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ルジェフ

索引 ルジェフ

ルジェフ市の紋章 ロシア革命の前のルジェフとヴォルガ川 ルジェフとヴォルガ川 ルジェフ(ロシア語:Ржев;Rzhev)はロシアのトヴェリ州中部の都市。ヴォルガ川の最も上流に位置する街でもある。スターリツァからは南西へ49km、トヴェリからは126km。モスクワとリガを結ぶ鉄道および国道の途中にある。人口は63,729人(2002年国勢調査)で、トヴェリ州では2番目に大きい。 ルジェフはこの地方でもトロペツと並んで古い都市であり、ルジェフは歴史記録(ノヴゴロド法)への初出を1019年であると主張する一方、トロペツ側はルジェフの名がはっきりと記録に登場するのは、有名なトロペツ公でアレクサンドル・ネフスキーの祖父でもあるムスティスラフ・ムスティスラヴィチがルジェフを領地としていた時代(1216年)にすぎないと主張する。どちらにせよ、中世のルジェフはノヴゴロド公国、スモレンスク公国、ウラジーミル・スーズダリ大公国という三大国の争奪する土地として重要だった。 モンゴルの襲来の後、ルジェフはスモレンスク公の傍系の家系に譲られ(ルジェフ公国)、その都となった。ルジェフ公は後に町を二分した。現在でもルジェフの町は「ドミトリー公側」と「フョードル公側」と呼ばれている。14世紀半ば、ルジェフは西のリトアニア大公国と東のトヴェリ大公国の両方から何度も攻められ、ルジェフ公らは周囲の村をすべて失った。最後には公らはモスクワへ逃れた。その子孫であるルジェフスキー家はロシアのアネクドートでよく取り上げられる滑稽なキャラクターとなっている。ルジェフは一時トヴェリ領となったものの、後にポーランド・リトアニア共和国に占領され、最終的にモスクワ大公国の領地となった。 18世紀には主に古儀式派の信者である地元の商人たちが町の不動産のほとんどを買い取った。彼らは後にロシア革命が起こると攻撃の的となった。第二次世界大戦では、1942年、モスクワ近郊へ追いつめられた赤軍がドイツ軍に対して反攻に出、ルジェフとヴャジマへ向かって進軍を始めた(ルジェフの戦い)。この戦いでルジェフ付近のみを残してソ連軍が前線を西へ押し返し、さらにルジェフに残ったドイツ軍の突出部に対して再度攻撃が行われた(第二次ルジェフ会戦)。激しい戦いでルジェフの建物は全て消滅した。大戦中、市の人口の6分の1以上がドイツに送られ強制労働をさせられ、その他の市民のうち9,000人は射殺されたり拷問を受けたり市の中心に設けられた収容所で飢えたりして死んでいった。これらの戦いのため、古い建物は何も残っていない。.

41 関係: 古儀式派ノヴゴロドノヴゴロド公国ポーランド・リトアニア共和国ムスチスラフ・ムスチスラヴィチモンゴルのルーシ侵攻モスクワモスクワ大公国リトアニア大公国リガルジェフ公ルジェフ公国ロシアロシア革命ロシア語ヴャジマヴォルガ川トロペツトロペツ公トヴェリトヴェリ大公国トヴェリ州ドイツアレクサンドル・ネフスキーウラジーミル・スーズダリ大公国カトリーネホルムコーヴェリシリストラスモレンスク公国スウツクスターリツァサロ (フィンランド)第二次世界大戦第二次ルジェフ会戦都市1019年1216年14世紀18世紀1942年2002年全ロシア国勢調査

古儀式派

ワシーリー・スリコフ画「貴族夫人モローゾヴァ」。彼女の掲げる2本指で十字を画く姿勢は古儀式派の主要な特徴であり、ニーコン総主教がギリシャに合わせる形で導入した3本指のそれとは明確に異なる。 ロシア正教会における古儀式派 (Старообрядчество) とは、旧儀派・旧教徒・旧儀式派・スタロヴェールとも呼ばれ、総主教による奉神礼改革を嫌って1666年以降に総主教の率いる主流派から分離した諸教派の総称である。有効な聖職位階の存在を認める司祭派(容僧派)及びそれを否定する無司祭派(無僧派)に大別される。 古儀式派は現在もロシア正教会の奉神礼改革以前の古い祈祷様式を保持する。 分離派教徒(ラスコーリニキ、Raskolnik)という呼称は、主流派教会側が使う蔑称であり中立的な立場の者は使用しない。また、近年では主流派教会との関係改善に伴い、主流派教会に属する信徒・関係者も「分離派(ラスコーリニキ)」の名称を用いずに「古儀式派(スタロオブリャージェストヴォ)」を用いる傾向がある。一方で、主流派ロシア正教会が分離派という用語を使うことを止めたわけではなく、また、この用語は古儀式派以外のさまざまなキリスト教教派に対しても使用されている。.

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ノヴゴロド

ノヴゴロド(Но́вгород )は、ロシアの北西連邦管区、ノヴゴロド州の州都。人口は216,856人(2002年国勢調査、1989年国勢調査では229,126人)。イリメニ湖とそこから流れ出るヴォルホフ川に沿って位置する。1998年以降の公式名称は大ノヴゴロド(ヴェリーキー・ノヴゴロド Вели́кий Но́вгород 、Veliky Novgorod)。ロシア最古の都市であり、中世までノヴゴロド公国として存在していた。1992年に『ノヴゴロドと周辺の文化財』としてユネスコの世界遺産に登録された。 なおニジニ・ノヴゴロドとは別の都市であり、それと区別して本項目の都市を「大ノヴゴロド」(ヴェリーキー・ノヴゴロド、Великий Новгород)とよぶことがある。 ヴェリーキー・ノヴゴロド中心部.

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ノヴゴロド公国

ノヴゴロド公国(Новгородская республика、Новгородская земьля)は、公座を大ノヴゴロドに置いていた中世のルーシ(古代ロシア)の主要な都市国家の一つ。中世には特殊な貴族共和制により、しばしばノヴゴロド共和国と呼ばれ、こちらの名前が定着しつつある。その他、ノヴゴロド国という表記も見られる。 「タタールのくびき」にルーシ全体があえぎ、北方十字軍がスラヴ人へ正教からカトリックへの「剣による改宗」を強制していた13世紀のルーシの中心であった。.

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ポーランド・リトアニア共和国

ポーランド・リトアニア共和国(ポーランド・リトアニアきょうわこく)、正式国称ポーランド王国およびリトアニア大公国(ポーランドおうこくおよびリトアニアたいこうこく、Królestwo Polskie i Wielkie Księstwo Litewskie)は、ポーランド王国とリトアニア大公国の制度的国家合同(ルブリン合同)によって1569年から1795年まで存在した複合君主制国家。18世紀後半には対外的な国称として最も静穏なるポーランド共和国、国内ではジェチュポスポリタ(Rzeczpospolita、共和国)と呼ばれた。また、二民族の共和国という呼称もあるが、1967年のパヴェウ・ヤシェニツァによる造語である。歴史学では「貴族の共和国 (Rzeczpospolita szlachecka) 」や「第一共和国 (I Rzeczpospolita) 」という用語も用いられる。 16・17世紀のヨーロッパ世界においてオスマン帝国に次いで広大な国の1つであった. Retrieved March 19, 2006: At its apogee, the Polish-Lithuanian Commonwealth comprised some and a multi-ethnic population of 11 million. For population comparisons, see also those maps:,. 。.

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ムスチスラフ・ムスチスラヴィチ

ムスチスラフ・ムスチスラヴィチ(Мстислав Мстиславич、1176年以前 - 1228年)は、アレクサンドル・ネフスキー、レフ・ダニーロヴィチの外祖父にあたる人物である。聖名フョードル、またウダトニィー(Удатный、「幸運な・成功した」の意)の通称を持つ。トリポリエ公:1193年 - 1203年。トロペツ公:1206年 - 1213年。ノヴゴロド公:1210年 - 1215年、1216年 - 1218年。ガーリチ公:1215年 - 1216年、1219年 - 1226年。トルチェスク公:1203年 - 1207年、1226年 - 1228年Славянская энциклопедия.。才覚のある司令官であり、再三の会戦に勝利した。.

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モンゴルのルーシ侵攻

モンゴルのルーシ侵攻(モンゴルのルーシしんこう)は、1223年のカルカ河畔の戦いに始まり、1236年のバトゥの西征で本格化する、ルーシ諸国に対するモンゴル帝国の征服戦争である。 1223年のカルカ河畔の戦いでは、スブタイとジェベのモンゴル軍偵察隊にルーシ諸侯やキプチャク(クマン人)連合軍が挑み、ルーシ・キプチャク連合軍が大敗したが、モンゴル軍はルーシの征服は行わず東へ去っていった。その十数年後、バトゥは征西のために大軍を率いてルーシおよびヨーロッパへの大規模侵攻を開始する。これに対し、キエフ大公国の分裂後のルーシを割拠するノヴゴロド公国、ウラジーミル・スーズダリ大公国、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国などが戦ったが、結果はルーシ諸国の大敗に終わり、ルーシの人口に甚大な被害が出た。人口の半分を失う結果になったという見方もあれば、犠牲者は50万人ほどという見方もある。 また東ヨーロッパの歴史にも大きな影響を与えた。東スラヴ人はモンゴル侵攻後の各地方で異なる道を歩み、ロシア人・ウクライナ人・ベラルーシ人の民族の違いがはっきりとするようになった。ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の属国と化して「タタールのくびき」に苦しむルーシ諸国の中からはトヴェリ大公国やモスクワ大公国といった新興勢力が現れるようになった。.

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モスクワ

モスクワ(ロシア語:Москва́ IPA: マスクヴァー、)は、ロシア連邦の首都。連邦市として市単独でロシア連邦を構成する83の連邦構成主体のひとつとなっており、周囲を占めるモスクワ州の州都でもある。ただし州とは区別され「モスクワ市」(Город Москва)となる。人口は約1150万人でヨーロッパで最も人口の多い都市であり、世界有数の世界都市である。漢字による当て字は莫斯科。英語で発音した場合には、モスコーあるいはモスカウ(Moscow )のようになる。.

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モスクワ大公国

1390年から1525年にかけてのロシア大公国の領土の変遷 モスクワ大公国(モスクワたいこうこく、ロシア語: Московское великое княжество モスコーフスコエ・ヴェリーコエ・クニャージェストヴォ)は、キエフ・ルーシの北東辺境地にあったルーシ系のウラジーミル・スズダリ公国のもとに成立した国家である。ロシア帝国の前身。モスクワ・ルーシ(Московская Русь モスコーフスカヤ・ルーシ)とも呼ばれる。.

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リトアニア大公国

フ県などが置かれた地域)を獲得した。 合同により、現在のウクライナにあたる地域がポーランドの領土となっている。 ヤン・マテイコ画『リトアニア大公国の洗礼』(1387年) リトアニア大公国(リトアニアたいこうこく、、)は、13世紀から1795年のあいだにリトアニアを中心とした地域を支配した国家である。その全盛期には、広大な領土を擁するヨーロッパの強国であった。この国家の支配層の民族構成は人口においてはリトアニア人はむしろ少数派で、特にルーシ人と呼ばれる東スラヴ人が多かった。このルーシ人は、のちのベラルーシ人やウクライナ人の先祖に当たり、やがてリトアニア人とあわせてと呼ばれるようになった。 リトアニア人が支配した当初はその領土もいわゆる「原リトアニア」と呼ばれる、現代のリトアニア共和国とほぼ同じ狭い地域に限られており、小さな異教国家(非キリスト教国家、Romuva)であったが、複雑な政治的経緯により人口の膨大なルーシ(現在のロシア・スモレンスク地方、ベラルーシ、西部ウクライナ)の正教徒の人々が住む広大な地域(すなわちヴォルィーニ公国やハールィチ公国の地域)も徐々に広く包含するようになると、そういった地方の支配層も取り込むようになったため結果として大公国全体で徐々に正教徒の東スラヴ人が政治的に優勢となった。原リトアニアでも東スラヴの文化を広く受け入れるようになり、大公国の唯一の公用語として教会スラブ語が採用された。1387年にローマ・カトリックを正式に国教としたが、正教徒の信仰も認められた。1430年以後、ポーランド王国と実質的な同君連合となり(ポーランド・リトアニア合同)、支配階層のポーランド文化への同質化が進んだ。1569年のルブリン合同をもってリトアニア大公国はポーランド王国との連合政体であるポーランド・リトアニア共和国を形成した。.

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リガ

リガ、またはリーガ( 、、、Ryga、英語、)は、ラトビア共和国の首都で、同国最大の人口を擁する都市。人口は69万9,203人(2012年時点)。「バルト海の真珠」と讃えられる美しい港町で、その旧市街はユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。.

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ルジェフ公

ルジェフ公(Князь Ржевский)はルジェフ公国の君主の称号である(「公」はクニャージからの訳出による)。君主号・公国の名は、その首都だったルジェフによる。.

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ルジェフ公国

ルジェフ公国(Ржевское княжество)はルジェフを首都として成立したルーシの分領公国である。公国はルジェフからセリゲル湖、フセルグ湖(ru)に渡る一帯(現在のトヴェリ州・スモレンスク州)を領土としていた。.

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ロシア

ア連邦(ロシアれんぽう、Российская Федерация)、またはロシア (Россия) は、ユーラシア大陸北部にある共和制及び連邦制国家。.

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ロシア革命

ア革命(ロシアかくめい, Российская революция ラシースカヤ・レヴァリューツィヤ, Russian Revolution)とは、1917年にロシア帝国で起きた2度の革命のことを指す名称である。特に史上初の社会主義国家樹立につながったことに重点を置く場合には、十月革命のことを意味している。また逆に、広義には1905年のロシア第一革命も含めた長期の諸革命運動を意味する。 「二月革命」、「十月革命」は当時ロシアで用いられていたユリウス暦における革命勃発日を基にしており、現在一般的に用いられるグレゴリオ暦ではそれぞれ「三月革命」、「十一月革命」となる。この項目で使用されている月日は1918年2月14日のグレゴリオ暦導入までの事柄についてはユリウス暦による月日で表記しており、13日を加算するとグレゴリオ暦の月日に換算できる。.

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ロシア語

ア語(ロシアご、русский язык )は、インド・ヨーロッパ語族のスラヴ語派東スラヴ語群に属する言語。露語とも略される。ロシア連邦の公用語。ロシア連邦の国語表記には、キリル文字を使用する。近縁の言語にウクライナ語とベラルーシ語がある。.

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ヴャジマ

ヴャジマ(Вя́зьма, Vyazma, ポーランド語:Wiaźma)はロシアのスモレンスク州にある都市。ドニエプル川の支流ヴャジマ川沿いにあり、スモレンスクとモジャイスクの中間地点にある。西からモスクワへ向かう侵略軍に対する防衛戦が何度もこの街で戦われている。人口57,545人(2002年調査)。 ヴャジマの名は年代記の1239年の条に初出するが、それ以前から集落があったものと考えられる。当時、ヴャジマはリューリク朝スモレンスク公国の傍系の所領(ヴャジマ公国)であった。1403年、ヴャジマ公はリトアニア大公国に追われてモスクワへ逃げ、以後モスクワ大公国で貴族ヴャゼムスキー家となった。その有名な子孫にはプーシキンの親友で自身も詩人であったピョートル・ヴャゼムスキー公爵や、フランスの女優・小説家で一時ジャン=リュック・ゴダールとも結婚していたアンヌ・ヴィアゼムスキーがいる。 1494年、ヴャジマはモスクワ大公国に占領されその要塞となった。クレムリンの塔のうちスパッスカヤ塔だけが今も残る。さらに2つの重要な修道院が作られ、石造りの聖堂もその中に建てられた。そのうち3つの尖塔のある「スモレンスクのオディギトリアの生神女」のイコンに捧げられた聖堂は1638年に完成したものである。同じ修道院には1656年に遡る聖堂もある。また街の大聖堂は1676年に献堂された。その他多くの聖堂があるが、ほとんどはバロック様式で建てられている。 ヴャジマを舞台にした戦いには、ナポレオンのロシア侵攻の最中の1812年に起こったヴャジマの戦いがある。モスクワから撤退中の37,000人のフランス軍と25,000人のロシア軍が1812年10月22日にヴャジマ近郊で衝突した。ミハイル・ミロラドヴィチ率いる前衛とマトヴェイ・パラトフ率いるコサック部隊がルイ=ニコラ・ダヴーの率いるフランス軍の最後尾部隊をヴャジマの東方で襲い撤退路を塞いだ。ウジェーヌ・ド・ボアルネとユーゼフ・ポニャトフスキに救援されたダヴーの部隊はロシア軍による包囲を突破した。しかしこの後のフランス軍によるヴャジマ近郊の高地およびヴャジマ市の確保の試みは成功せず、10月22日の夕方までにロシア軍がヴャジマを陥落させ、フランス軍は火を放って退却した。ロシア軍の犠牲2,000人に対し、フランス軍は6,000人を失い2,500人を捕虜にされる大敗を喫した。 第二次世界大戦(独ソ戦)でもヴャジマは戦場となった。モスクワの戦いの最中、ヴャジマは1941年10月7日にモスクワへ進むドイツ国防軍の手に落ちた。これに対しモスクワ近郊で踏みとどまった赤軍は反撃に出、激しい戦いの後に1943年3月12日にヴャジマを奪還した。街の大半は戦闘で破壊され、戦後に再建された。戦争前に6万を数えた人口は716人にまで減少し、立っていた建物は僅か3つだけだったとされる。今日では鉄道の結節点となり、モスクワ、サンクトペテルブルク、カルーガ、ブリャンスクからの路線が集中する。.

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ヴォルガ川

最上流の町・ルジェフ周辺(1909年から1915年頃のカラー写真) ヴォルガ川流域 ヴォルガ川(ヴォルガがわ、 ヴォールガ)は、ロシア連邦の西部を流れる、ヨーロッパ州最長の川で、ロシア主要部(ヨーロッパ・ロシア中心部)を水系に含む「ロシアの母なる川」でもある。全長は3,690kmにおよぶ。.

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トロペツ

トロペツ(ロシア語: Торо́пец; Toropets)はロシアのトヴェリ州西部の都市。州都トヴェリから西へ330kmのヴァルダイ丘陵西部に位置し、西ドヴィナ川の右支流トロパ川がソロメノ湖に流入する地点にある。人口は14,600人(2002年国勢調査)。 1907年に開通したボロゴエ-オスタシコフ-アンドレアポリ-トロペツ-ヴェリーキエ・ルーキ間の鉄道沿線にある。またモスクワからヴェリーキエ・ルーキを経てラトビア国境(その先はリガに通じる)に至る高速道路M9は20km南のスタラヤ・トロパを通る。町の名はトロパ川に由来する。トロパはロシア語で川の速い流れを表し、特にこの川が西ドヴィナ川に合流する地点での速さに由来する。 町の古いレンガ造りの聖堂には、聖ニコライ聖堂(1666年から1669年にかけ建設)カザンの生神女聖堂(1698年から1765年建設)、前駆授洗イオアン聖堂(1704年)などがある。.

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トロペツ公

トロペツ公(Торопецкый князь)は、スモレンスク公国の分領公国だったトロペツ公国の君主の称号である(「公」はクニャージからの訳出による)。公・公国の名は、その中心都市だったトロペツによる。.

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トヴェリ

トヴェリ(p)はヴォルガ川に面するロシア連邦の都市。トヴェリ州の州都。人口は376,400人(2004年)。ロシア有数の古い歴史を持つ都市。ヴォルガ川とトヴェルツァ川との合流点にある。モスクワより北西に170km。モスクワとサンクトペテルブルクを結ぶモスクワ・サンクトペテルブルク鉄道、および高速道路M10が通る。 1931年から1990年までは、革命家ミハイル・カリーニンに因んでカリーニン(Калинин, Kalinin)と呼ばれていた。.

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トヴェリ大公国

トヴェリ公国 / トヴェリ大公国(Тверское княжество / Великое княжество Тверское)はトヴェリを首都として成立した、ルーシの諸公国の一つである。1247年に分領公国として成立し、のちに大公国を称した。1485年にモスクワ大公国に組み込まれて消滅した。.

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トヴェリ州

トヴェリ州(Тверская область)は、モスクワの北西にある中央連邦管区を構成する州(オーブラスチ)のひとつで、人口147万人。中堅都市トヴェリを州都とする。その他の都市にはトルジョーク、オスタシコフ、カシンなどがある。.

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ドイツ

ドイツ連邦共和国(ドイツれんぽうきょうわこく、Bundesrepublik Deutschland)、通称ドイツ(Deutschland)は、ヨーロッパ中西部に位置する連邦制共和国である。もともと「ドイツ連邦共和国」という国は西欧に分類されているが、東ドイツ(ドイツ民主共和国)の民主化と東西ドイツの統一により、「中欧」または「中西欧」として再び分類されるようになっている。.

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アレクサンドル・ネフスキー

アレクサンドル・ネフスキーのイコン。 1967年にソビエト連邦が発行したアレクサンドル・ネフスキーの切手。 アレクサンドル・ネフスキー(, 1220年5月30日 - 1263年11月14日)は、ノヴゴロド公国の公を経てウラジーミル大公国の大公(在位は1252年-1263年)となる。アレクサンドル・ネフスキイ、アレクサンドル1世とも。中世ロシアの英雄として讃えられている人物。正教会で列聖されている。妻はポロツク公ブリャチスラフの娘・アレクサンドラ、息子にはヴァシーリー、ドミトリー、アンドレイ、ダニールがいる。.

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ウラジーミル・スーズダリ大公国

ウラジーミル・スーズダリ大公国(ウラジーミル・スーズダリたいこうこく)は、ルーシの公国の一つ。12世紀後半以後は大公国。現在のスーズダリ・モスクワなどを含む地域で、当時の辺境地であった北東ルーシに位置した。首府はウラジーミル。.

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カトリーネホルム

トリーネホルム(Katrineholm)は、スウェーデンのセーデルマンランド県にある都市で、カトリーネホルム市の市庁所在地である。人口は2万1993人(2010年)。カトリネホルムとも表記される。.

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コーヴェリ

記載なし。

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シリストラ

リストラ (Силистра, Silistra) は、ブルガリア北東部、ドナウ川沿い位置する港町で、シリストラ州の州都である。ルーマニアと国境を接している。ブルガリア北東部の中心都市である。ローマ時代には、ドゥロストルム(Durostorum)と呼ばれていた。 800px.

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スモレンスク公国

モレンスク公国(Смоле́нское кня́жество)は、12世紀 - 14世紀にスモレンスクを首都として成立したルーシ諸公国の1つである。公国の歴史を概括すると、13世紀半ばには西接するポロツク公国に干渉するなど勢力を伸ばしたが、モンゴルのルーシ侵攻の後、強大化したリトアニア大公国・モスクワ大公国の狭間で弱体化し、最終的にリトアニア大公国に組み込まれた。 (留意事項)本頁の地名表記には旧称で表記されているものがある。必要に応じて各頁を参照されたし。.

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スウツク

ウツク(Слуцк、Слуцк、ポーランド語:Słuck)は、ベラルーシの都市。ミンスクから南に 105 km に位置する。人口は62,800人(1995年)。 スウツクについての記録が残っているのは、古いもので1116年までさかのぼる。1160年、スウツクはスウツク公国の首都となった。1320年から1330年にかけてはリトアニア大公国の領土であり、ラジヴィウ家の領地に組み込まれた。1920年、スウツクは反ボルシェビキ運動の中心都市であった(Slutsk Defence Action)。第二次世界大戦までユダヤ人が多く住んでいた(Slutsk Affair)。しかし現在は100名に満たない。スルツク帯(Слуцкі пояс)が有名。.

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スターリツァ

ターリツァの紋章 スターリツァ(ロシア語: Старица; Staritsa)はロシアのトヴェリ州の都市。ヴァルダイ丘陵の東部に位置し、ヴォルガ川の上流にスターリツァ川が合流する街で、トヴェリからは南西へ77km。人口は9,125人(2002年国勢調査)。最寄りの鉄道駅は12km離れたところにあり、モスクワ・サンクトペテルブルク間の幹線からリホスラヴリで分かれトルジョーク=ルジェフ=ヴャジマを結ぶ支線上にある。.

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サロ (フィンランド)

(Salo) は、フィンランド南西スオミ県の都市でバルト海岸に位置する。サロ郡に属する。人口55,243人 (2011年1月31日現在)でその内男性が27,134人、女性が28,109人である。サロはスオミ語で「森の地」という意味である。 ヘルシンキとトゥルクの中間に位置し、ノキアの主力工場が立地する。 2009年、ハリッコ、キーカラ、キスコ、クーショキ、ムールラ、ペルニエ、ペルッテリ、スオムシェルヴィ、セルキサロを合併し、広大な市となった。面積2168km。.

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第二次世界大戦

二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、Zweiter Weltkrieg、World War II)は、1939年から1945年までの6年間、ドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、ソビエト連邦、アメリカ 、などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の巨大戦争。1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻と続くソ連軍による侵攻、そして英仏からドイツへの宣戦布告はいずれもヨーロッパを戦場とした。その後1941年12月の日本とイギリス、アメリカ、オランダとの開戦によって、戦火は文字通り全世界に拡大し、人類史上最大の大戦争となった。.

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第二次ルジェフ会戦

二次ルジェフ会戦(だいにじルジェフかいせん)とは、第二次世界大戦中の1942年11月に開始されたソビエト赤軍によるルジェフ付近のドイツ軍に対する戦略的攻勢によって起こった会戦を指す。 ルジェフ近辺には1941年のモスクワの戦いとその後に起こったソ連の冬季反攻とドイツ軍の防衛戦の結果として巨大な突出部が形成されており、ドイツ軍前線はここでモスクワに対してもっとも接近していた。 ソ連の最高司令部は、スターリングラードのドイツ軍に対する攻勢作戦である天王星作戦と同時期に、ルジェフ突出部に対して行う攻勢作戦として火星作戦を立案し、ゲオルギー・ジューコフ大将が総指揮にあたった。作戦は、西方正面軍(イワン・コーネフ大将指揮)とカリーニン正面軍(マクシム・プルカエフ大将指揮)によってドイツ第9軍(ヴァルター・モーデル上級大将指揮)の守るルジェフ突出部を挟み撃ちにして撃滅することを目的としていた。一説ではこの作戦は第9軍のみならず、ドイツ中央軍集団(ギュンター・フォン・クルーゲ元帥指揮)そのものの背後に回りこんで撃滅しようとしたものではないかと言われている。 作戦の詳細は公表されていないが、ソ連軍はドイツ軍戦線を突破できず大敗北を喫し、一説では兵33万5千人と1600両の戦車を失ったとされている。この敗北は他ならぬジューコフが総指揮に当たったということと、スターリングラードでの大勝利と同時期の大敗北であるため、ソ連は長きにわたってこの会戦の存在そのものを否定してきた。 しかし同時に第9軍も無傷で済んだわけがなく、何よりも、スターリングラードの悲劇を始めとする赤軍の冬期攻勢の余波により、戦線を短縮して、予備兵力を抽出する必要に迫られた。このため、1943年3月1日に第9軍はルジェフ突出部からの整然とした撤退を開始(水牛作戦)。赤軍も追撃を試みたが、先の敗北により積極性を失い、さらに、ドイツ軍の巧みなブービートラップ戦術により足止めされた。第9軍は、突出部の根元に形成されていた水牛陣地への撤退に成功、さらに部隊の配置が整理され、最終的には22個師団ほどを予備に抽出することが可能となった。 一方、さらに南側の第2軍戦区は、オリョール周辺の戦闘で悪戦苦闘が続いたが、南方軍集団の反攻の成功によって、ようやく一息が付け、春の泥濘期の訪れも手伝って戦線は安定に向かった。 このように水牛作戦の成功、第2軍戦区の小康、泥濘期の到来をもって、中央軍集団は部隊の休養を宣言。南方軍集団からは、第2軍の南下を要請されたが、これを拒絶し、この結果として、オリョール南方に、クルスク突出部が残ることになった。なお、ルジェフ突出部から撤収した第9軍司令部や抽出された予備兵力の多くは、第2軍の北側、クルスク突出部の北辺へと移動させられ、夏季攻勢に参加することになる。.

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都市

都市(とし、city)とは、商業、流通などの発達の結果、限られた地域に人口が集中している領域である。.

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1019年

記載なし。

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1216年

記載なし。

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14世紀

ナスル朝。イベリア半島最後のイスラム王朝であるこの王朝はすでに半島南端を占めるだけの小国となっていたが文化や芸術は最後の輝きを見せていた。画像はイスラム特有のアラベスクに彩られたアルハンブラ宮殿の「二姉妹の間」。 Gilles Le Muisitの年代記』の挿絵)。 エドワード3世率いるイングランド軍にフランス軍が大敗を喫した。画像はこの戦いを描いたジャン・フロワサールの『年代記』写本の挿絵。 ユダヤ人迫害。中世末期の不穏な情勢の中でスケープゴートとして標的にされたのがユダヤ人であった。画像は15世紀にまとめられた『ニュルンベルク年代記』の木版挿絵で、1338年に起きたバイエルン地方のデッゲンドルフでの「聖餅󠄀冒瀆」の罪により、生きながら火炙りにされたユダヤ人たちが描かれている。 カルマル同盟。デンマーク摂政(事実上の女王)マルグレーテ1世がデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの三国を統合した。画像はロスキレ大聖堂に安置されたマルグレーテの石棺。 七選帝侯。神聖ローマ帝国では諸侯の分権化が強く選帝侯を味方につけることで帝権は維持された。やがてこの選出方法は金印勅書で法制化されることになる。 原初同盟は14世紀にはハプスブルク家との戦いに勝利し自立への道を踏み固めていった。画像は1315年のモルガルテンの戦いを描いたもの。 アヴィニョン教皇宮殿の正面入り口。 ダンテとベアトリーチェ。ダンテは地獄・煉獄・天国をまわる壮大な『神曲』を書いた詩人。画像は19世紀のヘンリー・ホリデーによるもの(ウォーカー・アート・ギャラリー蔵)。 シエナ。この街は黒死病の被害の影響が大きかったため景観が変化せず中世都市の面影を強く残した街となっている。画像はアンブロージョ・ロレンツェッティによるシエナのプブリコ宮殿(現シエナ市役所)九頭の間の壁画「善政の効果」。 セルビア人の帝国。ネマニッチ朝のステファン・ウロシュ4世ドゥシャンは東ローマ帝国を抑えバルカン最強の国家を樹立した。画像はウロシュ4世により創建されたコソボのデチャニ修道院にあるネマニッチ一族の系譜を描いたフレスコ画。 Codex Mendoza」。 後醍醐天皇。鎌倉幕府を亡ぼし建武の新政を行ったが、政権崩壊後には逃れて吉野に南朝を立てた。画像は清浄光寺所蔵の肖像画。 足利義満。室町幕府3代将軍で南北朝の統一を行い、将軍位を息子義持に譲ってからも法体で実際の政治を握っていた。画像は鹿苑寺所蔵の肖像画。 西アフリカのマリ王国の王マンサ・ムーサ。イスラム教徒としてメッカに巡礼に向かう旅路で黄金を惜しみなく使った逸話で知られる。 Baptistère de Saint Louis」。フランス歴代国王が実際に用いた洗礼盤だが、聖王ルイの時代より正確には半世紀ほど後のもので、マムルーク朝時代のエジプトまたはシリアで作られたイスラム工芸を代表する名品。現在はルーヴル美術館が所蔵している。 歴史家ラシードゥッディーン。その当時の知られていた世界の歴史を『集史』としてまとめ上げた。画像は彼が仕えたイル・ハン国の君主ガザンとオルジェイトゥの兄弟を描いた『集史』の挿絵。 草原の英雄ティムール。モンゴル帝国の分裂後の中央アジア・西アジアはティムールによって統一された。画像は1370年のバルフ包囲戦を描いたホーンダミール『清浄園』の16世紀の写本の挿絵。 ハンピ)のヴィルーパークシャ寺院。 チベット仏教の改革者ツォンカパ。綱紀粛正に努め左道密教を退けて現在のダライラマに連なるゲルク派(黄帽派)を大成した。 青花の誕生。元朝後期に西アジア産のコバルト顔料を用いて白磁に紋様を描く青花(染付)の技法が開発された。画像はこの世紀に造られた「青花魚藻文壺(ブルックリン美術館蔵)」。 明の洪武帝朱元璋。モンゴル人の元朝を北方に追いやり、漢民族の王朝を復興した。画像は洪武帝の肖像画(台北国立故宮博物院蔵)。 14世紀(じゅうよんせいき)は、西暦1301年から西暦1400年までの100年間を指す世紀。.

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18世紀

Jean-Pierre Houëlが描いたバスティーユ襲撃(フランス国立図書館蔵)。 国立マルメゾン城美術館蔵)。 ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)。 18世紀(じゅうはっせいき)は、西暦1701年から西暦1800年までの100年間を指す世紀。.

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1942年

記載なし。

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2002年全ロシア国勢調査

2002年全ロシア国勢調査票(簡易調査プログラム) 2002年全ロシア国勢調査(Всеросси́йская пе́репись населе́ния 2002 го́да)は2002年10月9日から10月16日まで、ロシア連邦民およびロシア連邦内の外国人・無国籍者を対象に連邦国家統計局が行った国勢調査。 国際連合の基準では国勢調査の間隔は10年であるが、先回の国勢調査は共産党時代で、1989年1月に行われた。 この調査には48億ルーブルかかった。.

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