から日光へ至る、40里(約160km)の脇往還に属する街道とも一部重なる。 現在でも、埼玉県日高市から鶴ヶ島市にかけての国道407号は「日光街道杉並木」という名称で杉並木が残るほか、東京都瑞穂町の青梅街道交差点に「旧日光街道交差点」など名称が残っている。 なお、佐野宿より先は日光例幣使街道、楡木宿より先は壬生通りと共通となる。.

新しい!!: 五街道と日光脇往還 · 続きを見る »

日光東照宮

日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)は、日本の関東地方北部、栃木県日光市に所在する神社。江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)を祀る。日本全国の東照宮の総本社的存在である。正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」であるが、他の東照宮との区別のために、「日光東照宮」と呼ばれることが比較的多い。 その歴史は少なくとも源義朝による日光山造営までさかのぼり得るもので、源頼朝がその母方の熱田大宮司家の出身者を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて、東国の宗教的権威となっていた。こうした歴史を背景に、徳川氏は東照宮を造営したと考えられる。.

新しい!!: 五街道と日光東照宮 · 続きを見る »

日本実業出版社

日本実業出版社(にほんじつぎょうしゅっぱんしゃ)は、日本の出版社。 主に経営、経理、税務などのビジネス関係の書籍、また、資格・試験関係、サイエンス・理工書、自己啓発書等、幅広い出版活動を展開している。 Category:日本の出版社 Category:新宿区の企業.

新しい!!: 五街道と日本実業出版社 · 続きを見る »

日本橋 (東京都中央区)

日本橋(にほんばし)は、東京都中央区の日本橋川に架かる橋、またはこの橋にちなむ東京都中央区の町丁、および同区北部の広域地名である。.

新しい!!: 五街道と日本橋 (東京都中央区) · 続きを見る »

慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

新しい!!: 五街道と慶長 · 続きを見る »

1601年

17世紀最初の年である。.

新しい!!: 五街道と1601年 · 続きを見る »

1604年

記載なし。

新しい!!: 五街道と1604年 · 続きを見る »

1624年

記載なし。

新しい!!: 五街道と1624年 · 続きを見る »

1636年

記載なし。

新しい!!: 五街道と1636年 · 続きを見る »

1646年

記載なし。

新しい!!: 五街道と1646年 · 続きを見る »

1659年

記載なし。

新しい!!: 五街道と1659年 · 続きを見る »

1694年

記載なし。

新しい!!: 五街道と1694年 · 続きを見る »

1716年

記載なし。

新しい!!: 五街道と1716年 · 続きを見る »

1772年

記載なし。

新しい!!: 五街道と1772年 · 続きを見る »

1811年

記載なし。

新しい!!: 五街道と1811年 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

七街道

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »