28 関係: 原憲、南宮括、史記、史記索隠、孟子、子夏、子張、子貢、子路、子游、字、孔子、孔子家語、孔門十哲、宰我、仲弓、フク不斉、冉伯牛、冉有、公孫竜、公冶長、顔回、論語、閔子騫、漆雕開、澹台滅明、有若、曾子。
原憲
原 憲(げん けん、生没年未詳)は中国・春秋時代の儒学者である。孔子の弟子の一人。孔子の門人で才能があった七十子の一人に数えられる。魯・宋・斉の人と伝わる。孔子より約30歳から約6歳若いとされる。名は憲。字は子思(しし)。 『論語』で有名な中国春秋時代の儒学者である孔子の弟子となり、賞賛を受けたが物静かであったと伝わる。前479年に孔子が没し、その後は儒学者として第一線を退き、魏に隠居する事となった。 孔子の死後、孔子の弟子であり孔門十哲に数えられる子貢が、魯で隠居生活を送る原憲を尋ねた際の事が記されている。 原憲は上からは雨漏り、地面からは湿気が立ち上るような粗末なあばら家に住み、座して琴を弾き、歌う生活をしていた。 一方子貢は孔子の門弟の中で最も富裕であり、美々しい衣装を纏い、肥えた立派な馬に曳かせた馬車に乗って訪れたが、途中道が狭くて馬車から降り、徒歩でようやく原憲の家までたどり着いた。 原憲は家の外に出て子貢を迎えたが、その様は藜の杖をつき、粗末な冠に破れた履と言ったいでたちであった。 子貢は原憲の姿を見て、「あなたは何と病んで(苦しんで)おられる事か」と嘆息して言った。 これに原憲は「財産が無い者を貧しいと言い、学びながらそれを行えない事を病む(苦しむ)という。私は貧しくはあるが、病んでなどいない」と答え、さらに「世間の目を気にして行動し、周囲にへつらう者を友とし、他人に誇る為に学問をし、謝礼の為に他人に学問を教え、仁義の心を誤魔化し、馬車を立派に飾り立てるといった行動は、私にはとても出来ない」と子貢を痛烈に批判した。 子貢は大いに恥じ入り、生涯己の発言を悔やんだと言われる。.
南宮括
南宮括(なんぐう かつ・なんきゅう かつ、生没年未詳)は中国・春秋時代の儒学者である。孔子の弟子の一人。孔子の門人で才能があった七十子の一人に数えられる。.
史記
『史記』(しき)は、中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された中国の歴史書である。正史の第一に数えられる。二十四史のひとつ。計52万6千5百字。著者自身が名付けた書名は『太史公書』(たいしこうしょ)であるが、後世に『史記』と呼ばれるようになるとこれが一般的な書名とされるようになった。「本紀」12巻、「表」10巻、「書」8巻、「世家」30巻、「列伝」70巻から成る紀伝体の歴史書で、叙述範囲は伝説上の五帝の一人黄帝から前漢の武帝までである。このような記述の仕方は、中国の歴史書、わけても正史記述の雛形となっている。 二十四史の中でも『漢書』と並んで最高の評価を得ているものであり、単に歴史的価値だけではなく文学的価値も高く評価されている。 日本でも古くから読まれており、元号の出典として12回採用されている。.
史記索隠
『史記索隠』(しきさくいん)は、唐の司馬貞による『史記』の注釈書。史記三家注のひとつ。30巻。先行の諸書を引用し、音韻や地理・人物の考証にすぐれる。.
孟子
孟子(もうし、紀元前372年? - 紀元前289年)は戦国時代中国の儒学者。姓は不詳、氏は孟、諱は軻(か)、字は子輿(しよ)。亜聖(あせい)とも称される。孟子の「子」は先生という意味。儒教では孔子に次いで重要な人物であり、そのため儒教は別名「孔孟の教え」とも呼ばれる。 あるいはその言行をまとめた書『孟子』(もうし)。性善説を主張し、仁義による王道政治を目指した。.
子夏
子夏(しか、紀元前507年? - 紀元前420年?)は、孔子の門人、学問を好み孔門十哲の一人とされる。姓は卜(ぼく)、名は商。子夏は字。衛(河南省)の人、一説に晋の温国(河南省焦作市)出身。 「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」で「不及」と評価された人物である(『論語』先進篇) 魏の文侯に招かれ、その師となった。李克・呉起・西門豹はその学生である。 『礼記』によると、自分の子供が死亡した際にあまりの悲しみに失明した。それを聞き、同門である曾子が子夏を訪ね、子夏が「なぜ、自分だけこのような不幸に会わなければならないのか」と嘆くと、「ずっと妻子を放っておいて何事か」と諭した。それに対し「我、過てり(われ、あやまてり)」と嘆いた。 子游とともに文学(学問のこと)に優れていたとされ、今文経学では六経伝承の淵源を子夏に求めている。彼の学風からは後の荀子へと受け継がれる。.
子張
子張(しちょう 紀元前503年 - ?)は孔子の弟子の一人。本名は顓孫師(せんそん し)。顓孫が氏、師が名、子張が字。 孔門十哲のなかに子張は含められていないが、『論語』では子路・子貢に次いで出現回数が多く、子張篇の冒頭3節では子張の言葉を伝えているなど、きわめて重要な弟子であったと考えられる。また、『韓非子』顕学篇には儒家八派のひとつとして「子張の儒」があったことを述べている。同じ学派は『荀子』非十二子篇では「子張氏の賤儒」と非難されている。 『礼記』檀弓上には、子張の子の申祥、および子張の弟子の公明儀の名が見える。.
子貢
子貢(しこう、紀元前520年 - 紀元前446年 )は孔子の弟子にして、孔門十哲の一人。孔子より31歳年少。春秋時代末期から戦国時代にかけて活躍した。子貢は字、本名は端木賜(たんぼくし)端木は姓、名は賜。。衛の人。弁舌に優れ衛、魯でその外交手腕を発揮する。また、司馬遷の『史記』によれば子貢は魯や斉の宰相を歴任したともされる。さらに「貨殖列伝」にその名を連ねるほど商才に恵まれ、孔子門下で最も富んだ。孔子死後の弟子たちの実質的な取りまとめ役を担った。唐の時代に黎侯に封じられた。.
子路
子路(しろ、紀元前543年 - 紀元前481年)は、孔門十哲の一人である。姓は仲、名は由であるが、『論語』では字の子路をもってしばしば言及される。季路とも呼ばれる。また、二十四孝の一人に選ばれることもある。.
子游
子游(しゆう、紀元前506年 - 紀元前443年?)は、春秋時代の儒学者で、孔子の弟子のひとり。文学(学問の才能)に優れていたといい、孔門十哲のひとりに数えられる。姓は言(げん)、名は偃(えん)、子游は字である。呉の人で、名の伝わる70人あまりの孔子の弟子(七十子)の中では唯一南方の出身。のちに帰郷して江南に儒学を広めたとされ、「南方夫子」と呼ばれた。 『論語』では武城(山東省武城県)の町の長官を務め、礼楽を以て民を教化していたという記載がある(雍也第六)。.
字
字(あざな、)とは、中国など東アジアの漢字圏諸国で使われる人名の一要素である。 昔、中国で成人男子が実名以外につけた名。日本でも学者・文人がこれをまねて用いた。 また、実名以外に呼び習わされた名。あだな。.
孔子
孔夫子の像 孔子(こうし、くじ、、공자〈〉、蔵: ;、紀元前552年9月28日‐紀元前479年3月9日)は、春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖。氏は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称である(子は先生という意味)。ヨーロッパではラテン語化された"Confucius"(孔夫子の音訳、夫子は先生への尊称)の名で知られている。読みの「こうし」は漢音、「くじ」は呉音。 有力な諸侯国が領域国家の形成へと向かい、人口の流動化と実力主義が横行して旧来の都市国家の氏族共同体を基礎とする身分制秩序が解体されつつあった周末、魯国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。 3000人の弟子がおり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている。すなわち、徳行に顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語に宰我・子貢、政事に冉有・子路、文学(学問のこと)に子游・子夏である。その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。 孔子の死後、儒家は八派に分かれた。その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集である伝が整理された(完成は漢代)。 孔子の死後、孟子・荀子といった後継者を出したが、戦国から漢初期にかけてはあまり勢力が振るわなかった。しかし前漢・後漢を通じた中で徐々に勢力を伸ばしていき、国教化された。以後、時代により高下はあるものの儒教は中国思想の根幹たる存在となった。 20世紀、1910年代の新文化運動では、民主主義と科学を普及させる観点から、孔子及び儒教への批判が雑誌『新青年』などで展開され、1949年に成立した中華人民共和国では、1960年代後半から1970年代前半の文化大革命において、毛沢東とその部下達は批林批孔運動という孔子と林彪を結びつけて批判する運動を展開。孔子は封建主義を広めた中国史の悪人とされ、林彪はその教えを現代に復古させようと言う現代の悪人であるとされた。近年、中国では、中国共産党が新儒教主義また儒教社会主義を提唱し(儒教参照)、また、「孔子」がブランド名として活用されている(孔子鳥、孔子学院を参照)。.
孔子家語
孔子家語(こうしけご)は『論語』に漏れた孔子一門の説話を蒐集したとされる古書。10巻。 『漢書』芸文志論語部に「孔子家語二十七巻」とあるが、その内容に関してはほとんど伝わらず、27巻本はその後程なくして散逸したと見られている。顔師古の注では、伝世本に非ずとしている。現在に伝わる『孔子家語』は、魏の王粛が再発見したものに注釈を加えたと称する44篇のものである。 現存する『孔子家語』には前漢の孔安国が撰した書に、その孫の孔衍が後序を補したものと記されているが、宋代から本格化した考証により、礼制で対立していた鄭玄派を論難するために王粛が偽作した書物とされることが多い。 ただし、その本文については『春秋左氏伝』『礼記』『説苑』『史記』など出典が現代まで伝わるものが多いため、その他の、現存する他書には見出せない文についても散逸した文献から採った可能性が高く、この書が王粛の偽撰であったとしても、孔門の説話集としては価値があると言えよう。.
孔門十哲
孔門十哲(こうもんじってつ)は、「孔門の十哲」「四科十哲」ともいわれ、孔子の弟子の中でも最も優れた十人の弟子をさす。.
宰我
宰 我(さい が)は、孔子の門人。姓は宰、名は予、字は子我。 魯国出身。孔門十哲の一人で弁論の達人と評された。孔門の中では最も実利主義的な人物で道徳を軽視したため、礼とともに道徳を重んじる孔子からよく叱責を受けていたことが論語で伝わっている(八佾第三など)。 史記によると彼はのちに斉国の長官になったが、田恒の反乱に加担し一族皆殺しにされた。ただし、史記のこの記述は春秋左氏伝や呂氏春秋と違う記述があることと当時叛乱に加わった人の中に別名で同じ字(あざな)の人物がいたことから司馬遷が混同して誤ったとする説(清の張翼など)がある。 Category:紀元前6世紀の哲学者 Category:紀元前5世紀の哲学者 Category:古代中国哲学者 Category:中国の儒学者 Category:紀元前の学者 Category:孔子弟子 Category:春秋戦国時代の人物.
仲弓
仲弓(ちゅうきゅう)は、孔門十哲のひとりである。姓は冉、名は雍、字は仲弓。魯国出身。 その人格の高さから「南面すべし」(君主は南を向いて座ることから、君主たる器量があるという意味)と孔子がたたえたほどである。.
フク不斉
宓 不斉(ふく ふせい、生没年未詳)は中国・春秋時代の儒学者・文官である。孔子の弟子の一人。孔子の門人で才能があった七十子の一人に数えられる。字は子賤(しせん)。 『論語』では公冶長篇に一度だけ登場する。 『史記』仲尼弟子列伝、および『孔子家語』弁政篇によると、不斉が単父(現在の山東省単県)の地の長官となった時に、「狭い土地で政治を行わせるのはもったいない」と孔子が評した。『呂氏春秋』察賢篇、劉向『説苑』政理篇、および『韓詩外伝』に載せる逸話によると、このとき不斉は古琴を弾いているだけで単父が治まった。巫馬期も単父を治めたが、非常に苦労したため、不思議に思って巫馬期が宓不斉にたずねると、力に任せず人に任せているために苦労せずに治められるのだと答えたという。 『呂氏春秋』具備篇に見える逸話では、魯の役人ふたりを宓不斉が亶父(単父に同じ)に連れてきて、彼らが文字を書こうとすると、肘を押さえて邪魔をした。うまく字が書けないと、宓不斉は役人を叱った。役人の報告を聞いた魯の君は、これは宓不斉が亶父を治めるのを自分に邪魔されたくないという意味だとさとったという。「掣肘」という熟語はこの故事にもとづく。 王充『論衡』には、宓不斉を性善・性悪について議論をなした人物のひとりとしてあげている。 顔之推『顔氏家訓』書証篇によると、単父に相当する兗州永昌郡城には漢代に立てられた宓不斉の碑があり、そこには『今文尚書』を伝えた伏生が宓不斉の子孫であると書いてあったという。 『漢書』芸文志には宓不斉の書として『宓子』16篇があったことを述べている。また、『景子』という書物にも宓子の言葉を記していたという。.
冉伯牛
冉 伯牛(ぜん はくぎゅう、紀元前544年 - ?)は春秋時代の儒学者。姓は冉、名は耕、字は伯牛。魯国(現:中国山東省南部)出身。『論語』では単に伯牛とも記載される。孔門十哲の一人。.
冉有
冉 有(ぜん ゆう)は、孔門十哲の一人。 名は求、字は子有。行政手腕に優れ季孫氏に用いられる。孔子からも政治の才能を認められ、大きな町や卿の家の長官として取り仕切ることができると評された。 一方、消極的な人柄であったと思しく、孔子から「聞くままに斯れこれを行え」と激励されている。 『論語』雍也篇および子路篇では「冉子」と呼ばれている。 Category:紀元前6世紀の哲学者 Category:紀元前5世紀の哲学者 Category:古代中国哲学者 Category:中国の儒学者 Category:紀元前の学者 Category:孔子弟子 Category:春秋戦国時代の人物.
公孫竜
#公孫 竜(こうそん りゅう、生没年不詳)は中国戦国時代の思想家。字は子秉(しへい)。後述する。.
公冶長
公冶 長(こうや ちょう、生没年未詳)は中国・春秋時代の儒学者である。「公冶」が姓。.
顔回
回 顔回(がんかい、紀元前521年 - 紀元前481年)は、孔子(孔丘)の弟子。回は名(諱)。字(あざな)は子淵(しえん)。ゆえに顔淵(がんえん)ともいう。.
論語
『論語』(ろんご、)とは、孔子と彼の高弟の言行を孔子の死後、弟子達が記録した書物である。『孟子』『大学』『中庸』と併せて儒教における「四書」の1つに数えられる。 四書のひとつである『孟子』はその言行の主の名が書名であるが、『論語』の書名が(たとえば「孔子」でなく)『論語』であるその由来は明らかでない。(『漢書』巻30芸文志に「」と門人たちが書き付けていた孔子の言葉や問答を、孔子死後に取り集めて論纂し、そこで『論語』と題したとある。) 別名、「倫語(りんご)」、「輪語」、「円珠経」とも言う。これは、六朝時代の学者、皇侃(おうがん)の著作『論語義疏』によると、漢代の鄭玄(じょうげん)という学者が論語を以て世務を経綸することが出来る書物だと言った所から、「倫語」という語が出現し、又その説く所は円転極まりないこと車輪の如しというので、「輪語」というと注釈し、「円珠経」については鏡を引用して、鏡はいくら大きくても一面しか照らし出さないが、珠(玉)は一寸四方の小さいものでも上下四方を照らすものであり、諸家の学説は鏡の如きもので一面しか照らさないが、論語は正に円通極まりないものである、という所から「円珠経」と言うと説かれている。.
閔子騫
子騫(びん しけん、紀元前536年 - 紀元前487年)は春秋時代の儒学者。名は損で、子騫は字。魯国出身。孔門十哲の一人。徳行で有名であり、孔子からも孝行者であると賞賛されている(『論語』先進第十一)。 継母と二人の腹違いの弟にひどい扱いを受けたがそれを父に知られないように耐え抜き、さらに継母たちを弁護までした(『二十四孝の閔子騫』を参照)。 現在の中華人民共和国の山東省沂水県に閔公山というのがあり、閔子騫が登用を避けるために逃げた場所として伝えられている。.
漆雕開
漆雕開(しっちょう かい、紀元前540年 - ?)は、孔子の弟子のひとり。漆雕(漆彫とも書く)が姓。漆雕啓とも書かれる『漢書』芸文志「『漆雕子』十三篇。孔子弟子漆雕啓後。」。本来の名は「啓」であって、のちに漢の景帝の名の啓を避諱して「開」に改めたものと考えられる。字は子開(『史記』)または子若(『孔子家語』)で、『孔子家語』によると孔子より11歳若い。 孔子の主要な弟子である七十子のうち、漆雕氏は3人が見える(漆雕開、漆雕哆、漆雕徒父(または漆雕従))。また、『孔子家語』好生篇、および劉向『説苑』権謀篇には漆雕憑(『説苑』では漆雕馬人)という人が見える。いずれも漆雕開との関係はよくわからない。.
澹台滅明
澹台 滅明(たんだい めつめい、紀元前502年? - 没年不詳)は中国・春秋時代の儒学者。孔子の弟子のひとり。字は子羽。魯の武城(山東省武城県)の出身。 容貌が非常に醜かったために、孔子は彼を愚鈍で才能に乏しいものと思った。しかし学業を受けてから、隠退して行いを修め、道を学び、名声が諸侯の間に伝わり、子游に公正さを賞された。見かけで人の能力を判断すると失敗するという例として、『史記』の張良伝(留侯世家)で用いられている。孔子は後に「吾、貌を以て人を取り、之を子羽に失す」と語っている。 Category:紀元前5世紀の哲学者 Category:古代中国哲学者 Category:孔子弟子 Category:中国の儒学者 Category:春秋戦国時代の人物.
有若
有若(ゆう じゃく)は、孔子の弟子のひとり。 『論語』学而篇では有子(ゆうし)と呼ばれ、曽子、冉子、閔子とならんで「子」がつけられていることから、重視されていたことがわかる。.
曾子
曾子(そう し、 紀元前505年 - 没年不詳)は、孔子の弟子で、儒教黎明期の重要人物である。諱は参(しん)。字は子輿(しよ)。父は曾点(子皙)、子に曾申。十三経の一つ『孝経』は、曾子の門人が孔子の言動をしるしたと称されるものである。また、孔子の孫子思は曾子に師事し、子思を通し孟子に教えが伝わったため、孟子を重んじる朱子学が正統とされると、顔回・曾子・子思・孟子を合わせて「四聖」と呼ぶようになった。.