ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

ヤトヴャグ族

索引 ヤトヴャグ族

ヤトヴャグ族(Ятвяг、複数形はЯтвяги:ヤトヴャギ。またJotvingiai)は中世のバルト系部族であるЯтвяги // Энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона (ブロックハウス・エフロン百科事典): в 86 т. (82 т. и 4 доп.). — СПб., 1890—1907.

23 関係: ネマン川ハールィチ・ヴォルィーニ大公国バルト語派ポーランド人ポーランド王国ヤロスラフ1世ラトビア人リトアニア大公国リトアニア人レートピシブロックハウス・エフロン百科事典プルーセンフロドナドレゴヴィチ族ドイツ騎士団ベラルーシ人インド・ヨーロッパ語族キエフ大公キエフ大公国スドヴィア語タンネンベルクの戦い (1410年)死語 (言語学)1千年紀

ネマン川

ネマン川流域地図 1923-1939年のメーメルラント ネマンデルタのヴェンテ岬に建つ灯台 ネマン川(ネーマン川とも、Неман ニェーマン)は、東ヨーロッパを流れバルト海に注ぐ川である。 各国語でネムナス川(Nemunas ネムナス)、ニョーマン川(Нёман ニョーマン)、ニェメン川(Niemen ニェーメン)、メーメル川(Memel メーメル)と呼ばれている。.

新しい!!: ヤトヴャグ族とネマン川 · 続きを見る »

ハールィチ・ヴォルィーニ大公国

ハールィチ・ヴォルィーニ大公国(ハールィチ・ヴォルィーニたいこうこく、Галицько-Волинське князівство)は、1199年から1349年の間に現在の西ウクライナを中心として存在したリューリク朝のルーシ系国家である。君主の称号の変更によってハールィチ・ヴォルィーニ公国、ハールィチ・ヴォルィーニ王国と呼ばれることもある。.

新しい!!: ヤトヴャグ族とハールィチ・ヴォルィーニ大公国 · 続きを見る »

バルト語派

バルト語派に位置づけられる言語の分布図。緑色がリトアニア語、黄色がラトビア語、紫色がプロシア語、橙色がクロニア語を表す。この分布図は単純化されたものであり、死語となった言語については詳しく描かれていない。 バルト語派(バルトごは、Baltic Languages)とは、インド・ヨーロッパ語族バルト・スラヴ語派の一派で、バルト海東南岸付近に分布する。リトアニア語とラトビア語がバルト語派に属する。死語となった古代プロイセン語(古代プロシア語)もこれに含まれる。 現在使われているインド・ヨーロッパ語の中で古い特徴を最もよく残していると言われる。 スラヴ語派と最も近い関係にある。両者の間に単純に共通基語があったという説を否定、スラヴ共通基語成立以前にバルト語内部に分化が生じ、スラヴ語と西バルト語が近かったとされる仮説がソヴィエト連邦崩壊前後の1991年ごろリトアニアやラトヴィアで盛んに唱えられたが、その後の研究によってこの説は否定されている。.

新しい!!: ヤトヴャグ族とバルト語派 · 続きを見る »

ポーランド人

ポーランド人 (ポーランド語:Polacy)は、ポーランドの主要民族。 中東欧に広がるスラヴ人の一派インド・ヨーロッパ語族のスラヴ語派西スラヴ語群に属するポーランド語を母語とする。 ポーランド族は、様々な部族と交わりピャスト朝(960年頃-1370年)を築いた。 ポーランド国家を築いた西スラヴ人の一派の諸部族で、中心部族であったポラン族(別名レフ族)に由来している。ポラン族はポランの複数形を用いて「ポラニエ」と呼ばれるが、これで原義では平原の民という意味で、原インド・ヨーロッパ語を基とする。ポランから英語の国名「ポーランド」(ポーランド語、Polska)の由来となった。.

新しい!!: ヤトヴャグ族とポーランド人 · 続きを見る »

ポーランド王国

ポーランド王国(ポーランドおうこく)は、1025年から1569年(リトアニアとの二重王国時代を含めると1795年)までポーランド一帯を支配していた王国。14世紀にリトアニア大公国と合同し、14世紀から16世紀にかけて北はエストニア、南はウクライナまでをも含む大王国を形成、人口や領土において当時のヨーロッパ最大の国家「ポーランド・リトアニア共和国」を形成し、その連邦の盟主となったが、ヨーロッパの経済構造が変化すると共に対外戦争と内乱が続き、18世紀に共和国が周辺諸国に領土を分割されると同時に消滅して、その領土的実態としての歴史を終えた。法的には1918年に成立したポーランド共和国(第二共和国)、1939年からのポーランド亡命政府、このポーランド亡命政府を1989年に継承した現在のポーランド共和国(第三共和国)がその法的継承国家。.

新しい!!: ヤトヴャグ族とポーランド王国 · 続きを見る »

ヤロスラフ1世

ヤロスラフ1世(Ярослав Владимирович)、ヤロスラウ1世(、Ꙗросла́въ Володи́мировичъ、978年頃 - 1054年2月20日)はキエフ・ルーシの大公(在位:1016年 - 1054年)。「ヤロスラフ賢公」(Мѫ́дрꙑи)と呼ばれる。父はウラジーミル1世、母はポロツク公女ログネダ。息子にイジャスラフ1世、スヴャトスラウ2世、フセヴォロド1世がいる。キエフ・ルーシの大公に即位する以前にロストフ公、またノヴゴロド公を歴任。.

新しい!!: ヤトヴャグ族とヤロスラフ1世 · 続きを見る »

ラトビア人

ラトビア人(latvieši; Latvians, Letts)は、ラトビア共和国(ラトビア)の基本住民を形成する民族。現在の総人口は凡そ150万人程である。 9世紀のころから民族形成の過程は始まるが、12世紀~13世紀のドイツ人(東方植民)の侵入によってその過程は遅らされ、15世紀~16世紀になってようやく終結した。 著名なラトビア人に関してはラトビア人の一覧を参照。.

新しい!!: ヤトヴャグ族とラトビア人 · 続きを見る »

リトアニア大公国

フ県などが置かれた地域)を獲得した。 合同により、現在のウクライナにあたる地域がポーランドの領土となっている。 ヤン・マテイコ画『リトアニア大公国の洗礼』(1387年) リトアニア大公国(リトアニアたいこうこく、、)は、13世紀から1795年のあいだにリトアニアを中心とした地域を支配した国家である。その全盛期には、広大な領土を擁するヨーロッパの強国であった。この国家の支配層の民族構成は人口においてはリトアニア人はむしろ少数派で、特にルーシ人と呼ばれる東スラヴ人が多かった。このルーシ人は、のちのベラルーシ人やウクライナ人の先祖に当たり、やがてリトアニア人とあわせてと呼ばれるようになった。 リトアニア人が支配した当初はその領土もいわゆる「原リトアニア」と呼ばれる、現代のリトアニア共和国とほぼ同じ狭い地域に限られており、小さな異教国家(非キリスト教国家、Romuva)であったが、複雑な政治的経緯により人口の膨大なルーシ(現在のロシア・スモレンスク地方、ベラルーシ、西部ウクライナ)の正教徒の人々が住む広大な地域(すなわちヴォルィーニ公国やハールィチ公国の地域)も徐々に広く包含するようになると、そういった地方の支配層も取り込むようになったため結果として大公国全体で徐々に正教徒の東スラヴ人が政治的に優勢となった。原リトアニアでも東スラヴの文化を広く受け入れるようになり、大公国の唯一の公用語として教会スラブ語が採用された。1387年にローマ・カトリックを正式に国教としたが、正教徒の信仰も認められた。1430年以後、ポーランド王国と実質的な同君連合となり(ポーランド・リトアニア合同)、支配階層のポーランド文化への同質化が進んだ。1569年のルブリン合同をもってリトアニア大公国はポーランド王国との連合政体であるポーランド・リトアニア共和国を形成した。.

新しい!!: ヤトヴャグ族とリトアニア大公国 · 続きを見る »

リトアニア人

リトアニア人は、現在のリトアニア共和国(リトアニア)の住民を形成する民族。総人口は約370万人から約410万人とされる。 著名なリトアニア人に関してはリトアニア人の一覧を参照。.

新しい!!: ヤトヴャグ族とリトアニア人 · 続きを見る »

レートピシ

レートピシ(Летопись、Літопис、Летапіс)とは、中世ルーシの文学ジャンルを指す言葉である。レートピシは各都市、国(ルーシの諸公国)、地方の歴史的出来事を年代順に記載したものであり 、日本語文献においては年代記と訳される。レートピシという名称は、各年の出来事が、「в лето X …」 (X年に…)という言葉で書き始められるのが一般的であることに由来する(各年冒頭に「в году」という表記も用いられる。意味は同じ)。.

新しい!!: ヤトヴャグ族とレートピシ · 続きを見る »

ブロックハウス・エフロン百科事典

『ブロックハウス・エフロン百科事典』(Энциклопедическiй Словарь Брокгауза и Ефрона)は、ロシア語の百科事典である。完全版86巻、小型版35巻 1890年から1907年にロシア帝国サンクトペテルブルクの出版社イリヤ・アブラモビッチ・エフロン、『ブロックハウス百科事典』で実績のあるライプツィヒのが共同で出版した。 ドミトリ・メンデレーエフ、ウラジーミル・ソロヴィヨフなど、ロシア革命前の著名なロシアの学者たちによって書かれた歴史的に貴重な百科事典である。ソビエト連邦時代には再版が許されず、ソ連崩壊後に再版された。.

新しい!!: ヤトヴャグ族とブロックハウス・エフロン百科事典 · 続きを見る »

プルーセン

プルーセン、古プロイセン人、あるいはバルト・プロイセン人(低ザクセン語: Pruzzen、、、、、プロシア語: Prūsas)は、バルト海の南東岸の、およそヴィスワ川とクロニアン (Curonian) 湖周辺に居住している、近隣のスラブ民族とは異なる中世バルト族(バルト人)から成る民族グループ。 13世紀の間に古プロイセン人はドイツ騎士団によって征服され、ドイツ人により支配された。ドイツ帝国が統一される前にかつて存在した王国であるプロイセンは、バルト語派の古プロイセン地域からその名前を取り、古プロイセン語は17世紀から18世紀初頭までには消滅した。 プルーセン人の土地は、ポラン族(現ポーランド人)の出現前まで広大だった。およそ東プロイセンの中央から南部、現ポーランドのヴァルミア・マズールィ県、ロシアのカリーニングラード州、リトアニアのクライペダ地方から成り立っていた。.

新しい!!: ヤトヴャグ族とプルーセン · 続きを見る »

フロドナ

フロドナの大聖堂 フロドナ(Гро́дна Hrodna)はベラルーシのフロドナ州の州都。フロドノ、ホラドニャ(Горадня)、ポーランド語・ロシア語でグロドノ、リトアニア語でガルディナス Gardinas、ラトビア語でグロドナ Grodna とも。 ネマン川沿いにあり、ポーランドやリトアニアとの国境に近い。2005年の人口は317,366。.

新しい!!: ヤトヴャグ族とフロドナ · 続きを見る »

ドレゴヴィチ族

ドレゴヴィチ族(古東スラヴ語:дьрьговичи 、Дрыгавічы、Дреговичі、Дреговичи)は9-12世紀に現在のベラルーシのホメリ州・ヴィーツェプスク州・フロドナ州・ミンスク州に居住していた、東スラヴ民族 の連合体の1つである。ドレゴヴィチ族の名前の由来は、おそらく古東スラヴ語の沼を意味するдрегва(もしくはдрягва)であるとされている。なお現代のベラルーシ語ではдрыгваは湿原を意味する。.

新しい!!: ヤトヴャグ族とドレゴヴィチ族 · 続きを見る »

ドイツ騎士団

ドイツ騎士団(ドイツきしだん、Deutscher Orden)とは、ローマ・カトリック教会の公認した騎士修道会の一つである。正式名称はドイツ人の聖母マリア騎士修道会(Ordo domus Sanctae Mariae Theutonicorum Ierosolimitanorum、Orden der Brüder vom Deutschen Haus der Heiligen Maria in Jerusalem)。英語では Teutonic Order と呼ばれ、日本ではその訳語であるチュートン騎士団でも知られる。 12世紀後半、聖地パレスチナに巡礼するキリスト教信者の護衛と病院設立の目的で設立された。メンバーは、中世には十字軍の騎士修道会とし任務していたので、一般的にはチュートン騎士として知られていた。プロイセンなど統治し、東方植民の先駆けとなった。テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団と共に、中世ヨーロッパの三大騎士修道会の1つに数えられる。.

新しい!!: ヤトヴャグ族とドイツ騎士団 · 続きを見る »

ベラルーシ人

ベラルーシ人(ベラルーシ語:беларусыビェラルースィ;ポーランド語:biełarusyビェワルースィ;英語:Belarusians;ロシア語:белорусыビラルースィ)は、東スラヴ人に属する、ベラルーシの人口の大半を占める民族である。ベラルーシ近隣のポーランド、ロシア、リトアニア、ウクライナにも居住している。20世紀初頭には、アメリカ、ブラジル、カナダに多く移住した。ソビエト連邦が崩壊した1990年代初頭からは、数十万人のベラルーシ人がEU、アメリカ、カナダ、ロシアに移住している。.

新しい!!: ヤトヴャグ族とベラルーシ人 · 続きを見る »

インド・ヨーロッパ語族

インド・ヨーロッパ語族(インド・ヨーロッパごぞく)は、ヨーロッパから南アジア、北アジア、アフリカ、南アメリカ、北アメリカ、オセアニアにかけて話者地域が広がる語族である。印欧語族(いんおうごぞく、いんのうごぞく)と略称される。この語族に属する言語を公用語としている国は100を超える。.

新しい!!: ヤトヴャグ族とインド・ヨーロッパ語族 · 続きを見る »

キエフ大公

フ・ルーシの大公たちの印形あるいは紋。ルーシの支配者であったリューリク朝は三叉戟を用いたシンボルを家紋にしていた。 キエフ大公(ウクライナ語:Великий князь Київський)は、9世紀から13世紀にかけてキエフ大公国とその首都キエフを治める君主の称号である。 (本頁の一覧にはキエフ公も含む。).

新しい!!: ヤトヴャグ族とキエフ大公 · 続きを見る »

キエフ大公国

フ大公国(キエフたいこうこく)は、9世紀後半から1240年にかけてキエフを首都とした東欧の国家である。正式な国号はルーシ(古東スラヴ語: Русь)で、日本語名はその大公座の置かれたキエフに由来する。 10世紀までにキリスト教の受容によってキリスト教文化圏の一国となった。11世紀には中世ヨーロッパの最も発展した国の一つであったが、12世紀以降は大公朝の内訌と隣国の圧迫によって衰退した。1240年、モンゴル来襲によってキエフは落城し、事実上崩壊した。.

新しい!!: ヤトヴャグ族とキエフ大公国 · 続きを見る »

スドヴィア語

ドヴィア語(スドヴィアご、)は、ヤトヴァーグ語・ヤトヴィンガ語とも呼ばれる、バルト語派・西バルト語群に属する言語。 西バルト系に属するヤトヴァーグ(ヤトヴィンガ)人はニャムナス川とナレフ川の周辺に居住していたが13世紀にリトアニアに支配・同化されるとともに、その言語も17世紀頃に死語となった。.

新しい!!: ヤトヴャグ族とスドヴィア語 · 続きを見る »

タンネンベルクの戦い (1410年)

タンネンベルクの戦いあるいはグルンヴァルトの戦いは、1410年7月15日、ポーランド王国・リトアニア大公国連合軍とドイツ騎士団の間で戦われた戦闘である。現在のポーランドのヴァルミア・マズールィ県にある、グルンヴァルト村・ステンバルク(タンネンベルク)村と村の間にある平原で戦われた。この戦いで勝利をおさめたポーランド・リトアニアはさらに勢力を拡大、ヨーロッパで最大の版図をもつ強国として最盛期を迎えることになる。.

新しい!!: ヤトヴャグ族とタンネンベルクの戦い (1410年) · 続きを見る »

死語 (言語学)

言語学における死語(しご)とは一般に自然言語のなかで日常話者が存在しなくなったため実際には使用されていない言語を意味する。学校教育による支配階級の言語の強要、英語・フランス語・スペイン語・ポルトガル語・ドイツ語などの旧植民地支配勢力の言語が強まり、少数民族の固有言語は世界各地で絶滅(消滅)の危機にさらされている。.

新しい!!: ヤトヴャグ族と死語 (言語学) · 続きを見る »

1千年紀

紀元1千年紀(きげんいっせんねんき)は、西暦紀元による1番目の千年紀(ミレニアム)である。西暦元年から西暦1000年(1世紀から10世紀)に当たる。.

新しい!!: ヤトヴャグ族と1千年紀 · 続きを見る »

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »