21 関係: 右大臣、宝暦、寛政、左大臣、三条公修、一条忠良、一条道香、伏見宮貞敬親王、徳川重倫、内大臣、西園寺実韶、関白、明和、10月14日 (旧暦)、11月25日、11月28日、11月7日 (旧暦)、1756年、1771年、1791年、1795年。
右大臣
右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.
宝暦
宝暦(ほうれき、ほうりゃく、旧字体: 寶曆)は日本の元号の一つ。寛延の後、明和の前。1751年から1764年までの期間を指す。この時代の天皇は桃園天皇、後桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川家重、徳川家治。.
寛政
寛政(かんせい)は日本の元号の一つ。天明の後、享和の前。1789年から1801年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は第11代、徳川家斉。.
左大臣
左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.
三条公修
三条 公修(さんじょう きんおさ、安永3年8月1日(1774年9月6日) - 天保11年9月7日(1840年10月2日))は、江戸時代の公卿。官位は従一位内大臣。 藤原北家閑院流の嫡流で、清華家の一つ三条家の出身。父は三条実起、母は彦根藩主井伊直幸の養女・美子。兄弟に押小路実茂、鹿園空晁、三条西実勲室がいる。妻は一条輝良の娘、和子(真観院)。子に実万、実師がいる。 天明4年2月16日(1784年4月5日)に従三位に叙任する。その後、従一位内大臣に至る。天保11年(1840年)、薨去。享年67(満66歳没)。 Category:江戸時代の公家 きんおさ Category:1774年生 Category:1840年没.
一条忠良
一条 忠良(いちじょう ただよし、安永3年3月22日(1774年5月2日) - 天保8年6月3日(1837年7月5日))は、江戸時代の公卿。 一条輝良の子で、大勝寺と号す。正室は肥後熊本藩主細川斉茲女富子。子に一条実通、一条忠香、久我建通、一条秀子(徳川家定室)、知君(寛彰院。池田斉輝室)、通子(松平頼学室)、崇子(鷹司輔熙室)らがいる。 天明3年(1783年)従三位となり(のち寛政11年(1799年)には従一位となった)、内大臣、右大臣、左大臣を歴任。文化11年(1814年)には、関白となった。のち文政6年(1823年)関白を辞めたが、同11年(1828年)准三后となっている。 Category:摂関 Category:江戸時代の公家 たたよし たたよし Category:1774年生 Category:1837年没.
一条道香
一条 道香(いちじょう みちか、享保7年10月10日(1722年11月18日) - 明和6年9月5日(1769年10月4日))は江戸時代の公卿。一条兼香の子。母は家女房。正室は池田政純の娘、静子(池田継政の養女)。子は一条輝良、八代君(徳川治保室)、真君(久我信通室)、教君(三宝院継)らが、他に早世した2男4女がいる。号は得成寺。藤氏長者。八代君は江戸幕府15代征夷大将軍徳川慶喜の曾祖母であるため、道香は慶喜の高祖父に当たる。.
伏見宮貞敬親王
伏見宮貞敬親王(ふしみのみや さだゆきしんのう、安永4年12月10日(1776年1月1日) - 天保12年1月21日(1841年2月12日))は、江戸時代の日本の皇族。伏見宮第19代。伏見宮邦頼親王の王子。幼称は嘉禰宮(かねのみや)。 安永8年(1779年)の後桃園天皇の崩御の際には、後継候補に名が挙がった。 寛政9年(1797年)8月親王宣下。貞敬と命名される。同月元服し、上野太守に補任され三品に叙せられる。享和2年(1802年)父邦頼親王が薨去したことにより伏見宮を相続する。文化元年(1804年)兵部卿となり、翌文化2年(1805年)には二品に昇叙される。文化8年(1811年)一条輝良の女輝子(てるこ)と結婚する。天保12年(1841年)正月一品に昇叙するが、間もなく薨去した。67歳。.
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徳川重倫
徳川 重倫(とくがわ しげのり)は、紀州藩の第8代藩主。.
内大臣
内大臣(ないだいじん)は、日本の律令官制で太政官に置かれた令外官の一つ。左大臣・右大臣に次ぐ官職。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。和訓は「うちのおおまえつぎみ/うちのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。員外の大臣の意から「数の外(ほか)の大臣」とも、太政大臣と左・右大臣の三公を三台星と呼ぶのに対して「かげなびく星」とも呼ばれる。左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情のために出仕できない場合に、代理として政務・儀式を司った。.
西園寺実韶
西園寺 実韶(さいおんじ さねつぐ、安永6年12月7日(1778年1月5日) - 天明6年11月23日(1787年1月12日))は、江戸時代後期の公卿。光格天皇(119代)に仕え、官位は従三位左近衛中将。父は一条輝良。養父は西園寺公兼。 天明2年(1782年)に叙爵。以降累進して天明6年(1786年)に従三位となり公卿に列した。この年に左近衛権少将から左近衛権中将となり、元服もしたのだが、11月23日に薨去している。享年10。西園寺賞季の子西園寺公氏が名跡を継いだ。.
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関白
関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.
明和
明和(めいわ)は日本の元号の一つ。宝暦の後、安永の前。1764年から1772年までの期間、施行された。この時代の天皇は後桜町天皇、後桃園天皇。江戸幕府将軍は徳川家治。.
10月14日 (旧暦)
旧暦10月14日(きゅうれきじゅうがつじゅうよっか)は、旧暦10月の14日目である。六曜は大安である。.
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11月25日
11月25日(じゅういちがつにじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から329日目(閏年では330日目)にあたり、年末まであと36日ある。.
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11月28日
11月28日(じゅういちがつにじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から332日目(閏年では333日目)にあたり、年末まであと33日ある。.
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11月7日 (旧暦)
旧暦11月7日(きゅうれきじゅういちがつなのか)は旧暦11月の7日目である。六曜は大安である。.
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1756年
記載なし。
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1771年
記載なし。
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1791年
記載なし。
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1795年
記載なし。
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