ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

三条大橋

索引 三条大橋

東海道五十三次 三条大橋』歌川広重筆。 弥次さんと喜多さんの像 駅伝発祥の碑 三条大橋(さんじょうおおはし)は、京都市にある三条通の橋。鴨川に掛かっている。 橋が架けられた時期は明らかではないが天正18年(1590年)、豊臣秀吉 の命により五条大橋と共に増田長盛を奉行として石柱の橋に改修された。江戸時代においては、五街道のひとつ東海道につながる橋として、幕府直轄の公儀橋に位置付けられ、流出のたびごとに幕府の経費で架け替え・修復が行われた。現在の橋本体は2車線、歩道付のコンクリート製で1950年(昭和25年)に作られ、木製欄干は1973年(昭和48年)に更新されたが老朽化やシロアリなどの被害で劣化が激しく、橋を管理する京都市は欄干の取り換えだけで3億円、歩道の整備を含めると4億円が必要と見積もっており、費用の捻出に苦慮している。 橋の名は、三条通と鴨川左岸(東側)を走る川端通の交差点名にもなっている。.

66 関係: 増田長盛天正安土桃山時代川端通三条京阪三条京阪駅三条制札事件三条駅 (京都府)三条通平安京平成京都市京都市営地下鉄京都市営地下鉄東西線京都市営バス京都府京都バス京阪バス京阪鴨東線京阪電気鉄道京阪本線五街道五条大橋徳川家康バス停留所ジュスカ・グランペール公儀橋六条河原石川五右衛門石田三成盗賊角倉了以駅伝競走高瀬川 (京都府)高札豊臣秀吉豊臣秀次鴨川 (淀川水系)近藤勇関ヶ原の戦い東海道東海道中膝栗毛東海道五十三次板橋宿板橋刑場武将武蔵国歌川広重江戸幕府...江戸時代池田屋事件昭和斬首刑新選組擬宝珠1590年1594年1600年1601年1611年1864年1868年1917年1950年1992年 インデックスを展開 (16 もっと) »

増田長盛

増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位は従五位下・右衛門少尉。.

新しい!!: 三条大橋と増田長盛 · 続きを見る »

天正

天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.

新しい!!: 三条大橋と天正 · 続きを見る »

安土桃山時代

安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。 なお、美術史では1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡までを「安土桃山時代」と称するのが一般的である。.

新しい!!: 三条大橋と安土桃山時代 · 続きを見る »

川端通

川端通(左京区荒神橋東詰付近より北方向を望む)。画面左側に鴨川が並行する 川端通(かわばたどおり)は京都市の南北の通りのひとつで、鴨川・高野川の東岸を走る道路。都市計画上の路線名は、高野川東岸線(白川通合流点から今出川通)、鴨川東岸線(今出川通から塩小路通)という。 |.

新しい!!: 三条大橋と川端通 · 続きを見る »

三条京阪

三条大橋、三条京阪より 三条京阪(さんじょうけいはん)は、京都市東山区の三条大橋東側周辺の地域名である。 呼称は、かつて京阪電気鉄道(京阪)京阪本線および京津線との乗換駅であり、京阪の京都市内におけるターミナル駅である三条駅前の一帯を、三条通京阪前と呼んでいたことに由来する。 なお、地区内の公称町名は「五軒町」・「大黒町」・「大橋町」などである。.

新しい!!: 三条大橋と三条京阪 · 続きを見る »

三条京阪駅

三条京阪駅(さんじょうけいはんえき)は、京都市東山区にある、京都市営地下鉄東西線の駅。駅番号はT11。 京阪電気鉄道(京阪)本線・鴨東線の三条駅と、地下の改札外コンコースを通じて繋がっている。.

新しい!!: 三条大橋と三条京阪駅 · 続きを見る »

三条制札事件

三条制札事件(さんじょうせいさつじけん)は、江戸時代幕末の1866年10月20日(慶応2年9月12日)に、土佐藩士8人が三条大橋西詰北の制札を引き抜こうとしたところ、京都の治安維持を行っていた新選組がこれを襲撃・捕縛した事件である。.

新しい!!: 三条大橋と三条制札事件 · 続きを見る »

三条駅 (京都府)

| 三条駅(さんじょうえき)は、京都府京都市東山区にある、京阪電気鉄道の駅。駅番号はKH40。京都市営地下鉄東西線の三条京阪駅と連絡しており、また周辺地域は「三条京阪」と呼ばれる。 1949年までは京津電気軌道の三条大橋駅も隣接していた。京津電軌は京阪と合併し、1949年には三条駅として統合されている。1987年には京津線は京津三条駅として分離したが、京都市営地下鉄東西線の開通により京津線の三条 - 御陵間が廃線となり、京津三条駅も廃止されている。京都市電の駅こそなかったが、京都市街地の重要なターミナル駅の一つである。.

新しい!!: 三条大橋と三条駅 (京都府) · 続きを見る »

三条通

三条大橋 京都市街中心部の様子 - 堺町通との交差点付近 山ノ内駅付近 三条通(さんじょうどおり)は京都府京都市の主要な東西の通りの一つ。 平安京の三条大路に相当する。また、鴨川に架かる三条大橋が東海道五十三次の終点だった。.

新しい!!: 三条大橋と三条通 · 続きを見る »

平安京

平安京復元模型写真(大内裏付近) 平安京(へいあんきょう/たいらのみやこ)は、延暦13年10月22日(西暦794年11月22日)から、一説には明治2年(1869年)まで日本の首都であった都市である。平安城ともいい、桓武天皇によって長岡京からの遷都地に選ばれ、唐の首都長安城に倣って計画都市として建設された。現在の京都府京都市・京都市街であり、当時の街路をほぼそのままに主要都市として現存している。明治2年(1869年)に政府(太政官)が東京(旧江戸)に移転して首都機能を失った。平安京が置かれてから鎌倉幕府が成立するまでの約400年間を日本史では「平安時代」という。.

新しい!!: 三条大橋と平安京 · 続きを見る »

平成

平成(へいせい)は日本の元号の一つ。昭和の後。今上天皇在位中の1989年(平成元年)1月8日から現在に至る。2001年(平成13年)の始まりには西暦における20世紀から21世紀への世紀の転換もあった。2019年(平成31年)4月30日に今上天皇退位により終了する予定であり、予定通り終了した場合、30年113日間(=11,070日間)にわたることとなる。なお、日本の元号では昭和(64年)、明治(45年)、応永(35年)に次いで4番目の長さである(5番目は延暦の25年)。 西暦2018年(本年)は平成30年に当たる。本項では平成が使われた時代(平成時代)についても記述する。.

新しい!!: 三条大橋と平成 · 続きを見る »

京都市

京都タワーと京都中心部 京都市中心部四条河原町 京都市(きょうとし )は、京都府南部に位置し、同府最大の市で、府庁所在地である。政令指定都市に指定されており、11区を置く。日本の市で8番目の人口を有する。延暦十三年(794年)から明治二年(1869年)までの1,000年以上にわたって日本の都が置かれていたため、古都として認識されている。.

新しい!!: 三条大橋と京都市 · 続きを見る »

京都市営地下鉄

京都市営地下鉄(きょうとしえいちかてつ)は、京都市交通局が運営する地下鉄。烏丸線・東西線の2つの路線があり、西京区を除く京都市内10区と宇治市を通っている。条例上は「京都市高速鉄道」と呼ばれている。.

新しい!!: 三条大橋と京都市営地下鉄 · 続きを見る »

京都市営地下鉄東西線

東西線(とうざいせん)は、京都府宇治市の六地蔵駅から京都市右京区の太秦天神川駅までを結ぶ京都市営地下鉄の路線である。ラインカラーは朱色、路線記号はT。.

新しい!!: 三条大橋と京都市営地下鉄東西線 · 続きを見る »

京都市営バス

京都市営バス(きょうとしえいバス、英: Kyoto City Bus)は、京都市交通局が運営する路線バスである。地元では単に市バス(しバス)と呼ばれることが多い。 市内交通の主要な位置をしめる。京都市内を中心に走っているが、一部長岡京市と向日市にも停留所がある。 なお、京都府内には京都交通、京阪京都交通・京都バス・京都京阪バスという京都の冠がついた民間バス会社が存在するが、これらはいずれも京都市営バスとは別事業体である。うち前者は日本交通の、後者3社は京阪ホールディングスのグループ会社である。 2005年に京都市に編入された旧・京北町の京北町営バスは、編入後は市営バスとしてではなく、きょうと京北ふるさと公社による「京北ふるさとバス」として引き続き運行されている。.

新しい!!: 三条大橋と京都市営バス · 続きを見る »

京都府

京都府(きょうとふ)は、日本の近畿地方の都道府県の一つ。延暦13年(794年)の平安京遷都以来、天皇の御所がある。令制国でいう山城国の全域、丹波国の東部および丹後国の全域を府域とする。府庁所在地は京都市。.

新しい!!: 三条大橋と京都府 · 続きを見る »

京都バス

本社事務所、嵐山営業所 京都バス株式会社(きょうとバス)は、京都府京都市右京区に本社を置く路線バス事業者である。.

新しい!!: 三条大橋と京都バス · 続きを見る »

京阪バス

南区) 京阪バス発祥の地石碑(桃山京阪ビル下に設置) 京阪バス車両(山科所属時代。この車両は男山に転属。山科駅前で撮影) 京都定期観光バス用新デザイン塗装車(日野・セレガ) 守口市を巡回するコミュニティバス・タウンくる(初代車両。この車両は2010年11月までに全車廃車。古川橋駅前北口にて撮影) 京阪バス株式会社(けいはんバス)は、大阪府の京阪電鉄沿線地域・京都府南部地域・滋賀県大津市などでバスを営業している、京阪電気鉄道系列のバス事業者。 本項では旧京阪シティバス、旧・京阪宇治交通および旧・京阪宇治交通田辺についても記述する。.

新しい!!: 三条大橋と京阪バス · 続きを見る »

京阪鴨東線

東線(おうとうせん)は、京都府京都市東山区の三条駅から同市左京区の出町柳駅までを結ぶ京阪電気鉄道の鉄道路線である。 なお、正式な起点は三条駅だが、列車運行および旅客案内では出町柳駅から三条駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。.

新しい!!: 三条大橋と京阪鴨東線 · 続きを見る »

京阪電気鉄道

京阪電気鉄道株式会社(けいはんでんきてつどう、英称:Keihan Electric Railway Co., Ltd.)は、大阪府・京都府・滋賀県に路線網を持つ日本の大手私鉄。京阪ホールディングスの子会社である。通称は京阪電鉄または京阪電車で、略称は京阪。 本社事務所は大阪府大阪市中央区大手前一丁目7番31号 大阪マーチャンダイズ・マートビル(OMMビル)内、登記上の本店所在地は大阪府枚方市岡東町173番地の1である。営業キロ程は91.1 km(2008年10月19日現在)。 京阪電気鉄道と、その子会社75社(有価証券報告書への記載義務のある連結子会社および有価証券報告書への記載義務のない非連結子会社を合わせた全子会社数)、および持分法適用関連会社3社から構成されている京阪グループの中核企業である。.

新しい!!: 三条大橋と京阪電気鉄道 · 続きを見る »

京阪本線

京阪本線(けいはんほんせん)は、大阪府大阪市中央区の淀屋橋駅から京都府京都市東山区の三条駅までを結ぶ京阪電気鉄道の鉄道路線。 「本線」という路線名ではなく、「京都と大阪を結ぶ」という意味の社名略称を冠した「京阪本線」が正式な路線名である。京阪本線に接続する各路線(鴨東線・宇治線・交野線・中之島線)と併せて京阪線と総称される。.

新しい!!: 三条大橋と京阪本線 · 続きを見る »

五街道

五街道(ごかいどう)は、江戸時代の江戸・日本橋を起点に伸びる東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の五つを指した陸上幹線道である。1601年(慶長6年)に徳川家康が全国支配のために江戸と各地を結ぶ以下の5つの街道を整備し始め、2代将軍秀忠の代になって基幹街道に定められた。.

新しい!!: 三条大橋と五街道 · 続きを見る »

五条大橋

五条大橋(西詰より) 扇塚(五条大橋西詰) 牛若丸・弁慶像 擬宝珠。「正保2(1645)年」の表記がある 五条大橋(ごじょうおおはし)は、京都府京都市を流れる鴨川に架設された橋。 五条通(国道1号・国道8号)の一部として供されている。また、橋の付近の鴨川は下京区と東山区の境界になっている。 橋上からは東山の山々を望むことができる。.

新しい!!: 三条大橋と五条大橋 · 続きを見る »

徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

新しい!!: 三条大橋と徳川家康 · 続きを見る »

バス停留所

バス停留所(バスていりゅうじょ、バスていりゅうしょ)は、乗合バスにおいて旅客が乗降できる地点である。略称バス停(バスてい)。多くが公道上にある。.

新しい!!: 三条大橋とバス停留所 · 続きを見る »

ジュスカ・グランペール

ュスカ・グランペール (Jusqu'à Grand-Père)は、京都発の日本の2人組インストゥルメンタルユニット。 ジプシージャズやパリミュゼット、ラテン音楽、クラシック音楽など様々な音楽の要素を取り入れた「ジュスカサウンド」は、ジャンルを越えて独自の世界観を作り出している。.

新しい!!: 三条大橋とジュスカ・グランペール · 続きを見る »

公儀橋

公儀橋(こうぎばし)は、江戸時代、江戸、大阪、京などで、江戸幕府の経費で架設、架け替え、修復が行われた橋である。町人が経費を負担して架けた町橋に対する。 江戸では「御入用橋」と称し、まれに「公儀橋」といったが、大阪、京都ではおおく「公儀橋」といった。.

新しい!!: 三条大橋と公儀橋 · 続きを見る »

六条河原

六条河原(ろくじょうがわら)は、京都市内を流れる鴨川の河原に存在した刑場。古戦場(六条河原の戦い)。現在の五条通(五条大橋)から正面通(正面橋)の辺り。.

新しい!!: 三条大橋と六条河原 · 続きを見る »

石川五右衛門

石川 五右衛門(いしかわ ごえもん、生年不詳 - 文禄3年8月24日(1594年10月8日))は、安土桃山時代の盗賊の首長。文禄3年に捕えられ、京都三条河原で煎り殺された。 従来その実在が疑問視されてきたが、イエズス会の宣教師の日記の中に、その人物の実在を思わせる記述が見つかっている。 江戸時代に創作材料として盛んに利用されたことで、高い知名度を得た。.

新しい!!: 三条大橋と石川五右衛門 · 続きを見る »

石田三成

石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。 豊臣政権の奉行として活動し五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。.

新しい!!: 三条大橋と石田三成 · 続きを見る »

盗賊

ヤの絵画) 盗賊(とうぞく)とは、法規から逸脱して強奪(掠奪)などを行う者たちの集団を指す。.

新しい!!: 三条大橋と盗賊 · 続きを見る »

角倉了以

川沿いの顕彰碑 嵐山の角倉了以像 角倉 了以(すみのくら りょうい、天文23年(1554年) - 慶長19年7月12日(1614年8月17日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての京都の豪商。 朱印船貿易の開始とともに安南国との貿易を行い、山城(京都)の大堰川、高瀬川を私財を投じて開削した。また江戸幕府の命令により富士川、天竜川、庄内川などの開削を行った。地元京都では商人としてよりも琵琶湖疏水の設計者である田辺朔郎と共に「水運の父」として有名である。 長男に角倉素庵、弟に吉田宗恂。吉田光由は一族にあたる。墓所は京都市嵯峨野の二尊院。.

新しい!!: 三条大橋と角倉了以 · 続きを見る »

駅伝競走

駅伝競走(えきでんきょうそう、)は、数人が長距離(長いものでは数百キロ)をリレー形式で走り、そのタイム(時間)を競う陸上競技である。一般的に「駅伝」と略されている。 国際陸上競技連盟では、駅伝の国際名称を"Road relay"としているが、日本でしか行われていない競技である為"Ekiden"と呼んだり、説明的に"Marathon relay"と呼ばれることがある。.

新しい!!: 三条大橋と駅伝競走 · 続きを見る »

高瀬川 (京都府)

一之舟入を出たところに復元された高瀬舟 一之舟入への分岐 高瀬川(たかせがわ)は、江戸時代初期(1611年)に角倉了以・素庵父子によって、京都の中心部と伏見を結ぶために物流用に開削された運河である。 開削から大正9年(1920年)までの約300年間京都・伏見間の水運に用いられた。名称はこの水運に用いる「高瀬舟」にちなんでいる。 現在は鴨川によって京都側と伏見側に分断されており、上流側を高瀬川、下流側を東高瀬川、新高瀬川と呼ぶ。京都中心部三条から四条あたりにかけての高瀬川周辺は京都の歓楽街の一つとなっており、また桜の名所ともなっている。.

新しい!!: 三条大橋と高瀬川 (京都府) · 続きを見る »

高札

札(こうさつ・たかふだ)とは、古代から明治時代初期にかけて行われた法令(一般法、基本法)を板面に記して往来などに掲示して民衆に周知させる方法である。なお、特定の相手や事柄を対象として制定された法令(特別法)を記した同様の掲示を制札(せいさつ)と呼ぶが、その実際の運用上は厳密に区別されていたとは言い難かったようである。.

新しい!!: 三条大橋と高札 · 続きを見る »

豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

新しい!!: 三条大橋と豊臣秀吉 · 続きを見る »

豊臣秀次

豊臣 秀次(とよとみ ひでつぐ / とよとみ の ひでつぐ)または羽柴 秀次(はしば ひでつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣氏の2代目関白。豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男。 幼少時、戦国大名・浅井長政の家臣・宮部継潤が秀吉の調略に応じる際に人質となり、そのまま養子となって、初名は吉継、通称を次兵衛尉とし、宮部 吉継(みやべ よしつぐ)と名乗った。次いで畿内の有力勢力だった三好一族の三好康長(笑岩)の養嗣子となり、今度は名を信吉と改めて通称は孫七郎とし、三好 信吉(みよし のぶよし)と名乗って三好家の名跡を継いだ。 秀吉が天下人の道を歩み始めると、羽柴姓に復氏して、名も秀次と改名。豊臣姓も下賜された。鶴松が没して世継ぎがいなくなったことから、改めて秀吉の養嗣子とされ、文禄の役の開始前に関白の職を譲られ、家督を相続した。ところがその後になって秀吉に嫡子・秀頼が誕生して、理由は諸説あるものの、秀次は強制的に出家させられて高野山青巌寺に蟄居となった後に切腹となった。秀次の首は三条河原で晒し首とされ、その際に眷族も尽く処刑された。.

新しい!!: 三条大橋と豊臣秀次 · 続きを見る »

鴨川 (淀川水系)

川(かもがわ)は、京都府京都市を流れる淀川水系の一級河川。.

新しい!!: 三条大橋と鴨川 (淀川水系) · 続きを見る »

近藤勇

近藤 勇(こんどう いさみ)は、江戸時代末期の武士。新選組局長。後に幕臣に取り立てられ、甲陽鎮撫隊隊長。勇は通称で、諱は昌宜(まさよし)という。慶応4年(1868年)からは大久保剛を名乗り、後にさらに大久保大和と改めた。家紋は丸の内に三つ引。天然理心流、豪傑の剣の使い手。.

新しい!!: 三条大橋と近藤勇 · 続きを見る »

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.

新しい!!: 三条大橋と関ヶ原の戦い · 続きを見る »

東海道

東海道(とうかいどう、うみつみち)は、五畿七道の一つ。本州太平洋側の中部の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から近世)を指す。.

新しい!!: 三条大橋と東海道 · 続きを見る »

東海道中膝栗毛

弥次さんと喜多さんの像(京都三条大橋) 『東海道中膝栗毛』(とうかいどうちゅうひざくりげ)は、1802年(享和2年)から1814年(文化11年)にかけて初刷りされた、十返舎一九の滑稽本である。「栗毛」は栗色の馬。「膝栗毛」とは、自分の膝を馬の代わりに使う徒歩旅行の意である。 大当たりして、今に至るまで読みつがれ、主人公の弥次郎兵衛と喜多八、繋げて『弥次喜多』は、派生する娯楽メディア類に、なお活躍している。文学的な価値とともに、文才とともに絵心のあった作者による挿絵が多く挿入され、江戸時代の東海道旅行の実状を記録する、貴重な資料でもある。.

新しい!!: 三条大橋と東海道中膝栗毛 · 続きを見る »

東海道五十三次

日本橋」 東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)は、江戸時代に整備された五街道の一つ、東海道にある53の宿場を指す。古来、道中には風光明媚な場所や有名な名所旧跡が多く、浮世絵や和歌・俳句の題材にもしばしば取り上げられた。なお五十三次と称す場合は京都までの場合であり、さらに大阪までを加えて東海道五十七次とする説 「東海道は品川宿より守口宿」(幕府道中奉行所御勘定 谷金十郎、宝暦8年(1758年))「東海道と申すは、熱田より上方は、伊勢路、近江路を通り伏見、淀、牧方、守口迄外はこれ無き」(土佐藩から問いに対する幕府大目付勘定奉行からの回答、寛政元年1789年)もある。また、奈良時代の律令制による東海道では、延喜式によると、伊勢の鈴鹿駅から常陸の雄醍(おさか)駅まで55駅が設置されている。.

新しい!!: 三条大橋と東海道五十三次 · 続きを見る »

板橋宿

子が馬のための草鞋を取り替えている。 板橋宿(いたばし-しゅく)は、日本の近世にあたる江戸時代に整備され、栄えていた宿場町。 中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて1番目の宿場名所絵では起点と終点も数に入れるため、表記上の数がずれる。したがって、浦和宿は「第二」の図。(武蔵国のうち、第1の宿現在では、東京都に属する唯一の宿。)。 同時に、川越街道(川越・児玉往還)の起点でもある。 所在地は、江戸期には東海道武蔵国豊島郡板橋郷下板橋村宝亀2年(西暦771年)10月27日以前は東山道武蔵国豊島郡広岡郷の一部。以後、東海道に属す。平安時代末期以降は板橋郷の一部。。 現在の住所では東京都板橋区本町、および、仲宿、板橋1丁目、3丁目にあたる。.

新しい!!: 三条大橋と板橋宿 · 続きを見る »

板橋刑場

板橋刑場(いたばしけいじょう)は、江戸時代末期に現在の東京都板橋区板橋および北区滝野川付近に一時的に存在した刑場板橋宿には独立した刑場がなく、宿場の馬捨場が利用されたとする説がある(塩見鮮一郎『江戸東京を歩く 宿場』155-156頁)。。当時の中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近、現在のJR板橋駅北付近だった。現在では住宅地となっており、当時の面影はまったくない。.

新しい!!: 三条大橋と板橋刑場 · 続きを見る »

橋(はし)、橋梁(きょうりょう)とは、地面または水面よりも高い場所に設けられた道である。.

新しい!!: 三条大橋と橋 · 続きを見る »

武将

武将(ぶしょう)とは、軍勢を統率する将軍、特に武道に秀でた将のこと。 日本の戦国時代においては、武士や農民・町人から徴用された足軽たちを統率する戦国大名やその家臣を指すことがある(戦国武将)。なお、部隊を率いる将を部将と呼ぶ。 明治政府が当時の事象や日本の歴史について文献に基づきまとめた古事類苑に「武将」の文言は見られない。.

新しい!!: 三条大橋と武将 · 続きを見る »

武蔵国

武蔵国(むさしのくに、)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道のち東海道に属する。.

新しい!!: 三条大橋と武蔵国 · 続きを見る »

歌川広重

歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)は、江戸時代の浮世絵師。本名は安藤重右衛門。江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となった。かつては安藤広重(あんどう ひろしげ)とも呼ばれたが、安藤は本姓、広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそう名乗ったことはない。ゴッホやモネなどの画家に影響を与え、世界的に著名な画家である。.

新しい!!: 三条大橋と歌川広重 · 続きを見る »

江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

新しい!!: 三条大橋と江戸幕府 · 続きを見る »

江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

新しい!!: 三条大橋と江戸時代 · 続きを見る »

池田屋事件

池田屋事件(いけだやじけん)は、幕末の1864年7月8日(元治元年6月5日)に、京都三条木屋町(三条小橋)の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃した事件。 池田屋事変、池田屋騒動ともいわれている。近藤勇は書面で洛陽動乱と名づけている。.

新しい!!: 三条大橋と池田屋事件 · 続きを見る »

昭和

昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.

新しい!!: 三条大橋と昭和 · 続きを見る »

斬首刑

thumb ルイ16世 斬首刑(ざんしゅけい)とは、罪人の首(頭部)を刃物等により胴体から切断する刑罰(死刑の一種)である。対象者は即死する。ただし、確認しようがないが「斬首されたのちもしばらくは意識がある」「素早く斬首されるとほとんど痛みを感じずに即死する」などという説もある。古代から現代まで世界各国で行われ、フランスでギロチンによる斬首が廃止されたのは1981年のことである。2017年現在、正式に刑罰としての死刑の方法として採用されているのはサウジアラビアのみである。.

新しい!!: 三条大橋と斬首刑 · 続きを見る »

新選組

新選組(しんせんぐみ)は、江戸時代末期(幕末)に、京都において反幕府勢力を取り締まる警察活動に従事したのち、旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った武装組織である。 なお、「選」の字は「撰」とも表記されることが有り、「新撰組」と表記された史料もある。新選組の局長の近藤勇を始め、隊士たちが残した手紙でも両方の字が表記に用いられている。隊の公印が押された文献は「選」の文字が使用されているため、2004年頃から高校日本史教科書では「新選組」の表記が増えてきている。.

新しい!!: 三条大橋と新選組 · 続きを見る »

擬宝珠

擬宝珠(京都三条大橋) 擬宝珠(ぎぼし)は、伝統的な建築物の装飾で橋や神社、寺院の階段、廻縁の高欄(手すり、欄干)の柱の上に設けられている飾りである。ネギの花に似ていることから「葱台(そうだい)」とも呼ばれる。 擬宝珠が取り付けられるのは親柱(両端および一定の間隔で並ぶ主要な柱)であり、「宝珠柱」という。親柱が木製の場合、擬宝珠は銅、青銅などの金属製である場合が多く、雨水などによる木材の腐食を抑える役目もある。親柱が石の場合、擬宝珠も含めて石造りになっている場合もある。まれにすべて木製のものもある。より古い時代の瓦製のものも見つかっている。 紛らわしいものとしては五重塔、五輪塔などの仏塔の先端に飾られるもので、これは擬宝珠ではなく宝珠である。.

新しい!!: 三条大橋と擬宝珠 · 続きを見る »

1590年

記載なし。

新しい!!: 三条大橋と1590年 · 続きを見る »

1594年

記載なし。

新しい!!: 三条大橋と1594年 · 続きを見る »

1600年

400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年となる(グレゴリオ暦の規定による)。。.

新しい!!: 三条大橋と1600年 · 続きを見る »

1601年

17世紀最初の年である。.

新しい!!: 三条大橋と1601年 · 続きを見る »

1611年

記載なし。

新しい!!: 三条大橋と1611年 · 続きを見る »

1864年

記載なし。

新しい!!: 三条大橋と1864年 · 続きを見る »

1868年

記載なし。

新しい!!: 三条大橋と1868年 · 続きを見る »

1917年

記載なし。

新しい!!: 三条大橋と1917年 · 続きを見る »

1950年

記載なし。

新しい!!: 三条大橋と1950年 · 続きを見る »

1992年

この項目では、国際的な視点に基づいた1992年について記載する。.

新しい!!: 三条大橋と1992年 · 続きを見る »

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »