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レナータ・テバルディ

索引 レナータ・テバルディ

レナータ・テバルディ(Renata Ersilia Clotilde Tebaldi, 1922年2月1日 - 2004年12月19日)は、イタリアのオペラ歌手(ソプラノ)。1950年代から1960年代にかけてのミラノ・スカラ座の黄金期に活躍し、20世紀後半におけるイタリア・オペラの代表的な歌手と見なされている。 イタリアのペーザロに生まれ、パルマのアリゴ・ボーイト音楽院でカルメン・メリスに学ぶ。1944年ロヴィーゴ劇場でボーイトの『メフィストーフェレ』のエレーナを歌いデビューした。1946年5月11日、戦災で破壊されたスカラ座の再開記念コンサートにおいてオーディションに応募、このとき大指揮者アルトゥーロ・トスカニーニに認められ、24歳の若さでデビューし好評を博す。これによりエレーナ(同上)、ミミ(『ラ・ボエーム』)などで出演の機会を得て成功を収める。その後イタリアだけでなく欧米各地のオペラ劇場に招かれ、歌手としての地位を揺るぎ無いものにした。 ロンドンのコヴェント・ガーデン王立歌劇場に1950年、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場には1954年、それぞれ初舞台を踏んだ。とくにメトではデズデーモナ(ヴェルディの『オテロ』)が大好評で、以後常連出演者となった。 1950年代から1960年代にかけてイタリア・オペラ界でマリア・カラスと人気を二分する人気を得た。またマリオ・デル=モナコ、ジュゼッペ・ディ・ステファノ、フランコ・コレッリ、ジュリエッタ・シミオナートなどの名歌手と共演し、数々の名舞台とともに優れたレコード録音を行ったことも特筆すべきである。得意とした役柄はトスカ、マノン・レスコー、ミミ、アイーダ、デズデーモナ、レオノーラ(『運命の力』)、マッダレーナ(『アンドレア・シェニエ』)など。 カラスとはライバルとして敵対していたかのように言われることがあるが、それは熱狂的なファン同士の噂であり、本人同士は不仲であったわけではない。EMIの辣腕プロデューサーウォルター・レッグは二人を『ノルマ』で共演させることを望んだが、当時のレコード会社の専属契約や二人の多忙からこれを断念したと言う。 日本では1961年9月~11月に第3回NHKイタリア・オペラ公演で来日してマッダレーナおよびトスカを歌い、全盛期の歌唱で強い印象を残し、また1973年にも単独で来日しリサイタルを開いている。 1976年に現役を引退。2004年12月19日、サンマリノにある自宅で死去。82歳没。.

110 関係: 友人フリッツ外套 (プッチーニ)仮面舞踏会 (ヴェルディ)修道女アンジェリカペーザロミラノマノン・レスコー (オペラ)マリリン・ホーンマリア・カラスマリオ・デル=モナコマリオ・セレーニノルマ (オペラ)チェーザレ・シエピメトロポリタン歌劇場モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団ユッシ・ビョルリングランベルト・ガルデルリラ・ボエーム (プッチーニ)ラ・ジョコンダラファエル・アリエルチアーノ・パヴァロッティレコードレジーナ・レズニックロバート・メリルロンドンローエングリンロイヤル・オペラ・ハウスロイヤル・オペラ・ハウス管弦楽団トリノ・イタリア放送交響楽団トゥリオ・セラフィントゥーランドットトスカヘルベルト・フォン・カラヤンヘレン・ドーナトブルーノ・バルトレッティパルマヒルデ・ギューデンビルギット・ニルソンピエロ・カプッチルリデッカ・レコードディートリヒ・フィッシャー=ディースカウフランチェスコ・モリナーリ=プラデッリフランコ・カプアーナフランコ・コレッリファルスタッフファウスト (オペラ)ファウスト・クレヴァフィレンツェ五月音楽祭管弦楽団フィオレンツァ・コッソットフィガロの結婚...フェルナンド・コレーナドン・カルロドン・ジョヴァンニニュルンベルクのマイスタージンガーニューヨークニコラ・ザッカリアニコライ・ギャウロフアルトゥーロ・バジーレアルトゥーロ・トスカニーニアルド・プロッティアルベルト・エレーデアンドレア・シェニエアッリーゴ・ボーイトアドリアーナ・ルクヴルールアイーダイル・トロヴァトーレインゲ・ボルクイタリアウィリアム・テル (オペラ)ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団ウォルター・レッグエーリヒ・ラインスドルフエットーレ・バスティアニーニエフゲニー・オネーギン (オペラ)エジプトのジュリアス・シーザーオペラオテロ (ヴェルディ)カルロ・ベルゴンツィカヴァレリア・ルスティカーナゲオルク・ショルティシモン・ボッカネグラシェリル・ミルンズジャナンドレア・ガヴァッツェーニジャンニ・ポッジジャンニ・スキッキジュリエッタ・シミオナートジュゼッペ・ヴェルディジュゼッペ・ディ・ステファーノジョージ・ロンドン (バス・バリトン歌手)スカラ座ソプラノタンホイザーサンマリノサンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団EMI運命の力蝶々夫人西部の娘RCAレコード椿姫 (オペラ)歌手12月19日1922年1944年1946年1961年1976年2004年2月1日5月11日 インデックスを展開 (60 もっと) »

友人フリッツ

『友人フリッツ』(L'amico Fritz)は、ピエトロ・マスカーニが作曲した3幕から構成されるオペラである。劇中の間奏曲や第2幕の『さくらんぼの二重唱』、第3幕の『おお愛よ、美しい心の光』が独立して演奏されるほど有名。前作の悲劇性が浮き彫りとなっている『カヴァレリア・ルスティカーナ』とは対照的に、『友人フリッツ』は軽快な内容で『牧歌的オペラ』と一部では呼ばれる。全曲の上演は少ない。.

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外套 (プッチーニ)

『外套』(がいとう、Il tabarro )は、ジャコモ・プッチーニの作曲した全1幕のオペラである。パリ・セーヌ河畔に暮らす荷物船の老船長が、若い妻を巡る争いがもとで部下の若者を殺すさまをショッキングに描く。傾向の異なった3つの一幕物オペラを連続して同時に上演する「三部作」の最初の演目として、1918年12月14日、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場で初演された。.

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仮面舞踏会 (ヴェルディ)

『仮面舞踏会』(かめんぶとうかい)は、ジュゼッペ・ヴェルディが作曲し、1859年2月17日に初演された全3幕からなるオペラである。.

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修道女アンジェリカ

『修道女アンジェリカ』(しゅうどうじょアンジェリカ、Suor Angelica )は、ジャコモ・プッチーニの作曲した全1幕のオペラである。イタリアのとある尼僧院で修道女が自殺を企て、聖母マリアにその罪を赦され昇天するまでを描く。傾向の異なった3つの一幕物オペラを連続して同時に上演する「三部作」の第2番目の演目として、1918年12月14日、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場で初演された。 舞台裏に配される合唱に男声を含むほかは、すべてが女声で演じられるオペラである。.

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ペーザロ

ペーザロ(Pesaro)は、イタリア共和国マルケ州北部にある都市で、その周辺地域を含む人口約9万5000人の基礎自治体(コムーネ)。ペーザロ・エ・ウルビーノ県の県都のひとつである。州都アンコーナに次ぎ、マルケ州第二のコムーネ人口を持つ。 アドリア海に面し観光の中心である。古代にはピサウルムと呼んだ。作曲家ジョアキーノ・ロッシーニの生まれた町で、ここでは彼の家だった博物館、彼の名を冠した音楽学校、劇場などを見ることができ、毎年、ロッシーニ・オペラ・フェスティバルが催され世界中からオペラ音楽の愛好家が集まっている。.

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ミラノ

ミラノ(Milano)は、イタリアで最大の都市圏人口を擁する都市で、ミラノ県の県都およびロンバルディア州の州都である。ヨーロッパ有数の世界都市。イタリア語のアクセントの関係でミラーノと記されることもある。英語ではミラン(Milan)、フランス語ではミラン(Milan)、ドイツ語ではマイラント(Mailand)、スペイン語ではミラン(Milán)、ラテン語ではメディオラーヌム(Mediolanum)と言う。.

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マノン・レスコー (オペラ)

『マノン・レスコー』(Manon Lescaut )は、ジャコモ・プッチーニが35歳の時に発表したオペラ(プッチーニのオペラ第3作)。1893年初演。この作品でプッチーニは一躍脚光を浴び、音楽家としての地歩を固めはじめる。.

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マリリン・ホーン

マリリン・ホーン(Marilyn Horne、1934年1月16日 - )は、アメリカのペンシルベニア州ブラッドフォード生まれのメゾソプラノ歌手。ロッシーニ歌手として知られ、バロック時代の歴史的ベルカント・オペラのレパートリーを現代に広げた。.

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マリア・カラス

マリア・カラス(Maria Callas, Μαρία Κάλλας, 1923年12月2日 - 1977年9月16日)は、ギリシャ系アメリカ人のソプラノ歌手。ニューヨークで生まれパリで没し、20世紀最高のソプラノ歌手とまで言われた。特にルチア(ランメルモールのルチア)、ノルマ、ヴィオレッタ(椿姫)、トスカなどの歌唱は、技術もさることながら役の内面に深く踏み込んだ表現で際立っており、多くの聴衆を魅了すると共にその後の歌手にも強い影響を及ぼした。.

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マリオ・デル=モナコ

マリオ・デル・モナコ(Mario Del Monaco、1915年7月27日ガエータ - 1982年10月16日メストレ)は、イタリアの名テノール歌手(テノーレ・ドランマーティコ)。.

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マリオ・セレーニ

マリオ・セレーニ(Mario Sereni, 1928年3月25日 - 2015年7月24日)は、イタリア出身のバリトン歌手。 ペルージャの出身。地元の工場で旋盤工をしていたが、聖チェチーリア音楽院を経てキジアーナ音楽院に行き、マリオ・バジオラに声楽を師事。1953年にフィレンツェ五月音楽祭でアドリアーノ・ルアルディの《鐘楼の悪魔》に出演してデビューを飾った。1955年にパレルモに於いてリヒャルト・ワーグナー《タンホイザー》のヴォルフラム役を歌って注目されるようになり、1957年からメトロポリタン歌劇場、1963年にスカラ座、1965年にウィーン国立歌劇場に初出演して国際的な名声を得た。1986年に引退。 ペルージャにて没。.

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ノルマ (オペラ)

『ノルマ』 (Norma) は、ヴィンチェンツォ・ベッリーニが作曲、1831年に初演された全2幕からなるオペラである。主役を歌うソプラノ歌手にとって最も難度の高いオペラの1つと考えられている。 ソプラノのアリア「清らかな女神よ」(Casta Diva, カスタ・ディーヴァ)は特に有名であり、リサイタルなどで単独で歌われることも多い。.

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チェーザレ・シエピ

チェーザレ・シエピ(Cesare Siepi, 1923年2月10日-2010年7月5日)は、20世紀のイタリア・オペラ界を代表するバス歌手。.

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メトロポリタン歌劇場

メトロポリタン歌劇場(Metropolitan Opera House)はアメリカ合衆国ニューヨーク市マンハッタン区のリンカーン・センター内にあるアメリカ随一のオペラ・ハウスである。メトロポリタン・オペラ・カンパニーの本拠地であり、キャストや装置の豪華さで名高い。Metropolitan Opera Associationにより運営されている。しばしば「メト」(MET)と呼ばれる。.

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モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団

モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団(Orchestre Philharmonique de Monte-Carlo)は、モナコのモンテカルロに本拠を置くオーケストラである。モンテカルロ歌劇場(Opéra de Monte-Carlo)でのオペラ公演も行う。 1856年に設立される。オペラ公演時は「モンテカルロ国立歌劇場管弦楽団」を名乗っていたが1980年に現在名に統一され、モナコ王室の庇護の下その規模を拡大し創設150周年を迎えた。 F1で有名なトンネル内入口のあるオーディトリアム・レーニエ3世を本拠地に、モンテカルロ歌劇場、グリマルディ・フォーラムの3カ所で定期公演を行っているほか、毎年夏に宮殿の中庭にてオープンエアの演奏会を開催している。 戦前、リヒャルト・シュトラウスが自作曲の指揮のため訪れ、戦後はアルトゥール・ルビンシュタイン、ウラディミール・ホロヴィッツ、ユーディ・メニューイン、アイザック・スターン、ジャン=ピエール・ランパルなどがソリストとして共演、指揮者ではシャルル・ミュンシュ、トーマス・ビーチャム、レナード・バーンスタイン、キリル・コンドラシンなど錚々たる顔ぶれが登場している。 1967年から5年間、音楽の魔術師と異名をとったイーゴリ・マルケヴィチが音楽監督として楽団の水準を引き上げ、73年からはロヴロ・フォン・マタチッチがその後を継いだ。90年以降は、ジャンルイジ・ジェルメッティ、ジェームズ・デプリースト、マレク・ヤノフスキ、ヤコフ・クライツベルクといった現代の音楽界を代表する俊英指揮者が音楽監督を務めてきた。また、2016年9月より山田和樹の音楽監督兼芸術監督就任が決定している。 代表的なレコーディングとして、ファウスト・クレヴァ指揮でカタラーニ『ワリー』全曲や、フレモー指揮でベルリオーズ『幻想交響曲』、リチャード・ボニング指揮でアダン『ジゼル』全曲、マタチッチ指揮・リヒテル独奏でシューマンとグリーグのピアノ協奏曲などがある。.

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ユッシ・ビョルリング

ユッシ・ビョルリング ユッシ・ビョルリング(Jussi Björling, 1911年2月5日 - 1960年9月9日)は、スウェーデン出身のテノール歌手。独特の品格、澄んだ透明感、また輝かしさもそなえた美声で広く知られた。.

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ランベルト・ガルデルリ

ランベルト・ガルデルリ(Lamberto Gardelli, 1915年11月8日 – 1998年7月17日)は、イタリアの指揮者。.

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ラ・ボエーム (プッチーニ)

『ラ・ボエーム』(La Bohème)は、ジャコモ・プッチーニの作曲した4幕オペラで、最もよく演奏されるイタリアオペラのひとつである。.

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ラ・ジョコンダ

『ラ・ジョコンダ』(伊語:La Gioconda)は、アミルカレ・ポンキエッリが作曲した全4幕から構成されるオペラ。第3幕におけるバレエ音楽『時の踊り』はコンサートでしばしば演奏される有名な楽曲である。.

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ラファエル・アリエ

ラファエル・アリエ(Рафаел Арие, ラテン文字転写例:Raffaele Arié, 1920年1月29日 - 1988年8月22日)は、ブルガリア出身のバリトン歌手。 ソフィアの生まれ。生地の音楽院でクリスト・ブランバロフに声楽を学ぶ。1939年にソフィアでヘンデルの《メサイア》の上演に参加して歌手デビューを飾った。1945年には地元の歌劇場でオペラの初舞台を踏んでいる。1946年のジュネーヴ国際音楽コンクールの声楽部門で優勝した後、イタリアでリッカルド・ストラチアーリ、アポロ・グランフォルテ、カルロ・タリアブーエの各氏の指導を受ける。1947年にはプロコフィエフの《三つのオレンジへの恋》のトゥレーフ役を歌ってスカラ座に初登場した。1949年から1956年までエクサン=プロヴァンス音楽祭に参加し、1950年から1952年までニューヨーク・シティ・センター・オペラでも歌った。1978年に引退後はテルアビブ大学やルービン音楽院等で後進の指導に当たった。1960年から1968年までウィーン国立歌劇場にも登場している。 サンモリッツにて死去。.

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ルチアーノ・パヴァロッティ

ルチアーノ・パヴァロッティ(Luciano Pavarotti、1935年10月12日 - 2007年9月6日)は、イタリアのオペラ歌手。 声域はテノール。“神に祝福された声”・“キング・オブ・ハイC(三点ハの王者)”と評された豊麗な美声、申し分ない声量、明晰な発音、輝かしい高音が魅力の、20世紀後半を代表するオペラ歌手の1人。 プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラスと共に三大テノールとしても知られる(3人の中でパヴァロッティが最年長)。.

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レコード

ングルレコード盤(ドーナツ盤ともいわれる) レコード (record, vinyl record, 英語版ではgramophone record)とは、音声記録を意味し、主に樹脂などでできた円盤(最初期には円筒状の蝋管レコードを含む)に音楽や音声などの音響情報を刻み込み記録したメディアの一種を示すことが多い。音盤などその他の呼び方で呼ばれることもある。 音の再生の方法は信号としての振幅の情報の読み取り方と情報の増幅により異なる。針で読み取った振幅の情報を、機械的に増幅する蓄音機の時代、電気信号に変えて増幅するレコードプレーヤーの時代、そして針を使わずレーザーを用いて非接触再生するレーザーターンテーブルの時代(レコード末期以降から近年にかけての特殊な時代)に大まかに分類することができる。.

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レジーナ・レズニック

レジーナ・レズニック(Regina Resnik, 1922年8月30日 - 2013年8月8日)は、アメリカ出身のソプラノ歌手、メゾ・ソプラノ歌手。 ブロンクス区のロシア系移民のレズニック(Resnick)家に生まれる。後にレズニック姓の綴りの"c"を略するようになった。13歳の時にロザリー・ミラーから最初の声楽レッスンを受け、ラジオ番組であるメジャー・ボウズのオリジナル・アマチュア・アワーに出場して10ドルの賞金を獲得している。16歳の時にはジュリアード音楽院への進学を断り、ハンター・カレッジに進む。師のミラーの紹介により、フリッツ・ブッシュの知己を得、1942年にブッシュのニューヨーク・オペラ・カンパニーの《マクベス》の公演に参加してデビューを飾った。その後、メキシコにてエーリヒ・クライバーの指揮で歌った。1944年にはメトロポリタン歌劇場のオーディションに合格し、ジンカ・ミラノフの代役として《イル・トロヴァトーレ》のレオノーラ役を歌って成功をおさめた。1953年にバイロイト音楽祭に《ヴァルキューレ》のジークリンデ役て登場するも、その後声質の変化のため、ソプラノからメゾソプラノに声域を変更して活動するようになった。1958年にはメトロポリタン歌劇場でのサミュエル・バーバーの《ヴァネッサ》の初演に老男爵夫人役として参加。1970年代からは演出家としても活動するようになった。 マンハッタンにて死去。.

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ロバート・メリル

バート・メリル(Robert Merrill, 1917年6月4日 - 2004年10月23日)は、アメリカ出身のバリトン歌手。本名はモイシェ・ミラー(Moishe Miller)。 ブルックリン区の出身。歌手だった母親に音楽の手ほどきを受ける。少年時代にメトロポリタン歌劇場のリハーサルに迷い込み、ローレンス・ティベットがジュゼッペ・ヴェルディの《椿姫》のジェルモン役を歌うのを聴いて歌手の道に進む決意をし、セミプロフェッショナルの野球投手としてお金を稼ぎながらサミュエル・マルゴリスの声楽のレッスンを受けた。1944年にヴェルディの《アイーダ》のアモナスロ役を歌って、オペラ歌手としての活動をはじめ、翌年にはメトロポリタン歌劇場のオーディションに合格し、《椿姫》のジェルモン役で同歌劇場での初舞台を踏んだ。1976年にはメトロポリタン歌劇場から引退したが、歌手活動は継続し、1983年のメトロポリタン歌劇場100周年コンサートにも駆けつけている。 ニューヨークにて没。.

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ロンドン

ンドン(London )はグレートブリテンおよび北アイルランド連合王国およびこれを構成するイングランドの首都。イギリスやヨーロッパ域内で最大の都市圏を形成している。ロンドンはテムズ川河畔に位置し、2,000年前のローマ帝国によるロンディニウム創建が都市の起源である。ロンディニウム当時の街の中心部は、現在のシティ・オブ・ロンドン(シティ)に当たる地域にあった。シティの市街壁内の面積は約1平方マイルあり、中世以来その範囲はほぼ変わっていない。少なくとも19世紀以降、「ロンドン」の名称はシティの市街壁を越えて開発が進んだシティ周辺地域をも含めて用いられている。ロンドンは市街地の大部分はコナベーションにより形成されている 。ロンドンを管轄するリージョンであるグレーター・ロンドンでは、選挙で選出されたロンドン市長とロンドン議会により統治が行われている。 ロンドンは屈指の世界都市として、芸術、商業、教育、娯楽、ファッション、金融、ヘルスケア、メディア、専門サービス、調査開発、観光、交通といった広範囲にわたる分野において強い影響力がある。また、ニューヨークと並び世界をリードする金融センターでもあり、2009年時点の域内総生産は世界第5位で、欧州域内では最大である。世界的な文化の中心でもある。ロンドンは世界で最も来訪者の多い都市であり、単一の都市圏としては世界で最も航空旅客数が多い。欧州では最も高等教育機関が集積する都市であり、ロンドンには大学が43校ある。2012年のロンドンオリンピック開催に伴い、1908年、1948年に次ぐ3度目のオリンピック開催となり、同一都市としては史上最多となる。 ロンドンは文化的な多様性があり、300以上の言語が使われている。2011年3月時点のロンドンの公式の人口は817万4,100人であり、欧州の市域人口では最大で、イギリス国内の全人口の12.7%を占めている。グレーター・ロンドンの都市的地域は、パリの都市的地域に次いで欧州域内で第2位となる8,278,251人の人口を有し、ロンドンの都市圏の人口は1200万人から1400万人に達し、欧州域内では最大である。ロンドンは1831年から1925年にかけて、世界最大の人口を擁する都市であった。2012年にマスターカードが公表した統計によると、ロンドンは世界で最も外国人旅行者が訪れる都市である。 イギリスの首都とされているが、他国の多くの首都と同様、ロンドンの首都としての地位を明示した文書は存在しない。.

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ローエングリン

『ローエングリン』(Lohengrin)は、リヒャルト・ワーグナーのオペラ。台本も作曲者によるもので、10世紀前半のアントウェルペンを舞台とする。以降に作曲された楽劇(Musikdrama)に対し、ロマンティック・オペラと呼ばれる最後の作品である。バイエルン王ルートヴィヒ2世が好んだことで知られる。第1幕、第3幕への各前奏曲や『婚礼の合唱』(結婚行進曲)など、独立して演奏される曲も人気の高いものが多い。 初演は1850年8月28日、フランツ・リストの指揮によりヴァイマル宮廷劇場で行われた。 日本での初演は1942年11月23日、東京歌舞伎座で行われた藤原歌劇団の公演である。演奏は東京交響楽団(現在の東京フィルハーモニー交響楽団。現在の同名の団体とは別)、指揮マンフレート・グルリット、主役のローエングリンは藤原義江が演じた。堀内敬三訳の日本語訳詞で歌われたが、戦時中3時間を越える上演は禁止されていたため、内容を縮小しての上演された。現在でも第3幕を数分間カットして上演されることが多い。.

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ロイヤル・オペラ・ハウス

イヤル・オペラ・ハウス(Royal Opera House)は、ロンドンのコヴェント・ガーデンに所在する歌劇場。単にコヴェント・ガーデンと称してこの歌劇場を指すこともあり、またROHと略記されることもある。ロイヤル・オペラ、ロイヤル・バレエ団そしてロイヤル・オペラ・ハウス・オーケストラの本拠地として使用されている。 現在存在する建築物は3代目にあたる。ファサードと玄関、聴衆席は1856年に作られたものが残っているが、それ以外の部分については1990年代に改装されたものである。合計2,174人の聴衆を収容できる4階建ての円形観客席を有し、舞台の幅は12.20m、高さ14.80mである。観客席部分はイギリスの指定建造物となっている。 ドイツ圏の歌劇場に比べると先鋭的な読み替え演出は少ない。舞台の横幅が見劣りするものの、特に装置、キャスト、演奏水準は英国第一の歌劇場に相応しいレベルを維持している。オーケストラをはじめカンパニーは戦後に整備されたもので歴史は浅いが、これも比較的短期間で他の古参オペラハウスに見劣りのしない水準を獲得している。オペラの作品そのものを楽しむには非常に適した劇場ということで、1980年代より非常に多くの映像ソフトが日本でも紹介されている。.

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ロイヤル・オペラ・ハウス管弦楽団

イヤル・オペラ・ハウス管弦楽団(Royal Opera House Orchestra)は、イギリス・ロンドンのコヴェントガーデンにあるロイヤル・オペラ・ハウス(王立歌劇場)専属のオーケストラである。コヴェントガーデン王立歌劇場管弦楽団と呼ばれることもある。 このオーケストラは、ウィーン国立歌劇場管弦楽団(ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団としても活動)や、ゼンパー・オーパー(ザクセン州立歌劇場)のオーケストラであるシュターツカペレ・ドレスデンなどとは違い、シンフォニー・コンサートを行わずオペラやバレエの上演を専門に演奏活動を行っている。そのためレコーディングは、オペラやバレエの全曲物、オペラ歌手のソロ・アルバムの伴奏物などが主である。 歴代の音楽監督は、ラファエル・クーベリック、ゲオルク・ショルティ、コリン・デイヴィス、ベルナルト・ハイティンクらが務め、2002年より現在までアントニオ・パッパーノが音楽監督を務めている。.

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トリノ・イタリア放送交響楽団

トリノ・イタリア放送交響楽団は、1931年にトリノで創立された、イタリア最初の放送交響楽団。1994年に、ローマ、ミラノ、ナポリの放送交響楽団と合併し、RAI国立交響楽団として再編された。.

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トゥリオ・セラフィン

トゥリオ・セラフィン(Tullio Serafin, 1878年9月1日 - 1968年2月2日)はイタリアの指揮者。.

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トゥーランドット

『トゥーランドット』(Turandot)は、フランソワ・ペティ・ド・ラ・クロワ(François Pétis de la Croix)が1710年〜1712年に出版した『千一日物語』(原題Les Mille et un Jours 、『千一夜物語』とは別の作品)の中の「カラフ王子と中国の王女の物語」に登場する姫の名前であり、また、その物語を基にヴェネツィアの劇作家カルロ・ゴッツィが1762年に著した戯曲、および、それらに基づいて作曲された音楽作品である。上記に該当する音楽作品は複数存在するが、本項では、これらのうち最も有名なジャコモ・プッチーニのオペラ『トゥーランドット』について記述する。.

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トスカ

『トスカ』(Tosca)は、ジャコモ・プッチーニのオペラである。その見せ場の多さから、オペラ史における重要な作品と見なされている。.

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ヘルベルト・フォン・カラヤン

ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan, 1908年4月5日 - 1989年7月16日)は、オーストリアの指揮者。1955年より1989年までベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者・芸術監督を務め、一時期それと同時にウィーン国立歌劇場の総監督やザルツブルク音楽祭の芸術監督などのクラシック音楽界の主要ポストを独占し、多大な影響力を持つに至った。20世紀のクラシック音楽界において最も著名な人物のひとりであり、日本では「楽壇の帝王」と称されていた。また、その独自の音楽性と自己演出は「カラヤン美学」と謳われ時代の寵児にもなった『カラヤンとカラヤンの時代』帰徳書房、1979年。。.

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ヘレン・ドーナト

ヘレン・ドーナト(Helen Donath、1940年7月10日 - )は、アメリカ合衆国出身のドイツのソプラノ歌手である。英語風にドーナス、誤ってドナート、ドナースと表記されている(LP時代はほとんどこちらだった)場合もある。旧姓はアーウィン (Erwin)。.

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ブルーノ・バルトレッティ

ブルーノ・バルトレッティ(Bruno Bartoletti, 1926年6月10日 - 2013年6月9日)はイタリアの指揮者。イタリア・オペラと近代および現代作品を中心とするレパートリーを持ち、デビュー以来半世紀以上にわたってオペラとコンサートの指揮者として活躍した。.

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パルマ

パルマ(Parma)は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州にある都市であり、その周辺地域を含む人口約19万人の基礎自治体(コムーネ)。パルマ県の県都である。 古代に起源を有する都市で、中世は自治都市として栄えた。パルマ大聖堂を中心に中世都市の景観が残る。16世紀半ばから19世紀のイタリア統一まではパルマ公国の首都であった。「美食の都」として知られており、特にプロシュット・ディ・パルマ(パルマハム)で有名である。食品産業が盛んであり、ヨーロッパ連合の外局である欧州食品安全機関の本部も置かれている。.

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ヒルデ・ギューデン

ヒルデ・ギューデン(Hilde Güden, 1917年9月15日 - 1988年9月17日)は、オーストリア出身のソプラノ歌手。本名はヒルダ・ガイリンガー(Hilda Geiringer)。 ウィーンの生まれ。地元の音楽院でマリア・ヴェッツェルスベルガーに師事。1935年にウィーン・フォルクスオーパーでロベルト・シュトルツの《やあやあ》に出演してデビューを飾り、1937年には、ベナツキーの《雪のような心》にも登板するなど、オペレッタ歌手として成功を収めたが、この頃はヒルデ・ゲリン (Hilde Gerin) 名義で出演していた。1939年にはチューリヒ歌劇場にモーツァルトの《魔笛》でオペラ・デビューを飾った。1941年にクレメンス・クラウスの指揮でミュンヘン国立歌劇場に出演するようになってから、ヒルデ・ギューデンを芸名に使うようになった。しかし、先祖がユダヤ系だったため、ナチスの手から逃れるために、戦後までイタリアのトゥリオ・セラフィンの庇護の下でリヒャルト・シュトラウスのオペラなどを歌った。 戦後は1946年から1973年までウィーン国立歌劇場に在籍し、ロンドンのコヴェント・ガーデン王立劇場にも客演を繰り返した。1951年からはニューヨークのメトロポリタン歌劇場にも登場した。 クロスターノイブルクにて死去。.

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ビルギット・ニルソン

ビルギット・ニルソン(Birgit Nilsson, 1918年5月17日 - 2005年12月25日)はスウェーデンのソプラノ歌手。ニルソンはマルメから100キロ北にあるで生まれ、本人の回想によれば歩き出す前から歌い始めていたという。彼女は教会の聖歌隊で歌った後、ストックホルムの王立音楽院で学んでいる。 1946年にストックホルムのスウェーデン王立歌劇場において、ウェーバーの歌劇『魔弾の射手』のアガーテ役を歌ってプロ・デビューを飾り、その翌年には指揮者フリッツ・ブッシュの息子で演出家のハンス・ブッシュの抜擢を受けヴェルディの『マクベス』のマクベス夫人役を歌い大成功をおさめる。1951年にはイギリスのグラインドボーン音楽祭に招かれ、モーツァルトの歌劇『イドメネオ』のエレットラを歌った事で国際的な知名度を獲得、1954年にはミュンヘンでワーグナーの楽劇『ニーベルングの指環』のブリュンヒルデ役を初めて歌い、同年にはバイロイト音楽祭に初招聘され、『ローエングリン』のエルザ役を歌うなどワーグナー歌手としての地歩を固めて行く事になる。バイロイトには1970年まで出演を続ける一方、ウィーン国立歌劇場、ミラノ・スカラ座、ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスなど世界の有名歌劇場に相次いで出演している。 1956年にはサンフランシスコ歌劇場でワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』のイゾルデを歌ってアメリカ・デビューを飾り、1959年にはやはりイゾルデを歌ってニューヨークのメトロポリタン歌劇場にデビューし、その後もメトロポリタン歌劇場に多く来演している。彼女の圧倒的な声量を伴うドラマティックな歌声は特にワーグナーとの相性が良く、戦後最大のワーグナー・ソプラノとしてフラグスタートの後継に擬せられるようになっていく。 ニルソンとやはり戦後最大のヘルデン・テノールとして知られたヴォルフガング・ヴィントガッセンの組み合わせは、当時最高の呼び物として世界中に知られていたが、ニルソンはワーグナーばかりを歌っていたという訳でもなく、多くのドラマティック・ソプラノのレパートリーを手がけており、多くの録音も残されている。代表的な役を挙げるとレオノーレ、アイーダ、トゥーランドット、トスカ、エレクトラそしてサロメなど枚挙に暇がない。 彼女はイギリスのレコード会社デッカによって製作・発売された、ジョン・カルショーのプロデュース、ゲオルク・ショルティがウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した『指環』でもブリュンヒルデを歌っている事に象徴されるように、彼女はステレオ録音が開発され、レコード会社が競ってレパートリーをステレオで再録音していた時期にワーグナー・ソプラノの代表格の地位にあった事で、直接彼女の実演に接した事のないリスナーにも大きな存在として君臨している。 1967年には大阪国際フェスティバル(バイロイト音楽祭の引越し公演)でピエール・ブーレーズらと初来日、ヴィントガッセンとのコンビで見事なイゾルデを演じている。その後1979年には読売日本交響楽団のソリストとして、1980年にはウィーン国立歌劇場に帯同して来日、この時はエレクトラを演じている。ニルソンは1984年に現役を引退し、2005年のクリスマスに生地ヴァストラ・カルップスで87年の生涯を閉じた。.

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ピエロ・カプッチルリ

ピエロ・カプッチルリ(Piero Cappuccilli, 1929年11月9日 - 2005年7月12日)は、イタリアのバリトン歌手。ヴェルディのオペラ、中でも『マクベス』や『シモン・ボッカネグラ』の歌唱で名高い。その卓越したブレス・コントロールと滑らかなレガート唱法から、20世紀後半最高のイタリア・バリトン歌手の一人とされる。 トリエステに生まれ、はじめは建築家を志すも、親戚の勧めもありオペラ歌手となる。ルチアーノ・ドナッジオに学び、地元トリエステのジュゼッペ・ヴェルディ劇場でいくつかの端役をこなした後、1957年にミラノのヌオーヴォ劇場で、レオンカヴァルロ作曲『道化師』のトニオ役で本格デビューを果たす。EMIレコードの名プロデューサー・ウォルター・レッグに見出され、ジュリーニ指揮のオペラ全曲盤レコード録音に参加、マリア・カラスとの共演となったドニゼッティ作曲『ランメルモールのルチア』のエンリーコ役で高い評価を得て国際的活躍が始まる。 1964年からはイタリア・オペラの総本山、ミラノ・スカラ座にも出演(初舞台は上記エンリーコ役)。衰えをみせ始めていたゴッビ、若くして病に倒れたバスティアニーニの後継バリトン、そして代表的な「ヴェルディ・バリトン」としての地位を確立する。 特にスカラ座の1971年-72年のシーズン、クラウディオ・アバド指揮、ジョルジョ・ストレーレル演出の下で行われたヴェルディ作曲『シモン・ボッカネグラ』では主役として出演、この晦渋なオペラの現代的再評価に大いに貢献した(同オペラは後年のスカラ座引越公演時にも再演され、カプッチルリは日米英仏各国で出演している。また映像化もされた)。カプッチルリ自身もこのスカラ座公演を「第二次世界大戦後、イタリア・オペラ界最重要のイヴェントのひとつ」と後に述懐している。またカラヤンにも重用されザルツブルク音楽祭にもたびたび出演する。カラヤンのタクトで演じたヴェルディ『ドン・カルロ』のロドリーゴ役、同『トロヴァトーレ』のルーナ伯爵役も映像が入手可能である。 1992年、ヴェローナのアレーナ劇場(円形劇場)でのヴェルディ『ナブッコ』公演終了後、交通事故で瀕死の重傷を負い、公演活動からは事実上引退。2005年、故郷のトリエステで他界した。 ライブで聴衆を興奮させることの巧みな歌手としても知られ、1972年のヴェルディ『エルナーニ』アレーナ劇場でのライブ録音(国王ドン・カルロ役)ではアリア"Oh de' verd'anni miei"で譜面にない高音で観客を熱狂させており、1980年のシノーポリ指揮の同『アッティラ』(エツィオ役)でも観客の求めに応じて第2幕のアリア"È gettata la mia sorte"をリピートしている。指揮者や演出家の統制の強まるオペラ界にあって、歌手としてのエンターテイメント性を発揮できる最後の世代に属していた。 あまりにも「ヴェルディ・バリトン」としての印象が強いカプッチルリであるが、ヴェルディ以外でもジョルダーノ『アンドレア・シェニエ』のジェラール役、プッチーニ『トスカ』のスカルピア男爵役など、性格付けの必要な役どころでは素晴らしい舞台を見せている。また、キャリアの初期、1960年代にはドニゼッティ『ロベルト・デヴリュー』やベルリーニ『海賊』なども得意としていた。 Category:イタリアのバリトン歌手 Category:トリエステ出身の人物 Category:1929年生 Category:2005年没.

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デッカ・レコード

デッカ・レコード(Decca Records)は、イギリスのレコード会社。アメリカ合衆国にも子会社を設立したが、第二次世界大戦の混乱の中で両社の資本関係は切れ、その後は各々が独自の道を歩むことになった。しかし、1990年代の世界的な音楽業界の再編によって、現在は両社共にユニバーサル ミュージック グループの一部となっている。.

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ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ

ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ (Dietrich Fischer-Dieskau, 1925年5月28日 - 2012年5月18日)は、ドイツのバリトン歌手(のちに指揮活動も行った)。 フィッシャーは父方、ディースカウは母方の姓であり、ディースカウがJ.S.バッハの『農民カンタータ』にちなんだ領主の名前だったことから、縁起をかついで両方の姓を名乗ったという。.

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フランチェスコ・モリナーリ=プラデッリ

フランチェスコ・モリナーリ=プラデッリ(Francesco Molinari-Pradelli, 1911年7月4日 - 1996年8月7日)はイタリアの指揮者。イタリア・オペラの第一人者として活躍した。 ボローニャの生まれ。地元のマルティーニ音楽院でチェーザレ・ノルディオの作曲クラスに籍を置き、ボローニャ美術学校でロベルト・ロンギ、フランチェスコ・アルカンジェリ、カルロ・ヴォルペの各氏に美術史を学んだ。その後サンタ・チェチーリア国立アカデミアに行き、ベルナルディーノ・モリナーリの下で指揮法を学ぶ傍らで美術を独学した。 1937年にトリエステで指揮者としてデビューし、1938年にボローニャのコルソ劇場でガエターノ・ドニゼッティの《愛の妙薬》を指揮してオペラ指揮者としても活動するようになった。1946年にはアルトゥーロ・トスカニーニの要請でミラノのスカラ座に登場し、ジャコモ・プッチーニの《トスカ》を指揮してオペラ指揮者としての名声を確立した。1956年にはコヴェントガーデン王立歌劇場に客演し、レナータ・テバルディを起用してプッチーニの《トスカ》等を上演して成功を収めた。1957年にはサンフランシスコ歌劇場に客演してアメリカ・デビューを果たし、1959年にはウィーン国立歌劇場でも指揮を執った。1966年から1973年までニューヨークのメトロポリタン歌劇場に登場している。1983年にカターニアでプッチーニの《つばめ》を指揮して以降は、指揮活動から遠ざかった。 国際的な指揮活動の傍らで、美術コレクター及びディーラーとしても活動し、1985年には故郷のボローニャで自らの絵画コレクションを用いて展覧会を催した。 ボローニャ近郊マラーノ・ディ・カステナーゾにて没。.

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フランコ・カプアーナ

フランコ・カプアーナ(Franco Capuana, 1894年9月29日 - 1969年12月10日)は、イタリアの指揮者、作曲家。姉(1891年 - 1955年)は、ワーグナー作品を得意としたメゾソプラノ歌手。.

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フランコ・コレッリ

フランコ・コレッリ(Franco Corelli, 1921年4月8日 - 2003年10月29日)は、イタリアのテノール歌手。劇的表現に適したスピント系の美声、力感あふれる歌唱、輝かしい高音で知られ、激発性をも含んだ情熱、悲劇性の表現に秀でて高い人気を誇った名テノール。舞台映えする長身の美男歌手としても著名であった。.

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ファルスタッフ

『ファルスタッフ』(Falstaff)は、ジュゼッペ・ヴェルディ作曲、アッリーゴ・ボーイト改訂(台本も執筆)による3幕のオペラ(コメディア・リリカ)作品。原作はウィリアム・シェイクスピアの喜劇『ウィンザーの陽気な女房たち』。.

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ファウスト (オペラ)

『ファウスト』(Faust)は、シャルル・グノーが作曲した全5幕のオペラ。ドイツの文豪ゲーテの劇詩『ファウスト』を題材にしている。「清らかな住まい」や「金の子牛の歌」、「宝石の歌」などをはじめとするアリア、第5幕で踊られるバレエ音楽は非常に有名で、単独で演奏会や録音で取り上げられる機会が多い。.

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ファウスト・クレヴァ

ファウスト・アンジェロ・クレヴァ(Fausto Angelo Cleva, 1902年5月17日 - 1971年8月6日)は、イタリア出身のオペラ指揮者。.

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フィレンツェ五月音楽祭管弦楽団

フィレンツェ五月音楽祭管弦楽団(L'Orchestra del Maggio Musicale Fiorentino)は、イタリアのフィレンツェにあるオーケストラである。フィレンツェ五月音楽祭劇場(Teatro del Maggio Musicale Fiorentino)の座付きオーケストラであり、フィレンツェ五月音楽祭(Maggio Musicale Fiorentino)の中核オーケストラでもある。音楽祭以外の活動でもフィレンツェ歌劇場管弦楽団ではなく、この名称を用いることが多い。臨時編成でないオーケストラが音楽祭管弦楽団を名乗ることも現代では異例である。 フィレンツェ五月音楽祭劇場は1862年にヴィットーリオ・エマヌエーレ劇場(Politeama Fiorentino Vittorio Emanuele)として設立。フィレンツェ歌劇場、もしくはフィレンツェ市立劇場(Teatro Comunale di Firenze)とも呼ばれる。またフィレンツェ五月音楽祭は、1933年にヴィットリオ・グイにより創設された。劇場の首席指揮者や首席客演指揮者はリッカルド・ムーティ、チョン・ミョンフン、セミヨン・ビシュコフらが務めた。1985年から現在までズービン・メータが首席指揮者を務めており、2006年には名誉指揮者の称号を贈られている。.

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フィオレンツァ・コッソット

フィオレンツァ・コッソット(Fiorenza Cossotto, 1935年4月22日 - )は、イタリアのオペラ歌手。 クレシェンティーノ出身。トリノ国立音楽学校を最優等で卒業。1955年にミラノ・スカラ座にデビューし、1964年にアメリカ合衆国デビューを果たした。ヴェルディの歌劇『マクベス』の録音ではマクベス夫人の歌唱によってゴールド・ディスクを授与されている。 『アイーダ』のアムネリス役、『仮面舞踏会』のウルリカ役、『カヴァレリア・ルスティカーナ』のサントゥッツァ役および『カルメン』のタイトル・ロールを得意とした。 2005年に生誕70周年を記念して、ベルギーや東京・大阪でリサイタルを行なった。.

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フィガロの結婚

『フィガロの結婚』(フィガロのけっこん、、、、)は、フランスの劇作家ボーマルシェが1784年に書いた風刺的な戯曲、ならびに同戯曲をもとにヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが1786年に作曲したオペラ()である。 オペラのリブレット(台本)は、ボーマルシェの戯曲に基づき、イタリア人台本作家ロレンツォ・ダ・ポンテがイタリア語で書いた。本項では、このイタリア語の台本によるオペラ作品について主に扱う。.

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フェルナンド・コレーナ

フェルナンド・コレーナ(Fernando Corena, 1916年12月22日 - 1984年11月26日)は、スイスのバス歌手。本名は、フェルナンド・コレナ (Fernando Korena) 。 ジュネーヴで、父親はトルコ人、母親はイタリア人の家庭に生まれる。フリブール大学で神学を学ぶも、地元の声楽コンテストで優勝したことから声楽に転向し、1937年から翌年までジュネーヴ音楽院で学んだ。その後、ヴィットリオ・グイの知己を得て、ミラノでエミリオ・ロマーニの薫陶を受けた。1940年にチューリッヒで歌手デビューを飾り、1947年にトリエステ歌劇場でモデスト・ムソルグスキーの《ボリス・ゴドゥノフ》のヴァルラーム役として登場して注目を集めた。1953年にはエディンバラ音楽祭でジュゼッペ・ヴェルディの《ファルスタッフ》の表題役、メトロポリタン歌劇場でヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの《ドン・ジョヴァンニ》でレポレロ役を演じて好評を博した。1955年にはザルツブルク音楽祭で《後宮からの誘拐》のオスミン役として初登場した。 ルガーノにて死去。.

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ドン・カルロ

『ドン・カルロ』(Don Carlo)は、ジュゼッペ・ヴェルディ作曲によるオペラ。パリ・オペラ座の依頼により、1865年から1866年にかけて作曲、全5幕のオペラとして1867年3月にオペラ座にて初演した(フランス語では『ドン・カルロス』Don Carlos)。 ヴェルディの23作目のオペラ(ヴェルディの創作期間の中では中期の作品に分類される)。原作はフリードリヒ・フォン・シラー作の戯曲『スペイン王子ドン・カルロス』(1787年作)。.

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ドン・ジョヴァンニ

『ドン・ジョヴァンニ』(Il dissoluto punito, ossia il Don Giovanni(罰せられた放蕩者またはドン・ジョヴァンニ), K.527)は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが1787年に作曲したオペラ・ブッファ(あるいはドラマ・ジョコーソ)である。.

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ニュルンベルクのマイスタージンガー

『ニュルンベルクのマイスタージンガー』(Die Meistersinger von Nürnberg)は、19世紀ドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナーが作曲した楽劇。リブレットも作曲者自身による。.

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ニューヨーク

ニューヨーク市(New York City)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州にある都市。 1790年以来、同国最大の都市であり、市域人口は800万人を超え、都市圏人口では定義にもよるが2000万人以上である.

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ニコラ・ザッカリア

ニコラ・ザッカリア(Nicola Zaccaria, 1923年3月9日 - 2007年7月24日)は、ギリシャ出身のバス歌手。本名はニコラス・アンゲロス・ザカリウー(Nicolas Angelos Zachariou)。 ピレウスの生まれ。地元の聖歌隊でメネラウス・パランティウの指導を受けた後、アテネ音楽院でミルトス・ヴィシノーの薫陶を受ける。1943年から歌劇場の合唱要員として経験を積み、1949年のアテネ国立歌劇場に於いて、ガエターノ・ドニゼッティの《ランメルモールのルチア》のライモンド役でデビューを果たした。1953年にはジュゼッペ・ヴェルディの《リゴレット》のスパラフチーレ役を歌ってミラノ・スカラ座に初出演を飾った。翌年にはクリストフ・ヴィリバルト・グルックの《アルチェステ》の伝令役としてマリア・カラスと初共演している。1957年にはカラスの歌うヴィンチェンツォ・ベッリーニの《ノルマ》でオロヴェーゾ役を歌い、コヴェントガーデン王立歌劇場に初出演した。同年、ザルツブルク音楽祭に出演し、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの《フィデリオ》のドン・フェルナンド役やヴェルディの《ドン・カルロ》の宗教裁判長役を務め、以後度々出演を果たした。1958年にはイルデブランド・ピツェッティの《大聖堂の殺人》の初演にも参加している。1974年にはダラスでアンブロワーズ・トマの《ミニョン》のロターリオ役でマリリン・ホーンと共演し、後にホーンと結婚した。 アテネにて死去。.

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ニコライ・ギャウロフ

ニコライ・ギャウロフ(Nicolai Ghiaurov, Николай Гяуров (Nikolaj Gjaurov), 1929年9月13日-2004年6月2日)は、ブルガリア出身のオペラ歌手(バス)。 戦後最高のバス歌手の一人とされ、広い音域で深みのある声を持ち、知的でよくコントロールした歌唱を聴かせた。バルカン系バス特有の癖が少なく、スラヴ・オペラ、イタリア・オペラ、フランス・オペラ、モーツァルト作品までまったく違和感のない歌唱を聴かせる。 ブルガリアのヴェリングラードで生まれ、ソフィア音楽院でブランバロフに、さらにレニングラード音楽院およびモスクワ音楽院でも学ぶ。ワルシャワと1955年のパリ国際音楽コンクールで優勝し、同年ソフィアの歌劇場でパイジェッロの『セビリアの理髪師』のドン・バジリーオを歌いデビューした。翌年ウィーンで『アイーダ』のランフィスを歌い成功、翌1958年にはボリショイ劇場でメフィストフェレス(グノーの『ファウスト』)やピーメン(ムソルグスキーの『ボリス・ゴドゥノフ』)を歌い注目を集めるとともに、イタリアでもボローニャ歌劇場でバジーリオを歌いデビューした。翌年、『ボリス・ゴドゥノフ』でミラノ・スカラ座に出演、1962年にはコヴェント・ガーデン、1965年にはメトロポリタン歌劇場にもデビューし、さらにウィーン、パリ・オペラ座、ザルツブルク音楽祭などに次々と出演して、様々な歌手や指揮者との活躍の場を広げていった。 日本には1973年のNHKイタリア・オペラ公演の『ファウスト』でメフィストフェレスを歌い、また1981年のミラノ・スカラ座の公演では『シモン・ボッカネグラ』のフィエスコを演じ、シモンを歌うカップチッリとの熱い競演を見せた。 最初の妻でピアニストのミシャコワと離婚後、イタリアの名ソプラノ歌手ミレッラ・フレーニと再婚し、2人でしばしば揃って劇場やレコード録音に登場していた。 2004年1月には、デビュー役であるドン・バジーリオをヴェネツィアで歌っている。同年5月、心臓発作に襲われ、自宅のある(フレーニの生まれ故郷)モデナ近郊の病院に入院していたが、6月2日に死去した。 レコード録音でも『ボリス・ゴドゥノフ』『シモン・ボッカネグラ』『ドン・ジョヴァンニ』など数多くの作品を記録している。.

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アルトゥーロ・バジーレ

アルトゥーロ・バジーレ(Arturo Basile, 1914年1月16日-1968年5月21日)は、イタリア共和国の指揮者。主にオペラ指揮者として活躍し、ヴェルディとプッチーニを得意とした。NHKイタリア歌劇団で訪れた日本など、イタリア国外でも指揮を行ったが、交通事故により54歳で他界した。.

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アルトゥーロ・トスカニーニ

アルトゥーロ・トスカニーニ(Arturo Toscanini, 1867年3月25日 - 1957年1月16日)は、イタリア出身の指揮者。.

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アルド・プロッティ

アルド・プロッティ(Aldo Protti, 1920年7月17日 - 1995年8月10日)は、イタリアのバリトン歌手。1950年代から1960年代にかけてイタリアの歌劇場を中心に活躍、また多くのオペラ全曲盤レコード録音にも出演した。 クレモナの貧しい家庭に生まれる。はじめ大理石細工、のちには鉄道員の職に就いたが、歌の巧さに感心した知人の尽力で、パルマの音楽院での声楽勉強の機会を得た。 1948年、ロッシーニの生地ペーザロで、『セビリアの理髪師』フィガロ役で舞台デビュー、1950年にはミラノ・スカラ座にもヴェルディ『アイーダ』アモナズロ役でデビュー、またヨーロッパ各地、北米、南米の各地劇場にも出演した。特にヘルベルト・フォン・カラヤンに好まれウィーン国立歌劇場には頻繁に出演した。 プロッティの歌唱に対しては、しばしば「大声量に頼るのみで性格付けに乏しい」といった批判がなされることもあったが、その幅広いレパートリー、器用な演技力が多くのオペラ・ハウスで重宝がられたのもまた事実であった。彼の全盛期である1950年代-60年代はちょうどLPレコードによるオペラ全曲録音が盛んに行われた時期に重なり、英デッカ社と契約していたプロッティはここでも多くの録音を残している。そのうち1960年のカラヤン指揮、デル=モナコ、テバルディ出演のヴェルディ『オテロ』全曲録音では、イヤーゴ役を予定していたバリトン歌手のエットーレ・バスティアニーニがカラヤンと衝突したため、デッカ社は急遽プロッティに差し替える形で録音を完成させている。 1959年からは日本にもNHKイタリア歌劇団の一員などとしてたびたび訪問、『オテロ』イヤーゴ役、『ラ・トラヴィアータ』父ジェルモン役、『アンドレア・シェニエ』ジェラール役、『リゴレット』(タイトル・ロール)などを歌った。中でも1961年10月、東京文化会館でのレオンカヴァッロ『道化師』トニオ役では舞台上で軽やかにとんぼ返りを披露するさまが映像として残されており、その芸達者振りがうかがえる。おそらく、これは器械体操の競技歴のおかげであろう。 1970年代からは舞台上での活動をほぼ終え、もっぱら後進指導にあたったが、1985年には65歳の高齢でニューヨーク・メトロポリタン歌劇場にデビュー、得意としていた『リゴレット』を歌った。 1995年に生地クレモナで死去した。 Category:イタリアのバリトン歌手 Category:クレモナ出身の人物 Category:1920年生 Category:1995年没.

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アルベルト・エレーデ

アルベルト・エレーデ(Alberto Erede, 1909年11月8日 - 2001年4月12日)はイタリアの指揮者。 ジェノヴァに生まれ、ミラノ音楽院で作曲を修めた後、バーゼル音楽院でフェリックス・ワインガルトナーに指揮法を師事した。 フリッツ・ブッシュの下でアシスタントを務めた後、1934年に、ローマのサンタ・チェチーリア国立アカデミアのコンサートを指揮してデビューを飾った。 1935年にはトリノでワーグナーの《ニーベルングの指環》を指揮してオペラ指揮者として成功を収め、グラインドボーン音楽祭やザルツブルク音楽祭などに出演するようになった。 1937年には、アメリカのNBC交響楽団を指揮してアメリカ・デビューを飾っている。 第二次世界大戦中はイタリアに戻り、トリノ・イタリア放送交響楽団の指揮者を務めていた。 戦後はメトロポリタン歌劇場で活躍した後、1956年からライン・ドイツ・オペラに出演し、1958年から3シーズン同歌劇場の音楽監督を務めた。またエーテボリ交響楽団の指揮者も務めた。 モンテカルロの自宅で死去。.

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アンドレア・シェニエ

『アンドレア・シェニエ』(Andrea Chénier )は、イタリアの作曲家ウンベルト・ジョルダーノによる全4幕のオペラである。1896年3月ミラノ・スカラ座で初演された。18世紀、革命前後のフランスを舞台に、実在の詩人アンドレ・シェニエ(アンドレアはイタリア語読み)の半生を描き、ヴェリズモ・オペラの傑作のひとつとして数えられる作品。.

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アッリーゴ・ボーイト

  アッリーゴ・ボーイト(Arrigo Boito, 1842年2月24日 - 1918年6月10日)は、イタリアの詩人、小説家、台本作家、音楽評論家そしてオペラの作曲家である。今日ではヴェルディなどのオペラ台本作家として、また自身のオペラ「メフィストーフェレ(英語版)」によって知られている。.

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アドリアーナ・ルクヴルール

『アドリアーナ・ルクヴルール』(Adriana Lecouvreur )は、フランチェスコ・チレアの作曲した全4幕のオペラである。18世紀前半にパリで活躍した実在の女優、アドリエンヌ・ルクヴルールの生涯を描いたこの作品は、1902年にミラノで初演され大成功を収めた。今日でも「新イタリア楽派」オペラの佳作のひとつとして、チレアのオペラ作品中もっとも頻繁に上演される作品となっている。.

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アイーダ

『アイーダ』 (Aida) は、ジュゼッペ・ヴェルディが作曲し、1871年に初演された全4幕から成るオペラである。ファラオ時代のエジプトとエチオピア、2つの国に引裂かれた男女の悲恋を描き、現代でも世界で最も人気の高いオペラのひとつである。また第2幕第2場での「凱旋行進曲」の旋律は単独でも有名である。 この作品はしばしば「スエズ運河の開通(1869年)を記念して作曲された」あるいは「スエズ運河開通祝賀事業の一環としてカイロに建設されたオペラハウスの杮落し公演用に作曲された」といわれることがあるが、以下に述べるようにこれらはいずれも正確ではない。エジプトを舞台にしたメジャーなオペラはモーツァルトの『魔笛』以来だが、ほぼ無国籍なファンタジーである『魔笛』にくらべ、国家の興亡がメインに据えられた壮大なご当地オペラになっている。.

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イル・トロヴァトーレ

『イル・トロヴァトーレ』(Il Trovatore )は、ジュゼッペ・ヴェルディが作曲した全4幕からなるオペラである。1853年、ローマで初演された。ヴェルディ中期の傑作の一つとされる。.

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インゲ・ボルク

インゲ・ボルク(Inge Borkh, 1917年5月26日 - )は、ドイツ出身のソプラノ歌手。 マンハイムにインゲボルク・シモン(Ingeborg Simon)として生まれる。ウィーンのブルク劇場のラインハルト・セミナーに参加して演劇の勉強をしたが、ミラノで声楽を学んで歌手への道を歩むようになった。1940年にルツェルンでヨハン・シュトラウス2世の《ジプシー男爵》のツィプラ役でデビューを飾った。1952年にバイロイト音楽祭で《ニーベルングの指輪》にジークリンデ役として出演。1955年にエレーデ指揮でデル・モナコ、テバルディを相手にプッチーニ《トゥーランドット》のタイトル・ロールを録音。1958年にはリヒャルト・シュトラウスの《サロメ》でメトロポリタン歌劇場に初登場している。1973年にオペラ歌手としての活動を終えて舞台女優に転身し、キャバレー・シンガーとしても舞台に立った。.

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イタリア

イタリア共和国(イタリアきょうわこく, IPA:, Repubblica Italiana)、通称イタリアは南ヨーロッパにおける単一国家、議会制共和国である。総面積は301,338平方キロメートル (km2) で、イタリアではロスティバル(lo Stivale)と称されるブーツ状の国土をしており、国土の大部分は温帯に属する。地中海性気候が農業と歴史に大きく影響している。.

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ウィリアム・テル (オペラ)

『ウィリアム・テル』(仏 - Guillaume Tell )は、ジョアキーノ・ロッシーニ作曲による4幕構成のグラントペラ。フリードリヒ・フォン・シラーによる戯曲『'''ヴィルヘルム・テル'''』に基づく。台本はヴィクトワール=ジョゼフ=エティアンヌ・ド・ジュイとイポリット=ルイ=フローラン・ビスによりフランス語で書かれているため、本来の読み方は『ギヨーム・テル』であるが、日本では『ウィリアム・テル』と表記することが多い。初演は1829年8月3日、王立音楽アカデミー劇場で行われた。.

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ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(Wiener Philharmoniker、Vienna Philharmonic Orchestra)は、音楽の都ウィーンを代表する管弦楽団(オーケストラ)である。ウィーン楽友協会大ホール(ムジークフェラインザール)に本拠を置く。正式な略称はドイツ語表記よりWPhであるが、もっと簡単にWPともする。英語表記の頭文字を取ってVPOと表記されることもある。.

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ウォルター・レッグ

ウォルター・レッグ(Walter Legge, 1906年6月1日 - 1979年3月22日)は、イギリスはロンドン生まれのレコーディング・プロデューサー。 レッグは演奏記録を完全なものに近づけるため、新人だろうと巨匠だろうと自らの音楽的信念に基づき、忌憚無く意見を述べ、助言し、鼓舞して演奏家の最高の資質を引き出そうとした。トスカニーニに彼の録音のいくつかについて意見を求められたとき、レッグが率直な批評をしたため、この大指揮者はレッグを評価するようになり、後にロンドンでレッグが率いるフィルハーモニア管弦楽団との演奏会も実現したのである。 レッグは、完全主義者であったが、それを支える優れた音楽の理解力と批評能力を持っていた。彼は自分が演奏家になれるとは思わなかったが、優れたレコードやコンサートを聴いて自分の耳を鍛え、アーネスト・ニューマンから批評のあり方とフーゴ・ヴォルフへの関心を学んだ。ヴォルフの作品はレコードでも演奏会でも聞くことができず、そのため状況を改善するためにレコード会社に入ることを考え始めた。レッグはまず「マンチェスター・ガーディアン」誌に音楽批評を書く仕事につき、歯に衣着せぬ批評で知られるようになった。 彼は20歳でEMI傘下のHMV(His Master's Voice)に入社したが、会社の方針に余りに遠慮せずものを言ったため3ヶ月で解雇されてしまう。しかし、その後1年足らずのうちに資料部長として再雇用された。レッグは新譜のために解説や宣伝文を書き、PR誌「ヴォイス」の編集を行った。 1931年、彼は会社に斬新なアイディアを提供する。まだレコード化されておらず、需要もよくわからない音楽の録音を行うための予約販売である。「~協会」の名の元に一定数の予約者が集まって利益が出る場合にのみレコードを作るもので、会社側はリスクを避けられるメリットがある。 最初に企画されたのは彼の長年の望みであったヴォルフ歌曲集であった。フーゴ・ヴォルフ協会は成立に最低必要な500名の予約者を集めることに成功し、1932年4月にエレナ・ゲルハルトによる6枚組(SPレコード)のアルバムが発売された。予約者のうち111人は日本からのものであり、昭和6年という時期を考えると、当時の日本の愛好家の歌手およびまだ接したことのないヴォルフの歌曲への期待の大きさが伺える。 この成功によりレッグは多数の協会方式によるレコード製作を行い、それらのうち重要な録音はLPレコード時代は「GR盤」として有名であり、6、70年を経た今日でもなおCD化されて発売されている。 第2次大戦中はヨーロッパ大陸での録音は中断したが、戦後彼は大成した音学家だけでなく、新人音楽家を積極的に発掘し、専属契約を結ぶことに力を入れた。カラヤンやシュヴァルツコップ、カラスなどとはこの時期に仕事を始めている。 レッグは戦後ナチ党員であったとして演奏を禁じられていたカラヤンのために、かれが1945年に創立したフィルハーモニア管弦楽団を提供し、レコード録音で大きな成功を収めた。しかし、1954年のフルトヴェングラーの死とともにカラヤンがベルリン・フィルハーモニーの指揮者になると、カラヤンの活動の中心はベルリンになる。また当時の専属契約で彼はベルリンでの録音はDG(ドイツ・グラモフォン)でしかできなくなった。レッグはカラヤンに代わり当時実力に見合ったポストに恵まれなかったオットー・クレンペラーに白羽の矢を立て、この巨匠による最良の演奏記録を残すことを1954年から開始した。 その後、EMIはクラシック音楽の事業予算を削減し始めたため、また彼の完全主義が社内での対立を生んでいたこともあり、レッグは1963年にEMIを去ることを決意した。 1964年3月、彼は手塩に掛けたフィルハーモニア管弦楽団を突如解散した。このことは楽団員およびクレンペラーとの間に緊張関係をもたらした。このあと楽団は同年10月、クレンペラーを主席指揮者としてニュー・フィルハーモニア管弦楽団の名前で再出発した。 フリーになったレッグを再雇用するレコード会社はなく、その後の彼はシュヴァルツコップのレコーディングだけを行ったに過ぎないが、そのレコードはすべて、彼女にとっても、後世の音楽愛好家にとっても重要な演奏記録となった。 1967年、歌曲伴奏ピアニストの名手ジェラルド・ムーアの演奏会からの引退コンサートを企画して腕を振っていた最中に心臓発作に見舞われた。 1969年レッグはモントルー・国際レコード賞の特別賞を受賞した。 その後、彼はシュヴァルツコップとともに後進の育成のためのマスタークラスをジュリアード音楽院始め各地でひらいた。 レッグは1979年3月ふたたび心臓発作を起こし、医師の忠告を聞かずに、チューリヒで行われたシュヴァルツコップの引退コンサートを聴きにいった数日後の3月22日に没した。 「オペラ」誌の追悼記事は「音楽の上で私が彼に捧げることのできる最大の賛辞は、3つの別々な機会に、フルトヴェングラー、カラヤン、リパッティがかつて、レッグこそ私が最も多くのことを学び取った人だ、と語ったことを記録すること」であると述べていた。.

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エーリヒ・ラインスドルフ

ーリヒ・ラインスドルフ(Erich Leinsdorf 1912年2月4日 - 1993年9月11日)はオーストリア出身で、後にアメリカに帰化した指揮者である。アメリカやヨーロッパを渡り歩いて一流のオーケストラや歌劇団を指揮し、演奏に求める水準の高さとともにその辛辣な人柄で有名になった。音楽に関する著書やエッセーもある。.

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エットーレ・バスティアニーニ

エットレ・バスティアニーニ(Ettore Bastianini, 1922年9月24日 - 1967年1月25日)は、イタリアのバリトン歌手。特にヴェルディのオペラで優れた歌唱を残した。 シエナで父親不在の貧しい家庭に生まれ、地元の合唱団にバスとして参加、兵役の後1946年に『ラ・ボエーム』(プッチーニ)のコッリーネ役で初舞台を踏む。バス歌手としてもそこそこの評価を得ていたらしく、1948年には『エディプス王』(ストラヴィンスキー)のティレシアス役でスカラ座デビューも果たしている。 しかし彼は低域の発声に困難を感じバリトンに転向するため休業、再研鑽する。再デビューは1952年、地元シエナのリンノヴァーティ劇場で『椿姫』(ヴェルディ)のジョルジョ・ジェルモン役。以後1953年にはメトロポリタン歌劇場(ニューヨーク)、1954年にスカラ座(バリトンとして)、1958年にはウィーン国立歌劇場にデビューするなど、世界的な活躍を開始する。 気品のある、そして若干の哀愁を帯びた声色、滑らかなレガート、正確な発音などで、特にヴェルディのオペラにおけるバリトン役、『エルナーニ』(国王ドン・カルロ)、『リゴレット』、『トロヴァトーレ』(ルーナ伯爵)、『椿姫』(ジェルモン)、『仮面舞踏会』(レナート)、『ドン・カルロ』(ロドリーゴ)、『運命の力』(ドン・カルロ・ディ・ヴァルガス)においてその評価は今日でも高い。また、舞台上での演技の巧拙に関しては両論あるものの、その端正な顔立ちと凛々しい舞台姿は多くの女性ファンを虜にしたという。 ソプラノでレナータ・テバルディとマリア・カラス、テノールではマリオ・デル=モナコ、ジュゼッペ・ディ・ステファーノ、フランコ・コレッリなど群雄割拠の「オペラ黄金時代」1950年代にあってそれら大歌手と共演して数々の名舞台、名録音を残している。ひとつ惜しまれるのは『オテロ』のイヤーゴ役の全曲録音を残さなかったことであった。1960年に英デッカ・レコードは指揮カラヤン、共演テバルディ、デル=モナコというキャストで同曲の録音を開始したが、バスティアニーニはカラヤンと曲作りを巡って衝突、急遽アルド・プロッティに交代させることで録音が完成している。 1962年に発声に何らかの支障を感じ、診察を受けたバスティアニーニを待っていたのは、咽頭癌という診断結果であった。外科手術の可能性も検討されたようだが、歌手生命を絶たれる事態を恐れた彼は放射線治療を選択する。しかし放射線治療によっても声帯への悪影響は避けられず、1963年頃の演奏評には、彼の歌唱には以前の輝きが失われた、とするものも多い。もっとも当時バスティアニーニの病状は本人と医師以外知る者はなく、不調も単に演奏過多による発声障害と一般には考えられていた。舞台出演が次第に減少していく中で、1965年には彼の念願だった『オテロ』のイヤーゴ役を生涯でただ一回、カイロで演じている。癌の転移のため同年末からは舞台に立つことすら困難な健康状態となり事実上引退、ひそかな闘病生活も空しく、1967年にガルダ湖畔のシルミオーネの via XXV Aprileにあるアパートメントにて44歳で死去した。 日本には歌手生活晩年に当たる1963年と1965年の2度演奏旅行に訪れており、1965年には最後のスタジオ録音(イタリア歌曲集)が日本でなされている。 Category:イタリアのバリトン歌手 Category:シエーナ出身の人物 Category:1922年生 Category:1967年没.

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エフゲニー・オネーギン (オペラ)

『エフゲニー・オネーギン』(ロシア語原題:Евгений Онегин)作品24は、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー作曲のオペラ。『エウゲニ・オネーギン』、『イェヴゲニー・オネーギン』などとも表記される。アレクサンドル・プーシキンの韻文小説『エフゲニー・オネーギン』が原作で、作曲者自身とシロフスキーがリブレットを書いた。チャイコフスキーの全10作のオペラの中では最も頻繁に上演される作品である。.

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エジプトのジュリアス・シーザー

《エジプトのジュリアス・シーザー》(《エジプトのジューリオ・チェーザレ》Giulio Cesare in Egitto, HWV17)は、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルが1723年から1724年にかけて作曲したオペラ。単に《ジュリアス・シーザー》(あるいは《ジューリオ・チェーザレ》)ともいう。.

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オペラ

イタリア・ミラノにあるスカラ座。1778年に完成したこの歌劇場は、世界で最も有名である。 オペラ(イタリア語・英語: opera、フランス語: opéra、ドイツ語: Oper)は、演劇と音楽によって構成される舞台芸術である。歌劇(かげき)とも呼ばれる。.

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オテロ (ヴェルディ)

『オテロ』 (Otello) は、ジュゼッペ・ヴェルディが作曲した全4幕からなるオペラである。1887年、ミラノ・スカラ座で初演された。『オテッロ』とも表記される。.

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カルロ・ベルゴンツィ

ルロ・ベルゴンツィ(Carlo Bergonzi, 1924年7月13日 - 2014年7月25日)は、イタリアのテノール歌手。その美声を売り物として、特にヴェルディ作品の演奏を多く手がけたテノール歌手である。 ポレージネ・パルメンセ生まれ。アリゴ・ボーイト音楽院(パルマ)を卒業し、1948年バリトン歌手としてオペラでの活動を開始。しかし声の変化に気づき、改めて研鑚を積んで51年、パリでアンドレア・シェニエ(ジョルダーノ作曲、タイトル・ロール)を歌いテノールとして再デビューに成功。評判を高めて53年ミラノ・スカラ座、56年にはアメリカ・メトロポリタン歌劇場にそれぞれデビューを果たし、スターの地位を確立した。 同世代のフランコ・コレッリ(スピント系の力感ある歌唱で知られたテノール)と共にイタリア・オペラ人気を支えるスターとして、公演、録音で国際的に活躍。役柄への理解、自己管理等によって上演成功率の高さでも知られ、長く声の艶を保ち、21世紀に至ってもコンサート活動を続けた。 1967年以来数回来日もし、エドガルド(ドニゼッティ作曲『ランメルモールのルチア』)、リッカルド(ヴェルディ作曲『仮面舞踏会』)やラダメス(ヴェルディ作曲『アイーダ』)等得意の役柄を歌い、2001年にも来日してリサイタルを開催、80歳近くとは思えぬ喉を披露した。 リッカルド、ドン・カルロ(タイトル・ロール)、ドン・アルヴァーロ(『運命の力』)、マンリーコ(『イル・トロヴァトーレ』)、ラダメス、アルフレード(『ラ・トラヴィアータ』)、マクダフ(『マクベス』)等、主にヴェルディ作曲の諸役で高い評価を得た。 ヴェルディ作品以外では、カヴァラドッシ(『トスカ』)、ロドルフォ(『ラ・ボエーム』)等のプッチーニ作品、マウリツィオ(チレア作曲『アドリアーナ・ルクヴルール』)、カニオ(レオンカヴァッロ作曲『道化師』)等の、いわゆる「ヴェリズモ・オペラ」も歌った。 2000年5月にはニューヨーク、カーネギー・ホールにて、コンサート形式のヴェルディ『オテロ』タイトル・ロールに75歳という高齢で初挑戦し注目されたが、これは最後まで歌いきることができなかった。 2014年7月25日、ミラノにて死去。.

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カヴァレリア・ルスティカーナ

『カヴァレリア・ルスティカーナ』(Cavalleria Rusticana)は、イタリアの小説家、ジョヴァンニ・ヴェルガによる小説(1880年出版)、同人による戯曲(1884年初演)、およびピエトロ・マスカーニが同戯曲に基づいて作曲した1幕物のオペラ(1890年初演)。題名は「田舎の騎士道」といった意味である。今日、特にイタリア語圏以外では最後のオペラ作品が有名となっており、本項でもオペラを中心に記述する。 ヴェルガの出身地シチリアの山間部を舞台として、貧しい人々の暮らし、三角関係のもつれから起きる決闘と殺人を描いたこの小説は、イタリアにおけるヴェリズモ(リアリズム文芸運動)の典型的作品とされている。 一方、マスカーニのオペラは1890年に完成し、楽譜出版社ソンゾーニョ社主催の1幕物オペラ・コンクールで圧倒的な支持を受けて優勝、マスカーニはたちまちオペラ界の寵児となった。また、このオペラはヴェリズモ・オペラ形式の端緒をなすものとされる。.

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ゲオルク・ショルティ

ルク・ショルティ(Sir Georg Solti、 1912年10月21日 - 1997年9月5日)は、ハンガリー出身で、ドイツ、のちイギリスの国籍で活躍した指揮者、ピアニストである。ゲオルグ・ショルティとも書かれる。ユダヤ系。ハンガリー語の発音に基づく表記はショルティ・ジェルジ( )。.

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シモン・ボッカネグラ

『シモン・ボッカネグラ』(Simon Boccanegra)は、ジュゼッペ・ヴェルディが作曲したオペラ。1857年に初演され、24年後の1881年に改訂された。.

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シェリル・ミルンズ

ェリル・ミルンズ(Sherrill Milnes, 1935年1月10日 - )は、アメリカのバリトン歌手。1965年から1997年まで、メトロポリタン歌劇場の契約歌手としてスターバリトンの座に君臨し、653回の出演記録を誇っている。またその間にもウィーン国立歌劇場、ミラノ・スカラ座、ロイヤル・オペラ・ハウスなどの欧州の主な歌劇場にも出演し、国際的な知名度と名声を築いた。 イタリアオペラの作品を中心に、幅広い多くのレパートリーをもち、数多くの著名な演奏家と共演をこなしている。例えば、モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』ではカール・ベームとのスタジオ録音と、ヘルベルト・フォン・カラヤンとの映像記録を残している。 近年はノースウェスタン大学での教鞭を執るかたわら、自らもV.O.I.C.Experience基金を主宰しアートディレクターを務め,更新の育成に貢献している。.

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ジャナンドレア・ガヴァッツェーニ

ャナンドレア・ガヴァッツェーニ(Gianandrea Gavazzeni、1909年7月25日 - 1996年2月5日)は、イタリアの指揮者、作曲家。ロンバルディア州ベルガモの生まれ。.

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ジャンニ・ポッジ

ャンニ・ポッジ(Gianni Poggi, 1921年10月4日 - 1989年12月16日)は、イタリアのテノール歌手。1940年代後半から1960年代まで、イタリアを代表するテノールの一人として世界的に活躍した。.

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ジャンニ・スキッキ

『ジャンニ・スキッキ』(Gianni Schicchi)は、ジャコモ・プッチーニの作曲した全1幕のオペラである。主人公の中年男ジャンニ・スキッキが、大富豪の遺産を巡る親戚間の騒動と、若い男女の恋を見事に解決するさまをコミカルに描いた喜劇。傾向の異なった3つの一幕物オペラを連続して同時に上演する「三部作」の最終、第3番目の演目として、1918年12月14日、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場で初演された。 同作はプッチーニにとって唯一の喜劇オペラである。また、次作『トゥーランドット』が未完で終ったため、プッチーニが完成し得た最後のオペラともなった。.

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ジュリエッタ・シミオナート

ュリエッタ・シミオナート(Giulietta Simionato、1910年5月12日 - 2010年5月5日)は、イタリアのオペラ歌手(メゾソプラノ)。1930年代中頃から1966年の引退まで活躍した。ドラマティックな役柄とコミカルな役柄のどちらでも力強い歌唱で賞賛された。デッカ・レコードを中心にレナータ・テバルディ、マリオ・デル・モナコ、エットーレ・バスティアニーニ達と多くの録音を残した。日本でもNHKのイタリア歌劇団公演に、第1回(1956年)から第3回(1961年)まで参加し、『アイーダ』や『カヴァレリア・ルスティカーナ』、『カルメン』などでの名唱で、日本の聴衆に後年まで語り継がれる名歌手である。晩年、NHKのテレビ番組で『ミニョン』の一節を歌う映像が流されたが、90歳を過ぎてもなお、オペラ歌手としての発声のフォームを維持していた。.

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ジュゼッペ・ヴェルディ

ュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ(Giuseppe Fortunino Francesco Verdi、1813年10月10日 - 1901年1月27日)は、19世紀を代表するイタリアのロマン派音楽の作曲家であり、主にオペラを制作した。 代表作は『ナブッコ』、『リゴレット』、『椿姫』、『アイーダ』などがある。彼の作品は世界中のオペラハウスで演じられ、またジャンルを超えた展開を見せつつ大衆文化に広く根付いている。ヴェルディの活動はイタリア・オペラに変革をもたらし、現代に至る最も重要な人物と評される石戸ら (1998)、pp.2-3、イントロダクション。1962年から1981年まで、1000リレ(リラの複数形)紙幣に肖像が採用されていた。.

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ジュゼッペ・ディ・ステファーノ

ジュゼッペ・ディ・ステファノ(Giuseppe Di Stefano, 1921年7月24日 - 2008年3月3日 )は、イタリアのテノール歌手。1940年代から1970年代前半にかけて活躍した。マリア・カラスとの公私にわたる深い関係でも有名である。姓は「ステファーノ」と表記されることもあるが、イタリア語での正しいアクセントの位置は「テ」にあり、アクセントを長音として表記した場合は「ステーファノ」となるが、単に「ステファノ」と表記される例が多い。 シチリア島・カターニア近郊の小村モッタ・サンタナスタージアに生まれる。両親が靴の修理屋と裁縫を営む貧しい家庭の一人息子であった。司祭となるべく、ミラノのイエズス会修道院で学ぶが、そこで美声を認められ、有名なミラノのドゥオーモの合唱隊に入る。1938年には当地ミラノとフィレンツェの歌唱コンテストで優勝し、カフェ、レストラン、映画館(上映前の余興として)などで歌っていたという。当時はニーノ・フローリオと名乗り、オペラの有名なアリア、カンツォーネ、流行歌など何でもこなす歌手だったらしい。 1940年からはバリトン歌手ルイージ・モンテサントに師事するが、翌1941年に入営する。戦争激化と、1943年のドイツ軍北部イタリア占領に伴いスイスに逃亡した。始めは難民キャンプに暮らすが、やはり歌唱力を認められ、1944年からはスイス国内ローザンヌのイタリア語放送局、ラジオ・スイス・ロマンドに出演、またEMI社とも契約していくつかの録音を残す。 1945年にイタリア帰国、オペラ舞台で活躍を開始する。1947年からはミラノ・スカラ座(マスネ『マノン』のデ・グリュー役)、翌年にはニューヨーク・メトロポリタン歌劇場(ヴェルディ『リゴレット』の公爵)にそれぞれデビューする。 マリア・カラスとの一連の共演は1951年9月、ブラジル・サンパウロ市でのヴェルディ『椿姫』を皮切りとする。スカラ座でのカラスとの共演では1954年、カラヤン指揮で行われた、ドニゼッティ『ランメルモールのルチア』、あるいはジュリーニ指揮、ルキノ・ヴィスコンティ演出の『椿姫』が大反響を呼んだ(もっとも『椿姫』ではカラスに対する声援・取材だけが目立つ結果となり、立腹したディ・ステファーノは2夜目以降をキャンセルしている)。 1955年頃よりディ・ステファーノはより重い声質の役、例えば『カヴァレリア・ルスティカーナ』のトゥリッドゥ、『道化師』のカニオ、『アイーダ』のラダメスなどにも挑戦するようになる。しかしこの決断はむしろ凶と出た。もともとイタリア・オペラ発声の常道からすると望ましくないとされた「開いた(アペルト)」発声で喉に負担がかかっていたこと、生活上の不摂生(オペラ公演後、深夜まで飲み歩いての朝帰りが常だったとの逸話もある)、その結果としての公演キャンセル多発などから、ディ・ステファーノは次第に「使い難いテノール」の烙印を押されるに至る。1960年代にはより負担の少ないリサイタルを主活動に据えることになった。 もっとも、舞台映えのする容姿、豊かな表情なども相まって、観客からは「ピッポPippo」の愛称で常に親しまれ、声楽的には退潮期にあった1960年代でも、ライブ録音では聴衆を熱狂させている様子が垣間見える。 1973年には私生活でも噂の絶えなかったマリア・カラスの(結果として最後の)世界ツアーに同伴、日本を含む各国を訪れたが、興行上はさておき、芸術的にはかつての栄光の再現は果たせなかった。 1992年6月、ローマ・カラカラ大浴場跡での野外オペラ『トゥーランドット』に皇帝役で出演したのを最後に舞台からは完全に退いた。 2004年12月、ケニア・モンバサ近郊の別荘で妻と共に強盗に襲撃され、意識不明のままミラノまで搬送され入院する。その後も容体は回復せず、2008年3月3日、3年数ヶ月におよぶ昏睡状態の末、ミラノの自宅で死去した。。 Category:イタリアのテノール歌手 Category:シチリア州出身の人物 Category:1921年生 Category:2008年没.

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ジョージ・ロンドン (バス・バリトン歌手)

ョージ・ロンドン(George London, 1920年5月30日 - 1985年3月24日)は、カナダ出身でアメリカ合衆国を中心に活躍した歌手。多彩なレパートリーを駆使して冷戦下のソビエト連邦を含む世界各地の劇場に出演したが、発声障害によりわずか47歳で歌手としてのキャリアを終えた。その後は後進の育成とオペラの演出を手掛けたが、こちらも病により道半ばで終止符を打った。歌手としてのキャリアこそ短かったものの、生涯に出演した公演には記念碑的なものが多く含まれている。 カナダ出身ではあるが、参考サイトなどで first American singer#cantabile や American vocal artists#London Foundation などという表現が使用されるなど、「アメリカの歌手」として扱われていることが多い。.

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スカラ座

ラ座(Teatro alla Scala、あるいは単にLa Scala)はイタリア・ミラノにある歌劇場である。初代の宮廷劇場以来の伝統を持つイタリアオペラ界の最高峰とされる。.

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ソプラノ

'''ソプラノ''' アルト テノール バス ソプラノ(伊 soprano)は、西洋音楽における歌手の声域区分で、女声の高い音域を指す。また、器楽においては、同系の楽器中、最も高い音域のものをいう。例えばソプラノサックス(サクソフォーン)。.

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タンホイザー

『タンホイザー』()WWV.70は、リヒャルト・ワーグナーが作曲した、全3幕で構成されるオペラ。正式な名称は『タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦』(Tannhäuser und der Sängerkrieg auf Wartburg)であるが、一般的には前者の題名で知られている。序曲、第2幕のエリザベートのアリア・「大行進曲」、第3幕のヴォルフラムのアリア「夕星の歌」は、独立してよく演奏される。.

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サンマリノ

ンマリノ共和国( -きょうわこく)、通称サンマリノは、イタリア半島の中東部に位置する共和制をとる国家である。首都はサンマリノ市。周囲は全てイタリアで、国土面積は十和田湖とほぼ同じで、世界で5番目に小さなミニ国家である。また、現存する世界最古の共和国として知られる。.

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サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団

ンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団(L'Orchestra dell'Accademia Nazionale di Santa Cecilia)は、イタリア共和国の首都ローマを本拠地とするオーケストラである。「ローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団」等とも呼ばれる。創設は1866年。コンサート専門のオーケストラとしてはイタリアで最も古いと言われる。また、このオーケストラが所属するサンタ・チェチーリア国立アカデミアは、1584年に創立された現存する世界で最も古い音楽教育機関の一つである。 フランチェスコ・モリナーリ=プラデッリやイーゴリ・マルケヴィチ、ジュゼッペ・シノーポリ、近年ではダニエレ・ガッティやチョン・ミョンフンが首席指揮者を務め、2005年からはアントニオ・パッパーノが音楽監督を務めている。レコーディングは、デッカ・レーベルにトゥリオ・セラフィンらによるオペラ物が多く、また1983年から1990年まで名誉総裁だったレナード・バーンスタインによる録音もある。最近では、チョンやパッパーノ指揮でシンフォニー・レパートリーにも積極的にレコーディングを行っている。 2003年以降、レンゾ・ピアノ設計によるアウディトーリウム・パルコ・デッラ・ムージカを演奏会場としている。.

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EMI

EMIのロゴ EMI(イーエムアイ)は、1931年から2012年まで存在したイギリスのレコード会社である。かつてはユニバーサル・ミュージック、ソニー・ミュージックエンタテインメント、ワーナー・ミュージックと共に4大レコード会社のひとつであった。音楽出版事業はソニーを中心とした企業連合に買収され、レコード部門はユニバーサルが買収したのちに一部をワーナーへ売却した。 1931年に英コロムビアと英グラモフォン(HMV)が合併し、Electric and Musical Industries Ltdとして設立された。.

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運命の力

『運命の力』(うんめいのちから、La Forza del Destino )は、ジュゼッペ・ヴェルディが作曲した全4幕からなるオペラである。原典版は1862年、ロシア・サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場で、改訂版は1869年にイタリア・ミラノのスカラ座にて初演された。今日演奏されるのは殆どが改訂版による。また改訂版で挿入された序曲もそれ自体有名で、単独での演奏機会も多い。.

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蝶々夫人

『蝶々夫人』(ちょうちょうふじん、英語:Madama Butterfly または Madame Butterfly, マダム・バタフライ)は、以下の諸作品をさす。.

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西部の娘

『西部の娘』(せいぶのむすめ)は、ジャコモ・プッチーニが作曲、1910年に完成、初演された全3幕からなるオペラである。.

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RCAレコード

RCAレコード(RCA Records, Inc.)はアメリカ合衆国のレコード会社。前身はビクタートーキングマシン。.

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椿姫 (オペラ)

『椿姫』(つばきひめ)は、ジュゼッペ・ヴェルディが1853年に発表したオペラである。原題は『堕落した女(直訳は「道を踏み外した女」)』を意味するLa traviata(ラ・トラヴィアータ)。日本では原作小説『椿姫』と同じ「椿姫」(La Dame aux camélias(椿の花の貴婦人)の意訳)のタイトルで上演されることが多い。.

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歌手

歌手 歌手(かしゅ)は、歌を歌うことを職業とする人。シンガー(singer)、ボーカリスト・ヴォーカリスト(vocalist)などはポピュラー音楽の歌手である場合が多く、声楽家などはクラシック音楽の歌手のことである場合が多い。.

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12月19日

12月19日(じゅうにがつじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から353日目(閏年では354日目)にあたり、年末まであと12日ある。.

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1922年

記載なし。

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1944年

記載なし。

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1946年

記載なし。

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1961年

記載なし。

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1976年

記載なし。

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2004年

この項目では、国際的な視点に基づいた2004年について記載する。.

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2月1日

2月1日(にがつついたち)はグレゴリオ暦で年始から32日目にあたり、年末まであと333日(閏年では334日)ある。.

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5月11日

5月11日(ごがつじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から131日目(閏年では132日目)にあたり、年末まではあと234日ある。誕生花はニセアカシア。.

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