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ボロジノ

索引 ボロジノ

ボロジノに建つ救世主修道院 ボロジノ(Бородино́, Borodino)は、ロシアのモスクワ州西部のモジャイスキー地区にある村。首都モスクワからは西へ100km、最寄りの大きな町であるモジャイスク市の西12kmの位置にあり、モスクワ川の右岸に建つ。 ボロジノ村は、ナポレオン1世の大陸軍と、ミハイル・クトゥーゾフ率いるロシア帝国軍が戦った、1812年9月7日のボロジノの戦いの舞台として知られている。当時の戦場跡はボロジノ古戦場(Бородинское поле)と呼ばれ広大な範囲が保全されており、ボロジノ軍事史博物館および保護区がその中にあり、記念碑も建っている。 ボロジノは1941年10月からのモスクワの戦いでも、赤軍の第32狙撃師団と、ドイツ国防軍の中央軍集団に属する第10機甲師団やSS師団ライヒとの間の戦場になっている。.

21 関係: 大陸軍 (フランス)師団中央軍集団ナポレオン・ボナパルトミハイル・クトゥーゾフネームシップモジャイスクモスクワモスクワの戦いモスクワ州モスクワ川ロシアボロジノの戦いボロジノ級戦艦ドイツ国防軍第2SS装甲師団赤軍機甲師団1812年1941年9月7日

大陸軍 (フランス)

大陸軍(仮名:だい・りくぐん|仏語:Grande Armée)は、フランス第一帝政下の陸軍組織であり、ナポレオン1世が命名したフランス兵を中核とする軍隊の名称である。1805年8月29日に発足した。いわゆるである。 その前身は1804年に大西洋沿岸軍(Armée des côtes de l'Océan)の名で編制された方面軍であり、イギリス本土侵攻を目的にドーバー海峡に面するブローニュに配置されて総勢18万の兵員で構成されていた。しかし、翌1805年にナポレオンはイギリス上陸作戦が実は困難な事を悟らされて目標の変更を迫られていた。折りしもイギリスとオーストリアの間で第三次対仏大同盟が結成された事でその口実を得たナポレオンは、同年8月29日から大西洋沿岸軍を内陸部のライン川に向けて進軍させ、同日の参謀長ベルティエに宛てた手紙の中で始めて「Grande Armée」という言葉を使っている。この時から大西洋沿岸軍は大陸軍に改称したと見られ、以後はヨーロッパ大陸全域を管轄にして戦う事になった。 1805年にオーストリア、ロシアと交戦した後も、1806~1807年のプロイセン、ロシアとの戦い、1808年から1814年までのスペイン半島戦争、1809年のオーストリアとの決戦、1812年のロシア遠征の各戦役においても大陸軍の名称が使われていた。ナポレオンの方針で諸外国の部隊と外国人兵士が積極的に加えられていた事も特徴であり、1812年夏にピークを迎えた兵員数は685,000名を数えて事実上の多国籍軍隊となった。ロシア遠征の敗北後もナポレオンは新たな兵員を徴集して大陸軍を立て直し、1813年のドイツ戦役、1814年のフランス防衛戦、そして1815年の百日天下まで死闘を繰り広げた。なお、1815年にナポレオンが率いた時の名称は北方軍(Armée du Nord)だった。.

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師団

師団(しだん、Division)は、軍隊の部隊編制単位の一つ。旅団・団より大きく、軍団・軍より小さい。師団は、主たる作戦単位であるとともに、地域的または期間的に独立して、一正面の作戦を遂行する能力を保有する最小の戦略単位とされることが多い。多くの陸軍では、いくつかの旅団・団または連隊を含み、いくつかの師団が集まって軍団・軍等を構成する。 師団の編制については、国や時期、兵科によって変動が大きいが、21世紀初頭現代の各国陸軍の師団は、2~4個連隊または旅団を基幹として、歩兵、砲兵、工兵等の戦闘兵科及び兵站等の後方支援部隊などの諸兵科を連合した6千人から2万人程度の兵員規模の作戦基本部隊である。多くの国において師団長には少将が補せられるが、日本やブラジル等中南米の幾つかの国のように中将が補せられる国もあり、またソ連・ロシアや東ドイツ等の旧東欧諸国では大佐が務める例も見られる。 師団は、幕僚部(師団参謀部・師団副官部・師団法務部など)を固有する、最小の部隊でもある。.

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中央軍集団

中央軍集団(ちゅうおうぐんしゅうだん、Heeresgruppe Mitte)は、第二次世界大戦中のナチス・ドイツの東部戦線における陸軍の一軍集団をさす名称である。.

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ナポレオン・ボナパルト

ダヴィッド『ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト』 ナポレオン一世皇家の紋章 ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte、1769年8月15日 - 1821年5月5日)または、省略して、ナポレオンは、革命期のフランスの軍人・政治家である。ナポレオン1世(Napoléon Ier、在位:1804年 - 1814年、1815年)としてフランス第一帝政の皇帝にも即位した。 フランス革命後の混乱を収拾して軍事独裁政権を樹立した。大陸軍(グランダルメ)と名付けた巨大な軍隊を築き上げてナポレオン戦争を引き起こし、幾多の勝利と婚姻政策によって、イギリス、ロシア、オスマン帝国の領土を除いたヨーロッパ大陸の大半を勢力下に置いたが、最終的には敗北して失脚した。.

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ミハイル・クトゥーゾフ

ミハイル・クトゥーゾフ ミハイル・イラリオーノヴィチ・ゴレニーシチェフ=クトゥーゾフ公爵(、1745年9月16日〈ユリウス暦9月5日〉 - 1813年4月28日〈ユリウス暦4月16日〉)は、帝政ロシア時代の軍人。エカチェリーナ2世、パーヴェル1世、アレクサンドル1世の3代にわたって仕え、外交官としても活躍した。.

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ネームシップ

ネームシップ()は複数建造された同じ型式の艦船のうちで最初に建造された艦船のこと。 主に日本で用いられる用語で、英語圏ではリードシップ()、もしくはクラスリーダー()と呼ばれることが一般的である。.

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モジャイスク

モジャイスク(Можайск, Mozhaysk)はロシア・モスクワ州の古都。モスクワの西へ110kmの距離に位置し、モスクワ川とモジャイカ川の合流地点にある。モスクワとスモレンスク、ポーランドを結ぶ東西方向の商業路の、またノヴゴロドやトヴェリとロシア南部とを結ぶ南北方向の商業路の中継都市として発展した。2002年の調査で、人口は31,459人。 文献で最初に存在が確認できるのは、1231年であり、その時にはチェルニーゴフ公ミハイルの領地としてであった。モンゴルの攻撃の後、スモレンスク公国の所領になり、1303年にモスクワのユーリー(ユーリー・ダニーロヴィチ)により攻め落とされモスクワ大公国の支配下に入った。しかしその後、14世紀半ばにはルーシへ勢力を拡大したゲディミナス朝リトアニア大公国のアルギルダスとの間で激しい争奪の対象となった。1493年まで、モジャイスク公には代々のモスクワ大公の弟が就いている。 モジャイスクはモスクワと西方を結ぶ商業の町である一方、西からモスクワへ攻め入る外敵に対する防御の場でもあった。17世紀初頭の動乱時代(スムータ)にはロシア・ポーランド戦争が起こり、モスクワへ攻め込むポーランド・リトアニア共和国軍に蹂躙された。ポーランド軍追放のために立ちあがったドミトリー・ポジャルスキー率いる義勇軍は、1612年8月21日から24日にかけ、モジャイスクでポーランド・リトアニア軍と戦闘を行った。1812年ロシア戦役では、1812年9月7日にナポレオン・ボナパルト率いる大陸軍とロシア軍とのボロジノの戦いがモジャイスクの12km先のボロジノ村で起こっている。ナチス・ドイツとの間の独ソ戦(「大祖国戦争」)では、ドイツ国防軍は1941年10月16日に多大な犠牲を払ってモジャイスクを占領し、モスクワ手前の最終防衛線までの進路を切り開いた。その後1942年1月20日には赤軍が奪回している。 モジャイスクのクレムリン(城塞)には、14世紀初頭に最初の石造の聖堂が建てられた。この聖堂は1849年に解体修理をされている。1814年にはこれよりも大きなゴシックリバイバル様式の赤レンガの大聖堂が建設された。その他、聖イオアキムと聖アンナ聖堂は15世紀初頭に建設された聖堂をもとにしており、部分的に15世紀当時の姿を残す。聖フェラポントが1408年に開設した修道院も重要な見どころである。.

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モスクワ

モスクワ(ロシア語:Москва́ IPA: マスクヴァー、)は、ロシア連邦の首都。連邦市として市単独でロシア連邦を構成する83の連邦構成主体のひとつとなっており、周囲を占めるモスクワ州の州都でもある。ただし州とは区別され「モスクワ市」(Город Москва)となる。人口は約1150万人でヨーロッパで最も人口の多い都市であり、世界有数の世界都市である。漢字による当て字は莫斯科。英語で発音した場合には、モスコーあるいはモスカウ(Moscow )のようになる。.

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モスクワの戦い

ドイツ軍の進撃。1941年12月5日まで ソ連軍の反撃。1941年12月5日から1942年5月7日 モスクワの戦い(モスクワのたたかい、Битва за Москву, ローマ字表記:Bitva za Moskvu 英語:Battle of Moscow)は、第二次世界大戦中の1941年10月2日から1942年1月7日にかけてモスクワ近郊で行われた戦闘である。この戦いは600kmの防衛区域で2つの段階に分かれて行われた戦略的に重要な戦いであった。モスクワはソビエト連邦の首都であり、最大の都市であったため、バルバロッサ作戦で最も重要な軍事的、政治的な目標の一つであった。 この戦いはドイツでは「タイフーン作戦」(ドイツ語:Unternehmen Taifun)と名付けられており、モスクワ北部と南部からの両翼包囲を必要とした。モスクワの北方では第3装甲軍と第4装甲軍がカリーニン戦線と対峙し、同時にモスクワ・サンクトペテルブルク鉄道を切断し、モスクワ州の南方ではトゥーラの南で西部戦線が第2装甲軍と対峙している一方、第4軍は直接西からモスクワへ進軍していた。アンドリュー・ロバートによればヒトラーのソ連の首都への攻撃は総攻撃に他ならなかった。"誇張ではなく第二次世界大戦の趨勢はこの大規模な攻撃の成果にかかっていた。" 最初、ソ連軍はモスクワオーブラスチで三つの防衛線を形成することで戦略的防御を行った。この防衛線には新たに徴兵した予備兵力とシベリア軍管区と極東軍管区から抽出した部隊が展開されていた。ドイツの攻撃が止まると同時に、ソ連は戦略的反攻と小規模な攻勢によってドイツ軍をオリョール、ヴャジマ、ヴィーツェプスクまで押し返し、ドイツの3軍を包囲しかけた。この戦いはドイツの主要な後退であり、ソ連に対してドイツが早期に勝利する可能性はなくなった。この戦いの後、ブラウヒッチュ元帥は陸軍総司令部(OKH)の司令官を解任され、ヒトラーは自身をドイツ陸軍の最高司令官に任命した。.

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モスクワ州

モスクワ州の行政区域。中央の赤いエリアはモスクワ市で州外。 モスクワ州(Московская область, Подмосковье)はロシアの州(オーブラスチ)で連邦構成主体のひとつ。ただし、州都であるモスクワ市は当州とは独立した連邦構成主体(連邦市)で、モスクワ州はモスクワ市の周囲を占める。 隣接する連邦構成主体はモスクワ市、ウラジーミル州、リャザン州、トゥーラ州、カルーガ州、スモレンスク州、トヴェリ州、ヤロスラヴリ州。 面積は47000平方キロメートル(九州地方の約1.3倍。この面積はモスクワ市を含む)。人口は651万人(1998年1月1日推計。モスクワ市の人口を除く)。.

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モスクワ川

モスクワ川(Москва-река、英語:Moskva River)は、ロシア西部を流れる川で、スモレンスク州とモスクワ州を流れ、蛇行しながらロシアの首都モスクワを貫流する。ヴォルガ川水系に属するオカ川の支流で、水はカスピ海へと流れる。川の延長は503km、流域面積は17,600平方kmにおよぶ。.

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ロシア

ア連邦(ロシアれんぽう、Российская Федерация)、またはロシア (Россия) は、ユーラシア大陸北部にある共和制及び連邦制国家。.

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ボロジノの戦い

ボロジノのナポレオン ボロジノの戦い(ボロジノのたたかい、Бородинское сражение, 1812年9月7日(ユリウス暦8月26日))は、1812年ロシア戦役(ナポレオン戦争)における戦闘の1つである。フランスではモスクワ川の戦い(モスクワがわのたたかい、Bataille de la Moskowa)とも呼ばれる。 モスクワ西方のボロジノ​近郊で、フランス皇帝ナポレオン1世率いる大陸軍(フランス軍を中核とするヨーロッパ諸国連合軍)と、クトゥーゾフ率いるロシア軍との間で戦いが行われた。両軍ともに甚大な損害を出したものの決定的な勝利は得られず、ロシア軍の戦略的撤退によって戦いは終息した。.

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ボロジノ級戦艦

ボロジノ級戦艦 (Borodino-class battleships) はロシア海軍の前弩級戦艦の艦級。本級はフランスの造船士官、アントワーヌ・ジャン・ アマブル・ラガヌにより設計・建造された前弩級戦艦「ツェサレーヴィチ」をベースにしてロシアで改設計し建造されたものである。そのフランス式設計の大きな特徴は型船体や副砲までも砲塔に収める設計に見ることができる。しかし、ロシア側の設計・建造の不備から重量増加がかさんで舷側装甲の厚さは薄くなった。また、設計と建造時の不手際から実際の排水量が計画排水量を大幅に上回ったこともあって、ベースに比べて復元性に劣り、失敗作といえるものになってしまった。同型艦5隻。.

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ドイツ国防軍

ヘルメットにデカールされていた紋章 1941年、国防軍の陸軍歩兵下士官 ドイツ国防軍(ドイツこくぼうぐん、Wehrmacht)は、1935年から1945年にかけて存在したドイツの武力組織である陸軍、海軍、空軍の三軍の総体を指す。国家唯一の武装者(独:Waffenträger der Nation)と定義される存在であったが、当時のドイツにはナチス党の組織である武装親衛隊など管轄外の武装組織も存在していた。 1935年の再軍備宣言後は徴兵制が復活し総兵力が50万人になり、ポーランド侵攻直前の兵力は318万人と世界でも屈指の規模であった。.

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第2SS装甲師団

2SS装甲師団 ダス・ライヒ(だいにSSそうこうしだん―、2.

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赤軍

赤軍(せきぐん、ロシア語:Красная армия クラースナヤ アールミヤ)は、1918年から1946年にかけてロシアおよびソビエト連邦に存在した軍隊。1917年より始まったロシア内戦の最中に労働者・農民赤軍(ろうどうしゃ・のうみんせきぐん、Рабоче-крестьянская Красная армия ラボーチェ・クリスチヤーンスカヤ・クラースナヤ・アールミヤ、略称:労農赤軍、РККА エールカーカーアー)として設立され、1937年に海軍が赤軍から独立した後はソ連の地上軍(陸軍)を指す呼称となった。.

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機甲師団

機甲師団(きこうしだん)とは、戦車部隊を中心に、戦車に随伴する自動車化・機械化された歩兵部隊、同じく自動車化された工兵・砲兵・偵察・通信などの諸兵科の部隊から構成される師団のこと。機甲とは、機械化装甲の略称として第二次世界大戦前から使用されており、現在陸上自衛隊でも使用されている用語である。同様の部隊で編成される、機械化歩兵部隊が主体であるものは機械化歩兵師団と呼ばれている。イギリスのArmoured Division、アメリカのArmored Division、ドイツのPanzerdivisionなどが相当するが、日本語訳は書籍・雑誌の出版社・著者・訳者によって表記が異なっており、特にドイツ軍について装甲師団の語も多く用いられている。戦車師団と呼ばれることもあるが、戦車部隊の比率がより大きいものが区別されている場合もある。加登川幸太郎『ドイツ戦車軍団』(朝日ソノラマ)前書きによると、同書の中で加登川は第二次大戦末までの師団以上の部隊について、原語の意味と編成から、また混同を減らす意味から、ドイツを「装甲」、アメリカを「機甲」、イギリスを「機械化」、フランスを「軽機械化」および「戦車」、ソ連・イタリアを「戦車」と呼び分けている。連隊以下はすべて「戦車」である。 第一次世界大戦後に塹壕戦から機動戦への戦術開発の結果、第二次世界大戦で真価を発揮した電撃作戦の主体となった。第二次世界大戦当時、米英軍では歩兵師団は既に自動車化されており、現代では先進国の場合、歩兵師団と言えども多数の戦車が配備され、歩兵も装甲兵員輸送車、歩兵戦闘車に運ばれ、機甲師団との違いは大きくない。本項においては主に第二次世界大戦における機甲師団の誕生と発展について述べる。.

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1812年

記載なし。

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1941年

記載なし。

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9月7日

9月7日(くがつなのか)はグレゴリオ暦で年始から250日目(閏年では251日目)にあたり、年末まであと115日ある。.

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