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バサラブ1世

索引 バサラブ1世

バサラブ1世(Basarab Întemeietorul、? - 1352年)は、ワラキアのヴォイヴォド(総督)および公(在位: 1310年/19年 - 1352年)。ワラキアの文書で確認できる最も古い君主であり六鹿茂夫編著『ルーマニアを知るための60章』(エリア・スタディーズ, 明石書店, 2007年10月)、210頁、の創始者である。ワラキア公国は「バサラブの国」を意味する「バサラビア」の名前で呼ばれていた萩原直「ベッサラビア」『東欧を知る事典』収録(平凡社, 2001年3月)、459-461頁。 バサラブは、バルカン半島北部におけるハンガリー王国と正教会との対立を利用して勢力を拡張した。1324年ごろにバサラブはハンガリー王カーロイ1世に臣従を誓うが、カーロイはバサラブを不誠実な臣下と呼んで敵対視した。1330年にカーロイ1世はワラキアに遠征軍を派遣するが、同年11月12日にバサラブはでハンガリー軍を打ち破る。 ワラキアをモンゴルの攻撃から守り、ハンガリーから独立を勝ち取った、新しい国家の建設者としての事績より、「偉大な」公と称賛されているオツェテァ『ルーマニア史』1巻、179頁。.

47 関係: ペチェネグミハイル3世シシュマンハンガリー王国ムンテニアモンゴル帝国ヨハネス22世 (ローマ教皇)ラヨシュ1世ルーマニア語ワラキアヴラフ人ヴェルブジュドの戦いヴォイヴォダトランシルヴァニアトラキアトラキア語ドナウ川ドロベタ=トゥルヌ・セヴェリンニコラエ・アレクサンドルベッサラビアアールパード朝イヴァン・アレクサンダルオルテニアカルパティア山脈カーロイ1世キプチャククルテア・デ・アルジェシュジョチ・ウルスセルビア王国 (中世)第二次ブルガリア帝国正教会教皇1277年1285年1288年1310年1319年1324年1325年1327年1328年1329年1330年1331年1332年1343年1345年1352年

ペチェネグ

ペチェネグとその周辺国。 ペチェネグ(英:Pechenegs)は、8世紀から9世紀にかけてカスピ海北の草原から黒海北の草原(キプチャク草原)で形成された遊牧民の部族同盟。9世紀末に遊牧民のハザール人とオグズ人の圧迫によって黒海北岸の草原に移住し、そこからフィン・ウゴル系の遊牧民マジャル人(後のハンガリー人)、ならびにスラヴ系の農耕民ウールィチ人,ティーヴェルツィ人を追い出した。10世紀を通じてキエフ・ルーシ,ブルガリア,ハンガリー王国,ビザンツ帝国などの隣国と抗争を繰り広げた。11世紀末に、遊牧民のポロヴェツ(クマン、キプチャク)に圧迫されてドナウ川を越え、ビザンツ帝国領内へ移住した。残った人々は、ポロヴェツに同化した。 ペチェネグ人の系統に最も近い現存する民族はガガウズ人である。.

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ミハイル3世シシュマン

ミハイル3世シシュマン(Михаил III Шишман、1280年以後 - 1330年7月31日)は、第二次ブルガリア帝国の皇帝(ツァール、在位1323年 - 1330年)。正確な生年は不明であるが、1280年から1292年の間に生まれたと考えられている。 ミハイル3世は第二次ブルガリア帝国の最後の王朝であるシシュマン朝の建国者であるが、即位直後にはアセンの名前を名乗り、第二次ブルガリア帝国最初の王朝であるアセン朝との繋がりを強調した。 ミハイル3世は精力的かつ野心的な君主であり、敵対するビザンツ帝国(東ローマ帝国)とセルビア王国に硬軟織り交ぜた外交政策を展開したが、1330年7月28日のヴェルブジュドの戦いで敗れ、陣没した。バルカン半島におけるブルガリア帝国の政治的・軍事的覇権の回復を目指して活動し、またビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルの占領を試みた最後の中世ブルガリア世界の君主だった。 彼の死後、子のイヴァン・ステファン、次いで甥のイヴァン・アレクサンダルが跡を継ぎ、イヴァン・アレクサンダルはミハイル3世の政策を翻してセルビアと同盟を結んだKazhdan, "Michael III Šišman", 1365頁。.

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ハンガリー王国

ハンガリー王国(ハンガリーおうこく、Magyar Királyság)は、現在のハンガリーを中心とする地域をかつて統治した王国。.

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ムンテニア

ムンテニア(Muntenia)は、ルーマニアの南東部、ブルガリア国境に近い一地方である。 12世紀から13世紀ごろのルーマニアは、西部のトランシルヴァニア、北部のモルダヴィア、南部のワラキアの3国に分かれていた。ワラキアは現在のルーマニア国土の約1/3を占める。 ワラキア公、ミハイ勇敢公 (en:Mihai Viteazul) は、1599年にトランシルヴァニア公に、1600年にはモルダヴィア公となり、歴史上初めてルーマニアを統一した。 ワラキアはさらに2つの地方に分かれている。東部がムンテニア、ムンテニアより多少狭い西部のオルテニアである。両地方の間にオルト川が流れる。ムンテニアの南と東はドナウ川、北はトランシルヴァニアアルプス山脈によって囲まれている。 ムンテニアには以下の10県が含まれる。.

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モンゴル帝国

モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが1206年に創設した遊牧国家。中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス ( Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。 モンゴル帝国の創始者チンギス・カンと『四駿四狗』やその他の後継者たちはモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた。最盛期の領土面積は約3300万km²で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は1億人を超えていた。三大洋全てに面していた。 モンゴル帝国は、モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)を中心に、各地に分封されたチンギス・カンの子孫の王族たちが支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなした。 中国とモンゴル高原を中心とする、現在の区分でいう東アジア部分を統治した第5代皇帝のクビライは1271年に、大都(現在の北京)に遷都して緩やかな連邦と化した帝国の、モンゴル皇帝直轄の中核国家の国号を大元大モンゴル国と改称するが、その後も皇帝を頂点とする帝国はある程度の繋がりを有した。この大連合は14世紀にゆるやかに解体に向かうが、モンゴル帝国の皇帝位は1634年の北元滅亡まで存続した。また、チンギス・カンの末裔を称する王家たちは実に20世紀に至るまで、中央ユーラシアの各地に君臨し続けることになる。.

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ヨハネス22世 (ローマ教皇)

ヨハネス22世(Ioannes XXII、1244年? - 1334年12月4日)は、アヴィニョン捕囚の時期のローマ教皇(在位1316年 - 1334年)。教会慣用名はヨハネ小林(1966)巻末「歴代法王票」p.9。.

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ラヨシュ1世

ラヨシュ1世(Anjou I Lajos, 1326年3月5日 - 1382年9月10日 トルナヴァ)は、アンジュー家のハンガリー王(在位:1342年 - 1382年)、ポーランド王(ハンガリー人のルドヴィク1世 Ludwik I Węgierski, 在位:1370年 - 1382年)。父はカーロイ1世。大ラヨシュ(Nagy Lajos király)とも呼ばれる。 大貴族の台頭によって弱体化していたハンガリー王国は、父カーロイ1世の治世の下で大貴族の抑制と王権の強化に成功し、大国へと成長していた。 1342年、父の後を継いで即位したラヨシュ1世は、勢力拡大のために積極的な対外政策を行なった。まず、ヴェネツィア共和国と交戦してクロアチアとダルマチアを支配下に収めた。次いで1370年、ポーランド王カジミェシュ3世が嗣子無くして死去すると、母エルジェーベトがその姉に当たるという縁故からポーランド王位も継承することとなる。 ラヨシュ1世はさらにナポリ王国の王位も狙い、同族の女王ジョヴァンナ1世と敵対した。弟で女王の最初の夫であったアンドラーシュが暗殺された後、1347年には軍勢を動かして王都ナポリを占領したが、王位を得ることはできずに終わった。しかし、晩年の1382年には同じく同族のカルロ3世にジョヴァンナ1世を殺害させ、王位につけた。 ポーランドの画家ヤン・マテイコによる「ポーランド王ルドヴィク1世」としての肖像画。王冠、法衣、王錫はポーランドのもの。 男児が無かったため、死後ハンガリー王位は年長の娘マーリア、ポーランド王位は末娘ヤドヴィガ、そして彼女らの夫たちが継承することとなった。ただし、ハンガリー王位は一時マーリアとカルロ3世(カーロイ2世)との間で争われている。 対外政策に成功を収めて勢力を拡大し、ポーランド王も兼ねたことから、ラヨシュ1世は「大王」と呼ばれている。しかしバルカン半島への勢力拡大には失敗した。ヴェネツィアとダルマツィアを巡る戦争を起こし、このためアドリア海経由の物流が滞り、トランシルヴァニアやワラキア経由の物流が発展し、ワラキア・トランシルヴァニアの発展を促す結果を招いた。また大貴族層の反発にも遭って、晩年には大貴族層に対して特権を与えるなどの譲歩もしている。これは、ハンガリー王権の衰退を現わすものでもあった。 ラヨシュの王国(赤線枠)と宗主下の国(青字).

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ルーマニア語

ルーマニア語(limba română リンバ・ロムナ)は、ルーマニアの公用語であり、またその周辺地域でも使用されている言語である。インド・ヨーロッパ語族イタリック語派に分類される。ラテン語の東部地域における方言。モルドバ語はルーマニア語とほぼ同じ言語である。アルーマニア語は、ルーマニア語の方言とされる事もあるが、意思疎通が困難である。.

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ワラキア

ワラキア(Wallachia, Walachia 、Valahia 、Havasalföld )は、ルーマニア南部の地方名である。ルーマニアの首都ブカレストがある地域で、かつては14世紀に建国されたワラキア公国があった。ここでは、古代に始まり、モルダヴィアと統合してルーマニア王国が成立するまでのワラキアの歴史を主に記す。.

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ヴラフ人

ヴラフ人(Vlach )は、中央ヨーロッパ、東ヨーロッパ、南東ヨーロッパにおいて、複数のラテン系の人々を指し示して使われる民族呼称である。ヴラヒ人、ワラキア人などと書かれることもある。ヴラフ人と呼ばれる人々には、現代のルーマニア人(ダコ=ルーマニア人)、アルーマニア人、モルラク人(Morlachs)、メグレノ=ルーマニア人(Megleno-Romanians)、イストロ=ルーマニア人(Istro-Romanians)などが含まれる。中でも、自民族の国としてルーマニアを持つルーマニア人を除いた人々を指すことが多い。 ヴラフ人という呼称は外名であった。ヴラフと呼ばれる各民族は、それぞれ「ローマ人」に由来する自称を用いてきた(Români、Rumâni、Rumâri、Aromâni、Arumâniなど)。メグレノ=ルーマニア人は現在は自称として「Vlaşi」を用いているが、歴史的には「Rămâni」を自称としていた。イストロ=ルーマニア人もまた「Vlaşi」という呼び名を受け入れているが、「Rumâni」や「Rumâri」も使われ続けている。 ヴラフ人は、トラキア人やイリュリア人、ギリシャ人などの古代からのバルカンの住民が「ローマ化」されたものと考えられることもある(ダキア人を含む)が、定説とまではなっていない。 ヴラフ人の言語は、東ロマンス諸語(Eastern Romance languages)と呼ばれ、共通の古ルーマニア語(Proto-Romanian language)から分化したものである。過去数世紀にわたり、ヴラフ人たちはそれぞれ細かいグループに分かれていき、スラヴ人やギリシャ人、アルバニア人、クマン人などの周辺の民族と混交していった。 中央ヨーロッパや南東ヨーロッパのほぼ全ての国にヴラフ人は少数民族として暮らしており、ハンガリー、ウクライナ、セルビア、クロアチア、マケドニア共和国、アルバニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ギリシャ、ブルガリアなどがこれに含まれる。これ以外に、ポーランドやチェコ、スロバキア、モンテネグロでは周辺のスラヴ人に同化してヴラフ人は見られなくなった。ルーマニアとモルドバでは、(「ダコ=ルーマニア人」、あるいは単に「ルーマニア人」と呼ばれる)ヴラフ人が民族的に多数派を形成している。.

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ヴェルブジュドの戦い

ヴェルブジュドの戦い(Битка код Велбужда、Bitka kod Velbužda битка при Велбъжд、bitka pri Velbazhd)は、1330年7月28日にヴェルブジュド(現在のキュステンディル)近郊で起きたセルビア王国と第二次ブルガリア帝国の戦闘である。 13世紀末から領土を拡張する新興勢力のセルビアに対して、バルカン半島の旧勢力であるブルガリアと東ローマ帝国は危機感を抱き、1327年に反セルビアの軍事同盟を締結した。3年後、セルビア軍とブルガリア軍はヴェルブジュドで激突し、ブルガリア軍は奇襲を受けてセルビアに敗北する。 セルビアの勝利は、その後の20年におけるバルカン半島での勢力図を形作ることとなった。敗北したブルガリアは領土こそ喪失しなかったものの、セルビアのマケドニアへの進出を許してしまう。かたや勝者であるセルビアはマケドニアに加えて東ローマ領のテッサリアとイピロスの一部を支配下に置き、王国の最大版図を現出させた。.

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ヴォイヴォダ

ポーランドの伝説に現れる「12人のヴォイヴォダ」 ヴォイヴォダ (voivoda, voivode, voyevoda, vaivode) は、中世・近世のスラヴ・東欧で使われた称号である。 元来は軍司令官の称号だったが、県・郡規模の領主の称号に変化した。.

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トランシルヴァニア

トランシルヴァニア(Transylvania)は、ルーマニア中部・北西部の歴史的地名。東にはカルパティア山脈、南にはトランシルヴァニアアルプス山脈(南カルパティア山脈)が横たわる。北はウクライナ、西はハンガリー、南西はセルビアに接している。 歴史的な狭義のトランシルヴァニアは、マラムレシュ(マーラマロシュ)、サトゥ・マーレ(サトマール)、ビホル(ビハル)、アラド、ティミシュ、カラシュ・セヴェリン(クラッショー・セレーニ)地方は含まれない。オーストリア直轄時代にはサラジュ(シラージ)地方も含まれていなかった。 なお、ハンガリー時代のトランシルヴァニアとルーマニア時代のトランシルヴァニアは微妙に範囲が異なり、県の境界線が変更され、西部の一部が「モルダビア」に組み込まれた。.

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トラキア

トラキア(Thracia、Trakya)は、バルカン半島南東部の歴史的地域名。現在は3か国に分断され、西トラキアがブルガリアの南東部とギリシャ北東部の一部に、東トラキアがトルコのヨーロッパ部分となっている。.

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トラキア語

トラキア語(Thracian language)は古代の東ヨーロッパ(現在のブルガリア、ギリシア北部等)やビテュニア(アナトリア北西部)にいたトラキア人が用いた言語で、死語。インド・ヨーロッパ語族に属する。トラキア語の分類や他言語との関係は不明確な点が多いが、インド・ヨーロッパ語族の中のサテム語派(アルバニア語、スラヴ語派、バルト語派、インド・イラン語派など)に分類される。ただしサテム語派は本当に共通系統を示すものかどうか明らかではない。トラキア人と同族とされる北方のダキア人の用いたダキア語も同系との考えが有力であるが、やや異なっていた可能性もある。 かつてはイリュリア語(トラキア語の西側で使われた)とまとめる説もあったが、イリュリア語は別系統とする意見が現在では有力。また古代マケドニア語やフリュギア語(アナトリア)との関係も考えられるが明らかでない。 トラキア語自体は、ごく少数の文章がギリシア文字で刻まれて残るのみなので、不明の点が多い。しかしいくつかの単語がギリシア語・ラテン語の文献に残され、また人名・地名等から多くの単語が抽出されている。 トラキア人は最終的にギリシア化またはローマ化され、民族としては5世紀までに消えた。それとともにトラキア語も消えたと思われる。一部の人々はスラヴ人またはブルガール人に同化し、8-10世紀にブルガリア人を形成したと考えられている。またローマ化したダキア人はルーマニア人などになった。ブルガリア語やルーマニア語にある語源のはっきりしない単語の中には、トラキア語またはダキア語に由来するものがあるともいわれるが、確証はない。 アルバニア語についても、イリュリア語由来のほか、トラキア語またはダキア語に由来する単語を含むといわれる。.

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ドナウ川

ドナウ川(ドナウがわ、ラテン語:Danubius、 ドイツ語: Donau )は、ヴォルガ川に次いでヨーロッパで2番目に長い大河である。 ドイツ南部バーデン=ヴュルテンベルク州の森林地帯「シュヴァルツヴァルト(黒い森)」に端を発し、概ね東から南東方向に流れ、東欧各国を含む10ヶ国を通って黒海に注ぐ重要な国際河川である。河口にはドナウ・デルタが広がる。全長は2,850 km。.

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ドロベタ=トゥルヌ・セヴェリン

ドロベタ=トゥルヌ・セヴェリン (ルーマニア語:Drobeta-Turnu Severin、発音:, ハンガリー語: Szörényvár, Северин セルビア語: Дробета-Турну Северин)は、ルーマニア、オルテニア地方、メヘディンツィ県の県都。かつてはトゥルヌ・セヴェリンと呼ばれていた。日本語では、ツルヌ・セヴェリン、ツルヌ・セベリンという表記も見られる。.

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ニコラエ・アレクサンドル

ニコラエ・アレクサンドル(Nicolae Alexandru、? - 1364年11月)は、ルーマニア南部のワラキアの公(在位:1352年 - 1364年)。 父であるバサラブ1世の跡を継いでワラキアを統治した。バサラブ1世の方針を継承して国際社会におけるワラキアの地位を確立し、王朝の基礎を固めたオツェテァ『ルーマニア史』1巻、179-180頁。.

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ベッサラビア

ベッサラビア(ルーマニア語:Basarabia、ウクライナ語:Бессарабія、トルコ語:Besarabya)は、1806年の露土戦争の結果、ルーマニア人のモルダビア公国領を、当時宗主権を持っていたオスマン帝国がロシア帝国に一部割譲した際に、割譲した公国東部地方をロシア側が指していった名称である。モルダビア公国の残余部分は1859年、ワラキア公国と同君連合を形成し、1881年にルーマニア王国となった。1918年、ベッサラビアは革命後のロシアから独立を宣言。第一次世界大戦終結時にはルーマニア王国と合併した。第二次世界大戦初期の1940年、ソビエト連邦はベッサラビアを併合。1941年から44年までのルーマニア占領期を経て、大戦末期の1944年、ソビエト連邦が再占領し、モルダビア・ソビエト社会主義共和国に再編した。北部と南部の一部地域はウクライナ・ソビエト社会主義共和国に組み入れられた。1991年、モルダビア・ソビエト社会主義共和国はソビエト連邦から独立を宣言し、モルドバ共和国となった。.

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アールパード朝

アールパード朝()は、ハンガリー王国の最初の王朝。9世紀末にマジャル人を率いてパンノニア平原に定住させた大首長(ジュラ)アールパードを祖とする。11世紀初めにハンガリー王国を成立させ、14世紀初頭に断絶するまで約300年続いた。12世紀末から13世紀初頭にかけては、ハールィチ・ヴォルィーニ王国の王(ガリツィアおよびロドメリアの王)やハールィチ公国の公も出している。.

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イヴァン・アレクサンダル

イヴァン・アレクサンダル(Иван Александър/Ivan Aleksandǎr 、original spelling:ІѠАНЪ АЛЄѮАНдРЪ、John Alexander、? - 1371年2月17日)は、第二次ブルガリア帝国の皇帝(ツァール、在位:1331年 - 1371年Lalkov, Rulers of Bulgaria, pp.

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オルテニア

ルテニア(Oltenia)または小ワラキアは、ルーマニアの地方の一つである。ワラキアの西部を指し、東部はムンテニアである。北はトランシルヴァニア山脈、南はドナウ川、東はオルト川によって囲まれている地域である。なお、オルト川はオルテニアと、ムンテニア(大ワラキア)の境界ともなっている。 主要都市は、クラヨーヴァであり、ほかにドロベタ=トゥルヌ・セヴェリン、ルムニク・ヴルチャ、スラティナ、トゥルグ・ジウ、カラファトなどがある。 オルテニアは5県から構成されている。.

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カルパティア山脈

ルパティア山脈(またはカルパチア山脈)は、中央ヨーロッパ・東ヨーロッパの山脈である。 カルパティア山脈の衛星写真.

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カーロイ1世

ーロイ1世(I.

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キプチャク

『ルーシ年代記』で見られるポロヴェッツ人の一家。 「バーバ」と呼ばれるクマン人が立てた石像(ドニプロペトロウシク、ウクライナ)。 キプチャク(Qipchaq)は、11世紀から13世紀にかけて、ウクライナからカザフスタンに広がる草原地帯に存在したテュルク系遊牧民族。ルーシの史料ではポロヴェツ(ポロヴェッツ)、東ローマやハンガリーの史料ではクマンもしくはコマンと記された。現在のカザフスタンからモルドバにかけて広がる平原地帯は、キプチャクの名前にちなんでキプチャク草原(Dasht-i Qipchāq)と呼ばれるが、キプチャク草原を支配したモンゴルのジョチ・ウルスが通称キプチャク・ハン国と呼ばれるのは、このためである。.

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クルテア・デ・アルジェシュ

ルテア・デ・アルジェシュ (ルーマニア語:Curtea de Argeş、ハンガリー語: Argyasudvarhely、ドイツ語:Argisch)は、ルーマニア、アルジェシュ県の都市。ファガラシュ山脈の谷を流れるアルジェシュ川右岸にあり、ピテシュティからトゥルヌ・ロシュ峠へ向けて鉄道が通る。 陶業と木材加工が、町の産業の中心となっている佐々田、萩原「クルテヤ・デ・アルジェシュ」『東欧を知る事典』新訂増補、113-114頁。.

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ジョチ・ウルス

ョチ・ウルス()は、13世紀から18世紀にかけて、黒海北岸のドナウ川、クリミア半島方面から中央アジアのカザフ草原、バルハシ湖、アルタイ山脈に至る広大なステップ地帯を舞台に、チンギス・カンの長男ジョチの後裔が支配し興亡した遊牧政権(ウルス)。一般にキプチャク・ハン国の名で知られる国とほぼ同じものである。.

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セルビア王国 (中世)

ルビア王国(セルビアおうこく、Краљевина Србија)は、現在のセルビアを中心とした中世の王国。.

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第二次ブルガリア帝国

二次ブルガリア帝国(Второ българско царство, Second Bulgarian Empire)は、12世紀後半から14世紀末までブルガリアに存在した国家。14世紀末にオスマン帝国によって滅ぼされた。.

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正教会

Σημειώσεις από τις παραδόσεις τού καθηγητού Ι. Δ. Ζηζιούλαより)。 正教会(せいきょうかい、Ορθόδοξη Εκκλησία、Православие、Orthodox Church)は、ギリシャ正教もしくは東方正教会(とうほうせいきょうかい、Eastern Orthodox Church)とも呼ばれる、キリスト教の教会(教派)の一つ。 日本語の「正教」、英語名の"Orthodox"(オーソドックス)は、「正しい讃美」「正しい教え」を意味するギリシャ語のオルソドクシア "ορθοδοξία" に由来する。正教会は使徒継承を自認し、自身の歴史を1世紀の初代教会にさかのぼるとしている『正教会の手引き』8頁 - 11頁。 なお「東方教会」(とうほうきょうかい)が正教会を指している場合もある。 例外はあるものの、正教会の組織は国名もしくは地域名を冠した組織を各地に形成するのが基本である。コンスタンディヌーポリ総主教庁、アレクサンドリア総主教庁、アンティオキア総主教庁、エルサレム総主教庁、ロシア正教会、セルビア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、グルジア正教会、ギリシャ正教会、日本正教会などは個別の組織名であって教会全体の名ではない。いずれの地域別の教会組織も、正教として同じ信仰を有している。教会全体の名はあくまで正教会であり、「ロシア正教に改宗」「ルーマニア正教に改宗」といった表現は誤りである。 なお、アルメニア使徒教会、シリア正教会、コプト正教会、エチオピア正教会なども同じく「正教会」を名乗りその正統性を自覚しているが、上に述べたギリシャ正教とも呼ばれる正教会とは別の系統に属する。英語ではこれらの教会は"Oriental Orthodox Church"とも呼ばれる。詳細は非カルケドン派正教会を参照。.

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教皇

教皇(きょうこう、Pāpa、Πάπας Pápas、The Pope)は、キリスト教の最高位聖職者の称号。一般的にはカトリック教会のローマ司教にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇を指す。ヴァティカン市国の首長。教皇の地位は「教皇位」、あるいは「教皇座」と呼ばれる。また、教皇の権威のことを「聖座」、「使徒座」ということもある。現在の教皇はフランシスコ(第266代)。 日本語では「ローマ法王」と表記されることも多いが、日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会は「ローマ教皇」の表記を推奨している(後述)。またカトリックの内部では「教父」の呼称を用いる場合もある。なお、退位した教皇の称号は名誉教皇(名誉法王とも)という。 本項では主にローマ教皇について記述する。その他の教皇については称号の変遷とその他の「教皇」の節を参照。.

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1277年

記載なし。

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1285年

記載なし。

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1288年

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1310年

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1319年

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1324年

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1325年

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1327年

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1328年

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1329年

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1330年

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1331年

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1332年

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1343年

記載なし。

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1345年

記載なし。

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1352年

記載なし。

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