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ルイズ・ジュリー・ド・マイイ=ネール

索引 ルイズ・ジュリー・ド・マイイ=ネール

ルイズ・ジュリー・ド・マイイ=ネール ルイズ・ジュリー・ド・マイイ=ネール(Louise Julie de Mailly-Nesle, 1710年 - 1751年)は、フランス王ルイ15世の公妾。マイイ伯爵夫人の称号で一般に呼ばれる。ネール姉妹の長女。しばしばその生き方がルイーズ・ド・ラヴァリエールに似ているといわれる。 ルイズ・ジュリーはネール侯爵家に生まれ、いとこであるマイイ伯爵と結婚する。母のマイイ夫人が王妃マリー・レクザンスカ付きの女官であったため、彼女も宮廷でその役職を務める。彼女が国王と関係を持つようになった時期ははっきりしない。おおむね1733年から35年ごろと推測されるが、その秘密はかなりの間保たれた。関係が公けになったのは38年である。 ルイズ・ジュリーは魅惑的な体と可愛らしい性格の持ち主であったが、美女ぞろいの宮廷の中で必ずしもとびぬけて美しい女性だったというわけではないらしい。同時代の日記や回想録は彼女について、その顔立ちが必ずしも美人でないこと、しかしその性格が、内気で打ち解けることのできない王妃とは違って王を楽しませることができることを記録している。 関係を隠すことがなくなって居室を賜ったあと、ルイズ・ジュリーには王の寵愛を受け影響を与えることのできる者として、後に続く女性たちがそうしたように、権勢を振るうことができた。しかし彼女はそれをしなかった。国王に高官のポストや叙勲について口利きして大金を差し出させることが、むしろ普通だっただけに、かえって変わり者と見なされた。宰相フルーリーは、彼女が政治にも人事にも口を出さないことに安堵して、王が彼女を愛妾とすることを黙認した。 多情な王はルイズ・ジュリーの地位が安定している間でも、他の女性に気を取られることがしばしばだったので、彼女は気を揉んで王の様子を終始窺わずにはいられなかった。消耗した彼女は、味方が欲しくて王宮に自分の妹を招いたが、それが彼女の命取りになった。彼女の妹ポーリーヌ・フェリシテは、姉から王の寵愛を奪い取った。宮廷の観察者たちによれば、その時期は、1740年前後である。彼女は王宮から去ることはなかったが、王はヴェルサイユよりもポーリーヌ・フェリシテに与えたショアジーの館に多く滞在していた。 ヴァンティミール侯爵夫人(ポーリーヌ・フェリシテ)がリュク侯を出産して死去した後、ルイズ・ジュリーは王とよりを戻したが、その時間は短かった。すでに彼女の他の妹ディアーヌ・アデライード、オルタンス・フェリシテ、マリー・アンヌも続々と宮廷にあがって来ていて、そのなかのマリー・アンヌに王は心を奪われた。彼女を愛妾とするにあたって、マリー・アンヌは姉を宮廷から追放することを要求したため、ルイズ・ジュリーはごく短時間のうちにヴェルサイユから去らねばならなかった。1742年11月のことである。 王はさすがに良心が咎めたのか、彼女に年金とパリにおける居住地を提供した。他の夫人たちと違ってルイズ・ジュリーは財産を作っていなかったのである。その後も王はときどきルイズ・ジュリーの思い出話を後の愛妾に語って彼女たちを警戒させた。宮廷から去ったルイズ・ジュリーは、その後の生活を信仰と慈善に捧げ、41歳で亡くなった。王の愛妾だったという過去とはかけ離れたその謙虚な態度と貧しさに多くの人は心打たれたという。 Category:ブルボン朝の人物 Category:公妾 Category:1710年生 Category:1751年没.

11 関係: マリー・レクザンスカマリー・アンヌ・ド・マイイ=ネールネール姉妹ポーリーヌ・フェリシテ・ド・マイイ=ネールルイ15世 (フランス王)ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールフランス王国アンドレ=エルキュール・ド・フルーリー公妾1710年1751年

マリー・レクザンスカ

マリー・レクザンスカ(Marie Leszczyńska(Leszczynska, Lesczynskaとも)、1703年7月23日 - 1768年7月24日)は、フランス王ルイ15世の妃。ルイ16世、ルイ18世、シャルル10世の祖母。父はポーランド王(のちロレーヌ公)スタニスワフ・レシチニスキ、母は王妃カタージナ・オパリンスカ。ポーランド名はマリア・レシチニスカ(Maria Karolina Zofia Felicja Leszczyńska)。.

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マリー・アンヌ・ド・マイイ=ネール

300px マリー・アンヌ・ド・マイイ=ネール(Marie-Anne de Mailly-Nesle, 1717年10月5日 - 1744年12月8日)は、フランス王ルイ15世の公妾。ネール姉妹の五女。シャトールー公爵夫人の称号で知られる。ネール姉妹のなかで最も成功した女性。 マリー・アンヌは1734年に結婚してトゥルネル侯爵夫人となり、その領地に赴いていたが、姉たちが宮廷で成功するのをうらやましく思っていた彼女も夫をせかしてヴェルサイユに出てきた。夫はその後しばらくして病死してしまったので、彼女はより自由に振舞えるようになった。 マリー・アンヌはとびぬけた美しさを持つ女性で、宮廷では多くの男性たちに言い寄られていた。彼女はそのなかでデギュイヨン公爵リシュリューと関係を結んだ。彼の叔父であり、ネール姉妹のいとこでもある、2人の宮廷における後見人であったリシュリュー元帥は、王が彼女の美しさに惹かれていることに気付いていたので、彼女を新たな王の愛妾にしようと考えた。 リシュリューはマリー・アンヌを王妃付き女官にして王に近づけた。ポーリーヌ・フェリシテの前例があったにもかかわらず、姉ルイズ・ジュリーはこれを阻止するどころか喜んで迎え入れた。そのうえでリシュリューは甥といとこの関係を破綻させ、そして王を唆し、王もその気になった。 ところがマリー・アンヌはしたたかだった。彼女は姉たちの前例を研究しており、どうやって自分の立場を確かなものにするか、自分が何を要求できるのか考えていた。まず彼女はルイズ・ジュリーの追放を要求した。そして王の求愛を一度は拒否した。リシュリューは焦ったが、その後彼女は要求する条件を提示した。邸宅や宝石などの財産を贈与すること。より高い身分と地位を与えること。王との間に生まれた子は嫡出子として扱うこと。などであった。王はこの要求を呑み、彼女にシャトールー公爵領を与えた。この後彼女はシャトールー公爵夫人と呼ばれるようになった。 王の愛妾としてマリー・アンヌは大きな権力を手に入れた。彼女はモールパやフルーリーと敵対し、彼らを攻撃した。彼らを排除して王が政治の指揮を執るように薦めた。仕事の嫌いな王は気の向かない作業に少しばかり取り掛かったが、大げさに「私はあなたに殺されてしまいますよ」と言った。このころフランスはオーストリア継承戦争の真っ最中であり、しかも劣勢だった。リシュリューに依頼された彼女は王に盛んに前線に出て軍の士気を高めるよう訴えた。彼女の動きの背後には常にリシュリューがいて、彼と彼女とで王をいかに動かすかについて多くの書簡が取り交わされた。彼女の影響力は外国にも知られており、フリードリヒ大王から工作された彼女はフランスとプロイセン王国との、一度はプロイセンの側から反故にされた同盟関係について、王に同盟保持を働きかけた。 王はフランドル・アルザス前線に出たが、同行を希望したマリー・アンヌは留め置かれた。彼女は不安でたまらず、口実を設けて無許可で王の元にやって来た。幸いにも王に歓迎され、彼女の地位は磐石に見えたが、突如王は発病して生命の危機に陥った。弱気になった王は呼び寄せた聖職者たちの意見にしたがって、愛妾である彼女にこの地を離れるように命じた。彼女はおとなしくフランスに帰ったが、強気で王の回復を待った。期待は持たないほうがいいというリシュリューの助言に対し、彼女は、王が健康な体に戻ったら、必ずや彼女を求めるだろうと返事した。結果はそのとおりになり、王は自分に愛妾を持ったことについて懺悔させた司教を隠遁させ、改めて彼女を呼び寄せた。 マリー・アンヌはヴェルサイユへの帰還について、彼女について反対だった何人かの役職解任を、とくにモールパの追放を要求した。王のモールパについての評価は高かったので、彼についてはそれを拒み、代わりにモールパに王の代理人として彼女を迎えに行くという役目を与えた。マリー・アンヌは勝ち誇ってモールパを出迎えた。彼女はそのとき少し体調を崩していたので、数日後に戻ると伝えたが、その後容態が急変し、苦しんだ末、1744年12月に死亡した。若い彼女の急死は、モールパ毒殺説を呼び起こした。現代では否定されているが、後にポンパドゥール夫人が台頭したとき、モールパは、自分がマリー・アンヌを殺したと周囲に放言することによってポンパドゥール夫人を脅かしたという。 マリー・アンヌの死後、王は例によって、少しの間愛妾の死の衝撃に打ち沈んだが、また新しい愛妾を求め始めた。ローラゲー公爵夫人の名前が取りざたされたが、やがて明らかになったその女性は、すでにパリの社交界では話題になっていたブルジョアの娘、ポンパドゥール夫人だった。 Category:ブルボン朝の人物 Category:公妾 Category:1717年生 Category:1744年没.

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ネール姉妹

ネール姉妹(仏:Sœurs de Nesle)は、ロココ時代のフランス宮廷で登場したネール侯爵家の5人姉妹のこと。3人がルイ15世の公式寵姫(公妾)となり、国政に影響力を与えた。残る2人も王と関係を持ったとされる。姉妹はルイ14世少年期の宮廷でマザラン枢機卿の姪として影響力を誇ったマザリネットの1人、オルタンス・マンチーニの曾孫にあたる。.

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ポーリーヌ・フェリシテ・ド・マイイ=ネール

ポーリーヌ・フェリシテ・ド・マイイ=ネール(Pauline Félicité de Mailly-Nesle, 1712年 - 1741年9月9日)は、フランス王ルイ15世の公妾。ネール姉妹の次女。ヴァンティミール侯爵夫人の称号で一般に呼ばれる。 ポーリーヌ・フェリシテは、姉妹が10代で結婚していく中でなぜか縁がなく、20代の半ばになっても結婚しなかった。これは当時の貴族の娘としてはかなり遅い。ところが1738年、宮廷に上がって公妾となっていた姉ルイズ・ジュリーに呼ばれてヴェルサイユに赴いたことから人生が変わった。 ポーリーヌ・フェリシテは姉と同じかそれ以上に、同時代人からその顔の美しさによっては評価されていない。背が高く、目つきも不遜で、首の長いことについては王からからかわれたこともある。妹に擲弾兵のようだと言われもした。しかし、王を楽しませることについては姉と同等以上の能力を発揮した。やがてルイズ・ジュリーに飽きはじめていた王は、妹を愛妾にしようと考えるようになった。王は彼女をヴァンティミール侯爵と結婚させて身分と地位を与えた上で、やがて自らの愛妾とした。予想外にも妹がライバルとなったルイズ・ジュリーは、後のように追い出されることはなかったが、なんとも動きようのない立場に立たされた。 新しい愛妾に王はショアジーの城館を与え、かなりの時間をそこで過ごした。ポーリーヌ・フェリシテは王の子を妊娠し、ドミ=ルイと呼ばれるリュク侯を出産したが、その後彼女の様態が急変し、死亡した。繊細だった王は彼女の死にショックを受け、しばらく自らの行いを反省するかに見えたが、王の意志は常に長続きせず、一時は関係を回復しかけたルイズ・ジュリーも見捨てて新しい愛妾を探すようになった。 ポーリーヌ・フェリシテは姉と違い、権勢欲が旺盛で、人事に介入し、王にフルーリーやモールパを退けるよう働きかけた。この路線は妹マリー・アンヌに受け継がれた。 Category:ブルボン朝の人物 Category:公妾 Category:難産死した人物 Category:1712年生 Category:1741年没.

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ルイ15世 (フランス王)

ルイ15世(、1710年2月15日 - 1774年5月10日)は、ブルボン朝第4代のフランス国王(在位:1715年9月1日 - 1774年5月10日)。ナバラ国王としてはルイス4世()。 曾祖父ルイ14世の死によりわずか5歳で即位し、ルイ14世の甥に当たるオルレアン公フィリップ2世が摂政の座に就いて政務を取り仕切った。成人後はブルボン公ルイ・アンリ、次いでフルーリー枢機卿が執政した。優れた政治家であるフルーリー枢機卿の執政によりフランスは繁栄した。フルーリー枢機卿の死後は親政を行う。ポーランド継承戦争に参戦して領土を得たが、続くオーストリア継承戦争では得るものはなく、戦争により財政を逼迫させた。七年戦争ではアメリカ大陸の権益を失い、フランスの衰退を招いた。ジョン・ローのミシシッピ会社が破綻してしまい、治世の間に5回もデフォルトした。 多くの愛人を持ち私生活は奔放で、最愛王(Bien-Aimé)と呼ばれた。特にポンパドゥール夫人とデュ・バリー夫人はルイ15世の治世に大きな影響を与えている。晩年になってショワズール公、次いで大法官を起用して改革を行い王権の強化を図るが、1774年に天然痘により64歳で崩御した。 この時代、啓蒙思想がヨーロッパ世界を席巻し、ヴォルテール、モンテスキュー、ルソーなどがフランスのサロンで活躍している。.

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ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール

フランソワーズ・ルイーズ・ド・ラ・ボーム・ル・ブラン(, 1644年8月6日 - 1710年6月7日)は、フランスの貴族。フランス王ルイ14世の愛妾(公妾)となり、ラ・ヴァリエール女公爵()とヴォージュール女公爵()の称号を与えられた。.

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フランス王国

フランス王国(フランスおうこく、Royaume de France)は、現在のフランス共和国の領域にかつて存在し、その前身となった王国。起源はフランク王国に遡り、「フランス王国」の名も「フランク王国」の発音が変化したものである。また、西フランク王国とフランス王国は同一の王国を指す歴史学上の別名であり、一般にはユーグ・カペーが西フランク王に即位した987年以降の西フランク王国を指して「フランス王国」と呼び、それ以前のフランス王国を指して西フランク王国と呼ぶ。これを前提とすると、1789年のフランス革命まで800年間、さらに1848年にオルレアン朝が倒れて王政が廃止されるまで、第一共和政・第一帝政期(1792年 - 1814年)を挟んで約840~860年間、存続したことになる。.

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アンドレ=エルキュール・ド・フルーリー

アンドレ=エルキュール・ド・フルーリー (André Hercule de Fleury, 1653年6月22日/26日 - 1743年1月29日)は、フランスの聖職者、政治家。フランス王ルイ15世の若年期に宰相を務めた。アカデミー・フランセーズの一員。.

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公妾

公妾(こうしょう)は、側室制度が許されなかったキリスト教ヨーロッパ諸国の宮廷で主に近世に採用された歴史的制度。'Maîtresse royale'(仏、英:Royal mistress、王の愛人)から訳された歴史用語。寵姫。.

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1710年

記載なし。

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1751年

記載なし。

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