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ムジャンガ

索引 ムジャンガ

ムジャンガ(ᠮᡠᠵᠠᠩᡤᠠ 転写:mujangga、穆彰阿、1782年 - 1856年)は清朝の満州族官僚。字は子樸。鶴舫または雲漿山人と号する。ゴギャ氏(gogiya hala、郭佳氏)、鑲藍旗人。 官僚の家庭に生まれる。父親はグワンタイ(広泰)。嘉慶10年(1805年)に進士及第した後、軍機大臣、翰林院掌院学士、兵部尚書、戸部尚書、協弁大学士、太子太保等の職を歴任する。道光8年(1828年)に軍機処入りすると、20年余りにわたって軍機大臣を務める。道光帝の感情を揣摩することに優れ、その在位期間を通じ重用された。人は「在位二十年,亦愛才、亦不大貪,惟性巧佞,以欺罔蒙蔽為務」と称した。漕運総督も務める。朝野に広く存在した門下生たちは「穆党」として知られ、道光23年(1843年)に抜擢した曽国藩とは師弟の誼を持った。 阿片戦争前は阿片弛緩論派の巨魁としてキシャン(琦善)らとともに軍機大臣王鼎、林則徐ら阿片厳禁派と対立、弛緩を促進し厳禁派を退ける策謀を謀るも厳禁論に傾倒していた道光帝を翻意させることはできず、道光帝は林則徐を欽差大臣に任命、広東での阿片取締りに当たらせた。阿片戦争(1840年6月28日 - 1842年8月29日)が勃発するとキシャンを支持し、林則徐、鄧廷楨らを罷免した。王鼎はムジャンガが国を誤らせたと激しく憤慨し自害、死を以て諌めようとした。。咸豊帝は即位後の1851年、林則徐や姚瑩らを起用、ムジャンガを「位を保ち榮を貪り、賢を妨げ国を病む」と指弾して罷免、二度と任用することはなかった。咸豊6年(1856年)病死。.

42 関係: 協弁大学士吏部工部 (六部)広東省トウ廷テイ嘉慶 (清)咸豊咸豊帝キシャン八旗兵部理藩院翰林院直隷総督道光道光帝軍機大臣軍機処都察院阿片戦争進士耆英陳中孚林則徐東宮三師欽差大臣満州民族漕運総督戸部 (六部)曽国藩1782年1805年1828年1840年1842年1843年1851年1856年6月28日8月29日

協弁大学士

協弁大学士(きょうべんだいがくし、満州語:、転写:aisilame icihiyara aliha bithei da)は中国清代の官職のひとつ。従一品に相当する。 順治16年(1659年)、清朝は文館と内三院(bithe i ilan yamun、内国史院・内秘書院・内弘文院)を統一し、名を内閣(dorgi yamun)と改めると、その内閣に大学士及び協弁大学士を設けた。協弁大学士には満州族と漢族それぞれ2名が充てられた(満漢偶数官制)。1730年代の乾隆帝期に、協弁大学士は三殿三閣大学士(体仁閣大学士 gosin be dursulere asari i aliha bithei da、保和殿大学士 enteheme hūuwaliyambure diyan i aliha bithei da、文華殿大学士 šu eldengge diyan i aliha bithei da、武英殿大学士 horonggo yangsangga deyen i aliha bithei da、文淵閣大学士 šu tunggu asari i aliha bithei da、東閣大学士 dergi asari i aliha bithei da)となる。 Category:清朝の官職 Category:中国の制度史.

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吏部

吏部(りぶ)は六部の一。文官の任免・評定・異動などの人事を担当した。 後漢のときに吏曹が設置され、尚書常侍曹と改められた。魏晋南北朝時代より吏部と称され、隋唐五代十国では尚書省のもとで六部の首位に置かれた。 長官として(吏部尚書)が、次官として侍郎(吏部侍郎)が2人置かれた。隋唐期には吏部の下に・・・の4司が置かれ、各曹の長にはそれぞれ判官であるとが据えられた。 唐の初期には科挙を主管したが、玄宗の開元24年(736年)からは礼部が主管した。唐の中期に至り尚書省の権限が他の機関に侵されるようになると、吏部の役人の任免権も低下していった。司列、天官、文部と改称されたこともあるが、やがて吏部に戻された。.

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字(あざな、)とは、中国など東アジアの漢字圏諸国で使われる人名の一要素である。 昔、中国で成人男子が実名以外につけた名。日本でも学者・文人がこれをまねて用いた。 また、実名以外に呼び習わされた名。あだな。.

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工部 (六部)

工部(こうぶ)は中国古代の役所。六部の一。長官は(工部尚書)で、次官は侍郎(工部侍郎)である。 隋唐代に工部の下には建設と庶務を担当する工部、開墾を担当する屯田(とんでん)、山川を担当する虞部(ぐぶ)、水利事業を担当するの4司が設けられ、各曹にはその長として判官であるととが置かれた。 周代には冬官に属し、秦漢では少府に属した。魏は少府より水部曹を分設した。水部曹は尚書台に属し、水利事業・水運を担当した。晋では屯田曹・起部曹を設置し、農墾と水利事業を担当した。隋では前述の諸曹を統合して、工事・屯田・水利・交通を主管する工部を設置し、尚書省の六部の一つとなった。.

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広東省

広東省(カントンしょう、中国語:廣東省(广东省)、中国普通話拼音:Guǎngdōng Shěng、広東語拼音:gwong2 dung1 saang2、英語:Guangdong)は、中華人民共和国南部にある行政区分の一つである。隣の広西チワン族自治区と併せて「両広」と呼ばれる事もある。.

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トウ廷テイ

鄧廷楨 鄧 廷楨(とう ていてい、Deng Tingzhen、1776年 - 1846年)。字は維周または嶰筠、号は妙吉祥室老人、剛木老人。清の官僚。 江蘇省江寧出身。1801年、進士となり、翰林院編修となる。その後、浙江省寧波・陝西省延安・楡林・西安などの知府を歴任し、さらに湖北按察使・江西布政使・陝西按察使・陝西布政使の職についた。1826年に安徽巡撫に昇進し、1835年には両広総督に就任した。 両広総督に就任した当初はアヘンの弛禁論を唱えたが、広州でのアヘン吸引の害が拡大するのに伴って、立場を変えて厳禁論を主張するようになった。欽差大臣林則徐が広州に到着すると、鄧廷楨は林則徐のアヘン密輸取締りに協力した。 1840年、閩浙総督に転任になった。阿片戦争が勃発すると鄧廷楨は福建省の海防を強化し、7月2日には廈門でイギリス軍を撃退した。だが9月28日、戦況の悪化とイギリス側の要求で鄧廷楨は解任され、イリ地方へ流罪となった。しかしほどなく再起用され、陝西巡撫となった。1846年、西安で病死。遺体は南京の麒麟門外に埋葬された。 鄧廷楨は詩文をよくし、能書家としても知られていた。著書に『双硯斎詩鈔』がある。.

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嘉慶 (清)

嘉慶(かけい、満洲語:、ローマ字表記:saicungga fengšen)は清の仁宗の治世中に使われた元号。1796年 - 1820年。一世一元の制を採用していたため仁宗は嘉慶帝と称される。.

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咸豊

咸豊(かんぽう、満州語:、転写:gubci elgiyengge)は清の文宗の治世中に使われた元号。1851年 - 1861年。一世一元の制を採用していたため文宗は咸豊帝と称される。.

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咸豊帝

咸豊帝(かんぽうてい)は清の第9代皇帝(在位:1850年 - 1861年)。諱は奕詝(えきちょ、詝は貯の偏をごんべんに変えたもの)。廟号は文宗(ぶんそう)。在世時の元号の咸豊を取って咸豊帝と呼ばれる。.

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キシャン

ャン(ᡣᡞᡧᠠᠨ 転写:kišan、琦善、きぜん、1786年1月18日(乾隆50年12月19日) - 1854年8月3日(咸豊4年閏7月10日))は、清の官僚。字は静庵。ボルジギト氏、満州正黄旗人。.

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八旗

八旗(はっき・グサ、ᠵᠠᡴᡡᠨᡤᡡᠰᠠ メレンドルフ転写:jakūn gūsa)は、清代に支配階層である満洲人が所属した社会組織・軍事組織のことである。また、この制度を指して八旗制と呼ぶ。 八旗は旗と呼ばれる社会・軍事集団からなり、すべての満洲人は8個の旗のいずれかに配属された。後にはモンゴル人や漢人によって編成された八旗も創設される。八旗に所属する満洲人・モンゴル人・漢人は旗人(きじん、gūsa i niyalma)と総称され、清の支配階層を構成した。.

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兵部

兵部(へいぶ)は中国中世~近世の役所で、六部の一。国防を担当し、長官を(兵部尚書)、次官を侍郎(兵部侍郎)という。尚書は正三品で一名、侍郎は二名。 兵部は隋の時に設置され唐に継承された。属曹に兵部、職方(しょくほう)、駕部(がぶ)、庫部(こぶ)の4司を設けてそれぞれに判官であるとを置き、武官の人事・兵器・軍政などを管掌した。その後も兵部の設置を踏襲したが、王朝により権限は異なっていた。宋、遼、金、元では軍政を担当しなかった。明ではその権限は重かったが、清では武官の選抜と処分・兵器・兵站を担当するだけで兵権に干渉できなかった。 清の光緒32年(基督教暦1906年)、光緒新政で陸軍部と改められ、後に海軍部も設置され、兵部の名称は廃せられた。 朝鮮、ベトナムでも同名の官庁があったほか、日本の律令でも兵部省が設けられた。.

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理藩院

藩院(りはんいん、中国語:理藩院、満州語: 、転写 : tulergi golo be darasa jurgan; モンゴル語:γadaγdu mongγul un törü-ji jasaqu jabudal-un jamun)は清朝において諸藩部に関する行政事務統轄を目的に設置された官署。 清朝太宗により平定後の内蒙古の間接統治を目的に設置された蒙古衙門(monggo jurgan)を前身とする。1638年(崇徳3年)に理藩院と改称された。当初、長官には承政、次官には左右参政が設置されたが、1644年(順治元年)に承政を尚書(aliha amban)、参政を侍郎(ashan i amban)とそれぞれ改称されている。1659年(順治16年)には礼部管轄、1661年(順治18年)からは独立した官署となる。 清朝の版図が外蒙古、青海、西蔵、新疆へと拡大するに伴い、これらの地域は藩部と称され、理藩院に統轄されるようになる。理藩院の職務としては諸藩部の朝貢・封爵・俸禄・会盟・駅伝・互市・裁判などが挙げられる。1861年(咸豊10年)に総理各国事務衙門が設置される以前はロシアとの外交・貿易関連事務についてもその職務としていた。 1906年(光緒32年)の官制改革により理藩部と改称、1911年(宣統3年)に内閣制度が創設されると、尚書は大臣、侍郎は副大臣に改められた。.

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翰林院

翰林院(かんりんいん、満州語:bithei yamun)とは、唐の玄宗が738年(開元26年)に設けた翰林学士院がその起源で、唐中期以降、主に詔書の起草に当たった役所のことをいう。元代には国史院と統合されて、翰林国史院と呼ばれていたが、明代には旧に復した。大順では弘文館と呼ばれた。清代では、いわば皇帝直属の秘書室となり、書物の編纂、詔勅の起草などを行った。貯才の地ともいわれ、有為な人材を確保し、勉強や実務の見習をさせ、必要があるときに中央官庁や地方の要職に任命する。 学問や政治の最高の人材が揃うという共通点もあり、Academy (アカデミー)の訳語としても使われることがある。.

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直隷総督

隷総督(ちょくれいそうとく、ᡷᡞᠯᡞᡠᡥᡝᠷᡞᡣᠠᡩᠠᠯᠠᠷᠠᠠᠮᠪᠠᠨ 転写:jyli uheri kadalara amban)は、中国清朝の地方長官の官職である。直隷省・河南省・山東省の総督として管轄地域の軍政・民政の両方を統括した。地方長官として最高位に当たる総督の中でも、特に首都北京近辺を統括した直隷総督は筆頭格であった。 1870年からは華北の外国貿易港の監督も直隷総督の管轄となったため、直隷総督が北洋通商大臣を兼任することになった。.

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道光

道光(どうこう、満州語:、転写:doro eldengge)は清の宣宗の治世中に使われた元号。1821年 - 1850年。一世一元の制を採用していたため宣宗は道光帝と称される。.

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道光帝

道光帝(どうこうてい)は、清の第8代皇帝。諱ははじめ綿寧(めんねい)、即位後に旻寧(みんねい)と改めた。廟号は宣宗(せんそう)。在世時の元号の道光を取って道光帝と呼ばれる。.

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軍機大臣

軍機大臣(ぐんきだいじん、満州語:、転写:coohai nashūn i amban、 正式名称は「弁理軍機大臣」)とは、中国の清朝中後期(1732年-1911年)における主要な役職名である。軍機処で働く高級官僚であった事からこの名が付いたが、軍機大臣は公式の官職ではなく、高級文官の中から選抜された官吏の役職名である。軍機処にあって事務を処理する軍機章京(coohai nashūn i jiyanggiyūn)を「小軍機」と言ったのに対応して、軍機大臣を「大軍機」とも呼ぶ。.

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軍機処

軍機処(ぐんきしょ、ᠴᠣᠣᡥᠠᡳᠨᠠᠰᡥᡡᠨ ᡳᠪᠠ 、転写:coohai nashūn i ba)は、中国清代の政治制度で、皇帝の最高諮問機関である。 軍機処の始まりは軍機房と呼ばれ、1729年7月5日(雍正7年6月)に雍正帝のジュンガル遠征時に軍事における決定を迅速にするために設けられた。それまでの政務の最高機関であった内閣は定員が増え、仕組みが複雑になりすぎていたため皇帝独裁を狙う雍正帝はこれを嫌い、少数人数により迅速に決定が出来る軍機房を使ったのである。軍機房の最初のメンバーは怡親王胤祥(在任:~雍正8年)・張廷玉(在任:~乾隆14年)・蒋廷錫(在任:~雍正10年)の3名であった。 1732年(雍正10年3月)に軍機房は弁理軍機処に改称した。雍正帝が亡くなった直後の1735年12月(雍正13年10月)、乾隆帝によって弁理軍機処は廃止され、その職域を拡大して軍事だけではなく政務全てを見る総理事務処が作られた。1738年1月(乾隆2年11月)に弁理軍機処に再び改称され、この時から軍機処のメンバーを軍機大臣とするようになった。 軍機処は内閣大学士や各部の尚書から選ばれた3人から6人ほどの軍機大臣が選ばれ、最高責任者とされた。制度で定められていたわけではなかったが、漢族・満洲族がほぼ同数選ばれていた。 清も末期になり、国内が乱れてくると役職が高い人物よりも李鴻章のような背後に軍隊を背負った軍閥(郷勇)の方が権勢を振るうようになり、軍機大臣は有名無実化した。.

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都察院

都察院(とさついん、満州語:uheri be baicara yamun)は、諸官の政務を監察するために置かれた官署で、中国の明朝から清朝にかけて存在した。 漢代以来続いていた御史台という監察機関を明朝に入り改めたもので、後の清朝もこれを受け継いだ。 六部や五軍都督府と共に三権の1つとされ、刑部や大理寺と共に三法司と呼ばれ、百官の不正を糾弾し、重大な刑事事案を審議した 左右ある都御史を中心にして、副都御史、監察御史、僉都御史、経歴などの諸官が存在した。 明朝中期以降、次第に総督や巡撫が兼職するようになったが、これは政令の統一を図ったためである。清は基本的に明の制度を継承しつつ、僉都御史を廃して左都御史・左副都御史を都察院の専官とし、右都御史・右副都御史を総督や巡撫の兼官と定めた。雍正元年(1723年)に、明代以来別の監察機関とされていた六科が、都察院に統合された。 とさついん とさついん とさついん.

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阿片戦争

阿片戦争(アヘンせんそう、第一次鴉片戰爭、First Opium War)は、19世紀前半に清へのアヘン密輸販売で巨利を得ていたイギリスと、アヘンを禁止していた清の間で1840年から2年間にわたり行われた戦争である。 イギリスは、インドで栽培し製造したアヘンを、清に密輸して広く組織的に販売し収益を得ていたため、アヘンの流通販売や摂取を禁止していた清との間で戦争となり、イギリスの勝利に終わり、1842年に南京条約が締結され、イギリスへの香港の割譲他、清にとって不平等条約となった。 なお、アロー戦争を第二次とみなして第一次アヘン戦争とも呼ばれる。.

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進士

明代の進士服 進士(しんし、満州語:dosikasi)とは、隋から北宋中期にかけては科挙の六科の一つ。王安石の改革で進士科以外が廃止された後は、科挙の登第者(合格者)を指し、以降の南宋から清まで続いた制度である。.

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耆英

耆英(きえい、キイェン、満州語:、転写:Kiyeng、1787年3月21日(乾隆52年2月3日) - 1858年6月29日(咸豊8年5月19日))は、清朝の人物。アイシンギョロ氏。 アヘン戦争で清朝が劣勢に陥ると、道光帝の命で和平交渉にあたった。1842年、清国全権として南京条約を締結した。その後、五港通商章程・虎門寨追加条約(虎門条約)の締結や、アメリカ合衆国との望厦条約、フランスとの黄埔条約の締結に臨んだ。アロー戦争に際して対英交渉が錯綜する中で責任を問われ、1858年、北京で自殺に追い込まれた。.

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陳中孚

陳 中孚(ちん ちゅうふ、1882年 - 1958年5月24日)は、中華民国の政治家。早くから革命派として活動し、中国国民党では西山会議派の一員と目された。後に汪兆銘政権に参加している。字は奇曽。.

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林則徐

林 則徐(りん そくじょ、Lín Zéxú、1785年8月30日(乾隆50年7月26日) - 1850年11月22日(道光30年10月19日))は、中国清代の官僚、政治家。欽差大臣を2回務めている。 字は少穆(しょうぼく、Shǎomù)。諡は文忠(ぶんちゅう、Wénzhōng)。イギリスによる阿片密輸の取り締まりを強行し、これに対する制裁としてイギリスは阿片戦争を引き起こした。.

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東宮三師

東宮三師は、太子太師、太子太傅、太子太保の総称である。位階は従一品。皇太子を輔導する官僚であり、一般に高位で信望の厚い大臣が兼任、あるいは専任の者があたった。太子少師、太子少傅、太子少保を総称した東宮三少は東宮三師を輔ける官職である。 皇太子を師を敬い道を重んじる品格に育てるため、東宮三師は儀礼上、十分に高く崇められた。《百官志四上》には「太子太師、太傅、太保、各一人、従一品。掌輔導皇太子。毎見、迎拝殿門、三師答拝、毎門必譲、三師坐、太子乃坐。与三師書、前名惶恐、後名惶恐再拝。太子出、則乗路備鹵簿以従。」とある。 東宮三師と東宮三少は後世には次第に栄誉職と化し、単純に実の伴わない高官の肩書となり、皇太子を教導する責務を負わなくなった。 朝鮮の高麗も東宮三師を設けており、王世子を教導する責務を負った。。.

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欽差大臣

欽差大臣(きんさだいじん、ᡥᡝᠰᡝ ᡳᠲᠠᡣᡡᠷᠠᡥᠠᠠᠮᠪᠠᠨ 転写:hese i takūraha amban)は、清朝の官職名。特定の事柄について皇帝の全権委任を得て対処する臨時の官を欽差官というが、その中でも特に三品以上のものを指す。 ただ本来は臨時官であったが、中には時代の変遷と共に常設化したものもある。たとえば総督や巡撫といった官は明代の欽差官が定着したものである。すなわち欽差大臣と呼称されるものには、臨時と常設のものとの2種類があるといって良い。以下に挙げるのは本来の意味での臨時の欽差大臣である。.

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清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.

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満州民族

満州民族(満洲民族、まんしゅうみんぞく、マンジュみんぞく)、満州族(満洲族、まんしゅうぞく、マンジュぞく、ᠮᠠᠨᠵᡠᡠᡴᠰᡠᡵᠠ 、転写:manju uksura)は、満洲(中国東北部、沿海州など)に発祥したツングース系民族。古くは女真族といった。17世紀に現在の中国およびモンゴル国の全土を支配する清を興した。清朝では、民族全体が八つのグサ(.

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漕運総督

漕運総督(そううんそうとく、満州語:juwere jekui baita be uheri kadalara amban)は、明朝と清朝で、漕運(官による穀物の河川・運河での輸送)を統括した官職。従一品または正二品。.

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戸部 (六部)

戸部(こぶ)は六部の一で、土地管理、戸籍、官人への俸給などの財務関連の行政を司掌した。 祖型は三国時代の度支尚書であり、隋にて民部と改称され、更に唐より太宗の諱世民の民字を避諱して戸部と称されるようになった。長官は(戸部尚書)で次官は侍郎(戸部侍郎)。隋唐期に戸(民)部、度支(たくし)、金部(きんぶ)、倉部(そうぶ)の4司が属し、それぞれに判官であるとが置かれた。 その後、安史の乱以降の財政難に対して戸部尚書の下の戸部司と新たに設けられた使職の度支使・塩鉄使が財政を司るところとなり、戸部は有名無実化した。 これが北宋の元豊の改革の際に再び実権を取り戻し、再び財政を司るところと成った。清光緒32年(基督教暦1906年)のにより戸部は度支部と改称され、宣統3年(同1911年)の内閣官制実施で完全に廃止された。.

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曽国藩

曽 国藩(そう こくはん、、嘉慶16年10月11日(1811年11月26日) - 同治11年2月4日(1872年3月12日))は、中国清代末期の軍人、政治家。字は伯函、号は滌生(てきせい)、諡は文正。湖南省湘郷県の出身。弱体化した清朝軍に代わり、湘軍を組織して太平天国の乱鎮圧に功績を挙げた。.

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1782年

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1805年

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1828年

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1840年

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1842年

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1843年

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1851年

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1856年

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6月28日

6月28日(ろくがつにじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から179日目(閏年では180日目)にあたり、年末まであと186日ある。誕生花はクチナシ、ツルハナナス。.

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8月29日

8月29日(はちがつにじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から241日目(閏年では242日目)にあたり、年末まであと124日ある。.

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