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プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ

索引 プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ

プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ(Publius Cornelius Scipio Nasica, 紀元前227年 - 紀元前171年頃)は、共和政ローマの政治家。父はグナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルウス、息子はプブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・コルクルム。スキピオ・アフリカヌスは従弟に当たる。尚アグノーメン(第四名)のナシカとは『とがった鼻』の意。 紀元前197年に按察官(アエディリス)、紀元前194年に法務官(プラエトル)に就任。ヒスパニアでルシタニア人を相手に勝利を収める。紀元前191年にマニウス・アキリウス・グラブロと共に執政官(コンスル)を務める。コンスル職にある間は北イタリアのケルト人部族を制圧した。 紀元前189年、紀元前184年と検察官(ケンソル)に立候補したが、選ばれなかった。.

20 関係: 執政官マニウス・アキリウス・グラブリオルシタニアプラエトルプブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・コルクルムヒスパニアアエディリスグナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルウスケルト人ケンソルスキピオ家スキピオ・アフリカヌス共和政ローマ紀元前171年紀元前184年紀元前189年紀元前191年紀元前194年紀元前197年紀元前227年

執政官

執政官(しっせいかん、consul、コンスル)は、古代ローマでの政務官のひとつ。都市ローマの長であり、共和政ローマの形式上の元首に当たる。訳語として執政官のほかに統領を用いることもある。.

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マニウス・アキリウス・グラブリオ

マニウス・アキリウス・グラブリオ(Manius Acilius Glabrio)は、共和政ローマの元老院議員。主に東方ギリシアを活躍の場とした。 紀元前191年にスキピオ・ナシカとともに執政官となる。そしてセレウコス朝シリアのアンティオコス3世と戦い、勝利する。その後も東方の動向、とくにアエトリア同盟の結束に努める。しかしながら結束はうまくはいかずにティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスの介入により同盟の結束を保てるようになった。 紀元前189年にグラブリオはケンソルに立候補、しかし疎外され、シリアでの略奪品の横領疑惑で告発され、立候補を取り下げた。.

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ルシタニア

ルシタニア(Lusitania)は、古代ローマの属州。現在のポルトガルおよびスペイン西部(現在のエストレマドゥーラ州)に該当する。.

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プラエトル

プラエトル(Praetor)は、古代ローマの政務官職の一つ。日本語では法務官と訳される。共和政ローマではコンスルに次ぐ公職で、インペリウムを保有し、主に司法を担当した。 その成立については諸説あるが、ローマ社会を統率する者が「コンスル」と呼ばれる以前の呼称として「プラエトル」が使われていたといわれるp4, Nicholas, Barry著、「An Introduction to Roman Law」(1975年、Oxford University Press) ISBN 0-19-876063-9。共和政初期には、プラエトルは軍事的な司令官の意味合いが強かった。また、階級闘争の過程で公職が開放される中で、コンスルがプレブスにも開放されたのに対して、紀元前337年にクィントゥス・プブリリウス・ピロが選出されるまではプラエトルに就任できたのはパトリキ(貴族)のみであった。紀元前305年に、それまでプラエトルがこなした業務はコンスルが行うようになり、プラエトルはインペリウムを保持しつつコンスルに次ぐ公職となった。 当初は1名であったが、紀元前227年以降増員され、ローマ市民権を保有するローマ市民に関する司法を担当する首都プラエトル(プラエトル・ウルバヌス)と、ローマに滞在する外国人の司法を担当する外国人係プラエトル(プラエトル・ペレグリヌス)の2名が首都に配置されるようになった。その後、ローマが属州を獲得すると再び増員され、首都の2名以外はインペリウム保有者として属州総督の任にあたった。 ルキウス・コルネリウス・スッラがローマを掌握して改革を実施した際、プラエトルを8人に増員、性質も変化し、全員が首都に置かれて司法を担当することとなった。.

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プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・コルクルム

プブリウス・コルネリス・スキピオ・ナシカ・コルクルム(Publius Cornelius Scipio Nasica Corculum, 紀元前141年没)は、共和政ローマの元老院議員。第二次ポエニ戦争から第三次ポエニ戦争の戦間期に元老院で活躍した。マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス(大カト)の政敵。 ここでは彼の名を「コルクルム」あるいは「ナシカ・コルクルム」とする。.

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ヒスパニア

ーマ帝国初期の行政区分 ヒスパニア(Hispania)は、イベリア半島(現在のスペインとポルトガルや、アンドラ・ジブラルタルの領域)の古名である。なお、スペインの現代語での名称(España、Espanha、Espagne、Spagna、Spain、Spanien、Испания、إسبانياなど)は全てこのヒスパニアを語源とする。.

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アエディリス

アエディリス(aedilis)とは、古代ローマの政務官職のひとつ。按察官(あんさつかん)、造営官などと訳される。主に公共建築の管理、ローマの祭儀の管理を行う。.

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グナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルウス

ナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルウス(Gnaeus Cornelius Scipio Calvus,? - 紀元前211年)は、第二次ポエニ戦争初期の共和政ローマの軍司令官、政治家。父はルキウス・コルネリウス・スキピオ、弟にプブリウス・コルネリウス・スキピオ。子にプブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ、甥にスキピオ・アフリカヌス。 第二次ポエニ戦争の際、弟のプブリウスと共にヒスパニアのカルタゴ領を攻略、キッサでカルタゴの将軍ハンノを敗る。しかし紀元前211年、ハンニバルの弟ハスドルバルと別のカルタゴ武将ハスドルバル・ギスコ配下のイベリア人の部隊に敗れ、戦死した(バエティス川の戦い)。.

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ケルト人

● - 紀元前400年 ケルト人(ケルトじん、Celt, Kelt, Celt では とも)は、中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の言語を用いていた民族である。 古代ローマ人からはガリア人とも呼ばれていたが、「ケルト人」と「ガリア人」は必ずしも同義ではなく、ガリア地域に居住してガリア語またはゴール語を話した人々のみが「ガリア人」なのだとも考えられる。 ブリテン諸島のアイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォール、コーンウォールから移住したブルターニュのブルトン人などにその民族と言語が現存している。 現在のケルトという言葉は、言語・文化の区分を示すための近現代になってから作られた用語であり、古代から中世において右図で表されている地域の住民が「ケルト人」として一体的な民族意識を持っていたとは考えられていない。そのため歴史学などでは、「ケルト人(Celts)」という言葉は使わず、「ケルト系(Celtic)」という言葉を便宜的に使っている。.

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ケンソル

ンソル(羅:。監察官)は、古代ローマの高位の政務官職のひとつ。日本語では「センソール」と表記されることもある。その任務は「ケンスス」と呼ぶ調査(、センサス、国勢調査)の実施とローマの風俗の引き締めであった。.

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スキピオ家

ピオ家(スキピオけ、Scipio)は、古代ローマの中の家族名のひとつ。コルネリウス氏族に属するパトリキ系の家門で、最も有名な家門として知られている。特に共和政ローマ中期、ポエニ戦争の際には多くの有能な人材を輩出し、スキピオサークルと呼ばれるようになった。紀元前3世紀にまで遡るスキピオ家の墓の石碑は1780年に再発見され、共和政ローマにおける重要な資料として、最初期のラテン語の文献資料としても重要視されている。また、イタリア国歌マメーリの賛歌にも歌われている。.

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スキピオ・アフリカヌス

プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨル(Publius Cornelius Scipio Africanus Major, 紀元前236年 - 紀元前183年頃)は、共和政ローマ期の軍人、政治家。元老院議員。スキピオ・アフリカヌスと称され、妻の甥で義理の孫に当たるスキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ)と区別して大スキピオとも呼ばれる。第二次ポエニ戦争後期に活躍し、カルタゴの将軍ハンニバルをザマの戦いで破り戦争を終結させた。グラックス兄弟の外祖父にあたる。.

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共和政ローマ

共和政ローマ(きょうわせいローマ)は、紀元前509年の王政打倒から、紀元前27年の帝政の開始までの期間の古代ローマを指す。 この時期のローマは、イタリア中部の都市国家から、地中海世界の全域を支配する巨大国家にまで飛躍的に成長した。帝政成立以後ではなく地中海にまたがる領域国家へと発展して以降を「ローマ帝国」と呼ぶ場合もある。また、1798年に樹立されたローマ共和国 (18世紀)、1849年に樹立されたローマ共和国 (19世紀)と区別するために「古代ローマ共和国」と呼ばれることもある。.

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紀元前171年

紀元前171年は、ローマ暦の年である。.

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紀元前184年

紀元前184年は、ローマ暦の年である。.

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紀元前189年

紀元前189年は、ローマ暦の年である。.

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紀元前191年

紀元前191年は、ローマ暦の年である。.

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紀元前194年

紀元前194年は、ローマ暦の年である。.

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紀元前197年

紀元前197年は、ローマ暦の年である。.

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紀元前227年

紀元前227年は、ローマ暦の年である。当時は、「プブリウス・ウァレリウス・フラックスとマルクス・アティリウス・レグルスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元527年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前227年と表記されるのが一般的となった。.

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