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中国共産党第八期中央委員会第十二回全体会議

索引 中国共産党第八期中央委員会第十二回全体会議

中国共産党第八期中央委員会第十二回全体会議(ちゅうごくきょうさんとうだい8きちゅうおういいんかいだい11かいぜんたいかいぎ)は、1968年10月13日から31日まで北京で行われた中国共産党中央委員会の会議。この会議の略称を第8期12中全会という。文化大革命(文革)のさなかに開催され、文革による「実権派」からの権力奪取を印象付けた。 第8期11中全会以降、97名いた中央委員のうち10名が亡くなっていた。また、生存はしていたものの古参幹部が次々と失脚して出席の権利を剥奪されていたため、第8期中央委員の定員97名から物故者10名を引いた87名に対し出席できたのはわずか40名で、会議初日に中央委員候補から無関係に10名を選んで中央委員とし、過半数とした。また、会議には軍事委員会弁事務のメンバーや、各省、市、自治区の革命委員会や大軍区の責任者、中央直属機関からも出席者が出る拡大会議となった。 毛沢東が会議を主催し、文革を主導した中央文化革命小組のメンバーは全員出席した。「毛沢東の文化大革命開始後に出された指示は全て正しい」と認め、「劉少奇を初めとするブルジョア司令部を打倒した」文革の成果が承認された。また、第9回党大会(九全大会)の準備も議題となり、「九全大会代表の選出に関する決定」が承認された。 かろうじて政治局常務委員と国家主席の地位に留まっていた劉少奇は会議上、江青、康生、謝富治が提出した「叛徒、内奸、工賊劉少奇の罪行に関する審査報告」で「反革命の本性を暴かれ」、永久に党から除名されることとなった。この決定は毛沢東が事前に目を通し、承認を得ていた。この決定は1980年の第11期5中全会でようやく取り消され、名誉回復がなされたが、劉は1969年11月にすでに死亡していた。.

10 関係: 劉少奇中国共産党中央委員会中国共産党第十一期中央委員会第五回全体会議中国共産党第八期中央委員会第十一回全体会議康生北京市謝富治毛沢東江青文化大革命

劉少奇

劉 少奇(りゅう しょうき、リウ・シャオチー、1898年11月24日 - 1969年11月12日)は、中華人民共和国の政治家。凱豊や胡服などといった別名も使用した。 第2代中華人民共和国主席(国家主席)などを務め、中国共産党での序列は毛沢東党主席に次ぐ第2位であったが、文化大革命の中で失脚、非業の死を遂げた。.

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中国共産党中央委員会

中国共産党中央委員会(ちゅうごくきょうさんとうちゅうおういいんかい)は、中国共産党の最高指導機関。中国共産党全国代表大会(党大会)によって選出され、党大会の閉会期間中は、党大会を代行して党を指導する。略称は中共中央、党中央など。.

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中国共産党第十一期中央委員会第五回全体会議

中国共産党第十一期中央委員会第五回全体会議(ちゅうごくきょうさんとうだい11きちゅうおういいんかいだい5かいぜんたいかいぎ)は、1980年2月23日から2月29日まで北京で行われた。この会議の略称を第11期5中全会という。 会議は中国共産党中央委員会主席の華国鋒が主催したものの、1978年12月に開催された第11期3中全会において華国鋒を支えていた「すべて派」の敗北が決定的となっており、さらにこの5中全会で、華国鋒の側近である汪東興が党中央委員会副主席・中央政治局常務委員の職務を解任されたほか、紀登奎(中央政治局委員兼国務院副総理)・呉徳(全国人民代表大会常務委員会副委員長)・陳錫聯(中央政治局委員兼北京軍区司令員)も党と国家の職務からの解任が決定されるなど、華国鋒指導部は事実上解体された。 一方、鄧小平の右腕として党中央秘書長の職にあった胡耀邦と、四川省における経済運営が評価された趙紫陽が、政治局常務委員に任命された。また、党中央の日常業務の効率化を図るべく中央書記処が設置され、胡耀邦が中央書記処総書記に、万里・王任重・方毅・谷牧・宋任窮・余秋里・楊得志・胡喬木・姚依林・彭冲が中央書記処書記に任命された。 鄧小平が実権を握った第11期3中全会以降、文化大革命は否定され、文革の被害者の名誉回復が進んでいたが、この5中全会において、文革の最大の標的とされて獄死した劉少奇の名誉回復が実現した。第8期12中全会における「叛徒、内奸、工賊」の罪名と、「永遠に党を除名し、党内外の一切の職務を解任」した「誤った決議」は取り消され、劉少奇は「偉大なマルクス主義者」と「プロレタリア階級革命家」とされた。ただし、5月17日に党中央名義で人民大会堂で開催された追悼大会では、鄧小平が「林彪・四人組一派は党の権力を奪取する反革命目的から、わが党の欠点と誤りを利用し、劉少奇同志を陥れ残酷な迫害を行った」と弔辞の中で言及するにとどまった。 Category:1980年の中華人民共和国 1105 Category:北京の歴史 Category:1980年2月.

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中国共産党第八期中央委員会第十一回全体会議

中国共産党第八期中央委員会第十一回全体会議(ちゅうごくきょうさんとうだい8きちゅうおういいんかいだい11かいぜんたいかいぎ)は、1966年8月1日から12日まで北京で行われた中国共産党中央委員会の会議。略称は第8期11中全会。この会議は文化大革命(文革)が全国規模で始まる合図となり、中央委員ですらない江青らも出席するなど文革色が色濃く出るものとなった。 8月5日、毛沢東は「司令部を砲撃せよ」と題した評論を『人民日報』に掲載させ、7日にはその文章を配布した。「修正主義の司令部がブルジョア専制をやり、文化大革命運動を弾圧した」と、劉少奇や鄧小平を批判した。8月8日には『プロレタリア文化大革命に関する決定』が通過し、運動の目的を「資本主義の道を歩む実権派を闘争によってたたきつぶし、ブルジョア階級の反動的学術“権威者”を批判する」と方向付けた。 中央政治局常務委員が従来の7人から11人に増員され、毛沢東、林彪、周恩来、陶鋳、陳伯達、鄧小平、康生、劉少奇、朱徳、李富春、陳雲が中央政治局常務委員に選出された。また、徐向前、聶榮臻、葉剣英が中央政治局委員、李雪峰、謝富治、宋任窮が政治局候補委員に選出された。 この人事で林彪が中央政治局常務委員会における序列第2位に、それまで序列第2位だった劉少奇が第8位となった。これにより、林彪が毛沢東の後継者となり、それまで後継者と目されていた劉少奇が失脚したことが明確になった。また、複数いた党副主席を林彪のみとし、それまで党副主席であった劉少奇、朱徳、陳雲は解任された。彭真、羅瑞卿、陸定一、楊尚昆が中央書記処書記、書記候補から解任されるなど、文革推進派が躍進する結果となり党内序列は一変した。 会議終了6日後には、この会議の成果を祝する形で天安門広場に集まった百万人ともいわれる紅衛兵を毛沢東ら共産党首脳が接見し、文革の全面的な展開を内外に強く印象づけることになった。 この会議でかろうじて政治局常務委員と国家主席の地位に留まった劉少奇は、1968年10月の第8期12中全会で「叛徒、内奸、工賊」のレッテルを貼られて党から永久に除名、党内外の全ての職務を解任された。この決定は1980年の第11期5中全会でようやく取り消され、名誉回復がなされた。.

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康生

康 生(こう せい、カン・ション、1898年 - 1975年12月16日)は中華人民共和国の政治家。元の名は張宗可、字は少卿。このほか複数の変名・筆名がある。山東省膠県大台荘(現・青島市黄島区)出身。文化大革命の重要人物の一人。 裕福な地主の家庭に生まれ、中国共産党中央委員会副主席にまで出世した。ソ連滞在中に内務人民委員部 (NKVD) から「反革命分子」に対する拷問・処刑を学び帰国後、中国共産党情報機関の責任者となり毛沢東の片腕として強大な警察権力を行使し、大量粛清にかかわった。「中国のジェルジンスキー」あるいは「中国のベリヤ」と呼ばれる。妻は曹軼欧。子供はいない。.

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北京市

北京市(ペキンし、、)は、中華人民共和国の首都である。 行政区画上は直轄市であり、中国の華北の中央に位置する。人口は2152万(2014年)であり、中国では上海に次ぐ第二の都市。世界有数のメガシティであり、高い影響力を有する世界都市でもある。古くは大都・燕京・北平とも呼ばれた。.

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謝富治

謝 富治(しゃ ふじ、1909年 - 1972年3月26日)は、中華人民共和国の軍人、政治家。中国人民武装警察部隊司令員兼政治委員、公安部部長、国務院副総理等を歴任。中国共産党中央政治局委員。文化大革命中、林彪、江青等に加担し、死後、党から除籍された。最終階級は上将。.

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毛沢東

毛 沢東(もう たくとう、マオ・ツォートン、1893年12月26日 - 1976年9月9日)は、中華人民共和国の政治家、軍事戦略家、思想家。字は詠芝、潤芝、潤之。筆名は子任。 中国共産党の創立党員の1人で、長征、日中戦争を経て党内の指導権を獲得し、1945年より中国共産党中央委員会主席と中央軍事委員会主席を務めた。 日中戦争後の国共内戦では蒋介石率いる中華民国を台湾に追放し、中国大陸に中華人民共和国を建国した。以後、死去するまで同国の最高指導者の地位にあった。.

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江青

江青(こう せい、ジャン・チン、ピンイン:Jiāng Qīng。1914年3月 - 1991年5月14日)は、中華人民共和国指導者の毛沢東共産党主席の4番目の夫人で政治指導者、女優。山東省出身。文化大革命(文革)を主導し「紅色女皇」と呼ばれた。文革末期には王洪文・張春橋・姚文元と「四人組」を形成し、中国共産党内で影響力を持ったが、毛沢東の死後に逮捕、投獄され、死刑判決を受ける。無期懲役に減刑ののち、病気治療仮釈放(保外就医)中に北京の居住地で自殺した。 「江青」は女優時からの名乗りであり、出生時の名は李淑蒙とも李進(李進孩)ともいう。毛沢東の漢詩に「李進同志」に宛てたものがある。小学校入学時には李雲鶴と名乗る。「江青」と改名する前には「藍蘋」として広く知られた。.

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文化大革命

文化大革命(ぶんかだいかくめい)は、中華人民共和国で1966年から1976年まで続き、1977年に終結宣言がなされた社会的騒乱である。全称はプロレタリア文化大革命(簡体字: 无产阶级文化大革命, 繁体字: 無產階級文化大革命)、略称は文革(ぶんかく)。 名目は「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という政治・社会・思想・文化の改革運動だった。しかし実際は、大躍進政策の失敗によって国家主席の地位を劉少奇党副主席に譲った毛沢東共産党主席が自身の復権を画策し、紅衛兵と呼ばれた学生運動を扇動して政敵を攻撃させ、失脚に追い込むための、中国共産党の権力闘争であった。 これにより1億人近くが何らかの損害を被り、国内の大混乱と経済の深刻な停滞をもたらした。.

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