ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
ダウンロード
ブラウザよりも高速アクセス!
 

ホワイトタワー (テッサロニキ)

索引 ホワイトタワー (テッサロニキ)

白い塔(Λευκός Πύργος)はギリシャ テッサロニキのテルマイコス湾沿いに建てられている塔で、同市のランドマークでもある。12世紀頃のビザンティン時代に建てられたと言われている古い塔を取り壊した後、オスマン帝国時代に港を囲む城壁を作るときに改築され、最初は砦として、後に牢獄として使われた。1912年にテッサロニキがギリシャ領になった時に塔は改修され、洗浄され白さを取り戻した姿から「白い塔」と呼ばれるようになった。 白い塔は直径は23m、高さ27mの円柱形の主塔の上に、直径12m、高さ6mの櫓が乗る形態である。内部は6階分の床があり、銃眼はそれぞれの階および内部の螺旋階段に沿って割り付けられている。絵画などによれば、かつては円錐型の屋根が付いていた。1917年ごろには円錐屋根が撤去され、同時期に主塔の3倍の直径があった8角形の周壁(塔を囲む城壁)も撤去されたと考えられている。.

15 関係: ミマール・スィナンマフムト2世ムラト2世ロトンダ (テッサロニキ)ヴロラヴェネツィア共和国テルマイコス湾テッサロニキテッサロニキ新駅イェニチェリオスマン帝国ガレリウスの凱旋門ギリシャ第一次バルカン戦争東ローマ帝国

ミマール・スィナン

ミマール・スィナン(Mimar Sinan)は、盛期オスマン帝国の建築家、土木技術者。1490年前後にアナトリア半島のカイセリ近郊で生まれ、1588年7月17日にイスタンブルで亡くなった。スィナン(シナン)が名前でミマールは建築家を意味するアラビア語由来の言葉であるため、ミマール・スィナンは「建築家スィナン」を意味する。 キリスト教徒の石工の家に生まれ、デヴシルメで徴用されてイェニチェリ(常備軍歩兵)の工兵になった。一介の士官からあっという間に階級を上げ、軍団長にまでなったGoodwin (2001), p. 87。セリム1世、スレイマン1世、セリム2世、ムラト3世というオスマン帝国最盛期を代表する4代のスルターンに仕え、軍歴は50年近くに及ぶ。遠征で赴いた土地は、西はバルカン半島東はメソポタミアまでに及び、各地の建造物を実見した。 前線に出ている間に土木工学に関する実践的経験を積み、道路や橋梁、水路といったインフラストラクチャーの構築を含む、あらゆる種類の要塞建築のエキスパートとなったKinross (1977), pp 214–215。50歳ごろ帝室造営局長(ハッサ・ミーマーリ・バシュ)に任命され、軍で培った技術的スキルを良質な宗教施設を創造することに用いることを求められた。帝室モスクの代表作は、イスタンブルのシェフザーデ・ジャーミイとスレイマニエ・ジャーミイ、そして、スィナン自身が自身の最高傑作と認めたエディルネのセリミーエ・ジャーミイが挙げられる。.

新しい!!: ホワイトタワー (テッサロニキ)とミマール・スィナン · 続きを見る »

マフムト2世

マフムト2世(Mahmud II, 1785年7月20日 - 1839年7月1日)は、オスマン帝国の第30代皇帝(在位:1808年 - 1839年)。父は第27代皇帝アブデュルハミト1世、母ナクシディル・スルタンはフランス人でナポレオン1世の義理の従妹とする伝説が有名だが、実際は不詳である。第29代ムスタファ4世の異母弟。アブデュルメジト1世、アブデュルアズィズの父。 内外の危機的状況によって帝国の支配が揺らぐ中で即位し、中央集権化と西洋化を軸とする上からの改革を推し進めて帝国の再生をはかった皇帝であり、オスマン帝国における啓蒙専制君主と評価される。.

新しい!!: ホワイトタワー (テッサロニキ)とマフムト2世 · 続きを見る »

ムラト2世

ムラト2世(1404年6月 - 1451年2月3日)は、オスマン帝国の第6代皇帝(在位: 1421年 - 1444年)(1446年 - 1451年)。第5代皇帝・メフメト1世の子。.

新しい!!: ホワイトタワー (テッサロニキ)とムラト2世 · 続きを見る »

ロトンダ (テッサロニキ)

トンダ(Ροτόντα,Rotunda)はギリシャのテッサロニキにある、ローマ帝国東方正帝ガレリウスの霊廟となる予定であった円柱形建築物(ロトンダ)である。ガレリウスのロトンダと呼ばれることもある。日本語でロタンダ、ロトゥンダと表記されることもある。 円柱形のこの建物は東方正帝であったガレリウスが、自身の霊廟とするために建造を命じたもので、306年に完成した。なお、当時どの神を祀る予定であったのかは伝えられていない。建物の直径は24.5mで、壁の厚さは6m以上もあるため過去の地震に耐えることができたといわれている。内部は8か所の長方形の窪み(一般的に彫像などを安置する場所)があり、そのうち南側の1か所が建物の入り口となっている。天井はレンガ造りで高さは30m程であり、ほぼ水平状になっている。当初の建築計画ではローマのパンテオンのような球形ドーム状で頂上に円形の天窓(オクルス)となるはずであった。 ガレリウスは311年に死去し、ガレリウスの生地の近くである現在のセルビア ガムジグラード付近のロムリアーナ遺跡に埋葬されたため、ロトンダは霊廟として使われることは無かった。その後帝国の皇帝となったコンスタンティヌス1世により、ロトンダはキリスト教会に転換された。教会となったロトンダ内部はモザイク画で飾られ、そのうちのごく一部が現存している。 教会に転換された4世紀から1200年近く経った後、テッサロニキはオスマン帝国の領土の一部となり、1590年にモスクに転換された。ミナレットが追加され、スレイマン・ホルタジ・エフェンディ・モスク(Mosque of Suleyman Hortaji Effendi)と呼ばれるようになる。1912年、第一次バルカン戦争の結果テッサロニキがギリシャの領土の一部となった時に、この施設は再びキリスト教会に再転換されたが、モスク時代のミナレットは撤去されずに残されることになった。現在、ロトンダはギリシャ政府の文化財保護部門の管理下にあり、祭祀開催時にギリシャ正教会が施設を借りて利用するという形態となっている。.

新しい!!: ホワイトタワー (テッサロニキ)とロトンダ (テッサロニキ) · 続きを見る »

ヴロラ

ヴロラ(Vlorë)はアルバニアの都市である。ドゥラスに次いで2番目に大きな港湾都市で、人口は79,948人である。ヴロラは1912年11月28日にアルバニアの独立宣言が行われた都市で、一時的にアルバニアの首都が置かれた。町自体は紀元前6世紀に古代ギリシャの植民都市が築かれ人が住むようになり、それ以来2,600年の歴史がある古い都市である。ヴロラにはヴロラ港がある他、ヴロラ大学が立地しアルバニア南西部の経済や文化の中心都市である。.

新しい!!: ホワイトタワー (テッサロニキ)とヴロラ · 続きを見る »

ヴェネツィア共和国

ヴェネツィア共和国(薄赤)の領域はポー平原北部からイストリア半島、ダルマチアに及んでいた。1494年時点の状況 最も高貴な共和国ヴェネツィア(もっともこうきなきょうわこく ヴェネツィア、Serenìsima Repùblica de Venexia(Venessia)、Serenissima Repubblica di Venezia)、通称ヴェネツィア共和国(ヴェネツィアきょうわこく、、)は、現在の東北イタリアのヴェネツィアを本拠とした歴史上の国家である。7世紀末期から1797年まで1000年以上の間に亘り、歴史上最も長く続いた共和国である。「最も高貴な国」や「アドリア海の女王」とも呼ばれる。東地中海貿易によって栄えた海洋国家であった。また、信教の自由や法の支配が徹底されており、元首の息子であっても法を犯せば平等に処罰された。.

新しい!!: ホワイトタワー (テッサロニキ)とヴェネツィア共和国 · 続きを見る »

テルマイコス湾

テルマイコス湾(Θερμαϊκός Κόλπος、Thermaic Gulf)は、エーゲ海の湾。テッサロニキ県の南、ピエリア県とイマティア県の東、ハルキディキ県の西に位置する。湾の名前は、北東岸にあった古代のテルマの町(現在のテッサロニキ)に由来する。テッサロニキ付近で全長(南北)100km、幅(東西)5km。北部の北端からメガロ・エンボーロ岬までの距離は15kmと推定され、そこからさらに50km南にわたって広がる。カッサンドラ岬が湾の南東端にある。 古代ローマではテルマイクス湾(テルマの湾)やマケドニクス湾(マケドニアの湾)として知られた。現代ではテッサロニキにちなんでサロニカ湾ともいわれる。 サニ (Sani) 、カッサンドレイア (Kassandreia) 、古代のポティダイア、ネア・ムダニア (Nea Moudania) 、アギア・トリアダ (Agia Triada) 、ネオイ・エピバテス (Neoi Epivates) 、ペライア (Peraia) 、カロホリ (Kalochori) 、メトニ (Methoni) 、ピュドナ (Pydna) 、パラリア・カテリニス (Paralia Katerinis) 、オリュンピアキ・アクティ (Olympiaki Akti) などの町々が湾に臨んで位置する。流入する河川としてはピニオス川、アリアクモン川、ルディアス川、ガリコス川、アクシオス川などがある。湾岸にあったペラなど多くの古代都市が現在、数km内陸で発見されていることから、古代のテルマイコス湾は今より大きかったことがわかっている。これは沖積層から削られた大量の泥土が、主に北部と西部で堆積したことによる。サニ・ビーチなど、多くの有名かつ汚されていないビーチがあるが、メトネからテッサロニキ西方のカロホリにかけての北西岸は湿地帯であるため、ビーチは存在しない。 湾内最大の港はテッサロニキ港で、その他12の小規模な港がある。西岸はA1/E75高速道路など、ギリシャ北部を通る主要幹線道が、東岸はほとんどの区間をA25が通っている。 Category:地中海の湾 Category:ギリシャの湾 Category:エーゲ海 Category:テッサロニキ.

新しい!!: ホワイトタワー (テッサロニキ)とテルマイコス湾 · 続きを見る »

テッサロニキ

アギア・ソフィア聖堂。貴重なイコンや壁画が多く残されている。ギリシャ正教会。 テッサロニキ(Θεσσαλονίκη、ラテン文字転写:Thessaloniki )またはテサロニカ (Thessalonica)(or)は歴史的にはサロニカ(Salonica)の名で知られたギリシャの都市である。テサロニキとも表記する。同国では首都アテネに次ぐ2番目に大きな都市で、中央マケドニアの首府であり マケドニア・トラキア行政管区(Αποκεντρωμένη Διοίκηση Μακεδονίας-Θράκης)の首府でもある。テッサロニキには Συμπρωτεύουσα (Symprotévusa、共同の首都)と言う称号があり、東ローマ帝国時代にはコンスタンティノープルと並びビザンティンに君臨した都市であった。 2011年の国勢調査による統計でのテッサロニキ自治体の人口は322,240人でテッサロニキ自治体と隣接する自治体で構成される都市的地域のテッサロニキ都市圏の人口は790,824人 であった。バルカン半島ではイスタンブール、アテネ、ブカレスト、ソフィア、ベオグラードに次いで6番目に大きな都市圏を形成し、首都でない都市ではイスタンブールに次いで人口が多い都市である。テッサロニキ大都市圏は周辺地域 1455.62km2の範囲で広がり、2011年現在の人口は1,006,730人に達する。テッサロニキはギリシャ第2の都市として、経済や産業、商業、政治の中心であると共に南東ヨーロッパの交通の一大拠点で、テッサロニキ港はギリシャや南東ヨーロッパの後背地にとっては重要な役割を果たしている。 ギリシャにおいて有名な行事が行われたり、様々な時代の遺構が残されていることから文化的な首都であると考えられている。行事には毎年行われるテッサロニキ国際トレードフェアやテッサロニキ国際映画祭などがあり、半年ごとに行われるギリシャ・デゥアスポラの会議が開催される。 2014年の欧州青年首都に選ばれている。 テッサロニキは紀元前315年カッサンドロスによって創建され、以来2,300年の歴史がある都市で、ローマ時代には重要な大都市であった。テッサロニキはビザンティン時代には2番目に富める都市になっており、市内には多くの著名なビザンティン建築が残されている。その中には世界遺産に登録されたテッサロニキの初期キリスト教とビザンティン様式の建造物群も含まれ、同様にローマ時代やオスマン帝国時代のもの、セファルディムの遺構も残されている。 アテネが古代ギリシャを象徴する街なのに対して、中世東ローマ時代のギリシャを象徴する街と言われており、アトス山の修道院共同体もこのテッサロニキが入り口となる。テッサロニキ市のメインとなる大学のアリストテレス大学はギリシャやバルカンでは最大の学生数を誇っている。.

新しい!!: ホワイトタワー (テッサロニキ)とテッサロニキ · 続きを見る »

テッサロニキ新駅

テッサロニキ新駅(Νέος Σιδηροδρομικός Σταθμός Θεσσαλονίκης,New Railway Station of Thessaloniki)はギリシャのテッサロニキにあるギリシャ国鉄の主要駅。1961年にテッサロニキ駅から旅客部門のみを分離して当駅を新設した。旧テッサロニキ駅は現在貨物駅として使われている。 現在、当駅の地下に地下鉄駅を設置する工事が進められている。.

新しい!!: ホワイトタワー (テッサロニキ)とテッサロニキ新駅 · 続きを見る »

イェニチェリ

イェニチェリ(Yeniçeri、オスマン語: يڭيچرى、、Giannizzeri、Janissaries)は、14世紀から19世紀の初頭まで存在したオスマン帝国の常備歩兵軍団で、スプーンをシンボルにしていたことが知られている。常備軍団カプクルの中核をなし、火器で武装した最精鋭であった。トルコ語でイェニは「新しい」、チェリは「兵隊」を意味する。.

新しい!!: ホワイトタワー (テッサロニキ)とイェニチェリ · 続きを見る »

オスマン帝国

マン帝国(オスマンていこく、)は、テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国。英語圏ではオットマン帝国 (Ottoman Empire) と表記される。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市を自らの首都とした(オスマン帝国の首都となったこの都市は、やがてイスタンブールと通称されるようになる)。17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロバキアに至る広大な領域に及んだ。.

新しい!!: ホワイトタワー (テッサロニキ)とオスマン帝国 · 続きを見る »

ガレリウスの凱旋門

レリウスの凱旋門(Αψίδα του Γαλερίου,Arch of Galerius)はギリシャのテッサロニキにある凱旋門。4世紀初頭のローマ皇帝(凱旋門建設当時は東方副帝)であったガレリウスがテッサロニキに宮殿や霊廟(ロトンダ)と共に整備した施設のひとつで、この3つの施設は凱旋門を中心として北東から南西に伸びる通り(現在のデミトリオス・ゴウナリ通)で一直線に結ばれていた。また、それらの施設の中央に位置するガレリウスの凱旋門は、皇帝の権力を象徴するものでもあった。凱旋門はレンガ造りで、表面に大理石を張り付けた構造となっており、サーサーン朝ペルシアに対する勝利を記念する浮彫で飾られていた。現在、凱旋門の一部が残存しているのみである。 凱旋門は298年から299年に掛けて建設され、298年に首都クテシフォンを攻め落としたことにより、サーサーン朝ペルシアに勝利したガレリウスを記念するために、303年に落成された。8本の柱により支えられ、3つのアーチ型通路を持つ形式の凱旋門は、レンガの間にコンクリートを流し込んだコア部分の外面に浮彫のある大理石板を貼りつけた形状である。中央のアーチは幅9.7m、高さ12.5mで、その両横の2つのアーチは幅4.8m、高さ6.5mである。中央のアーチをローマ時代の都市の中央大通りであったエグナティア通り(Εγνατία)が突き抜けており、この通りはデュッラキウムからビュザンティオンを結ぶローマ帝国の主要街道であるエグナティア街道の一部であった。 現在、北西部分の3本の柱のみが残存し、特に中央アーチ部分の両端の柱には浮彫の施された大理石板も残っている。それ以外の部分はすべて失われてしまっているが、遺跡を保存するために、凱旋門のコア部分のレンガは新たに追加され補強されている。.

新しい!!: ホワイトタワー (テッサロニキ)とガレリウスの凱旋門 · 続きを見る »

ギリシャ

リシャ共和国(ギリシャきょうわこく、ギリシャ語: Ελληνική Δημοκρατία)、通称ギリシャは、南ヨーロッパに位置する国。2011年国勢調査によると、ギリシャの人口は約1,081万人である。アテネは首都及び最大都市であり、テッサロニキは第2の都市及び中央マケドニアの州都である。.

新しい!!: ホワイトタワー (テッサロニキ)とギリシャ · 続きを見る »

第一次バルカン戦争

一次バルカン戦争(だいいちじバルカンせんそう)は、1912年10月から1913年5月まで行われ、オスマン帝国に対するバルカン同盟(セルビア、モンテネグロ、ギリシャ、ブルガリア)の戦争である。バルカン連合軍は兵員数で劣勢で戦略的にも劣勢なオスマン軍に勝利し、迅速な成功を成し遂げた。戦争の結果、欧州に残るオスマン帝国の領地は殆ど連合軍の手中に収められた。続いてアルバニアの独立にも結び付いた。成功にもかかわらずブルガリアは和平とオスマンの脅威が去ったことで不満を持ち、まもなく第二次バルカン戦争を始め、今度は第一次バルカン戦争の連合軍と闘うことになった。.

新しい!!: ホワイトタワー (テッサロニキ)と第一次バルカン戦争 · 続きを見る »

東ローマ帝国

東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブール)であった。 西暦476年に西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた際、形式上は最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスが当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていた。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。.

新しい!!: ホワイトタワー (テッサロニキ)と東ローマ帝国 · 続きを見る »

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »