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ネロ湖

索引 ネロ湖

ネロ湖(Не́ро, Nero)はロシアのヤロスラヴリ州にある湖である。水深は浅く富栄養化が進んでいる。面積は54.4平方kmで、長さは最大で13km、幅は最大で8km、深さは最大で3.6m。湖底には、黄土からなる腐泥が分厚く堆積している。 ネロ湖は50万年前からあったと見られ、氷河期以前からの湖はロシア中央部でもネロ湖以外にはわずかしかない。 ネロ湖には二つの島がある。レフスキー島(Левский、「森の島」)とロジェストヴェンスキー島(Рождественский、「聖誕祭の島」、別名ゴロドスコイ島、Городской、「街の島」)である。これらの島は氷河期以前の一枚岩でできている。 湖に流入する河川は8つ、サラ川(Сара)、イシニャ川(Ишня)、クチボシ川(Кучибош)、マジハ川(Мазиха)、ヴァルース川(Варус)、チュチェルカ川(Чучерка)、ウニツァ川(Уница)、スラ川(Сула)となっている。一方、流出する河川はヴェクサ川(Вёкса)一つであり、湖から7km先で合流しコトロスリ川を形成している。 ネロ湖周辺には6000年前ごろには人類が住んでいた。ネロ湖南岸にはフィン・ウゴル系の民族メリャ人がサルスコエ・ゴロディシチェ(Сарское городище, Sarskoe Gorodishche, 「サラ川の城塞」)という町を築いて都としていた。メリャ人らはこの湖をネロ(Nero、泥のたまった、湿地の)あるいはカオヴォ(Kaovo、カモメの棲む所)と呼んでいた。9世紀には東スラヴ人がこの一帯に進出し、サルスコエ・ゴロディシシェに代わるロストフの町を築いた。 ネロ湖畔には、西岸にロストフの町があるほか、いくつかの村が散在している。 Category:ロシアの湖 Category:ヴォルガ川水系 Category:ヤロスラヴリ州.

10 関係: 富栄養化メリャ族ヤロスラヴリ州ロシアロストフコトロスリ川黄土東スラヴ人氷河時代9世紀

富栄養化

富栄養化(ふえいようか、英語:Eutrophication、とは、海・湖沼・河川などの水域が、貧栄養状態から富栄養状態へと移行する現象を言う。 本来富栄養化は、形成されたばかりの池や湖が、遷移によって湖沼型を変化させてゆく非人為的な過程を指す言葉であった(自然富栄養化)。しかし近年では、人間活動の影響による水中の肥料分(窒素化合物やリンなど)の濃度上昇を意味する場合が多い。富栄養化の要因は下水・農牧業・工業排水・船舶航行など多岐に渡る。このような富栄養化は生態系における生物の構成を変化させ、一般には生物の多様性を減少させる方向に作用する。極端な場合では、赤潮や青潮などの現象を二次的に引き起こす為、富栄養化は公害や環境問題として広く認識されている。.

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メリャ族

メリャ族(Меря)は中世のヴォルガ川上流域で生活していたフィン・ウゴル人の部族である。 メリャ族は、6世紀のビザンツ帝国の官僚であるヨルダネス(ru)によって、「Merens」として記録されている 。『原初年代記』には、ヴェシ族のそばに住み、他のスラヴ系、フィン系の部族と同じくヴァリャーグにダーニ(貢税)を収めていたことが記されているМеря // ブロックハウス・エフロン百科事典。その居住範囲は現ロシアのヤロスラヴリ州、イヴァノヴォ州、トヴェリ州東部、ヴォログダ州南部、コストロマ州西部に相当する。 メリャ族の居住地はキエフ大公国領に組み込まれ、スラヴ人の諸部族と同化した。10世紀半ば以降は年代記に言及はみられない。.

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ヤロスラヴリ州

ヤロスラヴリ州()はロシアの中央連邦管区にある州(オーブラスチ)のひとつで、トヴェリ州、モスクワ州、イヴァノヴォ州、ヴラジーミル州、コストロマ州、ヴォログダ州が隣接している。モスクワとサンクトペテルブルクの両方に近く、州都ヤロスラヴリは幹線道路、鉄道及び水路が交差している。.

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ロシア

ア連邦(ロシアれんぽう、Российская Федерация)、またはロシア (Россия) は、ユーラシア大陸北部にある共和制及び連邦制国家。.

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ロストフ

トフ(Росто́в, Rostov, 古ノース語: Rostofa)はロシアのヤロスラヴリ州にある都市。モスクワから北東へ225km、ヤロスラヴリの南西53キロ、ネロ湖のそばに栄えたロシア最古級の古都で、住民は2002年国勢調査で34,141人。いわゆる「黄金の輪」を構成する都市の一つ。年代記では862年が初出。 ドン川沿いの大都市ロストフ(ロストフ・ナ・ドヌ)と区別するために、ロストフ・ヴェリーキー(Ростов Великий, 大ロストフ)、或いはロストフ・ヤロスラフスキーと呼ばれることもある。鉄道駅はロストフ・ヤロスラフスキー駅と呼ばれ、モスクワからヤロスラヴリ方面行きの多くの列車が停車する。.

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コトロスリ川

コトロスリ川(ロシア語: Ко́торосль, ラテン文字表記: Kotorosl / Kotorost)は、ロシアのヤロスラヴリ州を流れる河川で、ヴォルガ川右支流のひとつ。 ロストフ付近のネロ湖から北へ流れるヴェクサ川(Вёкса)と、左岸から合流するウスツイェ川(Устье)が合わさり、コトロスリ川となる。ガヴリロフ=ヤムを流れ渓谷地帯に入り、ヴォルガ川沿いの低地へ出て蛇行しながらヤロスラヴリの街でヴォルガ川に合流する。 ロストフを首都とするロストフ公国は、中世ロシアの諸公国の中でも強国であり、ロストフとロシア各地への内陸水路とを結ぶコトロスリ川は戦略的に重要な河川であった。現在の流域は、別荘や保養所の多い観光地である。 主な支流にはパフマ川(左支流)、ラホスト川(右支流)などがある。 Category:ロシアの河川 Category:ヴォルガ川水系 Category:ヤロスラヴリ州.

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黄土

土とは、黄色みの強い土のことである。専門用語としては2つの用法がある。.

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東スラヴ人

東スラヴ人(ひがしスラヴじん)とは、スラヴ人の中で東スラヴ語を話す、現代のウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人や近隣の少数民族のことを指す。中世には、東スラヴ人のルーシ人がキエフ・ルーシ(リューリク朝)を支配した。.

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氷河時代

氷河時代(ひょうがじだい、ice age)は、地球の気候が寒冷化し、地表と大気の温度が長期にわたって低下する期間で、極地の大陸氷床や高山域の氷河群が存在し、または拡大する時代である。長期に及ぶ氷河時代のうち、律動する個々の寒冷な気候の期間は氷期と呼ばれ、氷期と氷期の間の断続的な温暖期は間氷期と呼ばれる。氷河学の専門用語では、「氷河時代」 (ice age) は北半球と南半球の両方において広大な氷床が存在することを示唆する。この定義によれば、我々は氷河時代の間氷期―完新世―の只中にいることになる。最後の氷河時代(第四紀氷河時代)は更新世が開始した約260万年前に始まり、それは今も、北極、そして南極大陸に氷床が存在していることからいえる。 なお、当項目の記述内容は、まだ立証が十分でない仮説であったり、論争が続いていたりするような内容を含む。.

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9世紀

船葬用の船体(オスロのヴァイキング船博物館蔵)。 イングランドを襲撃するデーン人(ヴァイキング)。画像は12世紀に書かれた『聖エドマンド殉教王伝』の挿絵。 マルウィヤ・ミナレット(サーマッラーのミナレット)。アッバース朝第8代カリフのムウタスィムが建築したサーマッラーの大モスク付属の螺旋式のミナレット。 ハールーン・アッラシード。アッバース朝最盛期のカリフで、『千夜一夜物語』では夜ごとにバグダードの街に繰り出す風流な君主として描かれている。 「知恵の館(バイト・アル・ヒクマ)」。アッバース朝カリフ・マアムーンの治世にバグダードには翻訳事業や学問研究のための「知恵の館」が設置された。画像はここに集まる学者たちを描いた13世紀の細密画(フランス国立図書館蔵)。 インド最後の仏教王朝のパーラ朝。ダルマパーラ王により9世紀末に北インドの大半が支配下に置かれた。画像は9世紀に造られたパーラ様式の文殊菩薩石像(ホノルル美術館)。 敦煌文書。敦煌には3万とも4万とも数えられる膨大な古文書が収蔵されている。画像は大英博物館所蔵の「金剛般若波羅蜜経」。これは現存する世界最古の木版印刷の巻子本(書籍)で唐の懿宗の治世の868年に作成されたもの。 禁止出境展览文物でもある「八重宝函」。 密教招来。空海らによって日本に密教がもたらされ平安時代の仏教に大きな影響を与えた。画像は密教で用いる胎蔵界曼荼羅で京都東寺所蔵のもの。 応天門の変。藤原氏による他氏排斥が進んで摂関政治が確立し、律令国家体制から王朝国家体制へと政体が変化した。画像は12世紀に応天門の変の経緯を描いた「伴大納言絵詞」(出光美術館蔵)。 ラパス県の4000メートル近くの標高にある遺跡で、最盛期である9世紀には人口は1万人を越えたと想定されている。画像は半地下式方形広場で人面の装飾がなされている。 Galerie des Batailles蔵)。 ラドガにて東スラブ人と出会うヴァリャーグのリューリク一行を描いたヴィクトル・ヴァスネツォフの歴史画。 ハギア・ソフィア教会アプス半ドームにある聖母子のモザイク画。 スラブ人への宣教。東ローマ帝国出身のキュリロス・メトディオス兄弟はグラゴール文字を作成しキリスト教の宣教に努めた。画像は18-19世紀にロシアで描かれたこの兄弟のイコン(聖画像)。 プリスカ遺跡。 9世紀(きゅうせいき)は、西暦801年から西暦900年までの100年間を指す世紀。.

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