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フランチェスコ・ランディーニ

索引 フランチェスコ・ランディーニ

フランチェスコ・ランディーニ(Francesco Landini, またはランディーノ、Landino)は、イタリアの作曲家、オルガニスト、歌手、詩人、楽器製作者。14世紀後半で最も有名かつ尊敬された作曲家の1人で、イタリアではことに有名だった。.

46 関係: 天然痘導音主音下中音作曲家バンドゥーラバッラータモテットヤコポ・デル・カセンティーノリュートロレンツォ・ダ・フィレンツェヴェネツィアトレチェントトレチェント音楽プサルタリーフィレンツェフィエーゾレドージェアルス・ノーヴァアンドレア・コンタリーニイタリアオルガニストキプロス王国クリストフォロ・ランディーノゲラルデッロ・ダ・フィレンツェジョット・ディ・ボンドーネジル・バンショワスクアルチャルーピ写本サン・ロレンツォ聖堂サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂終止詩人調律1361年1365年1368年1370年1379年1382年1385年1387年1397年14世紀15世紀19世紀9月2日

天然痘

天然痘(てんねんとう、smallpox)は、天然痘ウイルス(Variola virus)を病原体とする感染症の一つである。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいう。医学界では一般に痘瘡の語が用いられた。疱瘡の語は平安時代、痘瘡の語は室町時代、天然痘の語は1830年の大村藩の医師の文書が初出である。非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。致死率が平均で約20%から50%と非常に高い。仮に治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残す。天然痘は世界で初めて撲滅に成功した感染症である。1805年にはナポレオンが、全軍に種痘を命じた。以降は羊毛の流通に乗って発疹チフスが猛威をふるった。.

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導音

導音(どうおん)(Leading-tone、Leitton)は、全音階の主音から短2度(半音)下の音、すなわち第ⅶ度音を指す。 短調では和声的短音階、旋律的短音階の第7音である。ハ長調ではシ、イ短調ではソ#の音である。 これに対し、自然短的音階やその他の旋法における主音から長2度下の音を英語では「サブトニック」(Subtonic)と呼び、日本語では「下主音」と呼ばれることもある。.

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主音

主音(しゅおん)は、音階の最初の音(第1音)。移動ドにおいて長調ではドの音。短調ではラの音。調性のある音楽では、この音に帰着しようとする力が働く。 一般に曲の最後には主音が置かれる。しかし主音で終わらない曲も数多い。日本の民謡などは属音で終わることも多い。.

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下中音

下中音(かちゅうおん)は、全音階の第ⅵ度音を指す。.

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作曲家

作曲家(さっきょくか)は、音楽を創作(作曲)する人のことであり、とくにそれを生業とする人を指す。日本語で作曲者というとそれより広い意味を持つことがある。.

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バンドゥーラ

バンドゥーラ(Бандура)は、ウクライナの民族楽器。弦鳴楽器の一つ。ハープ属に分類される。西洋のリュートと東洋の琴を合わせたような外見をしている。音色はピアノとギターを合わせたような音色。50から60までの弦が半音階で5オクターブに渡って調律されている。15世紀に成立した。演奏はコサックの時代以降に盛んになった。.

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バッラータ

バッラータ(ballata, 複数:ballate)とは、13世紀後期から15世紀にかけて使われたイタリアの詩形、楽式。.

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モテット

モテット(-en-shortmotet、Motette、mottetto、motetus)は、声楽曲のジャンルのひとつ。一般的に、中世末期からルネサンス音楽にかけて成立・発達した、ミサ曲以外のポリフォニーによる宗教曲を指す。.

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ヤコポ・デル・カセンティーノ

ヤコポ・デル・カセンティーノ(Jacopo del Casentino, 1330年頃 - 1380年)はイタリアの画家。ヤコポ・ランディーノ(Jacopo Landino)、ヤコポ・デル・ランディーニ(Jacopo del Landini)あるいはダ・プラート・ヴェッキオ(da Prato Vecchio)と呼ばれることもある。主にトスカーナで活躍した。.

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リュート

リュート(Lute:ルート、Liuto:リウト、Luth:ルュト、Laute:ラウテ)は撥弦楽器の一種で、主に中世からバロック期にかけてヨーロッパで用いられた古楽器群の総称。ひとまとめにしてリュート属とも呼ばれるこれらの楽器群には時代や目的によってさまざまな形態のものがある。 リュートはアラブ文化圏のウード(العود al-ʿūd)および中国や日本の琵琶と近縁の楽器であり、いずれも中央アジアの「」(بربات barbat)を祖先とする楽器であると考えられている。 リュートやウードの名前は「木」を意味するアラビア語の"al‘ud"(アル・ウード)に由来するとされてきた。英語では、リュート奏者はlutenist、リュート製作者はluthierという。.

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ロレンツォ・ダ・フィレンツェ

ロレンツォ・ダ・フィレンツェ(Lorenzo da Firenze、もしくはラテン語で Magister Laurentius de Florentia, 1372年12月ないしは1373年1月没)はトレチェント音楽の作曲家・音楽教師。フィレンツェのフランチェスコ・ランディーニと密接な関係にあった。 生涯についてはほとんど不明であるが、音楽から詳細が推察される。フィレンツェで教育者として活躍し、おそらくランディーニの恩師のひとりであった。1348年に聖ロレンツォ教会の聖職者となり、終身その地位にあった。 ロレンツォ・ダ・フィレンツェは、豪華装飾本『スクアルチャルーピ写本』の代表的な人物で、10曲のマドリガーレと6曲のバッラータ、1曲のカッチャが載っている。さらに2曲のミサ曲断章も現存するが、そのうち1曲は偽作の疑いが拭えない。教育的な作品《 Antefana》は、歌詞において自分が教師であると示唆している。 ロレンツォ・ダ・フィレンツェは進歩的で、時に実験的な音楽家ではあったものの、矛盾するようだが、見方を変えると保守的でもあった。比較的新しい作曲技法といえる模倣や、ヨーロッパ音楽では極めて稀なヘテロフォニーのテクスチュアを利用しているが、いまだに完全音程の並進行も利用している。このため多声の作品でも、たいていの曲がモノフォニーのテクスチュアをとっている。ポリフォニー作品では、声部交換が常用される。さらに、14世紀としては珍しく半音階技法も用いられ、アルス・スブティリオルの作曲家の活躍に先鞭を付けている。 フランス音楽の影響は、いくつかの作品に明らかであり、イタリア音楽としては稀なイソリズムのパッセージが含まれている。記譜法に見られる癖も、フランス音楽とのつながりをほのめかしている。 ろれんつおたふいれんつえ ろれんつおたふいれんつえ.

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ヴェネツィア

ヴェネツィア(Venezia)は、イタリア共和国北東部に位置する都市で、その周辺地域を含む人口約26万人の基礎自治体(コムーネ)。ヴェネト州の州都、ヴェネツィア県の県都である。ヴの表記によりベネチアと表記されることもある。 中世にはヴェネツィア共和国の首都として栄えた都市で、「アドリア海の女王」「水の都」などの別名をもつ。英語では「Venice」と呼ばれ、これに由来して日本語でもヴェニス、ベニスと呼ばれることもある。.

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トレチェント

トレチェント(Trecento)とは、14世紀のイタリアにおける文化・芸術面での時代区分をいう。総括的にはルネッサンス期の開始と捉えられるが、まだゴシックの形態を残している分野あるいは地域が多く見られ、過渡期と捉える事も出来る。.

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トレチェント音楽

トレチェント音楽は、14世紀に北イタリアで発生し、発展したイタリア最初で独自の多声音楽文化。イタリア語で「300」を意味するトレチェント(trecento)、つまり「1300年代」を指す名前が冠されている。フランスのアルス・ノーヴァ、アルス・スブティリオル期に対応する。著名な作曲家としては、フランチェスコ・ランディーニが挙げられる。これらのトレチェントの音楽は、同時代のフランス音楽であるアルス・ノーヴァが、イソリズムなどリズムを重視したのに対し、旋律を重視したことに特徴がある。.

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プサルタリー

プサルタリー(英語:Psaltery)とは、木箱に24本のピアノ線を張った楽器を指す。ギリシャ語では、プサルテリオン(Psalterion)。.

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フィレンツェ

フィレンツェ(Firenze)は、イタリア共和国中部にある都市で、その周辺地域を含む人口約36万人の基礎自治体(コムーネ)。トスカーナ州の州都、フィレンツェ県の県都である。 中世には毛織物業と金融業で栄え、フィレンツェ共和国としてトスカーナの大部分を支配した。メディチ家による統治の下、15世紀のフィレンツェはルネサンスの文化的な中心地となった。 市街中心部は「フィレンツェ歴史地区」としてユネスコの世界遺産に登録されている。1986年には欧州文化首都に選ばれた。.

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フィエーゾレ

フィエーゾレ(Fiesole)は、イタリア共和国トスカーナ州フィレンツェ県にある、人口約1万4000人の基礎自治体(コムーネ)。 エトルリア人が築いた町に起源する。.

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ドージェ

ドージェ()とは、イタリア語で国家元首を指す言葉のひとつで、ヴェネツィアの元首をはじめジェノヴァ、ピサなどの海洋共和国の元首の事。総督、統領と訳されることもある。.

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アルス・ノーヴァ

アルス・ノーヴァ(Ars nova)は、14世紀のフランスで栄えた音楽様式。1322年頃にフィリップ・ド・ヴィトリによって書かれた、新しいリズムの分割法と記譜法を論じた音楽理論書『Ars nova (新技法)』にその名が由来する。 これに対して、より以前の音楽様式はアルス・アンティクア(Ars antiqua)と称される。 シンコペーションやイソリズムを用いた高度なリズム技法が発達し、それに伴い記譜法の改良が進んだ。セミブレヴィスよりも小さい音価を持つ音符であるミニマが導入され、マクシマ、ロンガ、ブレヴィス、セミブレヴィス、ミニマという幅広い音価の音符が使用された。さらに各音符の分割には、従来の三分割法(完全分割)と共に、二分割法(不完全分割)が対等に認められた。分割の方式は作品の最初に置かれたメンスーラ記号によって示され、それが現代の拍子記号の元となった。また、2/3の音価を意味する赤い音符も使用された。「完全」パッセージが赤い音符で書かれた場合はシンコペーションが生じる(ヘミオラと言える)(例1)。「不完全」パッセージにおいては三連符が生じる(例2)。.

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アンドレア・コンタリーニ

アンドレア・コンタリーニ(Andrea Contarini、1300年/1302年? - 1382年)は、ヴェネツィア共和国の第60代元首。(在任:1368年 - 1382年) 1370年、息子のアンドロニコス4世と対立して東ローマ帝国の皇位を追われていたヨハネス5世パレオロゴスを拘束し、1371年冬、彼の次男であるマヌエル2世パレオロゴスから多額の身代金を受け取ることで、ヨハネス5世を釈放した。 第4次ジェノヴァ戦争が始まると、自らの財産を軍資金として供出している。そして、60歳を越える高齢であるにもかかわらず、ヴェネツィア海軍総司令官として陣頭指揮を執った。このため、ヴェネツィア軍は第4次ジェノヴァ戦争に大勝利した。 1382年、死去した。 Category:ヴェネツィア共和国の元首 Category:1382年没.

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イタリア

イタリア共和国(イタリアきょうわこく, IPA:, Repubblica Italiana)、通称イタリアは南ヨーロッパにおける単一国家、議会制共和国である。総面積は301,338平方キロメートル (km2) で、イタリアではロスティバル(lo Stivale)と称されるブーツ状の国土をしており、国土の大部分は温帯に属する。地中海性気候が農業と歴史に大きく影響している。.

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オルガニスト

ルガニスト(organist)とは、オルガンの演奏家のことを言う。クラシック音楽の場合には主にパイプオルガンを対象とし、ポピュラー音楽の場合は電子オルガンを対象とする。ここでは多様性確保のため、ロックやソウル、ジャズなどのポピュラー音楽・大衆音楽と、芸術音楽の双方のオルガニストについて記述する。.

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キプロス王国

プロス王国は、中世のキプロス島を支配したラテン系の王国で、十字軍国家の一種である。第3回十字軍の際に十字軍に征服され、その後はエルサレムから追われた十字軍国家・エルサレム王国の末裔が統治した。.

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クリストフォロ・ランディーノ

リストフォロ・ランディーノ(Christoforo Landino 1424年 - 1498年9月24日)は、イタリア・ルネサンスの人文主義者。メディチ家のプラトン・アカデミーに集まった人物の一人。 ネオプラトニズムの立場からダンテ『神曲』の注釈書を著し、当時の知識人に大きな影響を与えた。彫刻家ミケランジェロもランディーノの著作から多くを学んだと言われる。.

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ゲラルデッロ・ダ・フィレンツェ

ラルデッロ・ダ・フィレンツェ(Gherardello da Firenze, 1320年~1325年生 – 1362年没または1363年没)はイタリアのトレチェント音楽における第一世代の作曲家。ニコロ・ディ・フランチェスコ(Niccolò di Francesco)の別名もある。.

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ジョット・ディ・ボンドーネ

ョット・ディ・ボンドーネ(Giotto di Bondone、1267年頃-1337年1月8日)は中世後期のイタリア人画家、建築家。日本でも諸外国でも単にジョット(ジオット)と呼ばれることが多い。フィレンツェ共和国(現在のイタリア・トスカーナ州近辺)の首都フィレンツェ近郊の出身といわれており、その絵画様式は後期ゴシックに分類され、イタリア・ルネサンスへの先鞭を付けた偉大な芸術家と見なされている。 ジョットと同時代の画家ジョヴァンニ・ヴィッラーニはジョットのことを「この時代における最大の巨匠である。ジョットが描く人物やそのポーズはこの上なく自然に見える。その才能と卓越した技術によってジョットはフィレンツェのお抱え画家となった」と書き残しているBartlett, Kenneth R. (1992).

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ジル・バンショワ

ル・バンショワ(右)とギヨーム・デュファイ ジル・バンショワ(Gilles de BinchoisまたはBins, 1400年頃〜1460年9月20日)はネーデルラントの作曲家でブルゴーニュ楽派初期の一員。15世紀初頭で最も有名だった作曲家の一人。しばしば同世代のジョン・ダンスタブルやギヨーム・デュファイの陰に隠れがちではあるものの、バンショワ作品はしばしば他の作曲家たちによって、作曲の素材として借用されたり引用されたりしていることからすると、おそらく同時代の誰よりも影響力の大きい作曲家だったに違いない。.

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スクアルチャルーピ写本

スクアルチャルーピ写本(スクアルチャルーピしゃほん、ラテン語:Squarcialupi Codex)は、15世紀のフィレンツェで編纂されたイタリアの豪華装飾写本の一つ。14世紀イタリアのトレチェント音楽の実相を伝える、最大の一次資料である。現在はフィレンツェのロレンツォ図書館の蔵書である。その他の中世イタリア音楽を代表する写本に、1350年から1370年までに編纂された「ロッシ写本」がある。 この写本は、おそらく1410年から1415年までを軸に、フィレンツェのサンタ・マリア・デリ・アンジェリ修道院で編纂された。確証があるわけではないものの、パオロ・ダ・フィレンツェが監修に参加した可能性があり、パオロの作品が含まれていないのが音楽学者の頭を悩ませてきた。 本書の最初のフォリオには、「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂オルガニストのアントニオ・ディ・バルトロメオ・スクアルチャルーピによる蔵書」と記されており、本書の呼称はここに由来する。スクアルチャルーピの甥に相続されてから、ジュリアーノ・デ・メディチの所有するところとなった。16世紀にジュリアーノ・デ・メディチからパラティノ図書館に贈与された後、18世紀末にロレンツォ図書館に移管された。 挿絵には、金や赤・青・紫が使われている。本書に含まれている353曲は、すべて世俗歌曲である(バッラータ、マドリガーレ、カッチャ)。各曲は1340年代から1410年代半ばにかけて成立した。 216枚分の羊皮紙のフォリオが含まれ、豊かな装飾と、上質の保存状態により、万全の状態で楽曲が保存されている。収録曲は、フランチェスコ・ランディーニによる146曲のほか、バルトリーノ・ダ・パドヴァによる37曲、ニコロ・ダ・ペルージャによる36曲、アンドレーア・ダ・フィレンツェによる29曲、ヤコポ・ダ・ボローニャによる28曲、ロレンツォ・ダ・フィレンツェによる17曲、ゲラルデッロ・ダ・フィレンツェによる16曲、ドナート・ダ・カッシャによる15曲、ジョヴァンニ・ダ・カッシャによる12曲、ヴィンチェンツォ・ダ・リミニによる6曲などがある。16枚分の空白のフォリオがあり、そこに残された記入とパオロ・ダ・フィレンツェの肖像画からすると、パオロの作品を記入する予定であったことが察せられる。パオロは1409年までフィレンツェにいなかったことから、音楽学者は、本書の編集当時にパオロの作品が用意できなかったと推測している。 Category:中世西洋音楽 Category:音楽史 Category:写本 Category:中世のイタリア Category:フィレンツェの歴史 Category:イタリアの音楽史.

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サン・ロレンツォ聖堂

ン・ロレンツォ聖堂は、聖ラウレンティウスに捧げられたフィレンツェ歴史地区に位置する最も古い教会の一つに数えられる。この付近にはサン・ロレンツォ市場がある。.

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サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂

左から洗礼堂・大聖堂・鐘楼(西からの眺め) サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレだいせいどう、)は、イタリアのフィレンツェにあるキリスト教・カトリックの教会である。フィレンツェの大司教座聖堂であり、ドゥオーモ(大聖堂)、サン・ジョヴァンニ洗礼堂、ジョットの鐘楼の三つの建築物で構成される。教会の名は「花の(聖母)マリア」の意である。.

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終止

終止(しゅうし)とは、音楽用語で、音楽の段落の終わりのことである。楽節と呼ばれる、おおむね4小節から8小節の長さのまとまりの終わりには、この終止が置かれる。終止とはいうものの、その終止感の大きさはさまざまであり、曲の終わる感じはしないが、少し区切りを感じる、というものも含まれる。なお、一般に終止形の語は、日本語では別の概念である。 以下、移動ドを用いて解説する。.

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詩人

詩人(しじん)とは、詩を書き、それを発表する者。また、そのことを職業にしている者。 後者でも詩作のみで生活している人はほとんどおらず、多くの場合、評論、随筆、翻訳、小説、音楽、絵画、演劇、漫画、歌の作詞など他の分野の創作活動を並行して行っていたり、あるいは(文学と縁遠い)他の職業を持っている。たとえば高村光太郎は彫刻家としても多数の作品を残しているし、草野心平にはバーや居酒屋の経営をしていた時期がある。アルチュール・ランボーは10代に残した業績によって詩人と呼ばれているが、詩作を止めた後は貿易商などさまざまな仕事に捧げた。 シンガーソングライターが詩人としても高い評価を得、詩集を出すまでに至る例もある。ボブ・ディラン、パティ・スミスなどがその例である。 また、詩人は古くから聴衆を前に自身の詩を朗読するのを常としていたが、その行為を、ポエトリーリーディングという表現形態において現代社会に甦らせた動きが、欧米のみならず、日本においても1990年代の半ば以降見受けられる、フランスのパリのレーベルで自身のポエトリーリーディングのCDを出している詩人であり美術家でありポエトリーリーディングアートパフォーマーである千葉節子等がその代表的な例である。 詩を書く者以外に対しても「詩人」という言葉が使われることがある。新明解国語辞典第六版(三省堂)にもそのような広義の意味が書かれているし、三好達治は『詩を読む人のために』(至文堂、1952年)の中で「誰かもいったように」と前書きした上で「詩を読み詩を愛する者は既に彼が詩人」であると書いている。 歌の歌詞の作者のことは一般に作詞家と呼ばれる。.

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調律

調律(ちょうりつ)とは、楽器の音高を、演奏に先立って適切な状態に調整すること。楽器全体の音高は、楽器の各音の中の特定の音を特定の高さにすることで調整され、各音の音高の相対的な関係は、一定の音律に従って調整される。.

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1361年

記載なし。

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1365年

記載なし。

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1368年

記載なし。

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1370年

記載なし。

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1379年

記載なし。

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1382年

記載なし。

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1385年

記載なし。

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1387年

記載なし。

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1397年

記載なし。

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14世紀

ナスル朝。イベリア半島最後のイスラム王朝であるこの王朝はすでに半島南端を占めるだけの小国となっていたが文化や芸術は最後の輝きを見せていた。画像はイスラム特有のアラベスクに彩られたアルハンブラ宮殿の「二姉妹の間」。 Gilles Le Muisitの年代記』の挿絵)。 エドワード3世率いるイングランド軍にフランス軍が大敗を喫した。画像はこの戦いを描いたジャン・フロワサールの『年代記』写本の挿絵。 ユダヤ人迫害。中世末期の不穏な情勢の中でスケープゴートとして標的にされたのがユダヤ人であった。画像は15世紀にまとめられた『ニュルンベルク年代記』の木版挿絵で、1338年に起きたバイエルン地方のデッゲンドルフでの「聖餅󠄀冒瀆」の罪により、生きながら火炙りにされたユダヤ人たちが描かれている。 カルマル同盟。デンマーク摂政(事実上の女王)マルグレーテ1世がデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの三国を統合した。画像はロスキレ大聖堂に安置されたマルグレーテの石棺。 七選帝侯。神聖ローマ帝国では諸侯の分権化が強く選帝侯を味方につけることで帝権は維持された。やがてこの選出方法は金印勅書で法制化されることになる。 原初同盟は14世紀にはハプスブルク家との戦いに勝利し自立への道を踏み固めていった。画像は1315年のモルガルテンの戦いを描いたもの。 アヴィニョン教皇宮殿の正面入り口。 ダンテとベアトリーチェ。ダンテは地獄・煉獄・天国をまわる壮大な『神曲』を書いた詩人。画像は19世紀のヘンリー・ホリデーによるもの(ウォーカー・アート・ギャラリー蔵)。 シエナ。この街は黒死病の被害の影響が大きかったため景観が変化せず中世都市の面影を強く残した街となっている。画像はアンブロージョ・ロレンツェッティによるシエナのプブリコ宮殿(現シエナ市役所)九頭の間の壁画「善政の効果」。 セルビア人の帝国。ネマニッチ朝のステファン・ウロシュ4世ドゥシャンは東ローマ帝国を抑えバルカン最強の国家を樹立した。画像はウロシュ4世により創建されたコソボのデチャニ修道院にあるネマニッチ一族の系譜を描いたフレスコ画。 Codex Mendoza」。 後醍醐天皇。鎌倉幕府を亡ぼし建武の新政を行ったが、政権崩壊後には逃れて吉野に南朝を立てた。画像は清浄光寺所蔵の肖像画。 足利義満。室町幕府3代将軍で南北朝の統一を行い、将軍位を息子義持に譲ってからも法体で実際の政治を握っていた。画像は鹿苑寺所蔵の肖像画。 西アフリカのマリ王国の王マンサ・ムーサ。イスラム教徒としてメッカに巡礼に向かう旅路で黄金を惜しみなく使った逸話で知られる。 Baptistère de Saint Louis」。フランス歴代国王が実際に用いた洗礼盤だが、聖王ルイの時代より正確には半世紀ほど後のもので、マムルーク朝時代のエジプトまたはシリアで作られたイスラム工芸を代表する名品。現在はルーヴル美術館が所蔵している。 歴史家ラシードゥッディーン。その当時の知られていた世界の歴史を『集史』としてまとめ上げた。画像は彼が仕えたイル・ハン国の君主ガザンとオルジェイトゥの兄弟を描いた『集史』の挿絵。 草原の英雄ティムール。モンゴル帝国の分裂後の中央アジア・西アジアはティムールによって統一された。画像は1370年のバルフ包囲戦を描いたホーンダミール『清浄園』の16世紀の写本の挿絵。 ハンピ)のヴィルーパークシャ寺院。 チベット仏教の改革者ツォンカパ。綱紀粛正に努め左道密教を退けて現在のダライラマに連なるゲルク派(黄帽派)を大成した。 青花の誕生。元朝後期に西アジア産のコバルト顔料を用いて白磁に紋様を描く青花(染付)の技法が開発された。画像はこの世紀に造られた「青花魚藻文壺(ブルックリン美術館蔵)」。 明の洪武帝朱元璋。モンゴル人の元朝を北方に追いやり、漢民族の王朝を復興した。画像は洪武帝の肖像画(台北国立故宮博物院蔵)。 14世紀(じゅうよんせいき)は、西暦1301年から西暦1400年までの100年間を指す世紀。.

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15世紀

大航海時代。大西洋を渡り新世界を発見したコロンブス。 マチュ・ピチュ遺跡。アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿いの尾根にある遺跡で標高2430mの高さにある。用途は未だ明らかでない所もあるが、15世紀に建造されたインカ帝国の技術の高さを反映している。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 香辛料の魅惑。15世紀には東方との交易路はオスマン帝国に遮断される事になり、香辛料の供給不足が大きな問題となった。画像は1410年代に描かれた『世界の記述(東方見聞録)』の挿絵で、インドでの胡椒採収が取り上げられている。 エンリケ航海王子。ポルトガルは東方への航路の開発を推進したが、その中心となったのは「航海王子」の名を持つエンリケ王子である。サグレスに設置した「王子の村」が航海士の育成に貢献したことはよく知られている。画像は「サン・ヴィセンテの祭壇画」で聖人のすぐ右隣に位置する黒帽で黒髭の人物が王子ととされているが異論もある。 キルワの大モスク跡。 サマルカンド近郊のウルグ・ベク天文台。ティムール朝の君主ウルグ・ベクは天文学に造詣が深く「ズィージ・スルターニー」のような精緻な天文表も作成させた。 Musée des Augustins蔵)。 ロシア正教会の自立。東ローマ帝国の衰退に伴い「タタールの軛」を脱したロシアでは独自の組織が形成され文化的にも新たな展開が見られた。画像はこの時代を代表するモスクワ派のイコン(聖画像)でアンドレイ・ルブリョフの「至聖三者」(モスクワのトレチャコフ美術館蔵)。 グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)。ポーランド・リトアニア連合軍がドイツ騎士団を破り、東方植民の動きはここで抑えられた。画像はこの戦いを描いたポーランド人画家ヤン・マテイコの歴史画(ワルシャワ国立美術館蔵)。 天文時計で1410年頃作成されてから、後世の補修はあるものの今日まで動いているものである。 プラハ大学学長ヤン・フスの火刑。コンスタンツ公会議の決定によりカトリック教会と相容れぬ異端の徒として処刑されたが、これがチェック人の憤激を呼び起こすことになった。 オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルク。劣勢のフランス軍を鼓舞し百年戦争の終結に大きな役割を果たしたが魔女裁判で火刑に処せられた。 グーテンベルク聖書(42行聖書)』の「創世記」。 『中世の秋』。歴史家ホイジンガはこの題名でこの時代のブルゴーニュ公国の歴史を描いた。画像はヤン・ファン・エイクの「宰相ロランの聖母」。ロランはこの国の宰相で、背後にはブルゴーニュのオータンの風景が広がる。 ブルネレスキの巨大なドーム建築で知られる「花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)」。 ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」。メディチ家などの文化支援活動に支えられてルネサンス文化が花開いた。画像の中心の女神は美と愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)で、その周囲を多くの神々が取り囲んでいる(ウフィッツィ美術館蔵)。 サイイド朝からローディー朝へ。北インドではデリーを中心にイスラム系王朝が続いた。画像はデリーのローディー・ガーデン内にあるサイイド朝の君主ムハンマド・シャーの霊廟。この公園の敷地にはローディー朝君主たちの霊廟もある。 タイを支配したアユタヤ朝は上座部仏教を保護し東南アジアでも有数の国家となっていた。画像はアユタヤに残るワット・プラ・シーサンペットで、1448年にボーロマトライローカナート王により建立された寺院である。 万里の長城。モンゴル人を漠北に追い払ってからもその侵入に備え明代には長城が幾度となく修復・増築を繰り返されていた。画像は1404年に「慕田峪長城」と名付けられた長城で北京市の北東に位置するもの。 鄭和の南海大遠征。永楽帝時代には明の国威を示す大艦隊が各地に派遣された。画像は1417年にベンガルから運ばれたキリンを描いた「瑞應麒麟図」。 「仁宣の治」。明は仁宗洪熙帝と続く宣宗宣徳帝の時代に安定期を迎えた。画像は明の宣宗宣徳帝の入城を描いたもの(台北故宮博物院蔵)。 如拙「瓢鮎図」。禅宗の流入は「五山文学」や「舶来唐物」などを通じて室町時代の文化に大きな影響を与えた。この「瓢鮎図」も将軍足利義持の命で描かれた水墨画で数多くの禅僧の画讃がつけられている。京都妙心寺塔頭退蔵院の所蔵。 文化を極めた。 応仁の乱。将軍後継をめぐる守護大名の争いで京都の町は焦土と化した。以後足利将軍の権威は衰え下剋上の時代へと進むことになる。画像は応仁の乱を描いた「紙本著色真如堂縁起」(真正極楽寺蔵)。 15世紀(じゅうごせいき)とは、西暦1401年から西暦1500年までの100年間を指す世紀。.

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19世紀

19世紀に君臨した大英帝国。 19世紀(じゅうきゅうせいき)は、西暦1801年から西暦1900年までの100年間を指す世紀。.

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9月2日

9月2日(くがつふつか)はグレゴリオ暦で年始から245日目(閏年では246日目)にあたり、年末まではあと120日ある。.

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