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フランソワ・グリマルディ

索引 フランソワ・グリマルディ

右 フランソワ・グリマルディ(François Grimaldi)は、ゲルフ(教皇派)のジェノヴァ人。現在のモナコ公家・グリマルディ家の始祖として知られる。 ジェノヴァ共和国の都市貴族グリマルディ家出身。1297年1月8日、フランソワ・グリマルディはフランシスコ会の修道士姿に変装し、ギベリン(皇帝派)に占領されていた要塞に侵入、モナコの岩を占領した。これが現在のモナコ公国の始まりであるが、フランソワ自身はモナコの統治を行ったわけではなかった。彼はわずか4年後にジェノヴァ軍によってモナコを追われており、この「岩」をめぐるジェノヴァとの争いは一族の者が継承した。グリマルディ家の支配体制が固まるのは1419年のことである。なお、フランソワの名はフランス語読みであり、ジェノヴァ出身の彼がフランチェスコ(Francesco)と呼ばれたのはまず確実である。 1295年にアウレリア・デル・カレットと結婚したが、子供には恵まれなかった。フランソワの死後の1309年、従弟であり妻の連れ子でもあるカーニュ侯レーニエ1世が後を継いだ。 レーニエ1世の子孫が、現在のアルベール2世にまで続く現在のモナコ公家である。要するに、フランソワは現在の公家の直系の先祖でもなければモナコの支配を確立したわけでもないのであるが、支配を試みた最初のグリマルディ家の者として現在のような名声を得るに至ったのである。.

12 関係: 修道士モナコモナコ統治者の一覧フランシスコ会アルベール2世 (モナコ大公)ジェノヴァジェノヴァ共和国教皇派と皇帝派1295年1297年1309年1月8日

修道士

修道士(しゅうどうし、)というキリスト教用語には二つの語義・概念がある。ただし二つの概念は排他的概念ではなく包含関係にある(「1」の語義が「2」の語義より広義)。.

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モナコ

モナコ公国(モナコこうこく、プランシポテ・ドゥ・モナコ、仏:)、通称モナコ()は、西ヨーロッパの立憲君主制国家。.

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モナコ統治者の一覧

以下に示す表は、年代順に並べられたモナコ統治者の一覧である。 殆どはグリマルディ家の出身となる。他国統治期間の行政者等は、例外としてその旨を記す。.

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フランシスコ会

フランシスコ会の会章 フランシスコ会(フランシスコかい、Ordo Fratrum Minorum、Order of Friars Minor)またはフランチェスコ会(フランチェスコかい)は、13世紀のイタリアで、アッシジのフランチェスコによってはじめられたカトリック教会の修道会の総称であり、広義には第一会(男子修道会)、第二会(女子修道会)、第三会(在俗会)を含む。現在、その活動は全世界にわたっている石井(2004)「フランシスコ会」。 狭義には男子修道会、すなわち男子修道士による托鉢修道会である第一会に相当する3つの会のことを指し、特にそのなかの主流派である改革派フランシスコ会のみを指すこともある。この3つの会はいずれも「小さき兄弟会」Ordo Fratrum Minorum (OFM) の名を冠している。また、イングランド国教会系の聖公会でもフランシスコ会が組織されている。 フランシスコ会は、無所有と清貧を主張したフランチェスコの精神にもとづき、染色を施さない修道服をまとって活動している。.

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アルベール2世 (モナコ大公)

アルベール2世(Albert II de Monaco、1958年3月14日 - )は、モナコ公国の大公(在位2005年7月12日 - )。父はレーニエ3世、母はハリウッド女優であったグレース・ケリーである。2005年3月31日、摂政に就任し、2005年4月6日にレーニエ3世が薨去したため、同年7月12日即位式が行われた。.

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ジェノヴァ

ェノヴァ(Genova)は、イタリア共和国北西部にある都市で、その周辺地域を含む人口約58万人の基礎自治体(コムーネ)。リグーリア州の州都であり、ジェノヴァ県の県都である。 リグリア海に面した港湾都市で、中世には海洋国家(ジェノヴァ共和国)として栄え、商工業・金融業の中心地としての長い歴史を持つ。現代においてもミラノ、トリノなど北イタリアの産業都市を背後に持つジェノヴァ港はイタリア最大の貿易港であり、地中海有数のコンテナ取扱高を誇っている。コムーネ人口は全国6位(2011年現在)。.

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ジェノヴァ共和国

ェノヴァ共和国(ジェノヴァきょうわこく、Repubblica di Genova、リグーリア語: Repúbrica de Zêna, Respublica Ianuensis, 別称: Serenissima Repubblica di Genova)は、ジェノヴァを中心にして1005年から1797年まで存在した都市領邦。 1148年以来公債を引き受けた国内のシ団は、塩税の管理を委任されてからジェノア銀行として組織化された。同行は国の収入を管理した。植民地、属領、軍隊、艦隊までも保有した。戦争を行い、条約を結んだ。1407年にフランスのジャン・ル・メングル元帥は社名変更の上、累積した国家債務の借り換え資金を提供させた。その軌跡はマキャベリをして「市民は国家の暴政と、会社のすぐれた管理とのために、国家の権威よりもむしろ会社のそれを欲した」と言わしめ、イギリス東インド会社の本国に占めた地位が遠く及ばなかったほどである。衰退期を経て1797年の恐慌で破産。同行の負債は、共和国を併合したサルデーニャ王国の国債に継承された。 ジェノヴァ出身のジョン・カボットは、共和国衰退期の直前に北米海岸を発見した。.

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教皇派と皇帝派

教皇派と皇帝派(きょうこうはとこうていは)とは、12世紀から13世紀の主に北イタリアにおいて、対立するローマ教皇と神聖ローマ皇帝をそれぞれを支持した都市、貴族達を指すが、14世紀から15世紀には本来の意味から離れ、対立する都市間の争いや都市内部の派閥抗争における両勢力の便宜的な分類として用いられた。ゲルフとギベリンともいう。 元々は、神聖ローマ帝国の帝位争いにおいてヴェルフ派をヴェルフ、ホーエンシュタウフェン派をウィーベリンと言ったものが、ヴェルフ家が教皇と結んで、帝位についたホーエンシュタウフェン朝と対抗したため、これがイタリアに伝わり教皇派と皇帝派(ゲルフ(グエルフィ、Guelfi)とギベリン(ギベッリーニ、Ghibellini))となった。.

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1295年

記載なし。

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1297年

記載なし。

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1309年

記載なし。

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1月8日

1月8日(いちがつようか)は、グレゴリオ暦で年始から8日目に当たり、年末まであと357日(閏年では358日)ある。誕生花はアザレア。.

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