ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

ノーサンブリア

索引 ノーサンブリア

ノーサンブリア(英:Northumbria、古英語:Norþanhymbra rīce)は、アングロサクソン人が築いた七王国のうち最北、現在のノーサンバランドにあったアングル人の王国である。 王国の範囲は現在の行政区で言えば、ノース・イースト・イングランド、ヨークシャー・アンド・ザ・ハンバー、カンブリアを含むノース・ウェスト・イングランド、そしてスコティッシュ・ボーダーズまでの範囲に渡る。またハンバー川より北の地方がこう呼ばれ、ハンバー以南の地方はサウサンブリアと呼ばれた。 ノーサンブリアには、という2つの王国が並存していた。これらはときに対立し、ときに統一されてノーサンブリア王国 (6~10世紀) という1つの国になり、そしてまた分裂するということを繰り返した。2つの王家の伝説的な祖先が、オーディンの双生の息子、ベルデーグとウェグデーグとされているところからも、これらがもとは同じ部族であったことが推察される。.

58 関係: 古英語七王国ペンダ (マーシア王)マン島マーシアノース・イースト・イングランドノース・ウェスト・イングランドノーサンバーランド (イングランド)チェルル (マーシア王)ユトランド半島ヨーク (イングランド)ヨークシャー・アンド・ザ・ハンバーリンディスファーンの福音書リンディスファーン島ヴァイキングブレトワルダフォルカークベーダ・ヴェネラビリスアングル人アングロ・サクソン人アイオナ島イネ (ウェセックス王)イングランド教会史イースト・アングリアウィットビー教会会議ウェールズウェセックスエイリーク1世 (ノルウェー王)エゼルベルト (ケント王)オーディンカンブリア (イングランド)カンタベリーカトリック教会キュネイルス (ウェセックス王)キリスト教ケルト系キリスト教ケルズの書ケント王国スコットランドスコティッシュ・ボーダーズ英語604年615年616年627年632年635年653年654年...664年670年731年800年802年8世紀952年954年 インデックスを展開 (8 もっと) »

古英語

古英語(こえいご、古英語:, )または古期英語、アングロ・サクソン語()は、5世紀半ばから12世紀を中心にイングランドで使われた、インド・ヨーロッパ語族ゲルマン語派に属し、現代英語の祖語にあたる言語。 言語学者によっては西ゲルマン語群に分類する。現在のドイツ語の古語に当たる古ドイツ語のうち、古フランク語および古ザクセン語などの「古低ドイツ語」とは近縁にある。辞書などではしばしばOEと略記する。現在は死語と化している。 バイキングによりイングランドに古ノルド語が持ち込まれ、古英語に影響を与えた。他のゲルマン諸語と古ノルド語はまだ相互理解可能であった。古英語は均一の言語ではなく、方言があり、時期によっても異なる。ゲルマン人の一派であるアングル人とサクソン人の言葉が、グレートブリテン島移住に伴い、イングランド(アングル人の地)へ持ち込まれたことに始まる。のちイングランドに来襲したデーン人の言語であるデーン語(古ノルド語の一種)などの要素も、入り込んだ。 古英語に対して、古英語以降16世紀までの英語を中英語、17世紀頃までを初期近代英語それ以降を現代英語と言う。古英語の使われた時期を確定することは困難である。おそらく4世紀半ばにはグレートブリテン島での古英語の使用は始まっていた。古英語と中英語の境として、ウィリアム1世によってノルマン・フランス語の語彙が大幅に流入した1066年のノルマン・コンクエストを採用することが多い。しかしこのことはこの時期以降、古英語が使われなくなったことを意味しない。.

新しい!!: ノーサンブリアと古英語 · 続きを見る »

七王国

七王国(しちおうこく、、ヘプターキー)とは、中世初期にグレートブリテン島に侵入したアングロ・サクソン人が同島南部から中部にかけての地域に建国した7つの王国のこと。この時代をまた「七王国時代」とも呼ぶ。「ヘプターキー」という言葉は古代ギリシア語の数詞で「7」を指す「ヘプタ()」と「国」の「アーキー()」を足した造語である。最初にこの語を記したのは12世紀の史家ヘンリー・オブ・ハンティングドンであり、16世紀には用語として定着した。 この王国たちが覇を競った時代は、ホノリウス帝がブリタンニアを放棄してから(409年、End of Roman rule in Britain)、ウェセックスのエグバート王がカレドニアを除くブリテン島を統一するまで(825年、)、と考えられている。実際にアングロ・サクソン人が建国した王国は7つのみではなく、多数の群小のアングロ・サクソン人および先住のブリトン人の小国家群とともに林立したが、次第にその中で有力な国家が周囲の小国を併呑して覇権を広げていった。7つという王国の数は、これらの覇権を広げた有力な国を、後世7つの大国に代表させたものである。この王国群の中から後のイングランドが形成され、その領土は「アングル人の土地」という意味で「イングランド」と呼ばれることとなる。.

新しい!!: ノーサンブリアと七王国 · 続きを見る »

ペンダ (マーシア王)

ペンダ(Penda、? - 655年11月15日)は7世紀、七王国時代のマーシアの王(在位:626年頃 - 655年)。マーシアに隆盛をもたらした人物として知られている。またキリスト教がアングロサクソン諸国に広まりつつあった時代にキリスト教に帰依していなかった人物としても知られる。 ペンダは633年のハットフィールド・チェイスの戦いでノーサンブリア王エドウィンを敗死させ、9年後のマザーフィールドの戦いではエドウィンの後継者オスワルドも戦死させ、イングランド中央部に強大な勢力を持つ王となった。さらに彼はイースト・アングリアと戦いこれに勝利、そしてウェセックスに進攻して王チェンワルフを亡命させ、さらにノーサンブリアへ進攻するなど強大な権力を持つ王となった。しかしその13年後の655年、ノーサンブリアに転戦中、ウィンウェドの戦いで戦死した。.

新しい!!: ノーサンブリアとペンダ (マーシア王) · 続きを見る »

マン島

マン島(マンとう、Ellan Vannin、またはMannin、Isle of Man または Mann)は、グレートブリテン島とアイルランド島に囲まれたアイリッシュ海の中央に位置する島。面積は約572km2。主都はダグラス。人口は80,058人(2006年時点)。.

新しい!!: ノーサンブリアとマン島 · 続きを見る »

マーシア

マーシア王国の勢力領域。7世紀から9世紀頃にかけて最大版図を得た。濃緑色部分は6世紀頃の支配地域 マーシア (Mercia) は、中世初期イングランドの七王国のひとつであるアングル人の王国。7世紀中ごろから9世紀初頭にかけてイングランド中部で強い勢力をもち、特に8世紀にはふたりのブレトワルダ(上王、大王)を輩出した。マーシアとは『辺境の人々』を意味する Mierce をラテン語化させた後世の呼び名である。.

新しい!!: ノーサンブリアとマーシア · 続きを見る »

ノース・イースト・イングランド

ノース・イースト・イングランド(North East England、日本語: 北東イングランド)は、イングランドを構成する9つのリージョン(地域)のうちの一つ。.

新しい!!: ノーサンブリアとノース・イースト・イングランド · 続きを見る »

ノース・ウェスト・イングランド

ノース・ウェスト・イングランド(North West England、日本語: 北西イングランド)は、イングランドを構成する9つのリージョン(地域)のうちの一つ。.

新しい!!: ノーサンブリアとノース・ウェスト・イングランド · 続きを見る »

ノーサンバーランド (イングランド)

ノーサンバーランド (Northumberland) は、イングランドの典礼カウンティおよび単一自治体 (Unitary Authority)。ノーサンバーランド州 (the county of Northumberland, Northumberland county) とも呼ばれる。 イングランドの北東端、スコットランド国境地方に位置する。北はスコットランドのスコティッシュ・ボーダーズで、東は北海に面する。西でカンブリア、南でダラム、南東でタイン・アンド・ウィアと隣接する(タイン・アンド・ウィアは、1974年の行政区画改編までノーサンバーランドに属していた)。1974年以降、州都はモーペス (Morpeth) であるが、アニック (Alnwick) も州都に名乗りをあげている。 古くから、この地を巡ってスコットランドとイングランドが争ったため、城が多い。開発を免れたことで景観が維持された州内の荒野は、現在は国立公園として保護されている。人口密度は1平方キロメートルにつき62人で、イングランドで最も低い。.

新しい!!: ノーサンブリアとノーサンバーランド (イングランド) · 続きを見る »

チェルル (マーシア王)

チェルル(Cearl、生没年不詳)は七王国時代、7世紀のマーシアの王(在位:606/15年‐626年頃)。彼の時代から半世紀後に生まれた史家ベーダ・ヴェネラビリスが記した『イングランド教会史』において、最初にその名が言及されるマーシア王として知られる。正確な在位は分からないが、恐らくは606年頃から626年頃までと思われる。 マーシアに隆盛をもたらしたペンダの先王として知られるが、自らもノーサンブリアの従属に甘んじていたマーシアに独立をもたらした可能性が指摘されている。.

新しい!!: ノーサンブリアとチェルル (マーシア王) · 続きを見る »

ユトランド半島

ユトランド半島 デンマークの地図 ユトランド半島(ユトランドはんとう、Jylland ( ユラン)、Jütland ( ユートラント)、Jutland ( ジャトランド)、Jutland ( ジュトランド) )は、ヨーロッパ大陸北部にある、北海とバルト海を分かつ半島である。北側がデンマーク領、根元のある南側がドイツ領である。「ジュート人が住む地」という文字通りの意味である。 本稿では日本で定着している「ユトランド(半島)」という表記・読み方を用いる。.

新しい!!: ノーサンブリアとユトランド半島 · 続きを見る »

ヨーク (イングランド)

ヨーク(York)は、イングランド北部のノース・ヨークシャー州の都市である。人口は202,400人である(2010年推定)。.

新しい!!: ノーサンブリアとヨーク (イングランド) · 続きを見る »

ヨークシャー・アンド・ザ・ハンバー

ヨークシャー・アンド・ザ・ハンバー(Yorkshire and the Humber)は、イングランドを構成する9つのリージョン(地域)の一つ。.

新しい!!: ノーサンブリアとヨークシャー・アンド・ザ・ハンバー · 続きを見る »

リンディスファーンの福音書

リンディスファーンの福音書(リンディスファーンのふくいんしょ、The Lindisfarne Gospels)は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書から成る手書きのラテン語装飾写本である。ノーサンブリアの聖域であったリンデスファーン修道院で7世紀末から8世紀初頭にかけて製作され、リンディスファーン司教座がダラムに移転した後は同地に長年保管されていた。『ヒベルノサクソンアート』もしくは『インシュラーアート』と呼ばれるアングロサクソン様式とケルト様式が融合した英国特有の宗教芸術における最高傑作の1つと見なされている。「ダロウの書」、「ケルズの書」とともに三大ケルト装飾写本のひとつとされている。 現存する原本の保存状態が約1300年前に製作された写本としては他に例を見ないほど良好であることで知られ、8世紀当時に施されていた装丁は長い歴史の中で失われたものの、テキスト本体の部分は製作当時の完全な状態が保たれたまま今日まで至っている。現在原本は大英図書館が所蔵しているが、ダラム大聖堂の保管所には福音書の複写版が保管されており、聖堂の訪問者はそれを閲覧することができる。.

新しい!!: ノーサンブリアとリンディスファーンの福音書 · 続きを見る »

リンディスファーン島

リンディスファーン (Lindisfarne)は、イギリス・ノーサンバーランド州にある小島。リンデスファーン(Lindesfarne)ともいう。ホリー・アイランド(Holy Island)とも呼ばれ、潮が満ちると島となり、干潮になると土手道で本土とつながる。ウォルター・スコットがかつて島の記述を残した。2001年調査時の定住人口は162人である。.

新しい!!: ノーサンブリアとリンディスファーン島 · 続きを見る »

ヴァイキング

'''ヴァイキングの航海''' 緑色はヴァイキングの居住地(植民地)、青線は経路、数字は到達年。黒海やカスピ海、北アメリカ大陸のニューファンドランド島にも到達している ヴァイキング(Viking、Viking、Wikinger)とは、ヴァイキング時代(Viking Age、800年 - 1050年)と呼ばれる約250年間に西ヨーロッパ沿海部を侵略したスカンディナヴィア、バルト海沿岸地域の武装船団(海賊)を指す言葉。 彼らは北方系ゲルマン人で、ゲルマン民族移動の時代には南下(デーン人のユトランド半島進出など)により、西ヨーロッパとより近く接触するようになったが、9世紀に入って侵略などを活発化させた。 後の研究の進展により、ヴァイキングは「その時代にスカンディナヴィア半島、バルト海沿岸に住んでいた人々全体」を指す言葉に変容した。そういった観点からは、ノルマン人とも呼ばれる。中世ヨーロッパの歴史に大きな影響を残した。西洋生活様式と思想は、個人主義がヴァイキングのイデオロギーに影響を受ける。 ヴァイキングは海賊・交易・植民を繰り返す略奪経済を生業としていたのではなく、ノルウェーの考古学者であるヘイエルダールが述べたように、故地においては農民であり漁民であった。http://www.history.com/topics/exploration/vikings-history--> また、ヴァイキングたちの収益の大部分が交易によるものだったと言われている。この事実から、ヴァイキングたちにとっても航海の主たる目的は交易であり、略奪の方がむしろ例外的なものだったと考えられる。金になるブリテン諸島、イベリア半島、イタリア半島、バルカン半島、ヨーロッパロシア、スカンディナヴィア半島、北アフリカ、西アジアとの交易路。例えばヴァリャーグからギリシャへの道でコンスタンティノープルとの貿易、ヴァイキングの通商路である。.

新しい!!: ノーサンブリアとヴァイキング · 続きを見る »

ブレトワルダ

ブレトワルダ (Bretwalda) は、アングロサクソン社会の称号のひとつで、イングランドの七王国時代、アングロサクソン諸国の中でも最も勢力の強かった王のことを意味したと考えられている。上王や大王、覇王などと訳される。.

新しい!!: ノーサンブリアとブレトワルダ · 続きを見る »

フォルカーク

フォルカーク (Falkirk) は、スコットランドのタウンで、カウンシル・エリアのフォルカークの行政上の中心である。 セントラル・ローランズに位置している。 エディンバラの北西37.5km、グラスゴーの北東33.0kmに位置している。 2001年の国勢調査における人口は32,422人、2008年の推定人口は34,570人で、人口は増加傾向にある。スコットランドでは、20番目に人口の多い街である。フォルカーク・カウンシル・エリア全体での人口は、156,800人であった。 フォース・アンド・クライド運河とユニオン運河が交わる場所に位置しているため、産業革命期において重工業の中心としてフォルカークが発展した大きな要因となった。18、19世紀には、製鉄、鉄鋼業の中心となった。.

新しい!!: ノーサンブリアとフォルカーク · 続きを見る »

ベーダ・ヴェネラビリス

『イギリス教会史』の歴史家ベーダ・ヴェネラビリス(ニュルンベルク年代記より) ベーダ(Beda, Bade, Bæda, 672年/673年 - 735年5月26日)はイングランドのキリスト教聖職者・歴史家・教会博士。カトリック教会・聖公会・ルーテル教会・正教会で聖人。9世紀以降からベーダ・ヴェネラビリス(Beda Venerabilis、ラテン語)と呼ばれ、日本語では尊敬すべきベーダまたは尊者ベーダ (Bede the Venerable、英語) と訳されている。現代の英語では、名は「Bede」と綴られ「ビード( )」と発音される。.

新しい!!: ノーサンブリアとベーダ・ヴェネラビリス · 続きを見る »

アングル人

ユトランド半島南部でドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州のバルト海側のアンゲルン半島一帯の地図 アングル人(英:Angle; 羅:Angli)またはアンゲルン人、アンゲル人(独:Angeln / Angel; 蘭:Angelen)は、西方系ゲルマン人の一種族であり、ユトランド半島南部に位置するアンゲルン半島(ドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の一部)の一帯に住んでいた人々を指す。その一部は6世紀頃にイングランド北東部に移住して幾つもの王国を建国し、後のアングロサクソン人の祖先となった。.

新しい!!: ノーサンブリアとアングル人 · 続きを見る »

アングロ・サクソン人

アングロ・サクソン人(Anglo-Saxons)は、5世紀頃、現在のドイツ北岸からグレートブリテン島南部に侵入してきたアングル人、ジュート人、サクソン人のゲルマン系の3つの部族の総称である。この中でアングル人が、イングランド人としてイングランドの基礎を築いた。このようにドイツ起源の民族であるが、現在のドイツ圏の国民をアングロサクソン人と呼ぶことは原則なく、一部地方でサクソン人(ザクセン人)という呼び方が残っている程度である。.

新しい!!: ノーサンブリアとアングロ・サクソン人 · 続きを見る »

アイオナ島

アイオナ島(アイオナとう、Iona)は、スコットランド、インナー・ヘブリディーズ諸島に属する、幅1.6km、長さ5.6kmの小島である。この島のゲール語名はÌ Chaluim Cille (聖コルンバの島)というが、時には単にÌ あるいは Idhe とも呼ばれる。マル島の海岸からは約1.6kmの距離にある。住民の数は175人。 563年、郷里のアイルランドを追われた聖コルンバは、12人の同士とともに修道院を創設した。彼らはここを拠点に、スコットランドやイングランド北部の異教徒をキリスト教に改宗していった。学びの場として、あるいはキリスト教布教の拠点としてアイオナの名声はヨーロッパ中に広がってゆき、主要な巡礼地となっていった。アイオナ島は、スコットランド、アイルランドあるいはノルウェーの王が埋葬される聖なる島となった。 『ケルズの書』は、8世紀末頃に(全部か部分的にかはともかく)アイオナ島で製作されたと一般に信じられている。806年、アイオナの修道院はヴァイキングの標的にされ、宝物が強奪された。1203年には、Somerledの娘Beathagを初代院長とする、ベネディクト女子修道会のための女子修道院が開設された。現在のベネディクト修道院は同じ時期に建てられたものである。修道院自体は宗教改革の時代まで繁栄した。 アイオナ島は、ダルリアダ王国の国王とその後継者にあたる初期のスコットランド王が埋葬されるようになった。この島に埋葬されている貴顕には次の人々がいる。.

新しい!!: ノーサンブリアとアイオナ島 · 続きを見る »

イネ (ウェセックス王)

イネ(Ine、古英語:INE CENREDING VVESTSEAXNA CYNING、ラテン語:INE REX SAXONVM OCCIDENTALIVM)とは西サクソン人の王で、後世にウェセックスの王として列せられた人物(在位:688年 - 726年)。 イネの時代は前王キャドワラの時代と異なり、南方に領土を大幅に拡張した前王が残した領土を維持する事が叶わず、それまで支配下に置いていたケント、サセックス、エセックスの領土を失った。しかしながらイネは、現在で言うハンプシャー地方の支配下を維持、前王キャドワラが東に向かっていたのに対し、領土拡張を西方の半島部に求め、これを併合し支配下にした。 むしろイネの業績は694年に記した成文法で知られている。この法はケント王国を除くアングロサクソン社会で公布された最初の成文法として知られ、現在において当時のアングロサクソン社会を知る手がかりとなっており、イネが洗礼を受けていた事もここに明らかになっている。また交易もイネの時代には大幅に増え、この時代ハムウィッチ(Hamwic - 現サウザンプトン)が重要な都市となった。現時点ではイネの名前のものは発見されてはいないが、恐らくはこの時代にウェセックスで初めて貨幣の造幣が始められたと考えられている。 イネは726年に退位、自らの王国を「若い者たち」に託してローマへと赴いたと伝記学者ベーダ・ヴェネラビリスの残した言葉に記されている。.

新しい!!: ノーサンブリアとイネ (ウェセックス王) · 続きを見る »

イングランド教会史

イングランド教会史では、イングランドにおける教会の歴史を概説する。またベーダ・ヴェネラビリスの同名書籍についても概説する。.

新しい!!: ノーサンブリアとイングランド教会史 · 続きを見る »

イースト・アングリア

ノーフォークとサフォークがイースト・アングリアの中核である。西にケンブリッジシャー、南にエセックスがある。 イースト・アングリア(East Anglia)は、イングランド東部の地方名。東のアングル人の土地という意味である。アングロ・サクソン王国時代のイースト・アングリア王国に因む。瘤のように北海に突き出した半島部を中心に、ノーフォーク州とサフォーク州全域、ケンブリッジシャー、エセックス、リンカーンシャーの一部を含む。 行政的にはイースト・オブ・イングランド行政圏の一部をなしている。 なお、ノーフォーク州のノリッチ西郊にイースト・アングリア大学がある。.

新しい!!: ノーサンブリアとイースト・アングリア · 続きを見る »

ウィットビー教会会議

ウィットビー教会会議(英語:Synod of Whitby)は、664年にイングランドで開かれたキリスト教の教会会議。.

新しい!!: ノーサンブリアとウィットビー教会会議 · 続きを見る »

ウェールズ

ウェールズ(Wales、Cymru カムリ)は、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する4つの「国(イギリスのカントリー)」(country)のひとつである。ウェールズはグレートブリテン島の南西に位置し、南にブリストル海峡、東にイングランド、西と北にはアイリッシュ海が存在する。 かつて、石炭を代表とする豊富な地下資源を産出し、イギリスの産業革命を支えた歴史をもつ。.

新しい!!: ノーサンブリアとウェールズ · 続きを見る »

ウェセックス

ウェセックス(Wessex)は、イングランドの七王国の一つ。アングロサクソン人の建てた王国のひとつでデーン人が進攻した時代に生き残った唯一の王国である。また有能な王も輩出しエグバート、アルフレッド大王が有名。とくにアルフレッド大王のもとで行われた文化事業により数々の伝承文献が書き残される事となり、資料の乏しいこの時代の歴史、古英語の文献が現在でも残されている。 なお、ウェセックス(Wessex) の名は、『西サクソン(West Saxon)』に由来する。同様に、サセックス(Sussex)の名は 『南サクソン(South Saxon)』から。エセックス(Essex)の名は『東サクソン(East Saxon)』から由来する。しかし初期の西サクソンと後期のウェセックスとでは歴史的な経緯により支配した領域が変異している(詳しくは後述参照)。.

新しい!!: ノーサンブリアとウェセックス · 続きを見る »

エイリーク1世 (ノルウェー王)

イリーク1世(Eirik Blodøks、885年頃 - 954年)はノルウェーの国王(在位:930年-934年)及びノーサンブリアの王(在位:947年-948年、952年-954年)。ハーラル1世美髪王の息子。在位した期間は短かったものの、その際に起こした殺戮から血斧王(Eric Bloodaxe)の異名を持つ。.

新しい!!: ノーサンブリアとエイリーク1世 (ノルウェー王) · 続きを見る »

エゼルベルト (ケント王)

ルベルト(Æthelberht、560年頃 - 616年2月24日)はケント王国の国王。彼の名は日本語では「エゼルベルフト」とも書かれる。また古英語での綴りも一定しておらず、「Æthelbert」「Aethelberht」「Aethelbert」または「Ethelbert」という表記が見られる。 在位は580年代、590年代頃から始まり616年の彼の死まで王であった。7世紀の学僧ベーダ・ヴェネラビリスが記した『イングランド教会史』では、エゼルベルトをアングロサクソン諸国に対しての「インペリウム」を保持した王の一人に列しており、時代は下って9世紀に編纂されたアングロサクソン年代記では彼をブレトワルダの一人と記している。また彼は最初にキリスト教に帰依したアングロサクソン王としても知られる。 アングロサクソン年代記によると、彼は先代ケント王エオメンリッチの息子であり、妻はフランク王カリベルトの娘ベルタであったと伝えられる。また婚儀はエゼルベルトが王位に就いた以前になされたと思われ、この婚儀を通じて当時の西ヨーロッパで最も強力なメロヴィング朝フランク王国との同盟関係にあった。またグレゴリウス1世がキリスト教の伝道としてアウグスティヌスを派遣させた影響に、この妻ベルタの影響があったかもしれない。597年アウグスティヌスはサネット島に到着するが、到着後程なくエゼルベルトはキリスト教に入信している。そして教会は建てられ、幅広い改宗が行われた。その中でエゼルベルトは新たな教会を自国のカンタベリーに建て、それは現在聖アウグスティヌス修道院として知られている。この時礎として置かれた敷石が後のイギリス国教会の基礎となった。 エゼルベルトの治世に出されたケント王国の法典がゲルマン語派のものとしては最古で、複雑な罰金体系を明記している。大陸に近いケントは富裕な国であり、エゼルベルトは交易を自らの支配のもとで行っており、この事から罰金の複雑さが出てきたとも一説には考えられている。アングロサクソン人がブリテン島に上陸して以来、初めて通貨の流通が彼の治世のケント王国に見受けられている。 後にエゼルベルトはアングロサクソン諸国にキリスト教を広めた事から聖列に加えられた。彼を讃える日はもともと2月24日であったが、後に2月25日に変更された。.

新しい!!: ノーサンブリアとエゼルベルト (ケント王) · 続きを見る »

オーディン

流離人オーディン。このように絵画などでは一般に、片目が無い、長い髭を持った老人で、つばの広い帽子を被り、グングニルという槍を持った姿で表される。スウェーデンの画家ゲオルク・フォン・ローゼンによる(1886年)。 オーディンは、北欧神話の主神にして戦争と死の神。詩文の神でもあり吟遊詩人のパトロンでもある。魔術に長け、知識に対し非常に貪欲な神であり、自らの目や命を代償に差し出すこともあった。.

新しい!!: ノーサンブリアとオーディン · 続きを見る »

カンブリア (イングランド)

ンブリア (Cumbria) はイングランド北西端のカウンティ。1974年に当時のカンバーランドとウェストモーランド(Westmorland)に加え、ランカシャーとヨークシャーのそれぞれ一部が合併して誕生した。古くはケルト系のカンブリア人(ウェールズ人に近い)が住み、カンブリア語が話されていた。湖水地方をはじめとした豊かな自然で有名。.

新しい!!: ノーサンブリアとカンブリア (イングランド) · 続きを見る »

カンタベリー

ンタベリー (Canterbury) は、イギリス・イングランド南東部ケント州東部に位置するシティ・オブ・カンタベリーの中心エリア。中世から代表的な巡礼地として栄えてきた。.

新しい!!: ノーサンブリアとカンタベリー · 続きを見る »

カトリック教会

トリック教会(カトリックきょうかい、)は、ローマ教皇を中心として全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派。その中心をローマの司教座に置くことからローマ教会、ローマ・カトリック教会とも呼ばれる。.

新しい!!: ノーサンブリアとカトリック教会 · 続きを見る »

キュネイルス (ウェセックス王)

ュネイルス(Cynegils、? - 642年)は七王国時代のウェセックス初期の王。伝統的にはウェセックス王国の王とされているが、彼の出自には曖昧な点が多く、またウェセックス国内に同時代に王が混在していた形跡もあり、分からない点が多い。古英語での発音は現代英語と異なるために日本語表記は一定していない。彼の名はまたシネジルスとも書かれる事がある。.

新しい!!: ノーサンブリアとキュネイルス (ウェセックス王) · 続きを見る »

キリスト教

リスト教で最も頻繁に用いられるラテン十字 アギア・ソフィア大聖堂にある『全能者ハリストス』と呼ばれるタイプのモザイクイコン。 キリスト教(キリストきょう、基督教、Χριστιανισμός、Religio Christiana、Christianity)は、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教「キリスト教」『宗教学辞典』東京大学出版会、1973年、146頁。「キリスト教」『大辞泉』増補・新装版、小学館、1998年11月20日、第一版、714頁。 小学館、コトバンク。。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。その多く(正教会正教会からの出典:・東方諸教会東方諸教会からの出典:・カトリック教会カトリック教会からの出典:・聖公会聖公会からの出典:・プロテスタントルーテル教会からの出典:改革派教会からの出典:バプテストからの出典:メソジストからの参照:フスト・ゴンサレス 著、鈴木浩 訳『キリスト教神学基本用語集』p103 - p105, 教文館 (2010/11)、ISBN 9784764240353など)は「父なる神」「御父」(おんちち、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)。と「その子キリスト」「御子」(みこ、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)・「子なる神」。と「聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。 世界における信者数は20億人を超えており、すべての宗教の中で最も多い。.

新しい!!: ノーサンブリアとキリスト教 · 続きを見る »

ケルト系キリスト教

アイルランドにキリスト教を伝えたパトリキウス ケルト系キリスト教(ケルトけい キリストきょう、Celtic Christianity) は、ケルト系共同体によって受容され、実践されたキリスト教である。ケルト教会 (Celtic Church) とも言う。中世前期のアイルランドからスコットランド、イングランド北部に広がり、その修道院制度は西ヨーロッパにも伝えられた。西欧の歴史から一度は消滅したこの流れが近年再びケルト教会として蘇っている。.

新しい!!: ノーサンブリアとケルト系キリスト教 · 続きを見る »

ケルズの書

このページはヨハネによる福音書であり、豪華な装飾がなされている ケルズの書(ケルズのしょ、The Book of Kells)は、8世紀に制作された聖書の手写本。.

新しい!!: ノーサンブリアとケルズの書 · 続きを見る »

ケント王国

ント王国(Kingdom of Kent)は、イングランドに存在したヘプターキー(七王国)を構成する王国の一つ。ユトランド半島から来たジュート人の王国である。支配領域は、ほぼ現在のケント州(カンタベリーなどを含む地域)の辺りであった。.

新しい!!: ノーサンブリアとケント王国 · 続きを見る »

スコットランド

ットランド()は、北西ヨーロッパに位置するグレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)を構成するカントリーの一つ。1707年の合同法によってグレートブリテン王国が成立するまでは独立した王国(スコットランド王国)であった。 スコットランドはグレートブリテン島の北部3分の1を占め、本島と別に790以上の島嶼部から構成される。 首都のエディンバラは第2の都市であり、ヨーロッパ最大の金融センターの一つである。最大の都市であるグラスゴーは、人口の40%が集中する。 スコットランドの法制度、教育制度および裁判制度はイングランドおよびウェールズならびに北アイルランドとは独立したものとなっており、そのために、国際私法上の1法域を構成する。スコットランド法、教育制度およびスコットランド教会は、連合王国成立後のスコットランドの文化および独自性の3つの基礎であった。しかしスコットランドは独立国家ではなく、国際連合および欧州連合の直接の構成国ではない。.

新しい!!: ノーサンブリアとスコットランド · 続きを見る »

スコティッシュ・ボーダーズ

ティッシュ・ボーダーズ(The Scottish Borders)は、スコットランドの行政区画の一つ。しばしばボーダーズと略称で呼ばれるが、これは旧称でもある。32の地方議会の一つ。州都はニュータウン・セント・ボスウェルズ。1975年に、バーウィックシャー、ピーブルズシャー、ロクスバラシャー、セルカークシャー、ミッドロージアンの一部を加え再編成された。現在の名称となったのは1996年からである。州内の人口は、2006年現在で110,200人。面積は4,732平方キロメートル。.

新しい!!: ノーサンブリアとスコティッシュ・ボーダーズ · 続きを見る »

王(おう)は、おおむね国の君主(国王)を指し、その君主号である。また、特定の領土を持たずとも、ある部族や種族の長たる者を王と呼ぶ。転じて、ある特定の分野での頂点あるいは頂点に近い位置にある者、または物を指すこともある。 または、主に東アジア地域において用いられた爵位の一つ。.

新しい!!: ノーサンブリアと王 · 続きを見る »

英語

アメリカ英語とイギリス英語は特徴がある 英語(えいご、)は、イ・ヨーロッパ語族のゲルマン語派に属し、イギリス・イングランド地方を発祥とする言語である。.

新しい!!: ノーサンブリアと英語 · 続きを見る »

604年

記載なし。

新しい!!: ノーサンブリアと604年 · 続きを見る »

615年

記載なし。

新しい!!: ノーサンブリアと615年 · 続きを見る »

616年

記載なし。

新しい!!: ノーサンブリアと616年 · 続きを見る »

627年

記載なし。

新しい!!: ノーサンブリアと627年 · 続きを見る »

632年

記載なし。

新しい!!: ノーサンブリアと632年 · 続きを見る »

635年

記載なし。

新しい!!: ノーサンブリアと635年 · 続きを見る »

653年

記載なし。

新しい!!: ノーサンブリアと653年 · 続きを見る »

654年

記載なし。

新しい!!: ノーサンブリアと654年 · 続きを見る »

664年

記載なし。

新しい!!: ノーサンブリアと664年 · 続きを見る »

670年

記載なし。

新しい!!: ノーサンブリアと670年 · 続きを見る »

731年

記載なし。

新しい!!: ノーサンブリアと731年 · 続きを見る »

800年

記載なし。

新しい!!: ノーサンブリアと800年 · 続きを見る »

802年

記載なし。

新しい!!: ノーサンブリアと802年 · 続きを見る »

8世紀

イスラム帝国の拡大。ウマイヤ朝時代までにイスラム帝国は中央アジアからイラン・イラクを経て、エジプト・北アフリカを超えてイベリア半島まで拡がった。 ウマイヤド・モスク。ウマイヤ朝第6代カリフのワリード1世により705年にシリアのダマスカスに建築された現存する世界最古のモスクで、カアバ・預言者のモスク・岩のドームに次ぐイスラム教第4の聖地として巡礼者が絶えない。 イスラムの書法。すでに正統カリフ時代にはクルアーンの編纂が行われていたが、この世紀になると洗練された書体が生み出され用いられた。画像はアッバース朝初期に置かれた都クーファの名から「クーフィー体」と呼ばれた書体によるクルアーンの一節。 円城(ムダッワラ)都市バグダード。アッバース朝の第二代カリフ・マンスールによって766年に完成したこの都市はティグリス川に面した交通の要衝で最盛期にはその人口は100万人を擁した。アラビア語で「平安の都」を意味するマディーナ・アッ=サラームとも呼ばれる。画像はアッバース朝時代のバグダードの再現地図。 エローラ石窟群。画像は8世紀にインドのラーシュトラクータ朝の君主クリシュナ1世によりヒンドゥー教のシヴァ神の住むカイラス山(須弥山)になぞらえて建てられた第16窟のカイラサナータ寺院。 ボロブドゥール遺跡。インドネシアのジャワ島ケドゥ盆地にある大規模な仏教遺跡で、シャイレンドラ朝のダルマトゥンガ王時代に造営された。 唐の世界帝国。西域での覇権を確立した唐は華やかな異文化交流で知られることになる。画像は706年に造営された章懐太子李賢の墓の壁画「賓客図」で、黒衣で禿頭の人物は東ローマ帝国の使節と考えられている。 楊貴妃。絶世の美女として名高いばかりでなく、治世後半の玄宗皇帝の寵愛をほしいままにしたことで「傾城」とも「傾国」とも呼ばれる。安禄山の乱に巻き込まれ悲劇的な最期を遂げた。画像は日本の上村松園による歴史画。 大秦景教流行中国碑。781年にキリスト教ネストリウス派(景教)信者で中央アジア出身の伊斯がその伝来の経緯を記録した石碑。画像はその拓本の一部で、碑題の上に十字架があるのが読み取れる。 唐三彩の駱駝。8世紀前半まで唐は中央アジアの覇権を握り交通の要衝を保持していた。画像は駱駝に乗るソグド人と思われる西域の商人(上海博物館蔵)。 国立アジア美術館(ベルリン美術館)蔵)。 天平文化。遣唐使の頻繁な行き来により盛唐の文物が招来され、710年に遷都された平城京では国際色の豊かな文化が花開いた。画像はこの時代を代表する東大寺法華堂執金剛神。 平安遷都。桓武天皇により平城京から長岡京を経て平安京に都が遷った。平安京は長きにわたって都となり「千年の都」と呼ばれるようになる。画像は桓武天皇の肖像(延暦寺蔵)。 キー・ローのモノグラムの頁(Folio 34r)でトリニティ・カレッジ (ダブリン大学)図書館が所蔵している。 アーヘン大聖堂宝物館のカール大帝の胸像。カール大帝の800年の「西ローマ帝国復興」は東ローマ帝国との間に「二帝問題」の軋轢を生んだ。 8世紀(はちせいき、はっせいき)は、西暦701年から西暦800年までの100年間を指す世紀。.

新しい!!: ノーサンブリアと8世紀 · 続きを見る »

952年

記載なし。

新しい!!: ノーサンブリアと952年 · 続きを見る »

954年

記載なし。

新しい!!: ノーサンブリアと954年 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

ノーサンブリア王国

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »