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ムワッヒド朝

索引 ムワッヒド朝

ムワッヒド朝(アラビア語: الموحدون al-Muwahhidūn)は、ベルベル人のイスラム改革運動を基盤として建設されたイスラム王朝(1130年 - 1269年)。首都はマラケシュ。 現在のモロッコに興り、チュニジア以西の北アフリカ(マグリブ)とイベリア半島の南部アル=アンダルス(現アンダルシア州とほぼ同じかやや広い範囲)を支配した。その名称のスペイン語訛りから、ヨーロッパではアルモハード朝(英語:Almohad Caliphate)という名前で知られている。.

71 関係: 十字軍山川出版社北アフリカナバス・デ・トロサの戦いマラケシュマリーン朝マーリク学派マフディーマグリブチュニジアハンマード朝ハフス朝ムハンマド・ナースィルムラービト朝ムスリムメッカモロッコヤアクーブ・マンスールヨーロッパリビアレコンキスタベルベル人ベルベル語派アミールアラビア語アルフォンソ8世 (カスティーリャ王)アンダルシア州アンダルスアトラス山脈アブー=ヤアクーブ・ユースフ1世アブドゥルムウミンイブン・ルシュドイブン・トファイルイブン・トゥーマルトイベリア半島イスラム王朝ウラマーカリフカスティーリャ王国キリスト教徒コルドバ (スペイン)スペイン語スーフィズムズィール朝セビリアタウヒード第三書館講談社講談社学術文庫英語...新潮社新潮選書1121年1130年1147年1163年1184年1199年1212年1213年1214年1224年1227年1229年1232年1235年1242年1248年1266年1269年12世紀 インデックスを展開 (21 もっと) »

十字軍

1回十字軍によるアンティオキア攻囲戦 十字軍(じゅうじぐん、cruciata、crusade)とは、中世に西ヨーロッパのキリスト教、主にカトリック教会の諸国が、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のことである。 一般には、上記のキリスト教による対イスラーム遠征軍を指すが、キリスト教の異端に対する遠征軍(アルビジョア十字軍)などにも十字軍の名称は使われている。 実態は必ずしも「キリスト教」の大義名分に当て嵌まるものではなく、中東に既にあった諸教会(正教会・東方諸教会)の教区が否定されてカトリック教会の教区が各十字軍の侵攻後に設置されたほか、第4回十字軍や北方十字軍などでは、正教会も敵として遠征の対象となっている。また、目的地も必ずしもエルサレム周辺であるとは限らず、第4回以降はイスラム最大勢力であるエジプトを目的とするものが多くなり、最後の十字軍とされることもある第8回の十字軍は北アフリカのチュニスを目的としている。.

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山川出版社

山川出版社(やまかわしゅっぱんしゃ)は、高校教科書(地歴公民科)・参考書・歴史関係の一般書などを刊行する日本の出版社である。.

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北アフリカ

北アフリカ(きたアフリカ)は、アフリカのうちサハラ砂漠より北の地域を指す。また、狭義には西端部のマグリブ地域のみを指す場合もある。エジプトやリビアを中心に中東の一部として定義されることも多い。サハラ砂漠をはじめとした砂漠地帯やステップが大部分を占めるが、地中海を挟んでEU諸国と対しており、モロッコやチュニジアのように経済が比較的発達している国が多い。住民にはアラブ系のコーカソイドが多いため、ホワイトアフリカともよばれる。.

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ナバス・デ・トロサの戦い

ナバス・デ・トロサの戦い(スペイン語:Batalla de Las Navas de Tolosa.、アラビア語:معركة العقاب.)は、1212年7月16日にイベリア半島、現アンダルシア州ラ・カロリナ内のナバス・デ・トロサで、カスティーリャ王をはじめとするカトリック諸国連合軍とムワッヒド朝のカリフ率いるイスラム諸国連合軍の間で行なわれた戦いである。この戦いの意義の大きさから当時の年代記作者たちは単に「あの戦い」(La Batalla)と記すことが多い。.

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マラケシュ

マラケシュ (مراكش marrākish) は、モロッコ中央部の都市。ラバトの南西約280kmのアトラス山脈山麓の丘陵地帯、テンシフト川の南岸に位置し、「南の真珠」と呼ばれてきた。.

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マリーン朝

マリーン朝(المرينيون、ベルベル語:ⵉⵎⵔⵉⵏⴻⵏ)は、12世紀末から15世紀末にかけてモロッコに存在していたイスラーム国家。ザナータ系ベルベル人のマリーン族によって建国された飯山「マリーン朝」『岩波イスラーム辞典』、933頁私市「マリーン朝」『新イスラム事典』、731頁。フェズを首都とし、マグリブ西部を支配した。 略奪を目的とした軍事行動がマリーン朝の建国の動機となっていたが、ジハード(異教徒に対する聖戦)の実施やモスク(寺院)とマドラサ(神学校)の建築など王朝の宗教的意識は強かった。前半期には積極的に軍事活動を実施したが、君主の地位を巡る内紛によって衰退した。.

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マーリク学派

マーリク法学派(まーりく ほうがくは المذهب المالكي, المالكية al-Mālikīya)はスンナ派におけるイスラーム法学の学派(マズハブ)の一つ。マーリキ法学派とも表記される。4大法学派のうちで二番目に大きく、ムスリム全体のおよそ25%がこの法学派に属し、北アフリカ、西アフリカ、アラブ首長国連邦、クウェート、サウジアラビアの一部で有力である。かつてはイスラーム支配下のヨーロッパ、特に北アフリカ(マグリブ)一帯からアンダルスの主な政権で有力な法学派として発展し、シチリア首長国:en:Emirate of Sicily (831年 - 1072年)でも有力であった。.

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マフディー

マフディー(مهدي)は、アラビア語で「導かれた者」を意味する言葉で、イスラームの文脈においては救世主を意味する。.

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マグリブ

マグリブを表す地域 マグリブ(Maghreb、مغرب)は、アラビア語で「日が没すること、没するところ」を原義とする語。マグレブとも言う。「西方」の意味を持ち、地域名としても用いられる。また、ムスリム(イスラム教徒)の義務である一日五回の礼拝(サラート)のうちの一つである日没時の礼拝を指す言葉でもある。ここでは、地域名としてのマグリブについて記す。.

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チュニジア

チュニジア共和国(チュニジアきょうわこく、الجمهورية التونسية、ベルベル語: ⵜⴰⴳⴷⵓⴷⴰ ⵏ ⵜⵓⵏⴻⵙ、République tunisienne)、通称チュニジアは、北アフリカのマグリブに位置する共和制をとっている国家。西にアルジェリア、南東にリビアと国境を接し、北と東は地中海に面する。地中海対岸の北東にはイタリアが存在する。首都はチュニス。 アフリカ世界と地中海世界とアラブ世界の一員であり、アフリカ連合とアラブ連盟と地中海連合とアラブ・マグレブ連合に加盟している。最も早く「アフリカ」と呼ばれ、アフリカ大陸の名前の由来になった地域である。.

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ハンマード朝

ハンマード朝(アラビア語: الحماديون al-Hammādīyūn / بنو حماد Banū Hammād)は、現在のアルジェリア北部を支配したベルベル人のイスラム王朝(1007年/1015年 - 1152年)。 ハンマード朝の始祖ハンマード・イブン=ブルッギーンは、イフリーキヤ(現在のチュニジア)を中心にアルジェリア北部からリビア西部にかけての地域を支配したズィール朝の王族で、はじめズィール朝の宗主権下にアルジェの内陸にある都市アシールを統治していた。1007年、ハンマードはアシールの東に城塞都市ベニ・ハンマードを築いて移り、アルジェリアの支配を奪取した。1015年、ハンマードはズィール朝からの独立を宣言し、さらにエジプトを支配するシーア派のファーティマ朝と断交してスンナ派のアッバース朝をカリフとして承認した。 1050年、ファーティマ朝によってアラブ遊牧民(ベドウィン)の大集団がマグリブ(北アフリカ西部)に送り込まれ、主にチュニジアに住み着いた彼らによってズィール朝は甚大な被害を受けるが、ハンマード朝はズィール朝との対抗上アラブ人たちと友好関係を結び、アルジェリアの平原に彼らを迎え入れて住まわせた。1080年頃からは西の現在のモロッコで興り、アルジェリア北西部を併合したムラービト朝が侵攻してくるが、アラブ遊牧民の支援によって防いだ。 しかしこのことはアラブ遊牧民の干渉を受けて王朝が脅かされる事態を招き、ハンマード朝は1090年にアラブの影響力を受けやすい内陸部の首都カルアを放棄して地中海沿岸のビジャーヤに移った。北遷後のハンマード朝はもはや内陸への支配力を失ってビジャーヤからアルジェにかけてのアルジェリア中部の沿海部をわずかに支配する小国へと転落した。弱体化後のハンマード朝は、なおもビジャーヤで半世紀強にわたって王朝を保ったが、1152年になってムラービト朝に取って代わった新興のムワッヒド朝に征服された。 ハンマード朝は、イスラム帝国の支配が始まって以来、イフリーキヤ(チュニジア)とフェス(モロッコ)の政権によって分割的に支配されることしかなかった現在のアルジェリアの沿岸地域において、初めてアルジェリアを本拠とする政権として存立したことに歴史上の大きな意義がある。また、この時代に内陸部に多くのアラブ遊牧民が到来したことは、アラブの征服以降もベルベル語が優勢であったこの地域の再アラブ化が進む上で大きな転機となった。.

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ハフス朝

ハフス朝(الدولة الحفصية al-Dawla al-Hafsīya; الحفصيون al-Hafsīyūn 1229年 - 1574年)は、チュニスを中心にイフリーキヤ(現在のチュニジア)を支配したベルベル人のイスラム王朝。.

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ムハンマド・ナースィル

ムハンマド・ナースィル(محمد الناصر Muhammad al-Nāsir, ? - 1213年)は、ムワッヒド朝の第4代アミール(在位:1198年 - 1213年)。ムワッヒド朝の最盛期を築いた第3代君主ヤアクーブ・マンスールの子。ユースフ2世ムスタンスィルの父。.

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ムラービト朝

ムラービト朝(アラビア語:المرابطون al-Murābiṭūn)は、1056年に北アフリカのサハラ砂漠西部に興ったベルベル系の砂漠の遊牧民サンハージャ族を母胎とするモロッコとアルジェリア北西部、イベリア半島南部のアンダルシアを支配したイスラム王朝。 英語読みでのアルモラヴィド朝(Almoravid dynasty)とも称される。.

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ムスリム

ムスリム(مسلم、Muslim)とは、「(神に)帰依する者」を意味するアラビア語で、イスラム教の教徒のことである。.

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メッカ

メッカ(مكة Makkah )は、サウジアラビアのマッカ州(歴史的にいえばヒジャーズ地域)の州都である。正式名はマッカ・アル=ムカッラマ(مكة المكرمة Makkah al-Mukarramah 「栄光あるマッカ」)。別名、ウンム・アル=クラー(أم القرى Umm al-Qurā 「町々の母」)。サウジアラビア政府は、1980年代に当市の名前の公式な英語表記を、西洋人が以前から一般に用いてきた綴りである Mecca から Makkah に改めた。.

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モロッコ

モロッコ王国(モロッコおうこく、المملكة المغربية、ベルベル語: ⵜⴰⴳⵍⴷⵉⵜ ⵏ ⵎⵓⵔⴰⴽⵓⵛ)、通称モロッコは、北アフリカ北西部のマグリブに位置する立憲君主制国家。東にアルジェリアと、南に西サハラ(サハラ・アラブ民主共和国)と、北にスペインの飛地(セウタとメリリャ)に接し、西は大西洋に、北は地中海に面している。首都はラバト。 南に接する西サハラはスペインが放棄後、モロッコと現地住民による(亡命)政府であるサハラ・アラブ民主共和国が領有権を主張している。モロッコは西サハラの約7割を実効支配しているが、国際的には認められていない。実効支配下を含めた面積は約599,500km2(うち、西サハラ部分が189,500km2)、人口は33,848,242人(2014年国勢調査)。 地中海世界とアラブ世界の一員であり、地中海連合とアラブ連盟とアラブ・マグリブ連合に加盟している。モロッコはサハラ・アラブ民主共和国を自国の一部であるとの立場から独立国家として承認しておらず、1984年にサハラ・アラブ民主共和国のアフリカ統一機構(2002年にアフリカ連合へ発展)加盟に反対して同機構を脱退、アフリカ大陸唯一のアフリカ連合(AU)非加盟国になっていたが、2017年1月31日に再加入した。.

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ヤアクーブ・マンスール

ヤアクーブ・マンスール(يعقوب المنصور Ya'qūb al-Mansūr, ? - 1198年)は、ムワッヒド朝の第3代アミール(在位:1184年 - 1198年)。第2代君主アブー=ヤアクーブ・ユースフ1世の子で、キリスト教徒を母とする。ムハンマド・ナースィルの父。.

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ヨーロッパ

ヨーロッパ日本語の「ヨーロッパ」の直接の原語は、『広辞苑』第5版「ヨーロッパ」によるとポルトガル語・オランダ語、『デジタル大辞泉』goo辞書版「」によるとポルトガル語。(、)又は欧州は、地球上の七つの大州の一つ。漢字表記は欧羅巴。 地理的には、ユーラシア大陸北西の半島部を包括し、ウラル山脈およびコーカサス山脈の分水嶺とウラル川・カスピ海・黒海、そして黒海とエーゲ海を繋ぐボスポラス海峡-マルマラ海-ダーダネルス海峡が、アジアと区分される東の境界となる増田 (1967)、pp.38–39、Ⅲ.地理的にみたヨーロッパの構造 ヨーロッパの地理的範囲 "Europe" (pp. 68-9); "Asia" (pp. 90-1): "A commonly accepted division between Asia and Europe...

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リビア

リビア国(دولة ليبيا, 、State of Libya)、通称リビア(リービヤー、ليبيا, 、Libya)は、北アフリカに位置する共和制国家。東にエジプト、南東にスーダン、南にチャドとニジェール、西にアルジェリア、北西にチュニジアと国境を接し、北は地中海に面し、海を隔てて旧宗主国のイタリアが存在する。首都はトリポリである。 アフリカ世界と地中海世界とアラブ世界の一員であり、アフリカ連合とアラブ連盟に加盟している。アラブ・マグレブ連合にも加盟しており、広義のマグリブ諸国に含まれる。.

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レコンキスタ

ンティアゴ・マタモーロス'''(モーロ人殺しの聖ヤコブ)。スペインの守護聖人、レコンキスタの象徴 '''イスラーム勢力の後退'''(914年–1492年) イスラーム勢力はイベリア半島の南に押しやられていき、1492年にはすべての領土を失った レコンキスタ()は、718年から1492年までに行われた、複数のキリスト教国家によるイベリア半島の再征服活動の総称である。ウマイヤ朝による西ゴート王国の征服とそれに続くアストゥリアス王国の建国から始まり、1492年のグラナダ陥落によるナスル朝滅亡で終わる。レコンキスタはスペイン語で「再征服」(.

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ベルベル人

ベルベル人(ベルベルじん)は、北アフリカ(マグレブ)の広い地域に古くから住み、アフロ・アジア語族のベルベル諸語を母語とする人々の総称。北アフリカ諸国でアラブ人が多数を占めるようになった現在も一定の人口をもち、文化的な独自性を維持する先住民族である。形質的にはコーカソイドで、宗教はイスラム教を信じる。 自称はアマーズィーグ(転写: ⴰⵎⴰⵣⵉⵖ)。アマジグ人、アマジク人という呼称もこれ由来である。ベルベルの呼称は、ギリシャ語で「わけのわからない言葉を話す者」を意味するバルバロイに由来し、ヨーロッパの諸言語で Berber と表記されることによる。.

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ベルベル語派

TAMAZIGHT(ティフィナグ文字) ベルベル語(ベルベル語: ⵜⴰⵎⴰⵣⵉⵖⵜ - Tamazight)は現在主にモロッコ、アルジェリア、リビアで話されているアフロ・アジア語族の言語。 正確に言えばベルベル語派またはベルベル諸語と呼ぶほうが実状に近い、少しずつ異なる同系統の言語群の総称である。.

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アミール

アミール()は、イスラム世界で用いられる称号である。君主号のひとつとしても用いられる。.

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アラビア語

アラビア語(アラビアご、اللغة العربية, UNGEGN式:al-lughatu l-ʻarabīyah, アッ.

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アルフォンソ8世 (カスティーリャ王)

アルフォンソ8世の像 アルフォンソ8世(Alfonso VIII, 1155年11月11日 - 1214年10月5日)は、カスティーリャ王(在位:1158年 - 1214年)。高貴王(el de las Navas)と呼ばれる。父はサンチョ3世、母はナバラ王ガルシア6世の娘ブランカ。ヒスパニア皇帝を称したカスティーリャ王兼レオン王アルフォンソ7世の孫。 幼少で即位したため治世前半は内紛に苦しめられ、イスラム教に対するレコンキスタ(領土回復運動)もムワッヒド朝にアラルコスの戦いで大敗して停滞、イベリア半島諸国を敵に回し絶体絶命の危機に陥るが、治世後半は外交で挽回してキリスト教諸国と関係を修復、ラス・ナバス・デ・トロサの戦いでムワッヒド朝に勝利して雪辱を果たし、レコンキスタを大きく前進させた。.

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アンダルシア州

アンダルシア州(Andalucía)は、スペインを構成する自治州の一つである。 スペイン南部に位置し、北はエストレマドゥーラ州とカスティーリャ=ラ・マンチャ州、東はムルシア州、そして西はポルトガルと接し、南は地中海・ジブラルタル海峡・大西洋がある。州都は、セビリア。自治州政府はフンタ・デ・アンダルシーア(Junta de Andalucía)。近年はアンダルシーアという表記も見られる。 気候は典型的な地中海性気候で、夏はまばゆい太陽が輝き暑い。雨はあまり降らない。.

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アンダルス

1031年のイベリア半島 アル=アンダルス(Al-Ándalus、الأندلس、)とは、イスラーム世界において歴史的にスペインのアンダルシア地方を中心とするイスラーム勢力統治下のイベリア半島一帯のことを漠然と指す呼称。レコンキスタでイスラーム勢力統治領域が狭まっても、史料でキリスト教諸国の領域はアンダルスとして扱われることはほとんどなく、レコンキスタ最末期に「アンダルス」との言及があれば、それはナスル朝の領域を指す。.

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アトラス山脈

アトラス山脈の位置 アトラス山脈(アトラスさんみゃく、ベルベル語:ⵉⴷⵓⵔⴰⵔ ⵏ ⵓⴰⵟⵍⴰⵙ, جبال الأطلس.)は、アフリカ北西部、モロッコからチュニジアにかけて東西に伸びる褶曲山脈である。名称はギリシア神話の巨神アトラスにちなんでいる。.

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アブー=ヤアクーブ・ユースフ1世

アブー=ヤアクーブ・ユースフ1世(? - 1184年)は、ムワッヒド朝の第2代君主(在位:1163年 - 1184年)。.

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アブドゥルムウミン

アブドゥルムウミン(‏عبد المؤمن بن علي もしくは عبد المومن الــكـومي, ティフィナグ文字: ⵄⴰⴱⴷ ⵍⵎⵓⵎⵏ ⵍⴳⵓⵎⵉ 1094年? - 1163年) は、12世紀に北アフリカで建国されたムワッヒド朝の創始者。ベルベル人のザナータ族の出身リトル「アブドゥル・ムーミン」『世界伝記大事典 世界編』1巻、156-157頁。 12世紀初頭のモロッコで起きた宗教運動に参加し、北アフリカのモロッコからチュニジアにかけての地域とイベリア半島にまたがる国家を建設した。彼の時代に、マグリブの政治的統一が達成されたサイディ「アル・ムワッヒド指導下のマグリブの統合」『ユネスコ・アフリカの歴史』4 上巻、56頁。.

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イブン・ルシュド

アブー・アル=ワリード・ムハンマド・イブン・アフマド・イブン・ルシュド(أبو الوليد محمد بن أحمد بن رشد, 1126年4月14日 - 1198年12月10日)は、スペインのコルドバ生まれの哲学者。ムワッヒド朝のもとで君主の侍医、後にはコルドバのカーディー(裁判官)となった。1197年にはムワッヒド朝の君主ヤアクーブ・マンスールが哲学を禁止したことでイブン・ルシュドは追放され、その後モロッコのマラケシュで亡くなっている。 アヴェロエス (Averroes) の名でよく知られている。アラブ・イスラム世界におけるアリストテレスの注釈者として有名。また、医学百科事典を著した。神秘主義者ガザーリーの哲学批判書『哲学者の矛盾』に対して、哲学者の立場から『矛盾の矛盾』を執筆して批判に反駁を加えている。 彼の著作は、中世ヨーロッパのキリスト教のスコラ学者によって、ラテン語に翻訳され、ラテン・アヴェロエス派を形成した。 ラッファエッロ・サンツィオの代表作であるアテナイの学堂にギリシア哲学者の一人として描かれている。 「中世思想原典集成.11 イスラーム哲学」(平凡社、2000年)に、著書『矛盾の矛盾』が日本語訳されている。 画像:Averroes closeup.jpg|アテナイの学堂で描かれたイブン・ルシュド(中央の人物) 画像:AverroesColor.jpg|14世紀の画 画像:Statue of Averroes in Córdoba, Spain.jpg|スペイン、コルドバの石像 画像:Colliget Auerrois totam medicinam V00026 00000002.tif|Colliget.

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イブン・トファイル

イブン・トゥファイル(Abu Bakr Muhammad ibn Abd al-Malik ibn Muhammad ibn Tufail al-Qaisi al-Andalusi ‏أبو بكر محمد بن عبد الملك بن محمد بن طفيل القيسي الأندلسي‎、1105年-1185年)は、スペイン・アンダルシア地方で活躍したイスラーム哲学者。西方イスラーム哲学においてイブン・バーッジャとイブン・ルシュドを繋ぐ大事な思想家である。ヨーロッパ語圏ではラテン語されたアブバーケル (Abubacer) の名でも知られている。.

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イブン・トゥーマルト

アブー・アブド・アッラーフ・ムハンマド・イブン・トゥーマルト(Abu Abd Allah Muhammad Ibn Tumart、أبو عبد الله محمد ابن تومرت、1075年頃サイディ「アル・ムワッヒド指導下のマグレブの統合」『ユネスコ・アフリカの歴史』4 上巻、27頁/1080年頃佐藤「イブン・トゥーマルト」『岩波イスラーム辞典』、161頁 - 1130年)は、イスラム教の宗教指導者。12世紀の北アフリカのマグリブで始まったムワッヒド運動の創始者であり、彼の死後に弟子のアブドゥルムウミンが指導者の地位を継承し、ムワッヒド朝を創始した。.

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イベリア半島

イベリア半島(スペイン語・ポルトガル語・ガリシア語:Península Ibérica、カタルーニャ語:Península Ibèrica、バスク語:Iberiar penintsula)は、ヨーロッパの南西に位置する半島である。.

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イスラム王朝

イスラム王朝(イスラムおうちょう)とは、ムスリム(イスラム教徒)の皇帝や国王が支配する国家である。ムハンマドの指導によりムスリムたちがイスラム教の教えの下に結束して、アラビア地域をはじめとする西アジア周辺のオリエント全域に興した国が最初で、分裂したり、新たに建国されたり、征服活動や貿易活動などにより、さまざまな地域にイスラム教が伝播し、北アフリカ、東アフリカ、西アフリカ、中央アジア(トルキスタン)、スペイン、インド、マレーシア、インドネシアにもイスラム王朝が誕生した。 中でもイスラム世界の中心的なイスラム王朝をイスラム帝国と呼ぶ。 カリフやスルタンを擁する中近東に拠点を置いた中心的な大帝国を築いた正統カリフ4代とウマイヤ朝、アッバース朝を代々まとめてサラセン帝国(ヨーロッパで使われていた呼称)、大食(唐で使われていた呼称)という。この大帝国をイスラム帝国と呼ぶことが多く、特にアッバース朝が真のイスラム帝国と考えることができる国家体制を築き上げた。 西アジア周辺ではイスラム教による厳格な律法が支配し、異教徒に対する団結とジハードが徹底して行われ、逆にムスリム同士及び服従した属領との間であれば寛容な政策が行われることがほぼ共通していた。そのため、ユーラシア大陸のほぼ中央を支配していた地の利も幸いして文物の交流が空前の規模で行われ、イスラムの諸帝国は世界の他の地域に比べ抜きんでた発展を遂げ、イスラム世界が世界の広い地域に広がった。のちにその技術や科学、思想が異教世界にも広がり、ヨーロッパのルネッサンスやインドのシク教などのきっかけともなった。.

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ウラマー

ウラマー(アラビア語: ʿulamāʾ)とは、イスラームにおける知識人のこと。アラビア語の「知る」( ʿalima)の能動分詞「知る者」( ʿālim)の複数形である。通常、集団として扱うため術語として原語、欧米語、日本語とも複数形のウラマーを用いる。日本語ではイスラム法学者と訳される場合が多い。.

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カリフ

イスラム世界で承認された最後のカリフ、アブデュルメジト2世 カリフ(Caliph)あるいはハリーファ(خليفة khalīfa) は、預言者ムハンマド亡き後のイスラーム共同体、イスラーム国家の指導者、最高権威者の称号である。.

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カスティーリャ王国

ティーリャ王国(カスティーリャおうこく、Reino de Castilla)は、中世ヨーロッパ、イベリア半島中央部にあった王国である。キリスト教国によるレコンキスタ(国土回復運動)において主導的役割を果たし、後のスペイン王国の中核となった。 Castillaの日本語表記は、カスティーリャ、カスティーリヤ、カスティリャ、カスティーリァ、カスティーリア、カスティリア、カスティーヤ、カスチラ、カストリヤ、カストリア、カステリヤ、カステリア、カスティージャと様々に音写されている。また菓子のカステラは、王国名のポルトガル語発音である「カステーラ」(Castela)からとされている。.

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キリスト教徒

リスト教徒(キリストきょうと、Christianus; クリスティアーヌス)あるいはクリスチャン(Christian)とは、キリスト教の信徒のことである。 キリスト教はいくつかの教派に分かれているが、ナザレのイエスを救世主キリスト(メシア)と信じ、旧約聖書に加えて、新約聖書に記されたイエスや使徒たちの言行を信じ従い、その教えを守る者がキリスト教徒であると言える。 日本では、明治時代以前、キリスト教徒のことを「キリシタン」と呼んだ。近現代の日本のキリスト教徒はキリスト者(きりすとしゃ)と自称することがある。日本正教会ではロシア語から「ハリスティアニン(Христианин)」との転写も用いられる。.

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コルドバ (スペイン)

ルドバ(Córdoba)は、スペイン・アンダルシア州コルドバ県のムニシピオ(基礎自治体)。コルドバ県の県都である。グアダルキビール川に面する。 かつての後ウマイヤ朝の首都で、イスラム時代の文化を伝える建築物や街路が遺されている。メスキータやユダヤ人街を含む「コルドバ歴史地区」は世界遺産に登録されている。.

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スペイン語

ペイン語(スペインご、)もしくはカスティーリャ語(カスティーリャご、)は、インド・ヨーロッパ語族イタリック語派に属する言語。略して西語とも書く。.

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スーフィズム

ーフィーの回旋舞踊 スーフィズム(صوفية, )とは、イスラム教の神秘主義哲学である。.

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ズィール朝

ィール朝またはズィーリー朝、ジール朝、ジーリー朝(アラビア語: الزيريون al-Zīrīyūn)は、イフリーキヤ(現在のチュニジア)を支配したベルベル人のイスラム王朝(973年 - 1148年)。その最大版図は、トリポリタニア(リビア西部)から現在のアルジェリア北部にまで及び、シチリア島も影響下にあった。 ズィール朝の始祖ブルッギーン・イブン=ズィーリーはファーティマ朝に仕えるベルベル人の軍人で、972年にカリフのムイッズが新たに征服されたエジプトのカイロに移り、王朝を東遷するにあたり、イフリーキヤ以西のマグリブの統治を委ねられたことによってイフリーキヤに政権を樹立した。ズィール家はカイラワーンに首都をおき、ファーティマ朝カリフの宗主権のもとでマグリブに安定した支配体制を築くことに成功し、978年にはファーティマ朝よりトリポリタニアの統治まで任されてリビアまで支配下においた。また979年から984年にかけては西マグリブに遠征しファスとシジルマーサを占領した。 983年、イフリーキヤの支配を受け継いだブルッギーンの子マンスールはファーティマ朝からの自立の意志を明らかにし、事実上独立した。しかし、1014年にはブルッギーンの別の子で、当時の君主バーディースの叔父にあたるハンマードがアルジェリア北東部においてザナータ族の土地を奪ってズィール朝からの独立を宣言し、ハンマード朝を立ててズィール朝から独立した。 ズィール朝は木材や鉄などの材料に恵まれたことから艦隊の建造に着手する。しかし艦隊は一度、シチリア島への航海中に嵐で破壊されてしまう。だが、バーディースの子で当時の君主アルムイッズはまた艦隊を再建し1026年から1035年にかけてビザンツ帝国のアドリア海岸、エーゲ海岸を攻撃した。 ズィール朝は1051年にはシーア派のファーティマ朝の宗主権を最終的に放棄し、スンナ派のアッバース朝カリフを新たに承認した。これによりズィール朝とファーティマ朝の対立は決定的となり、ファーティマ朝はエジプトから領内に居住するバヌーヒラル族らアラブ遊牧民(ベドウィン)をマグリブに送り込んでズィール朝を襲わせることにした。彼らは遊牧に適したチュニジアの地に居座ってズィール朝の諸都市を攻撃、略奪し、首都カイラワーンを脅かしたので、1057年にズィール朝は内陸のカイラワーンを放棄して地中海沿岸で防衛に有利なマフディーヤに移った。この結果、ズィール朝はわずかにマフディーヤを中心とするチュニジア東部の海岸部を保持する都市国家に過ぎなくなり、イフリーキヤの各都市は諸部族の小国に分裂した。 1087年にはジェノヴァとピサの艦隊がマフディーヤを占領しベドウィンを追い出した。そのため君主タミームはその代償として10万ディナールをこの艦隊に献上した。その後ズィール朝は艦隊を再建し君主ヤフヤーの時にジェノヴァやサルデーニャ島を攻撃した。 1140年、マフディーヤのズィール朝はキリスト教徒のシチリア王国の艦隊に攻撃され、シチリアの属国となった。1146年にはシチリアに対して反抗し、シチリアに従属したガーベスの領主を滅ぼした。このために再びシチリア艦隊の遠征を招き、1148年に最後のアミール、ハサンがマフディーヤを追われてズィール朝は滅んだ。その滅亡後、1152年から1160年の間にイフリーキヤはムワッヒド朝が奪取し、その支配下に入る。.

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セビリア

ビリア(Sevilla, )は、スペイン・アンダルシア州セビリア県のムニシピオ(基礎自治体)。アンダルシア州の州都であり、セビリア県の県都である。自治体人口は約70万人(スペイン第4位)であり、セビリア都市圏の人口は約130万人である。スペイン南部の政治、経済、文化の中心地であり、観光都市である。.

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タウヒード

タウヒード(アラビア語表記:توحيد, トルコ語表記:Tevhid, ラテン語表記:Tawḥīd, あるいは Tawheed, Tauheed とも)とは、イスラームにおける一神教の概念である。イスラームにおいて、タウヒードは〈一化の原理〉を意味すると同時に、世界観と存在論、すなわち価値観の根本である。 また、タウヒード論においては、神の唯一性という言葉で、和訳され論じられることも多いが、神の唯一性という言葉は、アラビア語において(ラテン文字表記をすると)waḥḥdat-Allah という明確な表現があるので、正確な訳出とはいえない点で留意する必要がある。したがって、この記事においては、神の唯一性を起点とした上で、そこで活用された〈一化の原理〉に則りながら、現実解釈のための基本原則を提示する内容を描出することとなる。 タウヒードの反対の概念は、シルク(shirk、多元性)である。.

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第三書館

三書館(だいさんしょかん)は文芸、ノンフィクションを中心とした日本の出版社。.

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講談社

株式会社講談社(こうだんしゃ、英称:Kodansha Ltd.)は、日本の総合出版社。創業者の野間清治の一族が経営する同族企業。.

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講談社学術文庫

講談社学術文庫(こうだんしゃがくじゅつぶんこ)は、講談社刊の文庫判・学術書レーベル、1976年(昭和51年)に発足。シンボルマークは、古代エジプトで知識や学問の象徴とされていた「トキ」(アフリカクロトキ)の姿をした神トートである。 単行判・選書新書の(改訂・改題も含む)再刊、古典新訳のみならず、文庫書き下ろしでの出版も多い。約40年間で2000冊代を刊行、重版多数の書目がある一方で、初版のみで品切絶版となった書目も多い。 2011年(平成23年)より、電子書籍版を購入できるiOS用のアプリケーション「選書メチエ&学術文庫」をApp Storeを配信している。.

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英語

アメリカ英語とイギリス英語は特徴がある 英語(えいご、)は、イ・ヨーロッパ語族のゲルマン語派に属し、イギリス・イングランド地方を発祥とする言語である。.

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新潮社

株式会社新潮社(しんちょうしゃ)は、日本の出版社。.

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新潮選書

新潮選書(しんちょうせんしょ、)は、新潮社が発行している選書レーベルである。四六判、ソフトカバー。 1967年5月創刊。 以来、2009年現在で600点以上が刊行されている。カバーデザインは21世紀に入り2度変更された。 毎月およそ、2~3冊ずつ刊行される。ロングセラーには、江藤淳『漱石とその時代 (全5巻)』、高坂正堯『文明が衰亡するとき』、江川卓『謎とき「罪と罰」』、東山魁夷『風景との対話』、西成活裕『渋滞学』などがある。 選書レーベルのなかで、通し番号を付していないのは珍しい存在である。.

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1121年

記載なし。

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1130年

記載なし。

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1147年

記載なし。

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1163年

記載なし。

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1184年

記載なし。

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1199年

記載なし。

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1212年

記載なし。

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1213年

記載なし。

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1214年

記載なし。

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1224年

記載なし。

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1227年

記載なし。

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1229年

記載なし。

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1232年

記載なし。

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1235年

記載なし。

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1242年

記載なし。

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1248年

記載なし。

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1266年

記載なし。

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1269年

記載なし。

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12世紀

アンコールの地にアンコール朝の王スーリヤヴァルマン2世はアンコール・ワットの建設を行い、続くジャヤーヴァルマン7世はアンコール・トムを築いた。画像はアンコール・トムのバイヨン四面像(観世菩薩像)。 12世紀(じゅうにせいき)とは、西暦1101年から西暦1200年までの100年間を指す世紀。.

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