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パウルス・ディアコヌス

索引 パウルス・ディアコヌス

パウルス・ディアコヌス (Paulus Diacunus,( 720年 - 799年4月13日)は、 Warnefridus, Barnefridus, Winfridusとも呼ばれ、時としてカッシネシス(Cassinensis) (" モンテ・カッシーノの"という意味)とも呼ばれたベネディクト修道会の修道士で著述家、歴史家、詩人である。ランゴバルド王国の歴史を著述した『ランゴバルド史』(Historia Langobardorum) を書いた。パウルス・ディアコヌスはラテン語でイタリア語名ではパオロ・ディアーコノ (Paolo Diacono) となる。 .

40 関係: 助祭修道士チヴィダーレ・デル・フリウーリモンテ・カッシーノヨハン・グスタフ・ドロイゼンランゴバルド王国ラテン語ローマトゥールのグレゴリウスパヴィーアフランク人ホラティウスベネヴェントベネヴェント公国ベネディクト会ベーダアルボイーノアルプスアヴァールイシドールスイタリア半島イタリア語ウァレリアヌスエウトロピウスエジプトのマリアカルロ・チポラカロリング朝ルネサンスカール大帝グレゴリウス1世 (ローマ教皇)グイード・ダレッツォコモ湖聖ヨハネ賛歌詩人著作家東ローマ帝国歴史家洗礼者ヨハネ教皇の書720年799年

助祭

助祭(じょさい、)はキリスト教における教会職務のひとつで、ギリシャ語のδιάκονος(奉仕者の意)を語源とする。カトリック教会では、司祭につぐ職位。正教会では「輔祭」の訳語を、聖公会などプロテスタントでは「執事」という訳語を用いている。 ラテン語ではdiaconusといい、トリエント公会議では「聖職位階の上位」であったが、第2バチカン公会議ではそれまで存在した副助祭、祓魔師、読師、守門という四つの下級叙品が廃止されたため、現代では「聖職位階の下位」(『教会憲章』29項)となっている。 第二バチカン公会議以来、助祭を司祭への通過点や、ミサなどの典礼における単なる「司祭の補助」と見なすのではなく、助祭として固有の職務を再確認する方向に進んでいる。これに伴い司祭には叙階されず、既婚者もなりうる終身助祭 (permanent deacon) の制度が復活し、最近では日本でも登場し始めている。 また、中世以降(現教会法でも)、助祭は男性に限られているが、カルケドン公会議などで40歳以上の独身女性の叙階を認めるなどの例が教会の歴史において見られる。 Category:キリスト教の称号・役職 Category:カトリック en:Deacon id:Diakon pl:Diakonat.

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修道士

修道士(しゅうどうし、)というキリスト教用語には二つの語義・概念がある。ただし二つの概念は排他的概念ではなく包含関係にある(「1」の語義が「2」の語義より広義)。.

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チヴィダーレ・デル・フリウーリ

チヴィダーレ・デル・フリウーリ(Cividale del Friuli)は、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ウーディネ県にある、人口1万1000人の基礎自治体(コムーネ)。 この都市は、ユリウス・カエサルが築いた古代都市にさかのぼり、中世にはこの地方の政治的な中心都市のひとつであった。フリウーリという地方名はこの都市の古名が起源となっている。現在は静かな小都市であり、中世の面影を残した市街地は観光地となっている。ランゴバルド王国が遺した遺跡は、ユネスコの世界遺産に登録されている。.

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モンテ・カッシーノ

モンテ・カッシーノと修道院 モンテ・カッシーノ(Monte Cassino)は、イタリア共和国ラツィオ州フロジノーネ県カッシーノ市郊外に位置する標高519mの岩山。ヌルシアのベネディクトゥスが同地に初めてベネディクト会の修道院を築いたこと(529年ごろ)で有名。同修道院は古代から中世を通じてヨーロッパの学芸の中心という重責を担っていたが、戦乱の中でたびたび破壊された。.

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ヨハン・グスタフ・ドロイゼン

ヨハン・グスタフ・ドロイゼン ヨハン・グスタフ・ドロイゼン(Johann Gustav Bernhard Droysen、1808年7月6日1884年6月19日)は、プロイセン王国ポンメルン州生まれ、ドイツの歴史家、政治家。 歴史家として特にギリシャ史を研究し、アレクサンドロス大王以後の時代について「ヘレニズム」を提唱した最初の人物である。また、政治家としてはドイツ三月革命が1848年に起こるとフランクフルト国民議会の議員となり、プロイセンを中心とするドイツ統一を主張してプロイセン学派を牽引した。.

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ランゴバルド王国

ランゴバルド王国(ランゴバルドおうこく、、、、)は、中世イタリアに568年あるいは569年に建国されたゲルマン系のランゴバルド族による王国である。イタリア語からの音訳でロンゴバルド王国ともいう。首都はパヴィアに置かれ、774年にカール大帝によって実質的に滅ぼされた。 王国は2つの主要な部分からなっており、イタリア半島の北部から中部に存在したより重要な北部(その西側をネウストリア、東側をアウストリアという)と、イタリア南部のベネヴェント・スポレート両公国によって形成されていた。王国の2世紀にわたる歴史において、両地域は安定して統治されたわけではない。王国を形成していた諸公の権力は強く、王権が強大なときも勢力を蓄え、諸公の力を抑制する努力は全く実らなかった。ランゴバルド的な個性は徐々に消えていき、イタリア王国へと発展した。ランゴバルド人は徐々にローマ帝国の役職名や固有人名、伝統を受け入れていき、7世紀には一部がキリスト教に改宗したが、宗教的民族的対立は解消されずに長く続いた。パウルス・ディアコヌスが著述活動をしていた8世紀までには、ランゴバルド族の言葉は失われ、固有の装束様式や髪型は消滅していた。ランゴバルド族の文化水準は低く、影響は文化的には大したことはなかったが、政治的には以後長く続くイタリアの分裂の端緒となった。 王国の支配領域であるポー川流域一帯はランゴバルド人の土地と言う意味で、現在のロンバルディア州の語源になった。ランゴバルドとは「長い髭」 (longa barba) を意味しているとの説がある。.

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ラテン語

ラテン語(ラテンご、lingua latina リングア・ラティーナ)は、インド・ヨーロッパ語族のイタリック語派の言語の一つ。ラテン・ファリスク語群。漢字表記は拉丁語・羅甸語で、拉語・羅語と略される。.

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ローマ

ーマ(Roma、Roma)は、イタリアの首都。欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都、ローマ県のコムーネの一つで、ローマ県の県都でもある。英語とフランス語の表記は「Rome」。.

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トゥールのグレゴリウス

トゥールのグレゴリウス(Gregorius Turonensis、538年頃11月30日 - 594年11月17日)は、ガロ・ローマ人の歴史家、聖職者、メロヴィング朝治下アウストラシアのトゥール司教。ガリア聖職者集団の主導的立場にあった。生まれたときにゲオルギウス・フロレンティウス(羅:Georgius Florentius)と名付けられたが、後に母方の曽祖父に敬意を表してグレゴリウスの名が加えられた。彼は後期の俗ラテン語で著述したが、自身の著作が多くの聴衆に届くようにという入念な策略であったとされる。著作は後代の年代記作家により付けられた『フランク史』(羅:Historia Francorum)の名で知られる『歴史十巻』(羅:Decem Libri Historiarum)が有名で、また著書「聖人伝」もメロヴィング朝期ガリアの生活や信仰の貴重な史料である。.

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パヴィーア

パヴィーア(Pavia)は、イタリア共和国ロンバルディア州にある都市であり、その周辺地域を含む人口約7万3000人の基礎自治体(コムーネ)。パヴィーア県の県都。 ミラノの南約30km、ポー川との合流点にほど近いティチーノ川の河畔にあるこの都市には、東ゴート王国やランゴバルド王国が首都を置いた。中世においてはイタリア王権の首都とみなされており、神聖ローマ皇帝は12世紀に至るまでイタリア王としての戴冠式をこの都市で挙行した。1361年に設立されたパヴィーア大学を中心に学問の風土を持つ、閑静な都市である。.

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フランク人

Gelasian Sacramentary』。750年頃にメロヴィング朝フランク王国で作られたもので現在はヴァティカン図書館に所蔵されている。 フランク人(フランクじん)またはフランク族(フランクぞく、Franci, Franken, Francs, Franchi, Franks)は、ローマ帝国時代後期から記録に登場するゲルマン人の部族である。一般的にサリー族と(ライン・フランク族)に大別される。前者は西ヨーロッパにおいてフランク王国を建国した事で知られる。 フランクという名前は西暦3世紀半ばに初めて史料に登場する五十嵐 2003, p. 317。記録に残る「フランク(francus または franci)」という言葉の最も古い用例は241年頃の歴史的事実を踏まえたとされるローマ行軍歌においてであり佐藤 1995a, p. 134、これは4世紀に書かれた『皇帝列伝』に収録されて現代に伝わっている。ローマ人はライン川中流域に居住するゲルマン人たちを一括して「フランク人」と呼んでいた。フランク(francus、franci)の語義は「勇敢な人々」、「大胆な人々」、あるいは「荒々しい」「猛々しい」「おそろしい」人々という意味であるとされている渡部 1997, p. 45。 西ヨーロッパ全域を支配する王国を建設したことから、東方の東ローマ帝国やイスラム諸国では、西ヨーロッパ人全般を指す言葉として用いられた事もある。十字軍研究の分野では現代の学者たちもレヴァント十字軍国家を指して「フランク国家」と表現したり、移住したヨーロッパ人全般を指して「フランク人」と言う用語を用いる場合があるグルッセ 1954, pp.

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ホラティウス

ィントゥス・ホラティウス・フラックス クィントゥス・ホラティウス・フラックス(Quintus Horatius Flaccus, 紀元前65年12月8日 - 紀元前8年11月27日)は、古代ローマ時代の南イタリアの詩人。一般には単にホラティウスと呼ばれる。.

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ベネヴェント

ベネヴェント(Benevento)は、イタリア共和国カンパニア州にある都市で、その周辺地域を含む人口約6万1000人の基礎自治体(コムーネ)。ベネヴェント県の県都である。 ローマ人がこの地を支配下に収める以前からの古い歴史を持つ都市で、ローマ時代にはアッピア街道の重要都市として繁栄した。中世には南イタリアを統治するベネヴェント公国の首都であり、11世紀末以降は19世紀のイタリア統一まで(ナポレオン時代を除き)教皇領であった。この都市の周辺では、古代以来何度かの重要な戦闘が行われており、ローマがピュロス王を退けた戦い(紀元前274年)、第二次ポエニ戦争中の戦い(紀元前214年、紀元前212年)、シチリア王位をめぐる戦い(1266年)が著名である。.

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ベネヴェント公国

ベネヴェント公国(ベネヴェントこうこく、Ducato di Benevento)は、中世におけるイタリア最南端のランゴバルド系公国で、ベネヴェント、メッツォジョールノ(南イタリア)を中心としていた。ランゴバルド三侯国のひとつ。.

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ベネディクト会

聖土曜日に晩課を歌うベネディクト会の修道士達(アメリカ・ニュージャージー州、2009年4月撮影) ベネディクト会(Ordo Sancti Benedicti, Benedictine Order)は、現代も活動するカトリック教会最古の修道会。.

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ベーダ

ベーダ.

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アルボイーノ

アルボイーノ(Alboino, 526年? - 572年6月28日)は、ランゴバルド族の王(在位:560年 - 572年)、およびイタリア王(在位:568年 - 572年)である。最初の妻はフランク王クロタール1世の娘クロトジンド。567年パンノニアのゲピド族を部族長共々虐殺し、またクニムンドの娘を妻としたが、572年に彼女に暗殺された。アルボイーノは東ゴート王国の王族アマル家の血を引いている。アルボイーノの母Rodelindaが東ゴート王国初代テオドリック大王の妹アマラフリーダの孫娘(アマラフリーダの娘アマラベルガの子)だからである。故にアルボイーノはアマラフリーダの曽孫にあたり、アルボイーノとテオドリック大王は曽姪孫と曽祖伯父の関係で、テオドリック大王の曽孫ゲルマヌス(550年 - 605年、テオドリック大王の孫娘で東ゴート王国第3代アマラスンタの娘、第2代アタラリックの妹、西ゴート王国国王アマラリックの従妹であるマタスンタの息子。父は東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス1世の従兄弟ゲルマヌス・ユスティヌス(505年頃 - 550年))は三従弟である。アマラリックとアタラリック・マタスンタ兄妹は三従伯父母、アマラスンタは三従伯祖母である。また、アマラリックの娘ゴイスウィンタは三従姉妹、ゴイスウィンタの2人の娘(ガルスウィント、ブルンヒルダ)は三従姪、ゲルマヌスの二人の娘(母は東ローマ帝国皇帝ティベリウス2世の娘の1人チャリート(560年頃生誕)。長女(583年頃 - 605年)は東ローマ帝国皇帝マウリキウスとチャリートの姉妹コンスタンティアの長男テオドシウス(583年 - 602年)と結婚。子女なし。次女(585年 - 没年不明)はマウリキウスの次々代東ローマ帝国皇帝ヘラクレイオスとの間に1男ヨハンネスを儲けた)も三従姪である。.

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アルプス

アルプス(Alps).

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アヴァール

アヴァール (Avars) は、 5世紀から9世紀に中央アジアおよび中央・東ヨーロッパで活動した遊牧民族。支配者は遊牧国家の君主号であるカガン(khagan:可汗)を称したため、その国家はアヴァール可汗国とも呼ばれる。東ローマの一部史料ではジェジェン(Geougen)、ルーシの史料ではオーブル人(Obrs)とも呼ばれる。.

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イシドールス

ビリャのイシドールス(San Isidoro de Sevilla、Isidorus Hispalensis、 英語:Saint Isidore of Seville、560年頃 - 636年4月4日)は、中世初期の神学者で、後期ラテン教父の中でも最も重要な神学者の一人であり、カトリックでは「インターネット利用者およびプログラマー」の守護聖人。 30年以上セビリャ大司教を務めた。中世のヒスパニアの地域で書かれた後の歴史書はすべて、このイシドールスの歴史を範としていた。 イシドールスが生きたのは、古典文化が没落し、支配者の暴力と無学が横行していた時代であった。イシドールスは長兄レアンデルと協力して、西ゴート王の、アリウス派信仰からのカトリック改宗に関与した。そして兄の死後も彼はカトリック布教の努力を継続した。レアンデルと同じように、トレドとセビリャで開かれた宗教会議で主導的な役割を演じた。レアンデルとイシドールスの兄弟は、その政治的手腕によって今日の歴史家から見ても意義のある変化をもたらしたともいえる。なぜなら、この教会会議で発議された西ゴート王国の法令は代議制政治の発達にとっても重要な契機となっているからである。 農業の守護聖人でマドリードの守護聖人である聖イシドロ(en)とは別人である。.

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イタリア半島

イタリア半島(イタリアはんとう、Penisola italiana、Paeninsula Italica)は、ヨーロッパ大陸のアルプス山脈の南側から地中海に南東に延びた形の半島。別名アペニン半島。東側をアドリア海、南側をイオニア海、西側をティレニア海に分断している。アペニン山脈が貫いていて、半島のつけ根には北のアルプス山脈と南のアペニン山脈に囲まれるようにパダーナ平原がある。 以下の国が存在する。.

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イタリア語

イタリア語(イタリアご)は、インド・ヨーロッパ語族イタリック語派に属する言語の1つで、おおよそ6千万人ほどが日常的に使用しており、そのほとんどがイタリアに住んでいる。後置修飾で、基本語順はSVO。イタリアは漢字で「伊太利亜」と表記することから、「伊太利亜語」を略記し伊語と称される。.

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ウァレリアヌス

プブリウス・リキニウス・ウァレリアヌス(Publius Licinius Valerianus,193年か195年か200年 - 260年から264年)は、軍人皇帝時代のローマ帝国皇帝である。.

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エウトロピウス

ウトロピウス(ラテン語:Eutropius、320年頃 ‐ 4世紀末)は、ローマ帝国後期の政治家、歴史家。全10巻からなる『』(ラテン語:Breviarium ab Urbe Condita(Breviarium historiae Romanae(ローマ史概説)と表記されることもある)を著した。.

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エジプトのマリア

プトの聖マリア(エジプトのせいマリア)は、東方諸教会、正教会、カトリック教会、聖公会のいずれでも崇敬されるキリスト教の聖人。 特に正教会で、第一の聖人たる生神女マリヤ(聖母マリア)に次ぐ第二の聖人とも呼ばれ、極めて篤く崇敬されている。 生没年がはっきりしておらず(後述)、6世紀初め頃の聖人と正教会では伝えられているが、カトリック教会では5世紀初め頃の聖人と伝えられており、東西教会間で伝承される年代に相違がある。ただし東西教会の分裂がはっきりする前の時期の聖人である事はいずれの年代によっても確実であるという事もあり、東西両教派のいずれの聖伝・伝承においても、伝えられている彼女の生涯に関する内容(淫蕩の生活から、修行と苦難を経て高徳の聖人へ)は共通している。 その波乱に満ちた生涯は、古くから現代に至るまで、様々な藝術作品・文学・音楽作品に用いられる題材となっている(後述)。 日本正教会の祈祷書ではエギペトの聖マリヤと呼ばれる。エギペトとはエジプトの事で、ギリシャ語の"Αίγυπτος"(エギプトス:中世以降の読み)が中世にスラヴ語圏に入った際に教会スラヴ語・ロシア語においてЕгипет(エギペト)と転写されたものが片仮名に転写されたものである。ちなみに「エジプト」は英語由来の転写である。正教会では「克肖女」の称号も付され、「エギペトの克肖女聖マリヤ」として記憶される。.

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カルロ・チポラ

ルロ・チポラ(Carlo Maria Cipolla、1922年8月15日 - 2000年9月5日)は、イタリアの経済学者、歴史学者。経済史が専門である。 パヴィーア生まれ。パヴィア大学で政治学を専攻するが、中世ヨーロッパの経済史を教えていたフランコ・ボルランディとの出会いによって、経済史に関心を持ち、ソルボンヌ大学やロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで学んだ。ヴェネツィア・カ・フォスカリ大学、トリノ大学、パヴィア大学、ピサ高等師範学校などの教職を歴任した。1953年アメリカに渡り、カリフォルニア大学バークレー校の教授となる。.

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カロリング朝ルネサンス

リング朝ルネサンスまたはカロリング・ルネサンス(Carolingian Renaissance, Renaissance carolingienne )とは、フランク王国(カロリング朝)のカール大帝(フランク王 768年 - 814年、西ローマ皇帝 800年 - 814年)の頃(8世紀~9世紀)に見られる古典復興、文化の隆盛を指す言葉である。.

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カール大帝

ール大帝(カールたいてい、742年4月2日 - 814年1月28日)は、フランク王国の国王(在位:768年 - 814年)。西ローマ皇帝厳密にはコンスタンティノス6世の後継者としての「ローマ帝国全土の皇帝」であるが、同時代に存在した東ローマ皇帝との地理的関係から、現代においては西ローマ皇帝とも表記される。同じく西ローマ皇帝と表記されるロムルス・アウグストゥルス以降に途絶えた西方正帝の地位を復活させたものではないことに注意を要する。(在位:800年 - 814年)。初代神聖ローマ皇帝とも見なされる。カロリング朝を開いたピピン3世(小ピピン)の子。フランス語でシャルルマーニュ といいラテン語ではカロルス・マグヌス 、ドイツ語ではカール・デア・グローセ 、英語ではフランス語綴りを英語読みでシャーレメイン、または英訳してチャールズ・ザ・グレート 、イタリア語ではカルロ・マーニョ 、スペイン語ではカルロマグノ 、ポルトガル語ではカルロス・マグノ 、トルコ語ではフランス語綴りを音訳してシャルルマン (Şarlman) という。日本ではカール大帝の名が世界史の教科書などで一般的に使用されているが、フランス語のシャルルマーニュもフランスの古典叙事詩や歴史書などからの翻訳でよく知られている。、またカール1世(シャルル1世)ともいう。ドイツ、フランス両国の始祖的英雄と見なされていることから、ドイツ風とフランス風の呼び方を共に避けて英語読みのチャールズ大帝という表記が用いられることもある。 768年に弟のカールマンとの共同統治(分国統治)としてカールの治世は始まり、カールマンが771年に早世したのちカールは43年間、70歳すぎで死去するまで単独の国王として長く君臨した。カールは全方向に出兵して領土を広げ、フランク王国の最盛期を現出させた。800年にはローマ教皇レオ3世によってローマ皇帝として戴冠されたが、東ローマ帝国ではカールのローマ皇帝位を承認せず、僭称とみなした。1165年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世によってカール大帝は列聖された。カール大帝は、古典ローマ、キリスト教、ゲルマン文化の融合を体現し、中世以降のキリスト教ヨーロッパの王国の太祖として扱われており、「ヨーロッパの父」とも呼ばれる。カール大帝の死後843年にフランク王国は分裂し、のちに神聖ローマ帝国・フランス王国・ベネルクス・アルプスからイタリアの国々が誕生した。.

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グレゴリウス1世 (ローマ教皇)

レゴリウス1世(Gregorius I, 540年? - 604年3月12日)は、ローマ教皇(在位:590年9月3日 - 604年3月12日)。問答者グレゴリウス(Dialogos Gregorios)、大聖グレゴリウスとも呼ばれる。典礼の整備、教会改革で知られ、中世初期を代表する教皇である。四大ラテン教父の一人。ローマ・カトリックでは聖人、教会博士であり、祝日は9月3日。 東方正教会でも聖人で記憶日は3月25日。日本ハリストス正教会では先備聖体礼儀の作成者・ロマの「パパ」問答者聖グリゴリイ(鍵括弧原典ママ)と呼ばれる。.

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グイード・ダレッツォ

イード・ダレッツォ(Guido d'Arezzo:Guido Aretinus, Guido Monaco とも表記される、991年または992年 - 1050年)は、中世イタリアの音楽教師。現在用いられる楽譜記譜法の原型を考案した。また、Micrologusと呼ばれる、中世の音楽史上に広く受け入れられた論文を発表したことでも知られる。.

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コモ湖

モ湖()は、イタリア北部のロンバルディア州にある湖。逆Y字形の形状を持つ湖で、湖水面積はイタリアで3番目に広い。湖畔は避暑地として著名であり、南東端にレッコ、南西端にコモの都市がある。.

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聖ヨハネ賛歌

Ut queant laxis 聖ヨハネ賛歌(せいよはねさんか)または聖ヨハネの夕べの祈り(せいよはねのゆうべのいのり)とは中世の賛歌のひとつである。イタリア語とフランス語の音名の由来になったことで知られている。.

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詩人

詩人(しじん)とは、詩を書き、それを発表する者。また、そのことを職業にしている者。 後者でも詩作のみで生活している人はほとんどおらず、多くの場合、評論、随筆、翻訳、小説、音楽、絵画、演劇、漫画、歌の作詞など他の分野の創作活動を並行して行っていたり、あるいは(文学と縁遠い)他の職業を持っている。たとえば高村光太郎は彫刻家としても多数の作品を残しているし、草野心平にはバーや居酒屋の経営をしていた時期がある。アルチュール・ランボーは10代に残した業績によって詩人と呼ばれているが、詩作を止めた後は貿易商などさまざまな仕事に捧げた。 シンガーソングライターが詩人としても高い評価を得、詩集を出すまでに至る例もある。ボブ・ディラン、パティ・スミスなどがその例である。 また、詩人は古くから聴衆を前に自身の詩を朗読するのを常としていたが、その行為を、ポエトリーリーディングという表現形態において現代社会に甦らせた動きが、欧米のみならず、日本においても1990年代の半ば以降見受けられる、フランスのパリのレーベルで自身のポエトリーリーディングのCDを出している詩人であり美術家でありポエトリーリーディングアートパフォーマーである千葉節子等がその代表的な例である。 詩を書く者以外に対しても「詩人」という言葉が使われることがある。新明解国語辞典第六版(三省堂)にもそのような広義の意味が書かれているし、三好達治は『詩を読む人のために』(至文堂、1952年)の中で「誰かもいったように」と前書きした上で「詩を読み詩を愛する者は既に彼が詩人」であると書いている。 歌の歌詞の作者のことは一般に作詞家と呼ばれる。.

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著作家

著作家(ちょさくか)とは、文章を書くことを職業とする人。著述家(ちょじゅつか)、文筆家(ぶんぴつか)、作家(さっか)、小説家(しょうせつか)、執筆屋(しっぴつや)、ライター (writer) 、物書き(ものかき)などともいう。.

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東ローマ帝国

東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブール)であった。 西暦476年に西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた際、形式上は最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスが当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていた。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。.

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歴史家

歴史学者(れきしがくしゃ)は、歴史を後世に残すべく、叙述(文章化)する人のことである。また、残された史料を元に歴史を研究し、その成果を論文や著作として著す人の事も指す。.

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洗礼者ヨハネ

洗礼者ヨハネ(せんれいしゃヨハネ、יוֹחָנָן הַמַּטְבִּיל,, Ioannes Baptista, Ἰωάννης ὁ βαπτιστής, Giovanni Battista, John the Baptist, Johannes der Täufer, Jean le Baptiste, Juan el Bautista, Johannes de Doper, 紀元前6年から前2年頃 - 36年頃)は、『新約聖書』に登場する古代ユダヤの宗教家・預言者。個人の回心を訴え、ヨルダン川でイエスらに洗礼(バプテスマ)を授けた。『新約聖書』の「ルカによる福音書」によれば、父は祭司ザカリア、母はエリサベト。バプテスマのヨハネ、洗者ヨハネとも。正教会ではキリストの道を備えるものという意味の前駆(Forerunner)の称をもってしばしば呼ぶ。日本ハリストス正教会での呼称は前駆授洗イオアン(ぜんくじゅせんイオアン)。 イエスの弟子である使徒ヨハネとは別人である。.

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教皇の書

『教皇の書』() は聖ペテロから15世紀までの教皇についての伝記である。 初めて作成された『教皇の書』は ハドリアヌス2世 (867–872) または ステファヌス6世 (885–891) の記述でとどまっていたが、後に別の文体で補完され、エウゲニウス4世 (1431–1447) その後、ピウス2世 (1458–1464) までの記述が追加された。8世紀から18世紀までの記述は実質的にはほとんど無批判に引用されてきたが、『教皇の書』は「非公式の教皇プロパガンダの手段」であったとして現代の学者たちによる厳しい精査を受けている。 Liber Pontificalisという題名が一般的になったのは15世紀になってからであり、19世紀のデュシェンヌによる編集の後に公式に認められる題名となった。しかしその名の起源は12世紀にまでさかのぼる。現存する最古の文書では、この本はLiber episcopalis in quo continentur acta beatorum pontificum Urbis Romae、そして後には、 GestaまたはChronica pontificumと呼ばれているLevillain, Philippe.

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720年

記載なし。

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799年

記載なし。

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