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ローマ軍団一覧

索引 ローマ軍団一覧

以下に記載されるローマ軍団は、共和政ないし帝政期を通じて編成された軍団である。軍団の名前をローマ数字で表し、それに通称(コグノーメン、「家族名」と同じラテン語)と、動物や伝説上の半神などによる紋章が附随するのが通常であった。 レギオーに帰属を求める習慣が確立されたのはガイウス・マリウスの軍制改革を経た共和政後期からであり、それ以前の王政時代や共和制初期・中期にはあまり見られなかった。よって共和政期の軍団の多くはマリウスの甥であるガイウス・ユリウス・カエサルやその配下によるものが占めている。.

60 関係: マルクス・アントニウスマギステル・ミリトゥムラテン語ローマ軍団ローマ数字ディオクレティアヌスアウグストゥスウェスパシアヌスガイウス・マリウスガイウス・ユリウス・カエサルクラウディウス共和政ローマ第10軍団エクェストリス第1軍団ミネルウァ第1軍団マクリアナ・リベラトリクス第1軍団パルティカ第1軍団アディウトリクス第1軍団イタリカ第1軍団ゲルマニカ第2軍団トライアナ・フォルティス第2軍団パルティカ第2軍団アディウトリクス第2軍団アウグスタ第2軍団イタリカ第3軍団イタリカ第3軍団ガッリカ第3軍団キュレナイカ第4軍団マケドニカ第4軍団フラウィア・フェリクス第4軍団スキュティカ第5軍団アラウダエ第6軍団フェッラタ第7軍団クラウディア・ピア・フィデリス第8軍団アウグスタ第9軍団ヒスパナ紋章紀元前36年紀元前41年紀元前42年紀元前43年紀元前48年紀元前49年紀元前52年105年165年197年250年3世紀400年444年...4世紀5世紀66年68年69年6世紀70年82年9年9月22日 インデックスを展開 (10 もっと) »

マルクス・アントニウス

マルクス・アントニウス(Marcus Antonius、紀元前83年1月14日 - 紀元前30年8月1日)は、共和政ローマの政治家・軍人。第二回三頭政治の一頭として権力を握ったが、その後はガイウス・ユリウス・カエサルの姪の息子オクタウィアヌス(後の初代ローマ皇帝アウグストゥス)に敗北した。ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『アントニーとクレオパトラ』でも知られている。.

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マギステル・ミリトゥム

マギステル・ミリトゥム(magister militum, 軍司令官、総司令官、軍務長官)とは、帝政後期のローマ帝国における公職のひとつで、コンスタンティヌス1世の治世(306年 - 337年)に創設された高位の武官を指す。同じくコンスタンティヌス1世によって創設されていた、歩兵部隊を率いるマギステル・ペディトゥム(magister peditum, 歩兵長官)と、騎兵部隊を率いるマギステル・エクィトゥム(magister equitum, 騎兵長官)の上位に位置づけられた。 マギステル・ペディトゥムとマギステル・エクィトゥムは、コンスタンティウス2世らコンスタンティヌス1世の後継者たちによってガリア道・イタリア道・イリュリクム道・オリエンス道の各行政区に1人ずつ置かれるようになった。両マギステルは単一の人物に束ねられることもあった。そのような指揮官は即応部隊として活動する野戦機動軍「コミタテンセス」を指揮できた(マギステル・エクィトゥムが指揮をとることもあった)。 帝国西方においては「マギステル・ウトリウスクァエ・ミリタエ」と呼ばれた。この単語自体は上位の軍団指揮官という意味しかなさなかったが、実際にはマギステル・ミリトゥムに就任する者はアルボガステス(en)、スティリコ、アエティウス、リキメルなどのように主に帝位の陰の権力として登場した。.

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ラテン語

ラテン語(ラテンご、lingua latina リングア・ラティーナ)は、インド・ヨーロッパ語族のイタリック語派の言語の一つ。ラテン・ファリスク語群。漢字表記は拉丁語・羅甸語で、拉語・羅語と略される。.

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ローマ軍団

14軍団ゲミナ(2004年のポーランドにおける再現イベント) ローマ軍団(古典ラテン語:legio、レギオー)は、古代ローマにおける軍隊(excercitus)のうち陸軍の基本的な編成単位のことである。軍団はローマ市民権を有する者だけで構成されていた。 1つの軍団は、時代によっても異なるが、帝政ローマ時代では1つの軍団は10のコホルス(大隊)から構成され、騎兵200強を含めたおよそ5,000から6,000人の軍団兵がいた。古代ローマ史上を通じて名前や番号をもった通算約50個の軍団が創設されたが、それらの多くが長い歴史の間で全滅・解散されており必ずしも存続しえたわけではなかった。.

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ローマ数字

ーマ数字(ローマすうじ)は、数を表す記号の一種である。ラテン文字の一部を用い、例えばアラビア数字における 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10 をそれぞれ Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ,Ⅳ,Ⅴ,Ⅵ,Ⅶ,Ⅷ,Ⅸ,Ⅹのように並べて表現する。I, V, X, L, C, D, M はそれぞれ 1, 5, 10, 50, 100, 500, 1000 を表す。i, v, x などと小文字で書くこともある。現代の一般的な表記法では、1 以上 4000 未満の数を表すことができる。 ローマ数字のことをギリシャ数字と呼ぶ例が見られるが、これは誤りである。.

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ディオクレティアヌス

イウス・アウレリウス・ウァレリウス・ディオクレティアヌス(Gaius Aurelius Valerius Diocletianus、244年12月22日 - 311年12月3日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:284年 - 305年)である。帝国の安定化に努め『3世紀の危機』と呼ばれる軍人皇帝時代を収拾した。その過程でドミナートゥス(専制君主制)を創始し、テトラルキア(四分割統治、四分治制)を導入した。また、帝国内に勢力を伸ばすキリスト教とマニ教に対して弾圧を加えた。.

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アウグストゥス

アウグストゥス(Imperator Caesar Divi Filius Augustus インペラートル・カエサル・ディーウィー・フィーリウス・アウグストゥス、Gaius Julius Caesar Octavianus Augustus ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス・アウグストゥス、紀元前63年9月23日 - 紀元14年8月19日)は、ローマ帝国の初代皇帝(在位:紀元前27年 - 紀元14年)。志半ばにして倒れた養父カエサルの後を継いで内乱を勝ち抜き、地中海世界を統一して帝政(元首政)を創始、パクス・ロマーナ(ローマの平和)を実現した。ちなみにアウグストゥスは、ラテン語で「尊厳ある者」を意味しており、現在のギリシア語では「8月」の意になっている。.

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ウェスパシアヌス

ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌス(Titus Flavius Vespasianus、9年11月17日 - 79年6月23日)は、ローマ帝国の皇帝。ユリウス・クラウディウス朝断絶後の四皇帝内乱の時代(68年6月 - 69年12月)に終止符を打ち、自らの血統に基づくフラウィウス朝を創始した。.

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ガイウス・マリウス

イウス・マリウス(Gaius Marius、紀元前157年 - 紀元前86年1月13日)は、共和政ローマ末期の軍人、政治家。同名の祖父・父と区別してガイウス・マリウス・ガイウスフィリウス・ガイウスネポス(Gaius Marius C. f. C. n.、ガイウスの孫にしてガイウスの子たるガイウス・マリウス)、あるいは息子である小マリウス()に対して大マリウス()とも呼ばれる。 平民出身の軍人としてキンブリ・テウトニ戦争で歴史的勝利を収め、合わせて大規模な軍制改革を行った。軍制改革では市民兵制から職業軍人への切り替え、武器自弁から装備の一律支給、訓練内容や指揮系統の改革、果ては退職金制度や鷹章旗の制定まで多岐に亘る改革を成し遂げた。この制度は帝政時代を含めて長らくローマの軍事制度として継承された。政治的にはポプラレス(民衆派)の英雄として共和制末期に計7回の執政官就任を果たし、一時は独裁的な権限すら獲得していた。彼の民衆派の指導者としての地位と活躍、及び革新的な軍制改革はローマを帝政へと導く遠因の1つとなる。 彼の妻であるユリア・カエサリアはガイウス・ユリウス・カエサルの叔母であり、マリウスは外伯父としてカエサルの政治基盤に多大な影響を残した。.

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ガイウス・ユリウス・カエサル

イウス・ユリウス・カエサル(古典ラテン語:Gaius Iulius Caesar、紀元前100年 - 紀元前44年3月15日)は、共和政ローマ期の政治家、軍人であり、文筆家。「賽は投げられた」(alea iacta est)、「来た、見た、勝った」(veni, vidi, vici) 、「ブルータス、お前もか (et tu, Brute?)」などの特徴的な引用句でも知られる。また暦で彼の名称が使用されていた(ユリウス暦)時期が存在していた。 古代ローマで最大の野心家と言われ、マルクス・リキニウス・クラッスス及びグナエウス・ポンペイウスとの第一回三頭政治と内戦を経て、ルキウス・コルネリウス・スッラに次ぐ終身独裁官(ディクタトル)となった。.

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クラウディウス

ティベリウス・クラウディウス・ネロ・カエサル・ドルスス(Tiberius Claudius Nero Caesar Drusus, 紀元前10年8月1日 - 54年10月13日)は、ローマ帝国の第4代皇帝である。.

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共和政ローマ

共和政ローマ(きょうわせいローマ)は、紀元前509年の王政打倒から、紀元前27年の帝政の開始までの期間の古代ローマを指す。 この時期のローマは、イタリア中部の都市国家から、地中海世界の全域を支配する巨大国家にまで飛躍的に成長した。帝政成立以後ではなく地中海にまたがる領域国家へと発展して以降を「ローマ帝国」と呼ぶ場合もある。また、1798年に樹立されたローマ共和国 (18世紀)、1849年に樹立されたローマ共和国 (19世紀)と区別するために「古代ローマ共和国」と呼ばれることもある。.

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第10軍団エクェストリス

10軍団エクェストリスとはユリウス・カエサルが創設したローマ軍団のひとつ。紀元前61年の創設となり、カエサルのもとで数多くの勝利に貢献した。またカエサルもこの第10軍団を自らの護衛として重用、カエサル直属の軍団としてガリア戦記にその名が記されている。紋章は牡牛。 第10軍団は紀元前45年に軍務を解かれた。しかしその兵士たちはカエサル暗殺後のマルクス・アントニウスとオクタウィアヌスの闘争に参加する。その後解散、第10軍団ゲミナの中に組み込まれた。.

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第1軍団ミネルウァ

第1軍団ミネルウァ(Legio I Minerva)はローマ軍団の一つ。西暦82年にローマ皇帝ドミティアヌスによって、ゲルマン系カッティ族に対する戦役のために編成された。この軍団の通称は女神ミネルヴァであり、軍団の守護者とされていた。軍団の記録は4世紀半ばにまで及び、ライン川国境に駐在していたとある。軍団の紋章はミネルヴァ女神の像影である。 軍団の駐屯地はボンナ(Bonna - 現在のドイツ、ボン)であり、編成当初から主要な駐屯地となっていた。89年にゲルマニア・スペリオルの総督が反乱を起こすと、反乱に抗してドミティアヌスを支持。この行為にドミティアヌスから感謝の意として「ピア・フィデリス・ドミティアナ (Pia Fidelis Domitiana - 『ドミティアヌスへの忠誠と信義ある軍団』の意)のコグノーメンが贈られている。 01_みねるうあ en: Legio I Minerva.

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第1軍団マクリアナ・リベラトリクス

第1軍団マクリアナ・リベラトリクス(Legio I Macriana Liveratrix)はローマ軍団の一つ。68年にアエギュプトゥスにおいて総督ルキウス・クロディウス・マケルによって編成された。 この軍団が編成された理由には、第3軍団アウグスタの支援がある。当時のローマ皇帝ネロに対して反旗を翻したガルバを支援するためであった。最後にネロは自死、帝位はガルバによって代わられるが、ガルバは自分に対するさらなる反乱を恐れていたためにこの軍団を信用しなかった。編成したマケルは69年に殺害され、第1軍団マクリアナ・リベラトリクスも解散させられた。この軍団の紋章は不明である。 01_まくりあなりへらとりくす.

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第1軍団パルティカ

第1軍団パルティカ(Legio I Parthica)はローマ軍団の一つ。西暦197年にローマ皇帝セプティミウス・セウェルスによって、パルティア遠征のために編成された。軍団は中東に駐屯し、その所在は5世紀初頭まで記録として残されている。紋章はケンタウロス。 197年にセウェルスによって3軍団を編成。第1軍団、第2軍団、第3軍団ともに「パルティカ」と名付けパルティア遠征を行った。遠征が成功裏に終わると、その中の第1軍団パルティカ、第3軍団パルティカのみが現地に残留、メソポタミア流域のシンガラ(Singara - 現イラン北部)を駐屯地とし、断続的に起こる反乱やパルティアからの東部領域の侵略に対する備えとした。 この軍団の軍団兵は通常別の属州に派遣される事が多く、具体的にはリュキア、キリキア、キュレナイカなどに送られた。 360年、軍団はササン朝ペルシアの攻勢に対して敗れ、その後ニビリス(Nibilis -現シリアとトルコ国境付近)に転属となる。しかしそこでもササン朝の攻撃を受け363年にニビリスは降伏する事となる。その後軍団はコンスタンティアナへ転属、5世紀まで駐在していた事が記録に残されている。 01_はるていか.

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第1軍団アディウトリクス

西暦125年、ハドリアヌス統治の時のローマ帝国の勢力図。パンノニアのブレゲティオに第1軍団アディウトリクスは86年から少なくとも344年まで駐在していた。 デナリウス硬貨。セプティミウス・セウェルスによって祝福された軍団の名前が見受けられる。内紛の際に軍団はセウェルス帝の支持し、彼の帝位就任の手助けをした。 ライン川流域で発見されたレンガ。刻印に「LEG I AD」とあり、これは「第1軍団(LEG I.

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第1軍団イタリカ

第1軍団イタリカ (Legio I Italica) はローマ軍団の一軍団。第四次パルティア戦争の後、ローマ皇帝ネロにより西暦66年9月22日に編成されている事が銘刻により証明されている。軍団の紋章はイノシシ。軍団の記録は長く、5世紀初頭にはドナウ川の国境沿いに駐在していた事が分かっている。 編成時には「アレクサンドロス大王の軍団(phalanx Alexandri Magni )」という名も添えられていた。その後アルメニアへ遠征、しかし直後にユダヤ戦争が勃発し、遠征は中止となる。その後68年にガリアのヴィンデクスの反乱鎮圧に向かう。ネロ以降の四皇帝の年ではヴィテッリウス側につき、ベドリアクムの戦いに参加、しかしウェスパシアヌスの軍隊に敗れる。その後70年にウェスパシアヌスの命によりモエシアに駐在。以降現在のスヴィシュトフ近郊にそのまま駐屯する事となる。 トラヤヌスの時代にはダキア戦争に参加、ドナウ川の架橋に携わる。土木作業などが軍団の特色だったらしく、140年頃にアントニヌスの長城の施工に第1軍団イタリカの百人隊長が赴いている。その後マルクス・アウレリウス・アントニヌスの時代ではマルコマンニ戦争に参加。ドナウ川国境に浸透するゲルマン族を迎え撃った。長い戦役の後、アウレリウスは第1軍団イタリカと第4軍団フラウィア・フェリクスを駐屯させて新たな属州を設置しようとしたが、アウィディウス・カッシウスの反乱で頓挫した。 193年にモエシアを統治していたセプティミウス・セウェルスが帝位を表明。第1軍団イタリカはこれを支持するものの、本国イタリアには進撃しなかった。しかしセウェルスの政敵であるペスケンニウス・ニゲルの軍団と交戦、第10軍団クラウディアとともにビザンティウムを包囲、その後イッソスの戦いに参加している。 3世紀のカラカラの時代、駐屯地から始まる新たなリメスの設営に携わる。その後アレクサンデル・セウェルスの時代には分隊をサロナに派遣、ダルマティア海域の防衛に従事させている。 01_いたりか.

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第1軍団ゲルマニカ

1軍団ゲルマニカ (Legio I Germanica) はローマ軍団のひとつ。ガイウス・ユリウス・カエサルの創設により、共和政ローマ末期に創設。カエサル以降、アウグストゥス以下ユリウス・クラウディウス朝時代各地に転戦したが、ウェスパシアヌスによって解散させられた。.

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第2軍団トライアナ・フォルティス

2軍団トライアナ・フォルティス(Legio II Triana Fortis、Legio Secunda Triana Fortis)はローマ軍団の一つ。西暦105年にトラヤヌスによって第30軍団ウルピア・ウィクトリクスとともに編制され、ダキア戦争に参加。その後属州アエギュプトゥスに5世紀半ばまで駐在し続けた事が記録として残されている。軍団の紋章は半神ヘラクレス。.

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第2軍団パルティカ

2軍団パルティカ(Legio II Parthica, Legio Secunda Parthica)はローマ軍団の一つ。197年にセプティミウス・セウェルスによってパルティア遠征のために編成された。したがってコグノーメンは「パルティカ」と称される。この軍団は5世紀初頭においても未だ活動が盛んであった。軍団の紋章は雄牛とケンタウロス。.

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第2軍団アディウトリクス

2軍団アディウトリクス(Legion II Adiutrix)はローマ軍団の一つ。西暦70年にウェスパシアヌスによって編成、もともとはラウェンナの軍港のローマ海軍として構成された。軍団の記録は長く、4世紀初頭までライン川国境に配属されていたのが分かっている。軍団の紋章はカプリコーンとペーガソス。 軍団の最初の任務は属州ゲルマニア・インフェリオルにおいて、バタヴィア人の反乱が激化した時であった。反乱を鎮圧した後、軍団はクィントゥス・ペティリウス・ケリアリスに率いられてブリテン島へ移動、どうちにてヴェンティウスの反乱鎮圧に従事する。翌年まで軍団はブリテン島に滞在し、スコットランドとウェールズの反乱の鎮圧、おそらくはチェスターを拠点に活動する。 87年には軍団は招集され、ドミティアヌスのダキア戦争に参加。94年から95年にかけてまだダキアに滞在していたが、その頃は後のローマ皇帝となるハドリアヌスが第2軍団アディウトリクスのトリブヌス・ミリトゥムとして任務に従事していた。 106年の夏季には軍団はダキア人の拠点サルミゼゲトゥサを包囲。101年から106年にかけてのトラヤヌスのダキア戦争の後には軍団はアクィンクム(現ブダペスト)を拠点に活動していたものと推測されるが、それにもかかわらず:.

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第2軍団アウグスタ

2軍団アウグスタ (Legio II Augusta) はローマ軍の軍団のひとつ。ガイウス・ユリウス・カエサルの支持者であったガイウス・ウィビウス・パンサ・カエトロニアヌスによって創設された。設立当初は第2軍団サビナ (Legio II Sabina) と呼ばれた。 紋章はカプリコン、ペガサスそしてマルス神とする。.

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第2軍団イタリカ

第2軍団イタリカ (Legio II Italica) は、ローマ軍団の一つ。165年にマルクス・アウレリウス・アントニヌスによって第3軍団イタリカと同時に編成、当時同時に戦っていたゲルマニアとパルティアへの備えとした。軍団の紋章は女狼と双子、すなわちロムルスとレムスであり、これは当時の皇帝アウレリウスと共同皇帝であったルキウス・ウェルスも表していた。 当初の軍団の駐屯地はドナウ川流域のノリクム(Noricum)、この地はゲルマン人が侵入が激しかった地であった。その後軍団はラウリアクム(Lauriacum - 現オーストリア、リンツ近郊)に移動する。 五皇帝の年(193年)にはセプティミウス・セウェルスの指揮のもとローマに進軍、セウェルスの帝位継承のために戦う。その労力に際し、セウェルスからフィデリス(Fidelis - 『忠実な軍団』の意)の称号を授かる。その後セウェルスは軍団をペスケンイウス・ニゲルやクロディウス・アルビヌス、そして自らのパルティア侵攻に投入するつもりであったらしい。 軍人皇帝の時代は帝位を求める者に取って軍団の影響力は欠かせなかった。その中で軍団はガッリエヌスを支持、その労に対して「セプティエス・ピア・セプティエス・フィデリス(VII Pia VII Fidelis - 『7倍誠実で7倍忠実な軍団』の意)」というコグノーメンを贈られた。 5世紀の初頭には軍団は最初の駐屯地であるノリクムへと戻り、ここに駐屯した記録が最後となっている。 02_いたりか.

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第3軍団イタリカ

ッリエヌスが第3軍団''イタリカ''を称えて260年に発行したアントニニアヌス。表面のコウノトリは軍団のシンボルである。軍団は''VI Pia VI Fidelis''(六たび忠にして六たび誠なり)と称えられている。 第3軍団イタリカ(Legio III Italica)は、ローマ軍団の一つで、マルコマンニ族に対する戦役のためにマルクス・アウレリウス・アントニヌスが165年ごろに徴募して編成した。イタリカという通称から、兵はイタリアで徴募されたことが窺える。この軍団は5世紀初頭に至っても、なおゲルマニアにおいて現役であった(約420年頃の西ローマ帝国の文献『ノティティア・ディグニタートゥム』の記載による)。.

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第3軍団ガッリカ

3軍団ガッリカ (Legion III Gallica) は共和政末期の紀元前49年にグナエウス・ポンペイウスと共和派に対抗するためにガイウス・ユリウス・カエサルの手によって編成されたローマ軍団。「ガッリカ」の意味から編成された軍団兵が共和政ローマ支配下のガリア地方だった事が推測される。第3軍団は長く存続し、4世紀初頭までローマ軍団として存続した。軍団の紋章は牡牛である。.

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第3軍団キュレナイカ

3軍団キレナイカ (Legio III Cyrenaica) はローマ軍団の一軍団。創設者の名は分かってはいないが、恐らくはマルクス・アントニウスによるものと考えられ、紀元前36年にキュレナイカで総督を務めた頃に創設されたものと推測される。.

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第4軍団マケドニカ

4軍団マケドニカ (Legio IIII Macedonica) はローマ軍の軍団のひとつ。起原はガイウス・ユリウス・カエサルが紀元前48年にイタリア国内の軍団兵を総合して作った事から始まる。紋章はカエサルが創設した軍団と同じく牡牛、またはカプリコン。.

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第4軍団フラウィア・フェリクス

4軍団フラウィア・フェリクス (Legio IIII Flavia Felix) はローマ軍団のひとつ。ウェスパシアヌスによって第4軍団マケドニカが解散となった後で再編された。紋章はライオン。「フラウィア・フェリクス」は「幸運なるフラウィウス」の意味。.

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第4軍団スキュティカ

4軍団スキュティカ (Legion IIII Scythica) は古代ローマのローマ軍団のひとつ。マルクス・アントニウスによって紀元前42年に編成された。またパルティアへの遠征に従軍もした事よりパルティカとも呼ばれ、5世紀まで存続した。紋章はカプリコルヌス。.

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第5軍団アラウダエ

5軍団アラウダエ(Legion V Alaudae)はローマ軍の軍団のひとつ。「アラウダエ」とは「ヒバリ」を意味し、当時のガリア人の軍装にちなむ。しかしながらガッリカ(Gallica)という名でも呼ばれた。.

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第6軍団フェッラタ

6軍団フェッラタ (Legio VI Ferrata) は、ローマ軍団のひとつ。紋章はカエサル創設の印である牡牛、しかし母狼とロームルスとレムスも紋章として使われた。.

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第7軍団クラウディア・ピア・フィデリス

7軍団クラウディア・ピア・フィデリス(Legion VIII Claudia Pia Fidelis)はローマ軍団のひとつ。創設初期にはパテルナと呼ばれ、一時期はマケドニカとも呼ばれた。数あるローマ軍の中でも古参の軍団のひとつで、ガリア戦争前にガイウス・ユリウス・カエサルによって創設され4世紀末期まで存続した。カエサル創設の軍団と同じく紋章は牡牛、そしてライオン。.

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第8軍団アウグスタ

8軍団アウグスタ (Legio VIII Augusta) はローマ軍団のひとつ。 ユリウス・カエサルの創設から帝国末期の5世紀前半期まで存続した。途中、解散した時期があったが、アウグストゥスによって再編された。.

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第9軍団ヒスパナ

9軍団ヒスパナ (Legio IX Hispana) はローマ軍団のひとつ。紀元前58年以前にガリア遠征の際にガイウス・ユリウス・カエサルによって創設されたものと考えられている。軍団の意味は文字通り「ヒスパニアから」という意味で「ヒスパニア人の部隊」だったと考えられている。.

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紋章

en)(紋章保持者の名前などに掛けた洒落を紋章にしたもの)の代表例のひとつ 紋章(もんしょう、)とは、個人および家系を始めとして、公的機関、組合(ギルド)、軍隊の部隊などの組織および団体などを識別し、特定する意匠又は図案である。ここでは、主にヨーロッパを発祥とする紋章について述べる。.

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紀元前36年

紀元前36年。.

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紀元前41年

紀元前41年。.

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紀元前42年

紀元前42年。.

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紀元前43年

紀元前43年。.

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紀元前48年

紀元前48年は、ローマ暦の年である。.

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紀元前49年

紀元前49年は、ローマ暦の705年である。.

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紀元前52年

紀元前52年は、ローマ暦の年である。.

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105年

記載なし。

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165年

記載なし。

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197年

記載なし。

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250年

記載なし。

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3世紀

ナクシュ・イ・ルスタムの磨崖像で、平伏するローマ皇帝ウァレリアヌスと騎乗のサーサーン朝皇帝シャープール1世が浮き彫りにされている。 3世紀(さんせいき)は、西暦201年から西暦300年までの100年間を指す世紀。.

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400年

記載なし。

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444年

記載なし。

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4世紀

皇帝コンスタンティヌス1世。ミラノ勅令によりキリスト教を公式に認め新首都コンスタンティノポリスを造営した。画像はローマのカピトリーノ美術館にある皇帝の巨像(コロッスス)。 Musée national du Moyen Âgeにある皇帝の像。 メリダ国立ローマ博物館蔵)のレプリカ。 修道生活の基礎が築かれた。画像は大アントニオスを追慕して356年に建てられたエジプトのスエズ県にあるコプト教会の「聖アントニオス修道院」。 アクスム王国の勃興。クシュ王国を滅ぼし現在のエチオピアの地に成立したのがアクスム王国で、最も古くからキリスト教を受容していたことでも知られている。画像はキリスト教に改宗したエザナ王によるオベリスク(石柱)で24mの高さがある。 ゲルマン民族の大移動。ローマ帝国との国境を越えたゲルマン諸族は各地で混乱や衝突を起こした。画像は1920年代に描かれた西ゴート族の王アラリック1世のアテナイ入城(395年)の挿絵。 顧愷之。顧愷之は東晋の画家で、画絶・才絶・癡絶の三絶を備えると云われていた人物。画像は代表作「女史箴図」(大英博物館蔵)。 書聖王羲之。王羲之は東晋の書家で「蘭亭序」他の作で知られ、歴代皇帝にも愛好された。画像は宋末元初の文人画家銭選が王羲之を画題として描いた「蘭亭観鵝図」(台湾・国立故宮博物院蔵)。 七支刀が所蔵されている石上神宮。ここの七支刀が『日本書紀』神功記に記載のある百済から献上されたものだと推定されている。 チャンドラグプタ2世の金貨。チャンドラグプタ2世はインド・グプタ朝の領土を最大に広げ、繁栄をもたらした。 シャクンタラー』。指輪をめぐるシャクンタラー姫の数奇な運命の物語でチャンドラグプタ2世王時代の宮廷詩人カーリダーサによりまとめられたとされる。画像はラヴィ・ヴァルマによる物語絵。 4世紀(よんせいき)は、西暦301年から西暦400年までの100年間を指す世紀。.

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5世紀

大仙古墳。5世紀頃に築造された全長486メートルの最大級の前方後円墳で、大阪府堺市に広がる百舌鳥古墳群を代表する。伝承では仁徳天皇陵とされている。 レオ1世とアッティラの会見」。 ラヴェンナのガッラ・プラキディア廟堂。ガッラ・プラキディアは西ローマ皇帝ヴァレンティニアヌス3世の母。初期キリスト教美術を代表するモザイク壁画が残されている。 慧遠と道士の陸修静と詩人の陶淵明の邂逅が画題となっている。 雲崗石窟。北魏時代に都の平城(大同市)から西方約20キロに位置する雲崗で造営された石窟寺院。 キジル千仏洞壁画。この石窟はシルクロード沿いのオアシス国家亀茲(クチャ)によって作られたもので、この時期には仏教が大いに繁栄したと伝えられている。訳経僧として名高い鳩摩羅什もここの出身である。 アジャンター石窟寺院。インドではこの時代にグプタ様式と呼ばれる表現が発達した。画像はアジャンター石窟の壁画でパドマパーニ(蓮華手(観世音)菩薩)の像。 シーギリヤ。スリランカのシンハラ朝のカッサパ1世は父王から王位を奪い、アヌラーダプラからこの地へと遷都した。画像はシーギリヤロックの全景で、この頂上にカッサパ1世は王宮を営んだが、最後は反乱軍の攻撃を受けここで自害している。 アルメニア教会。カルケドン公会議以後にキリスト論をめぐりキリスト教は分立した。「単性論派」と呼ばれる「非カルケドン派」にはシリア・エジプト・アルメニアの諸教会がある。画像は483年に再建されたアルメニア教会のエチミアジン大聖堂。 ラテラノ大聖堂に描かれた肖像画。 5世紀(ごせいき)は、西暦401年から西暦500年までの100年間を指す世紀。.

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66年

記載なし。

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68年

記載なし。

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69年

記載なし。

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6世紀

地中海の再統一。画像はラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂の東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世と随臣のモザイク。 Cabinet des Médailles所蔵のもの。 無明時代のアラビア語詩人たち。イスラム教勃興直前のこの時代にアラビアでは優れた詩人たちが活躍した。画像はその代表的な詩人アンタラ・イブン・シャッダードの細密画で、勇猛な戦士の姿で描いている。 前期チャールキヤ朝。デカン地方から南インドに展開した王朝で都はバーダーミにあった。画像はキールティヴァルマン1世の弟マンガレーシャにより建立されたバーダーミのヒンドゥー教石窟寺院第3窟でヴィシュヌ神の像が安置されている。 禅宗の祖師達磨。仏教の保護者として有名な梁の武帝との問答でも知られるが、経歴に不明な点も多い。画像は雪舟等楊の「慧可断臂図」(愛知県常滑市斉年寺蔵)。 建康。現在の南京であるこの地は中国南朝の歴代の都となり、貴族による文化が花開いた。画像は南京にある梁の武帝の異母弟蕭恢の墓を守る辟邪の石刻。 文帝。南北朝時代を終わらせて300余年ぶりに中国を統一し、「開皇の治」と呼ばれる安定期をもたらした。 関東の人物埴輪。6世紀に畿内での埴輪作成は減少するが、関東では最盛期を迎える。画像は「国宝武装男子立像(群馬県太田市出土)」で東京国立博物館蔵となっている。 東ゴート王国の盛衰。オドアケルを倒した東ゴート王テオドリックのもとイタリアはつかの間の平和を享受した。やがてこの国は6世紀半ばには東ローマ帝国の膝下に屈服することになる。画像はラヴェンナにあるテオドリック廟。 『ロッサーノの福音書』。古代末期の混乱で散逸した写本は数知れないが、この福音書は『ウィーン創世記』や『シノペの福音書』と並び現存するこの世紀に造られた数少ない写本で、「コデックス・プルプレウス」という紫染めの羊皮紙を用いた豪華なものである。 コプト織でエジプトで熱心に崇敬された「神の母(テオトコス)」がデザインされている。 6世紀(ろくせいき)とは、西暦501年から西暦600年までの100年間を指す世紀。.

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70年

記載なし。

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82年

記載なし。

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9年

9年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。.

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9月22日

9月22日(くがつにじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から265日目(閏年では266日目)にあたり、年末まであと100日ある。.

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