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バグダードの戦い

索引 バグダードの戦い

バグダードの戦い(英:Battle of Baghdad سقوط بغداد)、あるいは「バグダッド包囲戦」(英:Siege of Baghdad)は、1258年にチンギス・ハーンの孫にあたるフレグ率いるモンゴル帝国と当時世界で最も栄華を誇っていたと言われるイスラム帝国アッバース朝との間に起こった包囲戦である。モンゴル軍によって攻略されたバグダードは徹底的に破壊され、市内に存在していた知恵の館や数々の図書館に収蔵されていた何十万冊もの大量の学術書はモンゴル軍によって燃やされるか、または、川に捨てられた。これによってメソポタミア文明ならびにイスラム文明が築いた多くの文化遺産が地上から消失した。ムハンマドによるイスラム開教(610年)から連綿と続いていた「カリフ」の系統も殺されて途絶え、市民は皆殺しにされ、その後数世紀間にわたって当地は無人の廃墟となった。.

91 関係: 大量虐殺天文学学術出版宮殿中国人世界征服者の歴史平凡社平凡社ライブラリー建築物佐口透ペリクレスペルシアペンギン・グループナスィールッディーン・トゥースィーマムルーク朝マルコ・ポーロマンスールチンギス・カンチンギス・カンの西征チグリス川ハマダーンハムドゥッラー・ムスタウフィー・カズヴィーニーハーンバーミヤーンバトゥバイジュ (モンゴル部)バグダードムハンマド・イブン=アブドゥッラーフムスタアスィムメルブ遺跡メソポタミアモンケモンゴルのルーシ侵攻モンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻モンゴル帝国モスクモスクワラシードゥッディーンリャザンワッサーフトルコヘラートブリタニカ百科事典フレグフレグの西征ニザール派アリストテレスアルメニアアンティオキア公国アッバース朝...アッラーフアブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソンアテネアイン・ジャールートの戦いイラクイスラム世界イスラム教ウラジーミル (ウラジーミル州)ウルゲンチエジプトオゴデイカリフカタパルト (投石機)キエフザ・ニューヨーカージュヴァイニージョチ・ウルスジョージア (国)ジェベスブタイタタールスタン共和国サマルカンドサーマッラー前嶋信次図書館知恵の館病院郭侃薬学集史東洋文庫 (平凡社)東方見聞録核兵器歴史書本田実信文化遺産攻城兵器攻城戦愛宕松男1258年1973年 インデックスを展開 (41 もっと) »

大量虐殺

大量虐殺(たいりょうぎゃくさつ、英: genocide)とは、人間を意図的に大量に虐殺すること。「虐殺」は国際法で規定されているが、一般報道ではきわめて曖昧に使われている。 一般的に、1つの人種・民族・国家・宗教などの構成員に対する計画的大量虐殺等の行為は、ジェノサイドと言い、その一部はジェノサイド条約において集団殺害罪(国際法違反)として規定されている。 日本トラウマティック・ストレス学会「」2007年12月19日。そのストレスのためにその大量虐殺がなかったことにしようという心理が働いたり、不合理な理屈で納得しようとしたりすることがある。たとえば、.

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天文学

星空を観察する人々 天文学(てんもんがく、英:astronomy, 独:Astronomie, Sternkunde, 蘭:astronomie (astronomia)カッコ内は『ラランデ歴書』のオランダ語訳本の書名に見られる綴り。, sterrenkunde (sterrekunde), 仏:astronomie)は、天体や天文現象など、地球外で生起する自然現象の観測、法則の発見などを行う自然科学の一分野。主に位置天文学・天体力学・天体物理学などが知られている。宇宙を研究対象とする宇宙論(うちゅうろん、英:cosmology)とは深く関連するが、思想哲学を起源とする異なる学問である。 天文学は、自然科学として最も早く古代から発達した学問である。先史時代の文化は、古代エジプトの記念碑やヌビアのピラミッドなどの天文遺産を残した。発生間もない文明でも、バビロニアや古代ギリシア、古代中国や古代インドなど、そしてイランやマヤ文明などでも、夜空の入念な観測が行われた。 とはいえ、天文学が現代科学の仲間入りをするためには、望遠鏡の発明が欠かせなかった。歴史的には、天文学の学問領域は位置天文学や天測航法また観測天文学や暦法などと同じく多様なものだが、近年では天文学の専門家とはしばしば天体物理学者と同義と受け止められる。 天文学 (astronomy) を、天体の位置と人間界の出来事には関連があるという主張を基盤とする信念体系である占星術 (astrology) と混同しないよう注意が必要である。これらは同じ起源から発達したが、今や完全に異なるものである。.

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学術出版

学術出版(がくじゅつしゅっぱん)は、学術的研究を出版すること。 理系では学術雑誌での発表が中心であり、書籍の比重は大きくない。一方、人文科学、社会科学などの文系では、書籍の重要度は高い。.

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宮殿

イタリア共和国カンパニア州 宮殿(きゅうでん)は、王族、皇族などの君主およびその一族が居住する、もしくは居住していた御殿。君主が政務や外国使節の謁見、国家的な儀式などを行う朝廷部分と、君主が私的な生活を行う宮廷(きゅうてい)部分に分かれる。中世ヨーロッパにおいては戦士階級と世俗君主階級が一体化していたため、城壁に囲まれた城砦の中に国王や領主が居住し、君主が住み政治的機能を有する城砦を宮殿と同時に呼ぶことが一般的であった。しかし、時代の変遷とともに城砦形式の有効性が低下したことなどから、防衛機能より見た目の豪華さ、壮大さや居住性を重視して、都市の中に建設されるようになった。ヨーロッパ大陸諸国では都市の中に建てられた貴族の壮麗な邸宅を指すことがある。ヨーロッパ諸語における「Palace(英)」、「Palast(独)」「 Palais(仏)」、「Palazzo(伊)」という表現は、古代ローマのローマの七丘の一つである「Palatinus Mons(パラティーノ)」に由来する。この丘にローマ貴族の多くが邸宅を建て、初代皇帝も居住したからである。 日本においては戦士階級(武士)に対して、天皇の形式上の地位が保たれていたことから、天皇の住居のみが宮殿と呼ばれ、武士の住居および軍事的基地である城砦とは明確に区別される。日本語の「御所」は「宮殿」と共に英語のPalaceに意味が近い。イタリア語のPalazzoは宮殿というより単に大邸宅を指す語となっている。.

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中国人

中国人(ちゅうごくじん)とは、ユーラシア大陸東部に存在する地域としての中華圏、またはそれに根ざした国家、民族などにまつわる多数の意味を持つ広範な概念上の呼称であり、さまざまな場所、あるいは立場上により全て異なる概念になることがある。.

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世界征服者の歴史

『世界征服者の歴史』(せかいせいふくしゃのれきし、ペルシア語: تاريج جهانگشاء Ta'rīkh-i Jahān-gushā'/Ta'rīkh-i Jahān-gushā'ī)とは、『集史』などと並び、モンゴル帝国を語る上で重要な歴史書。モンゴル帝国の政治家・歴史家のジュヴァイニー(ジュワイニー)によって1260年に完成された。全3巻。原名はペルシア語でタリーヒ・ジャハーン・グシャー(イー)(Tārīkh-i Jahān-gushā(ī))という。 1252年、のちにイルハン朝を創設するフレグの命令でモンゴル帝国の首都カラコルムのモンケの宮廷に派遣されたジュヴァイニーは、モンゴル帝国の広大さに衝撃を受けるとともに、その成立までの過程に関心を抱いた。そして友人からの勧めもあり、モンゴル帝国成立に至る歴史書の執筆を始めたのであった。途中、バグダードの戦いへの参戦とバグダード陥落後のバグダード太守任命などを経て、1260年に完成した。.

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平凡社

株式会社平凡社(へいぼんしゃ)は、日本の出版社。百科事典の出版社として有名で、多様な一般書のほか岩波書店、筑摩書房と並んで学術・教養性の強い出版物を多く刊行する。現在も継続刊行中の東洋文庫(1963年創刊)、『別冊 太陽』(1972年創刊)などは歴史が古い。社名の「平」の字は、厳密には二つの点が末広がりになった旧字体「」を用いる(大正末期創業のため)。.

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平凡社ライブラリー

平凡社ライブラリー(へいぼんしゃライブラリー)は、平凡社が刊行する叢書レーベルである。.

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建築物

ラダ・ファミリア教会(バルセロナ) ヴィルーパークシャ寺院(インド・パッタダカル) ノートルダム大聖堂(パリ) 姫路城 シャンボール城(フランス・シャンボール) シアトル中央図書館(アメリカ) 建築物(けんちくぶつ)は、建築された物体。建築された構造物。 建築物は使用目的によって形態が異なるほか構造体も異なる職業訓練教材研究会『二級技能士コース 塗装科 選択・建築塗装法』2005年、189頁。建築物は工学で扱われる対象であると同時に芸術的現象としての側面も有する。.

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佐口透

佐口 透(さぐち とおる、1916年6月20日 - 2006年11月13日)は、日本の歴史学者。金沢大学名誉教授。東トルキスタンの研究で知られる。.

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ペリクレス

ペリクレス ペリクレス(Περικλῆς、紀元前495年? - 紀元前429年)は、古代アテナイの政治家であり、アテナイの最盛期を築き上げた重鎮として有名である。また、彼と愛人アスパシアとの間に生まれた庶子で、後に軍人になったと区別して大ペリクレスとも呼ばれる。 ペリクレスの父は紀元前479年のミュカレの戦いの指揮官クサンティッポス、母はクレイステネスの姪であり、アナクサゴラスの弟子でもあった。 紀元前462年、ペリクレスは貴族派のキモンが出征中の不在を狙って、民主派のとともにアレオパゴス会議の実権を奪って、全アテナイ市民による政治参加を促進した。翌年、キモンが陶片追放によって正式に国外追放されると、以後アテナイの最高権力者の地位を独占した。前444年から430年までの15年間、ペリクレスは毎年連続ストラテゴス=「将軍職」に選出され、アテナイに全盛時代をもたらした。また、キモンが古来からの領地による富の再配分を行なっていたのに対し、ペリクレスは自ら積極的にアゴラでの売買を行ない、アテナイが商業的なアゴラを推進するきっかけともなった。 この頃、ペルシア戦争に勝利したアテナイは全盛時代を迎えていた。大国ペルシアの脅威が薄れると、デロス同盟の盟主であったアテナイはその同盟資金を自己の繁栄のために流用するようになった。デロス同盟は対ペルシア防衛機関という本来の主旨を失い、いわゆる「アテナイ帝国」を支える機関へと変質を遂げていたのである。ペリクレスはデロス島において管理していた同盟資金をアテナイでの管理に移し、パルテノン神殿などの公共工事に同盟資金を積極的に流用しアテナイ市民の懐を潤した。 アテナイが同盟内のポリスに対して専制的に振る舞うようになると、同盟から離脱しようとするポリスとの間に対立が生じるようになる。また、ペルシア戦争の勝利に大きな貢献をしたもう一つの有力ポリススパルタもアテナイの動きを冷ややかに見ていた。 スパルタがデロス同盟から離反したポリスを支援するようになると、紀元前431年、両者の間に戦争が勃発した(ペロポネソス戦争)。ペリクレスは強力なスパルタ陸軍に対し籠城策をとり、海上決戦の機会を狙っていたが、翌年城内に伝染病が発生したことで多くの市民が犠牲となって急速に市民の支持を失い、自らも病に罹って没した。この時に取った戦争方針から「防御的な行動で敵の疲弊を待ち、現状維持を狙う戦略」をペリクレス戦略と呼ぶことがある。 ペリクレスは弁舌に優れた政治家であった。格調高いペリクレスの演説は現代にまで伝えられ、欧米の政治家の手本となっている。 1954年に発行されたギリシャの旧50ドラクマ紙幣の肖像に使用されている。.

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ペルシア

ペルシア、ペルシャ(ギリシャ語 Περσία)は、現在のイランを表す古名である。漢名は波斯(はし)・波斯国(はしこく)。波斯と書いてペルシャ、ペルシヤと読ませることもある。イランの主要民族・主要言語の名称でもある。.

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ペンギン・グループ

ペンギン・グループ (Penguin Group) は、ロンドンに本社を置く出版社である。アレン・レーンによって1935年に創業、1970年にピアソンが買収した。 イギリスやアイルランドの他、北米や中華人民共和国などにも事業部を置く。その中で、イギリスで展開しているものがペンギンブックス (英語版)である。多くの会社を吸収合併している。 代表的なブランドはPenguin Graded Readers(ペンギンリーダーズ)と呼ばれるレベル分けされた英語教本である。Penguin ClassicsはOxford World's Classicsとともに古典的良書を刊行することで有名。ペーパーバック版の辞書Penguin Pocket Dictionaryも発行している。 ランダムハウスなどと並ぶ大手の一角に数えられるが、そのランダムハウスと2013年に合併し、現在はペンギン・ランダムハウス社の傘下となっている。.

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ナスィールッディーン・トゥースィー

ナスィールッディーン・トゥースィー(ペルシア語: محمد بن محمد بن حسن طوسی Muḥammad ibn Muḥammad ibn Ḥasan Ṭūsī アラビア語: ナスィールッディーン・アッ=トゥースィー Naṣīr al-Dīn Abū Ja‘far Muḥammad b. Muḥammad b. Ḥasan al-Ṭūsī、 نصير الدين ابو جعفر محمد بن محمد بن حسن الطوسي 1201年2月18日 –1274年6月25日)はシーア派を代表するペルシャ人 の神学者である。またイブン・スィーナーら系譜に連なる逍遥学派の中興の祖と目される哲学者であり、数学者、天文学者であり、13世紀のイスラーム世界を代表する偉大な学者である。トゥースィーはイランのホラーサーン地方のトゥース生まれの人物を示す呼称で多くの学者がトゥースィー(アラビア語でアル=トゥースィー at-Tûsî)と呼ばれている。また「学識者トゥースィー」 محقِّقِ طوسى muḥaqqiq-i Ṭūsī、ホージャ・ナスィール・トゥースィーخواجه نصير طوسى Khwāja Naṣīr Ṭūsī、「人類の師」 استادِ بشر Ustād-i Bashar などの尊称で呼ばれて来た。 Nasir al-Din Tusi.

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マムルーク朝

マムルーク朝(マムルークちょう、دولة المماليك Dawla al-Mamālīk)は、エジプトを中心に、シリア、ヒジャーズまでを支配したスンナ派のイスラム王朝(1250年 - 1517年)。首都はカイロ。そのスルターンが、マムルーク(奴隷身分の騎兵)を出自とする軍人と、その子孫から出たためマムルーク朝と呼ばれる。一貫した王朝ではあるが、いくつかの例外を除き王位の世襲は行われず、マムルーク軍人中の有力者がスルターンに就いた。.

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マルコ・ポーロ

マルコ・ポーロ(Marco Polo、1254年 - 1324年1月9日)は、ヴェネツィア共和国の商人であり、ヨーロッパへ中央アジアや中国を紹介した『東方見聞録』(写本名:『イル・ミリオーネ (Il Milione)』もしくは『世界の記述 (Devisement du monde)』) を口述した冒険家でもある。.

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マンスール

アブー・ジャアファル・アブドゥッラー・イブン・ムハンマド・アル=マンスール(ابو جعفر عبد اﷲ ابن محمد المنصور、 Abū Jaʻfar ʻAbd Allāh ibn Muḥammad al-Manṣūr、712年ラガッツ「マンスール」『世界伝記大事典 世界編』10巻、516-517頁/13年?太田「マンスール」『岩波イスラーム辞典』、940-941頁森本「マンスール」『新イスラム事典』、468頁/14年 - 775年10月7日)は、アッバース朝の第2代カリフ(在位:754年 - 775年)。即位後に用いた称号(ラカブ)の「アル=マンスール」は「勝利者小杉泰『イスラーム帝国のジハード』(興亡の世界史, 講談社, 2006年11月)、205-207頁」「神の助けを受ける者」を意味する。漢語史料での表記は「阿蒲恭払」。 アブー・ジャアファルは預言者ムハンマドの叔父アッバースの4代目の子孫にあたる。747年からのアッバース革命で戦果を挙げ、754年に異母弟サッファーフの跡を継いでカリフの地位に就き、「アル=マンスール」を称した。即位したマンスールはウマイヤ朝の官僚制度と地方行政機関を踏襲・整備し、新都バグダードを中心に国家体制を構築していく。マンスールの治世にアッバース朝の支配体制が確立され、そのために彼は王朝の実質的な創始者と見なされている。10世紀末までのアッバース朝の黄金時代の基盤はマンスールの時代に完成したとされ佐藤「マンスール」『アジア歴史事典』8巻、393-394頁、最大の功績にはアッバース朝の首都バグダードの建設が挙げられる。西アジア世界においては、孫のハールーン・アッ=ラシードとともによく知られているアッバース朝のカリフである。 マンスール以降に即位したアッバース朝のカリフは、全て彼の直系子孫であるヒッティ『アラブの歴史』、552頁前嶋『イスラム世界』、187頁。.

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チンギス・カン

チンギス・カン(モンゴル語:、キリル文字:Чингис хаан、ラテン文字化:Činggis Qan または Činggis Qa'an、漢字:成吉思汗、1162年5月31日 - 1227年8月25日)は、モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年 - 1227年)。 大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。 死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神と崇められ、現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている一般的に1162年説が流布しているが、これは『元史』太祖本紀などに「(太祖二十二年)秋七月壬午、不豫。己丑、崩于薩里川哈老徒之行宮。(中略)壽六十六。」とあり(太祖二十二年秋七月己丑=1227年8月25日)、ここから逆算したものである。1155年説については、主にイルハン朝でガザン、オルジェイトゥの勅命によって編纂された『集史』などに基づくもので、同書「チンギス・ハン紀」では「彼の誕生した時は、ブタの年(亥年)であるヒジュラ暦549年であり、ズー=ル=カアダ月に起きたことであった」" az waqt-i walādat-i ū az ibtidā'-yi Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast, muwāfiq-i shuwūr-i sanna-yi tis`a wa arba`īna wa khamsa-mi'a Hijrī ki dar māh-i Dhī al-Qa`da wāqi` shuda …(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.309)"(1155年1月6日 - 2月4日)とあり、『元朝秘史』と同じくこれが父イェスゲイによるタタル部族への遠征とその首長コリ・ブカ(Qūrī Būqā)とテムジン・ウゲ(Tamūjīn Ūka)捕縛の年であったことが説明されている(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.310)。また没年も「ブタの年(Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast)」であり「彼の生涯は72年間であり、73年目に逝去した」"muddat-i `umr-i ū haftād u du sāl būda, wa dar sāl-i haftād u siyyum wafāt yāfta." とあり、生没年が同じ「ブタの年」であったと述べる(没年である1227年は実際に丁亥年である)。『集史』の後に編纂されたイルハン朝時代の他の歴史書でもこの生年の情報は踏襲されたようで、例えば『バナーカティー史』(アブー・サイード即位の1317年まで記述)では「ブタの年であるヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月」(1155年1月6日 - 2月5日)、同じくムスタウフィー・カズヴィーニーの『選史』(1330年)ではもう少し詳しく「ヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月20日」(1155年1月25日)とする。一方、1167年については、『聖武親征録』諸本のひとつに1226年(丙戌年)の記事において「上年六十」とするものがあることから(王国維の校訂では「六十五」に改める)ここから逆算してこの年時としている。他の資料の年代としては、1221年にムカリ国王の宮廷を訪れた南宋の使節、珙の撰(王国維の研究により著者は趙珙と校正された)による『蒙韃備録』では「今成吉思皇帝者甲戌生彼俗…」とあり、甲戌、すなわち1154年とする。このようにチンギス・カンの生年の年代については資料によって様々であり、多くの学説が立てられ現在でも結論が出ていない。元朝末期の陶宗儀編『南村輟耕録』において元朝末から明朝初の文人・楊維禎(1296年 - 1370年)の言として「太祖の生年は宋の太祖の生年である丁亥と干支を同じくする」(四部叢刊本 第三巻 「正統辯」 第六葉「宋祖生于丁亥而建國于庚申。我太祖之降年與建國之年亦同…」)というようなことを述べており、清朝末期の学者洪鈞は丁亥年すなわち1167年ではなく乙亥年の誤り、つまり、『集史』その他の西方資料にあらわれるものと同じ1155年に比定する説を唱えた。この説は『新元史』の著者忞(かしょうびん)や『蒙兀児史記』の著者屠寄など当時の学者たちの賛同を得た。しかし、フランスの東洋学者ポール・ペリオは、それならばこの場合、楊維禎の言に従い丁亥年すなわち1167年とした方が良く、この丁亥年説であればチンギスの生涯における諸事件の年月日とよく合致し、チンギス・カンは1167年に生まれ、1227年に60歳、『聖武親征録』のいう数え年61歳で死んだと考えた方が妥当であろう、と述べている。『元朝秘史』には生年についての情報は載っていない。。.

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チンギス・カンの西征

チンギス・カンの西征は、13世紀にモンゴル帝国によって行われた征服戦争。1219年から1223年までの一連の戦闘によってモンゴル帝国は飛躍的に領土を広げ、1225年に帰還した。.

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チグリス川

バトマン川 チグリス川、またはティグリス川()は西アジアでユーフラテス川とともにメソポタミアを形作る大河。ユーフラテス川の東側を流れている。この川は南東トルコの山岳地帯から南に流れ、シリア、イラクを通過してペルシア湾に注ぎ込む。.

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ハマダーン

ハマダーン(; Hamadān、古代ペルシア語:Hagmatana、古代ギリシア語:Ecbatana)は、イランのハマダーン州の都市である。ハマダーン州の州都である。人口は、550,284人(2005年推計値)である。 イラン最古の都市であり、世界的にも最古の都市のひとつである。かつてのメディア王国の首都、エクバタナ(ハグマターナ)である。 ハマダーンはイラン中西部に位置し、アルヴァンド山(標高:3,574m)の麓、緑に囲まれたの山岳地帯にあり、平均標高は1,850mである。 ハマダーンがもつ古都の風情や史跡の数々は夏の間この町に旅行者を惹きつける。テヘランからは南西約360kmの距離に位置する。.

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ハムドゥッラー・ムスタウフィー・カズヴィーニー

ハムドゥッラー・ムスタウフィー廟、ガズヴィーン、イラン ハムドゥッラー・ムスタウフィー・カズヴィーニー (1281–1349; Ḥamd Allāh Mustawfī Qazvīnī) は、イルハン朝時代のペルシア人の歴史家、地理学者、叙事詩人。代表作としては、散文の世界史『選史』Tārīkh-i Guzīda(تاريخ گزيده)、フェルドウスィーの『シャー・ナーメ』に倣った大部の韻文による世界史『勝利の書』Ẓafar-Nāmah(ظفرنامه)、、および世界誌『心魂の歓喜』 Nuzhat al-Qulūb (نزهه القلوب)、の三作品が著名である。また、故地のカズヴィーン(近代ペルシャ語読みでガズヴィーン)にはムスタウフィーの霊廟が残るが、青いトルコ石に似た淡い青色釉薬タイルで装飾された円錐形ドーム屋根が特徴的である。なお、名前はハムドゥッラー(حمدالله Ḥamd Allāh)ではなくハムド(حمد Ḥamd)であった可能性もある。 ペルシャ人については預言者ムハンマドの発言とされる伝承を引いて以下のようなことを述べている。.

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ハーン

ハーン(可汗、合罕、qaġan/qaγan、khaan)は、北アジア、中央アジア、西アジア、南アジアにおいて、主に遊牧民の君主や有力者が名乗る称号。古い時代の遊牧民の君主が名乗った称号カガン(古テュルク語: - qaġan/qaγan)はその古形である。.

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バーミヤーン

バーミヤーン地域 バーミヤーンの子どもたち バーミヤーン(باميان Bāmiyān)は、アフガニスタンのほぼ中央部、カーブルの北西約240 kmに位置する、バーミヤーン州の州都である。人口は73,200人(2006年の公式推計)。バーミヤーンはハザラジャート最大の都市で、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されているバーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群で知られる。発音の転訛により、「バーミアーン」などとも表記される。.

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バトゥ

バトゥ (Batu, 1207年 - 1256年) は、ジョチ家の2代目(ハン:在位1225年 - 1256年)で、キプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)の実質的な創設者。チンギス・カンの長男ジョチの次男である。漢語では抜都、巴禿、八都罕。ペルシア語ではباتو bātūと書かれる。カナ表記ではバツ、バト。.

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バイジュ (モンゴル部)

バイジュ(Baiju, ? - 1259年?)は、13世紀中期に活躍したモンゴル帝国の将軍。『世界征服者史』『集史』ではバイジュ・ノヤン بايجو نويان Bāyjū Nūyān と呼ばれている。漢語資料では拝住。また『集史』ベスト部族誌、スニト部族誌などによるとバイジュはモンゴル部の一派ベスト(ベスート)氏族に属し、ジェベの同族であるという。.

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バグダード

バグダード(/ラテン文字表記:Baghdad, Baġdād)は、イラクの首都で同国最大の都市。また、バグダード県の県都でもある。アッバース朝によって建設された古都であり、中東諸国ではイスタンブール、テヘランに次ぐ大都市である。2005年の人口はおよそ590.4万人。日本語では多くの場合バグダッドと表記されるが、アラビア語の綴りと発音(bæɣˈdæːd)に近づけるとバグダードという表記になる。 バグダードは、2003年3月のイラク戦争でアメリカ合衆国・イギリス両国を主力とする軍の攻撃を受け、同年4月に制圧されたのち、連合国暫定当局(CPA)本部が置かれた『日本大百科全書』(2004)原隆一執筆分。その後、2004年6月にはイラク暫定政権への主権移譲がなされ、イラク移行政府を経て2006年にはイラク正式政府が成立し、現在に至っている。.

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ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ

ムハンマド(محمد、Muḥammad、570年頃 - 632年6月8日)は、イスラム教の開祖、軍事指導者、政治家。アラビア半島中西部、ヒジャーズ地方の中心都市メッカの支配部族であるクライシュ族出身で、その名門ハーシム家のひとり。イスラム教では、モーセ(ムーサー)、イエス(イーサー)その他に続く、最後にして最高の預言者(ナビー)でありかつ使徒(ラスール)とみなされている。また世俗君主・軍人としても有能であり、アラビア半島にイスラム国家を打ち立てた。.

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ムスタアスィム

ムスタアスィム( al-Musta‘ṣim bi-Allāh Abū Aḥmad ‘Abd Allāh、1213年 - 1258年2月21日)は、バグダード・アッバース朝最後(第37代)のカリフ(在位:1242年 - 1258年)。ムスタンスィルの息子。「ムスタアスィム・ビッラー」とはアラビア語で「アッラーにかけて固守する」の意味。.

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メルブ遺跡

メルブ(ペルシア語: مرو Merv/Marw, Mary)とは、トルクメニスタンのカラクム砂漠の中にある、中央アジア最大の遺跡。トルクメニスタンではマル(またはマルイ、マリイ)と呼ばれている。1999年、トルクメニスタン初の世界遺産に登録された。 もとはホラーサーン地方の中心都市のひとつで、シルクロードのオアシス都市として栄えた。人口は100万人に達したといわれる。 なお榎一雄は南北朝時代の梁の職貢図に記載された「未国」をメルブと比定する説を提出している。なおメルブには仏教が伝播しており(後述)、また梁の武帝・蕭衍は、仏教信徒としても高名で「皇帝菩薩」と呼ばれていたため、仏教を通じた交流も考えられる。.

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メソポタミア

メソポタミアに関連した地域の位置関係 メソポタミア(、ギリシャ語で「複数の河の間」)は、チグリス川とユーフラテス川の間の沖積平野である。現在のイラクの一部にあたる。 古代メソポタミア文明は、メソポタミアに生まれた複数の文明を総称する呼び名で、世界最古の文明であるとされてきた。文明初期の中心となったのは民族系統が不明のシュメール人である。 地域的に、北部がアッシリア、南部がバビロニアで、バビロニアのうち北部バビロニアがアッカド、下流地域の南部バビロニアがシュメールとさらに分けられる。南部の下流域であるシュメールから、上流の北部に向かって文明が広がっていった。土地が非常に肥沃で、数々の勢力の基盤となったが、森林伐採の過多などで、上流の塩気の強い土が流れてくるようになり、農地として使えない砂漠化が起きた。 古代メソポタミアは、多くの民族の興亡の歴史である。 例えば、シュメール、バビロニア(首都バビロン)、アッシリア、アッカド(ムロデ王国の四つの都市のひとつ)、ヒッタイト、ミタンニ、エラム、古代ペルシャ人の国々があった。古代メソポタミア文明は、紀元前4世紀、アレクサンドロス3世(大王)の遠征によってその終息をむかえヘレニズムの世界の一部となる。.

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モンケ

モンケ(Möngke、、 1209年1月10日 - 1259年8月11日)は、モンゴル帝国の第4代皇帝(カアン、大ハーン)(在位1251年7月1日 - 1259年8月11日)。漢字表記は蒙哥、蒙哥皇帝で、ペルシア語表記では منگو قاآن (mankū qā'ān) または مونگكه قاآن (mūngke qā'ān) 。元から贈られた廟号は憲宗、諡は桓粛皇帝。モンケ(メンゲ)という名は、中世モンゴル語で「永遠」を意味する。チンギス・ハーンの四男トルイとその正妃ソルコクタニ・ベキの長男。子にシリギがいる。.

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モンゴルのルーシ侵攻

モンゴルのルーシ侵攻(モンゴルのルーシしんこう)は、1223年のカルカ河畔の戦いに始まり、1236年のバトゥの西征で本格化する、ルーシ諸国に対するモンゴル帝国の征服戦争である。 1223年のカルカ河畔の戦いでは、スブタイとジェベのモンゴル軍偵察隊にルーシ諸侯やキプチャク(クマン人)連合軍が挑み、ルーシ・キプチャク連合軍が大敗したが、モンゴル軍はルーシの征服は行わず東へ去っていった。その十数年後、バトゥは征西のために大軍を率いてルーシおよびヨーロッパへの大規模侵攻を開始する。これに対し、キエフ大公国の分裂後のルーシを割拠するノヴゴロド公国、ウラジーミル・スーズダリ大公国、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国などが戦ったが、結果はルーシ諸国の大敗に終わり、ルーシの人口に甚大な被害が出た。人口の半分を失う結果になったという見方もあれば、犠牲者は50万人ほどという見方もある。 また東ヨーロッパの歴史にも大きな影響を与えた。東スラヴ人はモンゴル侵攻後の各地方で異なる道を歩み、ロシア人・ウクライナ人・ベラルーシ人の民族の違いがはっきりとするようになった。ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の属国と化して「タタールのくびき」に苦しむルーシ諸国の中からはトヴェリ大公国やモスクワ大公国といった新興勢力が現れるようになった。.

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モンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻

モンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻は1223年に始まった。この時はモンゴルを退けたヴォルガ・ブルガールであったが、1236年のバトゥによる征西軍による攻撃では主要都市を破壊され大打撃を受けた。.

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モンゴル帝国

モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが1206年に創設した遊牧国家。中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス ( Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。 モンゴル帝国の創始者チンギス・カンと『四駿四狗』やその他の後継者たちはモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた。最盛期の領土面積は約3300万km²で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は1億人を超えていた。三大洋全てに面していた。 モンゴル帝国は、モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)を中心に、各地に分封されたチンギス・カンの子孫の王族たちが支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなした。 中国とモンゴル高原を中心とする、現在の区分でいう東アジア部分を統治した第5代皇帝のクビライは1271年に、大都(現在の北京)に遷都して緩やかな連邦と化した帝国の、モンゴル皇帝直轄の中核国家の国号を大元大モンゴル国と改称するが、その後も皇帝を頂点とする帝国はある程度の繋がりを有した。この大連合は14世紀にゆるやかに解体に向かうが、モンゴル帝国の皇帝位は1634年の北元滅亡まで存続した。また、チンギス・カンの末裔を称する王家たちは実に20世紀に至るまで、中央ユーラシアの各地に君臨し続けることになる。.

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モスク

モスク(mosque)は、イスラム教の礼拝堂のことである。 アラビア語ではマスジド(, masjid, 「ひざまずく場所」(サジダ を行う場所)の意)といい、マスジドの訛った語で、イスラーム帝国がスペイン地方を占領したときマスジドがスペイン語でメスキータ (mezquita) となり、それが英語ではさらに訛ってモスク (mosque) となった。中国ではモスクを清真寺(せいしんじ、清真はイスラム教の中国での通称)と呼んでいる。 モスクは欧米、日本、韓国などにおける呼び名である。しばしばイスラーム寺院または回教寺院と訳されるが、モスクの中には崇拝の対象物はなく、あくまで礼拝を行うための場である。.

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モスクワ

モスクワ(ロシア語:Москва́ IPA: マスクヴァー、)は、ロシア連邦の首都。連邦市として市単独でロシア連邦を構成する83の連邦構成主体のひとつとなっており、周囲を占めるモスクワ州の州都でもある。ただし州とは区別され「モスクワ市」(Город Москва)となる。人口は約1150万人でヨーロッパで最も人口の多い都市であり、世界有数の世界都市である。漢字による当て字は莫斯科。英語で発音した場合には、モスコーあるいはモスカウ(Moscow )のようになる。.

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ラシードゥッディーン

ラシードゥッディーン・ファドゥルッラーフ・アブル=ハイル・ハマダーニー()(Rashīd al-Dīn Faḍl Allāh Abū al-Khayr Hamadānī)、, 生没年1249年 - 1318年)はイルハン朝後期、第7代君主ガザンから次代オルジェイトゥ、アブー・サイード治世のもとで活躍した政治家。ガザンとオルジェイトゥの命によって編纂されたペルシア語による世界史『集史』の編纂責任者であったことでも知られている。また、ユネスコの「世界の記憶」に2007年登録された「ラシード区ワクフ文書補遺写本作成指示書」の大部分(382ページ中の最初の290ページ)を著作している。イランの歴史上、「ハージャ・ラシードゥッディーン」 خواجه رشیدالدین Khwāja Rashīd al-Dīn、「医師ラシードゥッディーン」 رشیدالدین طبیب Rashīd al-Dīn Ṭabīb などと呼ばれた。.

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リャザン

リャザン(リャザニ;Рязаньリャザーニ)は、ロシアの都市である。リャザン州の州都。オカ川の右岸、オカ川にトルベジ川が注ぐ地点近くに位置し、オカ川の重要な河港である。鉄道でモスクワ、ウラジーミルなどと結ばれている。高速道路M5が走る。人口は521,700人(2002年)。モスクワから南東に196km。条件反射の研究で有名なイワン・パブロフはリャザンの出身。.

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ワッサーフ

ワッサーフ (وصّافِ حضرت. Waṣṣāf-i Ḥazrat、生没年不詳)は、14世紀前半のイランで活躍したイルハン朝の歴史家。本名はシャラフッディーン・アブドゥッラー・イブン・ファドゥルッラー・シーラーズィー( شرف‌ الدین عبدالله ابن فضل‌الله شیرازی Sharaf al-Dīn 'Abd Allāh ibn Faḍl Allāh Shīrāzī)。近世ペルシア語の読み方によってはヴァッサーフ Vaṣṣāf とも。.

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トルコ

トルコ共和国(トルコきょうわこく、Türkiye Cumhuriyeti)、通称トルコは、西アジアのアナトリア半島(小アジア)と東ヨーロッパのバルカン半島東端の東トラキア地方を領有する、アジアとヨーロッパの2つの大州にまたがる共和国。首都はアナトリア中央部のアンカラ。 北は黒海、南は地中海に面し、西でブルガリア、ギリシャと、東でジョージア(グルジア)、アルメニア、アゼルバイジャン、イラン、イラク、シリアと接する。.

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ヘラート

ヘラート(ダリー語: هرات Herāt)は、アフガニスタンの都市。(هري رود - Harī Rūd - ハリー・ルード、Tarius)の河谷に形成された肥沃なオアシスに位置し、古にはワイン生産地として名高かった。国内第3の人口を擁する (2006年の公式推計で349,000人) 同国北西部の最重要都市で、現在はヘラート州の州都である。住民はスンナ派またはシーア派のペルシア語系タジク人中心で、主にダリー語が話される。 アフガニスタン北西部からイラン北東部、トルクメニスタン南部にまたがったホラーサーン地方の東部に位置し、中央アジアとインド亜大陸、西アジアを結ぶ重要な交易路上にあって古来より栄え「ホラーサーンの真珠」とその繁栄を謳われた。ペルシア語系タジク人が住民の多数を占めることからもうかがえるように、ヘラートを含むアフガニスタン北西部のハリー・ルード水系地域は、歴史的にはアフガン(パシュトゥーン)よりもイランの文化圏に属した。その歴史の古さは、古代ペルシア帝国の碑文に名が記されているほどで、現在も多くの歴史的建造物に恵まれている。もっとも、多くの遺跡が近年の激しい内戦によって損傷を受けている。ヘラートからイラン、トルクメニスタン、マザーリシャリーフ、カンダハールに通じる複数の幹線道路は、現在もなお戦略的に重要である。.

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ブリタニカ百科事典

ブリタニカ百科事典(ブリタニカひゃっかじてん、)は、英語で書かれた百科事典である。110人のノーベル賞受賞者と5人のアメリカ合衆国大統領を含む4,000人以上の寄稿者と専任の編集者約100人によって書かれており、学術的に高い評価を受けている。 英語の百科事典としては最古のものであり、今もなお製作されている。1768年から1771年にかけて、エディンバラで3巻の百科事典として発行されたのが始まりである。収録された記事は増えていき、巻数は第2版で10巻、第4版(1801年から1810年)では20巻となった。学術的な地位の向上は高名な寄稿者を招くのに役立ち、第9版(1875年から1889年)と第11版(1911年)は、文体と学術的知識において画期的なものとなった。版権が米国に移った第11版からは北米市場に売り込むため短く簡潔な記事となっていった。1933年、ブリタニカは百科事典としては初めて継続的な改訂が行われるようになった。2012年3月ブリタニカ社は、紙の書籍としての発行を取り止めオンライン版 に注力すると発表し、2010年に32巻で印刷されたものが紙の書籍としては最後となった。 1972年より日本語版もあり、『ブリタニカ国際大百科事典』(Britannica International Encyclopædia)として出版されている。 第15版からは三部構成となっている。短い記事(ほとんどが750語以下からなる)のマイクロペディア(小項目事典)12巻、長い記事(2~310ページ)のマクロペディア(大項目事典)19巻、そして知識を系統立てる、もしくは概観を示すプロペディア(総論・手引き)1巻である。マイクロペディアは簡単な調べ物やマクロペディアの手引書としての役割を担っている。記事の概観や詳細を知るためにはプロペディアを閲覧することが推奨されている。ブリタニカはおよそ50万の記事が約4000万語で記述されており、70年以上ほぼ一定に保たれている。1901年以降は米国を拠点に出版されてきたが、主にイギリス英語で書かれている。.

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フレグ

フレグ(Hülegü, Hülägü 生没年:1218年 - 1265年)、あるいはフラグ、またはフラクは、イルハン朝(フレグ・ウルス)の創始者(在位:1260年 - 1265年)。アバカ、テグデル・アフマドの父。『世界征服者史』『集史』等のペルシア語、アラビア語文献では 転写: Hūlākū Khān、『元史』等の漢語文献では旭烈兀 大王、『五族譜(Shu'`ab-i Panjgāna)』のウイグル文字モンゴル語表記では 'wl'kw(ulaku 『集史』トルイ・ハン紀ではトルイの(異母兄弟を含めた)五男(Rashīd al-Dīn Faḍl Allāh Hamadanī, Jāmi'al-Tawārīkh, (ed.)Muḥammad Rawshan & Muṣṭafá Mūsawī, vol.2, Tehran,1373/1994, p.781)、『元史』宗室世系表ではトルイ(睿宗皇帝)の六男としている(『元史』巻107/表2 宗室世系表「睿宗皇帝、十一子:長憲宗皇帝、(中略)次六旭烈兀大王」)。。モンケ、クビライ、アリクブケは同母兄弟であり、チンギス・カンの孫にあたる。イル・ハン Īl-khān の尊称で呼ばれた。.

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フレグの西征

フレグの西征」は、モンゴル帝国第四代皇帝(カアン)、モンケの時代にモンケの弟、フレグによって1253年から1260年に渡って行われた征服戦争。この遠征軍が中核となりイラン高原を中心にフレグ・ウルスが形成された。またこの後帝位継承戦争を経てモンゴル帝国は次第に分裂していくためモンゴル帝国全体で行われる最後の大規模な遠征となった。.

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ニザール派

ニザール派(نزاریان, Nezāriyān、نزارية, Nizārīya)は、イスラム教のシーア派・イスマーイール派の分派。1094年、ファーティマ朝のカリフ=イマーム位をめぐってイスマーイール派は二派に分裂したが、そのうちの一方がニザール派(もう一方はムスタアリー派)である。史料や現在の報道、学術的著作でも単にイスマーイール派としてムスタアリー派と一括して扱われることが多い。 ニザール派はハサニ・サッバーフの指導するイラン方面のイスマーイール派で支持を獲得。11世紀末から13世紀半ばまでシリア地方からホラーサーンに点在する城砦およびその周辺領域を保持し、イラン高原のに築城されたを中心に独立政権を打ち立てた。時に敵対するセルジューク朝や十字軍の要人を暗殺するという手段を用いたことから暗殺教団の別称が生まれ、のちに大麻吸引などと結びつけられて伝説化した(これについては暗殺教団を参照)。 13世紀半ばのモンゴル帝国軍の到来によってほとんどの城砦を失うが、広い地域に散在するコミュニティは存続し、現在ではインド、パキスタン、シリア、アフガニスタン・タジキスタン・ザンジバルなど東アフリカおよび欧米に信徒を擁する。特にインド・パキスタン方面のホージャー派のニザール派コミュニティおよびアフガニスタン・タジキスタンのニザール派コミュニティの指導者アーガー・ハーンは、絶大な財力を背景に同地域に社会的影響力を誇る。.

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アリストテレス

アリストテレス(アリストテレース、Ἀριστοτέλης - 、Aristotelēs、前384年 - 前322年3月7日)は、古代ギリシアの哲学者である。 プラトンの弟子であり、ソクラテス、プラトンとともに、しばしば「西洋」最大の哲学者の一人とされ、その多岐にわたる自然研究の業績から「万学の祖」とも呼ばれる。特に動物に関する体系的な研究は古代世界では東西に類を見ない。イスラーム哲学や中世スコラ学、さらには近代哲学・論理学に多大な影響を与えた。また、マケドニア王アレクサンドロス3世(通称アレクサンドロス大王)の家庭教師であったことでも知られる。 アリストテレスは、人間の本性が「知を愛する」ことにあると考えた。ギリシャ語ではこれをフィロソフィア()と呼ぶ。フィロは「愛する」、ソフィアは「知」を意味する。この言葉がヨーロッパの各国の言語で「哲学」を意味する言葉の語源となった。著作集は日本語版で17巻に及ぶが、内訳は形而上学、倫理学、論理学といった哲学関係のほか、政治学、宇宙論、天体学、自然学(物理学)、気象学、博物誌学的なものから分析的なもの、その他、生物学、詩学、演劇学、および現在でいう心理学なども含まれており多岐にわたる。アリストテレスはこれらをすべてフィロソフィアと呼んでいた。アリストテレスのいう「哲学」とは知的欲求を満たす知的行為そのものと、その行為の結果全体であり、現在の学問のほとんどが彼の「哲学」の範疇に含まれている立花隆『脳を究める』(2001年3月1日 朝日文庫)。 名前の由来はギリシア語の aristos (最高の)と telos (目的)から 。.

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アルメニア

アルメニア共和国(アルメニアきょうわこく、)、通称アルメニアは、南コーカサスに位置する共和制国家。東ヨーロッパに含められることもある。首都はエレバンで、黒海とカスピ海の間にある内陸国であり西にトルコ、北にジョージア、東にアゼルバイジャン、南にイランとアゼルバイジャンの飛び地ナヒチェヴァン自治共和国と接する。1991年にソビエト連邦から独立した。ナゴルノ・カラバフを巡ってアゼルバイジャンと、アルメニア人虐殺に対する歴史認識をめぐってトルコと激しく対立していたが、近年はアルメニア大統領が両国を訪問するなど関係修復を目指して対話を行っている。.

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アンティオキア公国

アンティオキア公国(アンティオキアこうこく、Principality of Antioch)は、第1回十字軍が聖地に建設した、十字軍国家のひとつ。シリア北部の重要都市アンティオキア(アンティオケイア)を首都とした。.

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アッバース朝

アッバース朝(الدولة العباسية al-Dawla al-‘Abbāsīya)は、中東地域を支配したイスラム帝国第2の世襲王朝(750年 - 1517年)。 イスラム教の開祖ムハンマドの叔父アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブの子孫をカリフとし、最盛期にはその支配は西はイベリア半島から東は中央アジアまで及んだ。アッバース朝ではアラブ人の特権は否定され、すべてのムスリムに平等な権利が認められ、イスラム黄金時代を築いた。 東西交易、農業灌漑の発展によってアッバース朝は繁栄し、首都バグダードは産業革命より前における世界最大の都市となった。また、バグダードと各地の都市を結ぶ道路、水路は交易路としての機能を強め、それまで世界史上に見られなかったネットワーク上の大商業帝国となった。 アッバース朝では、エジプト、バビロニアの伝統文化を基礎にして、アラビア、ペルシア、ギリシア、インド、中国などの諸文明の融合がなされたことで、学問が著しい発展を遂げ、近代科学に多大な影響を与えた。イスラム文明は後のヨーロッパ文明の母胎になったといえる。 アッバース朝は10世紀前半には衰え、945年にはブワイフ朝がバグダードに入城したことで実質的な権力を失い、その後は有力勢力の庇護下で宗教的権威としてのみ存続していくこととなった。1055年にはブワイフ朝を滅ぼしたセルジューク朝の庇護下に入るが、1258年にモンゴル帝国によって滅ぼされてしまう。しかし、カリフ位はマムルーク朝に保護され、1518年にオスマン帝国スルタンのセリム1世によって廃位されるまで存続した。 イスラム帝国という呼称は特にこの王朝を指すことが多い。古くはヨーロッパ中心史観に基づき日本でもサラセン帝国と呼ばれたが、現在では一般的ではない。後ウマイヤ朝を西カリフ帝国、アッバース朝を東カリフ帝国と呼称する場合もある。.

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アッラーフ

アッラーフ (الله, Allāh) 或いはアラー、アッラーは、アブラハムの宗教の唯一神ヤハウェに対するアラビア語呼称のひとつ。.

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アブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン

アブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン 男爵(Abraham Constantin Mouradgea d'Ohsson、1779年11月26日 - 1851年12月25日)は、オスマン帝国におけるアルメニア系の外交官、歴史家。『チンギス・カンよりティムール・ベイすなわちタメルランに至るモンゴル族の歴史』(邦題:『蒙古史』、『モンゴル帝国史』)の著者として有名であった。.

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アテネ

アテネ(現代ギリシア語: Αθήνα; Athína;; カサレヴサ: Ἀθῆναι, Athinai; 古代ギリシア語: Ἀθῆναι, Athēnai)は、ギリシャ共和国の首都で同国最大の都市である。 アテネはアッティカ地方にあり、世界でももっとも古い都市の一つで約3,400年の歴史がある。古代のアテネであるアテナイは強力な都市国家であったことで知られる。芸術や学問、哲学の中心で、プラトンが創建したアカデメイアやアリストテレスのリュケイオンがあり、西洋文明の揺籃や民主主義の発祥地として広く言及されており、その大部分は紀元前4-5世紀の文化的、政治的な功績により後の世紀にヨーロッパに大きな影響を与えたことは知られている。今日の現代的なアテネは世界都市としてギリシャの経済、金融、産業、政治、文化生活の中心である。2008年にアテネは世界で32番目に富める都市に位置し、UBSの調査では25番目に物価が高い都市に位置している。 アテネ市の人口は655,780人Hellenic Statistical Authority, Hellenic Statistical Authority (EL.STAT.), 22 July 2011.

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アイン・ジャールートの戦い

アイン・ジャールートの戦い(英:Battle of Ain Jalut)は、1260年9月3日、シリア・パレスチナのアイン・ジャールート (عين جالوت ‘Ayn Jālūt) で行われた会戦。クトゥズ率いるマムルーク朝軍が、キト・ブカ率いるシリア駐留のモンゴル帝国軍およびキリスト教徒諸侯連合軍を破り、モンゴル帝国の西進を阻止した。.

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イラク

イラク共和国(イラクきょうわこく、、)、通称イラクは、中東・西アジアの連邦共和制国家である。首都はバグダードで、サウジアラビア、クウェート、シリア、トルコ、イラン、ヨルダンと隣接する。古代メソポタミア文明を受け継ぐ土地にあり、世界で3番目の原油埋蔵国である。.

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イスラム世界

イスラム世界とは、イスラム教(イスラーム)とそれを信仰・実践する人々であるムスリム(イスラム教徒)が社会の中心に立って活動する地域を指し、イスラム法(シャリーア)の用語に言うダール・アル=イスラーム(「イスラムの家」)とほぼ等しい概念を意味する語である。歴史的な対象を指すのにしばしば使われるが、イスラム世界の中に法としてシャリーアを用いない国も少なくない現代を指しては、イスラム圏(イスラーム圏)、イスラム諸国などの言葉を用いることも多い。.

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イスラム教

イスラム教(イスラムきょう、イスラーム教、イスラーム、和名・漢字圏名:回教)は、唯一絶対の神(アラビア語でアッラー)を信仰し、神が最後の預言者を通じて人々に下した(啓示した)とされるクルアーンの教えを信じ、従う一神教である。 ユダヤ教やチゲリスト教の影響を受けた唯一神教で、偶像崇拝猶、いわゆる『偶像崇拝』が神像を用いた礼拝と同義であるのかを巡っては、宗教や個人により大きな開きがあるを徹底的に排除し、神への奉仕を重んじ、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色があるとされる。アッラーを崇拝するが、アッラーとは、もともとアラビアの多神教の神々の中の一人であったが、ムハンマドがメッカを占領すると、他の多神教の神々の像は全て破壊され、そして作ることや描くことも禁止され、その神だけを崇拝するようになった。.

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ウラジーミル (ウラジーミル州)

ウラジーミル(ヴラジーミル;ロシア語:Владимирヴラヂーミル;ラテン文字表記の例:Vladimir)は、ロシアの都市である。ヴラジーミル州の州都で、ヴォルガ川の支流クリャージマ川の河畔に建つ。モスクワの東200kmに位置し、モスクワとニジニ・ノヴゴロドとを結ぶ高速道路A7の沿線。ウラジーミル駅はモスクワからウラジオストクの間を結ぶ鉄道の途中の駅で、モスクワからは電車で約3時間ほどかかる。またセミャージノ空港を擁し、冷戦時代にはドブリンスコエ空軍基地があった。人口は2002年国勢調査で315,954人、1989年ソ連国勢調査では349,702人だった。 ロシアの古都の一つで、ウラジーミル・スーズダリ大公国の首都として栄えた。いわゆる「黄金の環」を構成する都市の一つ。1108年頃にキエフ大公ウラジーミル・モノマフにより要塞として建設されたといわれる。この要塞は、ロストフ・スーズダリ公国(ウラジーミル・スーズダリ大公国の前身)の南東を守るものであった。13世紀には北東ロシアの中心になったが、その後のモスクワの興隆と共に地方都市的存在になってゆき現在に至っている。 名所名跡も多い。1992年、ウラジーミル市の聖堂群は近郊のスーズダリ市に残る聖堂群とともに、「ウラジーミルとスーズダリの白亜の建造物群」として、ユネスコの世界遺産に登録された。.

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ウルゲンチ

ウルゲンチ(Urganch、Ургенч、گرگانج)は、中央アジア、ホラズム地方の歴史的都市。現在のウルゲンチはウズベキスタンのホラズム州の州都(人口13.9万人 1999年)である。.

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エジプト

プト・アラブ共和国(エジプト・アラブきょうわこく、جمهورية مصر العربية)、通称エジプトは、中東・アフリカの共和国。首都はカイロ。 西にリビア、南にスーダン、北東にイスラエルと隣接し、北は地中海、東は紅海に面している。南北に流れるナイル川の河谷とデルタ地帯(ナイル・デルタ)のほかは、国土の大部分が砂漠である。ナイル河口の東に地中海と紅海を結ぶスエズ運河がある。.

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オゴデイ

デイ(Ögödei、Ögedei、20px)はモンゴル帝国の第2代モンゴル帝国皇帝(カアン、大ハーン)。モンゴル帝国の君主で初めて自らの君主号をカンに代えてカアン(Qa'an<Qaγan)と名乗った人物と考えられている。 漢語表記では窩闊台、月闕台など。資料によっては、哈罕皇帝/合罕皇帝(カアン皇帝)とも書かれる(後述)。モンゴル帝国時代のウイグル文字モンゴル語文や前近代の古典モンゴル語文では 'WYK'D'Y Q'Q'N/Ögedei Qaγan、パスパ文字モンゴル語文では "ö-kˋö-däḙ q·a-n/Öködeï Qa'an 。ペルシア語表記では『集史』などでは اوگتاى قاآن Ūgtāy Qā'ān 、『五族譜』では اوُكَدى خان Ūkaday Khān などと綴られる。オゴタイ、エゲデイは、日本語表記。元朝によって贈られた諡は英文皇帝、廟号は太宗。 チンギス・カンの三男。母はボルテ。ジョチ、チャガタイの弟、トルイの兄。.

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カリフ

イスラム世界で承認された最後のカリフ、アブデュルメジト2世 カリフ(Caliph)あるいはハリーファ(خليفة khalīfa) は、預言者ムハンマド亡き後のイスラーム共同体、イスラーム国家の指導者、最高権威者の称号である。.

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カタパルト (投石機)

タパルト(Catapult)は、石などを投擲して敵の人馬もしくは城などの建築物を標的とし射出攻撃する兵器(攻城兵器)である。 カタパルトに改良を加えたものにオナガーやトレビュシェットがある。これらの兵器を総称してカタパルトと呼ぶ場合もある。日本では投石機(とうせきき)あるいは投石器とも表記される。後者のように表記すれば、Y字型の投石器(スリングショット、ぱちんこ)や紐状の投石器(スリング)と同じ表記となり、しばしば両者が混同される原因ともなっている。射程距離は大型のものでも数百メートルに留まった。.

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キエフ

フ(Київ キーイウ、Киев )は、ウクライナの首都。ドニプロ川の中流に位置する。同国最大の都市で、政治・経済・社会・学術・交通の中心地である。特別自治都市。5世紀後半に建設されたポリャーネ族の集落から発展した。中世にはキエフ・ルーシの都であったが、近世にはコサックのキエフ連隊の中心となった。20世紀中にウクライナ人民共和国、ウクライナ国とウクライナ・ソビエト社会主義共和国の首都であり続けた。キエフ市内の人口はおよそ279万人であるが、キエフ首都圏の人口はおよそ400万人となっている。東ヨーロッパにおける最古の都市で、キリスト教の聖地の一つである。都内にある聖ソフィア大聖堂とキエフ洞窟大修道院は世界遺産に登録されている。.

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ザ・ニューヨーカー

・ニューヨーカー(The New Yorker)は、アメリカ合衆国でコンデナスト社が発行する雑誌。元来は週刊誌であったが、現在5回の2週間号を含めた毎年47冊が刊行されている。 1925年2月17日に2月21日号として創刊された。創始者は『ニューヨーク・タイムズ』のレポーター、ハロルド・ロスと妻のジェーン・グラント。 ルポルタージュ、批評、エッセイ、風刺漫画、詩、小説などが掲載される。レビューやイベント情報はニューヨーク市の文化を主に取り扱うが、当誌はニューヨーク外にも幅広い読者を持つ。 日本人の作家では村上春樹の作品が多く英訳されて掲載されている。.

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ジュヴァイニー

ュヴァイニー()は、ホラーサーン地方、ニーシャープールの西方にあるジュヴァイン地方出身を示すニスバのペルシア語読み。アラビア語読みではジュワイニーである。ジュヴァイン()は、現在のイランイスラム共和国ラザヴィー・ホラーサーン州に相当する。.

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ジョチ・ウルス

ョチ・ウルス()は、13世紀から18世紀にかけて、黒海北岸のドナウ川、クリミア半島方面から中央アジアのカザフ草原、バルハシ湖、アルタイ山脈に至る広大なステップ地帯を舞台に、チンギス・カンの長男ジョチの後裔が支配し興亡した遊牧政権(ウルス)。一般にキプチャク・ハン国の名で知られる国とほぼ同じものである。.

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ジョージア (国)

ョージア(, )は、南コーカサスにある共和制国家。東ヨーロッパInternational Geographic Encyclopaedia and Atlas. Springer, 24 November 1979, 欧州議会,, 17 July 2014: "...pursuant to Article 49 of the Treaty on European Union, Georgia, Moldova and Ukraine – like any other European state – have a European perspective and may apply to become members of the Union provided that they adhere to the principles of democracy..."(CIA "The World Fact Book") 2016-08-28閲覧。、もしくは西アジアに区分される(国際連合), "Western Asia - 268 Georgia" 2016-08-27閲覧。。日本では2015年4月まで政府が使用していた外名の「グルジア」(, Gruziya)としても知られている(詳細は後述)日本国外務省「」。首都はトビリシ。 ソビエト連邦の構成国であったが、1991年に独立した。南オセチアとアブハジアの2地域が事実上の独立状態となっており、ロシアなど一部の国から国家承認を受けている。中央部のゴリは旧ソビエト連邦の最高指導者であったヨシフ・スターリンの出身地である。ロシア帝国とその後に成立したソビエト連邦の支配が長く続いたことから、独立後はロシアとの対立路線を取ることが多い。1997年にはウクライナの呼び掛けに応じてアゼルバイジャン・モルドバと共にGUAMを結成し、2009年には独立国家共同体 (CIS) を脱退した。1999年から欧州評議会のメンバーである。 コーカサス山脈の南麓、黒海の東岸にあたる。北側にロシア、南側にトルコ、アルメニア、アゼルバイジャンと隣接する。古来数多くの民族が行き交う交通の要衝であり、幾たびもの他民族支配にさらされる地にありながら、キリスト教信仰をはじめとする伝統文化を守り通してきた。また、温暖な気候を利用したワイン生産の盛んな国としても知られる。 なお、本項では2015年4月22日の「在外公館名称を変更するための法改正案」成立以前の国家名称については「グルジア」、それ以後については「ジョージア」と表記する。また、「グルジア語」「グルジア紛争(南オセチア紛争)」等すでに用語として定着したものについては「グルジア」を使用することとする。.

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ジェベ

ェベ(モンゴル語: Jebe、? - 1224年『新元史』巻123、列伝第20もしくは1225年村上「ジェベ」『アジア歴史事典』4巻、118頁)は、モンゴル帝国の初代皇帝(大ハーン)であるチンギス・カンの家臣。ベスト(ベスート)氏族の出身で、はじめタイチウト氏に属する隷属民だった。『元朝秘史』では者別、『元史』では哲別などと漢語表記され、『集史』などのペルシア語資料では جبه نويان Jebe Nūyān と表記される。書籍によってはジュベとも表記される。.

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スブタイ

ブタイ スブタイ(スベエデイ、Sübe'edei/Sübütei、1176年 - 1248年)は、モンゴル帝国の軍人。ウリャンカイ部の出身。漢文では「速別額台」(スベエデイ)や「速不台」「雪不台」(スブタイ)とも表記され、ペルシア語資料では سوبداى بهادر Sūbdā'ī bahādur として表れる。名前に含まれるSübe'eは「脇腹」を意味する『モンゴル秘史 チンギス・カン物語』1、229-230頁。 同じチンギス・カン配下の軍人であるジェベ、ジェルメ、クビライ・ノヤンらとともに、「四狗」の一人に数えられる。ジェルメの弟。.

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タタールスタン共和国

タタールスタン共和国(タタールスタンきょうわこく、タタルスタンとも、タタール語キリル文字:Татарстан Республикасы、ラテン文字:Tatarstan Respublikası、ロシア語:Республика Татарстан)は、ロシア連邦地域管轄区分のひとつ沿ヴォルガ連邦管区の中央に位置する共和国である。公用語はロシア語とタタール語。1992年には主権宣言を行った。.

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サマルカンド

マルカンド(Samarkand, سمرقند (Samarqand), Самарқанд (Samarqand))は、中央アジア、ウズベキスタンの古都。アムダリヤ川の支流であるザラフシャン川河岸にあり、機械・化学・綿花・絹・皮革関係の工業が行われる。人口約38万人(2001年)。ウズベキスタンの初代大統領イスラム・カリモフはこの町の出身。 ステップ気候から地中海性気候への移行部特有の抜けるような青空とモスクの色から「青の都」と呼ばれる。.

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サーマッラー

ーマッラー(سامراء Sāmarrāʾ)はサラーフッディーン県に属するイラクの都市。.

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前嶋信次

前嶋 信次(まえじま しんじ、1903年7月20日 - 1983年6月3日)は、日本のイスラム史、東洋史家、東洋学者。.

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図書館

図書館(としょかん、library、Bibliothek、bibliothèque)とは、図書、雑誌、視聴覚資料、点字資料、録音資料等のメディアや情報資料を収集、保管し、利用者への提供等を行う施設もしくは機関である。 基礎的な蓄積型文化施設の一種であり、博物館が実物資料を中心に扱い、公文書館が非定型的文書資料を中心に扱うのに対して、図書館は 出版物を中心に 比較的定型性の高い資料を蓄積するものである。 「図書館」は、明治中期に英語のlibraryから訳された訳語(和製漢語)である。「図書館」は、地図(図版)の「図」、書籍の「書」を取って、図書とし、図書を保存する建物という意味であった。.

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知恵の館

知恵の館(ちえのやかた、アラビア語:バイト・アル=ヒクマ, بيت الحكمة Bayt al-Ḥikmah)は、830年、アッバース朝の第7代カリフ・マームーンがバグダードに設立した図書館であり、天文台も併設されていたと言われている。 サーサーン朝の宮廷図書館のシステムを引き継いだもので、諸文明の翻訳の場となった。「知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)」は「図書館」を指すサーサーン朝の呼び名の翻訳だと言う。.

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病院

病院(びょういん、hospital)は、疾病や疾患を抱えた人(病人、患者)に対し医療を提供したり、病人を収容する施設(の中でも一定の規模のもの)のこと病院よりも小規模な医療施設は診療所(クリニック)と呼ばれる。規模的には病院ではあるが、歴史的な理由によりクリニックの名称を残す施設もある(メイヨー・クリニックなど)。。 病院の設立者は公的セクターが多いが、また保健組織(営利または非営利団体)、保険会社、慈善団体などがある。病院は歴史的に、その多くが宗教系修道会や慈善家によって設立・運営されてきた。.

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郭侃

郭侃(かく かん、Kwok Hon、拼音:Guō Kǎn、? - 1277年)は、元代の将軍。 智勇兼備の名将で特に攻城戦には卓越した能力を持っていた。字は仲和。華州鄧県の人。郭子儀の末裔。郭宝玉の孫。郭徳海の次男。幼少から鎮陽王史天沢に養われた。 『元史』巻百四十九 郭寶玉伝 郭侃条によると、成年後は、百戸長に任ぜられた。1232年の征金戦に従軍。1245年には千戸長に任ぜられた。1253年にはフレグの西方遠征軍に従軍。1256年、ペルシアのイスマイル派を攻め、カシミールを平定し、乞都卜城を火砲で攻撃し陥落させた。また、イスマイル派の根拠アラムート城砦を攻略するなど128の城砦を攻略した。1258年には敵前でのチグリス川渡河作戦を決行し、バグダードを火砲などで攻撃し、東城、西城を陥落させ、逃亡するアッバース朝第37代カリフのムスタアスィムを追撃し捕虜にしたという。シリアへも侵攻して、十字軍とも交戦し、連戦連勝で瞬く間に120余りの城砦を陥落させ、小アジアを平定した。その用兵の巧みさから敵軍からは「極西の神人」と恐怖された。 1259年に憲宗(モンケ)が崩御すると、独立を目指したフレグに従わず、東帰して中統元年(1260年)にクビライに謁見した。その後、クビライの配下として軍政および内治に関して有用な多くの献言をした。また鄭州などで屯田を指揮するなど内治にも努力した。中統2年(1261年)、江漢大都督理問官に任官。至元7年(1270年)に万戸長に任命され、襄陽を攻略(襄陽・樊城の戦い)。元が江南を手中にすると、知寧海州に任官された。 モンゴル帝国では、チンギス・ハーンがモンゴル高原を統一する初期から、チンカイやマフムード・ヤラワチ、サイイド・アジャッルなど、大元朝時代の漢文資料で色目人と称された多くのウイグル系やホラーサーン、マー・ワラー・アンナフル出身のイラン系やテュルク系などの中央アジア・イラン地域の人々が官僚として活躍した。そのなかで、連戦連勝の名将であった郭侃の活躍は漢人の誇りであった。 ちなみに、『集史』などイルハン朝で編纂された資料では、郭侃に該当する人物は知られていない。.

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薬学

薬学(やくがく、pharmacy)とは、薬物を専門とする学問である。医療をサポートする学問領域の医療薬学と薬の発見と製造に関する領域の医薬品化学に大別される。.

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集史

『集史』(しゅうし、جامع‌التواریخ. Jāmi` al-Tavārīkh、جامع التواريخ. Jāmi` al-Tawārīkh)は、イルハン朝の第7代君主ガザン・ハンの勅命(ヤルリグ)によってその宰相であったラシードゥッディーンを中心に編纂された歴史書である。イラン・イスラム世界、さらに言えばモンゴル君主ガザン自身の視点が反映されたモンゴル帝国の発祥と発展を記した記録として極めて重要な文献である。 モンゴル史部分の編纂には、ガザン自身も多くの情報を口述しこれがモンゴル史の根本となったことはラシードゥッディーンも序文で述べているが、これらのことからも『集史』はガザン自身の見解が色濃く反映された歴史書である。その性格のため『集史』はペルシア語で編纂された歴史書であるが、13、14世紀のモンゴル語やテュルク語やその他の多言語の語彙・用語を多く含み、そのペルシア語の用語も多く含まれている。このため『集史』は、モンゴル帝国が持つユーラシア規模の世界性をまさに体現した希有の資料と評されている。 ペルシア語で書かれたものであるが、タイトルである Jāmi` al-Tawārīkh はアラビア語で「諸々の歴史を集めたもの」を意味し、日本語では『集史』と翻訳されている。ちなみにロシアの東洋学者ベレジンによる校訂本に基づいたモンゴル史までの中国語訳があるが、この題は『史集』と訳されている。.

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東洋文庫 (平凡社)

東洋文庫(とうようぶんこ; The Eastern Library)、別称で平凡社東洋文庫(へいぼんしゃとうようぶんこ)は、平凡社が刊行する叢書シリーズ。1963年に創刊。2013年秋の創刊50周年を機にファンクラブ「東洋文庫読者倶楽部」を発足している。.

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東方見聞録

『東方見聞録』(とうほうけんぶんろく)は、マルコ・ポーロがアジア諸国で見聞した内容口述を、ルスティケロ・ダ・ピサが採録編纂した旅行記である。マルコもルスティケロもイタリア人であるが、本書は古フランス語で採録された。.

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核兵器

核兵器(かくへいき、nuclear weapon)は、核分裂の連鎖反応、または核融合反応で放出される膨大なエネルギーを利用して、爆風、熱放射や放射線効果などの作用を破壊に用いる兵器の総称。原子爆弾、水素爆弾、中性子爆弾等の核爆弾(核弾頭)とそれを運搬する運搬兵器で構成されている。 核兵器は生物兵器、化学兵器と合わせてNBC兵器(又はABC兵器)と呼ばれる大量破壊兵器である。一部放射能兵器も含めて核兵器と称する場合があるが、厳密には放射能兵器を核兵器に分類するのは誤りである。 核兵器は、人類が開発した最も強力な兵器の一つであり、その爆発は一発で都市を壊滅させる事も可能である。そのような威力ゆえに、20世紀後半に配備数が増えるにつれ核戦争の脅威が想定されるようになり、単なる兵器としてだけではなく、国家の命運、人類の存亡にも影響するものとして、開発・配備への動きのみならず、規制・廃棄の動きなど様々な議論の対象となってきた。また、実戦使用されたのがアメリカ合衆国による、第二次世界大戦における二発(広島・長崎)のみであり、使用ではなく、主に配備による抑止力として、その意義が評価されている側面を持つ。 核兵器は核分裂を主とする原子爆弾と核融合を主とする水素爆弾の大きく二つに分類される。原子爆弾は大威力化に限界があり、水素爆弾の方が最大威力は大きくすることができる。また、兵器の形態としても、開発当初は大型航空爆弾のみであったが、プルトニウム型の場合高度な製造技術を必要とする反面、小型化が可能でありミサイルや魚雷の弾頭、砲弾までも様々なものが開発されている。.

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歴史書

歴史書(れきししょ)とは歴史を記述した書物のことである。 歴史書を記述するのは目的意識を持った、そして多くの場合職業的な歴史家である。執筆の目的は歴史そのものへの興味、過去を後世に伝えるため、独自の史観を表現するためなどさまざまである。為政者の支配の正統性を主張するなど、政治的動機による場合も多い。 時系列に従って事件が記述される。記述される内容は政治史・軍事史を主とすることが多い。基本的なスタイルとして、事項が時系列順に並べられたもの(編年体)と重要な個人の事績を追って記述するもの(紀伝体)の2つがある。 歴史書を記述する歴史家は既存の史料を収集・比較・批判し、ある基準によって取捨選択を行う。この作業がなされない場合は歴史書とは言えず単なる記述にとどまる。また、歴史家の想像はできる限り排除される。想像が勝つ場合は歴史文学となる。例えば『三国志演義』など。 原理的に歴史書は二次史料以下の史料となるが当時の史料が失われていることも多く、その場合一次史料並みの扱いを受けることもある。 上記の例外として、歴史記述を目的としたわけではない重要事件の記録がのちに歴史書と見なされることも多い。ガイウス・ユリウス・カエサルの『ガリア戦記』などは、その顕著な例である。.

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本田実信

本田 実信(ほんだ みのぶ、1923年3月29日 - 1999年1月6日)は日本の歴史学者。.

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文化遺産

文化遺産(ぶんかいさん、cultural heritage)は、人類の文化的活動によって生み出された有形・無形の所産である。文化財(ぶんかざい、cultural property)ともいう。文化的所産の中でも特に、価値が高く、後世に残すべきと考えられているものを指していうことも多い。.

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攻城兵器

攻城兵器(こうじょうへいき)とは、攻城戦において城郭都市や他の要塞を包囲、破壊するための装置である。いくつかのものは防御物に近接して、他種のものは防御物から距離をとって攻撃を加えるよう運用された。古代から、攻城兵器は主に木で製造され、石または類似の投射物を発射するには歯車比を用いる傾向があった。火薬の開発に伴う金属工学の進歩により、攻城兵器は火砲へと進化した。全体的に、包囲を完成するために必要な攻城兵器や砲列、および必須の部隊と輸送車両は、攻城砲列と呼ばれる。.

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攻城戦

ンスタンティノープルの陥落 攻城戦(こうじょうせん、英:siege)とは敵の砦、城、城壁都市を奪取するための戦闘のことである。.

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愛宕松男

愛宕 松男(おたぎ まつお、1912年2月8日 - 2004年6月)は、東洋史学者、東北大学名誉教授。 京都府出身。京都帝国大学卒業。1951年東北大学教授。1959年「キタイ部族制社会の研究」で京大文学博士。1974年定年退官、名誉教授、京都女子大学教授。専攻は元朝史など中国の征服王朝史。また陶磁器を中心とした産業史、戯曲・演劇史研究もある。 マルコ・ポーロの「東方見聞録」の翻訳で知られる。子息愛宕元も東洋史学者(京大名誉教授)。.

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1258年

記載なし。

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1973年

記載なし。

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