45 関係: お台場、南鐐二朱銀、吹替え、吉川弘文館、天保通宝、太政官、小判、丁銀、両、一分銀、一朱金、二分金、匁、嘉永、グラム、兌換券、短冊、灰吹銀、秤量銀貨、銀、銀座 (歴史)、銀貨、質量、黒船来航、金、金座、長方形、造幣局 (日本)、東京堂出版、東洋経済新報社、江戸幕府、江戸時代、洋銀、朱、明治、浦賀、文 (通貨単位)、文政、慶応、1824年、1829年、1853年、1854年、1868年、1869年。
お台場
船から見たお台場 お台場の夜景 お台場(おだいば)は、東京港埋立第13号地に属する東京都港区台場、品川区東八潮、江東区青海のうち青海南ふ頭公園以北から成るエリアである。 広義では東京港埋立第13号地全体を指し、さらには同埋立第10号地をも加えて東京臨海副都心地区を指す。.
南鐐二朱銀
南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)とは、江戸時代に流通した銀貨の一種で、初期に発行された良質の二朱銀を指す。.
吹替え
* 吹替え(ふきかえ) - 流通済みの金属製品を鋳造しなおすこと。改鋳。貨幣でよく行われる。.
吉川弘文館
吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.
天保通宝
天保通宝(てんぽつうほう)とは、江戸時代末期から明治にかけての日本で流通した銭貨。天保銭(てんぽうせん)ともいう。形状は、小判を意識した楕円形で、中心部に正方形の穴が開けられ、表面には「天保通寳」、裏面には「當百」と表記され、金座後藤家の花押が鋳込まれている。銅製で、重量は5.5匁(約20.6グラム)。.
太政官
太政官.
小判
小判(こばん)とは、江戸時代に流通した金貨の一種である。金座で用いられた公式な呼称は小判であり『三貨図彙』では「小判」と明記されているが、『』および『大日本貨幣史』などの古銭書には小判金(こばんきん)という名称で収録されており、貨幣収集界では小判金の名称が広く用いられている。当時の文書には単に金と記されていることが多く、「金百両」などと表記された。計数貨幣であるが量目(質量)および金品位が一定に定められており、金含有量が額面を決める秤量貨幣の発展形である。.
丁銀
丁銀(ちょうぎん)とは、日本国内において主に商取引用として室町時代後期から明治維新まで流通した銀貨である。当時は単に銀と呼ばれ、例えば品位を下げた元禄丁銀は「元字銀」などと称呼された。丁銀という名称は『』の記述によれば棒状の銀塊の意味である銀(ちょうぎん)が挺銀(ちょうぎん)を経て変化したものとされる日本の貨幣(1972, 1973).。.
両
両(りょう)は、尺貫法における質量の単位であり、また、近世の日本における金貨、および中国における秤量銀貨の通貨単位である。.
一分銀
一分銀(いちぶぎん)は、江戸時代末期に流通した銀貨の一種。.
一朱金
一朱金(いっしゅきん)とは、江戸時代に流通した金貨の一種である。 一朱判(いっしゅばん)、または発行が文政期のみであったことから文政一朱判(ぶんせいいっしゅばん)、あるいはその形状から角一朱金(かくいっしゅきん)ともいう。.
二分金
二分金(にぶきん)とは、江戸時代に流通した金貨の一種である。 金座および幕府関連資料に見られる正式名称は二分判(にぶばん)であるが、天保8年(1837年)の一分銀発行以降は「二分金」という名称も普及するようになった三上隆三 『江戸の貨幣物語』 東洋経済新報社、1996年。 なお、江戸時代初期鋳造の慶長二分判も存在するが、これは試鋳貨幣的存在であるとされる。また宝永小判は正徳小判発行後は二分判扱いとなった。.
匁
江戸時代に両替商で用いられた後藤分銅貳拾両(200匁:749.07g), 拾両(100匁:374.62g) 匁(もんめ)(記号:mom)には、以下の二つの用法があった『廣漢和辞典 上巻』「勹部-匁(1410)」,p416.。.
嘉永
嘉永(かえい)は日本の元号の一つ。弘化の後、安政の前。1848年から1855年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家慶、徳川家定。.
グラム
ラム(gramme, gram, 記号: g)は、質量の単位である。国際単位系(SI)において、キログラム(kg)の1000分の1の質量と定義されている。 一円硬貨の質量が、1.0 g である。 メートル法によって新しい質量の単位として定められた。「グラム」という名称は、ラテン語のgrámmaに由来する。元々はグラムが質量の基本単位で、「最大密度にある蒸留水1ミリリットルの質量」と定義された。しかし、作られた原器はキログラムの質量を示すもので、その質量が1キログラムと再定義され、グラムはその1000分の1ということになった。 CGS単位系では質量の基本単位であったが、MKS単位系およびそこから派生した国際単位系ではキログラムが基本単位とされている。ただし、SI接頭辞はキログラムではなくグラムにつけることとなっており、例えばキログラムの10−6倍は、「マイクロキログラム」(µkg) ではなく「ミリグラム」(mg) となる。なお、106 g (.
兌換券
兌換券(だかんけん)とは、何かの代替として渡される券・通貨のこと。.
短冊
七夕の笹飾り。様々な色の短冊が吊り下げられている 短冊(たんざく)は、薄い木や竹の皮、紙を細長く切って短文の字を書くためのもの。短尺、短籍とも書かれる。もとは目印や簡単な通信に使っていたが(現代でいうタグ - tag)、後に礼紙(らいし)で包んだり紙縒り(こより)にして見えないようにする拈り文(ひねりぶみ)、立て文(たてぶみ)となり、神仏への願いを掲げたり、あるいは籤や占い、呪術にも用いられた。このため、短冊を認めるには礼儀や作法を伴うようになり、後に短歌や俳句を詠む際に使われる分厚く装飾が施された紙片のことも指すようになるが、その書式には古より慣例とされる作法がある。 現代の日本では、七夕の行事の一環として願い事を書く目的で用いる、折り紙を細長く切ったものが指すことが多い。.
灰吹銀
吹銀(はいふきぎん)は、銀山から山出しされ、灰吹法により製錬された銀地金である。山吹銀あるいは山出し銀とも呼ばれる。.
秤量銀貨
中国 馬蹄銀 秤量銀貨(しょうりょうぎんか/ひょうりょうぎんか)とは量目が不定の銀地金を貨幣として用いるものであり、取引毎に天秤で目方を測定して使用される秤量貨幣である。 日本では、江戸時代の丁銀および豆板銀(小玉銀)が有名であるが、飛鳥時代に用いられたとされる無文銀銭(量目が比較的揃えられているため計数貨幣とする説もある)および戦国時代から江戸時代初期に掛けて各地で流通した領国貨幣(りょうごくかへい)などもあった。また秤量銀貨が最も広く用いられたのは地丁銀制に見られるように中国であり、馬蹄銀(ばていぎん)などの銀錠(ぎんじょう)が大口取引に用いられ、鞍の形をした鞍型銀(くらがたぎん)、タイでは腕輪銀(うでわぎん)および虎の舌銀(とらのしたぎん)などが量目に応じて取引に用いられた。 これらの秤量銀貨、特に中国のものは南鐐(なんりょう)と呼ばれる純銀に近いもので、南鐐は中国の銀山の地名に由来し、同義語としてソーマと呼ばれるものがあったが、これは石見銀山が佐摩と呼ばれる地にあり、ここから産出される良質の灰吹銀という意味であった。 中国 鞍型銀 銀山から山出しされる鉱石を製錬して得られる灰吹銀は、銀貨および銀製品の原料とされるが、これに極印を打ったものがそのまま目方により取引に使用され、極印銀(ごくいんぎん)と呼ばれ、また小額取引にはこれを適宜切断した切銀(きりぎん)が用いられ、領国貨幣はこのようなものが中心であった。領国貨幣は産地により銀品位が多種多様であり、幕府による丁銀は品位が一定に定められたが、吹替えにより品位が変化し、実質を重視する商人は見かけの量目よりも含有銀量を重視し、取引はしばしば煩雑なものになった。 日本では秤量銀貨の量目表示は戦国時代末期以降、貫および匁の単位を主に用いたが、それ以前は43匁(約161グラム)を銀拾両(十両)とし、これを銀一枚(ぎんいちまい)と呼ぶ単位が用いられ、江戸時代でも恩賞、贈答用にはこの単位が用いられた。一方、中国では両といえば専ら秤量銀貨の単位であり、テールと呼ばれた。 やがて灰吹銀を譲葉の形状に打ち伸ばした古丁銀が登場し、これが江戸時代の丁銀の原型となり、量目は不定であるものの銀一枚が大方の目安であった。丁銀は銀座常是および両替商が銀500匁または銀一枚毎に包封した包銀の形で取引に使用されるのが一般的であり、裸銀の状態で売買に使用されることはほとんどなかった。 江戸時代の銀貨といえば当初は全て秤量銀貨を指していたが、明和年間以降、南鐐二朱判、一分銀などの計数銀貨が発行されるようになり、これは秤量銀貨に対する、小判など両を単位とする貨幣の流通量の増大を意味し、銀高金安となり江戸の諸物価高を引き起こした。文政年間以降は計数銀貨の流通高が秤量銀貨を凌駕するようになり、銀目取引は次第に銀札および手形などに中心が移った。慶応4年(1868年)の明治政府の銀目廃止の布令により、丁銀・豆板銀は通用停止となった。.
銀
銀(ぎん、silver、argentum)は原子番号47の元素。元素記号は Ag。貴金属の一種。.
銀座 (歴史)
銀座(ぎんざ)とは、中近世の日本の政権において銀地金の買売、および銀地金への極印打つまり貨幣の鋳造を担った場所に与えられた呼称である。.
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銀貨
2004年にアメリカで発行された銀貨 銀貨(ぎんか)とは、銀を素材として作られた貨幣をいう。古来、金貨・銅貨とともに世界各地で流通した。.
質量
質量(しつりょう、massa、μᾶζα、Masse、mass)とは、物体の動かしにくさの度合いを表す量のこと。.
黒船来航
嘉永7年(1854年)横浜への黒船来航ペリーに随行した画家ヴィルヘルム・ハイネによるリトグラフ ペリーとオランダ語を介しての交渉の様子。(場所不明) 黒船来航(くろふねらいこう)とは、嘉永6年(1853年)に、代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航した事件。当初久里浜に来航したが、当時久里浜の港は砂浜で黒船が接岸できなかったことから、幕府は江戸湾浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)に誘導した。アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年の日米和親条約締結に至った。日本では主に、この事件から明治維新までを「幕末」と呼んでいる。.
金
自然金 金(きん、gold, aurum)は原子番号79の元素。第11族元素に属する金属元素。常温常圧下の単体では人類が古くから知る固体金属である。 元素記号Auは、ラテン語で金を意味する aurum に由来する。大和言葉で「こがね/くがね(黄金: 黄色い金属)」とも呼ばれる。。 見かけは光沢のある黄色すなわち金色に輝く。日本語では、金を「かね」と読めば通貨・貨幣・金銭と同義(お金)である。金属としての金は「黄金」(おうごん)とも呼ばれ、「黄金時代」は物事の全盛期の比喩表現として使われる。金の字を含む「金属」や「金物」(かなもの)は金属全体やそれを使った道具の総称でもある。 金属としては重く、軟らかく、可鍛性がある。展性と延性に富み、非常に薄く延ばしたり、広げたりすることができる。同族の銅と銀が比較的反応性に富むこととは対照的に、標準酸化還元電位に基くイオン化傾向は全金属中で最小であり、反応性が低い。熱水鉱床として生成され、そのまま採掘されるか、風化の結果生まれた金塊や沖積鉱床(砂金)として採集される。 これらの性質から、金は多くの時代と地域で貴金属として価値を認められてきた。化合物ではなく単体で産出されるため精錬の必要がなく、装飾品として人類に利用された最古の金属で、美術工芸品にも多く用いられた。銀や銅と共に交換・貨幣用金属の一つであり、現代に至るまで蓄財や投資の手段となったり、金貨として加工・使用されたりしている。ISO通貨コードでは XAU と表す。また、医療やエレクトロニクスなどの分野で利用されている。.
金座
金座址、京都市中京区 金座(きんざ)とは、江戸幕府において金貨鋳造あるいは鑑定・検印を行った場所あるいは組織。.
長方形
長方形 長方形(ちょうほうけい、rectangle)とは.
造幣局 (日本)
OAPタワーから南望する造幣局本局 広島支局 独立行政法人造幣局(ぞうへいきょく)は、硬貨の製造、勲章・褒章及び金属工芸品等の製造、地金・鉱物の分析及び試験、貴金属地金の精製、貴金属製品の品位証明(ホールマーク)などの事業を行う日本の行政執行法人である独立行政法人である。そのため、職員の身分は国家公務員である。.
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東京堂出版
株式会社 東京堂出版(とうきょうどうしゅっぱん)は、東京都千代田区にある日本の出版社。.
東洋経済新報社
株式会社東洋経済新報社(とうようけいざいしんぽうしゃ、)は、ビジネス書や経済書などの発行を専門とする、日本の出版社である。.
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江戸幕府
江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.
江戸時代
江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.
洋銀
洋銀(ようぎん)とは、幕末から明治初期にかけての日本、および近世の中国に流入した外国製の銀貨のこと。特に断りが無い場合には1497年以後メキシコ(当初はスペイン領)を中心とする、スペイン系の中南米諸国で鋳造されて国際決済で長く用いられてきたSpanish dollar (メキシコドル/メキシコ銀)といわれる、量目420グレーンの8レアル銀貨を指す場合が多い。.
朱
朱(しゅ、あけ、あか).
明治
明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.
浦賀
浦賀(うらが)は、神奈川県横須賀市東部にある地域。狭義には横須賀市浦賀またはそこに西浦賀町・東浦賀町を加えた区域、広義には浦賀行政センターの管轄(町村制による明治の大合併で誕生したかつての三浦郡浦賀町付近)を指す。マシュー・ペリーが黒船で来航した歴史をもつが、それ以前にも通商や補給を求めて外国船がしばしば来航していた。.
文 (通貨単位)
寛永通宝。上の貨幣は四文、中央と下の貨幣は一文の額面であった。 清の紙幣、大清寶鈔(大清宝鈔)。弐千文とある。1859年に製造。 文(もん)は、かつて漢字文化圏で使用された銭貨の通貨単位である。日本では、ここから転じて長さの単位としても使用される。.
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文政
文政(ぶんせい)は日本の元号の一つ。文化の後、天保の前。1818年から1831年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。.
慶応
慶応(けいおう、旧字体: 慶應)は日本の元号の一つ。元治の後、明治の前。1865年から1868年までの期間。この時代の天皇は孝明天皇、明治天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂、徳川慶喜。日本での「一世一元の詔」発布以前では最後の元号。.
1824年
記載なし。
1829年
記載なし。
1853年
記載なし。
1854年
記載なし。
1868年
記載なし。
1869年
記載なし。