ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

ヨハネス19世 (ローマ教皇)

索引 ヨハネス19世 (ローマ教皇)

ヨハネス19世(Ioannes XIX、生年不詳 - 1032年10月9日)は、ローマ教皇(在位1024年 - 1032年)。もとの名はロマーノ・デイ・コンティ・ディ・トゥスコロ(Romano dei Conti di Tuscolo)。ラテン語名はロマヌス・コメス・トゥスクリ(Romanus Comes Tusculi)。 ローマの有力者トゥスコロ家に生まれ、兄のベネディクトゥス8世(在位1012年 - 24年)のあとを継いで教皇に選出された。選出された時には、聖職者経験のない俗人で、執政官および元老院議員の肩書きしか有していなかったため、教皇に就任するにあたり、司教に任命された。 ヨハネス19世は、それまでの教会の方針に反して、多額の賄賂と引き換えにコンスタンディヌーポリ総主教庁に司教の肩書きを与えることを約束したものの、聖職者たちからの大きな反対を受け、即座に約束の撤回に追い込まれた。 1024年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世(在位1002年 - 1024年)の死に際し、ヨハネス19世はコンラート2世(在位1024年 - 1039年)の即位を支持し、コンラート2世は1027年の復活祭(3月26日)にサン・ピエトロ大聖堂にて戴冠を受けた。 同年の4月6日、ラテラノ教会会議を開き、アクイレイア総大司教に対して総大司教の地位を認め、対立していたグラード総大司教を支配下に置くことを宣言した。しかし、1029年にはこの宣言を撤回し、グラードに再びその地位を認めた。他に、バーリの大司教ビザンティウスに公開勅書を与え、その12座の属司教の聖別権を付与した。 ヨハネス19世の死後、その甥に当たるベネディクトゥス9世がその地位を継承した。この時ベネディクトゥスはまだ若年であったといわれ、史料によっては12歳であったと伝えるが、通説ではおそらく18~20歳程度であったとされている。 なお、ヨハネス20世は存在せず、次にヨハネスを名乗ったのは1276年に位に就いたヨハネス21世である。また、ヨハネス16世は対立教皇であったため、正確にはローマ教皇としてのヨハネスは18人目であったが、同時代にはこのような認識はなく、16人目の教皇ヨハネスは自らをヨハネス17世と名乗ったため、18人目の教皇ヨハネスも19世となった。更に一部の歴史家は、ヨハネス14世とヨハネス15世の間に、もう一人別の教皇ヨハネスがいたという伝説に基づき、ヨハネス19世を、ヨハネス20世、あるいはヨハネス19世(20世)と呼んでいる。このようなことから、教皇ヨハネスの代数は非常に複雑なものとなっている。.

24 関係: 執政官司教対立教皇復活祭ハインリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)バーリヨハネス16世 (対立教皇)ヨハネス20世 (ローマ教皇)ヨハネス21世 (ローマ教皇)ローマベネディクトゥス8世 (ローマ教皇)ベネディクトゥス9世 (ローマ教皇)コンラート2世 (神聖ローマ皇帝)コンスタンディヌーポリ総主教庁サン・ピエトロ大聖堂元老院 (ローマ)教会会議教皇1024年1027年1029年1032年10月9日4月19日

執政官

執政官(しっせいかん、consul、コンスル)は、古代ローマでの政務官のひとつ。都市ローマの長であり、共和政ローマの形式上の元首に当たる。訳語として執政官のほかに統領を用いることもある。.

新しい!!: ヨハネス19世 (ローマ教皇)と執政官 · 続きを見る »

司教

司教(しきょう、Episcopus, bishop)は、カトリック教会の位階の一つで、ある司教区(教区)を監督する聖務職のこと。 正教会や聖公会などではこれに相当するのは「主教」と呼び、福音主義(ルター派)教会やメソジストでは「監督」と呼ぶ。 なお、カトリック教会でも中国語・韓国語では訳語に「主教」を採用している(例:天主教台湾地区主教団)。.

新しい!!: ヨハネス19世 (ローマ教皇)と司教 · 続きを見る »

対立教皇

対立教皇(たいりつきょうこう、Antipapa、Antipope)は、キリスト教の歴史において、正当な教皇に対抗してたてられた教皇のこと、あるいはローマ教皇であることを宣言しながらも、同時代人あるいは後世の人からその地位が正統なものであると認められなかった人々のこと。 通常、対立教皇というのは教皇選挙者たち(中世以降は枢機卿団)によって、ある人物が教皇に選ばれたあとでそれに反対する人々によって立てられることが多い。一般的に対立教皇ということばは古代から中世にかけての歴史用語であるが、近代以降であっても教皇空位主義者(後述)などで教皇を自称する人々を広義での対立教皇と呼ぶこともある。.

新しい!!: ヨハネス19世 (ローマ教皇)と対立教皇 · 続きを見る »

復活祭

復活祭(ふっかつさい、Πάσχα、Pascha、Pâques、Easter、Ostern、Пасха)は、十字架にかけられて死んだイエス・キリストが三日目に復活したことを記念・記憶する、キリスト教において最も重要な祭正教会の出典:()カトリック教会の出典:(カトリック中央協議会)聖公会の出典:(日本聖公会 東京教区 主教 植田仁太郎)プロテスタントの出典:『キリスト教大事典』910頁、教文館、昭和48年9月30日 改訂新版第二版(正教会:教会用語辞典)(カトリック百科事典)。 多くの教会で特別な礼拝(典礼・奉神礼)が行われるほか、様々な習慣・習俗・行事がある。 正教会ではギリシャ語から「パスハ」とも呼ぶ「パスハ」表記の大本はギリシア語である。Πάσχαは、古典ギリシア語再建からは「パスカ」と転写し得るが、現代ギリシア語では「パスハ」。新約時代以降のギリシア語の発音はアクセントやイ音化、各種子音の発音等、かなり現代ギリシア語に近くなっていた。正教が優勢な地域におけるスラヴ系言語、ルーマニア語等における、ギリシア語に由来する教会関連の語彙の発音は、中世以降のギリシア語発音に則っている。。カトリック教会では「復活の主日」(カトリック中央協議会)とも呼ばれ、聖公会、プロテスタントなどでは「復活日」(ふっかつび)「祭」の表記が教会暦において頻繁に使われる教会(正教、カトリックなど)では「復活祭」の表記が使われ、「祭」と位置づけられ呼ばれるが、「祭」の表記が比較的もしくはあまり使われない教会(聖公会、プロテスタントなど)では「復活日」という表記が一般的であり、「祝日」といった説明がなされる。プロテスタントの参照元である『キリスト教大事典』でも項目名は「復活日」となっていて、その説明冒頭において「祝日」としており「祭」とは書かれて居ない。や、英語から「イースター」とも呼ぶ。「復活節」(ふっかつせつ)は、西方教会において復活祭からの一定期間を指す用法の他、プロテスタントの一部で復活祭(復活日)当日を指す用法がある。 基本的に「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」に祝われるため、年によって日付が変わる移動祝日である。日付は変わるものの、必ず日曜日に祝われる。キリスト教が優勢な国においてはその翌日の月曜日も休日にされていることがある。欧州における主要株式・債券市場は、復活祭の前の聖金曜日、復活祭後の月曜日に休場する。 東方教会と西方教会とでは日付の算定方法が異なるため、日付が重なる年もあるものの、日付が異なる年の方が多い春分の日の扱いが異なること、正教会では復活祭をユダヤ教の過越とともに祝わないという古い規定をそのまま守っていること、これら二つの違いが東西教会間にある。。.

新しい!!: ヨハネス19世 (ローマ教皇)と復活祭 · 続きを見る »

ハインリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)

ハインリヒ2世(Heinrich II., 973年5月6日 - 1024年7月13日)は中世ドイツの王(在位:1002年 - 1024年)及びイタリア王(在位:1004年 - 1024年)、並びに西ヨーロッパのローマ皇帝(在位:1014年 - 1024年)。ザクセン朝第5代の王、第4代の皇帝。皇帝としてはハインリヒ「1世」だが曾祖父であるザクセン朝の初代国王ハインリヒ1世捕鳥王から数えて「2世」とするのが一般的である。父は初代皇帝オットー1世大帝の甥であるバイエルン公ハインリヒ2世、母はブルグント王コンラートの娘ギーゼラ成瀬、p.

新しい!!: ヨハネス19世 (ローマ教皇)とハインリヒ2世 (神聖ローマ皇帝) · 続きを見る »

バーリ

バーリ(Bari)は、イタリア共和国南部の都市で、その周辺地域を含む人口約32万人の基礎自治体(コムーネ)。プッリャ州の州都であり、バーリ県の県都である。 アドリア海に面した港湾都市であり、東地中海の国々と広範囲な貿易をおこなう商業の一大中心地である。サンタクロースのもととなった聖人ニコラオス(聖ニコラ)ゆかりの地として巡礼地ともなっている。.

新しい!!: ヨハネス19世 (ローマ教皇)とバーリ · 続きを見る »

ヨハネス16世 (対立教皇)

ヨハネス16世(Ioannes XVI (antipapa)、? - 1001年頃ないし1013年)は、対立教皇(在位:997年 - 998年)。本名ヨハネス・フィラガトスJohannes Philagathos。年代記作家はピラガートPiligato、フィラガットFilagattoとも記述する。 ヨハネス・フィラガトスは東ローマ帝国領土であった南イタリアカラブリア地方ロッサーノ(Rossano)の出身でギリシア系の出自であった。修道士であった彼は、神聖ローマ帝国皇帝オットー2世妃テオファヌ(東ローマ皇帝ヨハネス1世ツィミスケスの姪とされる)の側近となり、980年から982年まで神聖ローマ帝国のイタリアでの文書局長を勤め、またオットー2世の幼子(のちのオットー3世)の名付け親にして養育係であった。 983年12月7日にオットー2世が死去してのちもテオファヌの側近として助言を行う。988年にはピアチェンツァ司教となり、ピアチェンツァを司教座教会から大司教座教会に昇格させた。991年から992年まではノナントゥラNonantula修道院長となる。995年末には東ローマ帝国皇女をオットー3世妃に迎えるための調整役としてコンスタンティノポリスへ派遣される。 貴族クレッシェンティウス2世によるローマでの反乱を鎮圧したオットー3世は、血縁のブルーノをグレゴリウス5世として教皇座に就け、そして996年5月21日に戴冠を行わせた。オットー3世がローマを去ると、クレッシェンティウス2世らローマ貴族は東ローマ皇帝バシレイオス2世の援助を受けて蜂起、ドイツ人初の教皇であったグレゴリウス5世を996年9月にローマから追放した。そして翌997年5月、コンスタンティノポリスから帰還して間もないヨハネス・フィラガトスをヨハネス16世として教皇座に就任させた。その際、ヨハネスと親交のあったロッサーノの聖ニルスは、この教皇座簒奪を思い留まるよう説得している。 ヨハネス16世の即位に対し、グレゴリウス5世は神聖ローマ皇帝領のパヴィアにて997年の聖霊降臨祭の日に教会会議を開催。グレゴリウス5世の地位の確認と、クレッシェンティウス2世とヨハネス16世の破門を宣言した。6月にはピアチェンツァをラヴェンナ大司教管区下の司教座教会に戻した。冬にオットー3世はイタリアに進軍、998年2月にローマに入城しクレッシェンティウス2世の反乱を鎮圧した。そのときヨハネス16世はローマから逃走したが追捕され、鼻と耳を削がれ、舌を引き抜かれ、手の指を折られ、眼を潰され、ローマへと連行された。そしてラテラノで開催された教会会議にてオットー3世とグレゴリウス5世の面前で退位させられた。聖ニルスの取り成しによって一命は取り留めたものの、ローマ市内の修道院に収監されることとなった。反乱の首領クレッシェンティウス世はサンタンジェロ城に篭城したが、998年の復活祭に陥落、4月29日に斬首され、遺体は城壁に吊るされた。 ヨハネスはそののち一度司教の衣服を纏ってグレゴリウス5世の前に姿を現したが、そのときグレゴリウス5世によって服は引き裂かれ、ロバに乗せられてローマ民衆の見世物にされ、修道院に再び収監された。これらは聖ニルスについての信憑性の乏しい『聖者伝』(Vita)に記されており、それにはまた再収監後1001年頃に死亡したとある。また退位後修道院に収監されてのちにドイツのフルダ修道院に移送されたとも伝えられており、『フルダ年代記』(Annales Fuldenses)には1013年4月2日の日付でヨハネスの死が記載されている。 ヨハネス16世は自らを「16世」と名乗った。16世は正当な教皇ではなかったものの、次の「教皇ヨハネス」(在位:1003年)は17世を襲名している。しかし後世の歴史家は、おそらく22世の番号の理由付けのため、16世を「ヨハネス17世」ないし「ヨハネス16世(17世)」と呼んだ。というのも伝説では14世と15世の間にもう1人の「教皇ヨハネス」が存在したとされているからで、その伝説の教皇を歴史家がしばしば「16世」と呼んだからである。この混乱は対立教皇ボニファティウス7世の存在に起因すると考えられる。なお、教皇ヨハネス23世(在位:1958年-1963年)は実際には21番目の「教皇ヨハネス」である。 よはねす16 よはねす16.

新しい!!: ヨハネス19世 (ローマ教皇)とヨハネス16世 (対立教皇) · 続きを見る »

ヨハネス20世 (ローマ教皇)

ヨハネス20世(Ioannes XX)は実在しないローマ教皇である。 11世紀の歴史家は、ヨハネスという教皇が対立教皇ボニファティウス7世と正統な教皇ヨハネス15世の間に存在したと信じていた。そのためヨハネス15世からヨハネス19世にかけての教皇は、誤ってヨハネス16世からヨハネス20世として数えられた。後に、これらの教皇は正しくヨハネス15世からヨハネス19世と数え直された。 しかし、ヨハネス21世からヨハネス23世は、こうした混乱が正される以前にヨハネス21世の前に20人の教皇がいるという誤った前提の元に勘定された。したがって、ヨハネス20世という教皇は存在せず、歴代の教皇表では飛ばされている。今日では、個々の教皇の呼称はすっかり定着しているため、新たな数え直しはほぼ不可能なように思われる。 何人かは、ヨハネスという教皇にまつわる数え方の混乱を、女教皇ヨハンナが実在した「証拠」として使っている。 ジェームズ・ブランチ・キャベルのユーモアファンタジー小説『ユルゲン』では、主人公はこの欠落を知っており、これを利用する。主人公は誰ともかちあうことのないヨハネス20世のふりをして、天国へ入り込む。.

新しい!!: ヨハネス19世 (ローマ教皇)とヨハネス20世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

ヨハネス21世 (ローマ教皇)

ヨハネス21世(Ioannes XXI、1215年 - 1277年5月20日)は、ローマ教皇(在位:1276年 - 1277年)。本名をペドロ・ジュリアォン(Pedro Julião)、ラテン語ではペトルス・ヒスパヌス(Petrus Hispanus)といい、現在に至るまで唯一のポルトガル出身の教皇である(ダマスス1世はポルトガル出身とされているがはっきりしない)。在位僅か8ヶ月で死去した。  リスボンで生まれたとされ、リスボン大聖堂内の神学校で教育を受けた。後にパリ大学に入った(一部の歴史家は彼がモンペリエ大学で学んだと主張する)。 1245年から1250年にかけ、ペドロ・ヒスパノ(ヒスパニアで知られるイベリア半島出身の為こう呼ばれた)で知られ、シエナ大学で薬学を教えた。彼はこの地でSummulae Logicalesを書き、この本は300年以上ヨーロッパ諸国の大学で用いられた。こうして有名な大学講師としてリスボンへ戻り、ギマランイスの宮廷でアフォンソ3世の教会関係の助言者・スポークスマンとなり、ギマランイスの修道院長となった。彼はリスボン司教になろうとしたが、競い負けている。その後リスボンの学校講師となり、グレゴリウス10世の主治医となった。 1276年8月18日のハドリアヌス5世の死後、ペドロは9月13日にコンクラーヴェで教皇に選出された。彼の短い治世は、強力な枢機卿ジョヴァンニ・ガエターノ(ヨハネス21世の後継の教皇、ニコラウス3世となる)が代わりに政治を取り仕切っていた。ジョヴァンニは聖地への十字軍結成の為、正教会とカトリックの合同とキリスト教国の平和を保とうと努力した。しかし、タタール人を改宗させようと働きかけたが、成果はなかった。 ヨハネス21世はヴィテルボにある別荘に新たな翼を付けさせた。それは手抜き工事でつくられた為、ある時に彼が就寝していると屋根が崩れ落ち、重傷を負った。そして、事故から8日後の1277年5月20日に死んだ。恐らく、偶発的な事故で死んだ教皇は彼1人である。遺体はヴィテルボのドゥオーモに埋葬された。現在も彼の墓がそこで見られる。死後、『ヨハネス21世は魔法使いであったのだ』と噂が広まった。 ダンテ・アリギエーリは『神曲』の中で、偉大なる宗教学者の魂と共に太陽の天空でヨハネス21世と面会した話を書いた。.

新しい!!: ヨハネス19世 (ローマ教皇)とヨハネス21世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

ローマ

ーマ(Roma、Roma)は、イタリアの首都。欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都、ローマ県のコムーネの一つで、ローマ県の県都でもある。英語とフランス語の表記は「Rome」。.

新しい!!: ヨハネス19世 (ローマ教皇)とローマ · 続きを見る »

ベネディクトゥス8世 (ローマ教皇)

ベネディクトゥス8世(Benedictus VIII, ? - 1024年4月9日)はローマ教皇(在位:1012年5月18日 - 1024年4月9日)。 貴族トゥスクルム伯グレゴリウスとマリアの子テオフィラクトゥス(Theophylactus)としてローマに生まれる。弟はのちの教皇ヨハネス19世。 ベネディクトゥス8世は対立教皇グレゴリウス6世(1012年)と対立、ベネディクトゥスがローマから逃亡せざるを得なくなった。ベネディクトゥスはハインリヒ2世の助力によりローマに帰還。1014年2月14日にはベネディクトゥスの手からハインリヒへと神聖ローマ皇帝冠を戴冠し、それ以降も教皇任期中良好な関係を保った。 ベネディクトゥス8世任期中にはまた、サラセン人が再び南ヨーロッパ沿岸へ侵入するようになり、またサルデーニャにも定住するようになった。ノルマン人もまたイタリア半島に定住するようになった。教皇ベネディクトゥスはノルマン人と同盟を結び、サラセン人を駆逐し、ローマ市の有力者であるクレッシェンティウス家を従属させて平和を築こうと発起した。パヴィーアにて皇帝とともに教会会議を開催し、シモニアの制限と聖職者の欲望に対する自制を宣言した。クリュニー修道院に端を発する教会改革勢力はベネディクトゥスを援助し、そのことからベネディクトゥスはクリュニー修道院長の聖オディロと親交を深めることとなる。 1020年、ベネディクトゥス8世はハインリヒ2世と、南イタリアにおける東ローマ帝国の脅威について協議するためにドイツへと旅立った。バンベルク(バイエルン地方の都市)に復活節の頃に到着したベネディクトゥスは、そこで新しい聖堂を聖別し、またカール大帝とオットー大帝による寄進の確認するためハインリヒ2世により発布された特許状を獲得した。そしてフルダの修道院を訪問した。それから、南イタリアへ侵攻して東ローマ帝国の権威にかつて平伏した皇帝の家臣らを従属させるようにと皇帝に説得してもいる。 1024年4月9日にローマにて死去。教皇位は弟であるヨハネス19世が引き継いだ。 Category:教皇 Category:10世紀生 Category:1024年没 Category:ローマ出身の人物 Category:トゥスクルム家.

新しい!!: ヨハネス19世 (ローマ教皇)とベネディクトゥス8世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

ベネディクトゥス9世 (ローマ教皇)

ベネディクトゥス9世(Benedictus IX、1012年頃 - 1055年ないし1065年ないし1085年)はローマ教皇(在位:1032年10月 - 1044年9月、1045年4月 - 5月、1047年11月 - 1048年7月)。退位と復位を繰り返し前後3期にわたって在位した個性の強い教皇である。 貴族トゥスクルム伯アルベリクス3世の子息としてローマに生まれる。名はテオフィラクトゥス(Theophylactus)。ベネディクトゥス8世とヨハネス19世の甥にあたる。1032年に父アルベリクス3世の支援により教皇として戴冠する。このときベネディクトゥスは18~20歳という若さであり、資料によっては11~12歳だったともいう。 伝承によると、ベネディクトゥスは放蕩に明け暮れるでたらめな生活を送ったという。ペトルス・ダミアニはその著作『ゴモラの書』においてベネディクトゥス9世を「聖職者に扮した地獄からの悪魔」に喩え、教皇庁の腐敗やベネディクトゥスの同性愛行為を批判した。またピアチェンツァ司教ベンノーもベネディクトゥスの犯した「嫌悪すべき姦淫と殺人」を糾弾した。後年、教皇ウィクトル3世は「ベネディクトゥスの強姦、殺人、そして口に出せないような所業」について調査を行わせており、その結論として「彼の教皇としての生涯は嫌悪すべきもので、腐りきったもので、忌まわしいものでしかない。私は身震いを禁じえない」と述べている。 ベネディクトゥス9世は1036年にローマを追放されたものの、この時は神聖ローマ皇帝コンラート2世の助力により短期間でローマに帰還した。1044年9月に再びローマを追放されると、替わってシルウェステル3世が教皇に選出されていたが、ベネディクトゥスは翌1045年4月にはローマに入城し、シルウェステル3世を廃位・破門の上追放して自ら教皇に復位した。これが2度目の在位である。しかし直後の5月には、おそらく結婚をするために、教皇位を代父にあたる司祭ヨハンネス・グラティアヌスに売却してしまった。その売却益は金650キログラム以上に相当するものだったという。グラティアヌスは教皇グレゴリウス6世として戴冠するが、するとベネディクトゥスは教皇位を売却したことを悔やむようになり、すぐにグレゴリウス6世を退位させようとした。さらにこの機に乗じてシルウェステル3世もまた自らの教皇としての正当性を掲げて表に出てきたため、事態は混乱の極みに至った。 曲がりなりにもそれぞれに主張するだけの正当性がある3人の教皇が事実上鼎立するという異常事態を受けて、神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世がその調停に乗り出すこととなり、1046年12月にストリで教会会議を主催した。会議ではハインリヒ3世がベネディクトゥス9世とシルウェステル3世の聖職を剥奪、グレゴリウス6世には退位を勧告した上で、新たにドイツ人司教スイドガーを教皇クレメンス2世として即位させ、心機一転の出直しを図った。皇帝に従ってグレゴリウス6世は退位し、聖職を剥奪されたシルウェステル3世はのちに赦されて故郷の司教として余生を送ったが、一人ベネディクトゥス9世は転んでもただでは起きなかった。クレメンス2世の戴冠を真っ向から否定し、クレメンス2世が翌1047年10月に死去すると、11月にはラテラン宮殿を占拠、自身の教皇復位を再び宣言した。これ以後、ハインリヒ3世によって翌1048年7月に廃位されるまでの8か月間が3度目の在位である。ハインリヒはベネディクトゥスを追放すると、新たにダマスス2世を教皇として戴冠させた。ベネディクトゥスは翌1049年にシモニアの罪で出廷するよう召喚されるが、これを拒否したことから結局破門されることとなった。 ベネディクトゥスはこの後にようやく教皇位への未練から解き放たれ、グロッタフェッラータの修道院で静かな余生を送って1065年頃に死去したといい、また史料によっては1085年に死去したともある。また他の研究によると、ベネディクトゥスはその後も今一度の復位を試みたものの果たせず、1055年12月か1056年の1月に死去したという。 Category:教皇 Category:カトリック教会に破門された人物 Category:1012年生 Category:11世紀没 Category:ローマ出身の人物 Category:トゥスクルム家.

新しい!!: ヨハネス19世 (ローマ教皇)とベネディクトゥス9世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

コンラート2世 (神聖ローマ皇帝)

ンラート2世(Konrad II., 990年7月12日? - 1039年6月4日)は中世ドイツの王(在位:1024年 - 1039年)、イタリア王(在位:1026年 - 1039年)及びブルグント王(在位:1033年 - 1039年)、並びに西ヨーロッパのローマ皇帝(在位:1027年 - 1039年)。ザーリアー朝初代のローマ皇帝で、ザクセン朝初代皇帝オットー1世大帝の女系の玄孫。ローマ皇帝としては唯一の「コンラート」であるが、東フランク王コンラート1世との区別のため「2世」とするのが一般的である。.

新しい!!: ヨハネス19世 (ローマ教皇)とコンラート2世 (神聖ローマ皇帝) · 続きを見る »

コンスタンディヌーポリ総主教庁

ンスタンディヌーポリ全地総主教庁(コンスタンディヌーポリぜんちそうしゅきょうちょう、,, )は、正教会で筆頭の格を有する総主教庁・教会である。管掌・統括するのはコンスタンディヌーポリ総主教。 単に「コンスタンディヌーポリ総主教庁」もしくは「全地総主教庁」とも表記される。日本ハリストス正教会の奉神礼ではコンスタンティノポリ総主教と呼称される。一般にはコンスタンティノープル総主教とも。 初代総主教は十二使徒の一人である聖アンドレアスとされている。現在の総主教はヴァルソロメオス1世(1991年 - )である。 総主教庁の所在地コンスタンディヌーポリ(コンスタンティノープル)は、現在のトルコ共和国最大の都市イスタンブールにあたる。総主教座はイスタンブール旧市街の金角湾に面したファナリ地区に建つ聖ゲオルギオス大聖堂に置かれている。コンスタンティノポリスには、時代・地域によって様々な都市名の転写があるため様々な表記が存在するが、いずれも誤りではない。これについては当記事内の「都市名の転写・カナ表記」の節で詳述する。 1カ国に1つの教会組織を具えることが原則である正教会には、他にギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会、日本ハリストス正教会などがあるが、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳ではなく、同じ信仰を有している。その教義や全正教会の性格については正教会の項を参照。.

新しい!!: ヨハネス19世 (ローマ教皇)とコンスタンディヌーポリ総主教庁 · 続きを見る »

サン・ピエトロ大聖堂

ン・ピエトロ大聖堂(サンピエトロだいせいどう、イタリア語:)は、バチカン市国南東端にあるカトリック教会の総本山。サン・ピエトロは「聖ペトロ」の意で、キリスト教の使徒ペトロ(ペテロ)のイタリア語読みに由来する。サン・ピエトロ大寺院、聖ペテロ大聖堂などと表記されることもある。 カトリック教会の伝承によれば、サン・ピエトロ大聖堂はもともと使徒ペトロの墓所を祀る聖堂とされ、キリスト教の教会建築としては世界最大級の大きさを誇る。床面積2万3,000m2。北に隣接してローマ教皇の住むバチカン宮殿、バチカン美術館などがあり、国全体が『バチカン市国』としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。.

新しい!!: ヨハネス19世 (ローマ教皇)とサン・ピエトロ大聖堂 · 続きを見る »

元老院 (ローマ)

チェーザレ・マッカリ画(1888年) 現存する帝政ローマ期の元老院議事堂であるフォルム・ロマヌムのクリア・ユリア 元老院(げんろういん、senātus、セナートゥス)は、古代ローマの統治機関。.

新しい!!: ヨハネス19世 (ローマ教皇)と元老院 (ローマ) · 続きを見る »

教会会議

教会会議(synodもしくはcouncil)とは、教会の会議。通常はキリスト教教会が、教義や管理上の問題を話し合うために催す会議を指す。公会議は教会全体の会議であるため(あるいはより正確には、会議の参加者たちを教会全体であるとみなす者が集めた会議であるため)にそう呼ばれる。 教会会議を示す英単語Synodは、ギリシャ語で集まりを意味するsynodosから来ており、ラテン語のconciliumと同義である。教会会議という言葉は元は司教:主教の会議を意味しており、現在でもカトリック教会と正教会ではその意味で用いられる。 時折、総会(general synodあるいはgeneral council)という言葉が公会議を指すために用いられることがある。またシノド(synod)という言葉は正教会で独立教会を統治している高い地位の主教達の会議を指すのに用いられることもある(聖シノド:Holy Synod)。.

新しい!!: ヨハネス19世 (ローマ教皇)と教会会議 · 続きを見る »

教皇

教皇(きょうこう、Pāpa、Πάπας Pápas、The Pope)は、キリスト教の最高位聖職者の称号。一般的にはカトリック教会のローマ司教にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇を指す。ヴァティカン市国の首長。教皇の地位は「教皇位」、あるいは「教皇座」と呼ばれる。また、教皇の権威のことを「聖座」、「使徒座」ということもある。現在の教皇はフランシスコ(第266代)。 日本語では「ローマ法王」と表記されることも多いが、日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会は「ローマ教皇」の表記を推奨している(後述)。またカトリックの内部では「教父」の呼称を用いる場合もある。なお、退位した教皇の称号は名誉教皇(名誉法王とも)という。 本項では主にローマ教皇について記述する。その他の教皇については称号の変遷とその他の「教皇」の節を参照。.

新しい!!: ヨハネス19世 (ローマ教皇)と教皇 · 続きを見る »

1024年

記載なし。

新しい!!: ヨハネス19世 (ローマ教皇)と1024年 · 続きを見る »

1027年

記載なし。

新しい!!: ヨハネス19世 (ローマ教皇)と1027年 · 続きを見る »

1029年

記載なし。

新しい!!: ヨハネス19世 (ローマ教皇)と1029年 · 続きを見る »

1032年

記載なし。

新しい!!: ヨハネス19世 (ローマ教皇)と1032年 · 続きを見る »

10月9日

10月9日(じゅうがつここのか)は、グレゴリオ暦で年始から282日目(閏年では283日目)にあたり、年末まであと83日ある。誕生花は ホトトギス。.

新しい!!: ヨハネス19世 (ローマ教皇)と10月9日 · 続きを見る »

4月19日

4月19日(しがつじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から109日目(閏年では110日目)にあたり、年末まではあと256日ある。誕生花はキショウブ、カリフォルニアポピー。.

新しい!!: ヨハネス19世 (ローマ教皇)と4月19日 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

ヨハネス19世

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »