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ラトビアの国旗

索引 ラトビアの国旗

ラトビアの国旗は、海老茶色・白・海老茶色の二色旗で、1990年2月27日にソビエト連邦から独立時に再制定された。もともと1918年から1940年のソ連への併合時まで使用されていた。 この国旗のデザインは1280年前後に起こった戦争についてふれた古い文献「リヴォニア年代記(Rhyme Chronicle of Livonia (Livländische Reimchronik))」に登場し、大変古いものであることが分かっている。あるラトビア兵士が瀕死の負傷を受け、白い布にくるまれた際、その布の両端が血で赤く染まった。この布が旗印として使われたという。この伝統に基づき1917年5月に国旗がデザインされ、1921年6月15日のラトビア共和国国会で制定された。 海老茶色は「ラトビアン・レッド」とも言われる独特な色で、茶色と紫色の混ざったような色である。デザインはオーストリアの国旗とよく似ている。 ファイル:Naval Ensign of Latvia.svg|軍艦旗 ファイル:Naval Jack of Latvia.svg|軍艦用国籍旗 ファイル:Flag of the President of Latvia.svg|大統領旗 ファイル:Flag of the Prime Minister of Latvia.svg|首相旗 ファイル:Flag of the Minister of Defence of Latvia.svg|国防相旗.

23 関係: バルト連合公国ラトビアラトビアの国章ラトビア・ソビエト社会主義共和国の国旗ラトビア社会主義ソビエト共和国リヴォニアテッラ・マリアナイスコラトオーストリアの国旗クールラント・ゼムガレン公国ソビエト連邦国旗国旗の一覧1280年1917年1918年1921年1940年1990年2月27日5月6月15日

バルト連合公国

バルト連合公国 (Vereinigtes Baltisches Herzogtum) は、ロシア革命後に今日のエストニア、ラトビアの地に構想された国家。リヴォニア大公国としても知られる。 ドイツ帝国はロシア革命後、ロシア帝国領の、、を占領した。この際にバルト・ドイツ人貴族と亡命ロシア貴族が構想したのがこのバルト連合公国である。 そこではクールラント公国、「エストニアおよびリヴォニア公国」を創設し、これらをプロイセン王の同君連合のもとにおく計画であった。第一次世界大戦の終結前に(ドイツ軍東部全軍最高司令官)のもと、ドイツ軍は既にこの中世リヴォニアの地を占領下に収めていた。.

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ラトビア

ラトビア共和国(ラトビアきょうわこく、Latvijas Republika)、通称ラトビアは、北ヨーロッパの共和制国家。EUそしてNATOの加盟国、OECDの加盟国。通貨はユーロ、人口は201.5万人、首都はリガである。.

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ラトビアの国章

ラトビアの国章(ラトビアのこくしょう)は、1918年11月18日のラトビア共和国の独立宣言の後に構成され、1921年6月16日に正式に採用された。この国章は独立国としての地位を示すために制定されたものであり、国民国家としての地位と歴史的な諸地域のシンボルを組み合わせたものである。 盾の上部の太陽はラトビアの国民国家としての地位を表している。この図案化された太陽は、第一次世界大戦中に編成されたロシア帝国陸軍のラトビア人ライフル部隊が、他の部隊とは異なる、ナショナル・アイデンティティを示すシンボルとして用いていたものである。当時の太陽の図は、17本の日射しが放射するように描かれており、それは当時のラトビア人居住地域にあった17地区を象徴していた。盾の上方に加えられる3つの星は、ヴィドゼメ、ラトガレ、クルゼメ=ゼムガレ(クールラント=セミガリア)という歴史的な3つの地方を、統一ラトビアに統合することを示している。 古くから独自の文化があった各地方は、それぞれ17世紀以前に遡る紋章がある。クルゼメ=ゼムガレ(ラトビア西部)を象徴する赤いライオンは、1569年に当時のクールラント・ゼムガレン公国の紋章に登場している。ヴィドゼメとラトガレ(ラトビア東部)を象徴するのは、銀色のグリフォン(翼と鷲の頭を持った伝説上の生物)であり、この地域が1566年に、当時のリトアニア大公国の支配下に入ったときには、このシンボルが用いられていた。 ラトビアの国章は、ラトビアの画家リハルズ・ザリンシュがデザインしたものである。 ラトビアの国章の正式な使用法は、厳密に法で定められている。公的に用いられる国章には、大紋章、中紋章、小紋章の3つがある。.

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ラトビア・ソビエト社会主義共和国の国旗

ラトビア・ソビエト社会主義共和国の国旗は、1940年から1990年にかけて用いられた旗である。 ラトビアがソ連に編入されたときに制定された時に、最初の国旗が制定され、1953年に二代目が制定されている。この国旗は1990年にラトビアがソ連から分離独立するまで用いられた。 初代の国旗は、ソビエト連邦の国旗を基にしたものであり、赤旗であり左上に鎌と槌の紋様が付けられている。「LPSR」の文字は、(Latvijas Padomju Sociālistiskā Republika)の略である。二代目の国旗もソ連の国旗を基にしており、ソ連の国旗の下部に青と白の波模様が付けられている。エストニア・ソビエト社会主義共和国の国旗と類似しているが、エストニア・ソビエト社会主義共和国の国旗は波模様が下端まで達していない点が異なっていた。 画像:Flag of Latvian SSR (1940).svg|1940年-1953年 画像:Flag of Latvian SSR.svg|1953年-1990年 画像:Flag of Latvian SSR (reverse).svg|裏面 Category:かつて使用されていた国旗 * そひえとしやかいしゆききようわこくのこつき らとひあ.

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ラトビア社会主義ソビエト共和国

ラトビア社会主義ソビエト共和国(Latvijas Sociālistiskā Padomju Republika)はラトビア独立戦争中に結成された短命な社会主義共和国。1918年12月17日に政治的、経済的、軍事的にウラジーミル・レーニンとロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のソビエト共産党政府を後ろ盾に成立を宣言した。政府の書記長となったのはペーテリス・スツカ (Pēteris Stučka) であった。.

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リヴォニア

1619年当時のポーランド・リトアニア連合とリヴォニア。濃い灰色の部分がリヴォニア公国 17世紀後半のリヴォニア。中・北部がスウェーデン・バルト帝国、南部がポーランド・リトアニア連合 リヴォニア (Livonia) は、現在のラトビアの東北部(ヴィドゼメ地方)からエストニアの南部にかけての地域の名称。また、リボニアやドイツ語風にリーフラント (Livland) ともいう。 この地にはフィン・ウゴル系(ウラル語系)とされるリヴォニア語を話すリーヴ人が住んでいたが、現在では人口数百人程度の少数民族となっている。ドイツ騎士団の植民やバルト人・フィン人等との混血により、激減したとされる。現在、住民はほぼバルト系ラトビア人とロシア人で占める。 中世リヴォニア:テッラ・マリアナ リヴォニア十字軍の間に、リヴォニア帯剣騎士団(後にリヴォニア騎士団と呼ばれる)に植民地化された。テッラ・マリアナはバルト海の東海に位置し、現在のエストニア南部とラトビア北部からなる領域。リヴォニア十字軍の結果作られた。 中世は北方十字軍や東方植民の影響でドイツ系の住民バルト・ドイツ人が多数を占め統治された。リーヴ人の影響は残り、この地はリーヴ人の土地、リヴォニアとして名を残す事になる。 ドイツ騎士団国(1224年–1237年)と支部のリヴォニア騎士団(1237年–1561年)、リヴォニア公国(ポーランド王国、ポーランド・リトアニア共和国 1561年-1621年)、スウェーデン(バルト帝国1629年–1721年)と支配者を変えた後、最終的に18世紀初頭に始まった大北方戦争によりロシア帝国(1721年–1918年)に帰した。20世紀には、リヴォニアの北部をエストニア、南部をラトビアとして国家が成立した。.

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テッラ・マリアナ

テッラ・マリアナ(羅:Terra Mariana/聖母マリアの土地)は、中世リヴォニアの公式名称であり、現在のエストニアとラトビアからなる領域で、リヴォニア十字軍の結果作られた。.

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イスコラト

イスコラト(ロシア語: Исколат)は新暦、1917年7月29日~30日(旧ロシア暦1917年8月11日~12日)ラトビアの社会民主主義者が中央評議会のイニシアチブを握っていた際にリガに設置された評議会。イスコラトはラトビア労働者、農業者、兵員のソビエト執行委員会(Исполнительный комитет Совета рабочих, солдатских и безземельных депутатов Латвии)の略称である。ラトビア社会主義ソビエト共和国の建国を目指した。 ロシアが10月革命を行った1917年10月以降、この革命はラトビアにも波及した。1917年12月17日、ラトビアの人民代議員大会はバルミエラに召集され、選挙によって新しいイスコラト政府の長にフリツィス・ロジンが選ばれた。この後ラトビア社会主義共和国中央評議会は10月革命をドイツに占領されていないラトビア領に持ち帰る目的のために運営された。 しかし、1918年2月、ドイツ帝国がリガを占領すると、イスコラトはツェーシス、さらにヴァルカまで移動した。さらにヴァルカ地区が奪われると、1918年3月にはロシア臨時政府によって設立されたこの機関は解体された。 ソビエト史ではイスコラトは1917年12月から翌年2月にかけてラトビアに主権を持った最初のソビエト政府と考えている。しかし、Andrew Ezergailisは「イスコラト共和国」のための自治と独立がラトビアのボルシェビキによって目標に達することは無かったとし、これらは連邦主義者のペトリス・スツカによって達成されたと表している。.

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オーストリアの国旗

ーストリアの国旗は、13世紀にオーストリア公であったバーベンベルク家(Babenberg)のフリードリヒ2世(喧嘩公)が、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世に対し反乱を企てたときに制定されたものである。デンマークの国旗やスコットランドの国旗などとともに、現在まで使用されている世界最古の国旗のひとつとされる。 第3回十字軍に参加したオーストリア公レオポルト5世が敵の返り血を浴びて全身赤く染まったが、ベルトのため腰の部分だけ白く残ったという故事が有名である。 オーストリア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国時代は黒・金2色のハプスブルク家の旗が国旗であり、赤・白・赤の現国旗は戦闘旗として使用されていた。また、オーストリア=ハンガリー帝国時代はハンガリーの国旗と赤・白・赤の旗を組み合わせたものが商船旗として使われた。 ナチス・ドイツとの統合で廃止されたが、第二次世界大戦の終結後ドイツから再独立した1945年に復活した。現在の法的根拠は、1984年制定の「国章・国旗法」。 政府旗は、中央にオーストリアの国章が描かれており、政府庁舎などで掲揚される。 ファイル:Flag of Austria (state).svg| 政府旗 縦横比.

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クールラント・ゼムガレン公国

ールラントおよびゼムガレン公国(クールラントおよびゼムガレンこうこく、ラテン語:Ducatus Curlandiæ et Semigalliæ;ポーランド語:Księstwo Kurlandii i Semigalii;ドイツ語:Herzogtum Kurland und Semgallen;ラトビア語:Kurzemes un Zemgales hercogiste)は、1562年から1795年までバルト海沿岸部に存在した公国で、ポーランド王冠とその後身であるポーランド・リトアニア共和国の封土。その名前はバルト人の部族である、クール人、セミガリア人にちなむ。1791年に完全独立を果たしたが、4年後の1795年3月28日、第3次ポーランド分割に際してロシア帝国に併合された。 クールラント・ゼムガレン公国の国称は1918年3月8日に成立した短命な戦時国家にも与えられた。このクールラント・ゼムガレン公国はドイツ帝国の従属国家であるバルト連合公国の一部を形成すると決められていたが、ドイツがバルト海海域において降伏すると同時に消滅した。公国の存在した地域は第一次世界大戦が終結するとともに民族国家ラトビア共和国の一部となった。.

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ソビエト連邦

ビエト社会主義共和国連邦(ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこくれんぽう、Союз Советских Социалистических Республик)は、1922年から1991年までの間に存在したユーラシア大陸における共和制国家である。複数のソビエト共和国により構成された連邦国家であり、マルクス・レーニン主義を掲げたソビエト連邦共産党による一党制の社会主義国家でもある。首都はモスクワ。 多数ある地方のソビエト共和国の政治および経済の統合は、高度に中央集権化されていた。.

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国旗

国旗(こっき、National flag)は、国家を象徴する旗のこと。学校、議会、裁判所や国際的な会議などの公的行事や公的機関で掲揚され、またその国の国民によっても掲揚される。また船舶や軍隊の所属を表すことにも使用される。国家的な弔意を示す場合にはこれを半旗または弔旗にする。 世界地図上に国旗を表示した図。(領域は実効支配領域).

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国旗の一覧

国旗の一覧(こっきのいちらん)は、世界の国の国旗の一覧である。国旗の画像は公式の縦横比に合わせ、面積を統一した。掲載基準は国の一覧に準じたが、国際連合加盟国とバチカン以外は強調していない。 その他の旗については旗の一覧を参照。国章については国章の一覧を参照。 なお、国旗の縦横比、形などは各国の定めるところにより、統一的な基準はないが、国連、オリンピックなどでは長方形型の旗は縦横比2対3として代用することが一般的である。 Unicode 6.0 では Regional Indicator Symbol により国旗を表示させることも出来るとされた。 ここでは Regional Indicator Symbol による表記も記したが、一部を除き実装されていない。.

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白(しろ)は、全ての色の可視光線が乱反射されたときに、その物体の表面を見た人間が知覚する色である。無彩色で、膨張色である。白色(ハクショク、しろいろ)は同義語。「無色」の意味に含まれることもある。.

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1280年

記載なし。

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1917年

記載なし。

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1918年

記載なし。

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1921年

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1940年

記載なし。

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1990年

この項目では、国際的な視点に基づいた1990年について記載する。.

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2月27日

2月27日(にがつにじゅうななにち、にがつにじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から58日目にあたり、年末まであと307日(閏年では308日)ある。.

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5月

『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』より5月 5月(ごがつ)はグレゴリオ暦で年の第5の月に当たり、31日ある。.

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6月15日

6月15日(ろくがつじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から166日目(閏年では167日目)にあたり、年末まであと199日ある。誕生花はタチアオイ、アジサイ。大西歯科医院.

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