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バグラデス川の戦い

索引 バグラデス川の戦い

バグラデス川の戦いまたはカンピ・マグニの戦いは、第二次ポエニ戦争中の紀元前203年にバグラデス川(現在のメジェルダ川)沿いで発生した、ハスドルバル・バルカとシュファクスが指揮するカルタゴ軍と、スキピオ・アフリカヌス率いるローマ軍の間の戦闘。ローマ軍歩兵による翼包囲戦法が成功し、ローマ軍が大勝した。.

22 関係: マシニッサハスドルバルハスドルバル・ギスコハスタティメジェルダ川ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)ローマ軍団ヌミディアアウクシリアウティカの戦い (紀元前203年)カルタゴガイウス・ラエリウスケルト人ケントゥリアザマの戦いシュファクススキピオ・アフリカヌス共和政ローマ第二次ポエニ戦争紀元前203年翼包囲203年

マシニッサ

マシニッサ(Masinissa、紀元前238年 - 紀元前148年)は、ヌミディアの王。第二次ポエニ戦争において、当初はカルタゴに協力していたが、後にローマに鞍替えする。ローマの後見を得てヌミディア王となり、ザマの戦いにも参加した。.

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ハスドルバル

ハスドルバル (Hasdrubal) は、古代のカルタゴ人によく見られる男性名。「バアルこそ我が救い」の意で、ハスドゥルバルやハシュドゥルバルとも呼ぶ。以下、著名な人物を挙げる。.

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ハスドルバル・ギスコ

ハスドルバル・ギスコ(Hasdrubal Gisco、紀元前202年没)は第二次ポエニ戦争で活躍したカルタゴの将軍。主にヒスパニア、北アフリカ方面で活躍した。歴史家の記述によっては『ジスコーネ』または『ギスコーネ』とも呼ばれる。彼の名前は「ギスコの息子、ハスドルバル」という意味である。.

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ハスタティ

ハスタティまたはハスタティウスとは、マリウスの軍制改革以前のローマ軍の軍制における兵士の主要区分の一つ。日本語では第一戦列兵と訳されることが多い。主に若年の者で構成され、剣グラディウスと投槍ピルム、大型の盾スクトゥムで武装していた。鎧に関しては装備は自弁であったため、裕福な者だけが装備していたと思われる。 共和制初期の戦場ではプリンキペス、トリアリイと共に長槍を持ち、ギリシア風の重装歩兵戦術で戦った。しかし山地の多いイタリア中部の戦場ではサムニウム人等に苦戦することも度々あったため、共和制中期までには接近白兵戦主体の戦術に変化していった。共和制中期以降の戦場では軽装歩兵の攻撃の後、最初に敵の戦列と交戦する役目を負った。戦術が変化して以降はギリシア歩兵のように長槍を持つことはなかった。.

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メジェルダ川

メジェルダ川(نهر مجردا、Medjerda)は、アトラス山脈を源流として、地中海のチュニス湾へ注ぐアフリカの河川である。チュニジア及びアルジェリア両国にまたがる。古代ローマ時代は「バグラダス川」(Bagradas)の名で呼ばれていた。 古来よりベルベル人、フェニキア人、ローマ人やアラブ人等が争いを繰り広げ、古代ではカルタゴやウティカ、現在はチュニスといった都市がメジェルダ川沿いに建設された。 現在もメジェルダ流域に住む人々にとっては、灌漑農業及び生活の上で重要な河川であり、穀物・野菜・柑橘類・葡萄・肉類・牛乳の生産地となっている。 チュニジア国内で流れる川では最長の河川であるが、1973年を始めとして度々氾濫が起こっており、運河やダム等の建設も行われている。 メジェルダ川 Category:アフリカの河川 Category:チュニジアの地形 Category:アルジェリアの地形 Category:アフリカの複数の国を流れる河川 Category:チュニジアのラムサール条約登録地.

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ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)

ーマ内戦(Bellum civile alterum) では、紀元前49年から紀元前45年の間に起きた共和政ローマ期の内戦について記す。グナエウス・ポンペイウス及び元老院派とガイウス・ユリウス・カエサル派の間で起こった一連の戦争で、カエサルが当時の国家に対して仕掛けたものである。 イタリア、ギリシア、エジプト、北アフリカ及びヒスパニアで争い、カエサル派が最終的に元老院派を打倒して独裁体制を確立した。.

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ローマ軍団

14軍団ゲミナ(2004年のポーランドにおける再現イベント) ローマ軍団(古典ラテン語:legio、レギオー)は、古代ローマにおける軍隊(excercitus)のうち陸軍の基本的な編成単位のことである。軍団はローマ市民権を有する者だけで構成されていた。 1つの軍団は、時代によっても異なるが、帝政ローマ時代では1つの軍団は10のコホルス(大隊)から構成され、騎兵200強を含めたおよそ5,000から6,000人の軍団兵がいた。古代ローマ史上を通じて名前や番号をもった通算約50個の軍団が創設されたが、それらの多くが長い歴史の間で全滅・解散されており必ずしも存続しえたわけではなかった。.

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ヌミディア

ヌミディアの詳細地図 ヌミディア (Numidia) は、カルタゴや共和政ローマの時代にベルベル系の部族が住んでいたアフリカ北部の地域・王国。ヌミディアとは古代ローマによる呼称であり、現在のアルジェリア北東部周辺に当たる。ヌミディア王国は、東隣にカルタゴ、西隣にマウレタニア王国と接していた。王国の滅亡後にローマの属州となった。中心都市はキルタ(Cirta, 現在の名称はコンスタンティーヌ)。 「ヌミディア」とは「ヌミド」と呼ばれる半遊牧の先住民の小都市群の意味とされる。.

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アウクシリア

アウクシリア(ラテン語:Auxilia)とは、帝政ローマにおいて、ローマ軍の正規部隊であるレギオ(軍団)を支援する部隊。日本語では支援軍、補助兵、翼軍などと訳される場合が多い。騎兵を主力とした。アウジリアスと記述している書物もある。.

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ウティカの戦い (紀元前203年)

ウティカの戦いは第二次ポエニ戦争中の紀元前203年に、現在のチュニジアにあったウティカ付近で発生した戦闘。第二次ポエニ戦争においては、アフリカ大陸での最初の戦闘である。ウティカの攻略には失敗したが、メジェルダ川近くで、スキピオ・アフリカヌス率いるローマ軍が、奇襲によってカルタゴ軍およびその同盟国であるヌミディア軍に決定的な勝利を収めた。スキピオのこの勝利により、カルタゴはイタリア半島およびイベリア半島から軍を引き上げざるを得なくなり、ローマは戦略的優位性を得、最終的なローマの勝利に大きく貢献した。.

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カルタゴ

ルタゴ(Carthāgō または Karthāgō カルターゴー、قرطاج Qarṭāj、Carthage)は、現在のチュニジア共和国の首都チュニスに程近い湖であるチュニス湖東岸にあった古代都市国家。地中海貿易で栄え、現在は歴史的な遺跡のある観光地となっているほか、行政上はチュニス県カルタゴ市として首都圏の一部を成す。 「カルタゴ」の名は、フェニキア語のカルト・ハダシュト(Kart Hadasht=「新しい町」)に由来するとされる。.

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ガイウス・ラエリウス

ガイウス・ラエリウス(Gaius Laelius, 生没年不詳、紀元前3世紀後半 - 紀元前2世紀前半)は、共和政ローマ時代の軍人、元老院議員。スキピオ・アフリカヌスの友人であり、彼のヒスパニア遠征、アフリカ遠征に側近、副将として付き従った。戦役後期に加わるマシニッサと共に、スキピオの両腕ともいえる。ザマの戦いでは右翼でヌミディア騎兵部隊を指揮したマシニッサに対し、彼は左翼のローマ騎兵を率いて勝利に貢献した。また低い出自でありながら紀元前190年、セレウコス朝シリアとの戦役に際してスキピオ・アシアティクス(この戦役で尊称を得る)と共に執政官(コンスル)を務めた。 彼の出自は平民階級(プレブス)と言われるが、詳しい事は分かってはいない。ポリュビオスは彼をスキピオが幼少の頃からの友人と言っており、またティトゥス・リウィウスによれば彼は貧しい家からの出身で、紀元前190年のセレウコス朝での戦いで勝利してようやく自分の家族に富を持ってくる事ができたと伝えられる。 ポリュビオスによると、彼はスキピオに若い頃から従っており、紀元前218年のティキヌスの戦いで敗戦色濃い中でスキピオが父プブリウスを救ったという説話は彼の証言によるものである。そして紀元前210年から紀元前201年までのスキピオの遠征に従軍、しかし紀元前202年に彼が按察官(アエディリス)になるまでは元老院の一員ではなかった。このような扱いは恐らく彼の身分が低く裕福ではない家系の出自のため政治的な影響力を持たなかったためかと思われている。 Category:紀元前3世紀の古代ローマ人 Category:紀元前2世紀の古代ローマ人 category:ポエニ戦争.

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ケルト人

● - 紀元前400年 ケルト人(ケルトじん、Celt, Kelt, Celt では とも)は、中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の言語を用いていた民族である。 古代ローマ人からはガリア人とも呼ばれていたが、「ケルト人」と「ガリア人」は必ずしも同義ではなく、ガリア地域に居住してガリア語またはゴール語を話した人々のみが「ガリア人」なのだとも考えられる。 ブリテン諸島のアイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォール、コーンウォールから移住したブルターニュのブルトン人などにその民族と言語が現存している。 現在のケルトという言葉は、言語・文化の区分を示すための近現代になってから作られた用語であり、古代から中世において右図で表されている地域の住民が「ケルト人」として一体的な民族意識を持っていたとは考えられていない。そのため歴史学などでは、「ケルト人(Celts)」という言葉は使わず、「ケルト系(Celtic)」という言葉を便宜的に使っている。.

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ケントゥリア

ントゥリア(Centuria)は、「百」から派生した、「百(人)の集まり」を表すラテン語。古代ローマ時代には、軍事単位(「百人隊」)や政治単位(「百人組」)などとして用いられた。英語のセンチュリー (Century) やフランス語のサンチュリ (Centurie) は、この語から派生したものである。王政ローマから帝政ローマに至るまで社会制度、あるいは軍事制度として存在していたため、その定義は時代によって差異が生じる。とくにマリウスの軍制改革前後などで大きな差異が見られ、構成人数や集団の呼称も多少異なる。.

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ザマの戦い

マの戦い(ザマのたたかい、英語:Battle of Zama)は、紀元前202年10月19日に北アフリカのザマで起こったローマ軍とカルタゴ軍の戦いである。大スキピオ率いるローマ軍がハンニバル率いるカルタゴ軍を破り、第二次ポエニ戦争の趨勢を決した。.

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シュファクス

ュファクス(Syphax、紀元前3世紀頃)は、ヌミディアの西王国マサエシュリの王。シファチェともいう。 シュファクスが即位した当初、ヌミディアはローマと同盟を結んでいたが、第二次ポエニ戦争が始まると、妻のの進言によってカルタゴと手を組んだ。ソフォニスバはカルタゴの将軍ハスドルバル・ギスコの娘である。 ローマ軍の司令官大スキピオがアフリカに上陸すると、ヌミディア・カルタゴの同盟軍は大敗し、シュファクスは捕虜となった。ローマ軍はヌミディアを制圧し、ローマの後見を得たヌミディア東王国マッシュリの王マシニッサが全ヌミディアの王となった。大スキピオは、捕らえたシュファクスをローマに送り、彼は紀元前203年あるいは紀元前202年にローマで死んだ。 チュニジアの都市スファックス(Sfax)は、彼の名前が由来である。.

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スキピオ・アフリカヌス

プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨル(Publius Cornelius Scipio Africanus Major, 紀元前236年 - 紀元前183年頃)は、共和政ローマ期の軍人、政治家。元老院議員。スキピオ・アフリカヌスと称され、妻の甥で義理の孫に当たるスキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ)と区別して大スキピオとも呼ばれる。第二次ポエニ戦争後期に活躍し、カルタゴの将軍ハンニバルをザマの戦いで破り戦争を終結させた。グラックス兄弟の外祖父にあたる。.

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共和政ローマ

共和政ローマ(きょうわせいローマ)は、紀元前509年の王政打倒から、紀元前27年の帝政の開始までの期間の古代ローマを指す。 この時期のローマは、イタリア中部の都市国家から、地中海世界の全域を支配する巨大国家にまで飛躍的に成長した。帝政成立以後ではなく地中海にまたがる領域国家へと発展して以降を「ローマ帝国」と呼ぶ場合もある。また、1798年に樹立されたローマ共和国 (18世紀)、1849年に樹立されたローマ共和国 (19世紀)と区別するために「古代ローマ共和国」と呼ばれることもある。.

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第二次ポエニ戦争

ハンニバル ハンニバルの進軍路 アルプス山脈を越えるハンニバルの軍 第二次ポエニ戦争(だいにじポエニせんそう、Secundum Bellum Punicum)は、共和政ローマとカルタゴとの間で紀元前219年から紀元前201年にかけて戦われた戦争。ローマ、カルタゴ間の戦争はカルタゴの住民であるフェニキア人のローマ側の呼称からポエニ戦争と総称されるが、この戦争は全3回のポエニ戦争の2回目にあたる。 またこの戦争において、カルタゴ側の将軍ハンニバル・バルカはイタリア半島の大部分を侵略し、多大な損害と恐怖をローマ側に残したため、この戦争はハンニバル戦争とも称される。.

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紀元前203年

紀元前203年.

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翼包囲

両翼包囲の典型であるカンナエの戦い。カルタゴ軍翼端の騎兵が、ローマ軍翼端騎兵を撃破。その後、カルタゴ歩兵も左右からローマ軍主力を包囲しつつある。 翼包囲(よくほうい)とは、陸戦の戦術の一種で、自軍の部隊のうち左右に展開した一部(翼)を、対峙する敵軍の側面から回り込むように機動させ、中央の部隊と協力して多方面から攻撃(包囲)することである。野戦において行われる。特に、左右から同時に部隊を移動させて挟み込むように包囲する場合を、両翼包囲(英:double envelopment)と呼ぶ。対して、左右いずれかの翼端のみから部隊を回り込ませることは、片翼包囲・一翼包囲と呼ばれる。 翼包囲が成功した場合、敵軍を多方面から、特に弱点である側面や後方から攻撃することができ、有利となる。全周包囲に成功した場合、敵軍の退却を阻止して全滅的な損害を与えることも可能である。もっとも、全周包囲は敵軍の必死の抵抗を誘ってしまうおそれもあるので、あえて退路は残す程度の包囲を狙うこともある。 古くから会戦における戦術として用いられてきた。紀元前3世紀のカンナエの戦いでは、ハンニバル率いるカルタゴ軍が両翼包囲を成功させ、全周包囲でローマ軍を殲滅した。日本の戦国時代でも、翼包囲を意図した陣形である鶴翼の陣がしばしば用いられた。 翼包囲による攻撃を受けそうになった側の対抗策としては、自軍も左右に部隊を展開させて、回り込もうとする相手方の翼を阻止する方法(延翼)や、一点を集中攻撃して包囲陣形を攻め破る方法(突破)などがある。回り込まれそうな側の翼を、後方に折れ曲がるように配置したり(鉤形陣)、斜めに後退させて配置したり(斜行陣)することで、側面の防御力を高め、包囲機動を行おうとする相手方の翼部隊に逆襲する方法も考案された。.

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203年

記載なし。

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