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ローワー・カナダ

索引 ローワー・カナダ

ーワー・カナダ(英:Lower Canada)は、現在のカナダ、ケベック州にあったイギリスの植民地である。公式には1791年から1841年まで存在し、領域は大まかに現在のケベック州南部とニューファンドランド・ラブラドール州のラブラドール地方を合わせたものだった。ローワーという名前は緯度ではなく海抜からきており、アッパー・カナダからはセントローレンス川の下流 (lower) に位置した。緯度に関しては、アッパー・カナダの方がローワー・カナダより南にあった。東はセントローレンス湾と大西洋に面している。.

39 関係: 大西洋七年戦争人口ノバスコシア州ラブラドール地方ヌーベルフランスプリンスエドワードアイランド州フランス系カナダ人フレンチ・インディアン戦争ニューブランズウィック州ニューファンドランド・ラブラドール州アメリカ軍アッパー・カナダイギリスオンタリオ州カナダカトリック教会ケベック州ケベック・シティーセントローレンス湾公用語米英戦争緯度首都高さ英領北アメリカ法英語通貨植民地12月26日1790年1791年1837年1838年1840年1841年1867年2月10日7月23日

大西洋

大西洋(たいせいよう、Atlantic Ocean、Oceanus Atlanticus)は、ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸、アメリカ大陸の間にある海である。なお、大西洋は、南大西洋と北大西洋とに分けて考えることもある。おおまかに言うと、南大西洋はアフリカ大陸と南アメリカ大陸の分裂によって誕生した海洋であり、北大西洋は北アメリカ大陸とユーラシア大陸の分裂によって誕生した海洋である。これらの大陸の分裂は、ほぼ同時期に発生したと考えられており、したがって南大西洋と北大西洋もほぼ同時期に誕生したとされる。.

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七年戦争

七年戦争(しちねんせんそう、Seven Years' War、Siebenjähriger Krieg)は、1754年から1763年まで(主な戦闘は1756年から1763年まで)行われた戦争である。 ハプスブルク家がオーストリア継承戦争で失ったシュレージエンをプロイセンから奪回しようとしたことが直接の原因だが、そこに1754年以来の英仏間の植民地競争が加わり世界規模の戦争となった。イギリス・プロイセン側とその他の列強(フランスとオーストリアとロシア、スペイン、スウェーデン)に分かれてオスマン帝国を除く当時の欧州列強が全て参戦しており、戦闘はヨーロッパ以外にも拡大した。またインドではムガル帝国がフランスの支持をうけて、イギリスによるベンガル地方の侵攻を阻止しようとした。 この戦争の前にフランスとオーストリアは、台頭してきたイギリスとプロイセンを抑えるために古くからの因縁を捨てて同盟を組んだ(外交革命)。しかし、戦争の結果、墺仏の外交努力は英普側が勝利したことで水泡と化し、イギリスの飛躍とフランスのヨーロッパにおける優位性の喪失、オーストリアの神聖ローマ帝国内での権威低下を招き、ヨーロッパの勢力均衡を変える結果となった。.

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人口

人口(じんこう、仏: 英: Population、独: Bevölkerung)は、ある人間集団の総体を指す概念であり、またその集団を構成する人間の総数を指す統計上の概念である。.

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ノバスコシア州

ノバスコシア州(Nova Scotia、 ノウヴァ・スコウシャ。Nouvelle-Écosse、 ヌヴェレコッス)は、カナダ東部の大西洋に面する州。州名はラテン語で「新たなるスコットランド人の国(New Scotland)」を意味する。.

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ラブラドール地方

ラブラドール地方の旗 ラブラドール地方の地図 ラブラドール地方(Labrador、ラブラドール海岸 Coast of Labrador とも)はカナダの大西洋岸、アトランティック・カナダにある地域。ベルアイル海峡で隔てられたニューファンドランド島とともに、ニューファンドランド・ラブラドール州を形成している。ラブラドール地方は西側一帯をケベック州と、最北端でヌナブト準州とそれぞれ接している。ラブラドール半島の東海岸のごく一部分にあたるが、その面積は269,073.3 平方km (ニュージーランドとほぼ同じ広さ)にも及びニューファンドランド・ラブラドール州の70%以上を占め、手付かずの森林やツンドラが広がっている。 ラブラドール地方の人口は2001年の国勢調査で27,864人。うち30%はイヌイット、インヌ(Innu、モンタニエ・ナスカピ)、メティス族(Métis)の各先住民族である。行政中心地は第二次世界大戦中に作られた空軍基地の町ハッピーバレー・グースベイ(Happy Valley-Goose Bay)、以前の中心地は漁師町バトルハーバー(Battle Harbour)。多くの町は大西洋(ラブラドル海)に面した港町だが、一番人口が多いのはケベック州との境界近くの内陸部にある鉄鉱山の町ラブラドール・シティ(Labrador City、人口10,000人近く)である。.

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ヌーベルフランス

1681年の北アメリカの地図 ヌーベルフランス(Nouvelle-France、New France)は、1534年にジャック・カルティエがセントローレンス川を探検した時期から、1763年のパリ条約により、スペインとイギリスにヌーベルフランスを移譲した時まで、フランスが北アメリカに植民を行った地域である。その頂点にあった1712年(ユトレヒト条約の前)、領土は東はニューファンドランド島から西のロッキー山脈まで、北はハドソン湾から南のメキシコ湾までに拡大した。この領土はカナダ、アカディア、ハドソン湾、ニューファンドランド(プレサンス)およびルイジアナの5植民地に分割され、それぞれに管理政体が置かれた。ユトレヒト条約の結果、本土のアカディア、ハドソン湾およびニューファンドランド植民地に対するフランスの領有権が消え、アカディアの後継地としてイル・ロワイヤル(ケープ・ブレトン島)の植民地が設立された。.

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プリンスエドワードアイランド州

プリンス・エドワード・アイランド州(Prince Edward Island, PEI、l'Île-du-Prince-Édouard, Î.-P.-É.)は、カナダの州の1つ。カナダの州のなかで面積、人口共にもっとも小さい。.

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フランス系カナダ人

フランス系カナダ人(英語:French Canadians 、フランス語:男:Canadien Français 女: Canadienne Française)は、北アメリカの代表的な民族である。17世紀または18世紀にヌーベルフランスに移住したフランスからの入植者の子孫で(広義にはフランス語を使用する)カナダの国籍を持つ人々を指す。カナダのフランス語圏社会の根幹をなしており、によるとその数は5,077,215人でカナダの総人口の約15%を占めており、(6,509,500人)に次いで二番目に多い民族グループである。.

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フレンチ・インディアン戦争

フレンチ・インディアン戦争(フレンチ・インディアンせんそう、French and Indian War、1755年 - 1763年)は、七年戦争のうち、北アメリカを舞台に繰り広げられた一連の戦闘である。イギリス領アメリカ植民地とヌーベルフランスが主な戦場となり、いずれも、本国からの援助を得て戦闘が行われた。1756年、この戦争は北アメリカの地域紛争から世界的な戦争となった。カナダでは、一部の歴史家がこの戦争を単に七年戦争と呼ぶが、フランス系カナダ人はしばしば、この戦争のことをラ・ゲール・ド・ラ・コンケットLa Guerre de la Conquête(征服戦争)と表現する。 ヨーロッパでは、北アメリカで行われたこの戦争に関して、特に決まった呼び名はない。この名はイギリス人入植者の、2つの主な敵、フランス王国の軍、フランス軍と同盟を結んだ様々なインディアンの部族のことである。しかしグレートブリテン王国(イギリス)もまたインディアンと同盟を結んでいた。しかし、イギリス側からの視点でフランスがインディアンと同盟していたと見るため、「フランスとインディアンとの戦争(French and Indian War)」と呼ばれる。この戦争は、従来の植民地戦争とは違い、欧州の戦争に先立つ植民地での衝突で火ぶたが切られた。 戦場は主にヌーベルフランスと、バージニア植民地からノバスコシアに至るまでのイギリス人入植地との境界に沿って行われた。戦争の発端は、アレゲニー川と、モノンガヘラ川が合流する場所(現在のペンシルベニア州ピッツバーグ)で起きた紛争だった。この紛争は1754年5月、ジュモンヴィルグレンの戦いにおいて、バージニア民兵隊の指揮官、ジョージ・ワシントンが、フランスの巡回兵を待ち伏せして起こした暴動に発展した。1755年、1756年そして1757年の、ペンシルベニアとニューヨーク植民地における作戦はことごとく失敗した。失敗の原因は、同盟を管理する上でのまずさ、内輪もめ、そしてフランスとインディアン同盟の攻撃が功を奏したためであった。1755年の、ノバスコシアと(フランス人入植地の)アカディアの境界で起きたボーセジュールの戦いは、イギリスがアカディア人をこの地から追い出した結果、アカディア人の抵抗が起きたものである。 1757年、イギリスにとって惨憺たる敗戦が続いた。ルイブールへの遠征の失敗に続き、ウィリアム・ヘンリー砦の戦いでは、インディアンによりイギリス兵にかなりの残虐行為がなされた。イギリス本国政府は評価を落とし、ウィリアム・ピットが首相に返り咲いた。ピットは植民地の軍事力を大幅に増やし、一方フランスは、ヌーベルフランスの限られた戦力の援助のために、護送船団を出すのには乗り気でなく、代わりに、ヨーロッパの戦争で、プロシャとその同盟国に対する軍事力を結集するのを優先させた。1758年から1760年の間、イギリス軍はヌーベルフランスの中心地ケベックの陥落に成功し、1760年9月、ついにモントリオールを攻略した。 この結果、イギリスは第二次百年戦争ともいえる北米植民地戦争の参戦国で最も大きな発展を遂げることとなった。フランスはミシシッピ川以西のルイジアナを同盟国のスペインに割譲した、これは、スペインが敗戦によりフロリダをイギリスに割譲した、その代償だった。スペインは、イギリスにフロリダを割譲した見返りに、キューバのハバナを手に入れた。カリブ海から北のフランスの植民地は、サンピエール島とミクロン島現在もフランスの海外領土(海外準県)である。だけになった。これにより、イギリスは、北アメリカ東半分の植民地勢力の支配を固めた。.

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ニューブランズウィック州

ニューブランズウィック州(New Brunswick 、Nouveau-Brunswick, ケベック・フランス語: )は、カナダ東部の大西洋に面する州。アカディア人などのフランス語を母語とする住民が人口の約3割を占め、英語とフランス語の2言語を公用語としている唯一の州である。州都はフレデリクトン。総面積73,500km2、州人口は75万1,171人(2011年推計)。ニューブランズウィックとは英語で「新たなブラウンシュヴァイク」を意味する。.

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ニューファンドランド・ラブラドール州

ニューファンドランド・ラブラドール州(Newfoundland and Labrador 、Terre-Neuve-et-Labrador)は、カナダの州の一つ。カナダ北東部に位置するラブラドール半島東部のラブラドール地方とニューファンドランド島から成る。.

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アメリカ軍

アメリカ軍(アメリカぐん、United States Armed Forces)は、アメリカ合衆国が有する軍隊。アメリカ合衆国軍(アメリカがっしゅうこくぐん)、合衆国軍(がっしゅうこくぐん)とも呼ばれ、日本では米軍(べいぐん)と略される。.

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アッパー・カナダ

アッパー・カナダ(Upper Canada)は、現在のカナダ、オンタリオ州にあったイギリスの植民地である。公式には1791年から1842年まで存在し、領域は大まかに現在の南オンタリオに一致した。アッパーという名前は緯度ではなく、川の上流と言う意味(海抜と言う言い方も出来る)から来ており、ローワー・カナダからはセントローレンス川の上流(upper)に位置した。 今日の南オンタリオの地域が最初にヨーロッパの支配下に入ったのは、ヌーベルフランスの一部としてだった。1763年のパリ条約でフランスからイギリスへ割譲され、1774年のケベック法でに組み込まれた。アッパー・カナダは1790年にイギリスの議会を通過した (Constitutional Act)によって1791年12月26日に一つの政体となった。この法はケベック植民地をアッパー・カナダとローワー・カナダにわけて、それぞれの統治のやり方を定めたものだった。この区分によって、アッパー・カナダに住む王党派アメリカ開拓者とイギリスからの移民はイギリスの法律と機構に組み込まれ、フランス語話者の多いローワー・カナダはフランスの市民法とカトリックの信仰を続けることができた。 植民地の統治は、副総督と行政委員会および立法議会によって行われた。初代副総督はジョン・グレイブス・シムコーであった。1796年2月1日、アッパー・カナダの首都はニューアーク(今日のナイアガラオンザレイク)からヨーク(今日のトロント)に移された。これはアメリカ合衆国からの攻撃に耐えやすいと判断したためであった。 アッパー・カナダの地方政府は「地区」が基本であった。1788年に4つの地区が置かれた。.

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イギリス

レートブリテン及び北アイルランド連合王国(グレートブリテンおよびきたアイルランドれんごうおうこく、United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)、通称の一例としてイギリス、あるいは英国(えいこく)は、ヨーロッパ大陸の北西岸に位置するグレートブリテン島・アイルランド島北東部・その他多くの島々から成る同君連合型の主権国家である。イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの4つの国で構成されている。 また、イギリスの擬人化にジョン・ブル、ブリタニアがある。.

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オンタリオ州

ンタリオ州(Ontario 、Ontario)は、カナダの州の1つ。 カナダの州の中では最も人口が多く、国全体の人口の約3分の1がこの州に集まっており、カナダの政治・経済の中心となっている。カナダ中東部に位置し、州都はカナダ最大の都市トロント。連邦政府の首都オタワはイギリス系の当州とフランス系のケベック州との境界に位置するが、アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.などのような中央政府直轄地ではなく、あくまでオンタリオ州に属する一都市という位置づけにある。.

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カナダ

ナダ(英・、 キャナダ、 キャナダ、カナダ)は、10の州と3の準州を持つ連邦立憲君主制国家である。イギリス連邦加盟国であり、英連邦王国のひとつ。北アメリカ大陸北部に位置し、アメリカ合衆国と国境を接する。首都はオタワ(オンタリオ州)。国土面積は世界最大のロシアに次いで広い。 歴史的に先住民族が居住する中、外からやってきた英仏両国の植民地連合体として始まった。1763年からイギリス帝国に包括された。1867年の連邦化をきっかけに独立が進み、1931年ウエストミンスター憲章で承認され、1982年憲法制定をもって政体が安定した。一連の過程においてアメリカと政治・経済両面での関係が深まった。第一次世界大戦のとき首都にはイングランド銀行初の在外金準備が保管され、1917年7月上旬にJPモルガンへ償還するときなどに取り崩された。1943年にケベック協定を結んだ(当時のウラン生産力も参照)。1952年にはロスチャイルドの主導でブリンコ(BRINCO)という自然開発計画がスタートしている。結果として1955年と1960年を比べて、ウラン生産量は約13倍に跳ね上がった。1969年に石油自給国となる過程では、開発資金を供給するセカンダリー・バンキングへ機関投資家も参入したので、カナダの政治経済は機関化したのであった。 立憲君主制で、連邦政府の運営は首相を中心に行われている。パワー・コーポレーションと政界の連携により北米自由貿易協定(NAFTA)に加盟した。.

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カトリック教会

トリック教会(カトリックきょうかい、)は、ローマ教皇を中心として全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派。その中心をローマの司教座に置くことからローマ教会、ローマ・カトリック教会とも呼ばれる。.

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ケベック州

ベック州(Le Québec ケベク、Quebec 、 クェベック、ケベック)は、カナダ東部の州の1つである。公式の綴りはフランス語(公用語)、英語ともにアキュート・アクセントの付いたQuébecである。略語QC、Que.またはPQ(Province du Québecの略)。カナダ国内では唯一、フランス語のみを公用語に定めている。 総面積1,542,056平方キロ、人口829万4656人(2016年推計)。スペイン・ポルトガル・フランス本土・オーストリア・イタリアを足し合わせた面積に相当し、インドの約半分、日本列島(北海道、本州、四国、九州および周辺の島々)の約4倍である。人口はポルトガルや東京23区よりやや少なく、ニューヨーク市や大ロンドン、オーストリアの総人口に相当する。カナダの州・準州の中では、面積はヌナブト準州に次いで第2位、人口はオンタリオ州に次いで第2位である。州都はケベック市だが、州最大の都市はモントリオール。モントリオール市はフランス語圏の都市としてはパリ・キンシャサに次ぐ規模の都市であり、北米大陸でも重要な地位を占めている。また、ケベック州の人口の約半分がモントリオール大都市圏に集中している。.

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ケベック・シティー

ベック・シティー(Ville de Québec、Quebec City、発音:)は、カナダケベック州にある都市。同州の州都であり、州内ではモントリオールに次いで人口が多い。2006年の調査によると人口は491,142人(国内9位)で、大都市圏内では715,515人(国内7位)である。 セントローレンス川が、ダイアモンド岬と、対岸のレヴィとに接近した地点で狭まっていることから、先住民アルゴンキン族の言葉で「川が狭くなっているところ」を意味する「ケベック」という名前になった。市内の旧市街はメキシコ以北では現存する唯一の城郭都市となっており、1985年にユネスコの世界遺産に「ケベック旧市街の歴史地区」として登録された。1608年に設立されており、北米内で最も古い歴史を持つ都市の一つでもある。アメリカ文化が強い北米で、公用語がフランス語でかつ人々の生活様式や文化の面でフランス文化が強いという独自性を放つ。 ケベック州との区別から一般に「ケベック・シティー」、または「ヴィル・ド・ケベック」と呼ばれる。フランス語ではケベック州は「le Québec」、ケベック・シティーを単に「Québec」と呼び、区別している。.

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セントローレンス湾

ントローレンス湾 (セントローレンスわん、Gulf of Saint Lawrence) はカナダ南東部に位置する湾であり、セントローレンス川を経由して五大湖から大西洋への湖水の出口。ここに注ぐセントローレンス川の河口は世界最大の規模である。また大西洋と、工業地帯である五大湖周辺を結ぶ重要な航路でもある。 湾は北はラブラドル半島、東はニューファンドランド島やサンピエール島、南はノバスコシア半島やケープブレトン島、西はガスペ半島に囲まれている。湾内の島にはアンティコスティ島やプリンスエドワード島、マドレーヌ諸島、ケープブレトン島、サンピエール島、ミクロン島がある。セントローレンス川に加え、ミラミチ川 (Miramichi River)、ナタシュカン川 (Natashquan River)、ロメーヌ川 (Romaine River)、レスティゴーシュ川 (Restigouche River)、マーガリー川 (Margaree River)、ハンバー川 (Humber River) などが流入している。支湾として、シャルール湾 (Chaleur Bay)、フォーチュン湾 (Fortune Bay)、ミラミチ湾 (Miramichi Bay)、セントジョージズ湾 (St.

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公用語

公用語(こうようご)とは、国、州など、ある集団・共同体内の公の場において用いることを公式に規定した言語を指す。その集団が有する公的機関には義務が課され、公的情報を発信する際等には公用語を用いなければならない。「公共言語」というように間違えないよう注意。 ある国において公用語として複数の言語が定められた場合には、その全ての言語を用いて公的情報を国民へ伝えなければならない。従ってこの場合、国家(あるいは集団)の公的機関は、全ての公用語を併記し通訳して伝えることになる。これによって、指定された複数の言語のうちどれか一つの言語だけを理解する国民(や構成員)に対しても不利益を生じさせないという原則が守られる。 一言語集団が大多数を占める国家や圧倒的に強い力を持っている国家の場合、公用語を法律で定めていない場合もある。.

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米英戦争

米英戦争(べいえいせんそう)は、1812年6月から1815年2月までの期間にイギリス、その植民地であるカナダ及びイギリスと同盟を結んだインディアン諸部族とアメリカ合衆国との間でおこなわれた戦争。 「1812年戦争」「アメリカ=イギリス戦争」「第二次独立戦争」とも呼ばれる。米英がカナダ、アメリカ東海岸、アメリカ南部、大西洋、エリー湖及びオンタリオ湖の領土を奪い合い、また両陣営がインディアンに代理戦争をさせたため、北米植民地戦争でもあり、インディアン戦争でもある。英語では専らWar of 1812(1812年戦争)と表現される。.

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緯度

緯度(いど、Latitude, Breite)とは、経緯度(=経度・緯度。すなわち天体表面上の位置を示す座標)の一つである。以下特に断らない限り、地球の緯度について述べる。余緯度とは緯度の余角。.

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首都

ブラジルの首都、ブラジリア ボリビアの憲法上の首都、スクレ オーストラリアの首都、キャンベラ 南アフリカ共和国の首都の一つ、プレトリア フィリピンの首都圏、マニラ首都圏 ベトナムの首都、ハノイ 首都(しゅと、Capital city)とは、一国の中心となる都市のことを指す。ほとんどの場合にはその国の中央政府が所在し、国家元首等の国の最高指導者が拠点とする都市のことである。ただ、場合によっては、中央政府の所在とは別に、その国のシンボル的存在として認められている都市が首都とされることもある。首府・国都・都などとも呼ばれ、また、帝制国家や王制国家の場合は帝都・王都等の称がある。.

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高さ

さ(たかさ)とは、垂直方向の長さのことである。重力が働く環境下では、重力方向の長さを指す。また、空間的な物理量としての高さ以外に、温度・比率・頻度・価格なども「高さ」で表現するのが一般的である。 高さが大きいことを高い、高さが小さいことを低いと言う。.

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英領北アメリカ法

英領北アメリカ法(えいりょうきたアメリカほう、英:British North America Acts)は、北アメリカ大陸にあったイギリスの植民地のうちの3つ(、ニューブランズウィック植民地、ノバスコシア植民地)を併せて、連邦制をとる1つの自治領(ドミニオン)とすることを定めたイギリスの法律である。新たな自治領の名はカナダ自治領 (Dominion of Canada) で、4つの州(オンタリオ州、ケベック州、ニューブランズウィック州、ノバスコシア州)で構成された。1867年にイギリスの議会によって制定された法律であるが、カナダの憲法の中核法として位置づけられ、現在に至ってもなお効力を持ち続けている。ただし、1982年のカナダ法により、BNA法は、「」(1867ねんけんぽうほう、Constitution Act 1867)と改称された。 カナダ法と共に制定された「1982年憲法法」が、主に人権保障に関して規定するのに対し、「1867年憲法法」は統治機構に関する定めであり、両法は車の両輪の関係にある。両法を併せて「1867年-1982年憲法法」 (Constitution Act 1867-1982) と呼称することが憲法法において規定されているが、「カナダ憲法」や「カナダ憲法典」と呼ばれることもある。 Category:イギリス帝国 Category:カナダの憲法典 Category:カナダの歴史 Category:イギリスの法律 Category:1867年の法.

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英語

アメリカ英語とイギリス英語は特徴がある 英語(えいご、)は、イ・ヨーロッパ語族のゲルマン語派に属し、イギリス・イングランド地方を発祥とする言語である。.

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通貨

通貨(つうか、currency)とは、流通貨幣の略称で、国家もしくは、その地の統治主体によって価値が保証された、決済のための価値交換媒体。 政府は租税の算定にあたって通貨を利用する。 モノやサービスとの交換に用いられる「お金(おかね)」を、経済用語では貨幣、または通貨と呼ぶ。通貨は、現金通貨と預金通貨に大別され、前者は紙幣・硬貨(補助紙幣)であり、後者は普通預金・当座預金などの決済口座である。.

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植民地

植民地(しょくみんち、殖民地とも)とは、国外に移住者が移り住み、当事国政府の支配下にある領土のことで統治領(とうちりょう)とも呼ばれる。 古代史にはフェニキアや古代ギリシアにも見られるが多くは植民元との関係は維持しつつ独立した体制となっており、侵略によって獲得した海外領土の類型は古代ローマに見られる。近年はヴェネチアなどが行った東地中海における植民地経営をそれ以降の植民地支配と連続した流れと考える向きもある。 以下では16世紀に始まるいわゆる「大航海時代」以降ヨーロッパ各国が侵略によって獲得した海外領土を主として扱う。近現代においては、本国政府の憲法や諸法令が原則として施行されず、本国と異なる法的地位にあり、本国に従属する領土を植民地という。 また、植民地に対して従属させて、それらを所有している本国のことは「宗主国」と呼ばれる。.

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12月26日

12月26日(じゅうにがつにじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から360日目(閏年では361日目)にあたり、年末まであと5日ある。.

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1790年

記載なし。

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1791年

記載なし。

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1837年

記載なし。

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1838年

記載なし。

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1840年

記載なし。

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1841年

記載なし。

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1867年

記載なし。

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2月10日

2月10日(にがつとおか)は、グレゴリオ暦で年始から41日目にあたり、年末まであと324日(閏年では325日)ある。.

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7月23日

7月23日(しちがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から204日目(閏年では205日目)にあたり、年末まであと161日ある。誕生花はブーゲンビレア、ツリガネソウ。.

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