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ユカタン州

索引 ユカタン州

ユカタン州(ユカタンしゅう、Estado de Yucatán)は、メキシコの州である。メキシコの東部、ユカタン半島の北部に位置する。州都はメリダ。面積38,402km2、2010年センサスで人口は1,953,027人で、42%がメリダ自治体に住んでいる。 古典期終末の9世紀から後古典期の前半の13世紀頃にかけてマヤ文明が繁栄し、世界遺産登録されたチチェン・イッツァ、ウシュマルなどプウク式の優美な遺跡が残されている。そのほか洞窟遺跡のバランカンチェーなども知られている。後古典期後期には、マヤパンが15世紀頃まで交易によって繁栄した。.

16 関係: 古典期世界遺産後古典期マヤパンマヤ文明チチェン・イッツァメリダ (ユカタン州)メキシコユカタン半島プウク式制度的革命党ウシュマル国民行動党13世紀15世紀9世紀

古典期

古典期(こてんき;Classic Period (Stage,era))は、メソアメリカ考古学上の時代区分のひとつで、西暦300年頃から西暦900年までを指す。 始期は、グアテマラ・ティカル出土のライデン・プレートにある長期暦の日付(紀元320年)や29号石碑に刻まれた8.12.14.8.15.(紀元292年)頃を目安としている。一方、終期はトニナーの記念碑101号に刻まれた長期暦の10.4.0.0.0.(紀元909年)を目安としている。この時期までに古典期マヤの諸都市は放棄された。 ゴードン・ランドルフ・ウィリー(Gordon R.Willey)とフィリップ・フィリプス(Philip Phillips)によって1958年に著されたMethod and Theory in American Archaeologyで、新大陸全体の考古遺跡について編年の枠組みを構築しようと試みた五段階時期区分(石期(Lithic)、古期(Archaic)、形成期、古典期(Classic)、後古典期(Postclassic))の四番目の時期として位置づけられたのが初出である。その後、アンデス文明については、アメリカの人類学者たちやルイスG.ルンブレラスの提唱した編年が用いられるようになったため、現在では主としてメソアメリカのみで使われている編年用語である。 一般的には、テオティワカンの影響の強い前期と、マヤ諸都市国家が争った後期とに分ける。以前はテオティワカンの影響は5世紀から開始すると考えられていたので、わざわざ中期(Middle Classic)を置く考え方もあった。 古典期という名称は、古代ギリシア、ローマの古典古代のイメージでギリシャのようにマヤ諸都市が繁栄した時期というイメージの名称であるため、メソアメリカ全体の時代区分としては問題があると言われている。アンデスと統一するため、前期ホライズン(Early Horizon/メソアメリカ;オルメカ/アンデス;チャビン)、前期中間期(Early Intermediate Period/モンテ・アルバンⅡ期、原古典期、イサパなど/地方発展期.

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世界遺産

世界遺産(せかいいさん、World Heritage Site)は、1972年のユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)に基づいて世界遺産リスト(世界遺産一覧表)に登録された、文化財、景観、自然など、人類が共有すべき「顕著な普遍的価値」を持つ物件のことで、移動が不可能な不動産が対象となっている。なお、慣例的な用法として、その中の文化遺産を世界文化遺産、自然遺産を世界自然遺産と呼ぶことがある。 なお、世界遺産の制度では正式な文書は英語とフランス語で示され、日本語文献では英語が併記されることがしばしばある一方、フランス語が併記されることは普通ないため、以下では参照しやすさを考慮して、などに依拠して、主たる用語には英語を併記しておく。.

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後古典期

後古典期(こうこてんき、Post Classic period(Stage,era))は、メソアメリカの考古学の時代区分。 マヤ文明で日付けの刻まれた最後の石碑であるトニナーの記念碑101号に刻まれた長期暦の10.4.0.0.0.(紀元909年)を開始の基準として、900年に置く。この時期までに古典期マヤの中部地域の都市は、ほとんど放棄されていた。 後古典期の終わりは、諸説ある。主なものとしては、アステカ帝国滅亡(1521年)までと考える場合、マヤではペドロ・デ・アルバラードによってグアテマラ高地のが滅ぼされ、スペインのグアテマラ征服が完了したのが1524年なので、この年におく場合である。しかし、フランシスコ・デ・モンテーホのユカタン征服事業も同時進行で行われていたので、それが一応完了してメリダが建設された1542年におく場合も、しばしば終了の年代に挙げられる。インカ征服が1532年であったことに合わせ、おおむね1520 - 1530年代においている。.

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マヤパン

マヤパン (Mayapan) は、メキシコ、ユカタン州にあるマヤ文明、後古典期の遺跡である。 メリダの南東およそ40km、チチェン=イッツァの西方100kmに位置する。マヤパンは、1220年代後半から1440年代まで、ユカタン半島におけるマヤの政治的な首都であった。 1221年、マヤでは、チチェン=イッツァのトルテカ・マヤ系の支配者に対して反乱が起こった。短期間の内戦の後、多くの有力な都市や貴族たちは、ユカタンに中心となる統治機構をつくろうと集まった。彼らは、チチェン=イッツァの支配者を倒した将軍フナク=セエルの根拠地の近くに新首都を造ることを決定した。新首都は防壁を築いた内部に建設され、「マヤの旗」を意味する「マヤパン」と名づけられた。マヤパンの王には、富裕で、チチェン=イッツァに対する反乱の中心となった古い家系のココム家の家長が選ばれた。しかし、他の貴族たちや地方の有力者層は、自分の家族の一員をマヤパンの政府に参画させた。この連合体は、200年以上にわたって続くことになった。植民地時代のマヤの年代記には、マヤパンがチチェン=イッツァやウシュマルと同盟を結んだとの記述のあるものもあるが、考古学的な成果から考えるとその可能性は少ないと考えられる。 1441年、強力な貴族であるシウ家のアフ=シュパンは、マヤパンのココム家の王たちの政治的な策謀に激しい怒りを燃やし、反乱を企てた。結果的に、ココム家の一族は大部分が殺され、マヤパンは略奪され、放火されて、ついには放棄された。そのため、ユカタン地方は、都市国家の戦争状態に突入した。 今日残るマヤパンの遺跡は、印象的なマヤの遺跡というイメージからは程遠い遺跡である。反乱によってほとんど全ての建物の屋根が放火され破壊されたことにもよるが、もっと大きな理由は、チチェン=イッツァやウシュマルに見られるような規模の記念碑的な建造物が建てられなかったことにもよる。遺跡の中央にあるピラミッドは、チチェン=イッツァの「カスティーヨ」の小型版であり、いくつかの慎ましやかな規模の神殿や宮殿がみられる程度である。マヤパンには、公共的な建造物はほとんど見られない。4km2四方の城壁に囲まれた都市の内部には約3500箇所の住居跡がひしめいており、人口はおよそ11000人から15000人に及んだと考えられる。 1950年代にカーネギー研究所によって5年間の考古学的な調査がなされた。その後、Grinnel大学の指揮でさらなる調査が行われている。.

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マヤ文明

マヤ文明(マヤぶんめい)とは、メキシコ南東部、グアテマラ、ベリーズなどいわゆるマヤ地域を中心として栄えた文明である。メソアメリカ文明に数えられる。また、高度に発達したマヤ文字をもつ文明でもあった。.

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チチェン・イッツァ

チチェン・イッツァ()は1988年に世界遺産に登録されたメキシコのマヤ文明の遺跡。チチェン・イッツア、チチェン・イツァーとも表記する。.

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メリダ (ユカタン州)

大聖堂 通りの様子 メリダ (Mérida) は、メキシコにある都市で、ユカタン州の州都である。人口は830,732人(2010年)。近年、メリダの人口は周辺の村からの人口流入により上昇を続けており、市の一番外側を走る外周道路(anillo perferico)を越えて宅地造成がなされている。.

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メキシコ

メキシコ合衆国(メキシコがっしゅうこく、)、通称メキシコは、北アメリカ南部に位置する連邦共和制国家。北にアメリカ合衆国と南東にグアテマラ、ベリーズと国境を接し、西は太平洋、東はメキシコ湾とカリブ海に面する。首都はメキシコシティ。メキシコの総人口は約1億3千万人(2016年時点)で、スペイン語圏においては最も人口の多い国で、GDPは中南米2位である。しかし、人口の40%が貧困層である。.

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ユカタン半島

ユカタン半島の衛星写真 トゥルム遺跡 ユカタン半島(ユカタンはんとう、Península de Yucatán)は、メキシコ、グアテマラ、ベリーズにまたがり、メキシコ湾とカリブ海との間に突き出ている半島。.

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プウク式

ラブナ遺跡のアーチ。フレデリック・キャザウッド画 チチェン・イッツア遺跡の「尼僧院」の一部。フレデリック・キャザウッドの石版画 カバー遺跡コズ・ポープ神殿壁面に見られるチャックの面。フレデリック・キャザウッド画 プウク式(Puuc Style)は、ユカタン半島北部で、古典期後期から後古典期にかけて盛行したマヤ文明の建築様式の一種。 「プウク」とは、メキシコ、ユカタン州からカンペチェ州北部に南東方向に連なる「丘陵」について、マヤ語のひとつ、ユカテコ語でそのように呼んだことに由来している。 プウク式の特徴は、丹念に仕上げられた切石にあって、装飾の施された建物の基部について、長方形で平坦に几帳面に仕上げられた石を通路部分を除いて隙間なく積み上げる一方で、建物の屋根部分には、複雑に入り組んだモザイク状の装飾が施されるか、しばしば、丹念に何かの形を彫刻した幾何学的な要素を繰り返すかといった形をとる。 多くのプウク式の建造物には、長い「鼻」を垂れ下げた雨神チャクの顔が見られる。 最も有名なプウク式の建造物は、ウシュマル遺跡の「尼僧院」や「総督の館」、そして一面のチャックの顔で知られるカバー遺跡のコズ・ポープ神殿などである。ウシュマルの建造物は、フランク・ロイド・ライトの建築にも影響を与え、博物館明治村に残された旧帝国ホテルのデザインに見事に応用されている。そのほか、ラブナー遺跡の「アーチ」、サイール遺跡の「宮殿」などが挙げられる。はるか南東方向にあるエズナ遺跡には、美しい「五層の神殿」が見られ、チチェン・イッツア遺跡にもいくつかのプウク式の建物が見られる。 なお、プウク様式とトルテカ・マヤ様式の建造物は、前者が古く後者が新しいとの時間的な格差があるとされていたが、建築や土器の出土状態にほとんど新旧関係がみられず、むしろ同時並存であったことが判明している。.

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制度的革命党

メキシコシティの本部 制度的革命党(せいどてきかくめいとう、Partido Revolucionario Institucional、略称:PRI)は、メキシコの政党。メキシコにおける最大政党として2000年の大統領選で政権を失うまで1929年の結党から71年に渡って与党の座についていた。2000年大統領選挙後、党勢が低迷していた時期もあったが、2012年の大統領選挙で与党に返り咲きを果たした。.

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ウシュマル

ウシュマル (Uxmal) は、メキシコ、ユカタン州にある古典期後期から後古典期のマヤ文明の遺跡。.

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国民行動党

国民行動党(こくみんこうどうとう、Partido Accion Nacional、略称:PAN)は、メキシコの政党。.

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13世紀

チンギス・ハーン像。 モンゴル帝国の発展。 モンゴル帝国の最大領域。 13世紀(じゅうさんせいき)は、西暦1201年から西暦1300年までの100年間を指す世紀。.

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15世紀

大航海時代。大西洋を渡り新世界を発見したコロンブス。 マチュ・ピチュ遺跡。アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿いの尾根にある遺跡で標高2430mの高さにある。用途は未だ明らかでない所もあるが、15世紀に建造されたインカ帝国の技術の高さを反映している。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 香辛料の魅惑。15世紀には東方との交易路はオスマン帝国に遮断される事になり、香辛料の供給不足が大きな問題となった。画像は1410年代に描かれた『世界の記述(東方見聞録)』の挿絵で、インドでの胡椒採収が取り上げられている。 エンリケ航海王子。ポルトガルは東方への航路の開発を推進したが、その中心となったのは「航海王子」の名を持つエンリケ王子である。サグレスに設置した「王子の村」が航海士の育成に貢献したことはよく知られている。画像は「サン・ヴィセンテの祭壇画」で聖人のすぐ右隣に位置する黒帽で黒髭の人物が王子ととされているが異論もある。 キルワの大モスク跡。 サマルカンド近郊のウルグ・ベク天文台。ティムール朝の君主ウルグ・ベクは天文学に造詣が深く「ズィージ・スルターニー」のような精緻な天文表も作成させた。 Musée des Augustins蔵)。 ロシア正教会の自立。東ローマ帝国の衰退に伴い「タタールの軛」を脱したロシアでは独自の組織が形成され文化的にも新たな展開が見られた。画像はこの時代を代表するモスクワ派のイコン(聖画像)でアンドレイ・ルブリョフの「至聖三者」(モスクワのトレチャコフ美術館蔵)。 グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)。ポーランド・リトアニア連合軍がドイツ騎士団を破り、東方植民の動きはここで抑えられた。画像はこの戦いを描いたポーランド人画家ヤン・マテイコの歴史画(ワルシャワ国立美術館蔵)。 天文時計で1410年頃作成されてから、後世の補修はあるものの今日まで動いているものである。 プラハ大学学長ヤン・フスの火刑。コンスタンツ公会議の決定によりカトリック教会と相容れぬ異端の徒として処刑されたが、これがチェック人の憤激を呼び起こすことになった。 オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルク。劣勢のフランス軍を鼓舞し百年戦争の終結に大きな役割を果たしたが魔女裁判で火刑に処せられた。 グーテンベルク聖書(42行聖書)』の「創世記」。 『中世の秋』。歴史家ホイジンガはこの題名でこの時代のブルゴーニュ公国の歴史を描いた。画像はヤン・ファン・エイクの「宰相ロランの聖母」。ロランはこの国の宰相で、背後にはブルゴーニュのオータンの風景が広がる。 ブルネレスキの巨大なドーム建築で知られる「花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)」。 ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」。メディチ家などの文化支援活動に支えられてルネサンス文化が花開いた。画像の中心の女神は美と愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)で、その周囲を多くの神々が取り囲んでいる(ウフィッツィ美術館蔵)。 サイイド朝からローディー朝へ。北インドではデリーを中心にイスラム系王朝が続いた。画像はデリーのローディー・ガーデン内にあるサイイド朝の君主ムハンマド・シャーの霊廟。この公園の敷地にはローディー朝君主たちの霊廟もある。 タイを支配したアユタヤ朝は上座部仏教を保護し東南アジアでも有数の国家となっていた。画像はアユタヤに残るワット・プラ・シーサンペットで、1448年にボーロマトライローカナート王により建立された寺院である。 万里の長城。モンゴル人を漠北に追い払ってからもその侵入に備え明代には長城が幾度となく修復・増築を繰り返されていた。画像は1404年に「慕田峪長城」と名付けられた長城で北京市の北東に位置するもの。 鄭和の南海大遠征。永楽帝時代には明の国威を示す大艦隊が各地に派遣された。画像は1417年にベンガルから運ばれたキリンを描いた「瑞應麒麟図」。 「仁宣の治」。明は仁宗洪熙帝と続く宣宗宣徳帝の時代に安定期を迎えた。画像は明の宣宗宣徳帝の入城を描いたもの(台北故宮博物院蔵)。 如拙「瓢鮎図」。禅宗の流入は「五山文学」や「舶来唐物」などを通じて室町時代の文化に大きな影響を与えた。この「瓢鮎図」も将軍足利義持の命で描かれた水墨画で数多くの禅僧の画讃がつけられている。京都妙心寺塔頭退蔵院の所蔵。 文化を極めた。 応仁の乱。将軍後継をめぐる守護大名の争いで京都の町は焦土と化した。以後足利将軍の権威は衰え下剋上の時代へと進むことになる。画像は応仁の乱を描いた「紙本著色真如堂縁起」(真正極楽寺蔵)。 15世紀(じゅうごせいき)とは、西暦1401年から西暦1500年までの100年間を指す世紀。.

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9世紀

船葬用の船体(オスロのヴァイキング船博物館蔵)。 イングランドを襲撃するデーン人(ヴァイキング)。画像は12世紀に書かれた『聖エドマンド殉教王伝』の挿絵。 マルウィヤ・ミナレット(サーマッラーのミナレット)。アッバース朝第8代カリフのムウタスィムが建築したサーマッラーの大モスク付属の螺旋式のミナレット。 ハールーン・アッラシード。アッバース朝最盛期のカリフで、『千夜一夜物語』では夜ごとにバグダードの街に繰り出す風流な君主として描かれている。 「知恵の館(バイト・アル・ヒクマ)」。アッバース朝カリフ・マアムーンの治世にバグダードには翻訳事業や学問研究のための「知恵の館」が設置された。画像はここに集まる学者たちを描いた13世紀の細密画(フランス国立図書館蔵)。 インド最後の仏教王朝のパーラ朝。ダルマパーラ王により9世紀末に北インドの大半が支配下に置かれた。画像は9世紀に造られたパーラ様式の文殊菩薩石像(ホノルル美術館)。 敦煌文書。敦煌には3万とも4万とも数えられる膨大な古文書が収蔵されている。画像は大英博物館所蔵の「金剛般若波羅蜜経」。これは現存する世界最古の木版印刷の巻子本(書籍)で唐の懿宗の治世の868年に作成されたもの。 禁止出境展览文物でもある「八重宝函」。 密教招来。空海らによって日本に密教がもたらされ平安時代の仏教に大きな影響を与えた。画像は密教で用いる胎蔵界曼荼羅で京都東寺所蔵のもの。 応天門の変。藤原氏による他氏排斥が進んで摂関政治が確立し、律令国家体制から王朝国家体制へと政体が変化した。画像は12世紀に応天門の変の経緯を描いた「伴大納言絵詞」(出光美術館蔵)。 ラパス県の4000メートル近くの標高にある遺跡で、最盛期である9世紀には人口は1万人を越えたと想定されている。画像は半地下式方形広場で人面の装飾がなされている。 Galerie des Batailles蔵)。 ラドガにて東スラブ人と出会うヴァリャーグのリューリク一行を描いたヴィクトル・ヴァスネツォフの歴史画。 ハギア・ソフィア教会アプス半ドームにある聖母子のモザイク画。 スラブ人への宣教。東ローマ帝国出身のキュリロス・メトディオス兄弟はグラゴール文字を作成しキリスト教の宣教に努めた。画像は18-19世紀にロシアで描かれたこの兄弟のイコン(聖画像)。 プリスカ遺跡。 9世紀(きゅうせいき)は、西暦801年から西暦900年までの100年間を指す世紀。.

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