108 関係: 執政官、側廊、古代ローマ、司教座聖堂、君主崇拝、多目的ホール、大理石、屋根、世界遺産、府主教、ミラノ勅令、ミストラ、マルマラ海、マクセンティウス、マクセンティウスのバシリカ、ハレンキルヘ、バロック建築、バシリカ・ユリア、バシリカ・アエミリア、バジリカ・ウルピア、ポンペイ、ルネサンス建築、ロマネスク建築、ローマ、ローマ建築、ロッジア、トラヤヌス、パナギア、パロス島、ビザンティン建築、ピア、テッサロニキ、ティルス、ディオクレティアヌス、フライング・バットレス、フォルム、フォロ・ロマーノ、ニカイア、アヤソフィア、アンカラ、アブ・メナ、アプス、アテネ、アウグストゥス、アギア・ソフィア聖堂 (テッサロニキ)、アストゥリアス、イズニク、イタリア半島、エウセビオス、エジプト、...、カンパニア州、ガイウス・ユリウス・カエサル、キリスト教、ギリシャ十字、ギリシア語、コリントス、コロネード、コンスタンティノープル、ゴシック建築、シリア、セプティミウス・セウェルス、サン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂、サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂、サン・ピエトロ大聖堂、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂、サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂、サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、前川道郎、紀元前170年、紀元前184年、紀元前1世紀、紀元前25年、紀元前2世紀、生神女福音大聖堂 (アテネ)、聖務日課、裁判所、飯田喜四郎、西ローマ帝国、鹿島出版会、身廊、至聖所、東ローマ帝国、東方教会、正教会、教会堂、教皇、10世紀、11世紀、12世紀、12年、15世紀、19世紀、303年、312年、314年、317年、4世紀、561年、564年、6世紀、740年、790年、799年、7世紀、820年、8世紀、9世紀。 インデックスを展開 (58 もっと) »
執政官
執政官(しっせいかん、consul、コンスル)は、古代ローマでの政務官のひとつ。都市ローマの長であり、共和政ローマの形式上の元首に当たる。訳語として執政官のほかに統領を用いることもある。.
側廊
三廊式のバシリカ。色のついた部分が側廊。東端にある内陣側の通路は周歩廊という。 側廊(そくろう、aisle)は教会堂、とくにバシリカ式の建築において身廊の両側に存在する廊下状の部位。身廊とは大アーケードと高窓(クリアストーリー)などの構造で仕切られる。幅は身廊より狭く、高さも身廊より低くなる。 基本的に一対、大規模な教会堂では二対の側廊が配置され、それぞれ三廊式、五廊式と表現する。側廊を欠く場合は単廊式教会堂と呼び、そもそもバシリカ式とは区別される。バシリカ式の構成要件に大アーケードと高窓があるが、単廊では物理的にアーケードを持てないからである。.
古代ローマ
古代ローマ(こだいローマ、Roma antiqua)は、イタリア半島中部に位置した多部族からなる都市国家から始まり、領土を拡大して地中海世界の全域を支配する世界帝国までになった国家の総称である。当時の正式な国号は元老院ならびにローマ市民(Senatus Populusque Romanus)であり、共和政成立から使用されて以来滅亡まで体制が変わっても維持された。伝統的には476年のロムルス・アウグストゥルスの退位をもって古代ローマの終焉とするのが一般的であるが、ユスティニアヌス1世によってイタリア本土が再構成される554年までを古代ローマに含める場合もある。ローマ市は、帝国の滅亡後も一都市として存続し、世界帝国ローマの記憶は以後の思想や制度に様々な形で残り、今日まで影響を与えている。.
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司教座聖堂
司教座聖堂(しきょうざせいどう)は、カトリック教会の教区の中心となる教会の聖堂のこと。カテドラル()、大聖堂とも呼ばれる。 東方教会や聖公会で司教座聖堂に相当するものは、日本語では「主教座聖堂」と呼ばれる。ただし正教会においては、大聖堂と主教座聖堂は、必ずしも同義ではない。.
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君主崇拝
君主崇拝(くんしゅすうはい)とは、君主制の国家元首に対する信仰である。.
多目的ホール
多目的ホール(たもくてきホール)とは、演劇、コンサート、スポーツ、展示会を主とする様々な公演やイベントに使用される建築物である。 一般的施設の例。プロセニアム形式ステージに木製壁面(あすかホール).
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大理石
大理石(だいりせき)とは、石灰石を源岩とする変成岩(結晶質石灰岩)の石材としての一般的な呼称である。大理石は古代より建築や彫刻に使われている。 「大理石」という名称は、かつての大理国(現在の中華人民共和国雲南省大理ペー族自治州大理市を中心とする地域)でこれが産出されたことに由来する。英語では marble(マーブル)。「マーブル模様」は大理石の模様や色ムラに由来する。.
屋根
ドイツ・マイセンの屋根 萱葺き屋根(白川郷・五箇山の合掌造り集落) 入母屋の屋根(粟津天満神社。兵庫県加古川市) 造作中の民家の屋根。垂木構造がよく分かる。 屋根(やね、roof)は、主に建物の上部を覆う構造物である。 外の天候の変化、たとえば雨や雪、強風や太陽の強い日差し、気温の変化、工場のばい煙や大気中の粉塵を防ぐなどの役割を行う。 屋根のデザインは、その土地の風土によって、積雪で家屋が押しつぶされるのを防ぐ尖がったもの(pitched)や緩やかな曲線を描くもの(low slope)、平らなもの(flat)などがある。 屋根を覆うことを「葺(ふ)く」(roofing)といい、屋根に使われる素材(茅葺、トタン、レンガ、瓦、スレート、コンクリートなど)により「○○葺」と形容される。建物の構造はそのままに、屋根だけを交換することを「葺き替え」という。 使用される素材はその土地や時代、文化圏で利用しやすいものが使われることが多いため、家々の屋根は集合してその土地の風景や景観を醸しだす。 また、個人の家屋の他、商店や市役所、教会といった公的な建物の屋根はまた時代と共に、あるいはそれぞれの文化圏ごとにさまざまなバリエーションがある。 なお、屋根は一般の建物以外にも公共施設の通路や停留所などにも取り付けられることがある。.
世界遺産
世界遺産(せかいいさん、World Heritage Site)は、1972年のユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)に基づいて世界遺産リスト(世界遺産一覧表)に登録された、文化財、景観、自然など、人類が共有すべき「顕著な普遍的価値」を持つ物件のことで、移動が不可能な不動産が対象となっている。なお、慣例的な用法として、その中の文化遺産を世界文化遺産、自然遺産を世界自然遺産と呼ぶことがある。 なお、世界遺産の制度では正式な文書は英語とフランス語で示され、日本語文献では英語が併記されることがしばしばある一方、フランス語が併記されることは普通ないため、以下では参照しやすさを考慮して、などに依拠して、主たる用語には英語を併記しておく。.
府主教
ンボスキニオン(チョトキ)と呼ばれる、正教会での数珠状の祈りの用具。リヤサを着用している。 府主教(ふしゅきょう、Μητροπολίτης, Митрополит, metropolitan)はキリスト教のうちで正教会の主教品の位階の一つで、日本正教会の訳語。カトリック教会の管区大司教、あるいは首都大司教に相当する。 正教会の場合、主教の上位聖職者として、総主教、府主教、大主教がある。各地域の正教会毎に序列が異なる。.
ミラノ勅令
ミラノ勅令(ミラノちょくれい、Edictum Mediolanense)は、313年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世(当時は西方正帝)とリキニウス(同・東方正帝)が連名で発布したとされる勅令である。一般に、全帝国市民の信教の自由を保障した内容とされるが、この勅令の実在そのものや、真の起草者について疑問視する研究者もいる。.
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ミストラ
ミストラ(Mistra).
マルマラ海
マルマラ海 右上の赤い部分がイスタンブール マルマラ海(マルマラかい、)は、トルコのアジア側とヨーロッパ側の間にある内海である。北の黒海とはボスポラス海峡、南のエーゲ海(地中海)とはダーダネルス海峡を通じて繋がっている。 東西280㎞、南北80㎞の大きさで、最大水深は1370mである。塩分濃度は2.2%で黒海より少し濃い。一方、海底近くでは3.8%あり、地中海と同程度なのは、表層水が黒海から地中海方向へ、底層水は逆に流れているためである。 北岸のボスポラス海峡入り口部にはイスタンブールがあり、東部の陸地に深く入り込んだイズミット湾の最奥部にイズミットがある。 マルマラ海にはプリンスィズ諸島、マルマラ諸島の二つの島嶼群があり、前者はイスタンブールに近いリゾート地、後者は大理石の材料の産地として知られている。この大理石(ギリシア語でmarmaros)が地名の由来である。.
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マクセンティウス
マルクス・アウレリウス・ウァレリウス・マクセンティウス(Marcus Aurelius Valerius Maxentius、278年頃 - 312年10月28日)は、ローマ帝国のテトラルキア時代の皇帝の一人(在位:306年 - 312年)。皇帝マクシミアヌスの息子で、ガレリウス帝の義理の息子であった。.
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マクセンティウスのバシリカ
フォルム・ロマヌム内での位置(赤丸) マクセンティウスのバシリカ(Basilica Maxentii, Basilica di Massenzio)は古代ローマ時代にフォルム・ロマヌムに建てられた公会堂(バシリカ)。コンスタンティヌスのバシリカ(Basilica Constantiniana)や新バシリカ(Basilica Nova)と表記されることもある。.
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ハレンキルヘ
ハレンキルヘ(Hallenkirche)は後期ゴシックにおいてドイツ、フランスのポワトゥー地方を中心に広まった建築様式。バシリカ式教会堂の一つであり、ホール式、広間式教会堂の一つでもある。.
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バロック建築
バロック建築(Baroque Architecture)は、1590年頃から盛んになった建築様式。建築そのものだけではなく、彫刻や絵画を含めた様々な芸術活動によって空間を構成し、複雑さや多様性を示すことを特徴とする。特に内部空間の複雑な構成は、他の建築様式とは際立った特色となっている。 バロックの語源はポルトガル語のBarocco(歪んだ真珠)といわれ、元々は一部に見られるグロテスクなまでに装飾過剰で大仰な建築に対する蔑称であったが、のちに広く17・18世紀の美術・建築に見られる傾向を指す様式概念として用いられるようになった。.
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バシリカ・ユリア
フォルム・ロマヌム内での位置(赤丸) バシリカ・ユリア(Basilica Julia)は古代ローマのフォルム・ロマヌムにあった公会堂(バジリカ)。フォルム・ロマヌムの中央広場(フォルム)からみて、を挟んだ南側に隣接している。.
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バシリカ・アエミリア
フォルム・ロマヌム内での位置(赤丸) バシリカ・アエミリア(Basilica Aemilia,Basilica Emilia)は古代ローマのフォルム・ロマヌムにあった公会堂(バジリカ)。現在遺跡として見られるものは紀元前34年に建てられたもので、建物の大きさは100m×30mであった。 日本語でエミリア会堂、エミリウスのバジリカなどと表記されることもある。.
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バジリカ・ウルピア
バジリカ・ウルピア(Basilica Ulpia)は古代ローマ時代の公会堂で、ローマのトラヤヌスのフォルム内に建てられていた。同フォルムと同時期の112年頃完成したと推定されている。ローマ帝国第13代皇帝トラヤヌスの名マルクス・ウルピウス・ネルウァ・トラヤヌスに因んで名付けられている。.
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ポンペイ
ポンペイの想像図 アボンダンツァ通り ポンペイ(Pompeii、Pompei)は、イタリア・ナポリ近郊にあった古代都市。79年8月24日の昼過ぎ、ヴェスヴィオ火山噴火による火砕流によって地中に埋もれたことで知られ、その遺跡は「ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域」の主要部分として、ユネスコの世界遺産に登録されている。 ローマ人の余暇地として繁栄したポンペイの最盛期の人口は約2万人といわれる。18世紀に発掘が開始され、現在は主要な部分が有料で一般公開されている。この遺跡は、カンパニア州ナポリ県所属の基礎自治体(コムーネ)・ポンペイの市域に所在するが、現在のポンペイ市街は19世紀末に建設されたもので、その中心部は古代ローマ時代のポンペイとは少し離れている。 なお、イタリア語での発音は e にアクセントがあるため、「ポンペーイ」に近い。古典ラテン語ではeと最後のiが長母音なので、「ポンペーイイー」である。.
ルネサンス建築
ルネサンス建築(~けんちく)は、一義的にイタリアのフィレンツェで1420年代に始まり、17世紀初頭まで続いた建築様式を指す。古典古代を理想とするルネサンスの建築における表現といえる。 人体比例と音楽調和を宇宙の基本原理とし、ローマ建築の構成を古典主義建築として理論づけた。ルネサンス建築にはじまる古典主義建築の系譜は、後のバロック建築・新古典主義建築を通じて継承され、西欧建築の主流であったが、19世紀の歴史主義において相対化し、やがて解体した。 ルネサンス建築は、本質的な意味では15-16世紀のイタリアの一部の都市にのみ成立したといえるが、フランス、イギリス、ドイツなど、西欧諸国の建築活動にも影響を与えた。当初これらの国々では、主にルネサンス建築の表層的な意匠が導入されたため、各国独自の嗜好が表れており、それぞれ特徴を持った建築になっている。.
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ロマネスク建築
マネスク建築(ロマネスクけんちく、Romanesque architecture)は、中世西ヨーロッパの建築様式である。時代区分としては、おおよそ1000年から1200年頃までのゴシック建築以前の建築を指す。同時代のビザンティン建築と同じく、教会堂建築において最高の知識・技術・芸術が集約されており、彫刻や絵画は聖堂を装飾するための副次的要素であった。ロマネスク建築の建築物は大陸全体で見られ、帝政ローマ建築以来初めての汎ヨーロッパ建築様式とも言える。 ロマネスクという言葉は、美術史・建築史において、19世紀以降使われるようになった用語である。直訳すると「ローマ風の」という意味であるが、当初は「堕落し粗野になったローマ風の様式」という蔑称としての側面が強く、その芸術的・建築的価値が評価されるようになるのは20世紀になってからである。.
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ローマ
ーマ(Roma、Roma)は、イタリアの首都。欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都、ローマ県のコムーネの一つで、ローマ県の県都でもある。英語とフランス語の表記は「Rome」。.
ローマ建築
ーマ建築(ローマけんちく、Roman Architecture)は、古代ローマの文化、芸術を代表する建築。共和政ローマ、そしてローマ帝国の支配地域に広く残る遺跡と、ウィトルウィウスの残した『建築について』の存在により、ルネサンスに始まる古典主義建築の源泉となった。 ヨーロッパをはじめとする西方世界において、極めて重要な位置を占めるローマ建築は、エトルリア建築、そしてギリシア建築の影響を受けつつ発展していった。古代ローマにおいてギリシア美術の影響は特に強いものとなったが、古典期のギリシア建築がほとんどひとつの彫刻のように捉えられ、自己完結的であるのに対し、ローマ建築では、建築物相互の関係性、社会的要求、美的要求、その他の要素が複合して成り立っていると考えられている。そのため、ギリシア建築といえばすぐに周囲から孤立した神殿を思い浮かべるが、ローマ建築では神殿でなく、神殿やバシリカなどを包含したフォルム、円形闘技場、公共浴場などの公共施設が想起される。 また、精密に構築されたローマ水道、水道を架けるためのアーチ、建築物の天井を覆うヴォールト、ドームなどの優れた土木・建築工学は、古代ローマの文化水準の高さを物語っている。 パンテオンの内部.
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ロッジア
Villa Godiの正面図。中央の玄関部分がロッジアになっていて、左右にも回廊としてのロッジアがある。 ドミティアヌスのテラスの上に15世紀の Casa dei Cavalieri di Rodi のロッジアが載っている。ローマのトラヤヌスのフォルムにある。 ロッジア(loggia)は、イタリアで生まれた建築意匠の一種を指す言葉で、ファサードに一方の側が外に開かれた廊下を配し、一定間隔の柱で支持するか、単に壁に開口部を設けた形状のものである。開廊、涼み廊下とも。地上階にある場合は回廊とも呼ばれるが、上層階に配する場合もある。フィリッポ・ブルネレスキがフィレンツェのオスペダーレ・デッリ・イノチェティ(捨子保育院)のファサードにロッジアを配したものが有名である。 アーケード型の多層ロッジア。ポズナンの旧市役所(1550年 - 1555年) ロッジアをポルチコの代わりに使うこともある。この形態は、単に突出しないポルチコまたは壁面に開口部があって出入り口の役目を果たしているものと見ることができる。時には、主階(ピアノ・ノービレ)のロッジアの上にさらにロッジアを配することもあり、これを「ダブル・ロッジア (ddouble loggia)」と呼ぶ。ロッジアの上にペディメントを配することで、ファサードにおいてロッジアを強調することもある。 ロッジアとポルチコの主な違いは、建物の機能配置内での役割である。ポルチコは外から中に入ることが可能で、小さな建物でも玄関前に屋根を伸ばして柱で支えればポルチコとなる。ロッジアは基本的に内側からしかアクセスできず、一種の休憩所になっている。従って、主に上流階級の邸宅や公共建築によく見られる。 現代では小さく装飾的な夏の別荘で、涼しい風と眺めを楽しむ場所としてロッジアを配することがある。そのような建物はイタリア建築の典型であり、特に17世紀に人気を博した。ローマにはそのような建物が多い。 アイオワ州グリネルのグリネル大学 (en) では、3つの寮の建物をロッジアで繋いでいる。スタンフォード大学やカーネギーメロン大学にはロッジアで囲まれた中庭がある。 2006年、シドニー・オペラハウスにロッジアが追加された。 ロシアでは、アパートの突出していないバルコニーをロッジアと呼ぶ。.
トラヤヌス
マルクス・ウルピウス・ネルウァ・トラヤヌス・アウグストゥス(ラテン語:マールクス・ウルピウス・ネルウァ・トライヤーヌス・アウグストゥス、53年9月18日 - 117年8月8日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:98年 - 117年)で、ネルウァ=アントニヌス朝の第2代皇帝である。文武の両面で辣腕を揮い、帝国内の公共施設の強化と領土の拡大に成功した。特に対外面ではダキア・パルティアで功績をあげ、ローマ帝国史上最大の版図を現出した。 イタリア本土出身者でない、初の属州生まれの皇帝でもある。それまでは、首都ローマを含むイタリア本土出身者の最上流貴族しか皇帝に選ばれたことはなかった。 トラヤヌスは同時代から現在に至るまで優れた君主として尊敬を受けるローマ皇帝であり、後世の君主たちからも讃えられた。古代末期から中世にかけてのキリスト教史観でもこの名声は維持され、近代においてもギボンが「五賢帝」の一人として彼を賞賛している。.
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パナギア
パナギア(Παναγία)とは、ギリシャ語で「全き聖」を意味する、生神女マリヤ(聖母マリア)の称号の一つ。日本正教会では「至聖女」(しせいじょ)とも訳される。 また、この称号に由来する名称を持つものとして、生神女マリヤのイコンのうち特定の種別のもの、正教会の主教が用いるペンダント状の装身具、聖体礼儀に用いられる特定のパンの名称、ギリシャのハルキディキ県やキプロスなどにある地名があり、この名を以て生神女マリアを記憶する正教会の聖堂(パナギア聖堂・至聖女聖堂)も多数存在する。.
パロス島
パロス島(Πάρος / Paros; イタリア語:Paro)は、エーゲ海の中央に浮かぶギリシャの島。キクラデス諸島の1つで、ナクソス島の西、海峡を挟んで約8kmのところにある。本土のピレウス(アテネ)からは南東約100kmの位置にある。現在のパロス島はヨーロッパの旅行者にとって有名なホットスポットの1つである。パロスの自治体は沖合の多くの無人島を含み、その広さは196.308 km²にも及ぶ。最も近い自治体は南西にあるアンティパロス島である。パロス島は美しい白大理石のでも知られ、磁器やマーブルに世界中で使われるパリアン(Parian)という言葉を生んだ 。.
ビザンティン建築
ビザンティン建築(ビザンティンけんちく、Byzantine Architecture)は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国、ビザンティン帝国)の勢力下で興った建築様式である。4世紀頃には帝国の特恵宗教であるキリスト教の儀礼空間を形成し、そのいくつかは大幅な補修を受けているものの今日においても正教会の聖堂、あるいはイスラム教のモスクとして利用されている。日本では、ビザンツ建築と呼ばれる場合もある。 ローマ建築円熟期の優れた工学・技術を継承し、早い段階で技術的成熟に達するが、その後、東ローマ帝国の国力の衰退と隆盛による影響はあるものの、発展することも急速に衰退することもなく存続した。 キリスト教の布教活動とともに、ブルガリアやセルビアなどの東欧の東ローマ帝国の勢力圏のみならずロシアあるいはアルメニアやジョージアなど西アジアにも浸透していった。その影響力は緩やかなもので、地域の工法・技術と融合しながら独自の様式を発展させた。また、初期のイスラーム建築にも影響を与えている。 ハギア・ソフィア大聖堂周囲の4本のミナレットはオスマン帝国時代にモスクに転用された際に付け加えられたもの。.
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ピア
ピア、ピアー.
テッサロニキ
アギア・ソフィア聖堂。貴重なイコンや壁画が多く残されている。ギリシャ正教会。 テッサロニキ(Θεσσαλονίκη、ラテン文字転写:Thessaloniki )またはテサロニカ (Thessalonica)(or)は歴史的にはサロニカ(Salonica)の名で知られたギリシャの都市である。テサロニキとも表記する。同国では首都アテネに次ぐ2番目に大きな都市で、中央マケドニアの首府であり マケドニア・トラキア行政管区(Αποκεντρωμένη Διοίκηση Μακεδονίας-Θράκης)の首府でもある。テッサロニキには Συμπρωτεύουσα (Symprotévusa、共同の首都)と言う称号があり、東ローマ帝国時代にはコンスタンティノープルと並びビザンティンに君臨した都市であった。 2011年の国勢調査による統計でのテッサロニキ自治体の人口は322,240人でテッサロニキ自治体と隣接する自治体で構成される都市的地域のテッサロニキ都市圏の人口は790,824人 であった。バルカン半島ではイスタンブール、アテネ、ブカレスト、ソフィア、ベオグラードに次いで6番目に大きな都市圏を形成し、首都でない都市ではイスタンブールに次いで人口が多い都市である。テッサロニキ大都市圏は周辺地域 1455.62km2の範囲で広がり、2011年現在の人口は1,006,730人に達する。テッサロニキはギリシャ第2の都市として、経済や産業、商業、政治の中心であると共に南東ヨーロッパの交通の一大拠点で、テッサロニキ港はギリシャや南東ヨーロッパの後背地にとっては重要な役割を果たしている。 ギリシャにおいて有名な行事が行われたり、様々な時代の遺構が残されていることから文化的な首都であると考えられている。行事には毎年行われるテッサロニキ国際トレードフェアやテッサロニキ国際映画祭などがあり、半年ごとに行われるギリシャ・デゥアスポラの会議が開催される。 2014年の欧州青年首都に選ばれている。 テッサロニキは紀元前315年カッサンドロスによって創建され、以来2,300年の歴史がある都市で、ローマ時代には重要な大都市であった。テッサロニキはビザンティン時代には2番目に富める都市になっており、市内には多くの著名なビザンティン建築が残されている。その中には世界遺産に登録されたテッサロニキの初期キリスト教とビザンティン様式の建造物群も含まれ、同様にローマ時代やオスマン帝国時代のもの、セファルディムの遺構も残されている。 アテネが古代ギリシャを象徴する街なのに対して、中世東ローマ時代のギリシャを象徴する街と言われており、アトス山の修道院共同体もこのテッサロニキが入り口となる。テッサロニキ市のメインとなる大学のアリストテレス大学はギリシャやバルカンでは最大の学生数を誇っている。.
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ティルス
ティルス(Tyrus)(テュロス(Tyros))は、レバノンの南西部、地中海に面する都市遺跡。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された史跡でもある。ティルスの現在の名前はスール(صور)ないしはティール(アラビア語で岩という意味)といわれる。.
ディオクレティアヌス
イウス・アウレリウス・ウァレリウス・ディオクレティアヌス(Gaius Aurelius Valerius Diocletianus、244年12月22日 - 311年12月3日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:284年 - 305年)である。帝国の安定化に努め『3世紀の危機』と呼ばれる軍人皇帝時代を収拾した。その過程でドミナートゥス(専制君主制)を創始し、テトラルキア(四分割統治、四分治制)を導入した。また、帝国内に勢力を伸ばすキリスト教とマニ教に対して弾圧を加えた。.
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フライング・バットレス
フライング・バットレス(英語:flying buttress、フランス語:Arc-boutant)とは、ロマネスク時代には側廊屋根裏に隠されていたアーチを側廊屋根よりも高い位置に移して、空中にアーチを架けた飛梁をいう。もともとの「バットレス」とは、建築物の外壁の補強のため、屋外に張り出す形で設置される柱状の部分のことをさす。 このフライング・バットレスにより、身廊ヴォールトのスラスト(推力)を高い位置で受け止めることにより、身廊の天井をそれまでの建築よりさらに高くすることができるようになった。また、推力を支持するための側廊により身廊上部が塞がれることがなくなったため、この部分に大きな窓をとることができるようになり、ステンドグラスなどの装飾を用いた壮大な礼拝空間が実現可能となった。 なお、強弱交互組織の柱、六分のリブ・ヴォールト、4層構成を基本としたゴシック建築を初期ゴシック建築と呼ぶ。.
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フォルム
トラヤヌスのフォルムの遺跡 フォルム(Forum, 複数形は Fora)は、古代ローマ都市の公共広場のことである。帝政時代のフォルムは四周をバシリカ、元老院、神殿などの公共施設や列柱廊で取り囲まれた計画的なオープンスペースとなり、屋根のない公共建築の観を呈するのが普通であった。 フォルムは、幹線道路上に集落が形成されるとき、その中心に商店などが集まる広場として造られた場所を起源としている。町が発展し都市となると、フォルムは商業活動の中心だけでなく、政治・司法の集会、宗教儀式、その他の社会活動が行われるオープン・スペースであり、また市民生活の上で最も重要な都市施設となっていった。 古代ローマの都市は、フォルムを中心として東西・南北の大通りであるデクマヌス・マクシムスおよびカルド・マクシムスが造られ、その軸線を基準とした碁盤の目状の都市計画がなされた。フォルムの広さは市民の人口に応じ、形は3対2の比率の長方形とされた。フォルムの北端にはユーピテル神殿などの神殿やバシリカが建てられるとともに、フォルムに面した神殿の階段は選挙演説を行う場所としても使われた。こうした典型的なフォルムは、帝政時代の計画都市であった北アフリカのローマ都市に多く、東方属州の都市は、むしろ古代ギリシアのアゴラに近い自然発生的な広場が多かった。 古代ローマの首都である都市ローマには、最も初期に形成されたフォルム・ボアリウム、共和政期に国家の中心として整備されたフォルム・ロマヌム、フォル・ロマヌムが手狭になったため、帝政期に新たに整備されたフォラ・インペラトラムがなどがある。 フォルムの機能は、古代ギリシア都市の『アゴラ』のそれとほぼ同じであった。アゴラとの違いは、規模がフォルムの方が際だって大きいこと、空間が都市化の進展にともなって矩形に整備されたこと、周囲に列柱廊をめぐらせるようになったことなどである。 現代において似た機能を果たす都市施設としては、イタリア語ではピアッツァ、スペイン語圏のプラザ、ドイツ文化圏のマルクト広場などがある。.
フォロ・ロマーノ
フォロ・ロマーノ(伊:Foro Romano)は、ローマにある古代ローマ時代の遺跡。観光地として有名である。フォロ・ロマーノは、ラテン語の古名フォルム・ロマヌム(Forum Romanum)のイタリア語読みである。 紀元前6世紀頃からローマ帝国がテトラルキアを採用する293年にかけて、国家の政治・経済の中心地であったが、ローマ帝国が東西に分裂し、首都機能がラヴェンナに移されると異民族の略奪に曝されるようになり、西ローマ帝国滅亡後は打ち捨てられ、土砂の下に埋もれてしまった。 フォロ・ロマーノの発掘は、19世紀から本格的に行われるようになったが、帝政時代初期までに開発が繰り返されており、遺構も様々な時代のものが混在しているので、発掘調査は難しい。現在の遺跡は、大部分が帝政時代以降のものである。.
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ニカイア
ニカイア(Νίκαια)は、古典ギリシア語で「ニケ(勝利)の街」を意味する都市名である。中世ギリシア語・現代ギリシア語・ラテン語ではニケアで、ニカエア、ニケーアと書かれることもある。ヘレニズム世界の各地に同名の町が複数あり、フランスのニースの古名もニカイア(ニカエア)である。 史上もっとも有名なニカイアは、小アジアのビテュニアのヘレニズム都市である。ビテュニアのニカイアは、現在のトルコの都市、イズニクにあたり、初期キリスト教の教義確立に大きな影響を与えた、二つの公会議(325年および785年)の開催地、東ローマ帝国の亡命政権ニカイア帝国の首都として知られる。.
アヤソフィア
アヤソフィア(トルコ語:Ayasofya、古典ギリシア語:Ἁγία Σοφία (Hagia Sophiā)、現代ギリシア語:Αγία Σοφία (Aagia Sophia))は、トルコのイスタンブールにある博物館日高ら(1990)、p.31-66、2.ドームを仰ぎ見るとき、◎ハギア・ソフィア大聖堂<オスマン・トルコ時代のアヤソフィア>。東ローマ帝国(ビザンツ帝国・ビザンティン帝国)時代に正統派キリスト教の大聖堂としての建設を起源とし、帝国第一の格式を誇る教会、コンスタンティノープル総主教座の所在地であったMüller-Wiener (1977), p. 112.が、1204年から1261年まではラテン帝国支配下においてローマ・カトリックの教徒大聖堂とされていた。その後は1453年5月29日から1931年までの長期間にわたりモスクとして改築を繰り返し使用されて現在の特徴的な姿となり"." ArchNet.、後に世俗化された。1935年2月1日から博物館(Ayasofya Müzesi)として使われている。 東ローマ帝国の代表的な遺構であり、しばしばビザンティン建築の最高傑作と評価される。その歴史と威容から、オスマン帝国の時代においても第一級の格式を誇るモスクとして利用された。日本語では慣用的に「ハギア・ソフィア」と呼称されるが、厳密にはトルコ語読みは「アヤソフャ」、古典ギリシア語読みは「ハギア・ソピアー」、現代ギリシア語読みでは「アギア・ソフィア」に近い。正教会では「アギア・ソフィア大聖堂」と呼ばれ、「ハギア・ソフィア大聖堂」と表記されることも多い。.
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アンカラ
アンカラ(Ankara )は、トルコ共和国の首都。人口約442万人(2013年)を抱え、イスタンブールに次ぐ同国第2の都市でありアンカラ県の県都でもある。アナトリア半島中央部に位置する。中東・西アジア有数の世界都市で、トルコの政治の中心地。.
アブ・メナ
アブ・メナ(أبو مينا)は、アレクサンドリアの南西45kmに位置する、古代エジプトにおけるキリスト教巡礼の中心的存在だった都市の遺跡。1979年にユネスコの世界遺産に登録された。その遺構はほとんど残っていないが、バシリカのような大建築物の土台は、今でもはっきりと識別できる。.
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アプス
3つのアプスを持つ、救世主修道院大聖堂(16世紀初頭建造、ヤロスラヴリ) フレスコ画の描かれたアプス内観 アプス、またはラテン語で 、または後陣は、壁面に穿たれた半円形、または多角形に窪んだ部分である。 ローマ建築に起源を持ち、宗教建築・世俗建築の双方において見られる。.
アテネ
アテネ(現代ギリシア語: Αθήνα; Athína;; カサレヴサ: Ἀθῆναι, Athinai; 古代ギリシア語: Ἀθῆναι, Athēnai)は、ギリシャ共和国の首都で同国最大の都市である。 アテネはアッティカ地方にあり、世界でももっとも古い都市の一つで約3,400年の歴史がある。古代のアテネであるアテナイは強力な都市国家であったことで知られる。芸術や学問、哲学の中心で、プラトンが創建したアカデメイアやアリストテレスのリュケイオンがあり、西洋文明の揺籃や民主主義の発祥地として広く言及されており、その大部分は紀元前4-5世紀の文化的、政治的な功績により後の世紀にヨーロッパに大きな影響を与えたことは知られている。今日の現代的なアテネは世界都市としてギリシャの経済、金融、産業、政治、文化生活の中心である。2008年にアテネは世界で32番目に富める都市に位置し、UBSの調査では25番目に物価が高い都市に位置している。 アテネ市の人口は655,780人Hellenic Statistical Authority, Hellenic Statistical Authority (EL.STAT.), 22 July 2011.
アウグストゥス
アウグストゥス(Imperator Caesar Divi Filius Augustus インペラートル・カエサル・ディーウィー・フィーリウス・アウグストゥス、Gaius Julius Caesar Octavianus Augustus ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス・アウグストゥス、紀元前63年9月23日 - 紀元14年8月19日)は、ローマ帝国の初代皇帝(在位:紀元前27年 - 紀元14年)。志半ばにして倒れた養父カエサルの後を継いで内乱を勝ち抜き、地中海世界を統一して帝政(元首政)を創始、パクス・ロマーナ(ローマの平和)を実現した。ちなみにアウグストゥスは、ラテン語で「尊厳ある者」を意味しており、現在のギリシア語では「8月」の意になっている。.
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アギア・ソフィア聖堂 (テッサロニキ)
アギア・ソフィア聖堂 アギア・ソフィア聖堂(希:ἡ Ἐκκλησία του Ἁγία Σοφία)は、ギリシャ共和国のテッサロニキにある正教会(ギリシャ正教会)の聖堂。東ローマ帝国の暗黒時代に建設された数少ない教会堂のひとつで、ギリシャでは、この時代に建設されたもので唯一残る建築物である。.
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アストゥリアス
アストゥリアス(Asturias)は、イベリア半島北部の地方名であり、人名や文化でも用いられる。.
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イズニク
イズニク(、、)は、トルコ、ブルサ県イズニク郡に属する都市。アナトリア半島北西部のイズニク湖西岸に位置する。 1997年の統計で人口約18,600人の地方都市だが、古代の大都市ニカイアの後身であり、旧市街地区を取り囲む城壁をはじめ、古代ローマ時代以来の遺跡が数多く残る。.
イタリア半島
イタリア半島(イタリアはんとう、Penisola italiana、Paeninsula Italica)は、ヨーロッパ大陸のアルプス山脈の南側から地中海に南東に延びた形の半島。別名アペニン半島。東側をアドリア海、南側をイオニア海、西側をティレニア海に分断している。アペニン山脈が貫いていて、半島のつけ根には北のアルプス山脈と南のアペニン山脈に囲まれるようにパダーナ平原がある。 以下の国が存在する。.
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エウセビオス
レアのエウセビオス カエサレアのエウセビオス(Ευσέβιος, Eusebios, 263年ごろ - 339年5月30日)は、ギリシア教父の一人であり、歴史家にして聖書注釈家。314年前後からカエサレア・マリティマの司教(主教)を務めた。その師パンフィロスとともに正典の確定に関わり、『福音の論証』『福音の備え』『福音間の矛盾について』といった、聖書テキストの研究を残す。またとりわけ歴史著述において、彼をして後世「教会史の父」と呼ばわしめた代表作『教会史』が知られるほか、『パンフィロスの生涯』『年代記』『パレスティナ殉教者列伝』といった業績がある。自ら「パンフィロスの(息子)エウセビオス」を名乗ったといわれる。日本正教会ではエウセウィと転写される。.
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エジプト
プト・アラブ共和国(エジプト・アラブきょうわこく、جمهورية مصر العربية)、通称エジプトは、中東・アフリカの共和国。首都はカイロ。 西にリビア、南にスーダン、北東にイスラエルと隣接し、北は地中海、東は紅海に面している。南北に流れるナイル川の河谷とデルタ地帯(ナイル・デルタ)のほかは、国土の大部分が砂漠である。ナイル河口の東に地中海と紅海を結ぶスエズ運河がある。.
カンパニア州
ンパニア州(Campania)は、イタリア共和国南部のティレニア海沿岸にある州。州都はイタリア第三位の人口を擁する都市であるナポリ。.
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ガイウス・ユリウス・カエサル
イウス・ユリウス・カエサル(古典ラテン語:Gaius Iulius Caesar、紀元前100年 - 紀元前44年3月15日)は、共和政ローマ期の政治家、軍人であり、文筆家。「賽は投げられた」(alea iacta est)、「来た、見た、勝った」(veni, vidi, vici) 、「ブルータス、お前もか (et tu, Brute?)」などの特徴的な引用句でも知られる。また暦で彼の名称が使用されていた(ユリウス暦)時期が存在していた。 古代ローマで最大の野心家と言われ、マルクス・リキニウス・クラッスス及びグナエウス・ポンペイウスとの第一回三頭政治と内戦を経て、ルキウス・コルネリウス・スッラに次ぐ終身独裁官(ディクタトル)となった。.
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キリスト教
リスト教で最も頻繁に用いられるラテン十字 アギア・ソフィア大聖堂にある『全能者ハリストス』と呼ばれるタイプのモザイクイコン。 キリスト教(キリストきょう、基督教、Χριστιανισμός、Religio Christiana、Christianity)は、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教「キリスト教」『宗教学辞典』東京大学出版会、1973年、146頁。「キリスト教」『大辞泉』増補・新装版、小学館、1998年11月20日、第一版、714頁。 小学館、コトバンク。。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。その多く(正教会正教会からの出典:・東方諸教会東方諸教会からの出典:・カトリック教会カトリック教会からの出典:・聖公会聖公会からの出典:・プロテスタントルーテル教会からの出典:改革派教会からの出典:バプテストからの出典:メソジストからの参照:フスト・ゴンサレス 著、鈴木浩 訳『キリスト教神学基本用語集』p103 - p105, 教文館 (2010/11)、ISBN 9784764240353など)は「父なる神」「御父」(おんちち、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)。と「その子キリスト」「御子」(みこ、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)・「子なる神」。と「聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。 世界における信者数は20億人を超えており、すべての宗教の中で最も多い。.
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ギリシャ十字
リシャ十字 ギリシャ十字(ギリシャじゅうじ)は、キリスト教で最も頻繁に用いられる十字の一つ。正教会で最も頻繁に用いられる十字の一つであるが、西方教会(カトリック教会・聖公会・プロテスタント)でもラテン十字と並んで広く用いられる。キリスト教においてのみならず、各種の紋章・標章等にも広く用いられている。 横木と軸木が同じ長さで構成され、横木と軸木は中央で交差している。 ビザンティン建築をはじめとして、聖堂建築などにおいて平面がギリシャ十字型に構成されるものも多く、建築関連の記事に「ギリシャ十字型の平面」という説明が頻繁に用いられる。また、赤十字や緑十字は、ギリシャ十字を使用したスイス国旗を基にしてデザインされている。.
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ギリシア語
リシア語(ギリシアご、現代ギリシア語: Ελληνικά, または Ελληνική γλώσσα )はインド・ヨーロッパ語族ヘレニック語派(ギリシア語派)に属する言語。単独でヘレニック語派(ギリシア語派)を形成する。ギリシア共和国やキプロス共和国、イスタンブールのギリシア人居住区などで使用されており、話者は約1200万人。また、ラテン語とともに学名や専門用語にも使用されている。省略形は希語。.
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コリントス
リントス(Κόρινθος) は、ギリシア共和国ペロポネソス地方にある都市であり、その周辺地域を含む基礎自治体(ディモス)。コリントス地峡に位置する港湾都市で、コリンティア県の県都である。コリントなどの表記も用いられる。 古代ギリシアにおいてコリントスは、アテナイやスパルタと並ぶ主要な都市国家(ポリス)のひとつであり、アクロポリス(アクロコリントス)には遺跡が残る。古代ローマ時代には属州アカエアの州都として繁栄し、キリスト教文化においてはパウロ書簡の宛先としても知られている。コリントスは戦乱や災害によって幾度もの破壊と再建を経ており、現在のコリントスの市街地は19世紀半ばに新たに建設されたものである。.
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コロネード
ン聖堂の列柱(サンクトペテルブルク) 古代の列柱(エフェソス) サン・ピエトロ広場の列柱(バチカン) コロネード(colonnade)または列柱は、古代の建築においてエンタブラチュアで連結された柱の並びを指す。例えば、ローマのサン・ピエトロ大聖堂のファサードにベルニーニが追加した楕円形にカーブしたコロネードが有名である。そのコロネードが広場を形成している。ちょうど、手すり子(バラスター)が並んで欄干を形成するのに似ている。 一列の柱でできたコロネードは screen とも呼ばれる。建物の正面にあって入り口(ラテン語で porta)を覆うようになっているコロネードをポルチコと呼び、屋根のない中庭を取り囲んでいる場合はペリスタイルと呼ぶ。ポルチコは、ローマのパンテオンや古代ギリシアの柱廊のように柱が複数列に並ぶこともある。一対の柱や複数対の柱が典型的なコロネードだが、「周柱式」の建築物(例えばリンカーン記念館)を取り囲む柱もコロネードと呼ぶ。古代寺院の正面の柱の数は最大でも8本(ポルチコ#8柱式)なので、8本以上並んでいないとコロネードとは呼べないという見方もある。実際、釣り合いから見ても柱の高さの倍以上の幅がないとコロネードとは呼べないと言われている。 大英博物館のポルチコは建物正面に沿ってずっと続いており、コロネードとなっている。アメリカにはコロネードを伴った競技場がいくつかある。例えば、ボストンのハーバード・スタジアムは、その馬蹄形の建物にそってコロネードが続いている。シカゴのソルジャー・フィールドには両側に2列のコロネードがあった(2004年の改修でスタジアム内からは見えなくなった)。イリノイ大学の Memorial Stadium も両側のファサードにコロネードがある。バージニア大学の以前のアメフト用スタジアム Lambeth Field には観覧席を取り囲むようにコロネードがあった。Emporisによれば、アメリカで最大のコロネードはオールバニの New York State Education Building で、36本のコリント式の柱が並んでいる。.
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コンスタンティノープル
ンスタンティノープル(Constantinople、: Constantinopolis、: Κωνσταντινούπολις)は、東ローマ帝国の首都であった都市で、現在のトルコの都市イスタンブールの前身である。 強固な城壁の守りで知られ、330年の建設以来、1453年の陥落まで難攻不落を誇り、東西交易路の要衝として繁栄した。正教会の中心地ともなり、現在もコンスタンディヌーポリ総主教庁が置かれている。.
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ゴシック建築
ック建築(英語:Gothic Architecture)は、12世紀後半から花開いたフランスを発祥とする建築様式。最も初期の建築は、パリ近くのサン=ドニ(聖ドニ)大修道院教会堂(Basilique de Saint-Denis)の一部に現存する。イギリス、北部および中部イタリア、ドイツのライン川流域、ポーランドのバルト海沿岸およびヴィスワ川などの大河川流域にわたる広範囲に伝播した。 「ゴシック」という呼称は、もともと蔑称である。15世紀から16世紀にかけて、アントニオ・フィラレーテやジョルジョ・ヴァザーリらが、ルネサンス前の中世の芸術を粗野で野蛮なものとみなすために「ドイツ風の」あるいは「ゴート風の」と呼んだことに由来する(ゴート族の建築様式というわけではない)。 ルネサンス以降、ゴシック建築は顧みられなくなっていたが(この時期をゴシック・サヴァイヴァルと呼ぶ)、その伝統は生き続け、18世紀になると、主として構造力学的観点から、合理的な構造であるとする再評価が始まった。18世紀から19世紀のゴシック・リヴァイヴァルの際には、ゲーテ、フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン、フリードリヒ・シュレーゲルらによって、内部空間はヨーロッパの黒い森のイメージに例えられて賞賛され、当時のドイツ、フランス、イギリスでそれぞれが自らの民族的様式とする主張が挙がるなどした。.
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シリア
リア・アラブ共和国(シリア・アラブきょうわこく、)、通称シリアは、中東・西アジアの共和制国家。北にトルコ、東にイラク、南にヨルダン、西にレバノン、南西にイスラエルと国境を接し、北西は東地中海に面する。首都はダマスカス。「シリア」という言葉は、国境を持つ国家ではなく、周辺のレバノンやパレスチナを含めた地域(歴史的シリア、大シリア、ローマ帝国のシリア属州)を指すこともある。.
セプティミウス・セウェルス
ルキウス・セプティミウス・セウェルス(Lucius Septimius Severus、146年4月11日 - 211年2月4日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:193年4月9日 - 211年2月4日)である。セウェルス朝の創始者であり、アフリカ属州生まれ(属州民ではない)の皇帝となった。.
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サン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂
ン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(Basilica di San Lorenzo fuori le Mura)は、イタリアのローマにあるカトリック教会の大聖堂。ローマの五大バジリカの一つ。 名称は「城壁外の聖ラウレンティウス大聖堂」を意味する。3世紀に殉教した聖ラウレンティウス(ロレンツォ)の墓の上に建設され、彼を記念する教会である。.
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サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂
thumb サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(Basilica di San Paolo fuori le mura)はローマにあるカトリック教会の大聖堂。 ローマの五大バジリカ(他の四つはサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、サン・ピエトロ大聖堂、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂、サン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂)の一つ。名称は「城壁外の聖パウロ大聖堂」の意味である。 コンスタンティヌス1世により聖パウロの墓を祀る聖堂としてつくられたもの。386年、テオドシウス1世によって大規模に建設される。最も古い記録は、コンスタンティヌス1世時の4世紀初頭の小さなメモリアであり、「殉教者たる使徒パウロ」という銘文が大理石版に記されている。1823年に火災で大部分を焼失するが、その後再建される。.
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サン・ピエトロ大聖堂
ン・ピエトロ大聖堂(サンピエトロだいせいどう、イタリア語:)は、バチカン市国南東端にあるカトリック教会の総本山。サン・ピエトロは「聖ペトロ」の意で、キリスト教の使徒ペトロ(ペテロ)のイタリア語読みに由来する。サン・ピエトロ大寺院、聖ペテロ大聖堂などと表記されることもある。 カトリック教会の伝承によれば、サン・ピエトロ大聖堂はもともと使徒ペトロの墓所を祀る聖堂とされ、キリスト教の教会建築としては世界最大級の大きさを誇る。床面積2万3,000m2。北に隣接してローマ教皇の住むバチカン宮殿、バチカン美術館などがあり、国全体が『バチカン市国』としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。.
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サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂
ン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂 サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂(サン・ジョバンニ・イン・ラテラノだいせいどう、San Giovanni in Laterano)は、イタリアのローマにあるカトリック教会の大聖堂。ラテラン教会、ラテラン大聖堂とも呼ばれる。「ラテラノ」は「ラテラーノ」とも表記する。ラテラノ宮殿が隣接している。 ローマの四大バシリカ(古代ローマ様式の大聖堂)の一つに数えられる。四大バシリカとはこのラテラノ大聖堂とサン・ピエトロ大聖堂、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(城壁外の聖パウロ大聖堂)である。さらにサン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(城壁外の聖ラウレンティウス大聖堂)を加えて五大バジリカと呼ぶこともある。 ラテラノ大聖堂はバチカンの領域外にあるが、ラテラノ条約によってバチカンの特別な権利が認められている。.
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サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂
ンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂(Basilica di Sant'Apollinare Nuovo)は、イタリアのラヴェンナにあるキリスト教の教会堂であり、カトリック教会のバシリカ。東ゴート王国の王テオドリックによって、宮廷に隣接して建設された、アリオス派の数少ない遺構のひとつである。美しいモザイク画が残ることで非常に有名。 サンタポリナーレ・ヌオヴォ内部 ラヴェンナの初期キリスト教建築活動の第二期に建設された教会堂のとつで、年代的にはアリウス派洗礼堂と時期を同じくする。サン・ヴィターレ聖堂などとともにラヴェンナの初期キリスト教建築群として世界遺産に登録されている。.
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サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂
ンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂(Basilica di Sant'Apollinare in Classe)は、イタリアのラヴェンナ近郊にあるビザンティン建築の教会堂。ビザンティン総督府として隆盛を誇った最盛期のラヴェンナを物語る遺構で、アプスにあるモザイク画が有名。東ゴート王国の女王アマラスンタの命により、6世紀中期に建設された、現存する非常にすばらしい初期キリスト教建築のバシリカのひとつである。 聖堂のあるクラッシス(現クラッセ)は、かつてラヴェンナ北部約5kmに設けられた港町であったが、現在は堆積物によって海岸が後退し、内陸部の小さな寒村となっている。.
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サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂
ンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂 サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂(“Basilica di Santa Maria Maggiore”)はイタリア、ローマにあるカトリック教会の聖堂。「偉大なる聖母マリアにささげられた聖堂」の意で、教皇が建築させたローマの四大バシリカ(古代ローマ様式の聖堂)の一つに数えられる。四大バシリカとはこのサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂とサン・ピエトロ大聖堂、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂、サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(城壁外の聖パウロ大聖堂)である。さらにサン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(城壁外の聖ラウレンティウス大聖堂)を加えて五大バジリカと呼ぶこともある。.
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前川道郎
前川 道郎(まえかわ みちお 1931年‐2000年11月10日)は、西洋建築史、建築論を専門とする日本の建築学者、建築史家。京都大学名誉教授、九州大学名誉教授、工学博士。 フランスのゴシック建築を中心とする西洋中世建築の空間論的研究に取り組むとともに、ゴシック建築及び空間論に関する海外の主要な著作を日本に紹介し、ゴシック建築研究の第一人者と目された。また、晩年には、プロテスタントにおける教会建築の研究にも関心を向けた。.
紀元前170年
紀元前170年は、ローマ暦の年である。.
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紀元前184年
紀元前184年は、ローマ暦の年である。.
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紀元前1世紀
ーマ帝国の成立。紀元前27年にオクタウィアヌスが「アウグストゥス」の称号を得てローマの帝政時代が始まった。画像はヴァティカン美術館所蔵の「プリマポルタのアウグストゥス」。 エジプト女王クレオパトラ7世。絶世の美女として知られるが、衰勢のプトレマイオス朝存続のためにローマの有力者と結ばざるを得ない事情があった。画像は19世紀フランスの画家ジャン・レオン・ジェロームの歴史画で、女王とユリウス・カエサルの出会いの状況を描いている。 カッシウスやブルートゥスに暗殺された。画像は暗殺直後を描いたジャン・レオン・ジェロームの歴史画。 アグリッパによって建設された。 ケルト人の消長。カエサルの遠征でアルプス以北のガリアは共和政ローマに帰服した。これらの地に住んでいたケルト人(ガリア人)たちはラ・テーヌ文化の担い手とも考えられている。画像はラ・テーヌ文化を代表するグンデストルップの大釜。 アンティオコス1世により独特な墳墓が営まれた。 王昭君。前漢と匈奴の和平のために呼韓邪単于へと嫁ぐことになった悲劇の女性として語り継がれた。画像は明治時代の菱田春草の「王昭君図」。 銅鐸の祭祀。荒神谷遺跡と並ぶ古代出雲を代表する加茂岩倉遺跡からは39個の銅鐸が出土した。これら銅鐸の製作年代は弥生時代中期から後期にわたる。画像は島根県立古代出雲歴史博物館での展示の様子。 紀元前1世紀(きげんぜんいっせいき、きげんぜんいちせいき)は、西暦による紀元前100年から紀元前1年までの100年間を指す世紀。紀元前を区分する最後の世紀でもある。紀元1世紀の直前の世紀である。「紀元0世紀」というものは存在しない。 なお、天文学やISO 8601では、紀元前1年を西暦0年と定めている(詳細は「紀元前1年#西暦0年」または「0年#西暦0年」を参照のこと)。.
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紀元前25年
紀元前25年。.
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紀元前2世紀
紀元前2世紀(きげんぜんにせいき)は、西暦による紀元前200年から紀元前101年までの100年間を指す世紀。.
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生神女福音大聖堂 (アテネ)
アテネの生神女福音大聖堂・修復中のファサード アテネの生神女福音大聖堂(しょうしんじょふくいんだいせいどう、Καθεδρικός Ναος Ευαγγελισμού της Θεοτόκου)は、アテネおよび全ギリシアの大主教の主教座聖堂である。ミトロポリス大聖堂との名でも知られる。 大聖堂の建設工事は、ギリシャ王オソン1世、ギリシャ王妃アマリア (ギリシャ王妃)によって礎石が、1842年の降誕祭に据えられて始まった。 工事には、大聖堂の巨大な壁を建設するために72の破壊された聖堂から集められた大理石が用いられた。完成には3人が建築設計にたずさわり、20年の年月を要した。1862年5月21日に完成した大聖堂は、王と王妃によって生神女福音(Ευαγγελισμός της Θεοτόκου)に捧げられた。大聖堂は3つの通路にドームを備えたバシリカ様式であり、長さ40メートル、幅20メートル、高さ24メートル。内部にはオスマン帝国支配時代にオスマン帝国によって殺害された二人の聖人、聖フィロセイ(Άγια Φιλοθέη)と、コンスタンディヌーポリ総主教聖グリゴリオスの墓がある。.
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聖務日課
聖務日課(せいむにっか ラテン語:Liturgia horarum)あるいは教会の祈り(きょうかいのいのり)はカトリック教会で用いられる祈祷書。第2バチカン公会議までは全世界でラテン語で唱えられており、聖職者や修道者などに用いられるものという位置づけであったが、典礼改革によってすべての信徒のための祈りとしての位置づけに改められ、各国語に翻訳されて用いられている。.
裁判所
裁判所(さいばんしょ、英:Law court)は、裁判官によって構成され司法権を行使する国家機関、及びその庁舎を指す。日本語の「裁判所」は、1890年に公布された裁判所構成法(明治23年法律第6号)から一般的な呼称になった。.
飯田喜四郎
飯田 喜四郎(いいだ きしろう、1924年11月22日 - )は、日本の建築史家。名古屋大学名誉教授。工学博士。専攻はフランス建築史(中世ゴシック建築)、建築保存修復学。博物館明治村館長、財団法人明治村副理事長。NPO法人歴史建築保存再生研究所理事。 日本における西洋建築史学の研究者としての著作、翻訳が多数あるほか、新宿御苑御休所、原爆ドーム等多くの保存修復事業の委員長を歴任した。.
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西ローマ帝国
西ローマ帝国(にしローマていこく)とはローマ帝国の西半分の地域を指す呼称である。一般に、テオドシウス1世死後の西方正帝が支配した領域と時代に限定して用いられるが、286年のディオクレティアヌス帝による東方正帝と西方正帝による分担統治開始(テトラルキアの第一段階)以降のローマ帝国の西半分や、3世紀のガリア帝国時代が含まれることもある。 なお「西ローマ帝国」と「東ローマ帝国」は共に後世の人間による呼称であり、当時の国法的にはローマ帝国が東西に「分裂」したという事実は存在せず、西ローマ帝国・東ローマ帝国というふたつの国家も存在しなかった。複数の皇帝による帝国の分担統治はディオクレティアヌスのテトラルキア以後の常態であり、それらは単に広大なローマ帝国を有効に統治するための便宜(複都制)にすぎなかった。ローマ帝国の東部と西部は現実には別個の発展をたどることになったものの、それらは、ひとつのローマ帝国の西方領土(西の部分)と東方領土(東の部分)だったのである。両地域の政府や住民が自らの国を単にローマ帝国と呼んだのも、こうした認識によるものである。 395年にテオドシウス1世が死去すると、その遺領は父テオドシウスの下で既に正帝を名乗っていた2人の息子アルカディウスとホノリウスに分割されたが、一般に、この時点をもって西ローマ帝国時代の始まりとされる。西ローマ帝国時代の終わりとしては、オドアケルによる476年9月4日のロムルス・アウグストゥルス廃位までとするのが一般的であるが、480年のユリウス・ネポス殺害までとすることもある。通常、この西方正帝の消滅をもって古代の終わり・中世の始まりとする。 ギリシア化を免れた西ローマ帝国では、中世においても古代ローマ式の文化と伝統とが保存された。西ローマ帝国内に定住した蛮族たちも、次第にカトリック教会に感化され、カトリック信仰やローマの文化、ローマ法を採用し、徐々に自らがローマの遺産の「真の相続者」であるという自意識を持つようになっていった。.
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鹿島出版会
株式会社鹿島出版会(かじましゅっぱんかい)は、建築学・建築史関連を中心とした日本の出版社。創立者は鹿島建設社長・会長を務めた鹿島守之助。系列会社に八重洲ブックセンターがある。.
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身廊
身廊(しんろう)は、ロマネスク様式やゴシック様式のキリスト教建築の一部分の名称で、入口から主祭壇に向かう中央通路のうちの翼廊に至るまでの部分を指す。.
至聖所
至聖所(しせいじょ)は、宗教的建築物の最も神聖な場所の呼称として幅広く用いられている。エジプトの神々を奉った神殿や、聖書の幕屋および神殿などにおいて、一番奥の部屋のことを指す。.
東ローマ帝国
東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブール)であった。 西暦476年に西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた際、形式上は最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスが当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていた。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。.
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東方教会
東方教会(とうほうきょうかい、Eastern Christianity)は、中東・ギリシャ・アナトリア・東ヨーロッパに広がり成長したキリスト教諸教派(正教会、東方諸教会)の総称。正教会のみを指す場合もある。西方教会の対語。 広義の東方教会には以下の諸教会が含まれる"The Blackwell Dictionary of Eastern Christianity" Wiley-Blackwell; New edition (2001/12/5), p168 - p169, ISBN 9780631232032。;正教会;非カルケドン派;アッシリア東方教会;東方典礼カトリック教会;上記諸教会から異端とされるグループ.
正教会
Σημειώσεις από τις παραδόσεις τού καθηγητού Ι. Δ. Ζηζιούλαより)。 正教会(せいきょうかい、Ορθόδοξη Εκκλησία、Православие、Orthodox Church)は、ギリシャ正教もしくは東方正教会(とうほうせいきょうかい、Eastern Orthodox Church)とも呼ばれる、キリスト教の教会(教派)の一つ。 日本語の「正教」、英語名の"Orthodox"(オーソドックス)は、「正しい讃美」「正しい教え」を意味するギリシャ語のオルソドクシア "ορθοδοξία" に由来する。正教会は使徒継承を自認し、自身の歴史を1世紀の初代教会にさかのぼるとしている『正教会の手引き』8頁 - 11頁。 なお「東方教会」(とうほうきょうかい)が正教会を指している場合もある。 例外はあるものの、正教会の組織は国名もしくは地域名を冠した組織を各地に形成するのが基本である。コンスタンディヌーポリ総主教庁、アレクサンドリア総主教庁、アンティオキア総主教庁、エルサレム総主教庁、ロシア正教会、セルビア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、グルジア正教会、ギリシャ正教会、日本正教会などは個別の組織名であって教会全体の名ではない。いずれの地域別の教会組織も、正教として同じ信仰を有している。教会全体の名はあくまで正教会であり、「ロシア正教に改宗」「ルーマニア正教に改宗」といった表現は誤りである。 なお、アルメニア使徒教会、シリア正教会、コプト正教会、エチオピア正教会なども同じく「正教会」を名乗りその正統性を自覚しているが、上に述べたギリシャ正教とも呼ばれる正教会とは別の系統に属する。英語ではこれらの教会は"Oriental Orthodox Church"とも呼ばれる。詳細は非カルケドン派正教会を参照。.
教会堂
聖ソフィア大聖堂(ビザンティン建築・ロシア建築)。ロシア正教会のものとして建設されたが現在は博物館。 教会堂(きょうかいどう)は、キリスト教などの教会の建築物である。単に教会とも言うが、その場合には、教会堂と、そこに関わる共通の信仰を持つ人々の総体を表す。 キリスト教の場合、日本では正教会やカトリック教会、聖公会では教会堂ではなく聖堂(せいどう)と呼ぶことが多く、聖堂を荘厳にして、イコンやステンドグラス、壁画を用いて感覚的に信仰をわかりやすく説いたものが多い。プロテスタントの教会では、説教や集会のためという実用本位な教会が多く、装飾は控えられ、なかには十字架も置かない場合もある。 以下、特徴ある各時代の教会堂の様式を述べる。.
教皇
教皇(きょうこう、Pāpa、Πάπας Pápas、The Pope)は、キリスト教の最高位聖職者の称号。一般的にはカトリック教会のローマ司教にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇を指す。ヴァティカン市国の首長。教皇の地位は「教皇位」、あるいは「教皇座」と呼ばれる。また、教皇の権威のことを「聖座」、「使徒座」ということもある。現在の教皇はフランシスコ(第266代)。 日本語では「ローマ法王」と表記されることも多いが、日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会は「ローマ教皇」の表記を推奨している(後述)。またカトリックの内部では「教父」の呼称を用いる場合もある。なお、退位した教皇の称号は名誉教皇(名誉法王とも)という。 本項では主にローマ教皇について記述する。その他の教皇については称号の変遷とその他の「教皇」の節を参照。.
10世紀
江南の爛熟。画像は顧閎中が描いた「韓煕載夜宴図(北京故宮博物館蔵)」。五代十国南唐の後主李煜時代の宮廷の優雅な様子がしのばれる。 コルドバ。画像はコルドバにあるメスキータの円柱の森。10世紀末までに歴代の後ウマイヤ朝カリフによって改築が続けられ今ある姿となった。 10世紀(じっせいき)とは、西暦901年から西暦1000年までの100年間を指す世紀。1千年紀における最後の世紀である。.
11世紀
トスカーナ女伯マティルデ(右)とクリュニー修道院長(左)。 ウィリアム1世になる。 マーストリヒト大聖堂宝物室の写本外装。聖遺物崇敬の高まりとともにモザン美術と呼ばれるマース川流域の低地地方で生み出された金銀やエナメルの細工も巧緻なものとなった。この11世紀に造られた写本外装は現在はルーヴル美術館にある。 藤原道長。御堂関白とも通称された道長の時代に摂関政治は頂点に達した。画像は『紫式部日記』藤田家本第5段から1008年の一条天皇の土御門邸行幸に備え、新造の竜頭鷁首の船を検分する道長。 紫式部と『源氏物語』。かな文字の発達は日本独特の女流文学の発展を促した。画像は12世紀初頭に描かれた『源氏物語絵巻』「竹河」(徳川美術館蔵)。 宇治の平等院鳳凰堂。末法思想の高まりとともに阿弥陀仏の極楽浄土に往生すること(浄土思想)が求められた。平等院は関白藤原頼通によって建てられたもので、中心の鳳凰堂には仏師定朝の手による阿弥陀仏が安置されている。 遼の応県木塔。山西省応県の仏宮寺釈迦塔のことで章聖皇太后の弟蕭孝穆により建立された中国最古の木造の塔とされる。 仁宗の時期までに北宋は国制を整え、遼や西夏とは和平関係を結び、安定期を現出した。画像は仁宗の皇后曹氏(慈聖光献曹皇后)の肖像(台湾故宮博物院蔵)。 北宋の宰相・王安石。慢性的な財政難を克服するため神宗皇帝の熙寧年間に大改革を行った王安石だったが、司馬光らとの党争を惹起し、国内を混乱させることともなった。 山水画の大成。唐末五代から著しい進展を見せた山水画は北宋の李成・范寛・郭熙らの名手により高い技術と深い精神性を得ることになった。画像は台北国立故宮博物院蔵の郭熙の「早春図」。 敦煌楡林窟第3窟壁画「文殊菩薩」。仏教信仰に熱心だった西夏支配の敦煌では最後の繁栄の時代を迎えていた。 チャンパ王国の発展。11世紀初頭にヴィジャヤに遷都した王国はこの地に独特の文化を花開かせた。画像はビンディン省タイソン県にあるズオン・ロン塔で「象牙の塔」の名でも知られている。 カジュラーホーのパールシュバナータ寺院の塔(シカラ)。チャンデーラ朝のダンガ王と続く歴代の王によって建立された。 マフムードの宮廷。 『シャー・ナーメ(王書)』。11世紀初めにフェルドウスィーによってまとめられた長大なペルシア民族叙事詩。画像はサファヴィー朝時代の『シャー・ナーメ』の写本。 イブン・スィーナー。『医学典範』を著した博学な医師であると同時に東方イスラム世界を代表する哲学者としても多くの仕事を残した。 「ハラガーン双子塔」。1067年に建てられたこの建築は、セルジューク朝の二人の王子の墓廟であり、二つの塔にわかれているのでこの名がある。この塔のあるガズヴィーンはイランのカスピ海南岸の街で、近郊には「暗殺教団」ニザール派のアラムート要塞もある。 商業都市フスタート。ファーティマ朝の政治的な首都はカイロであったが、その近郊にあったフスタートが商工業の中心地であり貿易の中心地でもあった。画像はフスタートの工房で造られたラスター彩陶器で独特な色彩と光沢が特徴的である(メリーランド州ボルチモアのウォルターズ美術館蔵)。 Astrolabio de al-Sahlî」(スペイン国立考古学博物館蔵)。 コンスタンティノス9世の肖像。この皇帝の時代に東西教会分裂につながる相互破門事件が発生している。 アレクシオス1世の戦略。混迷の帝国にあって軍事貴族から身を起こし、帝位に就いたのがアレクシオス1世である。ノルマン人やクマン人といった外敵を互いに競わせ、或いは懐柔する巧みな外交手腕を駆使したことで有名である。しかしセルジューク族を排除するため西欧諸国から援軍を募ろうとして大きな誤算を生むのである。 エルサレム攻囲戦の細密画。 トゥーラ・シココティトラン。10世紀から11世紀に栄えたメキシコの後古典期の遺跡で、伝承ではトルテカ帝国の都だとされている。 11世紀(じゅういちせいき、じゅういっせいき)とは、西暦1001年から西暦1100年までの100年間を指す世紀。2千年紀における最初の世紀である。.
12世紀
アンコールの地にアンコール朝の王スーリヤヴァルマン2世はアンコール・ワットの建設を行い、続くジャヤーヴァルマン7世はアンコール・トムを築いた。画像はアンコール・トムのバイヨン四面像(観世菩薩像)。 12世紀(じゅうにせいき)とは、西暦1101年から西暦1200年までの100年間を指す世紀。.
12年
記載なし。
15世紀
大航海時代。大西洋を渡り新世界を発見したコロンブス。 マチュ・ピチュ遺跡。アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿いの尾根にある遺跡で標高2430mの高さにある。用途は未だ明らかでない所もあるが、15世紀に建造されたインカ帝国の技術の高さを反映している。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 香辛料の魅惑。15世紀には東方との交易路はオスマン帝国に遮断される事になり、香辛料の供給不足が大きな問題となった。画像は1410年代に描かれた『世界の記述(東方見聞録)』の挿絵で、インドでの胡椒採収が取り上げられている。 エンリケ航海王子。ポルトガルは東方への航路の開発を推進したが、その中心となったのは「航海王子」の名を持つエンリケ王子である。サグレスに設置した「王子の村」が航海士の育成に貢献したことはよく知られている。画像は「サン・ヴィセンテの祭壇画」で聖人のすぐ右隣に位置する黒帽で黒髭の人物が王子ととされているが異論もある。 キルワの大モスク跡。 サマルカンド近郊のウルグ・ベク天文台。ティムール朝の君主ウルグ・ベクは天文学に造詣が深く「ズィージ・スルターニー」のような精緻な天文表も作成させた。 Musée des Augustins蔵)。 ロシア正教会の自立。東ローマ帝国の衰退に伴い「タタールの軛」を脱したロシアでは独自の組織が形成され文化的にも新たな展開が見られた。画像はこの時代を代表するモスクワ派のイコン(聖画像)でアンドレイ・ルブリョフの「至聖三者」(モスクワのトレチャコフ美術館蔵)。 グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)。ポーランド・リトアニア連合軍がドイツ騎士団を破り、東方植民の動きはここで抑えられた。画像はこの戦いを描いたポーランド人画家ヤン・マテイコの歴史画(ワルシャワ国立美術館蔵)。 天文時計で1410年頃作成されてから、後世の補修はあるものの今日まで動いているものである。 プラハ大学学長ヤン・フスの火刑。コンスタンツ公会議の決定によりカトリック教会と相容れぬ異端の徒として処刑されたが、これがチェック人の憤激を呼び起こすことになった。 オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルク。劣勢のフランス軍を鼓舞し百年戦争の終結に大きな役割を果たしたが魔女裁判で火刑に処せられた。 グーテンベルク聖書(42行聖書)』の「創世記」。 『中世の秋』。歴史家ホイジンガはこの題名でこの時代のブルゴーニュ公国の歴史を描いた。画像はヤン・ファン・エイクの「宰相ロランの聖母」。ロランはこの国の宰相で、背後にはブルゴーニュのオータンの風景が広がる。 ブルネレスキの巨大なドーム建築で知られる「花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)」。 ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」。メディチ家などの文化支援活動に支えられてルネサンス文化が花開いた。画像の中心の女神は美と愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)で、その周囲を多くの神々が取り囲んでいる(ウフィッツィ美術館蔵)。 サイイド朝からローディー朝へ。北インドではデリーを中心にイスラム系王朝が続いた。画像はデリーのローディー・ガーデン内にあるサイイド朝の君主ムハンマド・シャーの霊廟。この公園の敷地にはローディー朝君主たちの霊廟もある。 タイを支配したアユタヤ朝は上座部仏教を保護し東南アジアでも有数の国家となっていた。画像はアユタヤに残るワット・プラ・シーサンペットで、1448年にボーロマトライローカナート王により建立された寺院である。 万里の長城。モンゴル人を漠北に追い払ってからもその侵入に備え明代には長城が幾度となく修復・増築を繰り返されていた。画像は1404年に「慕田峪長城」と名付けられた長城で北京市の北東に位置するもの。 鄭和の南海大遠征。永楽帝時代には明の国威を示す大艦隊が各地に派遣された。画像は1417年にベンガルから運ばれたキリンを描いた「瑞應麒麟図」。 「仁宣の治」。明は仁宗洪熙帝と続く宣宗宣徳帝の時代に安定期を迎えた。画像は明の宣宗宣徳帝の入城を描いたもの(台北故宮博物院蔵)。 如拙「瓢鮎図」。禅宗の流入は「五山文学」や「舶来唐物」などを通じて室町時代の文化に大きな影響を与えた。この「瓢鮎図」も将軍足利義持の命で描かれた水墨画で数多くの禅僧の画讃がつけられている。京都妙心寺塔頭退蔵院の所蔵。 文化を極めた。 応仁の乱。将軍後継をめぐる守護大名の争いで京都の町は焦土と化した。以後足利将軍の権威は衰え下剋上の時代へと進むことになる。画像は応仁の乱を描いた「紙本著色真如堂縁起」(真正極楽寺蔵)。 15世紀(じゅうごせいき)とは、西暦1401年から西暦1500年までの100年間を指す世紀。.
19世紀
19世紀に君臨した大英帝国。 19世紀(じゅうきゅうせいき)は、西暦1801年から西暦1900年までの100年間を指す世紀。.
303年
記載なし。
312年
記載なし。
314年
記載なし。
317年
記載なし。
4世紀
皇帝コンスタンティヌス1世。ミラノ勅令によりキリスト教を公式に認め新首都コンスタンティノポリスを造営した。画像はローマのカピトリーノ美術館にある皇帝の巨像(コロッスス)。 Musée national du Moyen Âgeにある皇帝の像。 メリダ国立ローマ博物館蔵)のレプリカ。 修道生活の基礎が築かれた。画像は大アントニオスを追慕して356年に建てられたエジプトのスエズ県にあるコプト教会の「聖アントニオス修道院」。 アクスム王国の勃興。クシュ王国を滅ぼし現在のエチオピアの地に成立したのがアクスム王国で、最も古くからキリスト教を受容していたことでも知られている。画像はキリスト教に改宗したエザナ王によるオベリスク(石柱)で24mの高さがある。 ゲルマン民族の大移動。ローマ帝国との国境を越えたゲルマン諸族は各地で混乱や衝突を起こした。画像は1920年代に描かれた西ゴート族の王アラリック1世のアテナイ入城(395年)の挿絵。 顧愷之。顧愷之は東晋の画家で、画絶・才絶・癡絶の三絶を備えると云われていた人物。画像は代表作「女史箴図」(大英博物館蔵)。 書聖王羲之。王羲之は東晋の書家で「蘭亭序」他の作で知られ、歴代皇帝にも愛好された。画像は宋末元初の文人画家銭選が王羲之を画題として描いた「蘭亭観鵝図」(台湾・国立故宮博物院蔵)。 七支刀が所蔵されている石上神宮。ここの七支刀が『日本書紀』神功記に記載のある百済から献上されたものだと推定されている。 チャンドラグプタ2世の金貨。チャンドラグプタ2世はインド・グプタ朝の領土を最大に広げ、繁栄をもたらした。 シャクンタラー』。指輪をめぐるシャクンタラー姫の数奇な運命の物語でチャンドラグプタ2世王時代の宮廷詩人カーリダーサによりまとめられたとされる。画像はラヴィ・ヴァルマによる物語絵。 4世紀(よんせいき)は、西暦301年から西暦400年までの100年間を指す世紀。.
561年
記載なし。
564年
記載なし。
6世紀
地中海の再統一。画像はラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂の東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世と随臣のモザイク。 Cabinet des Médailles所蔵のもの。 無明時代のアラビア語詩人たち。イスラム教勃興直前のこの時代にアラビアでは優れた詩人たちが活躍した。画像はその代表的な詩人アンタラ・イブン・シャッダードの細密画で、勇猛な戦士の姿で描いている。 前期チャールキヤ朝。デカン地方から南インドに展開した王朝で都はバーダーミにあった。画像はキールティヴァルマン1世の弟マンガレーシャにより建立されたバーダーミのヒンドゥー教石窟寺院第3窟でヴィシュヌ神の像が安置されている。 禅宗の祖師達磨。仏教の保護者として有名な梁の武帝との問答でも知られるが、経歴に不明な点も多い。画像は雪舟等楊の「慧可断臂図」(愛知県常滑市斉年寺蔵)。 建康。現在の南京であるこの地は中国南朝の歴代の都となり、貴族による文化が花開いた。画像は南京にある梁の武帝の異母弟蕭恢の墓を守る辟邪の石刻。 文帝。南北朝時代を終わらせて300余年ぶりに中国を統一し、「開皇の治」と呼ばれる安定期をもたらした。 関東の人物埴輪。6世紀に畿内での埴輪作成は減少するが、関東では最盛期を迎える。画像は「国宝武装男子立像(群馬県太田市出土)」で東京国立博物館蔵となっている。 東ゴート王国の盛衰。オドアケルを倒した東ゴート王テオドリックのもとイタリアはつかの間の平和を享受した。やがてこの国は6世紀半ばには東ローマ帝国の膝下に屈服することになる。画像はラヴェンナにあるテオドリック廟。 『ロッサーノの福音書』。古代末期の混乱で散逸した写本は数知れないが、この福音書は『ウィーン創世記』や『シノペの福音書』と並び現存するこの世紀に造られた数少ない写本で、「コデックス・プルプレウス」という紫染めの羊皮紙を用いた豪華なものである。 コプト織でエジプトで熱心に崇敬された「神の母(テオトコス)」がデザインされている。 6世紀(ろくせいき)とは、西暦501年から西暦600年までの100年間を指す世紀。.
740年
記載なし。
790年
記載なし。
799年
記載なし。
7世紀
ブリールから啓示を受けるムハンマドで、14世紀に描かれた『集史』「預言者ムハンマド伝」載録の細密画(エディンバラ大学蔵)。 聖地メッカ。ムハンマドはメッカからメディナに逃れた後、イスラム教共同体(ウンマ)を組織し、再びこの都市に現れてイスラム教の支配下に置いた。画像はメッカのカアバとそれを取り囲むマスジド・ハラーム。 岩のドーム。ユダヤ教徒やキリスト教徒にとって重要な聖地であるエルサレムはイスラム教徒にとっては預言者ムハンマドが「夜の旅(イスラー)」を行った場所であり、それを記念してこの建物が建てられた。 ハルシャ王に歓待された。旅の記録は『大唐西域記』にまとめられ、有名な伝奇小説『西遊記』のもとともなった。 ナーランダ寺院。創立はグプタ朝時代にさかのぼるが、この時代までにインド随一の仏教総合大学に発展し、唐僧玄奘もこの地で唯識派のシーラバドラ(戒賢)に学んでいる。画像は現在のビハール州に残るナーランダ寺院跡。 シュリーヴィジャヤ王国。スマトラ島を中心にマレー半島周辺に交易圏を築き上げた海洋王国で、唐僧義浄が『南海寄帰内法伝』で記録したように多くの寺院が立ち並ぶ大乗仏教の拠点でもあった。画像はシュリーヴィジャヤ様式の青銅鍍金四臂観世音菩薩像。 「天寿国繍帳」。飛鳥時代を代表する工芸の一つで聖徳太子の妃である橘大郎女の発願で作成されたとされ、斑鳩中宮寺に伝来した。 吐蕃の王ソンツェン・ガンポと二人の妃(唐から来た文成公主とネパールから来たチツン)。吐蕃はチベットを統一し唐に倣った律令体制を発展させた。 太宗。父李淵の後を継いで二代皇帝となった太宗李世民は、唐の律令体制を完成させ「貞観の治」と呼ばれる安定期をもたらした。画像は台湾国立故宮博物院が所蔵する太宗の肖像画。 洛陽郊外の龍門にある奉先寺大仏。則天武后の命で造営されたもので、大仏の顔は則天武后をモデルにしているといわれる。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 「ギリシア火」。イスラム軍の猛攻で劣勢に置かれた東ローマ帝国もこの新兵器を用いて帝都の防衛に成功する。画像は『スキュリツェス年代記(歴史概観)』の挿絵(マドリッド国立図書館蔵)。 スペイン国立考古学博物館蔵)。 7世紀(ななせいき、しちせいき)とは、西暦601年から西暦700年までの100年間を指す世紀。.
820年
西暦820年の世界地図.
8世紀
イスラム帝国の拡大。ウマイヤ朝時代までにイスラム帝国は中央アジアからイラン・イラクを経て、エジプト・北アフリカを超えてイベリア半島まで拡がった。 ウマイヤド・モスク。ウマイヤ朝第6代カリフのワリード1世により705年にシリアのダマスカスに建築された現存する世界最古のモスクで、カアバ・預言者のモスク・岩のドームに次ぐイスラム教第4の聖地として巡礼者が絶えない。 イスラムの書法。すでに正統カリフ時代にはクルアーンの編纂が行われていたが、この世紀になると洗練された書体が生み出され用いられた。画像はアッバース朝初期に置かれた都クーファの名から「クーフィー体」と呼ばれた書体によるクルアーンの一節。 円城(ムダッワラ)都市バグダード。アッバース朝の第二代カリフ・マンスールによって766年に完成したこの都市はティグリス川に面した交通の要衝で最盛期にはその人口は100万人を擁した。アラビア語で「平安の都」を意味するマディーナ・アッ=サラームとも呼ばれる。画像はアッバース朝時代のバグダードの再現地図。 エローラ石窟群。画像は8世紀にインドのラーシュトラクータ朝の君主クリシュナ1世によりヒンドゥー教のシヴァ神の住むカイラス山(須弥山)になぞらえて建てられた第16窟のカイラサナータ寺院。 ボロブドゥール遺跡。インドネシアのジャワ島ケドゥ盆地にある大規模な仏教遺跡で、シャイレンドラ朝のダルマトゥンガ王時代に造営された。 唐の世界帝国。西域での覇権を確立した唐は華やかな異文化交流で知られることになる。画像は706年に造営された章懐太子李賢の墓の壁画「賓客図」で、黒衣で禿頭の人物は東ローマ帝国の使節と考えられている。 楊貴妃。絶世の美女として名高いばかりでなく、治世後半の玄宗皇帝の寵愛をほしいままにしたことで「傾城」とも「傾国」とも呼ばれる。安禄山の乱に巻き込まれ悲劇的な最期を遂げた。画像は日本の上村松園による歴史画。 大秦景教流行中国碑。781年にキリスト教ネストリウス派(景教)信者で中央アジア出身の伊斯がその伝来の経緯を記録した石碑。画像はその拓本の一部で、碑題の上に十字架があるのが読み取れる。 唐三彩の駱駝。8世紀前半まで唐は中央アジアの覇権を握り交通の要衝を保持していた。画像は駱駝に乗るソグド人と思われる西域の商人(上海博物館蔵)。 国立アジア美術館(ベルリン美術館)蔵)。 天平文化。遣唐使の頻繁な行き来により盛唐の文物が招来され、710年に遷都された平城京では国際色の豊かな文化が花開いた。画像はこの時代を代表する東大寺法華堂執金剛神。 平安遷都。桓武天皇により平城京から長岡京を経て平安京に都が遷った。平安京は長きにわたって都となり「千年の都」と呼ばれるようになる。画像は桓武天皇の肖像(延暦寺蔵)。 キー・ローのモノグラムの頁(Folio 34r)でトリニティ・カレッジ (ダブリン大学)図書館が所蔵している。 アーヘン大聖堂宝物館のカール大帝の胸像。カール大帝の800年の「西ローマ帝国復興」は東ローマ帝国との間に「二帝問題」の軋轢を生んだ。 8世紀(はちせいき、はっせいき)は、西暦701年から西暦800年までの100年間を指す世紀。.
9世紀
船葬用の船体(オスロのヴァイキング船博物館蔵)。 イングランドを襲撃するデーン人(ヴァイキング)。画像は12世紀に書かれた『聖エドマンド殉教王伝』の挿絵。 マルウィヤ・ミナレット(サーマッラーのミナレット)。アッバース朝第8代カリフのムウタスィムが建築したサーマッラーの大モスク付属の螺旋式のミナレット。 ハールーン・アッラシード。アッバース朝最盛期のカリフで、『千夜一夜物語』では夜ごとにバグダードの街に繰り出す風流な君主として描かれている。 「知恵の館(バイト・アル・ヒクマ)」。アッバース朝カリフ・マアムーンの治世にバグダードには翻訳事業や学問研究のための「知恵の館」が設置された。画像はここに集まる学者たちを描いた13世紀の細密画(フランス国立図書館蔵)。 インド最後の仏教王朝のパーラ朝。ダルマパーラ王により9世紀末に北インドの大半が支配下に置かれた。画像は9世紀に造られたパーラ様式の文殊菩薩石像(ホノルル美術館)。 敦煌文書。敦煌には3万とも4万とも数えられる膨大な古文書が収蔵されている。画像は大英博物館所蔵の「金剛般若波羅蜜経」。これは現存する世界最古の木版印刷の巻子本(書籍)で唐の懿宗の治世の868年に作成されたもの。 禁止出境展览文物でもある「八重宝函」。 密教招来。空海らによって日本に密教がもたらされ平安時代の仏教に大きな影響を与えた。画像は密教で用いる胎蔵界曼荼羅で京都東寺所蔵のもの。 応天門の変。藤原氏による他氏排斥が進んで摂関政治が確立し、律令国家体制から王朝国家体制へと政体が変化した。画像は12世紀に応天門の変の経緯を描いた「伴大納言絵詞」(出光美術館蔵)。 ラパス県の4000メートル近くの標高にある遺跡で、最盛期である9世紀には人口は1万人を越えたと想定されている。画像は半地下式方形広場で人面の装飾がなされている。 Galerie des Batailles蔵)。 ラドガにて東スラブ人と出会うヴァリャーグのリューリク一行を描いたヴィクトル・ヴァスネツォフの歴史画。 ハギア・ソフィア教会アプス半ドームにある聖母子のモザイク画。 スラブ人への宣教。東ローマ帝国出身のキュリロス・メトディオス兄弟はグラゴール文字を作成しキリスト教の宣教に努めた。画像は18-19世紀にロシアで描かれたこの兄弟のイコン(聖画像)。 プリスカ遺跡。 9世紀(きゅうせいき)は、西暦801年から西暦900年までの100年間を指す世紀。.
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