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モエトゥケン

索引 モエトゥケン

モエトゥケン(Mö'etüken、? - 1219年)は、チンギス・カンの次男・チャガタイの長男である。『世界征服者史』では ماتيكان Mātīkān、『集史』では مواتوكان Muwātūkān と表記されている。子にバイジュ、ブリ、イェスン・ドゥア、カラ・フレグらがいる。 チャガタイの長男で生母は第1夫人(正妃)のコンギラト部族出身のイェスルン・ハトゥン。『集史』によればチャガタイの息子達のなかでチャガタイから最も愛されていたと言い、父の後継者として期待されていたが、1219年にホラズム・シャー朝攻撃の際にバーミアーンを包囲攻撃していたとき、バーミヤーンの城塞から射られた矢が当り戦死した。 チンギス・カンはその報復としてバーミヤーンを陥落すると徹底的に破壊し、その住民も老若男女から動物まで徹底的に虐殺にしたという。『集史』によると、さらに、バーミヤーンを「マウ・クルカン( ماءؤوقرقان Māwūquruqān < Ma'u Qorqan)」という名に改称させたという。(マウはモンゴル語で「悪い」、クルカンは「城塞」の意味で、「悪しき城」ほどの意味であるという) 『集史』チャガタイ・ハン紀諸子表のモエトゥケンの条などによると、チャガタイはモエトゥケンが戦死したときその場におらず、バーミヤーンが陥落しつつある時に戻って来た。チンギス・カンは数日後、「モエトゥケンはこれこれの場所に行っている」と話し、チャガタイにモエトゥケンの死を隠した。それからさらに数日後、息子たちに向かってわざと怒りを露にして、「汝らは我が言葉を聞かず、私が汝らに言ったことを汝らは怠けおった!」と息子たちを叱りつけたという。チャガタイは跪いて、「チンギス・カンがお命じになることは何であれ従います。もし私が罪を犯したのであれば、私は死を選びます」と答えた。チンギス・カンは何度も繰り返して「汝の言葉は真実か? そのように出来るか?」と詰問し、チャガタイはそれに「もし私が背くようであれば、私は死を選びます」と答えた。すると、チンギス・カンは「モエトゥケンは亡くなった。汝が嘆き悲しむことを禁じる」と言った。チャガタイは心のうちで雷火を受けたようであったが、父の命に従って耐え忍び、泣かなかった。しばらくした後理由を付けて退出すると、隅に隠れて泣いたが、父の前に行くときは両目を拭って綺麗にしたという。.

22 関係: 世界征服者の歴史ナイマンチャガタイチャガタイ家チンギス・カンハムドゥッラー・ムスタウフィー・カズヴィーニーバラク (チャガタイ家)バーミヤーンバイダルムバーラク・シャー (チャガタイ家)ボルテブリ (チャガタイ家)ドゥアニグベイホラズム・シャー朝アルグアブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソンアビシュカイェス・モンケカラ・フレグ集史1219年

世界征服者の歴史

『世界征服者の歴史』(せかいせいふくしゃのれきし、ペルシア語: تاريج جهانگشاء Ta'rīkh-i Jahān-gushā'/Ta'rīkh-i Jahān-gushā'ī)とは、『集史』などと並び、モンゴル帝国を語る上で重要な歴史書。モンゴル帝国の政治家・歴史家のジュヴァイニー(ジュワイニー)によって1260年に完成された。全3巻。原名はペルシア語でタリーヒ・ジャハーン・グシャー(イー)(Tārīkh-i Jahān-gushā(ī))という。 1252年、のちにイルハン朝を創設するフレグの命令でモンゴル帝国の首都カラコルムのモンケの宮廷に派遣されたジュヴァイニーは、モンゴル帝国の広大さに衝撃を受けるとともに、その成立までの過程に関心を抱いた。そして友人からの勧めもあり、モンゴル帝国成立に至る歴史書の執筆を始めたのであった。途中、バグダードの戦いへの参戦とバグダード陥落後のバグダード太守任命などを経て、1260年に完成した。.

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ナイマン

13世紀の東アジア諸国と北方諸民族。 ナイマン(、Naiman)は、モンゴル帝国成立以前の時代にモンゴル高原西北部のイルティシュ川低地地域から上流地域、アルタイ山脈に掛けて割拠していたテュルク系遊牧民で、後にモンゴル化した部族集団。漢字表記は『元史』『元朝秘史』では乃蠻。『集史』などのペルシア語表記では نايمان Nāyimān として現れる。西はジュンガル盆地の沙漠地域を挟んで天山ウイグル王国と隣接し、北は小アルタイ山脈をもってケム・ケムジュート地方およびキルギズと、東ではカラコルム山脈をもってケレイトと隣接していた。.

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チャガタイ

チャガタイ(Čaγatai / Ča'adai, 1178年/1185年/1186年? - 1242年)は、モンゴル帝国の皇族の一人で、チンギス・カンの次男。ジョチの弟、オゴデイとトルイの兄に当たる。ペルシア語表記では چغتاى خان (Chaghatāī khān) と綴る。チャアダイ、チャプタイとも。 生年は1185年、1186年など諸説ある。長兄ジョチとは、ジョチの出生の疑惑などをめぐって険悪な仲であった。また、チャガタイ自身が激しい気性と一本気な性格の持ち主であったため、一族の和を重んじる父チンギスから後継者候補としては除外されていたという。しかし、法に対して厳格な一面があったため、それを父に見込まれてモンゴル帝国の法律・ヤサの管理を任され、「ヤサの番人」の異名を取った。.

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チャガタイ家

チャガタイ家(-け)は、チンギス・ハーンの次男であるチャガタイから始まる家系である。.

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チンギス・カン

チンギス・カン(モンゴル語:、キリル文字:Чингис хаан、ラテン文字化:Činggis Qan または Činggis Qa'an、漢字:成吉思汗、1162年5月31日 - 1227年8月25日)は、モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年 - 1227年)。 大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。 死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神と崇められ、現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている一般的に1162年説が流布しているが、これは『元史』太祖本紀などに「(太祖二十二年)秋七月壬午、不豫。己丑、崩于薩里川哈老徒之行宮。(中略)壽六十六。」とあり(太祖二十二年秋七月己丑=1227年8月25日)、ここから逆算したものである。1155年説については、主にイルハン朝でガザン、オルジェイトゥの勅命によって編纂された『集史』などに基づくもので、同書「チンギス・ハン紀」では「彼の誕生した時は、ブタの年(亥年)であるヒジュラ暦549年であり、ズー=ル=カアダ月に起きたことであった」" az waqt-i walādat-i ū az ibtidā'-yi Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast, muwāfiq-i shuwūr-i sanna-yi tis`a wa arba`īna wa khamsa-mi'a Hijrī ki dar māh-i Dhī al-Qa`da wāqi` shuda …(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.309)"(1155年1月6日 - 2月4日)とあり、『元朝秘史』と同じくこれが父イェスゲイによるタタル部族への遠征とその首長コリ・ブカ(Qūrī Būqā)とテムジン・ウゲ(Tamūjīn Ūka)捕縛の年であったことが説明されている(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.310)。また没年も「ブタの年(Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast)」であり「彼の生涯は72年間であり、73年目に逝去した」"muddat-i `umr-i ū haftād u du sāl būda, wa dar sāl-i haftād u siyyum wafāt yāfta." とあり、生没年が同じ「ブタの年」であったと述べる(没年である1227年は実際に丁亥年である)。『集史』の後に編纂されたイルハン朝時代の他の歴史書でもこの生年の情報は踏襲されたようで、例えば『バナーカティー史』(アブー・サイード即位の1317年まで記述)では「ブタの年であるヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月」(1155年1月6日 - 2月5日)、同じくムスタウフィー・カズヴィーニーの『選史』(1330年)ではもう少し詳しく「ヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月20日」(1155年1月25日)とする。一方、1167年については、『聖武親征録』諸本のひとつに1226年(丙戌年)の記事において「上年六十」とするものがあることから(王国維の校訂では「六十五」に改める)ここから逆算してこの年時としている。他の資料の年代としては、1221年にムカリ国王の宮廷を訪れた南宋の使節、珙の撰(王国維の研究により著者は趙珙と校正された)による『蒙韃備録』では「今成吉思皇帝者甲戌生彼俗…」とあり、甲戌、すなわち1154年とする。このようにチンギス・カンの生年の年代については資料によって様々であり、多くの学説が立てられ現在でも結論が出ていない。元朝末期の陶宗儀編『南村輟耕録』において元朝末から明朝初の文人・楊維禎(1296年 - 1370年)の言として「太祖の生年は宋の太祖の生年である丁亥と干支を同じくする」(四部叢刊本 第三巻 「正統辯」 第六葉「宋祖生于丁亥而建國于庚申。我太祖之降年與建國之年亦同…」)というようなことを述べており、清朝末期の学者洪鈞は丁亥年すなわち1167年ではなく乙亥年の誤り、つまり、『集史』その他の西方資料にあらわれるものと同じ1155年に比定する説を唱えた。この説は『新元史』の著者忞(かしょうびん)や『蒙兀児史記』の著者屠寄など当時の学者たちの賛同を得た。しかし、フランスの東洋学者ポール・ペリオは、それならばこの場合、楊維禎の言に従い丁亥年すなわち1167年とした方が良く、この丁亥年説であればチンギスの生涯における諸事件の年月日とよく合致し、チンギス・カンは1167年に生まれ、1227年に60歳、『聖武親征録』のいう数え年61歳で死んだと考えた方が妥当であろう、と述べている。『元朝秘史』には生年についての情報は載っていない。。.

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ハムドゥッラー・ムスタウフィー・カズヴィーニー

ハムドゥッラー・ムスタウフィー廟、ガズヴィーン、イラン ハムドゥッラー・ムスタウフィー・カズヴィーニー (1281–1349; Ḥamd Allāh Mustawfī Qazvīnī) は、イルハン朝時代のペルシア人の歴史家、地理学者、叙事詩人。代表作としては、散文の世界史『選史』Tārīkh-i Guzīda(تاريخ گزيده)、フェルドウスィーの『シャー・ナーメ』に倣った大部の韻文による世界史『勝利の書』Ẓafar-Nāmah(ظفرنامه)、、および世界誌『心魂の歓喜』 Nuzhat al-Qulūb (نزهه القلوب)、の三作品が著名である。また、故地のカズヴィーン(近代ペルシャ語読みでガズヴィーン)にはムスタウフィーの霊廟が残るが、青いトルコ石に似た淡い青色釉薬タイルで装飾された円錐形ドーム屋根が特徴的である。なお、名前はハムドゥッラー(حمدالله Ḥamd Allāh)ではなくハムド(حمد Ḥamd)であった可能性もある。 ペルシャ人については預言者ムハンマドの発言とされる伝承を引いて以下のようなことを述べている。.

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バラク (チャガタイ家)

バラク(Barāq、? - 1270年もしくは1271年)は、モンゴル帝国の皇族で、チャガタイ家の第7代当主(1266年 - 1271年)。漢語表記は八刺。ペルシア語資料では براق (Barāq)。チンギス・ハーンの次男チャガタイの長男であったモエトゥケンの三男イェスン・トアの次男である。チャガタイの曾孫にあたり、伯父にブリ、叔父に第2代当主カラ・フレグ、従兄弟に第6代当主ムバーラク・シャーがいる。.

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バーミヤーン

バーミヤーン地域 バーミヤーンの子どもたち バーミヤーン(باميان Bāmiyān)は、アフガニスタンのほぼ中央部、カーブルの北西約240 kmに位置する、バーミヤーン州の州都である。人口は73,200人(2006年の公式推計)。バーミヤーンはハザラジャート最大の都市で、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されているバーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群で知られる。発音の転訛により、「バーミアーン」などとも表記される。.

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バイダル

バイダル(Baidar、生没年不詳)は、チンギス・カンの息子チャガタイの第6子で、モンゴル帝国の皇族宇野伸浩「」『人間環境学研究』 10号、2012年2月、175-177頁。。 『集史』などのペルシア語史料では Bāīdār と表記されるが、『元史』には該当する人名は記されていない。しかし、バイダルの末裔であるノム・ダシュが建立した「重修文殊寺碑」には拝合里(「合」は答か荅の誤り)と漢字表記されている。また、『新元史』などの後世の編纂物では貝達爾、拝達児とも表記される。 子にチャガタイ・ハン国の第5代ハーン・アルグがいる。.

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ムバーラク・シャー (チャガタイ家)

ムバーラク・シャー(? - ?)は、中央アジアを支配したチャガタイ・ハン国の第6代君主(在位:1266年)。 父は第2代君主のカラ・フレグ。監国として国政を執ったオルガナを母に持つ。イスラム教徒であり、篤実で公正な人物と伝えられるドーソン 1971、25頁。ムバーラク・シャーの即位は慣例に従った地であるイリ河畔のオルドではなく、イスラーム文化の中心地であるアングレン河畔で行われた。しかし、ムバーラク・シャーの改宗がウルス全体に影響を及ぼしたかについては疑問視されている。 母オルガナはアルグによって廃位された後にそのアルグの妃になり、アルグにチャガタイ家の当主となる大義名分と引き換えに、ムバーラク・シャーの後継者としての地位を確保した杉山 1996、44頁。1266年にアルグが死去すると、チャガタイ家内部の総意によって当主に選出された。しかし、中央アジアとチャガタイ家の統制を図るクビライが、彼に近侍していたバラクをムバーラク・シャーの共同統治者として派遣すると事態は変化する。ムバーラク・シャーはバラクによって廃位され、ケシクの鷹匠(シバウチ)に落とされた。 バラク没後はアルグの遺児カバン、チュベイ兄弟と共にオゴタイ家のカイドゥの元に投じ、彼を「アカ」(モンゴル語で「兄」を意味する)に奉じて、チャガタイ家の指導者として推戴した。 後にムバーラク・シャーはイルハン朝に亡命し、カラウナス(ニークダーリヤーン)軍団の長としてガズナ方面に駐屯し、生涯を終える。.

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ボルテ

ボルテ・ウジン(、 1161年? - ?)は、モンゴル帝国の始祖チンギス・カンの第一皇后。コンギラト部族出身。漢字表記は孛児台、『元朝秘史』では孛児帖旭真、『集史』のペルシア語ではと表記される。「ウジン」とは漢語の夫人に由来する称号でモンゴル王族の正妃が名乗る尊称である。元朝から光献翼聖皇后と諡名される。名はモンゴル部族の始祖として夙に有名な「蒼き狼(ボルテ・チノ)」のボルテと同じで、「灰色のまだら模様」を意味する。.

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ブリ (チャガタイ家)

ブリ(Büri ? - 1252年)は、モンゴル帝国の皇族。チンギス・ハーンの次男であるチャガタイの長男モエトゥケンの息子。『世界征服者史』『集史』などでは بورى Būrī、『元史』では不里、孛里。『元朝秘史』では不舌里と表記される。.

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ドゥア

ドゥア(Du'a, ? - 1307年頃)は、モンゴル帝国の皇族、チャガタイ家の第10代当主(在位:1283年 - 1307年)で、チャガタイ・ハン国の実質的な建国者である。『集史』などのペルシア語表記では دوا Dūā、『元史』などでの漢字表記は諸王都哇。第7代当主バラクの子。 1270年に父のバラクがオゴデイ家のカイドゥと対立中に、カイドゥによる毒殺と言われる謎の急死を遂げると、父の仇敵であるカイドゥと対立し、カイドゥの側についた第5代当主アルグの遺児チュベイらと激しい抗争を10年近くに渡って繰り広げた。 その後、情勢の変化からカイドゥに服属することになり、逆にカイドゥと対立するようになったチュベイらが、モンゴル帝国の大ハーンであるクビライの政権、大元に逃亡したので、1282年になってカイドゥによって空席となっていたチャガタイ家の当主の座に据えられた。しかし実際にはドゥアはカイドゥの傀儡であり、カイドゥが中央アジアに成立させた「カイドゥ・ウルス」の一部をなす諸王に過ぎなかった。 1301年、カイドゥが元との戦いで陣没するとカイドゥ王国内における長老として発言力を増し復権をはかった。ドゥアはまずカイドゥによって生前後継者に指名されていたオロスを遠ざけてカイドゥの長男チャパルを後継者に推し、チャパルの即位を実現させた。1304年にはチャパルとともに、クビライの孫テムルのもとに使者を送り、大ハーンへの臣従を誓ってモンゴル帝国の再統合を実現した。 この後、チャパルとオロスがオゴデイ家の主導権をめぐって抗争をはじめると、ドゥアはオゴデイ家の内紛を好機とみてアルタイ山脈を越え、ジュンガリアに侵攻してきた元軍と連携してオゴデイ家の各勢力を各個撃破していった。 1306年、ドゥアはチャパルの追放に成功し、アルタイ山脈以西の「カイドゥ・ウルス」の旧勢力圏を統一して、中央アジア一帯にチャガタイ・ハン国の広大な支配圏を築き上げた。このとき、モンケの粛清以後、政権としては解体同然であったチャガタイ家のウルスが、実質的に後世「チャガタイ・ハン国」と呼ばれる姿で建国を果たしたのであった。 ドゥアはさらにヒンドゥークシュ方面にも進出してアフガニスタンまで勢力下に置きチャガタイ・ハン国の最盛期を築き上げたが、まもなく病を得て死去した。 とうあ とうあ とうあ.

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ニグベイ

ニクベイ(Negübei, ? - 1271年)は、モンゴル帝国の皇族、チャガタイ家の第8代当主(在位1271年)。チンギス・ハーンの次男、チャガタイの孫にあたる。『元史』では聶古伯、『集史』ではنیکبایNīkbāīと表記される。.

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ホラズム・シャー朝

ホラズム・シャー朝( Khwārazmshāhiyān フワーラズムシャーヒヤーン)は、アム川下流域ホラズムの地方政権として起こり、モンゴル帝国によって滅ぼされるまでに中央アジアからイラン高原に至る広大な領域支配を達成したイスラム王朝(1077年 - 1231年)。ホラズム朝、フワーラズム朝、コラズム朝とも呼ぶ。 ペルシア語でホラズム・シャーという王号をもつ君主を頂いた自立・半自立のホラズム王国はアラブ人の進入以前からイスラム化の変動を経つつもホラズムの支配者として興亡を繰り返してきたが、通例ホラズム・シャー朝と呼ばれるのは11世紀にセルジューク朝から自立した政権を指す。.

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アルグ

アルグ(? - 1266年)は、モンゴル帝国の皇族で、チャガタイ・ハン国の第5代君主(在位:1260年 - 1266年)である。父はチャガタイの子バイダルで、チンギス・カンの曾孫にあたる。チャガタイ家の中では傍流であったが、第4代大ハーン・モンケの急死、それに伴う混乱の中で急速にその地位を高めた。 1260年、クビライとアリクブケの間で帝位継承戦争が勃発すると、最初チャガタイ家は、夫亡き後、監国(摂政)として政務を担っていたオルガナの下、アリクブケを支持した。しかし、アリクブケはクビライに連敗した上、経済封鎖策によって深刻な食料不足に陥った。追い詰められたアリクブケはカラコルムに食料を送る事を条件に側近だったアルグをチャガタイ家当主に任命、チャガタイ家に送り込んだ。実権を奪われたオルガナはアルグの妃になるように強要され、オルガナはカラ・フレグとの間の息子であるムバーラク・シャーを後継者にすることを条件に受け入れたという。 しかし、チャガタイ家領に入りオルガナから実権を奪うと、アルグはアリクブケに対して反旗を翻した。これには、即位時にチャガタイ家の有力者の多くを粛清したモンケ政権の後を継ぐ形でできたアリクブケ政権に対するチャガタイ家の反発が背景にあったとも言われる。一時攻めてきたアリクブケに本拠地アルマリクを占領され、サマルカンドに退却することもあったが、1264年にアリクブケがクビライに降伏したことで、ついに全チャガタイ家領を統一した。 帝位継承戦争集結後、クビライが統一クリルタイの開催を提唱したとき、アルグは真っ先に参加を表明したものの、実現される前に病没した。 Category:チャガタイ・ウルスの君主 Category:生年不明 Category:1266年没.

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アブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン

アブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン 男爵(Abraham Constantin Mouradgea d'Ohsson、1779年11月26日 - 1851年12月25日)は、オスマン帝国におけるアルメニア系の外交官、歴史家。『チンギス・カンよりティムール・ベイすなわちタメルランに至るモンゴル族の歴史』(邦題:『蒙古史』、『モンゴル帝国史』)の著者として有名であった。.

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アビシュカ

アビシュカ(Abišqa ? - 1260年)は、モンゴル帝国の皇族。チンギス・ハーンの次男であるチャガタイの孫ブリの息子。『集史』ではابيشقه Ābīshqeと記されるが、『元史』などの漢文史料には記載がない。.

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イェス・モンケ

イェス・モンケ(Есөнмөнх)は、チャガタイ・ハン国の君主(在位:1246年 - 1251年)。チンギス・ハーンの次男チャガタイの子。.

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カラ・フレグ

ラ・フレグ(Qara Hülegü, ? - 1252年)は、モンゴル帝国の皇族で、チャガタイ家の第2代君主(在位:1242年 - 1246年, 1251年)。チンギス・カンの次男チャガタイの長男であるモエトゥケンの四男、つまりチンギス・カンの曾孫である。オイラト王家出身のオルクナ・ハトゥンを娶り、彼女との間に後にムバーラク・シャーを儲けた。『元史』では合剌旭烈大王、『集史』などのペルシア語表記では قرا هولاكو Qarā Hūlākū、『高貴系譜(Mu'izz al-Ansāb)』では(一部、『五族譜(Shu'ab-i Panjgāna)』でも) قرا هولاووQarā Hūlāwū とも書かれる。.

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集史

『集史』(しゅうし、جامع‌التواریخ. Jāmi` al-Tavārīkh、جامع التواريخ. Jāmi` al-Tawārīkh)は、イルハン朝の第7代君主ガザン・ハンの勅命(ヤルリグ)によってその宰相であったラシードゥッディーンを中心に編纂された歴史書である。イラン・イスラム世界、さらに言えばモンゴル君主ガザン自身の視点が反映されたモンゴル帝国の発祥と発展を記した記録として極めて重要な文献である。 モンゴル史部分の編纂には、ガザン自身も多くの情報を口述しこれがモンゴル史の根本となったことはラシードゥッディーンも序文で述べているが、これらのことからも『集史』はガザン自身の見解が色濃く反映された歴史書である。その性格のため『集史』はペルシア語で編纂された歴史書であるが、13、14世紀のモンゴル語やテュルク語やその他の多言語の語彙・用語を多く含み、そのペルシア語の用語も多く含まれている。このため『集史』は、モンゴル帝国が持つユーラシア規模の世界性をまさに体現した希有の資料と評されている。 ペルシア語で書かれたものであるが、タイトルである Jāmi` al-Tawārīkh はアラビア語で「諸々の歴史を集めたもの」を意味し、日本語では『集史』と翻訳されている。ちなみにロシアの東洋学者ベレジンによる校訂本に基づいたモンゴル史までの中国語訳があるが、この題は『史集』と訳されている。.

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1219年

記載なし。

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