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リャドク

索引 リャドク

リャドク(Рядок)とは、キエフ・ルーシ期に主にノヴゴロド公国で見られた、商工業者の小規模な居住地のことである。 キエフ・ルーシ期のリャドクには、法に基づいた契約の1つであるリャドを結び、一定期間他者に隷属したリャドヴィチに属する人々が住んでいた。また、リャドクの商工業者は農業にも従事した。 15世紀末には製鉄・製塩所などの採取産業地区や、などの交易路上にもリャドクが登場した。なお、より大規模な、しかし防御設備をもたない商工業者の居住地はポサードと呼ばれた。 16世紀前半、現在のノヴゴロド州には42のリャドクがあった。16世紀末から社会的価値を失い消滅していったリャドクもあったが、いくつかのリャドクはポサードへ、そしてゴロド(都市)へと発展していった。たとえばチフヴィン、ヴァルダイ、ヴイシニー・ヴォロチョークなどである。また、ベリョゾヴスキー・リャドク(ru)、オペチェンスキー・リャドク(ru)などの自治体の名に、リャドクの名が残っている。.

12 関係: ノヴゴロド州ノヴゴロド公国チフヴィンポサードリャド (契約)リャドヴィチヴァルダイヴイシニー・ヴォロチョークキエフ大公国クレムリ15世紀16世紀

ノヴゴロド州

ノヴゴロド州(Новгородская област)は、ロシア連邦の北西連邦管区を構成する州(オーブラスチ)の一つ。州都はノヴゴロド。レニングラード州、ヴォログダ州、トヴェリ州、プスコフ州と境を接する。.

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ノヴゴロド公国

ノヴゴロド公国(Новгородская республика、Новгородская земьля)は、公座を大ノヴゴロドに置いていた中世のルーシ(古代ロシア)の主要な都市国家の一つ。中世には特殊な貴族共和制により、しばしばノヴゴロド共和国と呼ばれ、こちらの名前が定着しつつある。その他、ノヴゴロド国という表記も見られる。 「タタールのくびき」にルーシ全体があえぎ、北方十字軍がスラヴ人へ正教からカトリックへの「剣による改宗」を強制していた13世紀のルーシの中心であった。.

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チフヴィン

チフヴィン(チーフヴィン、チフウィン、チフビン、ティフヴィン、Ти́хвин、ラテン文字表記の例: Tikhvin)はロシア・レニングラード州の東南部にある都市。レニングラード州東部の丘陵地帯にあり、ラドガ湖へ流れるチフヴィンカ川の両岸に町が広がる。 州都サンクトペテルブルクからは東へ200キロメートル。チフヴィンスキー地区の行政中心地であり、同地区および州東部の産業・文化・交通網の中心でもある。ヴォログダとノヴァヤ・ラドガを結びサンクトペテルブルク方面へ接続する国道A114号線が走っている。人口は63,338人(2002年国勢調査。1989年ソ連国勢調査では71,352人)。.

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ポサード

ポサード(ウクライナ語 / Посад 、Пасад 。)はキエフ・ルーシ期 - 帝政ロシア期に用いられた、城塞(クレムリもしくはデティネツ)の外の市場や商工業者の密集して住まう地区を指す用語である。.

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リャド (契約)

リャド(Ряд)とは、キエフ・ルーシ期のルーシにおける、法的な拘束力を有する契約・協定のうちの1つである。 リャドは公(クニャージ)・貴族(ボヤーレ)などの領主層と、経済的に他に依存する人々もしくは個人との間で締結された。リャドの締結によって従属する立場となった人はリャドヴィチと呼ばれ、リャドに基づき労働を行った。 また、リャドは公と民会(ヴェーチェ(ru))、もしくは公と都市との間にも締結することができた。公はリャドに違反した場合、その職務を失う可能性もあった。.

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リャドヴィチ

リャドヴィチ(Рядовичи、Рядовичі)とは、キエフ・ルーシ期の人々のカテゴリの1つであり、負債を地主の元での労働で支払う契約(この契約をリャドという。)を結んだ状態にある人々を指す言葉である。日本語文献では「契約隷属民」等と訳される。 リャドヴィチは貸付金を借り、契約により農業などの期間労働を行った。主人に従属し、主人の元に住み着いた。貸付金は労働や、金・家畜・作物の種子などで返済した。その立場はザークプという、年季奉公の労働者伊東孝之『ポーランド・ウクライナ・バルト史』p103に近い。しかしホロープ(ru)(奴隷・隷属農民)とは異なる扱いを受けた。自由民とリャドヴィチとの結婚による子供もいた。また、財産の所有や贈与も認められており、たびたび主人の下級の事務官としても用いられた。 『ルースカヤ・プラウダ』(ルーシ法典)においては、リャドヴィチの殺人罪に対するヴィーラ(罰金)は、スメルド(自由農民)やホロープと同じ5グリヴナと定められていた。 14世紀-17世紀には、都市の商人組合の構成員をリャドヴィチと呼んだ。リャドに基づく社会層であることはキエフ・ルーシ期と同様であり、また同様にリャドクに住んでいた。.

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ヴァルダイ

ヴァルダイ(ロシア語:Валда́й;ラテン文字表記: Valday / Valdai)はロシアのノヴゴロド州の町でヴァルダイスキー地区の行政中心地。モスクワとサンクトペテルブルクを結ぶ連邦高速道路M10の沿線にあり、モスクワからは386km、ノヴゴロドからはおよそ140km。人口は18,703人(2002年国勢調査)、1989年の調査では19,173人であった。 ヴァルダイの地名は1495年に初めて記録に登場する。エカチェリーナ2世の時代に町に昇格したが当時は人口2千人ほどであった。ヴァルダイは鐘の製造でロシアに名をはせている。 ヴァルダイの街はヴァルダイ丘陵の只中にあり、周囲はヴァルダイ丘陵国立公園に指定されている。近くのヴァルダイ湖の島には、有名なイヴェルスキー修道院(1653年)や生神女就寝聖堂(1656年)がある。夏には大勢のバカンス客が湖や町に滞在し、別荘やサナトリウムも多い。また湖周辺にはキャンプ場も多い。.

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ヴイシニー・ヴォロチョーク

ヴイシニー・ヴォロチョークの紋章 ヴイシニー・ヴォロチョーク(ヴイシニー・ヴォロチェク、;Vyshny Volochyok)はロシアのトヴェリ州の都市。1471年の文献には登場している古い街である。またモスクワとサンクトペテルブルクを結ぶモスクワ・サンクトペテルブルク鉄道や国道が通る。人口は56,405人(2002年国勢調査)。 ヴイシニー・ヴォロチョークは州都トヴェリの北西119kmにある。ヴァルダイ丘陵の南東側に位置し、ムスタ川を経てイリメニ湖へと流れるが流れる。近くにはヴォルガ川の支流でトヴェリへ流れるトヴェルツァ川の源流があり、バルト海水系とヴォルガ川水系の接点となっている。 ヴイシニー・ヴォロチョークの町並み 街の名前はロシア語で「上流部の」を意味する。バルト海方面からツナ川を遡ってきた船乗りは、ここで船と荷物を陸に揚げて歩いて運び、トヴェルツァ川で下ろしてヴォルガ川流域へと進んでいた。こうした交易路は、ヴァリャーグ(ヴァイキング)たちの時代にはスカンジナビアとビザンチン帝国とを結ぶ毛皮などの貿易経路であった。 モスクワからサンクトペテルブルクへ遷都したピョートル1世は、新首都や西ヨーロッパとロシア内陸部とを結ぶため1703年からこの地で運河建設を行い、繊維産業が集積するなど街の発展につながった(→ヴォルガ・バルト水路)。この運河は19世紀初頭まではロシアの二大都市を結ぶ主要な水運路となっていた。 19世紀半ばにはモスクワ・サンクトペテルブルク鉄道が通り、ヴイシニー・ヴォロチョークは両都市の間の主要駅として繁栄した。.

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キエフ大公国

フ大公国(キエフたいこうこく)は、9世紀後半から1240年にかけてキエフを首都とした東欧の国家である。正式な国号はルーシ(古東スラヴ語: Русь)で、日本語名はその大公座の置かれたキエフに由来する。 10世紀までにキリスト教の受容によってキリスト教文化圏の一国となった。11世紀には中世ヨーロッパの最も発展した国の一つであったが、12世紀以降は大公朝の内訌と隣国の圧迫によって衰退した。1240年、モンゴル来襲によってキエフは落城し、事実上崩壊した。.

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クレムリ

レムリ(Кремльクリェームリ;ラテン文字表記の例:Kreml')とは、ロシア語で「要塞」「城塞」「城」を意味する語。年代記の1317年の条に、トヴェリの城塞建築の際に「クレムニク」(кремник)の名で初出するが、その語源には諸説あり、「縁」や「柵」を意味する古いスラヴ語に由来するとの説のほか様々な説が唱えられている。クレムリン(Kremlin)という呼び方も一般的であるが、ロシア語から見れば正しくない。.

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15世紀

大航海時代。大西洋を渡り新世界を発見したコロンブス。 マチュ・ピチュ遺跡。アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿いの尾根にある遺跡で標高2430mの高さにある。用途は未だ明らかでない所もあるが、15世紀に建造されたインカ帝国の技術の高さを反映している。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 香辛料の魅惑。15世紀には東方との交易路はオスマン帝国に遮断される事になり、香辛料の供給不足が大きな問題となった。画像は1410年代に描かれた『世界の記述(東方見聞録)』の挿絵で、インドでの胡椒採収が取り上げられている。 エンリケ航海王子。ポルトガルは東方への航路の開発を推進したが、その中心となったのは「航海王子」の名を持つエンリケ王子である。サグレスに設置した「王子の村」が航海士の育成に貢献したことはよく知られている。画像は「サン・ヴィセンテの祭壇画」で聖人のすぐ右隣に位置する黒帽で黒髭の人物が王子ととされているが異論もある。 キルワの大モスク跡。 サマルカンド近郊のウルグ・ベク天文台。ティムール朝の君主ウルグ・ベクは天文学に造詣が深く「ズィージ・スルターニー」のような精緻な天文表も作成させた。 Musée des Augustins蔵)。 ロシア正教会の自立。東ローマ帝国の衰退に伴い「タタールの軛」を脱したロシアでは独自の組織が形成され文化的にも新たな展開が見られた。画像はこの時代を代表するモスクワ派のイコン(聖画像)でアンドレイ・ルブリョフの「至聖三者」(モスクワのトレチャコフ美術館蔵)。 グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)。ポーランド・リトアニア連合軍がドイツ騎士団を破り、東方植民の動きはここで抑えられた。画像はこの戦いを描いたポーランド人画家ヤン・マテイコの歴史画(ワルシャワ国立美術館蔵)。 天文時計で1410年頃作成されてから、後世の補修はあるものの今日まで動いているものである。 プラハ大学学長ヤン・フスの火刑。コンスタンツ公会議の決定によりカトリック教会と相容れぬ異端の徒として処刑されたが、これがチェック人の憤激を呼び起こすことになった。 オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルク。劣勢のフランス軍を鼓舞し百年戦争の終結に大きな役割を果たしたが魔女裁判で火刑に処せられた。 グーテンベルク聖書(42行聖書)』の「創世記」。 『中世の秋』。歴史家ホイジンガはこの題名でこの時代のブルゴーニュ公国の歴史を描いた。画像はヤン・ファン・エイクの「宰相ロランの聖母」。ロランはこの国の宰相で、背後にはブルゴーニュのオータンの風景が広がる。 ブルネレスキの巨大なドーム建築で知られる「花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)」。 ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」。メディチ家などの文化支援活動に支えられてルネサンス文化が花開いた。画像の中心の女神は美と愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)で、その周囲を多くの神々が取り囲んでいる(ウフィッツィ美術館蔵)。 サイイド朝からローディー朝へ。北インドではデリーを中心にイスラム系王朝が続いた。画像はデリーのローディー・ガーデン内にあるサイイド朝の君主ムハンマド・シャーの霊廟。この公園の敷地にはローディー朝君主たちの霊廟もある。 タイを支配したアユタヤ朝は上座部仏教を保護し東南アジアでも有数の国家となっていた。画像はアユタヤに残るワット・プラ・シーサンペットで、1448年にボーロマトライローカナート王により建立された寺院である。 万里の長城。モンゴル人を漠北に追い払ってからもその侵入に備え明代には長城が幾度となく修復・増築を繰り返されていた。画像は1404年に「慕田峪長城」と名付けられた長城で北京市の北東に位置するもの。 鄭和の南海大遠征。永楽帝時代には明の国威を示す大艦隊が各地に派遣された。画像は1417年にベンガルから運ばれたキリンを描いた「瑞應麒麟図」。 「仁宣の治」。明は仁宗洪熙帝と続く宣宗宣徳帝の時代に安定期を迎えた。画像は明の宣宗宣徳帝の入城を描いたもの(台北故宮博物院蔵)。 如拙「瓢鮎図」。禅宗の流入は「五山文学」や「舶来唐物」などを通じて室町時代の文化に大きな影響を与えた。この「瓢鮎図」も将軍足利義持の命で描かれた水墨画で数多くの禅僧の画讃がつけられている。京都妙心寺塔頭退蔵院の所蔵。 文化を極めた。 応仁の乱。将軍後継をめぐる守護大名の争いで京都の町は焦土と化した。以後足利将軍の権威は衰え下剋上の時代へと進むことになる。画像は応仁の乱を描いた「紙本著色真如堂縁起」(真正極楽寺蔵)。 15世紀(じゅうごせいき)とは、西暦1401年から西暦1500年までの100年間を指す世紀。.

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16世紀

16世紀(じゅうろくせいき)は、西暦1501年から西暦1600年までの100年間を指す世紀。 盛期ルネサンス。歴代ローマ教皇の庇護によりイタリア・ルネサンスの中心はローマに移動した。画像はこの時代に再建がなされたローマのサン・ピエトロ大聖堂の内部。 カール5世。スペイン王を兼ねイタリア各地やネーデルラントも支配したが周辺諸国との戦いにも明け暮れた。画像はティツィアーノによる騎馬像(プラド美術館蔵)。 「太陽の沈まない帝国」。カール5世の息子フェリペ2世の時代にスペインは目覚ましい発展を遂げ貿易網は地球全体に及んだ。画像はフェリペ2世によって建てられたエル・エスコリアル修道院。ここには王宮も併設されておりフェリペ2世はここで執務を行った。.

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